馬上の武者姿~長州(56) [萩の吉田松陰]

SH3B0209.jpgSH3B0209右手が旧周布家
SH3B0210.jpgSH3B0210裏門と庭
SH3B0212.jpgSH3B0212旧周布家長屋門

菊ヶ浜から南下して武家屋敷へと歩いていくと最初に家老だった周布の家に当たる。


右手は城の中の区域になるので、菊ヶ浜の南の武家屋敷とは、城に近いところの位の高い武士の屋敷といえる。
高杉や木戸の屋敷は、城から遠ざかるもっと左手(東寄り)の方にある。

裏木戸門がまず見えて、敷地内の庭先が道路から見える。
無人になっているようだ。生活の臭いはしない。

角を右に曲がると表門にたどり着いた。
ここが「旧周布家長屋門」である。

周布政之助の人物評は、やはり地元の人の書いたものと思われる「馬関歴史会」の記事を引用させていただこう。

『酒豪…山内容堂と双璧

幕末でいえば、土佐の山内容堂と酒豪として双璧だったのは、長州の周布政之助であろう。
周布は、桂小五郎より10歳ほど年長で、将来の明治政府の建設者をよく引き立て、倒幕や密航をちらつかせ藩を困らせた高杉晋作の面倒もよく見た偉材である。

名家の出身だった周布でなければ、幕末の長州で久坂玄瑞や来島又兵衛のようなアナキストまがいの“過激派志士”を抱えながら、俗論党と呼ばれる門閥上士階級の保守派を抑えた藩政のかじ取りもできなかっただろう。

新政府リードしたはず
文久2(1862)年11月、容堂が長州藩邸を訪ねたときのことである。
美声の久坂が容堂の前で披露した詩吟は、勤皇僧・月性の作品であった。

ところが、「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」という個所をあえて謡わず、容堂の佐幕ぶりを婉曲に批判したのに、酩酊した藩重役の周布が容堂を恐れもせずに「公もまた朝堂の一老公!」と一喝したという逸話が残っている。

話はこれだけで終わらない。

それからあまりたたずに、横浜の外国人居留地襲撃を計画した高杉や久坂を断念させようと、談判中の土佐藩士らに酔った周布がまたしても、「容堂公は尊皇攘夷をチャラかしなさる」と絡んだからたまらない。

高杉の取りなしがなければ、激昂(げきこう)した土佐藩士に斬られていたかもしれない。

さすがの長州藩も周布に謹慎を命じて土佐藩の追及をかわすはめになった。
周布が麻田公輔と改名したのは、容堂の絡んだ事件のためである。

周布は藩重役でありながら、どこか書生ぽさが抜けないところもあった。

彼は、元治元(1864)年に高杉が脱藩の罪を問われ、野山獄に入ったときも酩酊状態で獄に馬で乗りつけ、高杉を叱咤した逸話が残る。

このあたりは、昭和52(1977)年のNHK大河ドラマ『花神』で周布に扮した田村高廣の好演を憶えている人も多いだろう。

周布は元治元年、第1次長州戦争の責任を取る形で自刃(じじん)したが、明治まで生き延びたなら、桂小五郎こと木戸孝允にはないスケールの大きさで、新政府をリードしたはずだった。

近代国家日本のイフを想像する上でも欠かせない人物なのに、あまり人口に膾炙していないのは残念なことだ。』
(「【幕末から学ぶ現在】周布政之助■未完の大器の死(馬関歴史会)」より)
http://togyo21.blog14.fc2.com/blog-entry-15.html

周防柳井の勤皇僧・月性の詩に「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」という下りがあるという。
「尊王方である長老は、なぜ立ち上がるのにもたもたするのか?」という皮肉をこめたもののようだ。

その頃の土佐の容堂は徳川寄りだったから、その目の前でその句を歌い上げるのは刺激が強い。
だから気配りをしてその部分だけを除いて歌った。

それを聞いていた周布は消されてしまったその句をわざわざあげつらって、容堂にけしかけたのである。

お互い刀を傍に置いての酒宴であるから、一歩間違えば首が飛ぶ緊張感の中でのやり取りである。

松陰ならその句を決して飛ばして歌ったりしないだろう。
なぜ松下村塾の松陰第一の弟子である久坂は省いて歌うなどという遠慮をしたのだろうか。

或いはその時点ではまだ松陰に月性の火付けは成されていなかったのだろうか。

宇都宮黙霖がおそらくは月性の指示により萩を訪れたのは1855(安政2)年だった。聾唖の僧は野山獄の松陰に面会を求め、松陰は拒絶している、

しかし、文通は行った。
その結果松陰は、超過激派に転換することになる。

西本願寺派の僧2名が松陰の思想転換に関与している。

『1855(安政2)年、黙霖という聾唖の僧が萩を訪れた。
黙霖は芸州加茂郡(呉市)の生れで聾唖の身ながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤皇を説いていたが、松陰が獄中で書いた「幽因録」を読んだ。

松陰は、この頃はまだ「倒幕」の考えを持っていたわけでなく、「諌幕」という立場をとり、徳川幕府にも藩主にも臣としての厳格な立場を守っていた。

黙霖と松陰は、書簡を交わすことによって論議したが、その時、29歳の松陰はたたきのめされた。
この事から松陰の目が開き、「開国攘夷」や「倒幕」を唱えるようになった。

松陰は安政の大獄(1858年-安政5年)で捕えられた志士を救うため、老中間部詮勝の要撃策を立てたため、捕えられ翌年幕命で江戸に送られ、斬に処されたが、開国攘夷や倒幕など、歴史上重要な意味を持つ思想に一人の聾唖者の強い影響があったことにおどろかされる。
「プレジデント」1990年6月号初稿』
(「宇都宮黙霖 うつのみやもくりん」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/deafdramaz/62007847.html

馬関歴史会の記事によれば、容堂が長州藩邸を訪ねたのは文久2(1862)年11月である。

このとき松陰は既に墓の中である。
そしてこの年の5月に晋作は上海にいき、7月に帰国している。
晋作は上海で人が変わったように見える。

品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちは文久2年の12月であり、年が明けて文久3年1月5日に南千住の回向院へ行き、松陰の白骨化した遺骸を掘り起こして、泥をぬぐい、甕に納めて世田谷へ回葬している。(1863年1月5日)
松陰の遺骸は土葬されていたが、囚人墓地の土の中で3年の月日の間に白骨化していた。

師匠の松陰を殺され、風雲急を告げる文久2年11月において、まだ久坂は容堂に遠慮があったのである。

黙霖に火をつけられたあとの松陰と比べると、この松門一等の弟子久坂は全くの安全パイの人物に見える。

攘夷決行を告げる光明寺の砲撃指示などを見ると、倒幕行動としては晋作よりも久坂の方が過激であったと私は思っていたが、この時点では上海帰りの晋作の方が過激になっていたようだ。

しかし、周布政之助は松門の四天王の一人、久坂の優柔不断を発見し敢えてそこを突いたのではないだろうか。

容堂を翻意させるのが目的ではなく、この大事な月性の句の重要な下りを省略する久坂の教育効果を狙ったのではないだろうか。

せっかく佐幕派容堂の前で月性の歌を吟じるのであれば、「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」の部分を歌わなければ意味がない。

松陰の流儀でいえば、むしろそこの下りだけを鈍重な容堂にぶっつければ済む話だ。
周布にすれば、あとは斬りあいになってもいいのである。

松陰亡きあとにおいても、まだ松門四天王には火がついていなかったようだ。

野山獄にいる高杉を馬上乗りつけ叱咤した周布の姿は、ドラマでも小説でも大変印象的である。
「長州男児」のイメージが視聴者や読者の脳裏に残る、極めて演劇的手法である。
まるで周布は、イギリスの演劇指導を受けていたかのようでもある。


それもこれも、晋作や久坂に火をつけようという努力なのであろう。

功山寺挙兵の際に、小雪舞う功山寺境内に騎馬で乗りつけ、三条実美ら公家に対して決起の宣言をしている。

馬上の晋作の武者姿は、今も功山寺境内に銅像として残っているが、それは野山獄で受けた周布の叱咤激励の影響であったのだろう。

私は実際に功山寺境内まで階段を歩いて上ったが、雪のちらつく夜に騎馬でこの階段を上る馬鹿はいないだろう。

あえてその馬鹿をやってのけた晋作もなかなか素直な青年である。
周布の教育は、周布本人の死後に見事に花を咲かせている。

長州藩で松陰の過激さを承継しているのは周布のように見えるが、或いは松陰に月性をして火をつけさせたのも、周布だったのかも知れない。

周布家は右へ~長州(55) [萩の吉田松陰]

SH3B0206.jpgSH3B0206敷地内にシュロの木
SH3B0207.jpgSH3B0207旧周布家長屋門はこちら
SH3B0208.jpgSH3B0208南北逆さの地図

菊ヶ浜海水浴場の前の道路を横って、少し東へ歩く。
右手の屋敷の庭にもシュロの木があった。
右に路地があり、角に案内板が立っていた。

「旧周布家長屋門」と書いて右へ曲がる方向を矢印が指している。

素直に案内板に従い路地へ向けて右へ曲がった。

その路地はすでに江戸時代の武家屋敷の空間をかもし出していた。
そっくりそのまま保存されているのである。

萩のこの部分は、歴史の時間が停止しているかのようだ。

南北逆さの地図があり、現在地と旧周布家長屋門の関係がわかる。
菊ヶ浜海水浴場から南下して歩いているから、地図が逆さまの方が直感に合うためであろう。

江戸時代に南北逆さまの地図が使われていたのかも知れない。
それを単に新しい素材でリニューアルしただけかも知れない。

まだ周布の家は見えてこない。

萩沖~長州(54)

SH3B0203.jpgSH3B0203萩沖の島々
SH3B0205.jpgSH3B0205天守閣跡は菊ヶ浜の真西
SH3B0204.jpgSH3B0204駐車場に車を置く

車をバックさせて菊が浜海水浴場の無料駐車場に止めようとすると、後ろに見える営業中の旗の奥にシュロの木が見えた。

萩城はこのすぐ西側にあるから、萩の城下町もシュロの木が私の散歩を案内してくれるのだろうか。

砂浜は白く美しい。
浜から沖を眺めるとたくさんの島々が浮いて見える。

もう30年も前のことだが、今は牛で有名になっている見島(みしま)に一泊旅行したことがある。

社員旅行だった。
今と違って、昔は企業の従業員同士は仲間であり、親睦を大事にしていた。
成果主義などとドライな思考など持ち出さなかった。

劣っている社員は何とかして、役割を見出してあげ、生きていくすべを企業内で授けてくれていた。

仕事が優秀だからといって2倍も3倍も給与を上げるという馬鹿なこともなかった。
比較的皆で幸福を味わおうという集団意識が強かったように思う。

今は個々人独立の戦いという雰囲気で、仲間を思いやるゆとりもない。
わが身のことで精一杯な社会になってしまった。

その見島で民宿に泊まり風呂上りに2階の部屋から中庭を見下ろして夕涼みしていた。
すると、中庭はずれにある風呂場から若い女性が出てきて、上半身裸のまま中庭の飛び石の上を歩きながら民宿の中へと入っていくのが見えた。

自然に見えた光景だったが私は驚いた。

その、民宿の若奥さんだったからだ。
大きな乳房を隠そうともせずに、湯上りの風に吹かれながらおおらかに歩いて庭を横切る姿に、ミロのビーナスのような美しさを感じた。

それは彼女たちの日常であり、隠すという週間さえまだなかったのだろう。

ゴーギャンがタヒチ島を訪ねて、そこに天国を見たという気持ちがわからないでもない。

おそらく30年も経った今では見島でそういう景色は残っていないだろう。

古き良き時代とは、そういうことも含まれる。

ここから約40km沖合いにあるはずだ。
いくつか見える島の中の一つが見島かも知れない。

菊が浜の指月山~長州(53) [萩の吉田松陰]

SH3B0199.jpgSH3B0199朝の海(萩方面)
SH3B0200.jpgSH3B0200菊が浜海水浴場(萩市)
SH3B0202.jpgSH3B0202菊が浜と指月山(しづきやま)

朝の道の駅はそれなりに活動は早い。
午前6時頃に野菜などの配送トラックがやってきた。

私も起きて顔を洗う。
深夜にトラックの音で一度だけ起きたが、大体よく眠れた。

街道歩きの野宿ではテントへの獣の接近で肝を冷やした経験が何度かあるが、車中泊はその心配がない。

松陰の足取りなどを探す萩の旅へ戻ろう。

松陰は萩城から見れば川向こうの山の中腹に生まれ育った。
その坂下に足軽以下の身分の子らを相手の松下村塾に入り、その塾頭を承継した。

つまり萩の名門家から見れば、「川向こう」の藩士の子に過ぎない。

足軽身分以下の教育と書いたが、中には高位の武家の子もまれにいた。

久坂と高杉などがいたが、これらは例外である。

身分の低い子女を集めて教え、草莽を育てるのが松下村塾の経営理念であった。
草莽によってこの国をひっくり返すのが「ミッション(使命)」だったのだ。

位がまあまあ高い武家の子息として、高杉晋作が松下村塾へやってきた。

椋梨藤太の差し金のように思われる。

椋梨藤太が送り込んだミイラ取り役の晋作は、結局長州ミイラの棟梁になってしまったと思われる。

川を越えて晋作の実家のある萩城下へ行こう。

しばらく日本海を右にみながら国道を南下し、萩市の「菊が浜海水浴場」の駐車場に車を止めた。

菊が浜に出てみると海面向こうに指月山(しづきやま)が見える。
「しづきやま」か、「しげつさん」か、議論のわかれるところである。
まだ私は正解を知らない。

そこは毛利が来る前は、石見津和野の国主吉見正頼と正室の別館だった。
その正室が大内義隆の実の姉である。
義隆の遺児たちは、叔母の家を訪ねて戦乱の山口から落ち延びてきたはずだ。

そして指月山(指月館)などという「指月」の呼称は、毛利がやってくる前からこの地にあった。
資料への初出は、吉見正頼の娘の位牌の裏に書かれていたものだった。


以前の記事を再掲する。

『吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm

本能寺の変が天正10年である。
天正13年に、既に「指月」の呼び名があり、萩の鳴滝山妙性院(現禅林寺)に妙性庵が建立されていた。

戒名に「妙」の文字を持つ「見室妙性大姉」こそ、ザビエルに山口の布教を許した大名大内義隆の実姉の娘であり、指月山の萩城主吉見正頼の娘でもあった。』(当ブログより)

「妙」の字は京都妙法寺にキリシタン大名牧村利貞が建立した雑華院があり、また同寺にはキリシタン寺(南蛮寺)の鐘が保存されている縁から、私はキリシタンを連想してしまう。

大内義隆の姉がザビエルの洗礼を受けていた可能性は極めて高い。
大名は小姓などを相手の男色趣味があり、それをやめなければ洗礼を受けられない。

なかなか慣れ親しんだ悪習をして切れずに、大名で受洗したものは少ない。
それでは火薬や鉄砲、西洋文化や技術を輸入できない。

ポルトガル商人を紹介してもらうためには、イエズス会のザビエルらの教えを受け入れる必要があった。

そこで親族や子女、家臣とその家族たちを受洗させることで、貿易の利権を手にしていたものと思われる。

とくに注目すべきは、大内義隆は周防長門国を挙げてザビエルに宣教を許可していたのである。


前の記事では息女を正妻と勘違いして紹介していたが、ここにおいて訂正させていただく。

義隆の姉が洗礼を受けていれば、その娘も同じく受けることになるはずだ。

娘の戒名に「妙」の一文字を見たとき、ザビエルの横顔がまぶたに浮かんでくるようだ。

駐車場に車を置いて、今日は一日中歩いて武家屋敷町を散策することにしよう。

真夏の太陽は焼け付くように暑い。
今年(2010年)の夏は異常に暑い。

須佐の海~長州(52) [萩の吉田松陰]

SH3B0191.jpgSH3B0191夕陽と海
SH3B0193.jpgSH3B0193もう少し北へ行こう
SH3B0194.jpgSH3B0194夕焼けの海
SH3B0195.jpgSH3B0195ロッジ
SH3B0196.jpgSH3B0196月夜


風呂上りに海風を受けて海岸線を走る。
夕陽が日本海へ沈みかけている。
この砂浜も格好のテント泊地である。

ただ北風が激しくなると、この海岸は危険になるだろう。

瀬戸内海とは環境が異なる。
ヨットマンの直感が働く。
他に適当地がなければ再びここへ戻ってこよう。

須佐歴史民族資料館の横を左折し湾内へと入ってみる。
須佐は「すさのうのみこと」と「音(おん)」が同じだから、出雲大社や氷川神社と縁が深い土地なのだろう。

夕方5時を過ぎているので、資料館はあいにく閉館していた。

須佐湾エコロジーキャンプ場付近に来た。
ロッジが見える。
しかし起伏の大きい海岸線だから、テントを張るには適していない。

いったん国道に戻り須佐の道の駅へ入り、ソフトクリームを食べながら、この広い駐車場で寝ることに決めた。
トイレが完備されているから快適である。
道の駅で夕食とビール、ワインを買い込み、車の中で飲む。

湯上りの体に酔いが廻る頃、空には月が明るく輝いていた。

後部差席を倒して足を伸ばして横になるスペースを作り、シュラフにもぐりこむ。

奈古(なご)の日帰り温泉~長州(51) [萩の吉田松陰]

SH3B0188.jpgSH3B0188遠くから見えるシュロ3本
SH3B0187.jpgSH3B0187阿武町近くのシュロの並木だった
SH3B0189.jpgSH3B0189日帰り温泉到着
キリシタン墓標他地図.jpgキリシタン遺跡案内図(「ぶらり萩あるき(萩市観光協会公式サイト)」より部分抜粋)
http://www.hagishi.com/mapl/

萩駅で入手した萩観光案内図だけが頼りだから、道路情報としての精度は低い。
迷い道に入ったらなかなか修正はできない。

住所や電話番号がわかれば私の車の低脳カーナビでも何とかたどり着けるのだが、パンフレットにはあいにくかかれていなかった。

萩駅で入手したのと同じものがサイトで見つかったので、上に抜粋した。
キリシタン墓標のある紫福地区は、萩市の東北東に位置する。
昔風に言えば萩城の鬼門の方角となる。

萩を出て逃避行したとすれば、歩きで約1日の旅程である。
フルマラソンくらいの距離だろう。

東萩駅の東方にある松陰神社から、上の地図で県道11号線を北上する山行きのコースとなる。

私の車は、と言えば、隠れキリシタン墓標(三位一体像)、マリア観音を見て、すぐ近くのキリシタン祈念地を探したが道に迷う。
仕方なく、案内地図を適当に眺めて目についた大板山たたら製鉄遺跡のほうへと自然に向かった。

なぜならば、大内義隆の遺児たちは多々良(たたら)氏の末裔だからである。

しかしまた道に迷い、その「たたら製鉄遺跡」にもたどり着けず、結局はJR奈古(なご)駅前を通って阿武町役場前に降りた。

北海道をドライブしたときに、深い山の中の金鉱山に青森から逃げてきた隠れキリシタンの集団が金の精錬作業に従事していることを観光案内で見たことがある。

禁教令によって生活の場を追われたキリシタンたちは、深山にこもって刀や鍬、鎌の原材料を生産していたのであろう。

沢に沿って山道を降りてくる途中、車両通行止めの道に突き当たったが、標識を無視して突き進んだときに、川の向こう側にシュロの並ぶ光景を発見した。

川沿いの道は雨で土砂が崩れており、確かに軽自動車1台しか通行できないほど狭い場所があった。

私は後戻りしたくない思いから、一か八かゆっくりと土砂崩れ現場を徐行した。
……。

何とか危機を脱出できた。
その川の向こう側にシュロが林立する畑を見つけたのである。

紫福地区のキリシタン墓標のある集落から、一山ふた山を越えて日本海へと下ってくる途中であった。

萩から紫福地区を抜けて日本海へと向かうキリシタンたちも、昔はこの細い沢沿いの道を歩いたことだろう。

やがて海沿いの国道に突き当たる。
阿武町役場の傍を通り、国道を萩方面へと戻る。

その途中、道の駅に併設してある日帰り温泉の看板が見えた。

夕暮れ前である。
車中泊する前にさっぱりして行こう。

道の駅の駐車場に車を止める。
歩いてすぐ傍に温泉はある。

紺色の大きな暖簾をくぐり受付に向かう。

「いらっしゃいませー。どちらかですか?」
番台のおばさんに聞かれた。

街道歩きの格好をしているので、土地の人間ではないことがわかったのだろう。

「東京を昨夜発って、今朝萩に着きました。」

「えー、東京から。お一人で?」
「ええ、出張仕事の合間の休日観光です。」
「ゆっくりしていってくださいーい。」

シャンプーも洗剤もついていて、入浴料300円は安い。

夕焼けが消えかかっている日本海を眺めながら、ゆっくりと湯船に体を沈めた。

見失った至福の里~長州(50) [萩の吉田松陰]

SH3B0183.jpgSH3B0183あれが至福の里か?
SH3B0184.jpgSH3B0184車1台がやっと通る小道
SH3B0186.jpgSH3B0186電信柱とシュロの木

キリシタン祈念地(至福の里)を目指して車を移動させた。
川を渡る石橋のたもとには、確かにその案内看板が置かれていたし、その矢印に沿って私は進んだ。
しかし、途中で車1台がやっと通れるほどの小道に差し掛かった。
信仰を秘匿するために昔の牛車や馬車でも難儀するようながけ沿いの小道を使っていたのだろうか。

案内板も消えてしまい道に迷ったと思った。
その頃に道の傍に電信柱ほどの高いシュロの木がぬっと姿を現してきた。

「ぎょっ!」としたが、すぐにこれは約束地への信者へ向けた道案内のサインであろうと自分自身を安心させた。

しかし、とうとう道を間違えたらしい。
行けども行けども何も現れてこなかった。

結局、キリシタン祈念地(至福の里)を見ることなく、私はそのまま山中を北へ突破して日本海側へ降りることに決めざるを得なかった。

十字錫杖に見送られ~長州(50) [萩の吉田松陰]

SH3B0178.jpgSH3B0178切支丹墓標の背後から境内を見る
SH3B0179.jpgSH3B0179長久寺本堂
SH3B0180.jpgSH3B0180境内から切支丹村の眺め
SH3B0181.jpgSH3B0181門を出たところに十字錫杖を持つ地蔵

「十字錫杖」とは私が勝手に名づけた十字架に見える取っ手のついた地蔵の錫杖のことである。

階段を下りて門を出たところに10体ほどの地蔵が並んでいる。
その中に一体だけ『十字を刻んだ錫杖を持つ地蔵』があった。
それは境内奥の苔むした庭にあったものと同じ立像である。

萩市教育委員会の案内板には境内奥の像しか紹介していなかったが、門に入り、門を出る者たちを十字の錫杖は見守ってくれていた。

信者たちにはきっと心強い十字架に見えたことだろう。

信者でもない私だが、私を見送る十字架の地蔵を発見してなぜかほっとしている。
来てよかったと思った。

地蔵と十字~長州(49) [萩の吉田松陰]

SH3B0170.jpgSH3B0170奥の苔むした土地に石像群
SH3B0168.jpgSH3B0168象に乗った釈迦?
SH3B0172.jpgSH3B0172十字を刻んだ錫杖(しゃくじょう)を持つ地蔵
SH3B0174.jpgSH3B0174山道へ(修験道の道だろうか)

マリア観音像のさらに右手奥に苔むした庭がある。
そこは長久寺本堂の左手奥に当たる。

象に乗った釈迦像らしきものがある。
案内板にあったように、奥の方に十字を刻んだ錫杖(しゃくじょう)を持つ地蔵が立っていた。

さらに奥は山道へと『続いており、山道の出入り口付近には天女像らしき石像があり、おそらく道の安全を護っていたのだろう。

密教と修験道はかかわりが深かったから、十字架のついた錫杖をチリンチリンと鳴らしながら修行僧は山中へと入って行ったのかも知れない。

マリア観音像~長州(48) [萩の吉田松陰]

SSH3B0161.jpgH3B0161苔むした上に草が生えた灯篭
SH3B0162.jpgSH3B0162宝篋印塔(ほうきょういんとう)
SH3B0167.jpgSH3B0167手を三角形に交叉した石像
SH3B0165.jpgSH3B0165子供を抱いた地蔵
SH3B0166.jpgSH3B0166マリア観音

五輪塔によく似た石塔の中に石像が2体納まっている。

先ほど三位一体でも2体がセットになっていた。
ただここの墓標では三位一体を示す像はなく、普通の地蔵様に似たものが1体と、三角形の腕の形を持つ像が一体である。

後者の三角形の腕の石像は、先ほどの三位一体像の隣にあったものによく似ている。

五輪塔によく似た石塔は宝篋印塔というものだった。

『宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。

起源
中国の呉越王銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。

これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。
日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。

名称は、宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。

ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。
本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。

五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。』
(宝篋印塔(Wikipedia)より)

宝篋印塔の右となりにマリア観音らしきものがあった。

コケで汚れている案内板の文を抜粋する。

『隠れ切支丹の墓標
<長久寺>
この長久寺は鉄心寺から移された石像がいくつかある。
その一つである宝篋印塔には手を交叉した石像があり、この塔に並んで子供を抱いた地蔵と観音石像がある。

この観音の姿はさながらマリア観音を髣髴させる。
さらに構内の奥まったところに地蔵があり手にした錫杖(しゃくじょう)には十字が刻まれている。萩市教育委員会』(抜粋終わり)

子供を抱いた地蔵と同じく子供を抱いたマリア観音を見間違いそうになるが、よく見れば大船観音のごとく外衣を頭にまとった方がマリア観音であることに気づく。

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