燎原の火~長州(35) [萩の吉田松陰]

SH3B0109.jpgSH3B0109阿座上正蔵の墓
SH3B0110.jpgSH3B0110「松楓」の光景と松陰の墓石
SH3B0111.jpgSH3B0111それ以外の墓所の背景は普通の雑木林

松陰から見て右横に吉田阿座上正蔵の墓初代総理大臣になれるはずだった吉田稔麿の墓があったが、その左隣が阿座上正蔵の墓である。

二つ墓石が並んでいるが夫婦の墓のようである。
文字数が多い左の石が阿座上勝之の墓であろう。
すると、右側の一回り大きい墓石がその妻のものである。

『阿座上正蔵正光・新助光實夫婦之墓。正蔵は-元治元年(1864)。松蔭門下生。下関砲撃に参加。禁門之変で負傷し自刃』
(「護国山墓地 山口県萩市椎原」より)
http://www.sky-hamada.jp/smym/yamaguchi_toukouji_hoka.html

このサイトに久坂玄瑞の墓の真後ろにあった五輪塔風の墓の写真があった。
それは推測していた通り「玉木家御祖之墓」だった。
「環(たまき)家」のものだとすれば、それは大内義隆の遺児とその末裔のものとなる。


『阿座上正蔵(1846~1864)

名は正光、字は孝徳、弘化3年(一節には元年)長州藩士の家に生まれる。
詳しいことは分からないが、安政4年12歳の9月、松陰の兵学門下となる。
漢学も併せて学ぶ。
6年松陰の東行を送る詩がある。

 文久3年(1863)5月馬関外国戦艦砲撃戦には壬戌艦に乗り組んで戦い、次いで荻野隊に入りて活動する。

元治元年禁門の変に國司信濃い従い、嵯峨天龍寺に屯し、7月19日の戦いに中立売門で重傷を負い19歳で自殺する。(第9巻553p,591p,第10巻172p)』
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-a.htm
より抜粋した。

阿座上正蔵も松陰が「崛起」させた「草莽」だった。

その子孫の方で若い方がブログにご先祖様を紹介していたので、抜粋する。
文面からすれば、若い女性の人のように私には思われた。

『禁門の変で自刃している「阿座上正蔵正光さん」がご先祖にあたります。
って誰だかわからないと思いますw
坂本龍馬さんが眠っている京都霊山護国寺はいろいろな変で亡くなった方が祀られています。

禁門の変とは・・
元治元年(1864年)7月19日。京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍の間で激しい戦いが繰り広げられていました。

前年「八月十八日の政変」で京都政界を追放された長州藩であったが、池田屋事件が火に油を注ぐ結果となり、ついに武力行使に至ったのであ~る。

兵力では圧倒的に劣っていた長州軍であったが、尊攘派浪士の猛攻は凄まじいものであったみたい。

しかし、薩摩藩・会津藩を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず、長州藩は敗走してしまいました。

この戦いは禁門の変と呼ばれていますが、中でも激戦区だったのは西側の蛤御門(はまぐりごもん)であったため、蛤御門の変とも呼ばれていま~す。
ちょっと長くてすみません

うちのご先祖様は・・
この戦いに嵯峨天龍寺に屯し、7月19日の戦いで重傷を負ってしまい怪我をしてしまい
自刃してしまいました。
19歳の若さでした・・

禁門の変で指揮を取っていたのは真木和泉さん。
この方とはあたし個人的に別の繋がりがありま~す』
「うちのご先祖さまw」(2010-05-30)より)
http://ameblo.jp/anatanomotoniikuyo/archive1-201005.html

さて、松陰が江戸移送時に着いた場所は長州藩桜田上屋敷だった。
江戸の毛利屋敷だから六本木ヒルズかと思ったが、当時の桜田屋敷は日比谷公園にあったという。

のちに「禁門の変(蛤御門の変)」による報復措置として幕府に破却されてしまっている。(長州江戸藩邸没収事件)

来島又兵衛(きじままたべえ)の最後の様子を書いたサイト記事により、少し詳しく禁門の変を見てみよう。
それは長州藩の意地を示し、その後の運命を決した戦闘だった。

『来島又兵衛(きじままたべえ)
文化14年1月8日(1817.2.23)-元治元年7月19日(1864.8.20)
長門国厚狭郡西高泊村。
幕末の萩藩八組士、遊撃隊総督。

父は喜多村佐治馬正倫、二男。
諱:政久。通称:亀之進、光次郎、又兵衛。
変名:森鬼太郎、森喜太郎など。
雅号:蓮城、草山、夢庵道人、辟堂。

無給通士の喜多村家に生まれ、天保7(1836)年大津郡俵山村の来島又兵衛政常(59石8斗の婿養子となった。

同8(1837)年美禰郡厚保村へ転居。
同12(1841)年柳川藩の大石進に剣術を学んだ。
槍などの武芸の達人。
弘化3(1846)年8月江戸に出て、久保田助四郎の道場に入った。

嘉永元(1848)年帰国し、4年正月に家督を継いだ。
同年11月には手廻組に加えられ、藩世子の駕籠奉行となった。

同6(1853)年3月藩主に従って江戸に行き、12月には藩主に対して外夷防御の意見書を提出した。

安政元(1854)年5月に帰国。その後諸職(大検使役、所帯方頭人など)を歴任。

文久2(1862)年10月江戸方用所役兼所帯方に進み、翌3年3月上京して蔵元両人役となり、賀茂行幸に舎人として供奉し、5月帰国して馬関総奉行手元役となった。

同(1863)年6月藩命により猟師を集めた狙撃隊を組織して兵を率いて上京し、7月政務座に参与、9月帰国した。

これより先、高杉晋作が奇兵隊を組織すると、8月18日の政変で藩が京都から追放されたのち、再挙のために遊撃隊の組織を命じられ、同年10月宮市においてこれを組織、11月遊撃軍と改組して総督となり、高杉と互いに協力を約した。

元治元(1864)年3月その総督をやめ、国司信濃の手元役として遊撃軍御用掛を勤め、4月単身京都に潜入、5月帰国して進発論を説き、6月変名して大坂に出軍、伏見や嵯峨に屯し、7月

禁門の変では遊撃隊、力士隊を率いて出軍し、嵯峨天龍寺から蛤御門において戦う中、会津兵に狙撃されたため、甥の喜多村武七に介錯させて喉を突いて死んだ。年49。

 [法名]:三術院賢徳義道居士、贈:正四位

 [墓]:京都市東山霊山
    山口県光市室積(むろずみ)峨嵋山神社
    山口県美禰市西厚保
 [参]:三原清尭「来島又兵衛伝」』
(「来島又兵衛(きじままたべえ)京都大学附属図書館 維新資料画像データベース」より)
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Kijima.html

来島又兵衛は、私が若いころに何度も足を運んでいた山口県光市室積(むろずみ)峨嵋山(がびさん)神社の神となっていたが、それはあまり地元でも語られていなかったようだ。
峨嵋山(がびさん)神社のそばを通ったことはあったが、お参りしたことさえ私はなかった。

長州にとっては悲しい出来事の多い禁門の変だったが、幕府の長州征伐の後始末のため幕府側に藩主名代として人質になっていた男が開放されたのは幸いだった。

藩主名代「宍戸備後助」とは仮名で、玉木文之進の塾(初期の松下村塾)に松陰と共に学んだ藩儒・山県太華の養子半蔵である。

半蔵は、長州藩士・安田直温の三男辰之助である。
松下村塾に通っていた頃の名は安田辰之助だったかも知れない。

安田辰之助、のちの山県半蔵は、松陰とともに玉木文之進宅で育てられた松陰同窓の草莽と言えよう。

『途中略。
その後も長州藩は尊王攘夷運動に邁進するが、禁門の変の敗北、下関への四国連合艦隊襲来により窮地に陥る。

長州藩は恭順派(俗論派)の牛耳るところとなり、半蔵も禁固されるが、高杉晋作・伊藤博文らの挙兵によって藩論が再転換し、赦免される。

しかし幕府は長州藩へ問罪使の派遣を決定。

藩は半蔵を家老宍戸家の養子として宍戸備後助と改名させ、広島の国泰寺で幕府問罪使・永井尚志に応接させた。

交渉の長期化に伴い広島藩に拘留されたが、翌年の第二次長州征伐開戦にあたり、幕府側の敗戦の調和策として放免された。

この間の功績を認められ、宍戸家の末家を新たに建てることを認可され、直目付役に任ぜられた。

また長防士民合議書を起草し各戸に配布し領内の団結を深めることに貢献した。』
(宍戸たまき(Wikipedia)より)

「長防士民合議書」を起草し町内回覧板のごとく各戸に配布するさまは、まさに草莽を育てる役回りである。

玉木文之進が撒いた草莽育苗係は、藩主のもとで出世を果たした。
あとは、松陰が草莽たちに点火するだけである。

『時移り慶応2年(1866)夏。
広島に老中小笠原長行が小倉戦線の軍司令官とし離任したので、その後任として本荘宗秀(注2 丹後・宮津藩主)が着任。
彼は、拘禁していた長州藩主名代宍戸備後助と小田村素太郎を釈放している。

そうした一連の流れの中で、かねてより拘禁している在江戸藩邸員の釈放がなされたと考えられる。それは、長藩正義派の懐柔策であろう。

「幕閣蓋し思うと所あり同年六月密に波多野以下生存者全部を6月中旬海路広島に護送し本藩に交付せらる。」と回天史は記す。

続いて回天史は「拘禁三年に渉り且つ初め旧陸軍所に拘禁せらるゝ者120人にして拘禁中に前後死亡するもの51人の多きに至れり世多く其の非命を悲しむ」としている。(回天史四編下)』
(「禁門の変報復 長州江戸藩邸没収事件」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/edohantei.htm

それでも江戸藩邸では、幕府に拘禁された120名のうち実に51名が死亡してしまっていた。

松門一期生とも言える山県半蔵(宍戸たまき)は、藩主の傍に近づいて「草莽(そうもう)」を育てる役割を担っていた。

禁門の変後の混乱の中で、桜田藩邸で切腹した来原良蔵(くりはら りょうぞう)も、おそらく半蔵が育てた「草莽」であったのであろう。

『(来原良蔵は、)同(安政)6年(1859)年9月明倫館助教兼兵学科総督となり、山田亦介と軍制改革に尽し、長州藩の西洋式銃陣操練に当たり、保守派の妨害にあいつつ、軍制規則制定、教練の実行などに功績を挙げた。

11月江戸に行って有備館の文武諸業御用掛を勤めた。

また西洋銃陣の改革のため万延元(1860)年5月帰萩し、9月御手当御内用掛として明倫館助教を兼ねた。
文久元(1861)年6月明倫館へ中島名左衛門を招聘して従学。

同2年(1862)年正月徳地宰判の民情を視察、2月公武周旋のため熊本と鹿児島へ出張、3月上京して留まり、藩老長井雅楽(うた)を除くため奔走した。

同年8月江戸に行って横浜の外国公使館の襲撃を謀ったが失敗、藩世子に過激を誡められ、また幕府より長井雅楽の航海遠略策に賛同したと批判され、長州藩江戸藩邸(桜田)の自室で自刃した。 年34。』
(「来原良蔵(京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)」より」
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/jinmei/Kuruhara.html

生きていれば、明治新政府で大いに活躍したはずの人材であった。

木戸孝允は禁門の変のあと京都を隠れて逃げ回っていたが、来原良蔵は木戸の義弟(実妹の婿)であり、江戸で木戸の影武者的な活動をした結果責任の追及を受けたのであった。

木戸孝允自身は来原良蔵切腹の報告を聞いたとき、眩暈で倒れそうになったほどのショックを受けたという。

江戸藩邸で自刃した来原良蔵は、当初は近くの青松寺に葬られていたという。(文久2年(1862)8月29日切腹、享年34歳)

その青松寺裏手高台にある伝叟院に、禁門の変の報復に遭遇し死亡した長州藩関係者の墓があるという。
51名が病死や不審死を遂げたようだが、不明なことが多い。

青松寺(東京都港区愛宕2-丁目の(http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/))には、以前何度か行ったことがある。

福島正則の娘、玄興院殿(げんこういんでん)さまの墓にお参りしたことがある。
祖父が住職をしていたことがあるお寺とのご縁が深い方であった。

以前このブログに、「松陰神社横の墓所の墓石は大きさがほぼ等しい」と書いたことがある。

しかし、前掲の「禁門の変報復 長州江戸藩邸没収事件」を読むと、松陰神社横の墓所正面右端に一際大きい墓石がぬっと突き出ている。(写真あり)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/edohantei.htm

それがこの51名の墓碑銘である。
世田谷の松陰の墓にはこれまで3度訪問したことがあるが、それに私は全く気づいていなかった。

禁門の変の敗戦後の、幕府の本拠地江戸での長州藩処分である。
すべて罪人扱い同様で、江戸では秘密扱いで処理されていたのかも知れない。

今度世田谷の松陰神社を訪ねたときには確認して来たい。

晋作は周布政之助に約束した松陰の仇討ちに加えて、禁門の変で戦死した多くの草莽たちの弔い合戦もしなければならない。
しかもその周布すら藩内の派閥抗争の結果、切腹して果てている。

元治元年12月15日(1865年1月12日)、晋作は長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で挙兵し軍事クーデターを起こした。

松陰が常に狙っていた通り、松陰が命をかけて国内動乱に着火したことによって、初めて松陰らが育てた「草莽」が「崛起」することに至ったのである。

いずれ晋作は立ち上がっただろうが、この日に晋作が立ち上がったのは松陰の自作自演の獄死によると思う。

『禁門の変により長州藩は朝敵となり第一次長州征伐が行われ、三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)が切腹し、藩政の実権は椋梨藤太の俗論派が握ることとなった。

俗論派は長州正義派に対して厳しく粛清を行い、周布政之助に切腹させ、井上聞多を襲撃し重傷を負わせる。

さらに俗論派は功山寺に潜居していた五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)を太宰府に移送することで志士の後ろ盾を完全に廃し、志士狩りを強化しようとした。

俗論派の粛清から逃れ平尾山荘の野村望東尼の元で潜伏していた高杉晋作は、五卿移送の件を知り下関へ戻って奇兵隊に決起を促すが、山県狂介に時期尚早と反対される。

諸隊にも呼びかけたが俗論派を討つ為とはいえ藩主に弓ひくことを躊躇う者や圧倒的兵力を有する長州藩正規軍と戦うことに反対する者が多数であった。

挙兵決行日について
高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。

この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われる。

挙兵決行日は実際には説得や準備に手間取り翌日にずれこんでしまったが、当初は12月14日を挙兵時期に定められていたと言われる。

これは吉良邸討入と同じであり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である。

挙兵に際して自らを死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を挙兵する自らになぞらえていたとされる。

挙兵
功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。

死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託して、功山寺の三条実美ら五卿に「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと断った上で、下関新地会所を襲撃し占拠した。

そして18名からなる決死隊で三田尻の海軍局に攻め入ると、「丙辰丸」など軍艦3隻を無血にて奪取した。

戦後
この挙兵の報が広まると井上聞多・品川弥二郎・山田顕義・河上彦斎らが呼応し、付近の領民による義勇兵も集結した。

勢力を増すと日和見をしていた奇兵隊の山県狂介や藩の諸隊も立ち上がり高杉に協力した。

後に大田・絵堂の戦いで俗論派の藩の正規軍と対峙し、反乱軍がこれを破ったことで、藩論は倒幕に統一された。』(功山寺挙兵(Wikipedia)より)

晋作が率いたわずか80名の奇兵隊士による「小さな下関出張所奪取クーデター」だったが、松下村塾から撒いて育てた多くの草莽たちに、見る見る火がつき野山に広がっていったのである。

野焼きでも、よく焼け広がるために必要な準備と着火すべき時期の判断がある。

晋作の雪の夜の功山寺境内での決起宣言は、その炎はとても小さかったけれど、絶妙のタイミングの着火であった。

やがてその火は、燎原の火(りょうげんのひ)となり、藩領を越えて、全国へと燃え広がっていったのである。

火の勢いは強くて、幕府にはとても防ぎようが無いことがわかった。

同じ頃、同じ火が、アメリカ大陸でも南北戦争で広がっていた。
黒人奴隷だけで編成した部隊が、白人部隊に勝ったのである。

それは銃がもたらした火であった。
200年以上続いた黒人奴隷制度さえ崩壊させ始めたのである。

オバマ大統領の誕生は、ここから始まった火なのである。

『マサチューセッツは、ニューイングランドで最初に奴隷を導入した地域であり、奴隷導入は1629年のマサチューセッツ湾植民地の建設以前に遡ると言われている。

最初の確かな記録としては、1638年に奴隷船Desire(デザイヤ)によってカリブ海より原住民の捕虜と交換に連れてこられた黒人奴隷が始めてである。

1641年には奴隷制度を公然と認めるようになる。
1676年にはマサチューセッツはアフリカとの直接の交易ルートを開設し、奴隷を直接アフリカから連れて来るようになる。

中略。

南北戦争では黒人の従軍を認めると境界州も連邦を離脱するおそれがあるため、当初黒人の従軍は認められなかった。
しかし、南部から逃亡奴隷の流入が続き、かつ、兵力増強の必要性が増し、リンカーンも方針を変更し、1863年に黒人の従軍が解禁された。黒人は臆病で役に立たないとの偏見が強く残る中、黒人のリーダーたちはこの方針変更を強く支持し、アフリカ・ミーティング・ハウスなどで兵の募集が行われた。

こうして編成された黒人だけのマサチューセッツ第54連隊は、白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の指揮の下、チャールストン攻略作戦に参加し、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。

1863年7月18日の戦闘は激しく、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/

ワグナー砦の攻撃で黒人部隊が勝利を挙げたのは日本の暦では文久3年(1863)7月18日のことであったが、その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生する。

それを八月十八日の政変といい、七公卿が長州へと都落ちした事件である。

『八月十八日の政変とは、江戸時代末期の文久3年8月18日(1863年9月30日)、薩摩藩・会津藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。
文久の政変、禁門の政変とも呼ばれる。

中略。

この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)が尊攘急進派によって企てられた。

これは天皇が神武天皇陵・春日大社に行幸して親征の軍議をなし、伊勢神宮に行幸するというものであった。
この行幸に関し、真木らは討幕の実行まで視野に入れていたともいわれる。

8月4日の朝議では、長州藩の攘夷砲撃に非協力的であった小倉藩の処分を幕府の頭越しに決定したが、これには池田慶徳(鳥取藩主)らが強く反発した。

また池田らは大和行幸に反対するため参内し、天皇への直接面会を要求して、取り次いだ議奏らを驚愕させた。

一方、当の孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や諸藩が行うべきものと考えていた。
天皇は三条らを排除するため島津久光らに期待していたが、久光の上京は難航した。

大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して薩摩藩と会津藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策していた。

8月15日、松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと、 高崎正風(薩摩)と 秋月悌次郎(会津)が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下った。

なお、薩摩・会津の他にも藩主稲葉正邦が京都所司代であった淀藩をはじめ、徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩ら諸藩が政変に協力しており、必ずしも公武合体派のみが行った政変ではなかった。

政変の実行
文久3年8月18日午前1時頃、中川宮と松平容保、ついで近衛忠熙(前関白)・二条斉敬(右大臣)・近衛忠房父子らが参内し、早朝4時頃に会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置が完了した。

そこで在京の諸藩主にも参内を命ずるとともに、三条ら尊攘急進派公家に禁足と他人面会の禁止を命じ、国事参政、国事寄人の二職が廃止となった。
8時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内し、諸藩兵がさらに九門を固めた。

かかる状況下での朝議によって、大和行幸の延期や、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議した。

長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなった。

19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿落ち)。

政変後、孝明天皇は「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」としてこれまでの勅命を自ら否定した。

中略。

一方、政変に敗れた長州藩は京都における失地回復を狙い、同年6月の池田屋事件をきっかけに京都へ出兵、禁門の変(7月)で会津・薩摩らと戦火を交えることとなった。

なお、4年後の1867年12月には再び薩摩藩を中心とする朝廷クーデターが起こるが(王政復古)、それはこの政変の例に倣ったものであった。』
(八月十八日の政変(Wikipedia) より)

このブログをご覧の方は、長州へ都落ちした三条実美がどこへ足を運んだかはご存知のはずだ。

柳井市遠崎の妙円寺内にある私塾清狂草堂(別名:時習館)の扁額に梨堂の号を書いたのは三条実美である。

狂草堂からは、奇兵隊3代目総督赤禰武人、大州鉄然、大楽源太郎、世良修蔵が生まれている。
塾の主催者は西本願寺派の僧月性で、獄中の松陰に元へ聾唖の僧侶を送り込んだ人物である。

長州に下った三条実美は、徳川方の東本願寺と対立する西本願寺の僧のもとを尋ねて、清狂草堂の創立に関わったのだろう。

「幕末の詩僧月性の私塾清狂草堂(別名:時習館)」(岩国情報)にはその扁額の写真と玉木旧宅に良く似た狂草堂の概観写真がある。
http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/e11b5e620f43276cfa300be9c150f328

翌年7月の禁門の変は、八月十八日の政変(禁門の政変)から既に始まっていたのも同然であった。
また、後の大政奉還はこの政変の「仕返し」だった(例に倣った)ということだ。

孝明天皇の「去十八日以後申出儀者真実之朕存意」という「勅命否定」が事実ならば、薩摩、会津が公家を使って「偽の勅命」を発したことになる。

もし、聖人君子であるはずの天皇がそう仰ったのであれば、勤皇の長州藩は怒り狂うはずだし、同じく勤皇の薩摩藩内にも動揺が生じたことであろう。

米国チャールストン湾入口のワグナー砦の戦い(1863年7月18日)で黒人奴隷軍が白人軍に勝利したことも、功山寺挙兵(1865年1月12日)から始まる藩内クーデターで、農民奴隷軍が長州藩正規軍に勝利したことも、長崎にいるアメリカ人宣教師フルベッキは両方を知っていたはずだ。

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