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神を祝う~長州(143) [萩の吉田松陰]

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SH3B0564周囲には根元から切られたシュロが数本
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SH3B0565更に坂の下にもう1本シュロの木が見える
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SH3B0566この急斜面を降りている

もともとは車で通った山道に、ツタや草に絡まった大きなシュロの木を見つけて停車した。
歩いてシュロに近づくと、「岩屋古墳」という案内が坂の下を指していた。
その急な坂道を下って少し平らになったところに、もう1本のシュロの木を見出した。
1本と思ったが、その周囲を見渡すとあちこちに根元から切断されたシュロの木の幹があり、切り株から逞しくも青々としたシュロの若葉が扇のような形で芽吹き始めている。

人間は何かの都合で植えて、そして何かの不都合でシュロを切った。
しかし、シュロの若芽は切り株からまた生えてくる。

切っても切っても、また生えてくるのだ。

最初に神を祝うためにモーセの教えに従い植えたシュロだった。
しかし、人々がシルクロードの旅の記憶さえ消し去ったあと、切られた。

しかし、現代において、また若芽は芽吹いてきたのである。

何のために若芽は天を突くかのように芽吹くのか?

それは神を祝うためである。

ここからはやや緩やかな傾斜になり、坂は森の中へと下っていく。
この坂の先の方、森に入ろうとするあたりに、もう1本別のシュロの木が見える

私を誘(いざな)うかのように、適度な感覚で坂道の先へ、先へとシュロの木が見出せた。

私は自然にシュロの木に誘われて、森の中へと坂を下っている。
まるで真夏の森の中を夢遊病者がさまようかのような気分である。

あたりに人影はまったく見えない。

だんだん森影によって辺りは暗くなってくる。

室積の岩屋古墳~長州(142) [萩の吉田松陰]

SH3B0561.jpgSH3B0561案内札が坂の上にある
SH3B0562.jpgSH3B0562岩屋古墳入口
SH3B0563.jpgSH3B0563坂を下りるとそこにもシュロの木

象鼻ヶ岬を通過して簡保の宿の坂をのぼり、そこを通り過ぎて山道へ入った。
ツタや草が絡まって一見シュロの木であるかどうかわからなくなっている太ったシュロを発見し、車を止めて近づいた。

昔は人々が住んでいた場所だろう。
シュロは道案内の役割をしている。

武蔵一ノ宮から中氷川神社、氷川女体神社の3社を参るときにも案内をしてくれた。また奥州街道沿いには宿場駅ごとに大きなシュロの木があった。

武蔵一ノ宮は確か紀元前473年創建の神社で関東に最初にできた神社という意味である。

創建当時に既にシュロがあった可能性がある。
そうであれば、それはイエス生誕前のことであるから、シュロの木はイエス復活を祝うのではなく、旧約聖書にいうところのモーセの教えに従うものであろう。

草に絡まれたシュロの木に近づくと、近くに木製の案内板が坂の上に立ててあった。

「岩屋(いわや)古墳入口」と書いてある。

旧約聖書を信奉した祖先たちが住んでいたのであろうか。

坂を下って古墳のほうへと歩いていく。

坂がいったん平たくなって再び下がっていくように道は続いているが、平たくなったとこにもシュロの木があった。


やはり人間をあるところへ導く役割をシュロがしているようだ。

室積の山奥のシュロ~長州(141) [萩の吉田松陰]

SH3B0557.jpgSH3B0557光市室積の象鼻ヶ岬
SH3B0558.jpgSH3B0558室積漁港方面
SH3B0560.jpgSH3B0560簡保センターの奥へ

神が好む光を浴びて、私は光市の室積海岸沿いをやや山手へと上っていった。
郵貯簡保センターの保養所がある小道をそのまま突っ切って山の中へ入っていくと、誰も住んでいない場所にシュロの木が立っていた。

道に立つシュロの木は、そこに何かあるか、そこが大事な分岐点であることを示唆する場合が多い。

車を道端に止めて、私はシュロの木のところまで歩い近づいていった。

光市のシュロ並木~長州(140) [萩の吉田松陰]

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SH3B0554これより光市の松原
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SH3B0555交差点にシュロの木
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SH3B0556室積の信号を左折し、光市母子殺人事件現場に接近したとき見たシュロ並木

右に瀬戸の海を見ながら光市へと入る。
松原の松の緑はまだ健全である。

JR光駅を左に見て通過すると、市内の景色が昔よりも垢抜けて見える。
あとで光市に住む知人に教えてもらったのだが、最近電線の地中化を実施したそうだ。

電柱と電線がなくなると、少し欧州の町の雰囲気がかもし出されてくるような気がする。

日曜大工の店ジュンテンドー最寄の交差点に立派なシュロ木がデンと立っていた。
何度もここを通ったが、ザビエルを意識し始めてからだと思うが、初めてこのシュロの存在に気づいた。

見て知ってはいたが、意識の中には無かったといっていいシュロである。

光もシュロで神を祝う心が根付いているようだ。

千鳥橋を渡ると製鉄所が右手に広がる。
昔は光海軍工廠だったところだ。

その千鳥橋の上で、幕末に第2奇兵隊を脱走し、尾道代官所を襲撃した立石孫一郎は射殺された。
司馬遼太郎氏も短編小説として取り上げていた。

その墓石が千鳥端の東側たもとに立っているが、そこにはシュロの木は無かったと思う。

国道188号線を通って光市を突き抜けると、バスターミナル駅がある港町室積へ着く。
江戸時代までは自然の良港で海運でにぎわっていた町である。

ここを右手に曲がれば観光名所の象鼻ケ岬(ぞうびがさき)である。
そこに来島だったか来原だったか、松陰ゆかりの志士が神として祭られている話題は以前このブログに上げたが、私はそのことを知らなかった。

逆に室積の信号を左折すると、全国で有名になった光市母子殺人事件現場のアパートに至る。道路そばの第7棟の4階東側角部屋が現場であった。

そこへ向かう途中、スーパーマーケットの前に「これでもか!」とシュロの並木が登場してきた。

意識し始めてから初めて見る棕櫚並木であるが、それには圧倒された。
何度も日常見ていたものだったが、その当時はシュロの意味など考えもしなかった。

同じ信仰を持つものたちは、ここへ来たときにほっとするのであろう。
そうではない私は「ぎょっ」としている。

毛利志摩守の椰子並木~長州(139) [萩の吉田松陰]

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SH3B0548車中泊旅行の必需品「コインランドリー」
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SH3B0549徳山から光市へ向かう途中、国道2号線に並ぶ椰子並木
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SH3B0553出光や帝人プラント前の特に密な椰子並木

以前、周防に住んでいたとき、徳山市には何度も買い物にきたことがある。
朝、徳山駅で朝食をとった。

隠れたグルメスポットとして、私は徳山駅構内食堂を上げたい。
安くてうまい。
トイレのそばにあるが、おでんで一杯やって帰宅する夜勤上がりの人もまだ多い。

その後で駅の西側方面にあるコインランドリーを探し出した。
電話帳から住所を割り出し、カーナビで接近し発見した。

車中泊旅行では温泉と洗濯は必須業務となる。

さっぱりと着替えて、再び車は国道2号線へ。

以前、徳山市(市名も変わったかも)の国道2号線を走っているとシュロの木か椰子の木の並木があったが、それは今も健在である。

昔はなぜここに椰子があるのかわからなかったが、今回の萩の旅でなんとなくわかってきた。

ここ徳山は毛利志摩守の藩で、萩長州毛利藩の支藩である。
その毛利志摩守には隠れキリシタンの重臣がいた可能性が高い。

村田右中(うちゅう)はその一人であろうと推理している。

息子は鎌倉の禅寺住職「竹院和尚」となり、娘は萩の益田家へ養女に出し、杉百合助と結婚させ、家事で焼け出されていた百合助に嫁+住宅まで提供している。

そこで生まれたのが、吉田松陰である。

竹院和尚は鎌倉で松陰の密航計画を事前に聞き、それを後押ししている。

つまり、徳山という町は私の目から見ると、どうもキリシタンの色が濃い町なのである。

旧約聖書ではモーセは神をナツメヤシの枝で祝えといい、キリスト生誕後はカトリックではナツメヤシの枝を持ってイエス復活を祝う。

その日を「枝の主日」と呼ぶのはそういう意味からきている。

徳山の椰子(シュロ)並木がモーセのいう神を祝うものか、あるいはイエスの復活を祝うものかはわからない。

ザビエル来日後の習慣であれば、イエズス会つまりカトリックの習慣だと思われるが、日ユ同祖論にあるようにイスラエル12部族のひとつがシルクロードを通って日本列島に移住したというユダヤ人起源説によれば、紀元前の古代から居住していた渡来人の信仰である可能性も残る。

その場合は旧約聖書の神を祝う行為となる。

モーセは神は「光」を好むといったが、この椰子並木の南側には「出光」の石油プラントが並んでいる。

ならば、「光市」はもっとも神が好む町の名前だろう。
ここは戦前戦中まで海軍工廠があった場所である。

天皇を支える軍隊の中でも海軍はもっとも重要なものであっただろう。
戦艦大和の大砲も、そこの10トン電気炉で溶解し鋳込まれたと聞いている。

そうか、「光」の一文字を地名にしている市があったのである。

神の好む光か、イエス復活の光かで宗派が異なる可能性がある。

松陰を萩に生ましめた村田清風~長州(138) [萩の吉田松陰]

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石船温泉露天風呂
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石船温泉の地図
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SH3B0543早朝の鹿野の渋川
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SH3B0544上流
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SH3B0545下流

萩から瀬戸内海へ出ようと走っていて、山中で夜を迎えた。
夕べはとにかくコンビニで下半身に浴びた冷やし中華の汁を洗い落としたくて慌てて温泉へ飛び込んだ。
料金は市外の人は 600円だった。

露天風呂は山の緑が広がっていて、なかなか落ち着いた静かないい風呂だった。

ここは山口県周南市鹿野上1667-4である。
ここの漢陽寺は大内氏16代弘世が創建したというから、大内氏ゆかりの地である。

ザビエルも遊びに来たことがあるだろう。

「中国自動車道の鹿野インター最寄」と言った方が都会の方にはわかりやすいだろう。

山陰と山陽の真ん中あたりである。

露天風呂の中で萩の記憶を辿り、翌朝渋川を散歩しながら松陰と村田清風の関係を整理しようとした。

二人には短くも濃い接触があった。
およそ20年後に、持病の通風が悪化して村田清風は逝った。

松陰は詩を書いてその死を嘆いた。

「今日訃ヲキイテタダ錯愕ス。満窓ノ風雨、夢茫々タリ」

松陰26歳のとき、清風73歳のときであった。

村田清風の自宅があった萩市三隅町の方の寄稿文に、私が探していた二人の関係を取り上げたものがあった。

二人が接触したほんの10年間の出来事を総括してくれていた。

これが私が萩へ探しにいったものであったように思う。

両者ともにキリシタン人脈を持っていたと私は推測している。
信者であったかどうかは不明であるが、西洋情報の仕入先として隠れキリシタンが宣教師を通じて入手する海外情報は諜報作戦上最高級に属するものであろう。

兵学者松陰がそれを見逃すはずがない。

『触れ合い響き合(松陰と清風)
                        三隅町  平川 喜敬
 
昔から帝王や為政者の在り方を説き、またその輔佐の道をも説く帝王学と呼ばれる学問があった。

わが国には、古く中国から移入され、歴代の天皇はじめ藩政期の藩主や、輔佐の任にあたる政経家学者らの治世のよりどころとされてきた。
 
「貞観政要」や「資治通鑑」などは、松陰や清風の時代に心ある指導者必読の書とされたものである。

これらの書には、昔から中国の優れた統治下に於いては、諌議太夫という職制を置き、お上にある者は求諫の手をさしのべる責任があり、下に仕える者は納諫の義務があると説いたのである。
 
身分統制という縦の系列厳しい封建体制の中で、お上に意見苦言を訴え、政治のやり方まで改めさせようということは、命をはってかかる程の重大事であった。

この小文では、松陰と清風をその角度からのみ取り上げてみたいと思う。
 
天保元年松陰誕生のとき48歳、すでに清風は財政に通じたやりての政治家であった。
13代藩主敬親が襲封し、財政改革の御前会議あった。

清風は七箇条の精魂こもる建白をした。

松陰は、厳しい政局の中で清風に面識を持ち、漸くその意見を傾聴しようかとするころであった。
 
老志士清風が、確信の風雲児松陰に大きい期待をかけ、あつい眼差しで声をかけていくのは、清風没前の10年間ばかりのことである。
 
嘉永元年、松陰最初のオリジナルは明倫館学制の大改革についての意見書であった。

清風は勿論その時、国老益田元宣とともに明倫館再興学校惣奉行の要職にあった。

清風自身も積極意見の士であり、藩主敬親とのコンビによる「言路洞開」重視の構えは、松陰の力説する「聴政」の構えと全く揆を一にする、実践帝王学の発想であった。
 
この二人の触れ合いの10年間は、長州藩の明るい明日への命運を開くべく、共に命をはってかかる言論文筆活動の時代でもあったのである。
 
清風は恐れを知らぬ辣腕(らつわん)の老志士、松陰は利鎌の如き情熱の志士。

維新から維新後まで響く如く長州藩の政局を切り開き、その基本姿勢づくりに与えた影響は、危機意識に燃えて実践帝王学の具現化に挺身したこの二人に負う所大なるものがあった。
 
ペリー来日をその目で鋭く観察して、その足で長州藩江戸屋敷にとって帰し、火の玉の如き危機感を込めて提出したのが、有名な松陰の「将及私言」と「急務條議」であった。

その中で松陰は、国家の政治体制根幹に触れることを言ってのける。

迷運を吹っ切る如き「天下ハ天朝ノ天下ニシテ乃天下ノ天下也幕府ノ私有ニ非ズ」というのがそれである。
 
そして、「憎ム可キ俗論」として、「江戸ハ幕府ノ地ナレハ御旗本及ビ御譜代御家門ノ諸藩コソ力ヲ盡サルヘシ国主ノ列藩ハ各其ノ本国ヲ重ンスヘキコトナレハ必ズシモ力ヲ江戸ニ盡サスシテ可ナリ」を指摘するのである。

それは、愚蒙頑迷に対する痛烈なる批判と藩政庁の腰の入れ方についての怒りの声であった。
 
さらに、松陰は「聴政」の段にて、政務の非能率とマンネリをつき「宵衣?食」を訴える。

宵?(しょうかん)とて、君主政堂は旦夕政務に精励すべきことを堂々と発言し、「直諫」の段にては、近来直諫の風儀が地を払うが如く衰微して来たことは世も末である。

急ぎ内外に言路を開き、上言したき者に対しては、深夜と雖も出座してその言を傾聴すべきであるという。
 
お上こそ率先謙譲の美徳を発揮し、先ず何より「賢人を求める」姿勢に徹すべきである。面従腹背の徒は「口を箝(かん)して」語らざらしむるところに生じる現象であると痛感する。

さらに大事なことは道徳に於いても正義に於いても東洋は優れているが、科学技術においては、素直にそのおくれを認め西洋に学ぶべきとして、「砲銃」「船艦」「馬法」について改革の急務を説く。

なお「将及私言」に併せ「急務條議」として、具体的な政局の打開策、防備の改善点を説いたのであった。
 
これと前後し、清風は「遼東の以農古」「海防」「物頭心得」と矢継ぎ早に上書する。

清風はその中で、「扶桑開国以来ノ大変也」として、智力勇力財力等各々持てる力を発揮して外夷防禦の国用に供すべしと老志士の心胸を吐露し、「時乎(ときか)今なり、勢いは在上よりすべし、千言万句も身親ら行うにあり」と喝破する。

さらに「某氏意見書」に於いては、条理を尽くして善政の在り方を説くのである。
 
ついで、「野に遺賢無く、言路開けて嘉言伏す」ことなく、「天下国家の善言佳猷皆上に達し、天下諸侯の賢智謀議の助けとなり、遍く四聴を達」し得てはじめて国家繁栄安寧であるともいうのである。
 
松陰と10年間に及ぶ思想内容の中には、藩を大切にしながらも、藩を超えて、「統一国家の形成」を目指さねば「扶桑以米大変」のこの危局は乗り切れないとする危機意識と、具体的な政局の打開策に於いて、多分に揆を一にして響き合う点の濃厚なるものあるを感じざるを得ない。
 
清風の訃報に「大恩師逝きたり、嗚呼」と名山獄に悲憤慷慨の涙をのんだだけ、松陰の危機意識と難局打開についての論法は老志士清風の其れより更に一層深刻であることを思わないわけにはいかない。 』(「触れ合い響き合(松陰と清風)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syoumon/4gou.htm#hureaihibikiai

松陰がいた名山極は、野山極の間違いであろうが、地元の方は別の言い方があったのかも知れない。

「大恩師逝(ゆ)きたり、嗚呼(ああ)」

これほどに、松陰は村田清風の恩を受けて育っていたのだった。

川に映る空~長州(137) [萩の吉田松陰]

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H3B0541朝霧の駐車場
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SH3B0540山百合の蕾の鹿野町の清流
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SH3B0539「川が好き 川にうつった 空も好き」
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SH3B0538昨夕飛び込んだ温泉

朝靄(もや)が濃いから早朝は暗い。
しかし、山の中の朝のこの暗さは、却ってその日の快晴を約束してくれるものである。

昨夜遅く到着した鹿野町の川原の温泉の姿が、朝靄の中から浮かびあがってきた。
清流の岸辺に山百合の大きなつぼみがかすかに風に揺れている。

駐車場は川面に面していた。

石碑がある。
「川が好き 川にうつった 空も好き」

川に遊びに来た小学生が作った詩が全国の河川コンクールか何かで優秀賞として選ばれたのを記念して立てたものである。

「川面を見てそこに映っている空を発見する透明な心」を感じる。

私もそういう心を幼い頃持っていたことを思い出す。

いつの頃からそのような透き通った観察眼を失ったのであろうか。

川の汚染状態を見たり、川底の廃棄物金属の反射光を見たりするようになっている老人の目しか今は持ち合わせていない。

この詩を作った少女(?)を真似て、私も「川にうつった空」を見ようと努力してみた。

すると川面に空があるのが見えた。

詩は人の心を動かす。
詩は駄目になってしまった自分の心の実像を教えてくれる。

村田清風の死を聞いたときに、松陰は詩を作ってその悲しみを表現している。

「今日訃ヲキイテタダ錯愕ス。満窓ノ風雨、夢茫々タリ」

清風享年73歳、松陰26歳のときの別れである。

松陰は作った漢詩を読み上げ弟子たちの心を動かしたが、詩の読み方は長州方式ではなかった。
大和の「ある奇人」の用いていた「韻」を松下村塾で用いた。

それは松陰が旅をして学んだものであり、長州藩ではその韻を知るものは一人としていない。

明治になって、松下村塾の卒業生は、松陰先生の読んでいた独特の詩韻は、大和のある詩人の読み方の真似であることに気づいている。

その詩人は天狗党を鼓舞して、立ち上がらせた。

大和五条に棲む森田節斎である。

但し、鼓舞しておきながら節斎自身は逃げた。
逃げて明治まで生き延びている。

しかし、松陰は煽動しておきながら逃げるということはなかった。
むしろ煽動しつつ先頭を走って、弟子を置き去りにして死んだ。

新興宗教などでいつもそうであるが、マインドコントロールをかけた側は逃げおおせて、かけられた若者たちが罪を背負う。

宗教のマインドコントロールも音楽(韻、旋律)をよく使う。

「ショーコ ショコ ショコ ショーコ♪」の韻律をある参議院選挙の際に何度も耳にしたことを今でも覚えている。

瀬戸内へ~長州(136) [萩の吉田松陰]

SH3B0535.jpgSH3B0535山中を走る
SH3B0537.jpgSH3B0537月夜

江戸へ檻送される松陰の蝋人形を見て、これで私の萩訪問を終える。
午後4時過ぎである。

コンビニで冷やし中華そばのインスタントものを買って、駐車場で食べ旅立ちの前の腹ごしらえをした。

パンやサンドイッチ、あるいはおにぎりにすべきだった。

というのは、駐車中の車の中で食べたのだが、疲れていたのか手元が滑って容器を胸の前で傾けてしまった。

冷やし中華の甘ったるい醤油だしが、だらだらとたっぷりと私の洋服の前に流れ落ちてきた。

大慌てで車の外へ飛び出して、何とかシートへの汚染は防止できたのだが、体の背中側まで、いやズボンの中の下着まで冷やし中華の出しで濡れてしまった。

コンビニの駐車場でパンツまで着替えるのは困難だが、さりとてこのにおいをつけたまま運転をできまい。

着替えられるものは全部着替えて、パンツのみ残すこととなった。
コンビニに再び入って、トイレを借りてその中できれいな下着に履き替えた。

これで何とか臭いを断つことはできたようだ。
あとは温泉を見つけて飛び込むことである。

実は山口へ来た本来の用事は、ある実業団大会運営の応援のために来たのである。ここ萩とは反対側の海になる瀬戸内海側のある砂浜へ行くことが旅の本来の目的であった。

そのついでというか、応援業務の合間に、気になっていた村田清風とキリシタン殉教地、それに松陰との関係を自分の足で調べた次第である。

もっと調べたいことはあるが、専業作家ではないからそうも行かない。

車を再び阿武郡山中へと走らせた。

山中の景色を眺めながら、やがて日が暮れ月夜になっていった。

山陰と山陽の中間の山の中に鹿野(かの)という町がある。

ここは禅宗漢陽寺の精進料理観光で有名な町で、かなり昔に何度か来たことがある。
葉わさびの醤油漬けが私のお気に入りのお土産である。

その鹿野に温泉があると標識が出てきた。

街中で左折し4KMほど山へ入ったところの川そばに温泉があった。
かわらに駐車して温泉へ飛び込み、肌に染み付いた冷やし中華の臭いを洗い落とした。

萩のフィナーレが「冷やし中華ダシシャワー」となろうとは誰が予測できただろうか。

風呂上りに生ビールを飲み、川原の駐車場で車中泊した。

深夜にガスバーナーで味噌ラーメンを作り、空の月を見ながらおいしく食べた。

クリミア戦争の行方を知りたかった松陰~長州(135) [萩の吉田松陰]

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SH3B0528檻(おり)で江戸へ護送される松陰(松陰神社境内の蝋人形)

檻送される松陰を描いた蝋人形があった。
この竹で編んだ籠の中に捕縛されている29歳の萩の青年が、クリミア戦争のことを思っていたという。

これに反して、私たち現代日本人はクリミア戦争と幕末の日本の関係を驚くほど知らない。

当時松陰が抱いていた国家危機感の100分の一も、現代人は持ち合わせていないのである。

檻(おり)の中の松陰が知っていた事実を以下に抜粋する。

『クリミア戦争(Crimean War)は、衰退したトルコを食い物にするロシアと、ロシアの進出を嫌うイギリスやフランスとの戦いである。

その発端はトルコ領エルサレムの聖地管理権問題で、カソリック(フランス)とギリシア正教(ロシア)の宗教問題が絡んでいた。

元々管理権はフランスが持っていたが、フランス革命の混乱期にロシアに渡り、その後、ナポレオン3世がトルコに圧力をかけて取り戻した。

これに対してロシアは、トルコ領内のギリシア正教徒の保護を名目に、ロシア軍のトルコ領内進駐を迫った。

ロシアの真意は、地中海への出口確保(南下政策)だった。
イギリスやフランスはトルコを支援し、トルコはロシアの要求を拒否した。

バルカンでの戦闘  
1853年7月、ロシア軍は突然トルコ領モルドバ、ワラキアに進駐し、トルコ軍と対峙した。これに呼応してギリシャの義勇兵や反トルコ勢力が立ち上がり、マケドニアやブルガリア方面からトルコ軍を挟撃した。

苦境にたったトルコ軍を英仏艦隊が支援した。
フランス海軍は、ギリシャ向けの武器輸送船をテッサロニキで撃沈、イギリスもアテネの港ピレウスを封鎖した。

その結果、反トルコ組織は各地で鎮圧され、トルコ軍はロシア軍をドナウ以北にまで押し戻し戦線は膠着した。

同じ頃、コーカサス方面でもロシア軍が南下してきた。
要塞都市カルスをめぐる戦いが始まり、カルスへの補給基地であるシノープがロシアの攻撃目標になった。

クリミア半島
1853年11月、クリミア半島のセバストポリを出港したロシア黒海艦隊は、黒海南岸の港シノープ(Sinop)を急襲し、停泊中のトルコ艦隊を全滅させた。
また、艦砲射撃で街を焼き払い、多くの市民を犠牲にした。
各国はこの攻撃をシノープの虐殺と非難し、一気に戦争の気運が高まった。

1854年3月、イギリスとフランスはトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告した。
モルドバ、ワラキアのロシア軍はオーストリアやプロシアの抗議により撤退した。
連合軍はブルガリアから北上してオデッサを攻める作戦だったが、オーストリア軍がワラキアに進駐したため、攻撃目標はロシア艦隊の基地セバストポリ(Sevastpol)となった。

1854年9月、連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。

ロシア軍は黒海艦隊を沈めて英仏艦隊の湾内突入を防ぎ、街を要塞化して連合軍を待ち受けた。』(「クリミア戦争 戦争にいたる経緯」より)
http://www.vivonet.co.jp/rekisi/b09_osman/crimeanwar.html

当時の日本では薩長を英国が、幕府をフランスが軍事支援していた。

ロシアがクリミア半島でどう出てくるのか、それは日本の国防戦略上とても重要な情報であった。

ロシアの軍人プチャーチンが長崎に寄航したと聞き、すぐに江戸を立って松陰は長崎へと向かった。

行動することが陽明学の基本だからである。
とにかくロシア人にあってことの事実を確かめたい。

しかし、日本の歴史では「あわてて長崎へ行こうと出発したが、ロシア軍艦が日本を去ってしまって、松陰は仕方なく江戸へ戻った」としか書かれていない。

「あわて者が結局失敗した」というニュアンスの書き方をするものさえいる。

黒船密航についても、「幕府ご法度を犯して結局失敗してつかまったあほな侍」という認識しか今の若者に伝えきれていない。

これは実際に私が25歳の若い女性に対して、「松陰の黒船密航事件についてどう思うか」と質問したときの返事である。

上の記事は英仏トルコ連合軍とロシア軍の大激突の前で終わっていた。

その年は1854年9月である。
『連合軍6万を載せた大艦隊はクリミア半島に上陸、セヴァストポリに向けて進軍した。』

同じ安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に松陰は萩の隠れキリシタンと思われる金子と二人で旗艦へ赴き、密航を訴えたのである。

松陰がペリーを刺殺しようとしていたという説もあるが、軍事戦略として松陰が考えた中にも「乗船して敵の大将を刺殺」というものはあっただろう。

しかし、もしそれが目的であれば、何も阿武郡のキリシタンの住む紫福村出身の足軽金子を伴う必要はないだろう。

むしろ剣客を雇うほうがいい。

ザビエルが布教した山口に程近い萩生まれの松陰は、宣教師が何をしに日本へやってきたかをほぼ正確に把握していたことだろう。

つまり、アメリカへ密航が成功したとき、アメリカという国家が日本に対して何をしたいと思っているのか、その最重要の情報を探る上でキリシタン人脈は効果的だと松陰は考えたのではないか。

萩を訪ねたあとで、私はそう思うように変わった。

アメリカのキリスト教徒も日本の隠れキリシタンも、ローマ法王のところで情報も人脈もつながっているからだ。

クリミア半島の争いがキリスト教徒のメッカエルサレムの統治権を争うものであることから、宗教問題に明るい人物による諜報活動を必要としたのではないか。

松陰は獄中において、「ナポレオン(那波列)翁による自由(フレーヘード)を求める革命」と同じことをやるべきだと、草莽による倒幕の決意を固めたのである。

『列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。

那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345

剣豪キリシタンか~長州(134) [萩の吉田松陰]

SH3B0526.jpg
SH3B0526僧月性(左)と聾唖僧宇都宮黙霖(蝋人形、松陰神社境内)

前の記事で引用した福昌寺の記事でどうしても私の心に引っかかるものがあった。
それは次の部分である。

『略。
また1870年の浦上四番崩れの際には浦上(現・長崎市)のキリシタン収容所がこの福昌寺の跡地に建てられていた。

ちなみに他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、ここの待遇はかなり良かったらしく、後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのはこの浦上のキリシタンであった。』(福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)より)

大山 綱良(おおやま つなよし)は、西郷の西南戦争準備を後押しした鹿児島県令(知事)である。

大石内蔵助に向かって吉良邸へ押し入って強盗殺人をやれやれ、と囃し立てたのは、歌舞伎忠臣蔵では松浦侯である。

モデルは、松浦侯・肥前平戸藩6万3000石の藩主・松浦鎮信である。

あるいは堀部安兵衛親子である。

西南戦争の準備期に、それとよく似た役割を大山綱良が果たしたように私には思われる。

つまり、西郷に新政府と戦争をしろとせっつく役目を果たした人物である。

その大山は西南戦争後に連座の罪により斬首されたことまでは知っていたが、葬儀を浦上のキリシタンが行ったことは知らなかった。

そのことが福昌寺 (鹿児島市)(Wikipedia)の記事に書かれているということは、鹿児島でのキリシタンの隠れた信仰拠点が福昌寺であったことを暗示しているように見える。

これは、ある種の秘密の暴露に見える。
言ってはいけないことだが、つい口から出てしまうという行為ではないだろうか。

西南戦争に連座して処刑された大山の葬儀は、浦上(現・長崎市)のキリシタンたちによって行われたと書いてある。

大山はキリシタン側にあった人物だということを示唆している。
ザビエルが鹿児島で撒いた種は、明治初期の鹿児島県令にまで及んでいたのだろうか。

大山は養子先の姓であり、綱良は元「樺山」姓の薩摩藩士である。
「剣客大山」の素顔が次の記事に描かれていた。

『大山 綱良(おおやま つなよし、文政8年11月6日(1825年12月15日)~明治10年(1877年)9月30日)は、江戸時代後期の薩摩藩士、明治時代の政治家である。

父は樺山善助。養父は大山四郎助。通称は正圓、角右衛門、格之助。
大山氏の本姓は宇多源氏で、養子先の家伝では佐々木盛綱の子孫である康綱の後裔を称するが明確ではない。

文政8年(1825年)、鹿児島に生まれる(幼名熊次郎)。

嘉永2年(1849年)12月26日に大山四郎助の婿養子となる。

西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に属した。

島津久光の上洛に随行し、文久2年(1862年)の寺田屋事件では、奈良原喜八郎らとともに過激派藩士の粛清に加わり、事件の中心的役割を果たした。

特に寺田屋2階には大山巌・西郷従道・三島通庸らがいたが、大山が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督府の下参謀になった(もう一人の下参謀は仙台藩士に処刑された長州藩士、世良修蔵)。

大山率いる新政府軍は仙台城下で強盗・強姦などの乱暴狼藉を働き、庄内藩を討つため仙台から出陣した。

その結果、仙台藩の藩論は「会津擁護」に固まった。

大山の新政府軍は庄内戦線において、庄内藩の反撃にあい連戦連敗を喫した。
しかし、戦後、新政府から賞典禄を受けた。

長州藩で大楽源太郎が反乱を起こして敗走し、再起のために日田県庁を襲った時には新政府の命を受けて討伐軍の司令官として鹿児島から派遣されながら現地到着後に独断で軍解散を命じて木戸孝允らの怒りを買い、西郷隆盛が詫びる騒ぎとなっている。

新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。

だが、これは旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるとした廃藩置県の原則に反する特例措置であった。
大山は島津久光の意を受けて西郷らを批判した。

明治6年(1873年)に征韓論争から発展した政変で西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けた。

その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。

明治10年(1877年)に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、西郷軍の敗北後、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首された、享年53。

墓所は鹿児島県鹿児島市の南洲墓地。

剣の達人
大山は薬丸兼武及び子の兼義に薬丸自顕流の剣術を学んだ。
薬丸門下の高弟中の高弟であり、奥伝である小太刀を極め、飛鳥のように跳びかかって相手を打ち倒したという。

藩中随一の使い手といわれた。

江戸にて刀を用いた大道芸人を見物していたところ、大山が手練であることを見抜いた直心影流の長沼笑兵衛(恂郷)に道場に招かれた。

長沼の要請で大山は師範代と立ち会うことになった。
防具をつけた師範代に対し、大山は素面素小手で木刀一本を持って立会いに臨み、立会いがるや否や一撃で打ち倒した。

さらに薬丸流の技である打廻りを見せると、長沼は大変感激したという。

西郷隆盛とともに藤田東湖に会ったときのこと。
西郷は大山を剣の達人であると紹介した。

神道無念流門下であった藤田の斡旋で斎藤弥九郎道場の塾頭と試合をすることになった。

大山は例によって素面素小手。小太刀を一本持ったのみであった。
対して塾頭は防具と竹刀で臨む。

大山は立ち上がるや否や塾頭に打ち込んだ。
そこで塾頭はあまり打ち込みが早いのでもう一度試合をしてくれといったが、大山はこの道場では亡者が試合をするのかとあざ笑った。

実戦であれば一本目で決着が付くにもかかわらず、二本目、三本目と試合をすることへの皮肉である。

槍術の達人といわれた有村俊斉は鹿児島城下で次々と道場破りを行い、最後に薬丸家にやってきた。

薬丸家に代わって大山が試合に応じた。
結果大山が勝った。

有村は再戦を期し甲突川の水の中で槍突きの修行をし、三年くらい後に再びやってきた。
再度大山が立会い、やはり勝った。

有村は観念し薬丸家に入門した。

しかし有村、後の海江田信義の回顧では薬丸半左衛門(兼義)に入門したのは15歳のときとなっているので実際の相手は有村俊斉ではないだろう。

大山綱良が与えた影響
綱良が県令の時に、県庁に保存されていた薩摩藩時代の公文書を「旧弊が抜けないから」との理由で焼却してしまう。

この事件は江戸時代の火事や西南戦争とともに薩摩藩の歴史研究に弊害を与えたことが「鹿児島県史料 島津斉宣・斉興公史料集」の序章で述べられている。』(大山綱良(Wikipedia)より)

薩摩藩時代の公文書焼却には証拠隠滅の意識が働いているようだ。
「後世に知られてはまずい出来事」が幕末の薩摩藩内で行われていたことを暗示している。

「大山(綱良)が刀を捨てて必死の説得を行った結果、投降させることに成功した。」という下りは、読んだ当初は意味不明だった。

が、記事を最後まで読めば、その意味がじわりとわかってくる。

誰にも負けない腕を持つ大山(綱良)が刀を持てば、過激派の薩摩藩士であった大山巌・西郷従道・三島通庸らは皆殺しにあったはずだ。

それなのに大山(綱良)は刀を捨てて、彼らに投降してくれるように懇願したということである。

言われた方はかなわない。

私は、大山(綱良)は相当濃いキリシタンであったと想像している。
そういう視点で西南戦争を見直してみる必要があるだろう。

明治新政府は革命成功と同時にキリシタン弾圧を行っているのである。
反政府側に隠れキリシタンがいることは当然でもあろう。

仙台では世良の行状もさることながら、大山(綱良)の行状も奥州戦争勃発の触媒として作用しているようである。

よりによって、奥羽鎮撫総督府の下参謀2名に、薩長ともに危ない人物を登用したのである。

戦争をしたがっていた、というよりも日本で戦争が起きなければ破産するはずだったユダヤ資本がいたことは先に述べた。

再掲する。

『略。
しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

グラバーやジャーディンマセソン商会が、長崎や鹿児島の隠れキリシタンと近い関係にあったことは容易に想像がつく。

大山(綱良)が彼らの要請を受けて、戦争を何とか奥州で起こそうとした可能性はある。

私の調べでは世良修蔵は、浄土真宗本願寺派の僧侶、柳井の月性が三条実美の意向を受けて育てた過激志士である。

世良の親友が会津に殺されていることから考えても、世良が奥州に行けば戦争になることは木戸孝允も知っていたはずだ。

しかし、世良は徳川幕府を倒したがっていた浄土真宗僧侶の育てた青年であって、キリシタンではないように思われる。

すると、世良を奥羽鎮撫総督府の下参謀に任命した木戸孝允が隠れキリシタンと深い関係を持っている可能性が浮上してくる。

これは、あくまで可能性があるという段階である。

以上をまとめると、「大山綱良と木戸孝允が、キリシタンであった」可能性が浮上する。

神戸で捕縛された大山綱良は、鹿児島ではなく、なぜか長崎で処刑されているのだった。だから浦上のキリシタンによって埋葬されたのである。

なぜ長崎で大山を処刑したのであろうか。

『明治10年9月30日長崎で処刑、53歳。
明治7年鹿児島県初代県令(知事)となる。

西南の役に際し、軍資金、兵器、弾薬、食糧を送るなど薩軍を援助した罪により神戸で捕縛、官位をはく奪された。』(大山綱良(Wikipedia)より)

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