シュロの木の出迎え~長州・萩の吉田松陰(13) [萩の吉田松陰]

SH3B0040.jpgSH3B0040正面曲がり角にもシュロの木
SH3B0041.jpgSH3B0041家屋を守るかのようなシュロの木の位置
SH3B0042.jpgSH3B0042自己主張の強いシュロの木

小道を松陰の生家に向かって歩く。
娘からプレゼントされた新調のサンダルを履いて歩いている。
夏の朝の強い日差しを感じ、ウォーキングシューズよりはサンダルが涼しく感じたからである。

しかし裸足で履きなれていないサンダルを履いて坂をゆるゆると上っていると、指の付け根の辺りが変なあたり方をして赤く変色し始めてきた。

「やばいなあ。豆ができるぞ」と直感したが、わずか100mほど後方の車まで戻って履き替えることを面倒くさく思い、そのまま歩いている。
街道歩きでは足回りでこういう失敗を犯すことはまずない。

しかし車の移動旅行の場合はその辺りの注意が散漫になっているようだ。

正面の曲がり角に家屋の軒先に植えてあるシュロの木が見えた。

この松陰の住む萩のシュロの景色は、ある程度私は予想していた。
だから、発見して嬉しいとと思うとともに、私の事前の予想が当たったことに驚いてもいた。

そこを通り過ぎると、左手の空き地の向こうにもシュロの木があった。
やはり家屋の庭先に植えてある。

家の守り神であるかのようである。

その先には、人の背丈ほどもある垣根の草の中からニュキリと自己主張をしながら大きなシュロの葉が顔を突き出していた。

このシュロが連なる光景は奥州街道の浅草から平泉までによく見た光景である。
とりわけ浅草~宇都宮の間に目立つシュロの木が多かったことを記憶している。

マツダ屋旅館の名から、音(おん)の類似により自動車メーカのMAZDAを連想した。
それがゾロアスター教の神の名に由来することを知った。

ゾロアスター教の神、Ahura Mazdaを信仰した古代オリエントの王がいる。

『この大帝国の統治にあたっては、全土を20の州に分け、王が任命するサトラップ(知事、総督)を派遣して統治させ、サトラップの監視のために「王の目」「王の耳」と呼ばれた直属の監察官を派遣し、州を巡察させて王に報告させた。首都スサに大宮殿を造営、新都ペルセポリスにも壮大な宮殿を建設した。

また首都と各都市を結ぶ軍道(「王の道」)を建設するとともに、駅伝制を確立した。ちなみに、スサと小アジアのサルディス間は2600kmあるが、111の駅をおき、役人と馬を配置し、隊商隊が90日かかるところを7日で連絡したといわれる。

さらに彼は大帝国を統治する財源を確保するため、ダレイオス金貨を鋳造して貨幣を統一し、税制を整備し、フェニキア人の海上貿易を保護して税収の増大をはかった。

宗教については、彼自身はゾロアスター教を信仰したが強制せず、服属した異民族には固有の信仰を認め、また風俗・習慣も認めるなど寛容な統治を行ったので、アケメネス朝は200年以上にわたって続いた。』
(「古代オリエント」より)
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/18-orient4.html

この記事を読みながら、なぜか自然と織田信長の政策的な功績と良く似ていることに気づいた。

上記抜粋記事は、古代オリエントのアケメネス朝3代目の王で、史上有名なダレイオス1世(大王)(位前522~前486)のことを書いたものである。

「駅伝制を確立」は、将軍徳川家光に至ってようやく東海道などの街道宿場整備がなされたのだが、その整備構想は織田信長とそのブレインのものであった可能性を感じる。

松楓の人~萩の吉田松陰(12) [萩の吉田松陰]

SH3B0037.jpgSH3B0037吉田松陰の生家へ向かう(真夏のピンボケ写真)
SH3B0038.jpgSH3B0038力強いシュロの木の出迎えだ!
SH3B0039.jpgSH3B0039左よりの白い壁の家屋の前にもシュロがある

伊藤博文の旧宅の前を通り、松陰神社職員駐車場の前で右折し、やや緩やかな坂道を登り始めた。
自転車に乗った若い娘さんが3人、にぎやかに歩く私を追い越して坂を上っていった。

この先に松陰の生まれた土地があるからだ。

萩といえば晋作の「憂国の楓」のことを思い出す。
それがユダ(湯田)温泉のマツダ(松田)屋旅館の玄関先にあった楓の木であった。

何の意味の脈絡もなく、マツダ屋旅館の名から、音が同じだというだけの理由でマツダ自動車の名前を連想した。

そこで自動車メーカ「マツダ」の社名の由来である。

『マツダ(MAZDA)の由来は、西アジアでの人類文明発祥とともに誕生した神
「アフラ・マズ ダー(Ahura Mazda)に由来するそうです。
さらに、創業者松田重次郎の姓にもちなんでいるとか
中略。

ゾロアスター教の神、Ahura Mazdaから取ったMAZDAのロゴがその当時から使用されています。

アメリカ人はマツダと発音しないで、メァズダと呼んでいます。』
(「自動車メーカーMAZDAの名前の由来を教えてください。 MATSUDAじゃない理由がなにか...」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212723497
アメリカ人はマツダと発音しづらいのか、したくないのか、変わった読み方をするようだ。

「松風の人―吉田松陰とその門下」(津本 陽 (著))という[単行本がある。
http://www.amazon.co.jp

『内容(「BOOK」データベースより)
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋―幕末・維新を先駆した英傑たちを育てたのは、国の未来を真剣に案じた一人の男の熱情だった。

『松下村塾記』には、教育によって日本を興隆にみちびき、こののち松陰の志を継承し、衆人を奮起させる人物をつくりだしたいとの意が記されている。 』

この本の題名は「松風の人」となっているが、私には「松楓の人」と読めるし、そうでなければ松陰について説明がつかない。

楓と松ならば、東京の世田谷松陰神社や萩の松陰の墓を訪ねれば、視覚的にすぐにわかるのである。

奥州街道を歩いていて、キリシタン大名「蒲生レオン氏郷(がもう レオン うじさと)の末裔を名乗る蒲生君平の墓に宇都宮で遭遇したが、そこにもポツンと松と楓の木が二つ植えられていた。

「内村鑑三全集」(1980年版)の中に、楓と松とシュロが出てくることをあるサイト記事から偶然知った。

「春桂が山を飾る一方で、楓樹は岸を装う。
宇宙を代表したエデンの園は、この種の植物において甚だ富んでいた。」

『「観るに美麗(うる)はしき樹」、桃金嬢(てんにんくわ)、夾竹桃(きょうちくとう)のように、果実のためではなく、葉と花とのために耕されるもの。植物の用は、経済的だけでなく、また審美的である。

春桂が山を飾る一方で、楓樹は岸を装う。
宇宙を代表したエデンの園は、この種の植物において甚だ富んでいたであろう。

 「食うに善き樹」、海棗(デートパーム)とか、クルミとか、ザクロとか、またブシュカンとか、栗のような、見た目には甚だ美しくはないが、食うには甚だ良い果樹はまた、楽園の産であったという。

山林は、松、ヒノキ、ケヤキ等木材用の樹木に限るべきものではない。
神が植えられた天然林においては、栗があり、柿があり、梨があって、誰もがそれから甘みを取ることができるのである。

果樹は必ず障壁で囲まれ、人は額に汗するのでなければ果実一つをも得ることができないようにしたものは、そもそも誰の仕業なのか。

「生命の樹」、それが何の樹であるかを知ることはできない。あるいはいわゆるパンの樹という、南洋諸島に産する棕櫚の類であったのか、あるいはマナの樹と称する、ザクロス山中に生じる樫の一種であったのか、

あるいは乳香、没薬等傷を癒すための薬品を生じる霊木だったのか、あるいは私たちをその下に導き、天の微かな声を聴かせる蔭樹であったのか、「生命の樹」は一つでは足りない。
私たちはそれがエデンの園にあって、著名な地位を占めていたことを知るだけである。』
(「内村鑑三の著作を現代訳する試み1」より)
http://green.ap.teacup.com/lifework/352.html

内村鑑三はエデンの園に詳しい学者だった。

『内村 鑑三(うちむら かんぞう、1861年3月26日(万延2年2月13日)- 1930年(昭和5年)3月28日)は、日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。』(内村鑑三(Wikipedia)より)

彼の説くエデンの園では、「松」はさほど重要な言葉として扱っていない。
シュロもいくつかの生命の樹のサンプル事例の一つに過ぎない扱いである。

しかし、楓はエデンの園を飾る二つの樹うちの一つであるから、大変重要な樹であることがわかる。
扱いに重軽はあるものの、この街道歩きで主要テーマになっている「楓」「松」「シュロ」の3つが1ページの文章の中に登場してくるのは、なぜか心地よかった。

幕末の武士であって、日本革命を目指す吉田松陰とその弟子高杉晋作にとっては、「楓の木」はエデンの園の象徴となっていたのではないだろうか。

高杉晋作は一度上海へ行っている。
そのときに欧米先進国の文化や宗教、軍事情報と色濃く接触してきたことは侍の役目として自明である。

文久3年頃にアメリカの南北戦争は事実上の終結を迎えたこと。
その結果、世界中の兵器がジャブジャブあまって来ることも知ったはずである。
それは薩長同盟へとつながっていく。

坂本龍馬に護衛用のピストルを与えたのは、上海で高杉晋作が購入した2丁のピストルのうち一丁だという説がある。
或いはその後に長州が輸入したいくつかのピストルの内の一つを与えたという説もある。

どのピストルが龍馬に手渡ったかは2説あるものの、高杉晋作が上海でピストルを初めて手にしたことは事実であるし、龍馬に護身用ピストルを贈呈したことも事実である。

晋作はエデンの園の話を上海で聞いたのか、或いはザビエルが16世紀に山口市に残していった隠れキリシタンたちから聞いたのか?

萩市内に隠れキリシタン慰霊碑があると観光パンフレットには書いてある。
幕末の萩藩市街にキリシタンが住んでいたのだろうか。

松陰の生まれた家にはどういう樹が植えられていたのだろうか。

萩市内の名所を訪ねて歩いていると、興味は段々と深くなってくるようだ。
まだ伊藤博文別邸と旧宅を見ただけである。

憂国の楓のこと~萩の吉田松陰(11) [萩の吉田松陰]

SH3B0035.jpgSH3B0035伊藤博文の銅像か
SH3B0036.jpgSH3B0036松陰神社職員専用駐車場

伊藤博文が生き残って、松陰の教えに忠実に行動した四天王たちは革命の前に死んでいった。

伊藤の栄華を思うとき、私は自然に高杉晋作のことを思ってしまう。

「松下村塾から徒歩数分のところに伊藤博文旧宅 & 別邸があります。」と先の記事に書いてあった。

伊藤博文旧宅の前を通って行くと、さらに隣地に広い敷地がある。
公園のようにも見えるが、商人の家の庭にも見える。
通常の見学コースと反対方向を私は歩いているようだ。

敷地中央奥に大きな銅像が建っている。
洋服を着ている人物像は遠めには伊藤博文に似ているようだ。

すぐに細い路地の三叉路に出くわす。
松陰神社職員専用駐車場の看板と砂利を敷いた青空駐車場がある。
その向こう側に背の高い松の木が数本見える。

あの松の木の下が松陰神社、つまり昔の「松の下の塾」松下村塾であろう。
ここは私が若い頃に何度も観光できた神社なので、土地勘もある。

伊藤博文の旧宅からは、走っていけば1~2分で塾に到達できる。
伊藤俊輔の幼名は利助である。

「伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。」(伊藤博文(Wikipedia)より)

利助は家屋の外に立ち松陰の講義を聞いていた。

おそらく久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の松下村塾四天王などが松陰の前に座って聞いたのであろう。

この松門四天王は、明治維新革命の成功を前にして、いずれも死んでいった。
「死をもって革命をなせ」という過激な松陰の指導に忠実に従った結果と言える。

高杉は病死であって戦死ではなかったが、奇兵隊創設と維新の先陣を切った点は、革命の導火線役として十分な働きをしている。

高杉と久坂、吉田らは優秀だが、度胸がないと松陰は言い、入江九一だけは国のために死ねる男児であると言った。

その入江も禁門の変で負傷し切腹をしている。

『入江 九一(いりえ くいち、天保8年4月5日(1837年5月9日)~元治元年7月19日(1864年8月20日))は幕末期の長州藩士である。名は弘毅。通称は万吉、杉蔵。字は子遠。別名は河島小太郎。野村靖の兄。贈正四位。

生涯
天保8年(1837年)、長州藩の足軽入江嘉伝次の長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰に学んだ。

松陰から高く評価され久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。

同年、師匠の松陰が幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ。

このとき高杉と久坂、吉田らは猛反対したが九一だけは賛成し計画に加わった。

このとき、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。

そのため、松陰が井伊直弼による安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとした。

しかし、幕府に察知されて弟の野村靖と共に投獄されてしまった。

その後、釈放されて文久3年(1863年)、足軽から武士の身分に取り立てられた。

その後は京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。

元治元年(1864年)、禁門の変では久坂らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れて久坂は自刃する。

九一は何とか脱出しようと図ったが敵の銃撃を受けて負傷し、その場で切腹して果てた。享年28。

志士としてのその後の活動が期待されていたが志半ばで無念の死を遂げた志士として、上善寺に手厚く葬られた。

木戸孝允・大村益次郎たちによって長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社、下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社、山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社、東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。』(入江九一(Wikipedia)より)

松陰が入江九一を評価して言った言葉は、特に松陰斬首の後で晋作を苦しめたはずだ。

「君(入江)だけは国のために死ねる男児である。」

晋作も、いつかは国のために死ねる行動に立つべきだと考えていた。

かつて私が知人M氏と一緒に山口市湯田温泉の松田屋旅館を訪ねたとき、旅館の歴史資料室に置いてある楓の幹に彫った文字を見た。

それは奇兵隊決起の前日(かその前)に彫った文字である。

晋作が夜の旅館の玄関先に一人で立ち、楓の木の幹を小刀で削り、その刃先で刻んだ文字だった。

実際見た文字はカビで黒くにじんでおり、目を近づけて凝視しないと判別できにくいものだった。

拙著ブログ「楓(かえで)と紅葉~奥州街道(3-152)」からその下りを抜粋する。 http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59077409.html

『明治以降、福島県は自由民権運動の奥州の中心となっていた。
活動の中心場所は福島宿の『紅葉館』(旧客自軒)である。

東京・世田谷の松蔭の墓の傍には老楓の木がそびえている。

高杉晋作が決起の心中を亡き師松蔭へ伝えるために人知れず密かに小刀で刻んだのは、山口・湯田(カタカナで書くと「ユダ」)の松田屋旅館玄関前の楓の幹であった。

そして肺結核で病死した晋作の墓は、下関の紅葉谷のふもとにある。
紅葉谷を最後の場所に指定したのは晋作自身である。
そこに東行庵を設けて内妻を尼として住まわせるよう遺言している。

松蔭と晋作の間には、間違いなく紅葉(楓)の契りがあったはずだ。

そして福島にも紅葉を中心に自由民権運動が拡大していった。

山口で自由民権運動の拠点に紅葉や楓の名のつく館があったかどうか。
山口の自由民主党の総裁は、岸信介、佐藤栄作、安部晋三らであるから、さしずめ田布施町が昭和時代は中心となっている。
明治時代の中心も田布施町だったかどうか、私は知らない。

山口を訪問したときに、ザビエル布教の場所に寄ったことがある。
山口の大名である大内義隆の屋敷傍に小路があり、そこの井戸の前に立って民衆を説いていたと言われる。

そこには枯れた井戸と説明板が立っていたが、背景は一面の楓の木であった。
秋には真っ赤になることだろう。』

この記事では書かれた文字は紹介していなかった。
別の記事で私は詳細に報告していたのだが、検索では見出せなかった。

自分の記事さえ検索できない検索エンジンには、まだ改良の余地があるだろう。

しかし、「湯田温泉歴史秘話」(ゆこゆこネット)の記事に晋作が楓の幹に彫った文字が紹介されていた。
それを抜粋する。
http://www.yukoyuko.net/onsen/area09/pre35/onsen0724/rekishi

『山口市の中心部近くに広がる湯田温泉は、今も昔も盛り場として人々で賑わう温泉街。
幕末の世、長州藩が維新回天の表舞台に名乗り出た時代もまた、多くの志士たちが集っては酒を飲み、国家を案じ熱い議論を重ねたという。

その温泉街の一角に、堂々たる風格を見せて門を構える「松田屋ホテル」が建つ。

ホテル内の浴槽「維新の湯」は、幕末風雲を舞台に活躍した高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上馨、三条実美など錚々たるメンバーが湯を浴びたことでも有名。

長州と薩摩が手を結び、倒幕へと突き進むための密会も、このホテル内でたびたび行われたという。

現在、館内には当時の貴重な資料が展示されている「維新資料室」を併設。

その中に、1本の楓の木が保存されている。
「高杉晋作 憂国の楓」と名づけられたその木には、次の文字が刻まれている。

「盡国家之秋在焉」(国家ニ盡<ツク>スノトキナリ)。

1863年(文久3)、八月十八日の政変が起こり、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は京都から追放される。

その後、藩内は尊皇倒幕を唱える急進派vs幕府に従おうとする恭順派の対立で混乱を極め、1864年(元治元)には井上馨が恭順派の一派に急襲され瀕死の重傷を負い、「松田屋」に運び込まれるという事件も起こった。

また、第一次長州征伐の際には恭順派が藩政を牛耳り幕府へ従順。
急進派の重鎮が政権から一掃される。

これを受けて、高杉晋作は下関にて挙兵を決意する。

「今から長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と、自ら創設した奇兵隊と急進派を率いて出兵。

藩政をひっくり返し、長州藩は一気に尊皇倒幕へと傾倒する。

1866年(慶応2)の第二次長州征伐では、海軍総督として幕府艦隊を駆逐。
長州藩の事実上の勝利(実際は長州藩優勢で休戦)を見届けた後、1867年(慶応3)肺結核のため27歳の短い生涯を閉じた。

同年、大政奉還。
250年超にわたる江戸幕府は幕を閉じ、明治維新を経て日本は新しい国家へと生まれ変わっていく。

高杉が、「松田屋」の玄関横に植えられていた楓の木に「盡国家之秋在焉」と刻んだのは、八月十八日の政変の直後だと言われている。

しかし、この文字が発見されたは大正時代に入ってから。
誰にも気づかれることなく、ひっそりと“国家のために尽す時がきた”と刻んだ高杉の決意は、どのようなものだったのだろうか。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された高杉が、命を燃やした晩年の4年間。師の吉田松蔭が革命家としての素質を認めた通り、長州藩そして国家を一気に維新革命へと導いていく役割の一端を担ったとも言える。

京都の政変で国家が動乱に突入することを知り、今が自らの生き際と見極めた時。“時が来た”と刻んだ7文字の言葉に、彼の身震いするほどの興奮がうかがえる。』(抜粋終わり)

革命を決意すべき夜の会合がユダ温泉のマツダヤで開催されたはずだ。

その会合の席の途中か終わってか、晋作はたった一人で松田屋の玄関に出た。

空には月が出ていただろう。

直径20cmほどある太い一本の楓の木が玄関脇に聳え立っていた。

晋作は小刀を取り出して幹の皮を削った。

すると白い内皮が月明かりに浮かび上がってきた。
小刀を立てて刃先で文字を刻み込んだ。

既に松陰はこの世にはいない。

「先生、入江九一に先を越されたけど、私も度胸はあることをお見せします。いよいよその時機の到来です。」

そういう気持ちで彫ったのであろうか。

人知れず彫ったことは事実である。
大正時代にこの楓の木を伐採した旅館の人が、「苔で膨れ上がっている幹の一部分」に気がついたのである。

指で膨れた部分に触ると、その瘡蓋(かさぶた)のような樹の厚い皮がはらりとはがれて、薄汚れた文字が浮き上がってきたという。

「盡国家之秋在焉」
(国家に尽くすの時なり)

なぜ晋作は同志たちに見せずに、「こっそり」と彫ったのか?
これは、いまだに私の中の謎である。

もし完全に秘匿すべき言葉ならば、楓の木などに決して彫るべきではない。

後世の誰かに、「秘密の命令を受けてそれを実行したこと」を書き残しておきたかったのではないだろうか。

秘密をばらせば暗殺されるレベルの秘匿すべき事項だったのではないか。
或いは晋作は病死ではなく、暗殺された可能性さえあるかもしれない。

ユダ温泉の楓の木に書かれた文字であった。

晋作が尽くそうとした「国家」とは、一体どの国なのか?

もしその国が日本国であれば、そのことを密かに刻み後世に残した意図は何か?

日本国のための決起ならば、長州藩内の楓の木に「密かに刻む必要」などないだろう。

後の廃藩置県や廃刀令など、武士の社会の終焉に革命は至るのであるが、晋作がこのときに既にそれを意図していたとすれば、たとえ自藩内であっても同志にそのことは悟られないようにした可能性もあるだろう。

明治以降、西郷隆盛でさえ武士の恨みを抑えることが出来ずに、反乱の大将に担ぎ上げられたくらいだった。

松陰と晋作だけは、「革命に内在するその秘密」を知っていた可能性が高い。

天にいる松陰へ向かって、晋作はこっそりと「それ」を言いたかったのであろう。
ならば木に刻む必要などない。

一体誰に読んでもらおうとしたのであろうか。
100年後の私たちに読ませようとしたのであろうか。

史蹟 伊藤博文旧宅~萩の吉田松陰(10) [萩の吉田松陰]

SH3B0031.jpgSH3B0031伊藤博文別邸の門か
SH3B0032.jpgSH3B0032同上正面へ廻る
SH3B0033.jpgSH3B0033小さな石柱に書いていた。
SH3B0034.jpgSH3B0034これが伊藤博文別邸だ!

観光施設になっている入場料金100円を払う窓口のある日本家屋が伊藤博文別邸であって、東京から移築したものだった。

その左隣に茅葺のこの古い家屋がある。

門の前に石柱がある。

「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
昭和7年3月文部大臣指定』

その左にも小さな石柱があるが、誰の家屋かは読み取れない。
その石柱の反対側の面を見てみる。

『史蹟 伊藤博文舊宅』と大書してあった。

「舊」は「きゅう」であり、「旧」と同じ意味である。
昔の家屋は草と木で出来ていたからだろうか、草冠を使っている。

『伊藤博文旧宅
高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てた吉田松陰の松下村塾から徒歩数分のところに伊藤博文旧宅 & 別邸があります。

旧宅は木造萱葺き平屋建て、29坪の小さなもので、萩藩の中間伊藤直右衛門の居宅でしたが、安政元年(1854)に博文14歳のとき、父林十蔵が直右衛門の養子となり、一家をあげて伊藤家に入家し、居住しました。』
(「萩市指定史跡 伊藤博文旧宅 & 伊藤博文別邸」より)
http://www.iwasaki.co.jp/info_lib/eye/27_hagi/02.html

出世前の萩にあった貧しい家屋は、垣根の向こう側に静かに建っていた。

草と木だけから造られているが、手入れをすれば100年も住める日本家屋のように見える。
しかし、隙間風はすごいだろう。

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