木戸の仁と会津戦争~長州(75) [萩の吉田松陰]

SH3B0278.jpgSH3B0278庭先にトイレもある
SH3B0281.jpgSH3B0281木戸孝允旧宅の居間と廊下と井戸
SH3B0282.jpgSH3B0282風呂のかまど
SH3B0285.jpgSH3B0285庭にも意味ありげな井戸らしき遺物

『維新の三傑 木戸孝允旧宅
木戸孝允(桂小五郎)は、天保4年(1833)この家に生まれ、嘉永五年(1852)江戸に出るまでの約二十年間をこの家で過ごしました。

旧宅の木戸孝允が誕生した部屋や庭園などは、当時の姿をよく残しており、また、幼・少年次代の手習い(習字)や少年時代に旧宅に「死而後已(ししてのちやむ)」と落書きしたもの、さらには多数の写真などをご覧いただけます。

入館料 100円  開館時間 午前9時~午後5時
← 入口(entrance)』(抜粋終わり)

「死而後已(ししてのちやむ)」とは、意味は、「命がある限り努力し続ける。」という意味である。
「論語-泰伯」の中の一節からの引用である。

「曾子曰、士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」 

こう書いても何のことやら今の日本人にはわからない。
江戸時代の日本人は漢字文を見て日本語訳することができていた。

識者による解説を引用する。

『[書き下し文]
曾子曰く、士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して後已む(やむ)、亦遠からずや。

[口語訳]曾先生が言われた。
『有徳の士は、折れない強固な意志を持たなければならない。その任務は重く、目的までの道は遠いのである。仁徳の修得を自己の任務とする、どうして重くないだろうか?
仁の実践は死ぬ時まで延々と続けてから終わることになる、どうしてその道のりが遠くないといえるだろうか?』

[解説]曾子が、有徳の士たる者は、意志堅固な『弘毅の精神』を持たなければならないと説いた部分で、仁徳の修得と完成の難しさを教えているところである。
(「『論語 泰伯』の書き下し文と解説 1」より)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo008.html

仁の実践は死ぬ時まで延々と続けてから終わる

すでに辞令が朝廷から発せられていた長州の品川弥二郎に代えて、奥羽鎮撫総督府下参謀に世良修蔵を抜擢推薦したのは木戸孝允であると推測されるが、その行為は『仁の実践』であるとはとうてい私には思えない。

アメリカの南北戦争であまった武器を東北地方で使用していたずらに日本人同士の血を流させただけである。

江戸城の無血開城という輝かしい革命記念塔を打ち立てた西郷隆盛は、そのとき何をしていたのだろうか。

西郷が薩摩に戻り、江戸にいない間に木戸孝允が画策した作戦なのだろうか。

会津戊辰戦争では、ただ欧米のシーボルトをはじめとする兵器商人たちの懐が潤っただけである。

新政府の勝算が明らかになっていた当時の日本国の中にあって、会津藩での殺戮劇は日本史的な意味はほとんどないと言ってよいだろう。


木戸孝允の死因考察~長州(74) [萩の吉田松陰]

SH3B0275.jpgSH3B0275木戸孝允旧宅の隣地のシュロ2本
SH3B0276.jpgSH3B0276木戸孝允旧宅
SH3B0283.jpgSH3B0283蘇鉄も植えてあった

『木戸孝允旧宅

木戸孝允は、天保4年(1833)6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男として、ここに生まれた。
8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。

初名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。実名は孝允。
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。

30歳の頃から藩の要職につく一方、京都におもむいて国事に奔走した。

慶応2年(1866)には、坂本竜馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。

明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。

これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。

明治10年(1877)5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。

この旧宅は、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建。

木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された。 萩 市』(抜粋終わり)

玄関脇に庭に入る入口があり、庭から旧宅へと入るようになっている。
旧宅の前に案内板がある。

『説明
木戸孝允生誕の年より嘉永五年十一月江戸出府に至る迄、二十年間居住せし所なり居宅は平屋一部二階建にして玄関、座敷等九室(建坪四十二坪二合五勺)階上二室(五坪二合五勺)あり書斎、浴室および庭園等に至る迄よく旧態を存せり。 
昭和16年4月 文部省』

文部省殿の説明板であった。

木戸孝允は最後にどういう病で倒れたのだろうか、なぜか気になる。

『明治10年(1877)没。享年45歳

『木戸孝允』(松尾正人:吉川弘文館)によると、木戸の死因は胃癌とあります。

Wikipediaには「かねてから重病化していた脳発作が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日(引用者注:明治10年(1877年))、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った」とあります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81)。

死因がどうもよくわからないのです。
(「木戸孝允は病死だと思うのですが病名をご存知の方お教えください。」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138412846

胃病から朦朧状態になるだろうか。
脳障害を得てたという説もある。

私は京都の芸者幾松との逢瀬に至るまでのさまざまな活動の中で梅毒を得てしまったのではないかと推理している。
根拠はないのだが、45歳で脳を痛める病としては十分梅毒罹患の可能性が考えられる時代背景だっただろう。

『木戸孝允(桂小五郎)は維新の三傑として有名ですが、死因がどうもよくわからないのです。Wikipediaなどに乗ってるのを見ると、脳血管の障害としか書いていません。
今で言うところの何が死因なのでしょうか?

ベストアンサー
木戸は、「心血管障害」となってます。
http://ftp.osaka-amt.or.jp/bukai/saikin/200602/6.htm

ただ、肝臓が肥大し、歯痛・腹痛・胸痛・・・いろいろあったらしくどれが、直接の死因かは僕は、分かりませんが
死因の説も、質問者さんが書かれてるように脳であったり、心臓であったり、癌など 説もいろいろのようです。

「歯痛って、ただの虫歯?」って感じですが何でも、10本以上抜いたという話も聞きました。』(「木戸孝允の死因について」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1126140571

京都で梅毒が流行り、木戸孝允の死因を梅毒だと想定している記事があった。

『梅毒とは性病の一種で梅毒トレポネーマという病原体の感染によって起こるものです。主な感染の経路としてはやはり性交によるものが多いでしょう。
しかし油断は禁物、キスなどをしたときに自分で気づかないほどの小さな傷があればそこから感染する場合もあります。

梅毒が日本で初めて現れたのは、記録によれば1512年とされており、京都において大流行してしまった梅毒はその猛威を振るったとされています。

そして15世紀の中で加藤清正・結城秀康が、16世紀に入って前田利長などといった著名人らが梅毒で亡くなったとされる説もあります。

また、1877年に木戸孝允が亡くなったのも、以前から患っていた梅毒の悪化が原因である、といわれています。

昔は抗生物質などなく、慢性化してしまうと障害を伴ったまま過ごさなければならず、そのまま亡くなってしまう人も沢山いました。

しかし今ではペニシリンを初めとする抗生物質の存在が出てきたことにより、昔ほどは危険な性病ではなくなりました。

とはいえ、やはり油断は禁物で、出来るだけ早めに治療しなければ、闘病が長引いてしまうこともあります。

梅毒の症状は第一期・第二期・潜伏期・第三期・第四期という五段階に分けられます。

症状が進行していくごとに障害や痛みなどが増し、第三期に入ってしまうと治療は不可能になってしまいます。

現在は抗生物質の発見により、そこまでの進行を見ることは稀になりましたが、放っておくと確実に命に関わる性病のため、早期発見・治療を目指しましょう。』
(「梅毒とは」より)
http://www.dearalice.net/main/bai1.php

おやおや、私の思いつき直感予想は、なんとなく当たってしまったような気がしてきた。

事実は遺族と主治医しかわからないだろう。

「梅毒が日本で初めて現れたのは、記録によれば1512年」とあるから、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル来日の遥か37年も前からインドネシアや中国からの船乗りの往来があったことが推測される。

もっとも倭寇の歴史から見れば古代から海路の往来は盛んだった。

学者研究によれば、梅毒はアメリカ大陸起源説と小アジア(トルコ)説があるという。

『問題の所在を、時系列的に、しかし問題の重要性の比重は軽重を問わずに並べ
てみると次のようになるであろう。

1. 梅毒の出現、その時期と場所の問題。新大陸とコロンブス
 梅毒が最初に経験あるいは記録された場所はどこかという問題。
コロンブスが1492年にアメリカ大陸に近接する西インド諸島に上陸した際、彼の部下の乗組員が現地人との性的交渉によって梅毒に感染し、それをヨーロッパに持ち帰ったという説の検証が必要である。

2. 旧大陸での痕跡、小アジア(トルコ)での痕跡
 医療人類学が示した、小アジアでの発掘遺骨の中に見出された梅毒痕跡の医学的意味、つまり近代医学の規定する梅毒と同じものなのかどうかの検証が必要。
もしこの発見が正当のものと認められた場合、従来のアメリカ大陸起源説は再検証されねばならない。

3. 「梅毒」という病名の命名、フラカストロとその詩
 イタリア・ルネサンス期の医師フラカストロの詩の表題に使われた名称が、やがて18世紀にそれまでの「おでき」(pox)に取って替わって「梅毒」(syphilis)として認知されるに至った過程の検証が必要。

4. 梅毒の伝播の経路
 コロンブスの航海が梅毒をヨーロッパにもたらしたかいなかについてはともかく、1496年2月にイタリアの都市ナポリを包囲したフランスのシャルル8世の軍隊の中で突然猛威を奮ったことだけは確かである。
その後、ヨーロッパ全体にまたたく間に拡がり、それはやがて東洋にも容赦なく押し寄せてくる。
中国、朝鮮、日本が梅毒に蹂躙されるのにはさして日月を要しなかった。
その伝播経路をできうる限り正確に再現する必要がある。

5. その意味付け、天罰、神罰、急性伝染病としての性格
 どのような病気にも必ずある種の意味付けが行われることが多い。
たとえばそれは疾病観を反映したものもあれば、医療観によるものもあれば、また宗教観を背景に持つ場合もある。以下略。』
(「梅毒の文化史的研究序説」より)
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/20-2/fukuda.pdf

1496年2月にイタリアの都市ナポリでの大流行は、フランスとイタリアの戦争下で発生している。
イタリアが防衛の目的利用したのか、あるいはフランスが侵略の目的で利用したのかわからないが、攻め入っていたフランス兵の軍隊内で突然流行したとなればイタリアナポリの売春婦からうつされた可能性が高いだろう。
ならば、ナポリ側の都市防衛戦略として機能した可能性もあろう。

梅毒が日本で初めて現れたのが記録によれば1512年だそうだから、日本上陸までに16年間を要している。

その37年後に、ザビエルは日本への上陸を果たしている。

イタリアからアジアへの旅としては、梅毒菌の方が日本へ来るのがかなり早かったようだ。
それは船員の西洋とアジアへの往来が、1512年頃に活発化してきていたことを物語っている。

イタリアから梅毒の日本上陸から約20年後の天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男信長が生まれている。

織田信長とは、そういう時代の申し子だったのだろう。
その西洋からの性病原菌による侵略の嵐によって、最後に襲われた武士が木戸孝允だったような気がする。

以上はあくまで私の勝手な憶測に過ぎないが、木戸孝允の死因にはわからないことが多いというのが確かなようであった。

木戸孝允の家~長州(73) [萩の吉田松陰]

SH3B0270.jpgSH3B0270路地を歩く
SH3B0271.jpgSH3B0271シュロのある家(左手前方)
SH3B0272.jpgSH3B0272木戸孝允誕生地
SH3B0284.jpgSH3B0284現在は隣の敷地にシュロ

青木周弼旧宅を通り過ぎて北へ路地を歩く。
左手遠くにシュロの木が見える。

晋作の自宅からは東へ一本隣の路地である。

シュロの枝で神を祝うのは、一体どなたの屋敷であろうか。

玄関門脇に木戸孝允誕生地と石碑に刻まれていた。

よく見ると、シュロの木は隣地境界の隣地側に植えられていた。
隣のシュロである。

しかし江戸時代の武家屋敷は大きかったはずだ、晋作の屋敷も当時の半分の大きさになっていた。

あのシュロの木は、江戸時代の木戸の屋敷敷地内に植えられていた可能性もある。

敷地内には自由に入って見学できるという。

屋敷内では主婦らしき女性の話し声が聞こえる。

私は奥州街道を歩きながら、平和なうちの革命であるはずが、なぜ会津だけ悲惨な戦争になったのか考えてきた。

あのまま薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀として東北地方へ進軍していれば、仙台、会津の重臣たちと大人の話し合いの結果、恭順策がとられただろう。

二人は辞令を受けていながら敢えてそれを辞退し、代わりに大山と世良修蔵が参謀に任ぜられた。

世良を推薦したのがこの木戸孝允である。
敢えて仙台会津で騒乱が起きるように仕掛けたように私には思われる。

木戸が主犯だとは思わないが、誰かに命じられて木戸は人選を行ったはずだ。

主犯については以前このブログで考察したが、再掲する。

『「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。
それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。

これは、あくまで私の想像である。

公家としては、三条実美までは柳井の西本願寺派僧月性の私塾「清狂草堂」の扁額を見てたどり着くことができた。
三条実美がキリシタンと関係があったかどうかはわからない。

「清狂草堂」とは、「狂える草莽」たちが、いかにも育ちそうな名である。
仙台藩士たちに滅多切斬りされた世良修蔵は、「清狂草堂」で育っている。

会津藩全滅への協奏曲は、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退し、品川の代わりに世良修蔵が就任したところから始まっている。

東北で混乱をおこさせるために、調整能力の低い人材に敢えて替えた節がある。
いったん朝廷から出された奥羽鎮圧軍関係人事の発令を拒絶するということは、よほどの外圧か高位の者からの差し金があったのであろう。

人選入れ替え作業そのもは木戸孝允の仕業であり、世良を選定したのも木戸だと思う。

そういえば高杉晋作の号は東行ともいうが、または東洋一狂生とも言い「狂」の字を含み、山県有朋も名前として狂介を名乗っていた。

三条実美は長州側、攘夷派では確かに位が高いが、しかし、京都の権力中枢の中では三条家は摂関家にも入いれないほど低いとも言えよう。

つまり孝明天皇のもとで繰り広げられている権力闘争は、一面摂関家の間の抗争でもあったはずだ。

が、その日本革命計画の罪は歴史の表側では三条以下7名の公家たちに背負わされた格好になっているから、摂関家の中の罪人は存在していても表には出ていない。

それが実は革命の首謀者であるはずで、その人物は安政の大獄後も生存しているとすれば、実質的に明治新政府の実権を握ることができたはずである。

真の革命功労者なのだからだ。

摂関家の中に真犯人(攘夷派から見れば神のごとき英雄男児)はいる可能性が高いが、それは北朝方の摂関家だけではない。

南朝方として世が世なら摂関家筋に当たる人物ならば、明治時代の天皇が南朝方に替わった(フルベッキ写真論争)とすれば、明治以後は必ず復権しているはずである。

摂関家に関する詳細な資料はネットでは入手が難しいし、それは仮にあったとしてもある意味で厳重に秘匿されていることだろう。

私の推理する「皇室や公家の中の人物」とは、そういう意味を含めたものだから、表の歴史資料からそれをあきらかにするのはおそらく困難だろう。

それが実在するとするならば、安政の大獄で宮中での捕縛該当者がいたはずで、その人物が安政の大獄の第一号捕縛者となろう。

しかし、権力中枢家の出自なのだから、天皇の許しを得て免罪された可能性がある。

井伊直弼の権限も、そこまでは及ばなかったという意味で、雲浜が捕縛第2号の名誉を与えられた可能性がある。

その場合、捕縛第2号は雲浜だと主張するのみとなり、第1号の氏名は秘匿されてしまうから、中途半端な歴史叙述になってしまう。
つまり、雲浜が第2号といわれたり、第1号といわれたりする。

NO2の梅田雲浜から大々的に逮捕し、毒殺、病死や斬首刑など、それ以下の身分のものを派手に粛清したものと推定する。以下略。』(再掲終わり)

会津藩の悲劇を木戸の自宅前に立って思い出している。
依然として会津騒動の主犯は不明のままである。

アメリカの南北戦争終結で、世界中に膨大な量の銃火器があまってだぶついていたという事情を考慮に入れる必要もあるだろう。

日本国で血を流さずに革命が成就されてはならないと考える人物は、英国やフランス、米国に多数いたはずである。

戦後の日本の歴史教育が、日本史と世界史を分離して取り扱う限り、戊辰戦争と米国南北戦争の因果関係は見えにくくなってしまう。

あるいはそれがこの国の歴史教育において、長い間秘匿されねばならなかった重要なポイントだったのかも知れない。

たかが藩医・・されど・・~長州(72) [萩の吉田松陰]

SH3B0264.jpgSH3B0264青木周弼旧宅
SH3B0269.jpgSH3B0269同門
SH3B0265.jpgSH3B0265同玄関
SH3B0268.jpgSH3B0268屋敷

青木周弼旧宅とあるがどういう人物だろうか。
『幼少の頃の高杉晋作の天然痘治療にあたり、一命をとりとめた』というエピソードが
「萩・長門エリアの観光スポット」http://event.jr-odekake.net/spot/1428.html
に紹介されていた。

旧宅の門前にある説明板を抜粋する。

『日本屈指の蘭学者 青木周弼旧宅

幕末当時、青木周弼は日本屈指の蘭学者であした。
また、後に青木家を継ぐ実弟・研蔵も長崎で最新の医学を学び、種痘の技術を初めて藩にもちかえり、天然痘を予防することに成功しました。

研蔵は明治2年(1869)に、明治天皇の大典医に任命されました。

旧宅内では、萩の城下町や毛利の殿様の話なども説明しておりますので、お気軽にお入りください。

入館料100円 開館時間 午前9時~午後5時』(抜粋終わり)

たかが山陰の萩の藩医か。
されど松陰が点火してしまった革命によって、たかが藩医青木周弼の弟は天皇の主治医になってしまっている。

青木はあの村田清風と交流があったようだ。
また実弟・研蔵ともどもシーボルトの教えを受けたようだ。
医学の授業以外に宗教の講義もあったのかどうか、気になるところではある。

西洋の医術や物理、文学をただで教える手はない。
技術伝授と同時に、西洋文明の担い手として日本の若者を育成しようとした可能性は高いだろう。

種痘の医療技術は西洋医学である。

どうやら村田清風には長崎の空気が漂っているような気がしてきた。
毛利藩主とともに長州藩風を変え、とうとう吉田松陰なる人物を生ましめた人は村田清風その人であろうという気がしてきた。

鎮守になる覚悟~長州(71) [萩の吉田松陰]

SH3B0251.jpgSH3B0251高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品(再掲)

高杉晋作の自宅の庭にあった鎮守堂の意味がわかった。
それは、菅原道真信仰であった。

「高杉晋作の天神信仰」という書籍の紹介記事を抜粋する。
それには、幕末の長州藩の人々の精神的支柱は「菅原道真」だったとある。

『『高杉晋作の天神信仰』
著者:一坂太郎
発行所:防府天満宮
発行日:2008年12月
定価:1000円+税
A5判  95頁

■目次・内容
第一章 高杉晋作は天神信者
都府楼の瓦硯  獄中で道真をしのぶ  相撲で藩の命運を決める  鎮守になる覚悟
鎮守になった晋作  天神が結ぶ道  「菅原大神」の旗  余話

第二章 天満宮と奇兵隊
奇兵隊の三田尻転陣  三田尻の防御計画  祭りの警備で活躍  生野の変
酒垂山の招魂場計画  招魂場の誕生  石灯籠を天満宮に奉納  庶民の天神信仰
戦勝祈願の碑

第三章 天神信仰あれこれ
菅原道真と毛利氏  鈴木高鞆と吉田松陰  楠木正成を祀る  三条実美と松崎天満宮
伊藤甲之助の日記  国司信濃の天神信仰  萩狛犬のこと  野村望東の天神信仰
望東の戦勝祈願  暁天楼のこと
おわりに


死後は天満宮のごとくなることを望んだ高杉晋作。
松崎天満宮(防府天満宮)の裏山に招魂場を作ろうとした奇兵隊。
そして多くの人々が往来した萩往還は、起点と終点に天満宮がある「天神が結ぶ道」でもあった。

幕末長州藩の人々が「菅原道真」を「精神的支柱」としていたことを、本書で知ることができる。』(「一坂太郎『高杉晋作の天神信仰』防府天満宮(春風狂想曲幕末長州藩中心)」より)http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/c/6cca50f42c52fa29281034f3f965ca69/3

萩往還が起点と終点に天満宮を持つ「天神が結ぶ道」であることは知らなかった。

赤い大天狗~長州(70) [萩の吉田松陰]

SH3B0261.jpgSH3B0261天狗の寺
SH3B0262.jpgSH3B0262シュロの木(天狗の寺の向かい)
SH3B0263.jpgSH3B0263見どころ(大天狗面、高杉晋作を勇気づけた)

「天狗の寺」とは、円政寺である。先の金比羅社社殿もその境内にある。
門前の看板に貼り紙がある。

『見どころ
国内最大級銅鏡(平成18年オークションで買い戻した)
大天狗面(高杉晋作を勇気づけた)
金比羅者(文化財)十二支の彫刻をめぐらした総ケヤ木の建物

唐獅子と牡丹の彫刻
大天狗面の前とこま犬の台座にこの彫刻を施してある

日本一の石灯篭(文化財)
昇り竜と下り竜の彫刻が施された安政5年の作』(抜粋終わり)

円政寺境内の金毘羅社の拝殿前に大きく長い鼻を持つ赤い天狗の面があるという。
高杉晋作が子供ころ、親にこの面を見せられて、物に恐れないように教育されたそうである。

同じ看板にもうひとつ案内書きが貼ってあった。

『おいでませ 萩城下町へ
この萩城下町絵図は円政寺のオリジナルです。
円政寺の拝観料200円を払うとこの地図がもらえます。

萩観光のおみやげにこの城下町観光にご利用ください。
注意)観光業者の皆様、この絵図コピー許可していません。』(抜粋終わり)

ちゃんと絵図の著作権も主張しているので、商売上手なお寺さんである。
私はこの寺には寄らなかったが、本当は寄ってあの絵図をもらい、かつ赤い大天狗を見ておくべきだった。


二孝子祈願の金比羅社~長州(69) [萩の吉田松陰]

SH3B0257.jpgSH3B0257菊屋横丁(晋作宅前の小道)
SH3B0258.jpgSH3B0258高杉伊藤両公幼年勉学の所、二孝子祈願之金比羅社
SH3B0260.jpgSH3B0260松の木の向こうが金比羅社社殿か

ここは萩市の南大字南古萩町6の円政寺の門前である。
石柱に「高杉伊藤両公幼年勉学の所」と「二孝子祈願之金比羅社」と2列に漢字が刻まれている。

『円政寺内金比羅社社殿

金比羅社の建立年は不詳であるが、入口に金比羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享2年(1745)と彫られている点や天保年間(1830~43)に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。

本殿は木造切妻造檜皮葺で桁行1.73m、梁間1.2m、主な用材はケヤキ、柱は丸柱である。

釣屋は桁行5.41m、梁間5.1mの桟瓦葺で、内部は畳敷きである。

拝殿は一重裳階付、入母屋造本瓦葺、前面庇は檜皮葺、用材はケヤキ、柱は丸柱で、唐破風の桁行4.0m、梁間6.1mの本県独特の楼造風である。

このように社殿が地方色の濃い古い建物であることや神仏習合の形態が今でも見られる点で貴重な遺構である。

石鳥居は花崗岩製で高さ2.8m、様式は明神鳥居で笠木・島木に反りがあり、柱には転びがあり、柱頭部には台輪がついている。
建立年代は延享2年(1745)である。

山門は桁行2.42m、梁間1.34mの棟門形式で本瓦葺、両袖に1.35mの潜門がついている。
建築年代は不明である。

石灯籠は玄武岩製で高さ4.3m、さらに77cmの4段の台座上に立ち、県下最大のものである。
竿の部分の竜の高彫はすばらしく、高さ1.14m、直径52cmである。

製作年代安政5年(1858)で萩の石工五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同制作であり、付近の人たちが寄進したものである。   萩 市』(抜粋終わり)

高杉晋作と伊藤博文(利輔)が幼い頃に勉学をした所がこの寺内にある神社だそうだ。

「幕末歴史探訪 高杉晋作 円政寺」というサイトに拝殿や灯篭の写真が紹介されていた。
http://webkohbo.com/info3/takasugi/enseiji.html

灯篭には日月の彫りこみはなかった。

「二孝子祈願之金比羅社」と門前の石柱に書いてある。
金比羅社は四国の海の守り神で有名であるが、二孝子(こうし)とは何を意味するのだろうか。

「忠臣を孝子の門に求む」という言葉がある。

『三省堂 大辞林

忠臣を孝子(こうし)の門に求む
〔後漢書(韋彪伝)「求二忠臣一必於二孝子之門一」による〕

親に孝養を尽くしている者は必ず君主にも忠であるから、忠臣を求めるならば孝子の家に求めるのがよい。』
(「忠臣を孝子の門に求むとは?」(Weblio 辞書)より)
http://www.weblio.jp/content/

親孝行の子供のことを孝子というのであった。
高杉晋作と伊藤博文が共に孝子だった、あるいは孝子になるように幼児教育を受けたという意味に取れる。

奇しくもこれまで城下町を散歩して私が考えた推理も、晋作は師の松陰の決起命令に従わない「コンサバ(保守的)な親孝行息子」であったというものである。

この神社に祈願されている二人の孝子とは、一体どういう親孝行者だったのだろうか。
別の記事から抜粋する。

『十代萩藩主毛利斉熙のころ、萩城下郊外の椿東分に長七という六尺(かごかき人足)が住んでおり、その子供に権蔵・利吉という兄弟がいた。

文化十二年(一八一五)、母は末の妹を生んでから病床に臥すようになった。
そこで兄弟二人は、新堀の金毘羅社(現在の円政寺境内)まで三十町(約三、三キロメートル)道程を、病気平癒の祈願のため毎日通うことになった。

しかし、その満願の日(十二月十一日)二人は折からの風雪をついて参拝したが、帰途松本川の川岸で倒れてしまった。

翌文化十三年(一八一六)、明倫館学頭山県太華は藩主斉熙の命を受け、「紀二孝子事」(右側の石碑)という文をつくって、香川津の医徳寺境内に孝子の石碑を建立した。

大正十三年(一九一四)、椿東青年会は二孝子の百年忌を営むに際して、この石碑が辺ぴなところにあり人目に触れないので、これを新川の県道北側に移建して、その傍らに「移孝子碑記」(中央の石碑)を建立した。

昭和十三年(一九三八)、二孝子が絶命した場所の松本川東岸に、「香川津二孝子絶命之処」(左側の石碑)という石碑が建立された。

その後、昭和三十九年(一九六四)には、県道が付け替えられたために再び人目につかなくなった「紀二孝子事」碑と「移孝子碑記」碑の二つは、「香川津二孝子絶命之処」碑の北側に並べて移建され、現在に至っている。』(「香川津二孝子絶命の地」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/76b301a6f91d1f1b087ef8d784d14d2e

素直に読めば、香川津(かがわつ)という海に近い港地区(津)で死んだ2人の孝子(こうし)となろう。

母親思いの駕籠かき人足の子供で権蔵・利吉という兄弟を二孝子という。

この金毘羅社(現在の円政寺境内)へ母の病気平癒の祈願のために毎日通う日々を送ったが、最後の満願の日があいにくの大雪。
その中で二人とも行き倒れして亡くなったという。

現地案内板には、『当時、この寺の恵運住職と伊藤博文公の母親(林琴子)が従兄妹に当り伊藤博文(幼名:林利輔)はこの寺に一年半預けられた。』と書いてある。

伊藤博文は親戚の差配でこの寺へ預けられている。
晋作は誰の思惑で預けられたのか、それは現時点ではまだわからない。

伊藤も高杉も「孝子」となるべくこの金比羅社で教育を授けられてきたはずだ。

「孝子」になれば、それは中国の教えによれば同時に忠臣になるはずだからだ。

誰に対して忠臣であれというのだろうか。

常識で言えば「萩藩主毛利氏」に対して忠義を尽くせとなろう。
その毛利氏は、関が原敗戦以降、家康によって幕府の徳川将軍家に忠義を尽くすことを長い間求められて来た。

しかし、吉田松陰によれば、幕府は倒し、一天子(=天皇一人)に対する忠義の完成となる。

佐久間象山などから米国事情や欧米の政治制度を学ぶ過程で、松陰は大統領制度に関心を向けているようだ。

一国民が国を治める大統領になれる日本を松陰が夢見始めていたとすれば、松陰が尽くすべき忠義は国民一人一人に対してとなろう。

そのときには、松陰の聾唖の実弟敏三郎も、ほかの日本人と同じように権利と義務を負う平等な社会が到来するはずだった。

「一天子(=天皇一人)に対する忠義の完成」を忠臣に求める勢力から見れば、大統領制度に目覚めた革命家松陰像は、きわめて危険な人物へと変化していったことであろう。

隣家にシュロの木~長州(68) [萩の吉田松陰]

SH3B0252.jpgSH3B0252晋作の庭の樹木
SH3B0253.jpgSH3B0253東行先生誕生地の碑
SH3B0254.jpgSH3B0254松はあるがシュロや楓はない
SH3B0255.jpgSH3B0255隣家にはシュロの木があった

高杉晋作宅の庭を見回している。
立派な樹木がある。

松の木もあるが、楓やシュロは見当たらない。
私は晋作の家でも松陰生誕地と同じようにシュロの木を見出すだろうと期待していた。

このうちは、玄関の石柱にも書いてあったように「高杉春樹旧宅」であって、晋作自身の自宅ではない。
だからシュロの木や楓の木を植えるという信仰上の行為をし辛かったのではないだろうか。
「高杉春樹」とは晋作の父、家禄二百石の萩藩士高杉小忠太の号である。

晋作永眠地である東行庵は、晋作の遺言に基づいて楓の葉に囲まれた紅葉谷の傍にある。

漆喰塀の向こうには背の高いシュロの木が見えた。
晋作を松本村の塾へいかせたのは、ひょっとしたらシュロの木がある隣家の人の発案かも知れない。


日月信仰~長州(67) [萩の吉田松陰]

SH3B0247.jpgSH3B0247日月の灯篭
SH3B0248.jpg石碑「勲業不朽」
SH3B0251.jpgSH3B0251高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品

今、私は高杉晋作宅の庭に立っている。

獄中の松陰は、晋作からの「死所を尋ねる手紙」に対しこう答えた。

『死は好むべきにも非ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず。
道尽き心安(やすん)ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

晋作の家の庭に、「勲業不朽」の石碑があった。
晋作はおそらく「死して不朽の見込み」を得たかったのであろう。

しかし、実際の晋作の人生は「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」という恩師の暖かい言葉に甘えていたように私には見える。

「勲業不朽」の4文字は、その逆説のように見える。
つまり、晋作は戦死せずに病死ししてしまったが、その業績は松陰の言葉にある「不朽」に等しいと主張しているようである。

しかし、師の松陰が、座敷で病死することなどあり得ない。
晋作は生涯松陰の後について死ねなかった自分に負い目を感じていたのであろう。

湯田温泉玄関の楓の幹に晋作が「盡国家之秋在焉」(国家のために尽す時がきた)と刻んだのは、八月十八日の政変の直後だと言われている。

八月十八日の政変を受けてはじめて、「生きて大業の見込み」を得て生きようとしたのではないだろうか。

なぜならば、八月十八日の政変は七公卿と長州藩に汚名を着せる出来事である。
長州人はすべて倒幕を主張するようになるはずだ。

後の大政奉還は、この八月十八日の政変の仕返し行為である。

つまり、長州の佐幕派である俗論党が無力化する日が、晋作が功山寺で決起した日なのである。

やはり晋作は「生きて大業の見込み」を得たから、ようやく重い腰を上げて奇兵隊を決起させたのである。

なぜならば大組士200石の高杉家跡継ぎである嫡男晋作は、無謀な行動をしても死ぬ訳にはいかなかった。

『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。』という態度は、家や親のことを考えれば晋作にはできなかったのだろう。

そのことを松陰は理解していた。

松陰がいつまでたっても立ち上がらない弟子たち向けて、決起を促したことはある。
しかし、晋作の慎重さを直接非難したことはなかったようである。

「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」という晋作へ渡した言葉は、松陰の過激さを思えば松陰らしくない表現である。

晋作だけには、生き抜くという道をやさしく容認する別人のような松陰がいる。

庭に『高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品』と表される石の祠(ほこら)があり、石の観音開きの扉は太陽と月の形にくりぬかれている。

この国のかつての支配階級の人々は知っていたことだが、主権者であるはずの国民のほとんどが知らない「信仰」がある。

それは、日月神示(ひつきしんじ)である。

神社や寺の境内に置いてある燈篭の明かりを入れる場所に太陽と月のマークの切り欠きがある。
国民は神社に詣でるときに、無意識のうちにこの日月マークのある灯篭の間を通って本堂にお参りしていることになる。

かつて拙著街道ブログで「灯篭の日月マーク」のことを書いたことがある。
それを以下に再掲する。

『熊野神社の灯篭~奥州街道(4-029)
2010/4/17(土)
TS392707見事な日月の石灯篭
TS392709月マークは空いていない。羽のようなXマーク
TS392710民家のシュロ

(宮城県 黒川郡富谷町の)富谷の熊野神社境内に立派な灯篭がある。
一つは見事な石の灯篭である。
自然石を活用している。
極太のマツタケを立てたような格好に見える。

東京・芝の増上寺(徳川家康の菩提寺)にもこれと似たような灯篭があった。

もう一つの灯篭はよくある形であるが、柱部にはエンタシスの膨らみはない。
柱の真ん中に2本の環が刻まれていて、それが竹の節に見える。
月マークが上の写真には写っているが、穴は開いていない。

写真には写っていないが、反対側の日のマークは穴が開いていた。

日月信仰のうち、日は認めるが月は認めないというサインにも見えた。

『太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。

古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテンの一神崇拝を行った。

太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーやホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘリオス)がある。

メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。
南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。

太陽の消失
「太陽の消失」は、世界の太陽神話共通のテーマとなっている。
夜になると太陽が姿を消すこと(エジプト神話)、冬になると日照時間が短くなること、日食(日本・北欧神話)などといった、太陽にまつわる自然現象を説明するのに一役買っている。


エジプト神話では、毎晩ラーは冥界ドゥアトを通り抜けていた。そこでアポピスは、ラーと彼の太陽の舟が毎朝東に現れるようにした。

日本神話では、スサノオの横暴に怒った天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に篭ってしまい、世界が暗闇になってしまう。

北欧神話では魔狼フェンリルの眷属であるスコルが太陽に、ハティが月に追いつき一時食らいつく事で日食・月食となる。
最終的にラグナロクにおいてはどちらも完全に飲まれる事になる。

中国の神話
他の多くの文化と異なり、中国では太陽や月を神格化して崇拝することはない。
その最もな理由としては、月を陰、太陽を陽とみなす、中国の文化における道教と易経の強い影響力にあると思われる。
詳しくは陰陽思想を参照されたい。

中国神話によると、初め10の太陽が天にあった。
世界が非常に熱かったので、大地には何も生えなかった。
そこで、后羿(こうげい)という弓の達人が9つの太陽を射落とし、現在に至るという。別の伝承では、日蝕は天の狼が太陽を食べることで引き起こされるとされ、日蝕の間、鍋や釜を叩いてこの「狼」を追い払う習慣が中国にあった。』(太陽神(Wikipedia)より)

灯篭の日月マークは、さまざま日月に関する神話の影響を受けているものだろう。


(奥州)街道に戻ると、「アカメ」の垣根の向こうの民家の庭に高いシュロの木があった。

ユダヤ人モーセがこの(ナツメヤシの、和訳ではシュロの)枝で神を祝えと定めたのは紀元前13世紀のことだった。(旧約聖書)

日月は、この国では第2次世界大戦の終戦をも決めてくれたようだ。

『近衛は第34、38、39代と3代にわたって内閣総理大臣をつとめた。
近衛は敗戦後にGHQよりA級戦犯者のひとりとして指名されるが、その出頭命令日前日に服毒により自ら命を絶った。

第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史の事を聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた。

扶乩とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人一組で行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一等、十数名であった。

その場において審神者(サ二ワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中の為、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。

ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。

(この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説も非常に有力である)

この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。このままでは日本は滅びるだけだ。そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺う事を天明に促し、かなり殺気だった雰囲気に包まれたと言われている。

しかし、それは天明の賢断によって無事に回避されたという。

その判断とは「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語った事と、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせた事であった。

神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかった筈だが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。

神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていた為に終戦時に自殺を思いとどまった者も多く居たという。』(日月神示(Wikipedia)より)

これがつい半世紀前の日本の政治だったのである。
高杉晋作の時代からそれほど年月は経過してはいない。

近衛家は五摂家の一つであった。

つまり藤原不比等の直系子孫である。
藤原氏の祖は中臣鎌足であった。

『(中臣鎌足の)出生地について、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。

早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。
隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。

『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。

密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。
初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。
また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。

この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。
ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。

647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。

649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。

669年、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。
中略。

死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。

『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。
この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。

墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。』(藤原鎌足(Wikipedia)より)

200年頃の卑弥呼の居住地さえ魏誌倭人伝に書かれているのに、850年頃の中臣鎌足の墓処は定かではないという。

その理由は、中臣鎌足が帰化人だったからではないかと思われる。

また、天皇を含め、倭人はついこの間、つまり明治以前までは「姓」を持たなかった。』(拙著ブログより抜粋終わり)

帰化人は外交上の必要から姓を持っていたであろうということを暗示している。
天皇の日本人たちは古代から姓を持たなかった。
世界の中で古来から姓を持たない民族がいたら、日本人のルーツである可能性があろう。

高杉晋作宅の庭にあるこの灯篭のマークも、先に述べた日月神示(ひつきしんじ)と関係があるのだろう。

西行の祖先は藤原鎌足であり、西行は裕福な武士の家系に生まれている。
高杉晋作の家も、帰化人かも知れない藤原鎌足の後裔だと言いたいのだろうか。

日月信仰~長州(67) [萩の吉田松陰]

SH3B0247.jpgSH3B0247日月の灯篭
SH3B0248.jpgSH3B0248石碑「勲業不朽」
SH3B0251.jpgSH3B0251高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品

今、私は高杉晋作の自宅の庭に立っている。

今、私は高杉晋作の自宅の庭に立っている。

獄中の松陰は晋作の死所を尋ねる手紙に対しこう答えた。

『死は好むべきにも非ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず。
道尽き心安(やすん)ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

晋作の家の庭に、「勲業不朽」の石碑があった。
晋作も最後は「死して不朽の見込み」を得たのであろう。

『高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品』と表現される石の祠があり、扉には太陽と月の印の形にくりぬかれている。

この国の支配階級の一部の人々は知っていて、主権者である国民がほとんど知らない信仰がある。
日月神示(ひつきしんじ)である。

神社や寺の境内に置いてある燈篭を見ると、明かりを入れる場所に太陽と月のマークの切り欠きがある。
国民は無意識のうちに神社でこの日月マークにお参りしていることになっている。

かつて拙著街道ブログで「灯篭の日月マーク」のことを書いたことがある。
それを再掲する。

『熊野神社の灯篭~奥州街道(4-029)
2010/4/17(土)
TS392707見事な日月の石灯篭
TS392709月マークは空いていない。羽のようなXマーク
TS392710民家のシュロ

(宮城県 黒川郡富谷町の)富谷の熊野神社境内に立派な灯篭がある。
一つは見事な石の灯篭である。
自然石を活用している。

東京・芝の増上寺(徳川家康の菩提寺)にも似たような灯篭があった。

もう一つはよくある形であるが、柱部にはエンタシスの膨らみはないようだ。
柱の真ん中に2本の環が刻まれていて、竹の節に見える。
月マークが写真に写っているが、穴は開いていない。

写真には写っていないが、反対側の日のマークは穴が開いていた。

日月信仰のうち、日は認めるが月は認めないというサインにも見えた。

『太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。

古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテンの一神崇拝を行った。
太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーやホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘリオス)がある。

メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。
南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。

太陽の消失
「太陽の消失」は、世界の太陽神話共通のテーマとなっている。
夜になると太陽が姿を消すこと(エジプト神話)、冬になると日照時間が短くなること、日食(日本・北欧神話)などといった、太陽にまつわる自然現象を説明するのに一役買っている。


エジプト神話では、毎晩ラーは冥界ドゥアトを通り抜けていた。そこでアポピスは、ラーと彼の太陽の舟が毎朝東に現れるようにした。

日本神話では、スサノオの横暴に怒った天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に篭ってしまい、世界が暗闇になってしまう。

北欧神話では魔狼フェンリルの眷属であるスコルが太陽に、ハティが月に追いつき一時食らいつく事で日食・月食となる。
最終的にラグナロクにおいてはどちらも完全に飲まれる事になる。

中国の神話
他の多くの文化と異なり、中国では太陽や月を神格化して崇拝することはない。
その最もな理由としては、月を陰、太陽を陽とみなす、中国の文化における道教と易経の強い影響力にあると思われる。
詳しくは陰陽思想を参照されたい。

中国神話によると、初め10の太陽が天にあった。
世界が非常に熱かったので、大地には何も生えなかった。
そこで、后羿(こうげい)という弓の達人が9つの太陽を射落とし、現在に至るという。別の伝承では、日蝕は天の狼が太陽を食べることで引き起こされるとされ、日蝕の間、鍋や釜を叩いてこの「狼」を追い払う習慣が中国にあった。』(太陽神(Wikipedia)より)

灯篭の日月マークは、さまざま日月に関する神話の影響を受けているものだろう。


街道に戻ると、「アカメ」の垣根の向こうの民家の庭に高いシュロの木があった。

ユダヤ人モーセがこの(ナツメヤシの、和訳ではシュロの)枝で神を祝えと定めたのは紀元前13世紀のことだった。(旧約聖書)

日月が第2次世界大戦の終戦を決めてくれたようだ。

『近衛は第34、38、39代と3代にわたって内閣総理大臣をつとめた。
近衛は敗戦後にGHQよりA級戦犯者のひとりとして指名されるが、その出頭命令日前日に服毒により自ら命を絶った。

第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史の事を聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた。

扶乩とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人一組で行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一等、十数名であった。その場において審神者(サ二ワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中の為、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。

ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。

(この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説も非常に有力である)

この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。

このままでは日本は滅びるだけだ。

そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺う事を天明に促し、かなり殺気だった雰囲気に包まれたと言われている。

しかし、それは天明の賢断によって無事に回避されたという。

その判断とは「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語った事と、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせた事であった。

神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかった筈だが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。

神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていた為に終戦時に自殺を思いとどまった者も多く居たという。』(日月神示(Wikipedia)より)

これがつい半世紀前の日本の政治だったのである。
高杉晋作の時代からそう経過してはいない。

近衛家は五摂家の一つであった。

つまり藤原不比等の直系子孫である。
藤原氏の祖は中臣鎌足であった。

『(中臣鎌足の)出生地について、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。

早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。
隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。

『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。

密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。
初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。
また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。

この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。
ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。

647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。

649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。

669年、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。
中略。

死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。

『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。
この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。

墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。』(藤原鎌足(Wikipedia)より)

卑弥呼の居住地さえ魏誌倭人伝に書かれているのに、中臣鎌足の墓処は定かではないという。
その理由は、中臣鎌足が帰化人だったからではないかと思われる。
また、天皇を含め、倭人はついこの間、つまり明治以前までは「姓」を持たなかった。』(拙著ブログより抜粋終わり)

高杉晋作宅の庭にあるこの灯篭のマークも、日月神示(ひつきしんじ)と関係があるのだろう。

西行の祖先は藤原鎌足であり、西行は裕福な武士の家系に生まれている。
高杉晋作の祖先も、藤原鎌足だと言いたいのだろうか。

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