紫福(しぶき)地区の三位一体像~長州(43) [萩の吉田松陰]

SH3B0136.jpgSH3B01356畑の先は杉林
SH3B0137.jpgSH3B0137小川とシュロと石造
SH3B0138.jpgSH3B0138三位一体像
mihasira.jpg葛飾北斎画:『北斎漫画』『三柱鳥居』(三柱鳥居(Wikipedia)より引用)

紫福村は至福の連想から「しふく村」と私は読んでいたが、、読みが間違っていた。

『福井地区・紫福地区(旧福栄村)
中心となる福井地区には県道山口福栄須佐線と県道萩篠生線が、紫福(しぶき)地区には県道山口福栄須佐線が通っている。

山間の盆地に開けた土地であり、夏季は比較的暑く、冬季は寒冷である。
萩市でも屈指の米の生産地である。
また、フライドチキン型のチーズケーキも地区内にある道の駅ハピネスふくえで売っている。』(萩市(Wikipedia)より)

紫福村は「しぶき村」と読むそうだ。
おそらく至福(しふく)と音が重なることであらぬ疑いをかけられたくなかったからであろう。
移住した大内家家臣の信者たちの本心は、きっと「至福(しふく)」を願って名づけたことだろう。

民家の庭先を抜けると、野菜を植えている畑があり、そのあぜ道をさらに奥へと向かう。
やがて眼前が緑一色になり、目の前に鬱蒼とした杉林と雑草が現れてきた。
その杉林の手前の麓に、小さな2体の石像が地蔵さんのようにポツンと立っている。

緑の背景に沈んでしまって見えなかったが、その石像はシュロの木の根元にあった。
シュロの信仰と石像は一体であることが直感できる。

旧約聖書には、神をシュロの枝で祝えと書いてある。
新約聖書のキリスト教でも、イエスの復活を「枝の主日」と称して、シュロの木の枝を捧げて祝う。

『三位一体像
室町時代、大内氏滅亡のあと戦乱の場となった山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてきたという。

さらに、江戸時代になると毛利の切支丹禁断政策により、信者はひっそりと、山里に隠れすんだといわれてます。

この路傍にある二基の苔むした墓碑の一基は三面一体となった像です。

合掌像や墓石の小窓の形に使われている三角形はキリスト教の奥義である三位一体をはのめかす何らかの象徴でしょう。』
(「隠れキリシタン墓標群(萩市観光ポータルサイト)」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10353

どちらの石像も三角形が刻まれている。
私には合掌したときの腕の形に見えるが、三角形だと言われれば確かにそうも見える。

この萩市観光課のサイトは、その「三角形」が『キリスト教の奥義である三位一体をほのめかす何らかの象徴である。』と解説している。

まじめな論文に「三位一体論と弁証法 : ヘーゲルの「神的三角形」について」というのがあった。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007188265
著者は、流通経済大学経済学部の青木茂氏である。
収録先は流通經濟大學論集 28(2), A1-A18, 1993-11である。

ニカイア会議の三位一体論などを論じており、本格的な論文であるが、ここでは詳細は省き別の平易なWikipedia記事を抜粋することにしよう。

平易な解説文と書いてしまって後悔したが、Wikipedia記事ですら相当長く難解である。
古くはヒンドゥー教の概念にも「三神一体」があったそうだから、話がややこしくなる。

『この項目では、キリスト教の概念について説明しています。

正教会の訳語については「至聖三者」をご覧ください。
英語からの片仮名転写については「トリニティ」をご覧ください。
ヒンドゥー教の概念については「三神一体」をご覧ください。

三位一体(さんみいったい)とは、キリスト教の語で父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。
キリスト教が受け入れる中心的教義・教理である。

ユニテリアンなど三位一体を認めない宗派もあるが、三位一体を信じるトリニテリアンの立場からはキリスト教でない異端と看做される。

この語は、キリスト教神学を離れて、3つに見えているものが本質的には同じものであること。
あるいは、三者が心を合わせること。
3つのものを一つに併せることを指して用いられる場合もある。

概要
三位一体(さんみいったい、さんいいったい)は、正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントといった、キリスト教における中心的教義の1つであり、正統教義のひとつである。

4世紀に公会議において明文化された。
また、この教説における意味での神の性格を三一性という。

ギリシャ語で Αγία Τριάδα(「聖なる三」の意)、ラテン語で Trinitas (「三にして一」の意)という。

正教会の一員である日本ハリストス正教会では至聖三者(しせいさんしゃ)と訳される。

教義・教理
「父なる神」と「ロゴス (λόγος) である子なるイエス・キリスト」と「聖霊」の3つは、皆尊さが等しく、神が固有の三つの位格(自立存在: 希 υπόστασις (hypostasis), 羅 persona)でありながら、実体(希 ουσία (ousia), 羅 substantia)は同一であるという意味である。

聖霊について、正教会に属する日本ハリストス正教会では「聖霊」ではなく、「聖神(せいしん)」を訳語として採用している。

これら3つの位格はしばしば簡潔に父と子と聖霊(聖神)と言い表される。

正教会では神における三つの自立存在 (υπόστασις) を強調するため、「聖三者(せいさんしゃ)」「至聖三者(しせいさんしゃ)」(いずれも日本ハリストス正教会の訳語。ギリシャ語: Ἁγίας Τριάς: hagias trias. )という。「父と子と聖神、一体の聖三者をおがみて」(主日徹夜祷早課)など、祝文(祈祷文)の随所に織り込められている。

「三位一体」という語は教父のテルトゥリアヌスによる造語である。

三位一体の根拠にあげられる一つが『ヨハネによる福音書』であり、そこには、神である父が神であることば(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「助け主」なる聖霊を遣わす(ヨハ1:1, 14, 14:12, 16-17、26)という構図である。

アウグスティヌスは三位格の関係を「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えた(『三位一体論』)。

三者はそれぞれ独立の相をなしつつ、一体として働き、本質において同一である。
これは西方神学における三位一体理解の基礎となる。

また西方では「力」である父、「愛」である子、「善」である聖霊という理解も見られる。

対して正教会では、ニュッサのグレゴリオスなど、三位格の独立性・自立性を主張する論が多くみられる。
三位はそれぞれ自立しながら、その完全性ゆえに互いに優劣差別をもたない。
ゆえに他を排することなく、その愛の交わりは完全であるとする。

抽象的な一致への想念を巡らす以上に上記の如く、永く伝えられてきた祝文(祈祷文)の随所で歌われ讃められ、愛を知る便りとなる。

エホバの証人など三位一体を否定するグループからは、三位一体の根拠は聖書にないと主張されるが、三位一体を信じるキリスト教の立場では三位一体の根拠が聖書におかれており、三位一体を否定するグループはキリスト教ではない異端と判断される。

聖書のみをかかげるプロテスタントにおいては宗教改革者ジャン・カルヴァンが三位一体を否定する者に対して、『キリスト教綱要』で三位一体の語を使う妥当性について弁護している。

歴史
第1回ニケーア公会議(ニケア公会議)
キリスト教が広がる過程で、教理解釈のさまざまな異論が生まれていった。

4世紀初め頃、アレイオスによって説かれた「御子は御父と同一の実体ではなく (έτεροούσιος) 神性を持たない」と考えるアリウス派が、当時は神学において首位を担っていたアレクサンドリア学派と激しく対立した。

教理の混乱に収拾がつかず社会問題にまで発展したため、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世は公会議を召集、325年第1回ニケーア公会議(ニケア公会議)において、アレクサンドリア教会の助祭アタナシウスらの論駁により、アリウス派側が異端として敗北した。

アタナシウスはさらに書簡などの中で、聖霊が御父と同一の実体 (同本質: όμοούσιος) とすることを説いた。

後、彼はアレクサンドリア教会の総主教(総大司教)に叙階され、三位一体の教理において第一人者となった。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 [編集]
4世紀後半から5世紀の初め頃には「聖霊は神性を持たない (Pneumatomachi)」とする考えが、ヘレスポントスに隣接している国々のマケドニア人の間で普及した。

そして、御父と御子と聖霊の実体は同本質ではなく類似 (ὁμοιούσιος) とする類似派、「御父と御子と聖霊は、一つの神の性質に過ぎず、御父みずから受肉(藉身)しキリストとなった」と考えるサベリウス派などが現れた。

これらは、381年の第1回コンスタンティノポリス公会議で異端として排斥された。

そしてこの公会議の際、ニカイア信条は拡張されニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択され、三位一体の教理はほぼ完成に達した。

このときも、アレクサンドリア学派の教父ら(特にカッパドキアの三教父が知られている)が活躍したとされる。

詳細は「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を参照

フィリオクェ問題
しかしながら、ラテン系の西方教会において、ニカイア・コンスタンティノポリス信条がラテン語に翻訳される際、ギリシャ語本文の聖霊に関する箇所において、「父から発出する」を意味する “έκ τού Πατρός έκπορευόμενον” を「父と子から発出する」の “ex Patre Filioque” と訳し、「子とともに」の Filioqueを付加した。

Filioqueとは、「子」を意味する名詞filiusに「ともに」を意味する接尾辞的接続詞queが附加されたものである。

ローマ司教会議はFilioqueを正文と決定したが、公会議を通さずに行われたこの変更に、ギリシャ系の東方教会は強く反対した。

これがいわゆるフィリオクェ問題 (Filioque) である。
フィリオクェ問題は、やがて東西合同で執り行われたフィレンツェ公会議で採り上げられ、一旦ギリシャ系の主教らは「父から子を通して」を承認したが、ロシア正教会は公会議に出席したキエフ主教を破門し、決議の承認を撤回した。

これによって東西教会の分裂はそのままにされることとなった。
ローマ教会ではトリエント公会議の第2回総会で、“Filioque” を加えたラテン語の信条が改めて承認された。

以下略。』(三位一体(Wikipedia)より)

最後の下りは問題となる。
イエス・キリストを神と一体の神の子とするか、神の言葉を受けたただの預言者とするか、大いに分かれていくことになろう。

4世紀後半頃、キリスト教は東西で三位一体の解釈で割れていったようだ。

ここ紫福村の三位一体像はどちらのキリスト教なのだろうか。

イエズス会戦士ザビエルが山口で布教したのだから、ローマカトリック教の教えとなろう。

浅草を散歩していて、私は三囲(みめぐり)神社で三位一体を体感したことがある。

写真にその「三柱鳥居」の絵を引用したが、これは江戸時代の葛飾北斎画である。

『三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせたものをいう。

正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木島神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。

木嶋神社の三柱鳥居

三囲神社の三柱鳥居
三囲神社(東京都墨田区向島)には、石造りの三柱鳥居があり、鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。
三井家の守護神として崇められていることもあり、鳥居には「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社にある」と書かれている。

岐阜県大和町の三柱鳥居

奈良県桜井市の三柱鳥居
以下略。』(三柱鳥居(Wikipedia) より)

三井家の「三井」とは三角形の鳥居の真ん中の井戸から来ているのか。
その原型は京都・太秦(うずまさ) 木島神社にあるそうだ。
『「太秦」という地名の由来には諸説ある。

渡来系の豪族秦氏(秦酒公)がヤマト政権に税を納める際、絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より「禹豆満佐=うずまさ」の姓を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。

秦氏の拠点であったことから、拠点という語義を「太い」という字で表し、「まさ」は秦氏の「秦」をもって表記し、「うずまさ」と呼ぶようになったという説。

古代ヘブライ語の「ウズ」(光)、「マサ」(賜物)が語源であるとする説。』
(太秦(Wikipedia)より)

その秦氏は渡来人(帰化人)であるが、どこから来たのだろうか。

『途中略。

佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえた。日ユ同祖論を参照のこと。』(秦氏(Wikipedia)より)

空海の本名は佐伯真魚(まを)である。
製鉄技術を保有する渡来人佐伯氏の末裔であろう。

その同じ佐伯姓の好郎氏の説に説得力を感じる。

もし、ユダヤ人説が正しいと仮定すれば、旧約聖書に記述されているというアマルガム法に似た灰吹法を日本人が有していたことも、シュロの木の信仰も、三位一体も納得がいくのである。

多くの日本史における謎が氷解していくような気がする。

そして私たち自身の遺伝子にも、その民族の血が濃く混ざっていることであろう。

東西キリスト教会がどう解釈しようと、三位一体の思想は日本の江戸期には神社の世界に定着していた。

神社での三位一体の教えが、三井家の祖先の話でもあるとすると、ザビエル来日以前のかなり大昔から日本にあった旧約聖書の教えとなろう。

大宮氷川神社、すなわち関東で一番最初に創られた神社は武蔵一ノ宮と呼ばれるが、創建は紀元前5世紀である。

ニケア公会議の800年以上も昔のことである。

民家の敷地へ無断侵入~長州(42) [萩の吉田松陰]

SH3B0133.jpgSH3B0133土塀の先に案内板と矢印
SH3B0134.jpgSH3B0134「三位一体像」の案内矢印
SH3B0135.jpgSH3B0135民家の間の庭先

崩れかけた土塀の遠く先に、案内板と矢印が見える。
「隠れキリシタンの墓標「三位一体像」」とかかれ、その上に大きな矢印マークがある。
その矢印の指す方向を見ると、そこは民家と民家の間の庭先だった。

民家の庭先を抜けて山の方へ歩いていくようになっている。

敷地の無断侵入にためらいつつも、自治体がここを通れと矢印で指していることを勇気に庭へ入っていった。

遠くで犬がほえ始めた。
私がその不審者である。

左手の家屋には窓がないから、右手の屋敷の蔵かもしれない。
だからと言って無断侵入の罪が軽くなるわけではない。

庭には軽自動車と軽トラックの2台があった。
その隙間を縫いながら、屋敷奥の畑へと向かう。
歩きながら胸がちょっとドキドキし始める。

住民の方に見つかって無断で入ったことを叱られやしないかという罪悪感と、隠れキリシタンの秘密の像が見られるかも知れないという期待感が、私の中に同時に沸き起こった。

キリシタンの里へ~長州(41) [萩の吉田松陰]

SH3B0129.jpgSH3B0129松陰神社のすぐ西側を通る道を北上し、阿武郡(あぶぐん)の山の中へ
SH3B0131.jpgSH3B0131この川の両側にキリシタン遺跡がある
SH3B0132.jpgSH3B0132川の左側(萩からくれば右側)奥にもう一本道路があり、そこは屋敷通りだった

玉木文之進旧宅、つまり最初の松下村塾を出て、私は自然に紫福村へ行こうと思った。
この坂を松陰生誕地へ向かって上っているときは、次は萩市内の晋作の家などを巡ろうと思っていた。

しかし、坂道を下って玉木旧宅まで降りてきたときは、金子の故郷紫福村へ行こうと思うようになっていた。

萩を追われた隠れキリシタンたちが、松陰神社の西にある道路から北へと向かったことに因縁を感じている。
まるで松陰神社から出発しているかのようである。

また北へ逃れる隠れキリシタン側から見れば、松陰神社は幕府や毛利藩に対する守りの砦になる。

道を間違って紫福村に迷い込んだある牧師の日記があった。

『<穢多>とキリシタンの里・・・
今日、仕事休みの妻と一緒に、雨の中、<高佐郷>に向かいました。しかし、<高佐郷>の中を走っているとき、雨と霧にけむった峠道や別れ道で方向を見失い、迷いに迷ったあげく、たどりついたのが、奥阿武宰判の<紫福村>・・・。

雨の中でもくっきり目立つように、キリシタンの遺跡をしめす案内板がたっています。

筆者、一度、この<キリシタンの里>である紫福村のキリシタンの歴史を調べてみたいと思ったのですが、紫福村のキリシタンの遺跡・・・、牧師である筆者の目からみますと、なにとなくこころもとないものがあります。

ほんとうにキリシタンの遺跡であるのかどうか・・・。
基督教の教理とあきらかに抵触する遺跡すらあります。

<マリア観音>ひとつをとっても、ほんとうに<マリア観音>であるのかどうか・・・。どちらかいいますと、仏教の<子安観音>の方ににかよっている・・・、ように筆者に見えます。

一説に、山口で迫害されたキリシタン600人が、どうのような方法で、山口往還の通り筋、高佐郷を素通りして、紫福村までたどりつき、紫福村の山奥にその身を隠すことができたというのか・・・? 

<旅人・強盗制道>という役務に誇りをもつ、高佐郷の<検問>をどのようにくぐり抜けることができたというのか・・・?

近世幕藩体制下において、キリシタン600人は、どのような歩みをしたというのか・・・? 近世初期において<キリシタン類族>に指定されても、近世後期には、すでに<キリシタン類族>からはずされ、一般の<百姓>に数えられていたことでしょう。

一度、ひまをみつけて、近世幕藩体制下の宗教警察である<穢多>・<宮番>の配置形態・・・、<キリシタンの里>といわれている紫福村とその他の奥阿武宰判のそれを比較検証して両者に相違があるのかどうか、確認してみたい・・・。

宗教警察である<穢多>・<宮番>は、紫福村においては、どのように機能していたのか・・・。

雨や霧でけむる峠、別れ道で道に迷い、偶然たどりついた<キリシタンの里>・・・、現代人のロマンだけが色濃く滲みでている<キリシタンの里>でした。』
(「穢多とキリシタンの里」より)
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2010/03/post-f75b.html

この牧師さんは、紫福村のキリシタン遺物に疑問を投げかけている。

萩市や阿武町が公認しているキリシタン村について、牧師さんがはっきりと疑問を呈していること自体に不思議な思いがわいてくる。

疑問を感じていても否定しないケースもあるだろうが、この方は「根拠があいまい」というニュアンスを正直にブログで述べていた。

江戸期のキリシタン禁令の厳しさを思えば、それとわかるはっきりとした遺物を信者たちが残せたものだろうか。

「根拠をあいまい」にすることで、彼らは信仰が発覚することを長い間防いで来たのではないだろうか。

空論は辞めて、ともかくも私自身の目で遺跡を見てみよう。

車は両側の緑の森を見ながら、くねくねと坂道を登っていく。
何度か道の分岐に迷うが、正解のコースを通っているようだ。

川が豊かな水をたたえている場所に、キリシタンの村はあった。
周囲は水田であり稲穂が青々と茂っていた。

道は川に沿って曲がりくねるが、一本奥にももうひとつの生活道路がある。
私は川沿いに車を駐車して、歩いて屋敷街の道へと入っていった。

旧約聖書と精錬技術~長州(40) [萩の吉田松陰]

SH3B0127.jpgSH3B0127玉木家を出てすぐ近くの屋敷にある棕櫚の木
SH3B0128.jpgSH3B0128百日紅(さるすべり)の木に咲く花

「環(たまき)」が鉄製品や製鉄技術にかかわりある言葉かどうか調べてみると、あった。

太目の刀剣の柄(え)の先端についている大きなドーナッツ状の鉄の環を「環」といいそれを持つ刀を「環頭大刀(かんとうたち)」と言う。

日本に現存するものは、「漢委奴国王の金印」の次に古い物である。

「環頭大刀(かんとうたち)」が東大寺山古墳で発掘されたというブログ記事があった。
それは若い天理大学OBの方の天理参考館特別展の報告記事だった。

『「中平銘鉄刀」金象嵌銘花形飾環頭大刀(東大寺山古墳出土・重要文化財)~(邪馬台国探訪その7)
タイトルが漢字ばっかりですね(^^;

鉄刀とか、東大寺とか書いてると、数ヶ月前の大発見(「東大寺で大発見!1250年不明の太刀が・・・」)を思い浮かべる人も多いと思いますが、それとは別です
中略。

本部の反対側が天理教庁。その先には天理高校があります。
教庁と同じ建物にあるのが「天理参考館」。
天理大学の附属博物館です。ここでの特別展を見ることが、今回の大きな目的でもありました

東大寺山古墳の出土品、東京から里帰り 天理参考館

卑弥呼の時代語る - 東大寺山古墳の遺物一堂に

かつて天理大学が発掘調査し発見した「中平」の年号が入った鉄刀が、里帰りして展示されています。(注意:この特別展はすでに終了しています)

ここからはちょっこし専門的な話になります。
母校と恩師のことですので、少しは詳しく書いておかないと・・・

この刀は、日本の考古学史上、極めて重要な意味を持っています。

何故なら、この「中平」という年号は中国の後漢の霊帝の年号(184~189年)であり、『魏志』の中の「倭人伝」に記された「倭国乱」が終結した時期であり、ちょうどその頃、卑弥呼が即位したと考えられているからです。

そして、年代の分かる資料としてはあの有名な「漢委奴国王の金印」の次に古い物です。

この刀が実際にいつ、どのような経路でもたらされたのか、そして何故、その年代から200年ほど経ってから副葬品として豪族の古墳に入れられたのかは諸説あり、まだはっきりとは結論は出されていません。

そして、大発見したのが我が母校・天理大学と附属参考館(博物館)のチームであり、中心となったのは我が恩師、金関恕(かなせき・ひろし)先生。
日本考古学の大家で、特に弥生時代研究の第一人者です

恕先生の父、金関丈夫先生は著名な人類学者、解剖学者で、山口県の土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人骨を分析し、それまでの縄文人骨とは顔立ちや体の大きさが異なることを明らかにし、現在定説となっている「弥生人渡来説」を最初に唱えました。

Amazonで父・丈夫先生の著作の解説を見ると、

「和漢洋にわたる象のように重い知識と,それに拮抗し得る鳥のように軽い精神をもちあわせていると言われ、しばしば南方熊楠に比せられる金関丈夫(1897-1983).人類学・解剖学・民族学・考古学・言語学などにわたる該博な知識を駆使し,鋭い着眼で東西の説話や伝承を自在に比較考証する」

「矢尻が刺さった女性の頭骨。彼女の死はいったい何を意味するのか。抜歯の習俗や勾玉等の装身具からどのような精神世界が探れるか。占い・入れ墨の風習の伝来はどうだったか。博覧強記の人類学者・金関丈夫が、発掘の成果を世界の民族例を参照し、古文献を駆使して綴った軽妙なエッセイ。古代世界への想像力を刺激する一冊」

このように書かれています。

また、先生の古い書物を「大林太良先生」が編集していることだけでも、その偉大さが分かると思います。

そう、金関丈夫先生はあの熊楠と並び証される偉大な学者であり、生まれたときからその「金関学」を学んだのが、息子さんであり僕の恩師である恕先生です

この刀、本来であれば発掘した天理大学が保管し分析するはずでした。

しかし、そのあまりの価値から文化庁が異例の速さで重要文化財に指定し、文化庁、そして東京の国立博物館の手に渡ってしまいましたそれが40年ぶりに天理大学に里帰り・・・OBとして行かなければ!

中は撮影禁止のため、カメラに収めることは出来ませんでしたが、実物を間近で食い入るように見てきました驚いたのはその金色の文字の鮮やかさ。はっきりと文字が読めるのも驚きですが、その輝きにびっくり

実際、この展示の前に東京文化財研究所が分析したところ、金の純度が99.9%以上でほぼ純金という驚くべき結果でした。その事からも、この鉄刀の価値の高さが伺えます。

これほどまでにすごい発見をした先生や先輩方は、自分達の手で調べたかっただろうなあ・・・』(「「中平銘鉄刀」金象嵌銘花形飾環頭大刀(東大寺山古墳出))より)」
http://playlog.jp/masashi-su/blog/2010-12-19

製造は刀の記銘年号から、紀元184~189年頃と推定されている。
キリストが死刑になって(聖書によれば)復活したときから、わずか189年後のことである。

金の純度が99.9%以上ということは、金精錬技術の性能の高さを表している。
たたら吹きの多々良氏、あるいはその祖先の製造したものだろうか。

この記事は2010/12/19付けであり、最近掲載されたものである。

40年前のこととは言え、国としては第一発見者の考古学的評価や価値を認め、彼らの調査分析方針を聞いて、尊重するべきであろう。

歴史は、こっそり密室で一部の人々の間で都合のよいように解釈するものではない。
公開しつつ、主権者である国民とともに歴史を考えていくようにして欲しいものだ。

剣は、古くは銅製だったが、起源前2~1世紀の弥生中期中頃に鉄製に替わっていった。

『日本で銅剣が作られ始めるのは弥生時代中期初頭のことで、朝鮮半島から銅剣が伝わった直後から日本で銅剣の製作は始まります。

当初、製作拠点は有明海沿岸から玄界灘沿岸にかけての地域に集中していて、福岡市内では、志賀島の勝馬で細形銅剣の鋳型が出土しています。

やがて、朝鮮半島の細形銅剣とは異なる独自の形態に発展し、銅剣の使い方が武器から祭器に変化するにつれて本来の銅剣とは全く異なる形へ変化します。

福岡市東区八田で出土したと伝えられる銅剣鋳型は中広形で、細形銅剣よりも長く幅広くなっています。
このように国内で生産が開始された銅剣ですが、大量生産は無理だったようで、ムラやクニの指導者達しか入手できない貴重なものでした。

したがって銅剣は実際に戦場で使うものではなく、身分や権力を表示するためのものになっていたとみられます。

一方、このように製作段階で形態が変化するだけではなく、使用することで形が変わっていくこともあります。

刃を何度も研いだために剣身が極端に細くなっていたり、柄を固定するために茎に目釘穴を開けたりした銅剣は、使用した人の独自の工夫の結果と言えそうです。

銅剣から鉄剣・鉄刀へ
銅剣をはじめとする青銅武器は弥生時代を象徴する青銅器ですが、弥生中期中頃からは鉄器も普及します。
中期後半以降、青銅器が祭器へ変化すると入れ替わるように鉄製の武器が出現します。

鉄剣・鉄刀は鉄製武器の中で最も早く導入され、鉄製の戈・矛・鏃とともに普及していきます。

鉄剣には柄をつけるための目釘穴が開けられたものもあり、細形銅剣と同じように柄をつけて使われたと考えられます。

鉄刀は柄の頭に輪がついた素環頭大刀(そかんとうた)や素環頭刀子(とうす)が弥生時代中期に中国(漢)から入ってきました。

素環頭大刀は漢では歩兵の武器として使用されていました。
この素環頭の刀は大きさに応じて使用目的が異なり、工具・書刀(しょとう)としての素環頭刀子と、武器としての素環頭大刀に大別できます。

これら弥生時代の素環頭刀は北部九州を中心に分布しています。

これらの鉄剣・鉄刀は青銅武器と同じく、多くが副葬品として出土します。
鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だったとみられます。

吉武樋渡62号甕棺墓から出土した素環頭刀子は小型の前漢鏡とセットになっていて、刀の流入の背後に中国との関係が伺えます。

その後の吉武樋渡の5号甕棺墓と1号木棺墓からも鉄剣が出土していて、継続的に鉄剣・鉄刀が流入していたことがわかります。』
(「銅剣の国産化(歴史展示室)」より)
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/341-350/342/342_02.htm

福岡の岸田遺跡では弥生時代中期の鉄戈が発掘されている。
大陸では既に紀元前2~1世紀に鉄の製造が行われていて、それが輸入されてきたものだろう。

『福岡市教育委員会は13日、同市早良区の岸田遺跡で出土した弥生時代中期(紀元前2~1世紀)の木棺墓と甕棺墓計5基から、銅剣や鉄製の戈など副葬品18点が見つかったと発表した。

 現場の北約3.5キロには、多くの副葬品が出土し「最古の王墓」といわれる吉武高木遺跡(同市西区)があり、担当者は「吉武高木遺跡を中心とする周辺の有力集落の一つと考えられる」としている。

 市教委によると、岸田遺跡で出土した副葬品は銅剣4本、銅矛2本のほか、鉄製の戈や青銅製の把頭飾(剣の柄の飾り)、勾玉など。甕棺墓など約50基が見つかった墓地群のうち、中心部寄りの5基に集中していた。2010.10.13』
(「福岡・岸田遺跡で弥生中期の銅剣や鉄戈18点出土}より)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132004003-n1.htm

ここに出てくる青銅製の把頭飾という剣の柄の飾りは、「環(たまき)」ではなかっただろうか。

製鉄製品で何よりも大事なものは、国家安泰に資する刀剣であったはずだ。

『鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だった。』

そういう墓には玉も一緒に埋葬されていた。
玉は福岡県の遺跡から多く出土している。

鉄刀と銅鏡と玉、日本人ならある神話を思い出さない人はいない。

『三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。』
(「三種の神器(Wikipedia)」より)

高知県高岡郡日高村に「環頭大刀」をご神体として祀る神社がある。

『国常立命を祀る。
神体の「金銅荘環頭大刀」は古墳時代後期の作とされ、昭和33年(1958年)に国宝に指定された。
他に、蓬莱鏡(銅鏡)や木造菩薩面など多くの文化財が残されている。』
(小村神社(Wikipedia)より)

「たたら製鉄法」を伝承する多々良氏は「環」を有する刀を製造できる。
その威厳や威力は神にも通じる。

「環」が神であり、領主にもなる。
朝鮮半島では環を取っ手に持つ刀を「環刀」という。

つまり「環」という刀である。
「環」という刀を製造し得る特殊な技能集団は、「環」氏ではなかっただろうか。

『『韓国刀』とは何か
古くから朝鮮半島では中国の影響を受けて両刃直剣のものや、「環刀」という直刀が用いられていた。

秀吉の朝鮮出兵で17世紀以降、日本刀の優秀さが朝鮮でも広く知られるようになると日本から日本刀を輸入し、基本的な構造はそのままで一部改良を加え倭刀と呼び使用した。

またこれにより日本刀の強い影響下にある刀剣が以後一時期の間多く作成されたが、古来からの中国式に近い剣も引き続き多く使われた。

現在の韓国で一部の人が『韓国刀』を名乗って製作した刀剣は韓国古来の直刀ではなく、この倭刀、もしくはその強い影響下に作成された刀剣であることが多々あり、日本人との摩擦を引き起こしている。

『韓国刀』問題
古代の朝鮮半島南部の弁韓(後の加羅(伽耶)、任那、安羅など)には古くから倭人が定住し、製鉄を営んでいた。

そのため高霊地方では日本式の土器などが多く出土する。
それらの倭人がもたらした製鉄技術は日本本土で伝承発展し、出雲国などで新たな画期的発展を迎え日本独自の踏鞴(たたら)製鉄を生み出した。

この製鉄技術を基に平安時代中期以降(10世紀ころ)刀身に反りのある初期の日本刀(太刀)の発明に至った。』(韓国刀(Wikipedia)より)

ルーツの話題になると、サッカーの日韓戦のごとくお互いの国が熱くなる。
これはやはり血が濃いのであろう。
寄ると触ると喧嘩する「兄弟」のようでもある。

朝鮮半島南部の弁韓に住む倭人は、海を越えて周防防府の港から山口へと入って大内氏を名乗った。

倭人はバイリンガル(日本語と朝鮮語)であって、今風に言えば二国籍を持っていただろう。
つまり、多々良氏朝鮮に住む倭人であり、周防の帰化人であった。
ここで朝鮮人か日本人かという日韓戦のごとき姦(かしま)しい議論に私は興味がない。

旧約聖書に記載されているアマルガム法に酷似した灰吹法を伝承してきた倭人とは、ヘブライ人の末裔である可能性が極めて高い。

なぜならば、そんな大事な先進技術を彼らは他民族へ伝承などさせるわけがないからだ。

大内氏自身が「私は百済の琳聖太子の後裔の多々良氏である」と主張しているのだから、私はそれを信じたいが、もっと付け加えれば「百済の琳聖太子はヘブライ人の末裔であった。」となる。

朝鮮か日本か、というような狭い視野の議論、ちょうど今の六カ国協議のような世界に目を奪われていると、世界規模での日本国支配の構図を見誤ることになろう。

150年ほど前の吉田松陰は、「四海(世界の大海)」を見て行動していた。
その思考スケールは、日韓戦、日朝戦などを大きく通り越してワールドカップレベルだったのである。

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