日月信仰~長州(67) [萩の吉田松陰]

SH3B0247.jpgSH3B0247日月の灯篭
SH3B0248.jpgSH3B0248石碑「勲業不朽」
SH3B0251.jpgSH3B0251高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品

今、私は高杉晋作の自宅の庭に立っている。

今、私は高杉晋作の自宅の庭に立っている。

獄中の松陰は晋作の死所を尋ねる手紙に対しこう答えた。

『死は好むべきにも非ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず。
道尽き心安(やすん)ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

晋作の家の庭に、「勲業不朽」の石碑があった。
晋作も最後は「死して不朽の見込み」を得たのであろう。

『高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品』と表現される石の祠があり、扉には太陽と月の印の形にくりぬかれている。

この国の支配階級の一部の人々は知っていて、主権者である国民がほとんど知らない信仰がある。
日月神示(ひつきしんじ)である。

神社や寺の境内に置いてある燈篭を見ると、明かりを入れる場所に太陽と月のマークの切り欠きがある。
国民は無意識のうちに神社でこの日月マークにお参りしていることになっている。

かつて拙著街道ブログで「灯篭の日月マーク」のことを書いたことがある。
それを再掲する。

『熊野神社の灯篭~奥州街道(4-029)
2010/4/17(土)
TS392707見事な日月の石灯篭
TS392709月マークは空いていない。羽のようなXマーク
TS392710民家のシュロ

(宮城県 黒川郡富谷町の)富谷の熊野神社境内に立派な灯篭がある。
一つは見事な石の灯篭である。
自然石を活用している。

東京・芝の増上寺(徳川家康の菩提寺)にも似たような灯篭があった。

もう一つはよくある形であるが、柱部にはエンタシスの膨らみはないようだ。
柱の真ん中に2本の環が刻まれていて、竹の節に見える。
月マークが写真に写っているが、穴は開いていない。

写真には写っていないが、反対側の日のマークは穴が開いていた。

日月信仰のうち、日は認めるが月は認めないというサインにも見えた。

『太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。

古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテンの一神崇拝を行った。
太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーやホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘリオス)がある。

メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。
南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。

太陽の消失
「太陽の消失」は、世界の太陽神話共通のテーマとなっている。
夜になると太陽が姿を消すこと(エジプト神話)、冬になると日照時間が短くなること、日食(日本・北欧神話)などといった、太陽にまつわる自然現象を説明するのに一役買っている。


エジプト神話では、毎晩ラーは冥界ドゥアトを通り抜けていた。そこでアポピスは、ラーと彼の太陽の舟が毎朝東に現れるようにした。

日本神話では、スサノオの横暴に怒った天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に篭ってしまい、世界が暗闇になってしまう。

北欧神話では魔狼フェンリルの眷属であるスコルが太陽に、ハティが月に追いつき一時食らいつく事で日食・月食となる。
最終的にラグナロクにおいてはどちらも完全に飲まれる事になる。

中国の神話
他の多くの文化と異なり、中国では太陽や月を神格化して崇拝することはない。
その最もな理由としては、月を陰、太陽を陽とみなす、中国の文化における道教と易経の強い影響力にあると思われる。
詳しくは陰陽思想を参照されたい。

中国神話によると、初め10の太陽が天にあった。
世界が非常に熱かったので、大地には何も生えなかった。
そこで、后羿(こうげい)という弓の達人が9つの太陽を射落とし、現在に至るという。別の伝承では、日蝕は天の狼が太陽を食べることで引き起こされるとされ、日蝕の間、鍋や釜を叩いてこの「狼」を追い払う習慣が中国にあった。』(太陽神(Wikipedia)より)

灯篭の日月マークは、さまざま日月に関する神話の影響を受けているものだろう。


街道に戻ると、「アカメ」の垣根の向こうの民家の庭に高いシュロの木があった。

ユダヤ人モーセがこの(ナツメヤシの、和訳ではシュロの)枝で神を祝えと定めたのは紀元前13世紀のことだった。(旧約聖書)

日月が第2次世界大戦の終戦を決めてくれたようだ。

『近衛は第34、38、39代と3代にわたって内閣総理大臣をつとめた。
近衛は敗戦後にGHQよりA級戦犯者のひとりとして指名されるが、その出頭命令日前日に服毒により自ら命を絶った。

第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史の事を聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた。

扶乩とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人一組で行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一等、十数名であった。その場において審神者(サ二ワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中の為、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。

ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。

(この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説も非常に有力である)

この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。

このままでは日本は滅びるだけだ。

そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺う事を天明に促し、かなり殺気だった雰囲気に包まれたと言われている。

しかし、それは天明の賢断によって無事に回避されたという。

その判断とは「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語った事と、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせた事であった。

神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかった筈だが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。

神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていた為に終戦時に自殺を思いとどまった者も多く居たという。』(日月神示(Wikipedia)より)

これがつい半世紀前の日本の政治だったのである。
高杉晋作の時代からそう経過してはいない。

近衛家は五摂家の一つであった。

つまり藤原不比等の直系子孫である。
藤原氏の祖は中臣鎌足であった。

『(中臣鎌足の)出生地について、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。

早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。
隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。

『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。

密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。
初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。
また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。

この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。
ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。

647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。

649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。

669年、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。
中略。

死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。

『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。
この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。

墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。』(藤原鎌足(Wikipedia)より)

卑弥呼の居住地さえ魏誌倭人伝に書かれているのに、中臣鎌足の墓処は定かではないという。
その理由は、中臣鎌足が帰化人だったからではないかと思われる。
また、天皇を含め、倭人はついこの間、つまり明治以前までは「姓」を持たなかった。』(拙著ブログより抜粋終わり)

高杉晋作宅の庭にあるこの灯篭のマークも、日月神示(ひつきしんじ)と関係があるのだろう。

西行の祖先は藤原鎌足であり、西行は裕福な武士の家系に生まれている。
高杉晋作の祖先も、藤原鎌足だと言いたいのだろうか。

東へ行く晋の字~長州(66) [萩の吉田松陰]

SH3B0246.jpgSH3B0246竹に墨書「人を慕いて東行く」
saigyou.jpg西行法師(菊池容斎画/江戸時代)(西行(Wikipedia)より)

玄関を上がって右手の座敷へ向かう途中の左手の柱に、半割りしてその上に墨で書いた歌が掛かっている。

高杉晋作の家の座敷で見たものである。
竹の墨書は「人を慕いて東行く」と書かれていた。

晋作の号は「東行(とうぎょう)」である。

そして高杉晋作の墓は曹洞宗の寺院で功山寺の末寺の東行庵(とうぎょうあん)(山口県下関市)にある。

「東行」は、それほどの晋作が思い入れをした号である。
「西行」と言えば、平清盛と同い年で友人であり、元北面の武士で、のちに侍を捨てて歌人となった僧西行(さいぎょう)を思い出す。

西行をひとつの人物モデルとして、それと対比してわが名を「東行」と付けたものである。
では、なぜ晋作は東へ行くのか?

同じ疑問を抱いている方は多いようである。

『西へ行く 人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ
吾去れば 人も去るかと思いきに 人びとそなき 人の世の中
の2つの歌の意味を教えて下さい。

あと、出来れば司馬さんが書いた小説で、高杉晋作のがあると聞いたんですが、本の名前を知っていたらそれも教えて下さい。

[ベストアンサーに選ばれた回答]

文久3年、いくら自説を説いても藩に同調するものが少なくて孤独だった頃に詠んだ歌です。

「西へ行く~」は藩の重臣や藩が「西へ行く人」で,自分は藩のことを大切に考えているために方向違いの「東」へ行くこの気持ちは神しか知らない

「吾去れば~」は京都進発を主張して受けいられず脱藩し、自分に同調してくれるくる人が多数いるかと思ったら、そんなことも無いのが世の中だ、
このような意味だと思います。

高杉晋作は天才にして孤高の人だったんですね。
司馬さんの本は「世に棲む日々」です。』
(「西へ行く 人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q146043079

『「西へ行く~」は藩の重臣や藩が「西へ行く人」』という表現はおそらく山口県萩市の地元の人の回答なのではないか。

萩を歩いてみればわかるが、萩城下町は城の東側にある。
城へ向かうには、先ほどわたってきた堀を越えて堀の内地区へ向かい更に西にあるお城へ登るのである。

萩城下で「西行」とは毛利氏を藩主とする萩城へ向かう集団を指している。

それに反して、晋作だけは孤独を感じつつ東へ向かったということである。
東には松下村塾があり、その北側の道を通って更に東へ山深く入れば、隠れキリシタンの里紫福村(しぶきむら)がある。
そこは大内義隆の遺児や遺臣たちでキリシタンだったものが萩から逃げて移り住んだ地区である。

大内義隆の遺児や遺臣たちは、山口市に今の保存されているザビエルの井戸の水でザビエルから洗礼を受けていたはずだ。

晋作が果たして紫福村を指して「東へ行く」と称したかどうか、それはまだわからない。

『西行(さいぎょう)、元永元年(1118年)~文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。

父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。
俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。
出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。』(西行(Wikipedia)より)
出家僧になったので「俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)」とあるが、佐藤義清が本名である。

佐藤姓と聞けば、蝦夷の棟梁であった安部貞任の末裔が生き延びて佐藤を名乗り、義経を護衛した平泉の佐藤兄弟を思い出す。

山口県出身の総理大臣には、岸伸介、佐藤栄作、安部晋三と佐藤家ゆかりの人物が3人もいる。

今風に言えば、山口県庁の高級官僚であった高杉晋作が、東北地方から流れてきた佐藤氏一族の存在を知らないわけがなく、西行こと佐藤義清の生き様をモデルに己の生涯を規定したのであろう。

山口県において西行の名は特別の意味を持ち、それは奥州藤原氏とも関連してくる。

『西行法師(1118~1190)。
俗名佐藤義清(のりきよ)。

1118年、現在の和歌山県那賀郡打田町に生まれます。

平将門の乱を平定した鎮守府将軍・俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、義清は俵藤太秀郷の九代の裔にあたります。
同じく秀郷の流れをくむ奥州藤原氏とは遠縁になります。

母は監物源清経の女(むすめ)で、監物源清経は『梁塵秘抄口伝集』に見える「監物清経」や『蹴鞠口伝集』に見られる「清経」と同一人物と考えられており、とすると、今様や蹴鞠の名手の血が西行に受け継がれていったということになります。

18歳から北面の武士として鳥羽院に仕えるも(同僚には平清盛がいました。西行と清盛は同い年で友人だったのです)、1140年、23歳で突然、出家。
法名は円位。西行と号しました。

しばらくは京内外に居住していましたが、陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅に出、それから数年の後、西行は高野山に入ります。
以後30年ほど、高野山を拠点に諸国を遍歴。
吉野にも赴き、熊野も訪れ、中国・四国にも旅し、各地で数々の歌を詠みました。

源平戦乱の時期は伊勢に疎開。
1186年には再び陸奥へ。
途中、鎌倉では将軍源頼朝と会談。

奥州藤原氏が平泉に滅んだ翌年、1190年、かねてからの願い通り、

願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃
(『山家集』上 春 77)

願わくは、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。
あの釈迦が入滅した2月15日の頃に。

 西行は、河内国南葛城の弘川寺にて2月16日に亡くなりました。』
(「熊野の歌 西行法師」より)
http://www.mikumano.net/uta/saigyou.html

今の大阪府南河内郡河南町大字弘川43の弘川寺である。
(0721-93-2814)
大阪の和泉大津市や堺市の東方約30kmにある葛城山の西側麓にある寺である。

釈迦入滅日の自分の死を望んでいた西行は、熱狂的な仏教徒だったようだ。
「西行」の名も阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから由来している。

その西行とは真反対の「東」へ行こうとする晋作の思いとは、一体何だったのだろうか。
松陰神社の「東」の山奥には、隠れキリシタンの村があった。

晋作の「その思い」は、或いは佐藤姓を名乗る西行を介して奥州の俵藤太にまで辿り着くのだろうか。

晋作と佐藤家の関係はまだわからないが、晋作が目指した「東」とは、果たして奥州佐藤一族、奥州藤原一族の再興だったのであろうか、あるいはもっと壮大なアジアの宗教ロマンスが関与していたのだろうか。

元衆議院議員の安部晋太郎も、その息子の晋三も、「晋」の字を承継している。
晋三氏は現在も衆議院議員であり、2度目の総理大臣の椅子を狙っているようである。

晋作が目指した「東行」の理想は、現在でも続いているようだ。

『1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。

「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。

同年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。』
(「あの人の人生を知ろう ~ 西行法師」より)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html

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