東へ行く晋の字~長州(66) [萩の吉田松陰]

SH3B0246.jpgSH3B0246竹に墨書「人を慕いて東行く」
saigyou.jpg西行法師(菊池容斎画/江戸時代)(西行(Wikipedia)より)

玄関を上がって右手の座敷へ向かう途中の左手の柱に、半割りしてその上に墨で書いた歌が掛かっている。

高杉晋作の家の座敷で見たものである。
竹の墨書は「人を慕いて東行く」と書かれていた。

晋作の号は「東行(とうぎょう)」である。

そして高杉晋作の墓は曹洞宗の寺院で功山寺の末寺の東行庵(とうぎょうあん)(山口県下関市)にある。

「東行」は、それほどの晋作が思い入れをした号である。
「西行」と言えば、平清盛と同い年で友人であり、元北面の武士で、のちに侍を捨てて歌人となった僧西行(さいぎょう)を思い出す。

西行をひとつの人物モデルとして、それと対比してわが名を「東行」と付けたものである。
では、なぜ晋作は東へ行くのか?

同じ疑問を抱いている方は多いようである。

『西へ行く 人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ
吾去れば 人も去るかと思いきに 人びとそなき 人の世の中
の2つの歌の意味を教えて下さい。

あと、出来れば司馬さんが書いた小説で、高杉晋作のがあると聞いたんですが、本の名前を知っていたらそれも教えて下さい。

[ベストアンサーに選ばれた回答]

文久3年、いくら自説を説いても藩に同調するものが少なくて孤独だった頃に詠んだ歌です。

「西へ行く~」は藩の重臣や藩が「西へ行く人」で,自分は藩のことを大切に考えているために方向違いの「東」へ行くこの気持ちは神しか知らない

「吾去れば~」は京都進発を主張して受けいられず脱藩し、自分に同調してくれるくる人が多数いるかと思ったら、そんなことも無いのが世の中だ、
このような意味だと思います。

高杉晋作は天才にして孤高の人だったんですね。
司馬さんの本は「世に棲む日々」です。』
(「西へ行く 人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q146043079

『「西へ行く~」は藩の重臣や藩が「西へ行く人」』という表現はおそらく山口県萩市の地元の人の回答なのではないか。

萩を歩いてみればわかるが、萩城下町は城の東側にある。
城へ向かうには、先ほどわたってきた堀を越えて堀の内地区へ向かい更に西にあるお城へ登るのである。

萩城下で「西行」とは毛利氏を藩主とする萩城へ向かう集団を指している。

それに反して、晋作だけは孤独を感じつつ東へ向かったということである。
東には松下村塾があり、その北側の道を通って更に東へ山深く入れば、隠れキリシタンの里紫福村(しぶきむら)がある。
そこは大内義隆の遺児や遺臣たちでキリシタンだったものが萩から逃げて移り住んだ地区である。

大内義隆の遺児や遺臣たちは、山口市に今の保存されているザビエルの井戸の水でザビエルから洗礼を受けていたはずだ。

晋作が果たして紫福村を指して「東へ行く」と称したかどうか、それはまだわからない。

『西行(さいぎょう)、元永元年(1118年)~文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。

父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。
俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。
出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。』(西行(Wikipedia)より)
出家僧になったので「俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)」とあるが、佐藤義清が本名である。

佐藤姓と聞けば、蝦夷の棟梁であった安部貞任の末裔が生き延びて佐藤を名乗り、義経を護衛した平泉の佐藤兄弟を思い出す。

山口県出身の総理大臣には、岸伸介、佐藤栄作、安部晋三と佐藤家ゆかりの人物が3人もいる。

今風に言えば、山口県庁の高級官僚であった高杉晋作が、東北地方から流れてきた佐藤氏一族の存在を知らないわけがなく、西行こと佐藤義清の生き様をモデルに己の生涯を規定したのであろう。

山口県において西行の名は特別の意味を持ち、それは奥州藤原氏とも関連してくる。

『西行法師(1118~1190)。
俗名佐藤義清(のりきよ)。

1118年、現在の和歌山県那賀郡打田町に生まれます。

平将門の乱を平定した鎮守府将軍・俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、義清は俵藤太秀郷の九代の裔にあたります。
同じく秀郷の流れをくむ奥州藤原氏とは遠縁になります。

母は監物源清経の女(むすめ)で、監物源清経は『梁塵秘抄口伝集』に見える「監物清経」や『蹴鞠口伝集』に見られる「清経」と同一人物と考えられており、とすると、今様や蹴鞠の名手の血が西行に受け継がれていったということになります。

18歳から北面の武士として鳥羽院に仕えるも(同僚には平清盛がいました。西行と清盛は同い年で友人だったのです)、1140年、23歳で突然、出家。
法名は円位。西行と号しました。

しばらくは京内外に居住していましたが、陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅に出、それから数年の後、西行は高野山に入ります。
以後30年ほど、高野山を拠点に諸国を遍歴。
吉野にも赴き、熊野も訪れ、中国・四国にも旅し、各地で数々の歌を詠みました。

源平戦乱の時期は伊勢に疎開。
1186年には再び陸奥へ。
途中、鎌倉では将軍源頼朝と会談。

奥州藤原氏が平泉に滅んだ翌年、1190年、かねてからの願い通り、

願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃
(『山家集』上 春 77)

願わくは、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。
あの釈迦が入滅した2月15日の頃に。

 西行は、河内国南葛城の弘川寺にて2月16日に亡くなりました。』
(「熊野の歌 西行法師」より)
http://www.mikumano.net/uta/saigyou.html

今の大阪府南河内郡河南町大字弘川43の弘川寺である。
(0721-93-2814)
大阪の和泉大津市や堺市の東方約30kmにある葛城山の西側麓にある寺である。

釈迦入滅日の自分の死を望んでいた西行は、熱狂的な仏教徒だったようだ。
「西行」の名も阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから由来している。

その西行とは真反対の「東」へ行こうとする晋作の思いとは、一体何だったのだろうか。
松陰神社の「東」の山奥には、隠れキリシタンの村があった。

晋作の「その思い」は、或いは佐藤姓を名乗る西行を介して奥州の俵藤太にまで辿り着くのだろうか。

晋作と佐藤家の関係はまだわからないが、晋作が目指した「東」とは、果たして奥州佐藤一族、奥州藤原一族の再興だったのであろうか、あるいはもっと壮大なアジアの宗教ロマンスが関与していたのだろうか。

元衆議院議員の安部晋太郎も、その息子の晋三も、「晋」の字を承継している。
晋三氏は現在も衆議院議員であり、2度目の総理大臣の椅子を狙っているようである。

晋作が目指した「東行」の理想は、現在でも続いているようだ。

『1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。

「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。

同年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。』
(「あの人の人生を知ろう ~ 西行法師」より)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html

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