ロシア正教のシュロ~長州(63) [萩の吉田松陰]
SH3B0234晋作の家の方向は右折してこの路地に入るようだ
SH3B0235田中義一(生家跡? シュロの木にピント)池
SH3B0236高杉晋作誕生地
周布政之助の家から真東へ進み、この路地で右折した。
路地の光景は江戸時代そのものが保存されているようだ。
会津は破壊されて、萩は保存されている。
平家物語の盛衰を見るようである。
路地に田中義一と書いた案内板がある。
銅像はなく旧家跡のようである。
何も特徴もない狭い敷地だったが、正面やや右手にあるシュロの木が私にシャッターを押させた。
田中義一の出生地は、長門国阿武郡萩である。
今の萩市だが、萩はあの隠れキリシタンの里の阿武郡紫福村と同じ行政区分にあったことがわかる。
『田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日)~昭和4年(1929年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。
階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。
陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。
生涯
軍人として
萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。
父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。
若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。
日清戦争に従軍。
その後、ロシアに留学した。
ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。
このため日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。
長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。
しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。
日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の明治39年(1906年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。以下略。』(田中義一(Wikipedia)より)
田中義一は、ロシア正教の信者だった。
それで対ロ戦争の強硬主張をするところは、本気の信仰ではなかったのかも知れない。
むしろ広瀬の方が、本気でロシア通になってしまっていたのだろう。
ならば、上の写真にある敷地内のシュロの枝は、新約聖書に基づもので、キリストの復活を祝う意味となろうか。
吉田松陰が斬刑死した安政6年(1859年)には田中義一は生まれてもいなかった。
高杉晋作が病死した慶應3年(1867年)に、漸く3歳の可愛い盛りの幼児だった人物である。
成長してからは、松陰や晋作によってもたらされた陸軍長州軍閥の恩恵を一身に受けているように見える。
松陰や晋作に対する「義理は人一倍」あるはずだ。
兵学者松陰の同時代人で、陸軍での恩恵を受けた人物は多く、山県有朋はその筆頭であろう。
命を捨てなかったもの、あるいは生まれが遅くて捨てる機会さえ持てなかったものたちが、命を捨てて国を援けた松陰の栄華を満身で受け取っている。
SH3B0235田中義一(生家跡? シュロの木にピント)池
SH3B0236高杉晋作誕生地
周布政之助の家から真東へ進み、この路地で右折した。
路地の光景は江戸時代そのものが保存されているようだ。
会津は破壊されて、萩は保存されている。
平家物語の盛衰を見るようである。
路地に田中義一と書いた案内板がある。
銅像はなく旧家跡のようである。
何も特徴もない狭い敷地だったが、正面やや右手にあるシュロの木が私にシャッターを押させた。
田中義一の出生地は、長門国阿武郡萩である。
今の萩市だが、萩はあの隠れキリシタンの里の阿武郡紫福村と同じ行政区分にあったことがわかる。
『田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日)~昭和4年(1929年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。
階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。
陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。
生涯
軍人として
萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。
父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。
若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。
日清戦争に従軍。
その後、ロシアに留学した。
ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。
このため日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。
長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。
しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。
日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の明治39年(1906年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。以下略。』(田中義一(Wikipedia)より)
田中義一は、ロシア正教の信者だった。
それで対ロ戦争の強硬主張をするところは、本気の信仰ではなかったのかも知れない。
むしろ広瀬の方が、本気でロシア通になってしまっていたのだろう。
ならば、上の写真にある敷地内のシュロの枝は、新約聖書に基づもので、キリストの復活を祝う意味となろうか。
吉田松陰が斬刑死した安政6年(1859年)には田中義一は生まれてもいなかった。
高杉晋作が病死した慶應3年(1867年)に、漸く3歳の可愛い盛りの幼児だった人物である。
成長してからは、松陰や晋作によってもたらされた陸軍長州軍閥の恩恵を一身に受けているように見える。
松陰や晋作に対する「義理は人一倍」あるはずだ。
兵学者松陰の同時代人で、陸軍での恩恵を受けた人物は多く、山県有朋はその筆頭であろう。
命を捨てなかったもの、あるいは生まれが遅くて捨てる機会さえ持てなかったものたちが、命を捨てて国を援けた松陰の栄華を満身で受け取っている。
毛利と月性の利害一致~長州(62) [萩の吉田松陰]
SH3B0231井戸
SH3B0232「北の総門」隣は萩博物館
SH3B0233萩城下町
お堀のそばに昔ながらの井戸があった。
おそらく観光用に復元したものだろうが、古老の言い伝えなどを参考に昔あった位置に作られたのではないか。
お城に入る前に身だしなみを整え、喉の渇きを潤したのであろう。
「北の総門」は人影もなく静かだったが、その隣は萩博物館で大型バスがひっきりなしにやってきて賑やかである。
こういう観光施設には私はまったく興味がない。
確かに明治革命を推進したのは薩摩と並んでこの萩毛利藩であるが、ピラミッド組織を動かしたのはたった一人の29歳で首を斬られて死んだ吉田松陰であった。
久坂も高杉も怪物青年松陰の遠隔操縦に過ぎない。
しかし松陰を育て操縦していたのは玉木家だった。
そこへ、なぜか西本願寺派僧侶の月性が絡んでくる。
本願寺といえば、日本国で唯一織田信長と長期戦で負けなかった武装宗教軍団だった。
石山寺本願寺である。
比叡山の仲介があったとはいえ、蓮如の意思による自主退去によって空き家になった不落城石山だったが、秀吉はそこに大阪城を建築した。
本願寺と和解したかに見えた信長だったが、二度と本願寺僧兵が巨大な軍事力を持たないように分断した。
信長が比叡山を焼き討ちしたのは、宗教弾圧ではない。
僧兵軍団を率いた大名をも超える軍事力を背景に、市場経済まで統制していた寺の独占権を破壊するためだった。
焼き討ち後も信長は宗教に関しては信仰の自由を与えている。
「お寺を焼き槌した信長は残虐」という歴史上での信長への誤解がある。
テレビなどでもナレータや司会が堂々とそういうおかしな言い方を平気でやっている。
信長の宗教団体武装解除政策への誤解解消は、井沢元彦著「逆説の日本史」が参考になる。
さて分断された本願寺であるが、徳川家康は東本願寺を保護した。
つまり300年もの長い間、倒幕を待ち焦がれてきたのは、西本願寺派だったのだ。
徳川を倒すという目的に対して、毛利藩と西本願寺派は利害が一致していた。
長州だ会津だと観光名物だけを追いかけていては、真実の姿は見えないはずだ。
明治革命を見るためには、松陰の29年間の生い立ちをつぶさにみる必要がある。
この城下町には、松下村塾へミイラ取りにに行きミイラになった晋作の家が残されている。
SH3B0232「北の総門」隣は萩博物館
SH3B0233萩城下町
お堀のそばに昔ながらの井戸があった。
おそらく観光用に復元したものだろうが、古老の言い伝えなどを参考に昔あった位置に作られたのではないか。
お城に入る前に身だしなみを整え、喉の渇きを潤したのであろう。
「北の総門」は人影もなく静かだったが、その隣は萩博物館で大型バスがひっきりなしにやってきて賑やかである。
こういう観光施設には私はまったく興味がない。
確かに明治革命を推進したのは薩摩と並んでこの萩毛利藩であるが、ピラミッド組織を動かしたのはたった一人の29歳で首を斬られて死んだ吉田松陰であった。
久坂も高杉も怪物青年松陰の遠隔操縦に過ぎない。
しかし松陰を育て操縦していたのは玉木家だった。
そこへ、なぜか西本願寺派僧侶の月性が絡んでくる。
本願寺といえば、日本国で唯一織田信長と長期戦で負けなかった武装宗教軍団だった。
石山寺本願寺である。
比叡山の仲介があったとはいえ、蓮如の意思による自主退去によって空き家になった不落城石山だったが、秀吉はそこに大阪城を建築した。
本願寺と和解したかに見えた信長だったが、二度と本願寺僧兵が巨大な軍事力を持たないように分断した。
信長が比叡山を焼き討ちしたのは、宗教弾圧ではない。
僧兵軍団を率いた大名をも超える軍事力を背景に、市場経済まで統制していた寺の独占権を破壊するためだった。
焼き討ち後も信長は宗教に関しては信仰の自由を与えている。
「お寺を焼き槌した信長は残虐」という歴史上での信長への誤解がある。
テレビなどでもナレータや司会が堂々とそういうおかしな言い方を平気でやっている。
信長の宗教団体武装解除政策への誤解解消は、井沢元彦著「逆説の日本史」が参考になる。
さて分断された本願寺であるが、徳川家康は東本願寺を保護した。
つまり300年もの長い間、倒幕を待ち焦がれてきたのは、西本願寺派だったのだ。
徳川を倒すという目的に対して、毛利藩と西本願寺派は利害が一致していた。
長州だ会津だと観光名物だけを追いかけていては、真実の姿は見えないはずだ。
明治革命を見るためには、松陰の29年間の生い立ちをつぶさにみる必要がある。
この城下町には、松下村塾へミイラ取りにに行きミイラになった晋作の家が残されている。
日本最大級の高麗門~長州(61) [萩の吉田松陰]
SH3B0225お堀の向こうは晋作の住んでいた城下町
SH3B0226城門
SH3B0228お堀
SH3B0230バス停「北の総門入口」
SH3B0229萩城「北の総門」
私は菊ヶ浜から少し南下したところにある周布政之助の旧宅から真東へ歩いてきたつもりだった。
旧益田家見張矢倉を通り過ぎると、やがてお堀に当たる。
右手、つまり南方面に堀を渡る橋と門が見える。
近づいてみると、バス停に「北の総門入口」と書いてある。
あの門は「北の総門」である。
城の東側についている門であるが、確かに日本海に近い方の北寄りにある門である。
高杉晋作の自宅から萩城へ最短で歩けばこの門に突き当たる。
土佐藩風に言えば、下士である若き松陰も晋作も、この門をくぐって城へと通ったのだろう。
『高さ7メートル、日本最大級の高麗門
北の総門
平成16年11月、「萩開府400年」を記念した際に復元されたもの。
脇戸付きの切り妻造り本瓦葺き、柱間約6メートル、高さ7メートルの日本最大級の高麗門。
本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、大分県から取り寄せた欅(けやき)の巨木を使って復元した。
かつて、城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、他に中の総門、平安古の総門がある。
それぞれに門番が常駐し、人の出入りを監視していた。
門は、暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)までは閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止していた。 』
(「ぶらり萩あるき」より)
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100030
どうやら江戸時代にはこの門から先は深夜うろうろできない管理ゾーンになっていたようだ。
朝鮮半島と向き合う位置の萩市に「日本最大級の高麗門」があることは因縁深いものを感じる。
大内氏も百済から来た王を名乗っていた。
SH3B0226城門
SH3B0228お堀
SH3B0230バス停「北の総門入口」
SH3B0229萩城「北の総門」
私は菊ヶ浜から少し南下したところにある周布政之助の旧宅から真東へ歩いてきたつもりだった。
旧益田家見張矢倉を通り過ぎると、やがてお堀に当たる。
右手、つまり南方面に堀を渡る橋と門が見える。
近づいてみると、バス停に「北の総門入口」と書いてある。
あの門は「北の総門」である。
城の東側についている門であるが、確かに日本海に近い方の北寄りにある門である。
高杉晋作の自宅から萩城へ最短で歩けばこの門に突き当たる。
土佐藩風に言えば、下士である若き松陰も晋作も、この門をくぐって城へと通ったのだろう。
『高さ7メートル、日本最大級の高麗門
北の総門
平成16年11月、「萩開府400年」を記念した際に復元されたもの。
脇戸付きの切り妻造り本瓦葺き、柱間約6メートル、高さ7メートルの日本最大級の高麗門。
本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、大分県から取り寄せた欅(けやき)の巨木を使って復元した。
かつて、城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、他に中の総門、平安古の総門がある。
それぞれに門番が常駐し、人の出入りを監視していた。
門は、暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)までは閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止していた。 』
(「ぶらり萩あるき」より)
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100030
どうやら江戸時代にはこの門から先は深夜うろうろできない管理ゾーンになっていたようだ。
朝鮮半島と向き合う位置の萩市に「日本最大級の高麗門」があることは因縁深いものを感じる。
大内氏も百済から来た王を名乗っていた。