毛利と月性の利害一致~長州(62) [萩の吉田松陰]

SH3B0231.JPGSH3B0231井戸
SH3B0232.jpgSH3B0232「北の総門」隣は萩博物館
SH3B0233.JPGSH3B0233萩城下町

お堀のそばに昔ながらの井戸があった。
おそらく観光用に復元したものだろうが、古老の言い伝えなどを参考に昔あった位置に作られたのではないか。

お城に入る前に身だしなみを整え、喉の渇きを潤したのであろう。

「北の総門」は人影もなく静かだったが、その隣は萩博物館で大型バスがひっきりなしにやってきて賑やかである。

こういう観光施設には私はまったく興味がない。

確かに明治革命を推進したのは薩摩と並んでこの萩毛利藩であるが、ピラミッド組織を動かしたのはたった一人の29歳で首を斬られて死んだ吉田松陰であった。

久坂も高杉も怪物青年松陰の遠隔操縦に過ぎない。

しかし松陰を育て操縦していたのは玉木家だった。
そこへ、なぜか西本願寺派僧侶の月性が絡んでくる。

本願寺といえば、日本国で唯一織田信長と長期戦で負けなかった武装宗教軍団だった。

石山寺本願寺である。
比叡山の仲介があったとはいえ、蓮如の意思による自主退去によって空き家になった不落城石山だったが、秀吉はそこに大阪城を建築した。

本願寺と和解したかに見えた信長だったが、二度と本願寺僧兵が巨大な軍事力を持たないように分断した。

信長が比叡山を焼き討ちしたのは、宗教弾圧ではない。
僧兵軍団を率いた大名をも超える軍事力を背景に、市場経済まで統制していた寺の独占権を破壊するためだった。

焼き討ち後も信長は宗教に関しては信仰の自由を与えている。

「お寺を焼き槌した信長は残虐」という歴史上での信長への誤解がある。
テレビなどでもナレータや司会が堂々とそういうおかしな言い方を平気でやっている。

信長の宗教団体武装解除政策への誤解解消は、井沢元彦著「逆説の日本史」が参考になる。

さて分断された本願寺であるが、徳川家康は東本願寺を保護した。
つまり300年もの長い間、倒幕を待ち焦がれてきたのは、西本願寺派だったのだ。

徳川を倒すという目的に対して、毛利藩と西本願寺派は利害が一致していた。

長州だ会津だと観光名物だけを追いかけていては、真実の姿は見えないはずだ。

明治革命を見るためには、松陰の29年間の生い立ちをつぶさにみる必要がある。
この城下町には、松下村塾へミイラ取りにに行きミイラになった晋作の家が残されている。

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StepEmeva

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by StepEmeva (2019-06-04 14:54) 

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