ろうあ者と倒幕思想~長州(29) [萩の吉田松陰]
SH3B0097杉敏三郎の墓(松陰の弟)
松陰の父杉百合之助の墓の近くに「杉敏三郎の墓」と書いた案内板があった。
はて、誰であろうか。
案内板を読んでみる。
『杉 敏三郎
杉百合之助の三男。松陰の弟。生来の聾唖。
家族を挙げてあらゆる手当てを尽くすも医薬効を奏せず。
松陰の手記からも弟への深い思いが伺える。
明治九年(1876)没 行年三十二』(抜粋終わり)
弟は生まれながらにして耳が聞こえなかった。
耳が聞こえないから、話も満足にできなかったはずだ。
手話が唯一の意思疎通手段となるだろう。
ネット記事を見てみる。
『杉敏三郎
百合之助の三男、松陰の弟。
弘化2年10月6日松本護国山麓団子岩樹々亭で生まれる。
生まれながらの聾唖で、顔面に痘痕あり、面貌松陰に似るという。
性格は頴敏にして、居所進退常人と異なることなく、礼儀応接かえって人の及ばざるところすらある。
幼にして、外叔久保五郎左衛門に字を学び、写字模書頗る妙なり。
また読書を好み、意通ずる能わざるも父兄が書を読めば常にその側に在り。
松陰は嘉永3年12月西遊中熊本に立ち寄り、深夜清正公に詣でて、この弟のものいわれかしと敬虔なる祈祷を捧げた。
敏三郎性温厚にして在世中30年間未だ喜怒を人に加えなかったという。
杉氏の風に従い敬神崇祖の念厚く、常に祭礼供養のことは自らこれを行い潔白清浄を旨とした。
自ずから聾唖を悟り他家に出入りすることなく、常に静座して縫糊の業をなし、祖霊祭典の事をなす。
明治9年2月1日、32歳で亡くなる。』
(「杉 敏三郎 - OCN|トップページ」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-s.htm
松本護国山麓団子岩樹々亭」というのは、松陰の生家を指すのであろうか。
「読書を好み、意通ずる能わざるも父兄が書を読めば常にその側に在り。」という下りでは、敏三郎には人並みの読解力が備わっていなかったことが示唆されているように見える。
杉家にろうあ者の弟敏三郎がいたために、松陰が倒幕の思想を持つに至った、という説もある。
松陰のもつ驚くべき思想背景は、弟の存在ゆえに醸成されたということか。
『杉敏三郎は吉田松陰の実弟で生まれながらの聾者でした。
吉田松陰を始めとする家族とのコミュニケーション方法は筆談と手話が主でした。
容姿は吉田松陰によく似ていて、才気溢れる人物だったそうです。
黒船来航時
黒船に密航する時にアメリカ人に見つかってしまった吉田松陰が咄嗟に出したコミュニケーション方法は手振り身振りのジェスチャーでした。
実弟杉敏三郎とは日常的に手話でやりとりしていた為、咄嗟にジェスチャーで対応出来たと思います。
遊学時
全国各地を遊学している時、大和(奈良県)に行った時、谷三山という聾者の儒学者と出会い、筆談で中国の古典等、様々な書について意見交換し、日本の行く末について吉田松陰に自らの持論を説いた。
九州に遊学した時、加藤清正の廟に行き、加藤清正の力で弟の耳を治して欲しいと願っていました。
牢獄に入られた時、聾者の僧侶宇都宮黙霖と書簡(手紙)を何度も交わして、宇都宮黙霖から倒幕を強く勧められ、最後には宇都宮黙霖の意見を取り入れる事によって倒幕を決意した。
遊学時、獄中時に聾者の意見を偏見を持たずに取り入れる事が出来たのは実弟が聾者だったから、抵抗は無かったと思います。
松陰塾を開いた時
塾生に対して、立って講義するのではなく、塾生と一緒に座って、ゆっくりと語りかける姿勢だったと言う。
講義するだけではなく、共に泳いだり、何らかの観賞をしたりと生きた学問だったと言われている。
聾者に対して、言葉を覚えてもらうのは相当な根気が入り、時間をかけて分かりやすく教えてなければならない。
弟とのやりとりで松陰塾の塾生に優しく語りかけるスタイルを身につけたと思います。
安政の大獄で処刑される前に家族との最後の別れの時、杉敏三郎は兄である吉田松陰が処刑されると悟り、涙を流した。
吉田松陰は杉敏三郎の肩に優しくかけた。
もし、杉敏三郎が聾者で無かったら、明治維新は無かったかも知れない。
聾者である宇都宮黙霖の意見を取り入れなかったら、倒幕するのではなく、毛利家の家臣として幕府に進言する程度しか出来なかったと思います。
他に松陰塾を開いた時、講義のスタイルが優しく語りかける方法ではなく、立って講義するスタイルだったら、理解しにくかったと思います。
吉田松陰と言う人物は弟敏三郎との関わりで土台を作り、聾者と筆談で意見交換する事が出来、松陰塾では塾生に教授するスタイルは杉敏三郎とのやりとりで定着できたと思います。』(「吉田松陰と杉敏三郎」より)
http://ameblo.jp/ooinarukibou/entry-10737995368.html
浦賀の黒船無断乗船時に、吉田松陰が咄嗟に出したコミュニケーション方法がろうあ者の弟との会話で身についた手振り身振りのジェスチャーだったという話は、地元の関係者しか知らないような話題である。
聾者の僧侶宇都宮黙霖から倒幕を強く勧められている。
そして松陰はそれを受け入れたという。
宇都宮黙霖は浄土真宗の僧侶である。
『下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。
松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。
黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。
いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。
松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。
ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。
『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。
いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。
この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。
松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。
宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。
俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。
還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。
苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。
萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。
月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。
安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。
釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。
明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。
のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)』(「宇都宮黙霖 ケペル先生のブログ」より)
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-fd10.html
日本革命を成功させた陰の立役者は、革命後の政府の配慮により湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任している。
湊川神社は南朝方の武将楠正成を祭った神社である。
孝明天皇は北朝方であるが、毒殺説がある。
その子が明治天皇であるが、そういえば明治時代になって明治天皇ご自身が「日本の天皇は南朝が正統である。」と外国人記者団に洋行時に語ったという話を聞いたことがある。
『楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。
その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。
以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。
幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。
1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。』(湊川神社(Wikipedia)より)
水戸学者らによって崇敬された理想の勤皇家を主祭神とする神社で、その成立には徳川光圀による大日本史編纂が大きく影響を及ぼしている。
幕末の尊王攘夷思想の総本山とも言える神社の神主になった宇都宮黙霖は、元来がそういう性格の存在であったのだろう。
私には、僧侶は仮の姿に過ぎなかったように見える。
また、石清水八幡宮の神官もしているが、これは宇佐神宮、筥崎宮とともに日本三大八幡宮の一つで、清和源氏の氏神である。
『清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859年)の夏、空海(弘法大師)の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けた。
これを受けて、その翌年の860年、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現在は石清水八幡宮の摂社)に由来する。』(石清水八幡宮(Wikipedia)より)
宇都宮黙霖は日本革命論を松陰へ説いた聾唖者であったが、聾唖者にして日本の文化に影響を及ぼした人物に杉山杉風(さんぷう)という人がいる。
芭蕉を経済的に支援した人である。
『松尾芭蕉の弟子として、杉山杉風(さんぷう)(1614~1732)がいたが、杉風は松尾芭蕉の経済的庇護者として知られている。
「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営み豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。
彼は幼い頃から病弱の身で、耳も聞こえなかったとも言う。
そして、芭蕉の門に入り、俳道にも精励し、20年以上芭蕉に忠実に仕えている。
なお、杉山杉風の子孫に、山口智子(女優)がいる。』(ろう者偉人伝より)
http://image01.wiki.livedoor.jp/c/u/comskill_ris_fuku/e61ca662aef00895.pdf
聾唖者こそが世の中を動かす。
そう言えるのではないだろうか。
弟敏三郎は理解能力は劣っていたようだが、同じ聾唖者である宇都宮黙霖の書簡に述べられている倒幕を唆(そそのか)す迫力は、あたかも敏三郎自身の望みでもあるように松陰には思われたのではないだろうか。
会ったこともない僧侶の手紙を野山獄で読むとき、松陰の網膜には弟の敏三郎の姿が映じていたに違いない。
その仕掛け、仕組みをこしらえたのは、山口県柳井市大畠の僧月性だった。
西郷隆盛と入水した僧月照とは別人。
『月性(げっしょう)は、幕末期の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。
諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。
鹿児島湾で西郷隆盛と共に入水した僧月照とは別人。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。
長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負(うらゆきえ)などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。
藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男子立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。
安政5年(1858年)5月、42歳で病没した。』
「妙円寺(本願寺派)の住職」であった。
ここにも「妙」の一文字が見えている。
「常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいた」海防僧の姿は、東北旅行中の松陰の言動そのものと一致している。
兵学者松陰がやった「雪の東北沿岸一帯の国防視察旅行」は、月性の暗黙命令によるものと考えられる。
「東北遊日記」の「遊」の文字にだまされてはならない。
革命後の国防戦略案を練るための『命懸けの隠密調査』と言ってよいものだ。
松陰は事情があって長州藩を脱藩して、この旅行へ出発している。
織田久著「嘉永五年東北―吉田松陰『東北遊日記』抄 」に見られる松陰の言動は、月性その人の思想・行動とまったく一致しているように見える。
青年松陰は13歳年長の僧月性によって完全なるマインドコントロール状態にあったようにも見えてくる。
『やみがたい憂国の情から、厳寒の東北を徒歩で旅した吉田松陰。
その日記を読み解きながら、東北各地の人々の意外な日常を掘り起こす。』
(「嘉永五年東北―吉田松陰『東北遊日記』抄」(商品の説明)より)
http://www.amazon.co.jp
その旅程は拙著ブログでも以前紹介したが、一部抜粋する。
『「この旅の経路は、『日本思想大系54 吉田松陰』巻末の吉田松陰年譜によれば、
江戸(嘉永5年12月14日)─水戸(ここで宮部・江帾と落ち合う。嘉永5年元旦を常州太田の宿で迎える)─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)。
江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月5日です。
『東北遊日記』は、その東北の旅の見聞記です。」
(「資料71 吉田松陰『東北遊日記』(抄)」より抜粋)
http://www.geocities.jp/sybrma/71syouin.touhokuyuunikki.html
「青森」と書いてあるが、津軽半島の北端の村、三厩村を訪ねている。
竜飛崎の少し手前の村で、奥州街道の終着宿である。
「東北遊日記」の序文は漢文だが、次の記事に読みかな文が掲載されていた。
『東北遊日記 序文
有志の士、時平かならば則ち書を読み道を学び、経国の大計を論じ、古今の得失を議す。
一旦変起らば則戎馬の間に従ひ、敵を料り交を結び、長策を建てて国家を利す。
是れ平生の志なり。
然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以てか之れを得ん。
余客歳鎮西に遊び、今春東武に抵る、略ぼ畿内・山陽・西海・東海を跋渉せり。
而して東山・北陸は土広く山峻しくして、古より英雄割拠し、奸凶巣穴す。
且つ東のかた満州に連り、北は鄂羅に隣す。
是れ最も経済国の大計の関る所にして、宜しく古今の得失を観るべきものなり。
而して余未だ其の地を経ず、深く以て恨みと為せり。
頃ろ肥人宮部鼎蔵東北遊を余に謀る。
余喜びて之れを諾す。
会々奥人安芸五蔵も亦将に常奥に抵らんとす、遂に同行を相約せり。
余因つて一冊子を作り、古今の得失、山川の形勢、凡そ目撃する所は皆将に日を以て之れを記さんとす。
嘉永四年臘月 吉田大次郎藤原矩方識す』
(「東北遊日記 (龍馬がブログ)より引用)
http://bakumatu.blog82.fc2.com/blog-entry-419.html
中略。
同行の安芸五蔵とは南部藩士のようである。
冬の道案内役を果たしてくれた人物だろう。
山口県萩市育ちの松陰が冬の東北を一人で歩けるはずはないと思っていたが、よき案内人に恵まれていたようだ。
案内人がいたとしても、西日本の人間が冬の東北を歩き回ることは想像を絶することに変わりはない。
道に迷って凍死するリスクだけは少なくなったというだけである。
安芸五蔵におんぶされるのでなければ、松陰が自分の足を苛め抜くことに何ら変わりはないのである。』(「奥州街道を歩く 東京日本橋~津軽三厩(みんまや)」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/suikyo50/59532912.html
月性は聾唖者を弟にもつ尊王家松陰に対して、倒幕を過激に主張する聾唖者の僧侶と文通させれば、松陰とその門下生をして倒幕へと走らせることが可能と目論んだのであろう。
山口県柳井市遠崎の妙円寺(本願寺派)の住職月性は、相当の知恵者である。
松陰を取り巻く「妙」の一文字は、他には指月城にあった。
萩城の毛利の前の所有者の妻である。
『吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
本能寺の変が天正10年である。
天正13年に、既に「指月」の呼び名があり、萩の鳴滝山妙性院(現禅林寺)に妙性庵が建立されていた。
戒名に「妙」の文字を持つ「見室妙性大姉」こそ、ザビエルに山口の布教を許した大名大内義隆の実姉であり、指月山の萩城主吉見正頼の正室であった。
ザビエルたちは日本での布教にあたって、戦場での必要性から男色趣味のある大名がその慣習を辞めない限り洗礼は不可能とあきらめ、その奥方や子女に洗礼を授けていったようだ。
そういえば昨年末、オバマ大統領はゲイのアフガニスタン派兵を許可する法律を通したが、戦場の夜は騒がしくなるかも知れない。
カトリックの国アメリカで、聖書に手を置き宣誓して大統領に就任したオバマである。
ザビエルがこれを聞いたら、きっとひっくり返ったことだろう。
指月山を見下ろす丘の上に住む人や墓石は、かつて指月城に住んでいた人々の末裔なのである。
彼らは大層「妙」の文字が意図するもののお世話になっていたはずである。
松陰の父杉百合之助の墓の近くに「杉敏三郎の墓」と書いた案内板があった。
はて、誰であろうか。
案内板を読んでみる。
『杉 敏三郎
杉百合之助の三男。松陰の弟。生来の聾唖。
家族を挙げてあらゆる手当てを尽くすも医薬効を奏せず。
松陰の手記からも弟への深い思いが伺える。
明治九年(1876)没 行年三十二』(抜粋終わり)
弟は生まれながらにして耳が聞こえなかった。
耳が聞こえないから、話も満足にできなかったはずだ。
手話が唯一の意思疎通手段となるだろう。
ネット記事を見てみる。
『杉敏三郎
百合之助の三男、松陰の弟。
弘化2年10月6日松本護国山麓団子岩樹々亭で生まれる。
生まれながらの聾唖で、顔面に痘痕あり、面貌松陰に似るという。
性格は頴敏にして、居所進退常人と異なることなく、礼儀応接かえって人の及ばざるところすらある。
幼にして、外叔久保五郎左衛門に字を学び、写字模書頗る妙なり。
また読書を好み、意通ずる能わざるも父兄が書を読めば常にその側に在り。
松陰は嘉永3年12月西遊中熊本に立ち寄り、深夜清正公に詣でて、この弟のものいわれかしと敬虔なる祈祷を捧げた。
敏三郎性温厚にして在世中30年間未だ喜怒を人に加えなかったという。
杉氏の風に従い敬神崇祖の念厚く、常に祭礼供養のことは自らこれを行い潔白清浄を旨とした。
自ずから聾唖を悟り他家に出入りすることなく、常に静座して縫糊の業をなし、祖霊祭典の事をなす。
明治9年2月1日、32歳で亡くなる。』
(「杉 敏三郎 - OCN|トップページ」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-s.htm
松本護国山麓団子岩樹々亭」というのは、松陰の生家を指すのであろうか。
「読書を好み、意通ずる能わざるも父兄が書を読めば常にその側に在り。」という下りでは、敏三郎には人並みの読解力が備わっていなかったことが示唆されているように見える。
杉家にろうあ者の弟敏三郎がいたために、松陰が倒幕の思想を持つに至った、という説もある。
松陰のもつ驚くべき思想背景は、弟の存在ゆえに醸成されたということか。
『杉敏三郎は吉田松陰の実弟で生まれながらの聾者でした。
吉田松陰を始めとする家族とのコミュニケーション方法は筆談と手話が主でした。
容姿は吉田松陰によく似ていて、才気溢れる人物だったそうです。
黒船来航時
黒船に密航する時にアメリカ人に見つかってしまった吉田松陰が咄嗟に出したコミュニケーション方法は手振り身振りのジェスチャーでした。
実弟杉敏三郎とは日常的に手話でやりとりしていた為、咄嗟にジェスチャーで対応出来たと思います。
遊学時
全国各地を遊学している時、大和(奈良県)に行った時、谷三山という聾者の儒学者と出会い、筆談で中国の古典等、様々な書について意見交換し、日本の行く末について吉田松陰に自らの持論を説いた。
九州に遊学した時、加藤清正の廟に行き、加藤清正の力で弟の耳を治して欲しいと願っていました。
牢獄に入られた時、聾者の僧侶宇都宮黙霖と書簡(手紙)を何度も交わして、宇都宮黙霖から倒幕を強く勧められ、最後には宇都宮黙霖の意見を取り入れる事によって倒幕を決意した。
遊学時、獄中時に聾者の意見を偏見を持たずに取り入れる事が出来たのは実弟が聾者だったから、抵抗は無かったと思います。
松陰塾を開いた時
塾生に対して、立って講義するのではなく、塾生と一緒に座って、ゆっくりと語りかける姿勢だったと言う。
講義するだけではなく、共に泳いだり、何らかの観賞をしたりと生きた学問だったと言われている。
聾者に対して、言葉を覚えてもらうのは相当な根気が入り、時間をかけて分かりやすく教えてなければならない。
弟とのやりとりで松陰塾の塾生に優しく語りかけるスタイルを身につけたと思います。
安政の大獄で処刑される前に家族との最後の別れの時、杉敏三郎は兄である吉田松陰が処刑されると悟り、涙を流した。
吉田松陰は杉敏三郎の肩に優しくかけた。
もし、杉敏三郎が聾者で無かったら、明治維新は無かったかも知れない。
聾者である宇都宮黙霖の意見を取り入れなかったら、倒幕するのではなく、毛利家の家臣として幕府に進言する程度しか出来なかったと思います。
他に松陰塾を開いた時、講義のスタイルが優しく語りかける方法ではなく、立って講義するスタイルだったら、理解しにくかったと思います。
吉田松陰と言う人物は弟敏三郎との関わりで土台を作り、聾者と筆談で意見交換する事が出来、松陰塾では塾生に教授するスタイルは杉敏三郎とのやりとりで定着できたと思います。』(「吉田松陰と杉敏三郎」より)
http://ameblo.jp/ooinarukibou/entry-10737995368.html
浦賀の黒船無断乗船時に、吉田松陰が咄嗟に出したコミュニケーション方法がろうあ者の弟との会話で身についた手振り身振りのジェスチャーだったという話は、地元の関係者しか知らないような話題である。
聾者の僧侶宇都宮黙霖から倒幕を強く勧められている。
そして松陰はそれを受け入れたという。
宇都宮黙霖は浄土真宗の僧侶である。
『下田密航を企てて失敗し、萩の野山獄にあった吉田松陰(1830-1859)は、一人の旅の聾僧と文通を始めた。
松陰より6歳年上の僧は宇都宮黙霖(1824-1897)といった。
黙霖は急進的な尊王や討幕の考えを松陰にぶっつけ、松陰の尊王思想に大きな影響を与えた男である。
いやそれ以上に、日本の近代の歴史を切り拓いた陰の立役者かもしれない。
松陰はこれまで幕府に対して誤りを諌める考えであったのに対して、黙霖は徹底的に討幕を主張した。
ある日、黙霖はほぼ100年前の山県大弐(1725-1767)の著書『柳子新論』(1760刊)を獄中の松陰に贈った。
『柳子新論』の内容は幕府否定を論じ、天皇政治に復古すべきだと主張している。
いまの幕府政治は、腐敗の極に達しているから、これを打倒するほかはないというのである。
この書を読んで松陰の考えはついに討幕論にまで達する。
松陰と黙霖との文通は1年余り続いたが、出獄後も、松陰が幽囚の身のため二人が会うことはついになかった。
宇都宮黙霖は安芸国長浜(現在の呉市)の生まれ。
俗名は真名之介。僧名は覚了、黙霖、雪卿と号した。
還俗後は、宇都宮雄綱、字を絢夫という。
苦労して神道、儒教、仏教を学び、その後、尊王思想を確立する。
萩に出かけた際に松陰の獄中記『幽囚録』を読み、感激する。
月性の紹介で、野山獄にいた松陰と文通を始めた。
安政の大獄で逮捕されたが、僧だったので釈放された。
釈放後も長州藩士と行動し、第一次長州征伐の際、再び捕らえられ投獄され、明治2年になって出獄。
明治4年勤王の功により士族となり、大阪府貫属(地方官の一つ)となる。
のち、湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任、明治10年ごろ隠退し、余生を『大蔵経』の和訳に捧げ、明治30年、74歳で没した。(布目唯信『吉田松陰と月性と黙霖』 興教書院 昭和17年)』(「宇都宮黙霖 ケペル先生のブログ」より)
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-fd10.html
日本革命を成功させた陰の立役者は、革命後の政府の配慮により湊川神社、石清水八幡宮(男山八幡宮)の神官を歴任している。
湊川神社は南朝方の武将楠正成を祭った神社である。
孝明天皇は北朝方であるが、毒殺説がある。
その子が明治天皇であるが、そういえば明治時代になって明治天皇ご自身が「日本の天皇は南朝が正統である。」と外国人記者団に洋行時に語ったという話を聞いたことがある。
『楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。
その墓は長らく荒廃していたが、元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。
以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。
幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。
1867年(慶応3年)に尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ、明治元年(1868年)、それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、明治2年(1869年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建された。』(湊川神社(Wikipedia)より)
水戸学者らによって崇敬された理想の勤皇家を主祭神とする神社で、その成立には徳川光圀による大日本史編纂が大きく影響を及ぼしている。
幕末の尊王攘夷思想の総本山とも言える神社の神主になった宇都宮黙霖は、元来がそういう性格の存在であったのだろう。
私には、僧侶は仮の姿に過ぎなかったように見える。
また、石清水八幡宮の神官もしているが、これは宇佐神宮、筥崎宮とともに日本三大八幡宮の一つで、清和源氏の氏神である。
『清和天皇が即位した翌年の貞観元年(859年)の夏、空海(弘法大師)の弟子であった南都大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受けた。
これを受けて、その翌年の860年、清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする。「石清水」の社名は、もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現在は石清水八幡宮の摂社)に由来する。』(石清水八幡宮(Wikipedia)より)
宇都宮黙霖は日本革命論を松陰へ説いた聾唖者であったが、聾唖者にして日本の文化に影響を及ぼした人物に杉山杉風(さんぷう)という人がいる。
芭蕉を経済的に支援した人である。
『松尾芭蕉の弟子として、杉山杉風(さんぷう)(1614~1732)がいたが、杉風は松尾芭蕉の経済的庇護者として知られている。
「鯉屋」の屋号で幕府御用の魚問屋を営み豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。
彼は幼い頃から病弱の身で、耳も聞こえなかったとも言う。
そして、芭蕉の門に入り、俳道にも精励し、20年以上芭蕉に忠実に仕えている。
なお、杉山杉風の子孫に、山口智子(女優)がいる。』(ろう者偉人伝より)
http://image01.wiki.livedoor.jp/c/u/comskill_ris_fuku/e61ca662aef00895.pdf
聾唖者こそが世の中を動かす。
そう言えるのではないだろうか。
弟敏三郎は理解能力は劣っていたようだが、同じ聾唖者である宇都宮黙霖の書簡に述べられている倒幕を唆(そそのか)す迫力は、あたかも敏三郎自身の望みでもあるように松陰には思われたのではないだろうか。
会ったこともない僧侶の手紙を野山獄で読むとき、松陰の網膜には弟の敏三郎の姿が映じていたに違いない。
その仕掛け、仕組みをこしらえたのは、山口県柳井市大畠の僧月性だった。
西郷隆盛と入水した僧月照とは別人。
『月性(げっしょう)は、幕末期の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。
諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。
鹿児島湾で西郷隆盛と共に入水した僧月照とは別人。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。
長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負(うらゆきえ)などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。
藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男子立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。
安政5年(1858年)5月、42歳で病没した。』
「妙円寺(本願寺派)の住職」であった。
ここにも「妙」の一文字が見えている。
「常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいた」海防僧の姿は、東北旅行中の松陰の言動そのものと一致している。
兵学者松陰がやった「雪の東北沿岸一帯の国防視察旅行」は、月性の暗黙命令によるものと考えられる。
「東北遊日記」の「遊」の文字にだまされてはならない。
革命後の国防戦略案を練るための『命懸けの隠密調査』と言ってよいものだ。
松陰は事情があって長州藩を脱藩して、この旅行へ出発している。
織田久著「嘉永五年東北―吉田松陰『東北遊日記』抄 」に見られる松陰の言動は、月性その人の思想・行動とまったく一致しているように見える。
青年松陰は13歳年長の僧月性によって完全なるマインドコントロール状態にあったようにも見えてくる。
『やみがたい憂国の情から、厳寒の東北を徒歩で旅した吉田松陰。
その日記を読み解きながら、東北各地の人々の意外な日常を掘り起こす。』
(「嘉永五年東北―吉田松陰『東北遊日記』抄」(商品の説明)より)
http://www.amazon.co.jp
その旅程は拙著ブログでも以前紹介したが、一部抜粋する。
『「この旅の経路は、『日本思想大系54 吉田松陰』巻末の吉田松陰年譜によれば、
江戸(嘉永5年12月14日)─水戸(ここで宮部・江帾と落ち合う。嘉永5年元旦を常州太田の宿で迎える)─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)。
江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月5日です。
『東北遊日記』は、その東北の旅の見聞記です。」
(「資料71 吉田松陰『東北遊日記』(抄)」より抜粋)
http://www.geocities.jp/sybrma/71syouin.touhokuyuunikki.html
「青森」と書いてあるが、津軽半島の北端の村、三厩村を訪ねている。
竜飛崎の少し手前の村で、奥州街道の終着宿である。
「東北遊日記」の序文は漢文だが、次の記事に読みかな文が掲載されていた。
『東北遊日記 序文
有志の士、時平かならば則ち書を読み道を学び、経国の大計を論じ、古今の得失を議す。
一旦変起らば則戎馬の間に従ひ、敵を料り交を結び、長策を建てて国家を利す。
是れ平生の志なり。
然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以てか之れを得ん。
余客歳鎮西に遊び、今春東武に抵る、略ぼ畿内・山陽・西海・東海を跋渉せり。
而して東山・北陸は土広く山峻しくして、古より英雄割拠し、奸凶巣穴す。
且つ東のかた満州に連り、北は鄂羅に隣す。
是れ最も経済国の大計の関る所にして、宜しく古今の得失を観るべきものなり。
而して余未だ其の地を経ず、深く以て恨みと為せり。
頃ろ肥人宮部鼎蔵東北遊を余に謀る。
余喜びて之れを諾す。
会々奥人安芸五蔵も亦将に常奥に抵らんとす、遂に同行を相約せり。
余因つて一冊子を作り、古今の得失、山川の形勢、凡そ目撃する所は皆将に日を以て之れを記さんとす。
嘉永四年臘月 吉田大次郎藤原矩方識す』
(「東北遊日記 (龍馬がブログ)より引用)
http://bakumatu.blog82.fc2.com/blog-entry-419.html
中略。
同行の安芸五蔵とは南部藩士のようである。
冬の道案内役を果たしてくれた人物だろう。
山口県萩市育ちの松陰が冬の東北を一人で歩けるはずはないと思っていたが、よき案内人に恵まれていたようだ。
案内人がいたとしても、西日本の人間が冬の東北を歩き回ることは想像を絶することに変わりはない。
道に迷って凍死するリスクだけは少なくなったというだけである。
安芸五蔵におんぶされるのでなければ、松陰が自分の足を苛め抜くことに何ら変わりはないのである。』(「奥州街道を歩く 東京日本橋~津軽三厩(みんまや)」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/suikyo50/59532912.html
月性は聾唖者を弟にもつ尊王家松陰に対して、倒幕を過激に主張する聾唖者の僧侶と文通させれば、松陰とその門下生をして倒幕へと走らせることが可能と目論んだのであろう。
山口県柳井市遠崎の妙円寺(本願寺派)の住職月性は、相当の知恵者である。
松陰を取り巻く「妙」の一文字は、他には指月城にあった。
萩城の毛利の前の所有者の妻である。
『吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
本能寺の変が天正10年である。
天正13年に、既に「指月」の呼び名があり、萩の鳴滝山妙性院(現禅林寺)に妙性庵が建立されていた。
戒名に「妙」の文字を持つ「見室妙性大姉」こそ、ザビエルに山口の布教を許した大名大内義隆の実姉であり、指月山の萩城主吉見正頼の正室であった。
ザビエルたちは日本での布教にあたって、戦場での必要性から男色趣味のある大名がその慣習を辞めない限り洗礼は不可能とあきらめ、その奥方や子女に洗礼を授けていったようだ。
そういえば昨年末、オバマ大統領はゲイのアフガニスタン派兵を許可する法律を通したが、戦場の夜は騒がしくなるかも知れない。
カトリックの国アメリカで、聖書に手を置き宣誓して大統領に就任したオバマである。
ザビエルがこれを聞いたら、きっとひっくり返ったことだろう。
指月山を見下ろす丘の上に住む人や墓石は、かつて指月城に住んでいた人々の末裔なのである。
彼らは大層「妙」の文字が意図するもののお世話になっていたはずである。
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