日月信仰~長州(67) [萩の吉田松陰]

SH3B0247.jpgSH3B0247日月の灯篭
SH3B0248.jpg石碑「勲業不朽」
SH3B0251.jpgSH3B0251高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品

今、私は高杉晋作宅の庭に立っている。

獄中の松陰は、晋作からの「死所を尋ねる手紙」に対しこう答えた。

『死は好むべきにも非ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず。
道尽き心安(やすん)ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

晋作の家の庭に、「勲業不朽」の石碑があった。
晋作はおそらく「死して不朽の見込み」を得たかったのであろう。

しかし、実際の晋作の人生は「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」という恩師の暖かい言葉に甘えていたように私には見える。

「勲業不朽」の4文字は、その逆説のように見える。
つまり、晋作は戦死せずに病死ししてしまったが、その業績は松陰の言葉にある「不朽」に等しいと主張しているようである。

しかし、師の松陰が、座敷で病死することなどあり得ない。
晋作は生涯松陰の後について死ねなかった自分に負い目を感じていたのであろう。

湯田温泉玄関の楓の幹に晋作が「盡国家之秋在焉」(国家のために尽す時がきた)と刻んだのは、八月十八日の政変の直後だと言われている。

八月十八日の政変を受けてはじめて、「生きて大業の見込み」を得て生きようとしたのではないだろうか。

なぜならば、八月十八日の政変は七公卿と長州藩に汚名を着せる出来事である。
長州人はすべて倒幕を主張するようになるはずだ。

後の大政奉還は、この八月十八日の政変の仕返し行為である。

つまり、長州の佐幕派である俗論党が無力化する日が、晋作が功山寺で決起した日なのである。

やはり晋作は「生きて大業の見込み」を得たから、ようやく重い腰を上げて奇兵隊を決起させたのである。

なぜならば大組士200石の高杉家跡継ぎである嫡男晋作は、無謀な行動をしても死ぬ訳にはいかなかった。

『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。』という態度は、家や親のことを考えれば晋作にはできなかったのだろう。

そのことを松陰は理解していた。

松陰がいつまでたっても立ち上がらない弟子たち向けて、決起を促したことはある。
しかし、晋作の慎重さを直接非難したことはなかったようである。

「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」という晋作へ渡した言葉は、松陰の過激さを思えば松陰らしくない表現である。

晋作だけには、生き抜くという道をやさしく容認する別人のような松陰がいる。

庭に『高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品』と表される石の祠(ほこら)があり、石の観音開きの扉は太陽と月の形にくりぬかれている。

この国のかつての支配階級の人々は知っていたことだが、主権者であるはずの国民のほとんどが知らない「信仰」がある。

それは、日月神示(ひつきしんじ)である。

神社や寺の境内に置いてある燈篭の明かりを入れる場所に太陽と月のマークの切り欠きがある。
国民は神社に詣でるときに、無意識のうちにこの日月マークのある灯篭の間を通って本堂にお参りしていることになる。

かつて拙著街道ブログで「灯篭の日月マーク」のことを書いたことがある。
それを以下に再掲する。

『熊野神社の灯篭~奥州街道(4-029)
2010/4/17(土)
TS392707見事な日月の石灯篭
TS392709月マークは空いていない。羽のようなXマーク
TS392710民家のシュロ

(宮城県 黒川郡富谷町の)富谷の熊野神社境内に立派な灯篭がある。
一つは見事な石の灯篭である。
自然石を活用している。
極太のマツタケを立てたような格好に見える。

東京・芝の増上寺(徳川家康の菩提寺)にもこれと似たような灯篭があった。

もう一つの灯篭はよくある形であるが、柱部にはエンタシスの膨らみはない。
柱の真ん中に2本の環が刻まれていて、それが竹の節に見える。
月マークが上の写真には写っているが、穴は開いていない。

写真には写っていないが、反対側の日のマークは穴が開いていた。

日月信仰のうち、日は認めるが月は認めないというサインにも見えた。

『太陽崇拝は、単一神教から始まり唯一神教に終わるとされる。

古代エジプト第18王朝のアメンホテプ4世(アクエンアテン)は、伝統的な太陽神アメンを中心とした多神崇拝を廃止し古の太陽神アテンの一神崇拝を行った。

太陽神の乗り物としては、古代エジプトにおいては空を海に見立てた「太陽の舟」(ラーやホルス)や、インド・ヨーロッパ語族圏では空を大地に見立てた「日輪の戦車」(ローマ神話のソル、『リグ・ヴェーダ』のスーリヤ、ギリシア神話のヘリオス)がある。

メソポタミア神話のシャマシュは、青銅器時代の間、重要な役割を果たす。
南アメリカにはインカ神話のインティを代表とする強い太陽崇拝があった。

太陽の消失
「太陽の消失」は、世界の太陽神話共通のテーマとなっている。
夜になると太陽が姿を消すこと(エジプト神話)、冬になると日照時間が短くなること、日食(日本・北欧神話)などといった、太陽にまつわる自然現象を説明するのに一役買っている。


エジプト神話では、毎晩ラーは冥界ドゥアトを通り抜けていた。そこでアポピスは、ラーと彼の太陽の舟が毎朝東に現れるようにした。

日本神話では、スサノオの横暴に怒った天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸(あまのいわと)に篭ってしまい、世界が暗闇になってしまう。

北欧神話では魔狼フェンリルの眷属であるスコルが太陽に、ハティが月に追いつき一時食らいつく事で日食・月食となる。
最終的にラグナロクにおいてはどちらも完全に飲まれる事になる。

中国の神話
他の多くの文化と異なり、中国では太陽や月を神格化して崇拝することはない。
その最もな理由としては、月を陰、太陽を陽とみなす、中国の文化における道教と易経の強い影響力にあると思われる。
詳しくは陰陽思想を参照されたい。

中国神話によると、初め10の太陽が天にあった。
世界が非常に熱かったので、大地には何も生えなかった。
そこで、后羿(こうげい)という弓の達人が9つの太陽を射落とし、現在に至るという。別の伝承では、日蝕は天の狼が太陽を食べることで引き起こされるとされ、日蝕の間、鍋や釜を叩いてこの「狼」を追い払う習慣が中国にあった。』(太陽神(Wikipedia)より)

灯篭の日月マークは、さまざま日月に関する神話の影響を受けているものだろう。


(奥州)街道に戻ると、「アカメ」の垣根の向こうの民家の庭に高いシュロの木があった。

ユダヤ人モーセがこの(ナツメヤシの、和訳ではシュロの)枝で神を祝えと定めたのは紀元前13世紀のことだった。(旧約聖書)

日月は、この国では第2次世界大戦の終戦をも決めてくれたようだ。

『近衛は第34、38、39代と3代にわたって内閣総理大臣をつとめた。
近衛は敗戦後にGHQよりA級戦犯者のひとりとして指名されるが、その出頭命令日前日に服毒により自ら命を絶った。

第二次世界大戦も終盤に差し掛かった昭和19年(1944年)4月18日に今後の戦局を占う意味や日本の古代史の事を聞く目的もあって東京の原宿で扶乩(フーチ)実験が行われた。

扶乩とは中国に昔から伝わる神霊の御神意をうかがう占い方法で、二人一組で行う一種の自動書記現象であるが、この時の参加者は日本の古代史を研究していた修史協翼会のメンバーや、陸軍少将の小川喜一等、十数名であった。

その場において審神者(サ二ワ)兼司会進行役をつとめたのが岡本天明であったが(天明はこの頃、東京の千駄ヶ谷に在る八幡神社(鳩森八幡神社)で正神主が出征中の為、その代わりに留守神主をしていた)、この時に降臨した神霊がその後に日月神示を天明に書記させていく「国常立尊」で、これがその後に続く機縁の始まりだと言われている。

ただこの時には「日月のかみ」や「天之日月神」と名乗り国常立尊とは名乗っていない。

(この「天之日月神」は「国常立尊」自身ではなく「国常立尊」と天明との間を仲介した媒介神霊または媒介天使だったという説も非常に有力である)

この扶乩実験の後、終戦直前の昭和20年の夏のある日に軍関係者(青年将校達数名)が天明のもとを訪れ、それまでに都合3度の内閣を組閣しその後も隠然とした力と、軍部の考えとは正反対に独自の終戦工作を画策していたらしい元内閣総理大臣経験者である「近衛文麿」に関して、将校達は「近衛は弱腰で役に立たない。このままでは日本は滅びるだけだ。そこで、御神霊の意見を是非うかがって、その返答によっては近衛の殺害も厭わない」と述べ、神霊の御意見を伺う事を天明に促し、かなり殺気だった雰囲気に包まれたと言われている。

しかし、それは天明の賢断によって無事に回避されたという。

その判断とは「軍関係者の望んでいる答えと御神霊の答えが違っている場合はどうするのか?それを聞かなければお伺いは立てられない」と天明が語った事と、軍関係者達に神霊の言葉に従うという内容の約束をさせた事であった。

神霊の答えは「それはならぬ」だったという。この頃はまだ日月神示の解読は十分されてはなかった筈だが、軍人の一部にはすでにこれを信頼し神聖視していた者もいたらしい。

神示にはその後の日本の敗戦を明らかに書記されている部分があり、希望を失っていた軍人の中でも、前もってそれを知っていた為に終戦時に自殺を思いとどまった者も多く居たという。』(日月神示(Wikipedia)より)

これがつい半世紀前の日本の政治だったのである。
高杉晋作の時代からそれほど年月は経過してはいない。

近衛家は五摂家の一つであった。

つまり藤原不比等の直系子孫である。
藤原氏の祖は中臣鎌足であった。

『(中臣鎌足の)出生地について、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説(『大鏡』)もある。

早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。
隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。

『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。

密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。
初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。
また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。

この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。
ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。

その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。

647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。

649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。

669年、死の直前に天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
すなわち「私は軍略で貢献できなかった」と嘆いているのである。
天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。
中略。

死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社に祭られる。

『多武峯縁起絵巻』には、鎌足が生まれたときにどこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたと描かれている。
この逸話にちなみ、談山神社では鎌をくわえた白狐のお守りが売られている。

墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる『多武峯略記』などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。』(藤原鎌足(Wikipedia)より)

200年頃の卑弥呼の居住地さえ魏誌倭人伝に書かれているのに、850年頃の中臣鎌足の墓処は定かではないという。

その理由は、中臣鎌足が帰化人だったからではないかと思われる。

また、天皇を含め、倭人はついこの間、つまり明治以前までは「姓」を持たなかった。』(拙著ブログより抜粋終わり)

帰化人は外交上の必要から姓を持っていたであろうということを暗示している。
天皇の日本人たちは古代から姓を持たなかった。
世界の中で古来から姓を持たない民族がいたら、日本人のルーツである可能性があろう。

高杉晋作宅の庭にあるこの灯篭のマークも、先に述べた日月神示(ひつきしんじ)と関係があるのだろう。

西行の祖先は藤原鎌足であり、西行は裕福な武士の家系に生まれている。
高杉晋作の家も、帰化人かも知れない藤原鎌足の後裔だと言いたいのだろうか。

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