杉 滝子~長州(28) [萩の吉田松陰]
SH3B0095大名クラスの墓だ!
SH3B0096その左前に松陰の実父母の墓
大名クラスの墓だとすぐわかる墓が正面に見える。
五輪の塔のような墓石であり、周囲と特別異なっている。
福島正則の娘の墓、玄興院殿の墓を東京・港区の寺に訪ねたときに、こういう立派な背の高い墓石だった。
私の祖父が住職をしていた九州の寺と因縁がある人物の墓なので、東京に転勤したときにお参りしたことがある。
その福島正則の娘の墓によく似た形式の立派な墓が高杉晋作の草庵の真向かいにあった。
つまり、松陰や晋作の居室と同様に、この大名クラスの墓は常に指月山(萩城)を毎日見下ろしていたのである。
指月城に毛利が移封されるまえに住んでいたのは、誰だったか?
『(吉見正頼は、)石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(1604)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けて』いたのである。
(「萩のシンボル「指月」について」より、一部加筆して抜粋した。)
石見領主の吉見正頼の別館であり、その正室は大内義隆の姉であった。
だから大内義隆の遺児と遺臣達は、山口を出てきっと萩の指月城へ入っただろうと私は推理した。
よってこの大名クラスの墓と思しきものは、大内義隆の末裔に当たる人物の墓であろう。
その左手前に杉百合之助と書いた立て札が見える。
その右手、つまり大名クラスの墓のまん前に久坂玄瑞の墓がある。
二人が重要な仕事をしたことを顕彰しているかのように見える。
『杉 百合之助
妻の滝との合葬墓。
吉田松陰の実父、萩藩士(実録二十六石)。
妻滝との間に三男四女(松陰は次男)。
杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、○○松陰を暖かく応援し続けた。
慶応元年(1865)没。行年六十二歳』
「○○」部は「桂神」または「柱神」と読めるが老眼でははっきりと読み取れなかった。
父親の百合之助は、慶応元年(1865)に亡くなっている。
明治元年が1868年10月23日だから、息子松陰が点火した革命の成就を見ることなく逝ったのである。
母親の滝は松陰の革命を見届けたのだろうか?
玉木文之進による過酷な教育指導を見て、「虎や、死んでおしまい!」と叫んだあの母親滝である。
『1807-1890江戸後期~明治時代の女性。
文化4年1月24日生まれ。吉田松陰の母。
児玉家の養女となり、杉百合之助(ゆりのすけ)にとつぎ3男4女を生む。
次男松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけた。
晩年仏門に帰依(きえ)した。
明治23年8月29日死去。84歳。
長門(ながと)(山口県)出身。
本姓は村田。』
(「杉滝子【すぎ-たきこ】」より)
http://kotobank.jp/
松陰の実母は大変長生きしていた。
明治以降に名を「滝子」と改めたのであろう。
江戸時代はおそらく一文字で、「お滝」の呼び名である。
あの過酷だった幼い虎之助に対する教育指導の意味を、明治以降の松陰の母親は納得していたことだろう。
最後の行に「本姓は村田」とある。
これは、村田清風家と姻戚関係にあったかどうか。
私としては大いに気になるところである。
村田清風は松陰よりも少し前の時代の藩士であるが、私には吉田松陰と良く似た匂いのする人物に思われる。
両者に接触があったとしてもわずかな期間であっただろうが、私には村田清風が松陰と同じように楓や松や棕櫚を愛していたのではないか、という気がしている。
母の滝は、「松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけた」とあるが、どういう風に支援したのだろうか。
次の記事に詳しく述べられていたので抜粋する。
『途中略。
やがて牢から出され、謹慎を命じられた。
ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。
有名な「松下村塾」である。
※ 松下村塾(しょうかそんじゅく)・・・松陰が主催した私塾。
高杉晋作、伊藤博文らを輩出した。
塾に寝泊りして苦学している者もいる。
松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、細々と門下生の世話を焼いた。
時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことが。
そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いたかきもちや熱い番茶を配り、皆の疲れをいたわっていたという。
松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。
徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。
松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。
母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。
「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」
心配する母に松陰は、
「大丈夫、帰ってきますから」と、にこやかに答えるのであった。
松陰が江戸へ向かってから五ヶ月後のこと、母は疲れてうたた寝をしていた。
すると松陰が、「お母さん。ただいま帰ってまいりました」と元気な笑顔で言った。
それは、近年にない明るい姿であった。
母は、非常に喜んで、「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。
それから、二十日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。
母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。』
(杉滝子【すぎ-たきこ】より)
http://kotobank.jp/word
滝は松門の門下生の母でもあったのだ。
総理大臣になっても、伊藤博文はきっと何度も滝の住む家に足を運んだことだろう。
そして松陰の位牌にもその後の日本国の様子を報告したことだろう。
松陰や吉田稔麿らが運営すれば違う日本国になったことだろうが、そのギャップに伊藤は悩んだのではないだろうか。
塾生として側で見聞してきた伊藤には、松陰の目指す国家像をぼんやりながら見ていたはずである。
SH3B0096その左前に松陰の実父母の墓
大名クラスの墓だとすぐわかる墓が正面に見える。
五輪の塔のような墓石であり、周囲と特別異なっている。
福島正則の娘の墓、玄興院殿の墓を東京・港区の寺に訪ねたときに、こういう立派な背の高い墓石だった。
私の祖父が住職をしていた九州の寺と因縁がある人物の墓なので、東京に転勤したときにお参りしたことがある。
その福島正則の娘の墓によく似た形式の立派な墓が高杉晋作の草庵の真向かいにあった。
つまり、松陰や晋作の居室と同様に、この大名クラスの墓は常に指月山(萩城)を毎日見下ろしていたのである。
指月城に毛利が移封されるまえに住んでいたのは、誰だったか?
『(吉見正頼は、)石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(1604)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けて』いたのである。
(「萩のシンボル「指月」について」より、一部加筆して抜粋した。)
石見領主の吉見正頼の別館であり、その正室は大内義隆の姉であった。
だから大内義隆の遺児と遺臣達は、山口を出てきっと萩の指月城へ入っただろうと私は推理した。
よってこの大名クラスの墓と思しきものは、大内義隆の末裔に当たる人物の墓であろう。
その左手前に杉百合之助と書いた立て札が見える。
その右手、つまり大名クラスの墓のまん前に久坂玄瑞の墓がある。
二人が重要な仕事をしたことを顕彰しているかのように見える。
『杉 百合之助
妻の滝との合葬墓。
吉田松陰の実父、萩藩士(実録二十六石)。
妻滝との間に三男四女(松陰は次男)。
杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、○○松陰を暖かく応援し続けた。
慶応元年(1865)没。行年六十二歳』
「○○」部は「桂神」または「柱神」と読めるが老眼でははっきりと読み取れなかった。
父親の百合之助は、慶応元年(1865)に亡くなっている。
明治元年が1868年10月23日だから、息子松陰が点火した革命の成就を見ることなく逝ったのである。
母親の滝は松陰の革命を見届けたのだろうか?
玉木文之進による過酷な教育指導を見て、「虎や、死んでおしまい!」と叫んだあの母親滝である。
『1807-1890江戸後期~明治時代の女性。
文化4年1月24日生まれ。吉田松陰の母。
児玉家の養女となり、杉百合之助(ゆりのすけ)にとつぎ3男4女を生む。
次男松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけた。
晩年仏門に帰依(きえ)した。
明治23年8月29日死去。84歳。
長門(ながと)(山口県)出身。
本姓は村田。』
(「杉滝子【すぎ-たきこ】」より)
http://kotobank.jp/
松陰の実母は大変長生きしていた。
明治以降に名を「滝子」と改めたのであろう。
江戸時代はおそらく一文字で、「お滝」の呼び名である。
あの過酷だった幼い虎之助に対する教育指導の意味を、明治以降の松陰の母親は納得していたことだろう。
最後の行に「本姓は村田」とある。
これは、村田清風家と姻戚関係にあったかどうか。
私としては大いに気になるところである。
村田清風は松陰よりも少し前の時代の藩士であるが、私には吉田松陰と良く似た匂いのする人物に思われる。
両者に接触があったとしてもわずかな期間であっただろうが、私には村田清風が松陰と同じように楓や松や棕櫚を愛していたのではないか、という気がしている。
母の滝は、「松陰が松下村塾をひらくと,これをよくたすけた」とあるが、どういう風に支援したのだろうか。
次の記事に詳しく述べられていたので抜粋する。
『途中略。
やがて牢から出され、謹慎を命じられた。
ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。
有名な「松下村塾」である。
※ 松下村塾(しょうかそんじゅく)・・・松陰が主催した私塾。
高杉晋作、伊藤博文らを輩出した。
塾に寝泊りして苦学している者もいる。
松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、細々と門下生の世話を焼いた。
時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことが。
そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いたかきもちや熱い番茶を配り、皆の疲れをいたわっていたという。
松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。
徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。
松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。
母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。
「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」
心配する母に松陰は、
「大丈夫、帰ってきますから」と、にこやかに答えるのであった。
松陰が江戸へ向かってから五ヶ月後のこと、母は疲れてうたた寝をしていた。
すると松陰が、「お母さん。ただいま帰ってまいりました」と元気な笑顔で言った。
それは、近年にない明るい姿であった。
母は、非常に喜んで、「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。
それから、二十日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。
母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。』
(杉滝子【すぎ-たきこ】より)
http://kotobank.jp/word
滝は松門の門下生の母でもあったのだ。
総理大臣になっても、伊藤博文はきっと何度も滝の住む家に足を運んだことだろう。
そして松陰の位牌にもその後の日本国の様子を報告したことだろう。
松陰や吉田稔麿らが運営すれば違う日本国になったことだろうが、そのギャップに伊藤は悩んだのではないだろうか。
塾生として側で見聞してきた伊藤には、松陰の目指す国家像をぼんやりながら見ていたはずである。
晋作とロバート・ショー大佐~長州(27) [萩の吉田松陰]
SH3B0090高杉晋作草庵から市街地を望む
SH3B0100「松陰先生の墓」の案内板
松陰の生家があり、その坂の道路向かいの20mほど高い墓場の上に高杉晋作の草庵があり、その敷地内右隅に「吉井勇 歌碑」があった。
その歌碑は斑れい岩という名の石に刻まれていて、その石の名はイタリアの工芸家が呼んでいた石材名gabbroに由来するという。
小藤文次郎(1884年〈明治17年〉)は石材名gabbroに対して「斑糲岩」という難しい訳語を作ったが、糲は「くろごめ」玄米のことで、粒状で黒い斑点のある石という意味だという。
なぜローマの石工たちが使用する石材が高杉晋作の草案、それも松陰の墓の前の敷地に使われているのか?
ポルトガル・スペインや英米仏なら大航海植民地時代の活躍した国々だからわかるが、なぜイタリアなのか?
イグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルたちがパリでイエズス会を結成したとき、彼らは会の目的をインドを含むアジア方面への布教に置いた。
ポルトガル国王は商圏拡大の欲望があって、イエズス会の航海の支援を約束した。
当然銃火器や火薬の販売ネットワークの拡大という目的があったはずだ。
日本人が小学校で習う日本史には、「ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来した。」とされているが、事実は違うようだ。
倭寇と思われる中国人帰化人である五島列島の王直が、自ら所有するジャンク船に乗って、ポルトガル商人2名を種子島に連れて行った。
漂着でもなく、ポルトガル船でもない。
今風に表現すれば、中国人華僑を通じて、西洋メーカが中国の帆船に乗って種子島城主へ鉄砲を売り込みに来たのである。
これをマーケッティング営業という。
しかし、ザビエルたちはパリからそのままインドへ向かったのではない。
キリスト教徒にとって何よりも大事な聖地であるイタリアのローマに向かった。
ローマカトリックの教皇に布教のための航海の許しを得るためにローマへ旅に出たのである。
純粋なザビエルらは、まず聖地エルサレムへ巡礼しようとしたが、当時はイスラム勢力の侵攻があって旅の安全確保ができないためにローマで足止めをくらっていた。
ローマ教皇はザビエルらに、「なぜエルサレムへ行こうとするのか、それよりも大事な聖地はここローマにある」という風なことを話したそうだ。(ザビエル書簡集を読んで)
イタリアの石材に「松陰は誰」と文字を刻み、国のために殉死した松陰の墓の近くに置いている。
吉井勇は石材の種類までは選択していないだろう。
詩の心と、石材選定の心は、おそらく一体であろう。
それは聖地での慣習ではなかったか?
「松陰は誰」という強烈な言葉に私は強く影響をされて、そのすぐ近くにある案内板の文字の意味をよく考えていなかった。
よく見ると、「萩市指定史跡 吉田松陰の墓ならびに墓所」と書いてある。
松陰の遺骸は、高杉晋作と伊藤博文らが南千住回向院から世田谷の太夫山の麓の楓の木の根元に埋葬したはずである。
萩にも松陰の遺骨があるのだろうか?
それとも野山獄から江戸小伝馬牢へ移送される際に、松陰の髪を切ってそれを遺髪として埋葬したのだろうか?
その謎解きは、高杉晋作の草案の位置にある。
松陰虎之助の生家の道路向かいにその草案はあるのだ。
晋作は上海に2ヶ月間滞在後、帰国(1862年7月)して5ヵ月後に品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち(12月)している。
年が明けて翌月(1863年1月)に高杉・伊藤らは南千住の回向院へ向かった。
泥にまみれたまま士分を剥奪された上に斬首された松陰の遺骸を清め、士分に名誉を回復してから世田谷に改葬している。
上野で徳川将軍専用の御成橋を馬に乗って逆走し、松陰の偉大さを大衆へデモンストレーションしている。
そして3月には江戸の藩主に「十年間の暇方」を請い、許されている。
今風に言えば、「社長!私は10年間休職します。」と願い出たのに近い。
これは辞表と同じであるが、なかなか踏み切れない晋作の心境がユーモアを伴いうかがえる。
その翌月(1863年4月)に萩へ戻り、この松本村の草庵に入居している。
高杉の実家は山を下り、川を渡り、萩城にかなり近い武家屋敷町にあるのだが、そこへは寄らなかったのだろう。
あるいは自宅へ寄ったかも知れないが、小説であれば寄らずに草案に一人で住み着いたと考えたい。
自宅に寄れば家族に情が移るだろうし、松陰先生との約束「盡国家」(国家に尽くす)を果たせなくなる。
わずか3ヶ月前に晋作は江戸で松陰の白骨化した遺骸を改葬したばかりである。
手ぶらで松本村へ戻ってくるはずがないではないか!
おそらく晋作は遺骨の一部を松陰のご両親の住む萩松本村の生家に届け、隣のこの草案に暫く住み着いて喪に服したのであろう。
49日の間、仲間らとともにここで軍事戦略を練ったとも考えられる。
肝心なことは、インド方面から火薬や銃器を長州へ大量に運び込む方策であったはずだ。
それに関わる人脈ネットワークが松下村塾の坂上にあるこの草庵へ頻繁に出入りしていたはずだ。
家族や友人にも秘匿しなければならないほどの秘密人脈であったのだろう。
ここは松陰のふるさとである。
納骨の儀式など一連の行事も村では数々あったはずだ。
そして松本村での喪があける49日ころの6月、晋作は奇兵隊を結成している。
晋作自身の心の決起までに、およそ49日を要したのであろう。
1863年6月6日、下関で奇兵隊を組織。
同年8月16日、教法寺事件が発生。
『教法寺事件(きょうほうじじけん)は1863年(文久3年)8月16日、下関の教法寺において長州藩諸隊の奇兵隊と撰鋒隊が衝突し撰鋒隊士が斬殺された事件。
高杉晋作により、身分を問わず農民や町人を主体とした奇兵隊が結成されると、藩士から成る藩の正規部隊である撰鋒隊(先鋒隊)との間に軋轢を生じた。
両隊とも下関に駐屯していたが、撰鋒隊士は奇兵隊を「百姓兵」「烏合の衆」などと罵り、奇兵隊士は下関戦争の際に敗退した撰鋒隊を「腰抜け侍」と罵ったりするなど、両隊の感情的な対立が深刻化していた。
奇兵隊は前田砲台、撰鋒隊は壇ノ浦砲台を担当しており、毛利定広が両砲台を視察することとなった。
最初に奇兵隊が銃隊の訓練・剣術試合などを披露し、続いて撰鋒隊が披露する事となっていたが、時間が押し日没が近づいたため撰鋒隊の披露は中止されてしまった。
撰鋒隊士は視察を仕切っていた奇兵隊士宮城彦輔の陰謀であるとしてこれを恨み、宮城や奇兵隊を激しく罵倒し、宮城を襲う勢いを示した。
これを知った宮城ら激昂した奇兵隊士数十人は、撰鋒隊の屯所である教法寺に押し寄せた。
これに驚いた撰鋒隊士の多くは逃走したが、病臥中であった隊士蔵田幾之進が奇兵隊士により斬殺された。
それを知った撰鋒隊はその報復に、奇兵隊用人の奈良屋源兵衛を殺害した。
藩は騒動の原因となった宮城彦輔に切腹を命じ、宮城は8月27日、教法寺において切腹した。
高杉晋作は切腹を免れたものの事件の責任を問われ、結成からわずか3ヶ月程で奇兵隊総督を罷免された。
河上弥市と滝弥太郎の二人がその後任となり、奇兵隊の本拠は小郡に移動させられた。』
(教法寺事件(Wikipedia)より)
長州藩諸隊の奇兵隊と藩の正規部隊の撰鋒隊の衝突は、南北戦争の北軍における黒人奴隷部隊と白人部隊の対比を思わせる。
この奇兵隊結成直後の身分制度に起因する軍隊内の軋轢の様子を読むと、映画「グローリー」の主人公である黒人部隊の白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の姿と高杉晋作の姿がダブって見える。
士分にないものたちを、たった一人の士分の晋作が教育し指導する。
そこには、殺傷能力を増してきた鉄砲の存在がある。
武家に生まれていないものであっても、強力な武器を手にすることを可能にしてくれた。
奇兵隊の結成は1863年6月6日でありマサチューセッツ第54連隊の結成も1863年である。
北軍の黒人部隊が、はじめて南軍の白人部隊を負かしたワーグナー砦の戦いは、同じ1863年の7月18日であった。
そして長州の教法寺事件は同年8月16日に発生している。
こちらは同じ黄色人種同士ではるが、代々続いてきた武家の子孫の正規軍と、農民奴隷の軍隊の衝突であった。
『南北戦争では黒人の従軍を認めると境界州も連邦を離脱するおそれがあるため、当初黒人の従軍は認められなかった。
しかし、南部から逃亡奴隷の流入が続き、かつ、兵力増強の必要性が増し、リンカーンも方針を変更し、1863年に黒人の従軍が解禁された。黒人は臆病で役に立たないとの偏見が強く残る中、黒人のリーダーたちはこの方針変更を強く支持し、アフリカ・ミーティング・ハウスなどで兵の募集が行われた。
こうして編成された黒人だけのマサチューセッツ第54連隊は、白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の指揮の下、チャールストン攻略作戦に参加し、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
1863年7月18日の戦闘は激しく、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。
連隊長のショー大佐は戦死し、William Carney(ウィリアム・カーニー)軍曹は3度も銃撃されながら軍旗を守った功績で黒人として初めて米軍最高の名誉であるCongressional Medal of Honor(議会名誉勲章)を受章した。マサチューセッツ第54連隊の功績を記念して、ボストンコモンには、Augustus Saint-Gaudens(オーガスタス・セント・ゴーデンス)制作のブロンズのレリーフが置かれている。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
当時のイタリア・ローマから地球全体を眺めると、アメリカと日本で、身分制度を撤廃させるかのごとき重大な軍事戦略の転換が同時に進行していたことになろう。
それを可能としたのは、ノーベル賞を創設したダイナマイトの発明家アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 - 1896年12月10日)の存在である。
ノーベルがスウェーデン ストックホルム生まれであることは知られているが、死没1896年12月10日でイタリアのサンレモだった。
ノーベル賞もローマ教皇のコントロール下にあるのではないだろうか。
『ノーベル本人は1855年にニトログリセリンのことを知る。
しかし、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。
1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。
1863年にはスウェーデンで特許を得てストックホルムの鉄道工事で認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。
1864年には爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。
ノーベル本人も怪我を負う。
この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマニュエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。
この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。
また合成者のアスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero) に対し充分な対価を支払った。 1865年ニトログリセリンの製造業を開始する。』(アルフレッド・ノーベル(Wikipedia)より)
これにより、以後の軍隊は人間への殺傷能力を飛躍的に高めていく。
黒人奴隷軍が北軍の白人部隊に勝利したことによって、アメリカ南北戦争の事実上の終結が決定している。
兵士の数だけでも白人+黒人で構成される北軍が圧倒的に有利である。
何よりも黒人奴隷が南部の白人社会に対して持っていた怨念が生むエネルギーは凄いものがあっただろう。
皮肉なことであるが、南北戦争の終結により、日本革命は無血開城だけで平和に終わることはできなくなった。
世界中に武器が余る時代に突入したのである。
薩摩や新潟の港に大量の最新鋭兵器が輸入され、大量の血が戊辰戦争で流されたことは多くの日本人は知っている。
しかし、なぜ最新鋭兵器が続々と日本へと運ばれたのか、その理由はあまり知らない。
品川弥二郎が皇室から内示を受けていた奥羽鎮撫総督府下参謀を急遽辞退し、木戸孝允が代わりに敢えて世良修蔵を指名した理由は、南北戦争の終結を強い関係があったのではないだろうか。
敢えて奥州で殺傷を伴う戦争をやらねばならない状況が発生し、説得力を持つ黒田清隆(薩摩)さと松下村塾生の品川弥二郎(長州)が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退した理由は、東北地方で英米仏が戦争をやらせたかったからではないか?!
日本革命の成就に関して、長州はとりわけ英米にはお世話になっているはずである。
倒幕まではフランスは徳川幕府の支援をしていたが、幕府の政権返上とともに新政府、つまり薩長政府へ取り入ったはずである。
英米仏の新しい日本政府への強い要請は、だぶついている兵器の大量輸入と火薬と弾薬の大量消費であったのだ。
SH3B0100「松陰先生の墓」の案内板
松陰の生家があり、その坂の道路向かいの20mほど高い墓場の上に高杉晋作の草庵があり、その敷地内右隅に「吉井勇 歌碑」があった。
その歌碑は斑れい岩という名の石に刻まれていて、その石の名はイタリアの工芸家が呼んでいた石材名gabbroに由来するという。
小藤文次郎(1884年〈明治17年〉)は石材名gabbroに対して「斑糲岩」という難しい訳語を作ったが、糲は「くろごめ」玄米のことで、粒状で黒い斑点のある石という意味だという。
なぜローマの石工たちが使用する石材が高杉晋作の草案、それも松陰の墓の前の敷地に使われているのか?
ポルトガル・スペインや英米仏なら大航海植民地時代の活躍した国々だからわかるが、なぜイタリアなのか?
イグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルたちがパリでイエズス会を結成したとき、彼らは会の目的をインドを含むアジア方面への布教に置いた。
ポルトガル国王は商圏拡大の欲望があって、イエズス会の航海の支援を約束した。
当然銃火器や火薬の販売ネットワークの拡大という目的があったはずだ。
日本人が小学校で習う日本史には、「ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来した。」とされているが、事実は違うようだ。
倭寇と思われる中国人帰化人である五島列島の王直が、自ら所有するジャンク船に乗って、ポルトガル商人2名を種子島に連れて行った。
漂着でもなく、ポルトガル船でもない。
今風に表現すれば、中国人華僑を通じて、西洋メーカが中国の帆船に乗って種子島城主へ鉄砲を売り込みに来たのである。
これをマーケッティング営業という。
しかし、ザビエルたちはパリからそのままインドへ向かったのではない。
キリスト教徒にとって何よりも大事な聖地であるイタリアのローマに向かった。
ローマカトリックの教皇に布教のための航海の許しを得るためにローマへ旅に出たのである。
純粋なザビエルらは、まず聖地エルサレムへ巡礼しようとしたが、当時はイスラム勢力の侵攻があって旅の安全確保ができないためにローマで足止めをくらっていた。
ローマ教皇はザビエルらに、「なぜエルサレムへ行こうとするのか、それよりも大事な聖地はここローマにある」という風なことを話したそうだ。(ザビエル書簡集を読んで)
イタリアの石材に「松陰は誰」と文字を刻み、国のために殉死した松陰の墓の近くに置いている。
吉井勇は石材の種類までは選択していないだろう。
詩の心と、石材選定の心は、おそらく一体であろう。
それは聖地での慣習ではなかったか?
「松陰は誰」という強烈な言葉に私は強く影響をされて、そのすぐ近くにある案内板の文字の意味をよく考えていなかった。
よく見ると、「萩市指定史跡 吉田松陰の墓ならびに墓所」と書いてある。
松陰の遺骸は、高杉晋作と伊藤博文らが南千住回向院から世田谷の太夫山の麓の楓の木の根元に埋葬したはずである。
萩にも松陰の遺骨があるのだろうか?
それとも野山獄から江戸小伝馬牢へ移送される際に、松陰の髪を切ってそれを遺髪として埋葬したのだろうか?
その謎解きは、高杉晋作の草案の位置にある。
松陰虎之助の生家の道路向かいにその草案はあるのだ。
晋作は上海に2ヶ月間滞在後、帰国(1862年7月)して5ヵ月後に品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち(12月)している。
年が明けて翌月(1863年1月)に高杉・伊藤らは南千住の回向院へ向かった。
泥にまみれたまま士分を剥奪された上に斬首された松陰の遺骸を清め、士分に名誉を回復してから世田谷に改葬している。
上野で徳川将軍専用の御成橋を馬に乗って逆走し、松陰の偉大さを大衆へデモンストレーションしている。
そして3月には江戸の藩主に「十年間の暇方」を請い、許されている。
今風に言えば、「社長!私は10年間休職します。」と願い出たのに近い。
これは辞表と同じであるが、なかなか踏み切れない晋作の心境がユーモアを伴いうかがえる。
その翌月(1863年4月)に萩へ戻り、この松本村の草庵に入居している。
高杉の実家は山を下り、川を渡り、萩城にかなり近い武家屋敷町にあるのだが、そこへは寄らなかったのだろう。
あるいは自宅へ寄ったかも知れないが、小説であれば寄らずに草案に一人で住み着いたと考えたい。
自宅に寄れば家族に情が移るだろうし、松陰先生との約束「盡国家」(国家に尽くす)を果たせなくなる。
わずか3ヶ月前に晋作は江戸で松陰の白骨化した遺骸を改葬したばかりである。
手ぶらで松本村へ戻ってくるはずがないではないか!
おそらく晋作は遺骨の一部を松陰のご両親の住む萩松本村の生家に届け、隣のこの草案に暫く住み着いて喪に服したのであろう。
49日の間、仲間らとともにここで軍事戦略を練ったとも考えられる。
肝心なことは、インド方面から火薬や銃器を長州へ大量に運び込む方策であったはずだ。
それに関わる人脈ネットワークが松下村塾の坂上にあるこの草庵へ頻繁に出入りしていたはずだ。
家族や友人にも秘匿しなければならないほどの秘密人脈であったのだろう。
ここは松陰のふるさとである。
納骨の儀式など一連の行事も村では数々あったはずだ。
そして松本村での喪があける49日ころの6月、晋作は奇兵隊を結成している。
晋作自身の心の決起までに、およそ49日を要したのであろう。
1863年6月6日、下関で奇兵隊を組織。
同年8月16日、教法寺事件が発生。
『教法寺事件(きょうほうじじけん)は1863年(文久3年)8月16日、下関の教法寺において長州藩諸隊の奇兵隊と撰鋒隊が衝突し撰鋒隊士が斬殺された事件。
高杉晋作により、身分を問わず農民や町人を主体とした奇兵隊が結成されると、藩士から成る藩の正規部隊である撰鋒隊(先鋒隊)との間に軋轢を生じた。
両隊とも下関に駐屯していたが、撰鋒隊士は奇兵隊を「百姓兵」「烏合の衆」などと罵り、奇兵隊士は下関戦争の際に敗退した撰鋒隊を「腰抜け侍」と罵ったりするなど、両隊の感情的な対立が深刻化していた。
奇兵隊は前田砲台、撰鋒隊は壇ノ浦砲台を担当しており、毛利定広が両砲台を視察することとなった。
最初に奇兵隊が銃隊の訓練・剣術試合などを披露し、続いて撰鋒隊が披露する事となっていたが、時間が押し日没が近づいたため撰鋒隊の披露は中止されてしまった。
撰鋒隊士は視察を仕切っていた奇兵隊士宮城彦輔の陰謀であるとしてこれを恨み、宮城や奇兵隊を激しく罵倒し、宮城を襲う勢いを示した。
これを知った宮城ら激昂した奇兵隊士数十人は、撰鋒隊の屯所である教法寺に押し寄せた。
これに驚いた撰鋒隊士の多くは逃走したが、病臥中であった隊士蔵田幾之進が奇兵隊士により斬殺された。
それを知った撰鋒隊はその報復に、奇兵隊用人の奈良屋源兵衛を殺害した。
藩は騒動の原因となった宮城彦輔に切腹を命じ、宮城は8月27日、教法寺において切腹した。
高杉晋作は切腹を免れたものの事件の責任を問われ、結成からわずか3ヶ月程で奇兵隊総督を罷免された。
河上弥市と滝弥太郎の二人がその後任となり、奇兵隊の本拠は小郡に移動させられた。』
(教法寺事件(Wikipedia)より)
長州藩諸隊の奇兵隊と藩の正規部隊の撰鋒隊の衝突は、南北戦争の北軍における黒人奴隷部隊と白人部隊の対比を思わせる。
この奇兵隊結成直後の身分制度に起因する軍隊内の軋轢の様子を読むと、映画「グローリー」の主人公である黒人部隊の白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の姿と高杉晋作の姿がダブって見える。
士分にないものたちを、たった一人の士分の晋作が教育し指導する。
そこには、殺傷能力を増してきた鉄砲の存在がある。
武家に生まれていないものであっても、強力な武器を手にすることを可能にしてくれた。
奇兵隊の結成は1863年6月6日でありマサチューセッツ第54連隊の結成も1863年である。
北軍の黒人部隊が、はじめて南軍の白人部隊を負かしたワーグナー砦の戦いは、同じ1863年の7月18日であった。
そして長州の教法寺事件は同年8月16日に発生している。
こちらは同じ黄色人種同士ではるが、代々続いてきた武家の子孫の正規軍と、農民奴隷の軍隊の衝突であった。
『南北戦争では黒人の従軍を認めると境界州も連邦を離脱するおそれがあるため、当初黒人の従軍は認められなかった。
しかし、南部から逃亡奴隷の流入が続き、かつ、兵力増強の必要性が増し、リンカーンも方針を変更し、1863年に黒人の従軍が解禁された。黒人は臆病で役に立たないとの偏見が強く残る中、黒人のリーダーたちはこの方針変更を強く支持し、アフリカ・ミーティング・ハウスなどで兵の募集が行われた。
こうして編成された黒人だけのマサチューセッツ第54連隊は、白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の指揮の下、チャールストン攻略作戦に参加し、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
1863年7月18日の戦闘は激しく、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。
連隊長のショー大佐は戦死し、William Carney(ウィリアム・カーニー)軍曹は3度も銃撃されながら軍旗を守った功績で黒人として初めて米軍最高の名誉であるCongressional Medal of Honor(議会名誉勲章)を受章した。マサチューセッツ第54連隊の功績を記念して、ボストンコモンには、Augustus Saint-Gaudens(オーガスタス・セント・ゴーデンス)制作のブロンズのレリーフが置かれている。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
当時のイタリア・ローマから地球全体を眺めると、アメリカと日本で、身分制度を撤廃させるかのごとき重大な軍事戦略の転換が同時に進行していたことになろう。
それを可能としたのは、ノーベル賞を創設したダイナマイトの発明家アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 - 1896年12月10日)の存在である。
ノーベルがスウェーデン ストックホルム生まれであることは知られているが、死没1896年12月10日でイタリアのサンレモだった。
ノーベル賞もローマ教皇のコントロール下にあるのではないだろうか。
『ノーベル本人は1855年にニトログリセリンのことを知る。
しかし、この爆薬は狙って爆発させることが難しいという欠点があったので起爆装置を開発。
1862年にサンクトペテルブルクで水中爆発実験に成功。
1863年にはスウェーデンで特許を得てストックホルムの鉄道工事で認められるが、軍には危険すぎるという理由で採用を拒まれる。
1864年には爆発事故で弟エミール・ノーベルと5人の助手が死亡。
ノーベル本人も怪我を負う。
この事故に関してはノーベル本人は一切語っていないが、父イマニュエルによればニトログリセリン製造ではなくグリセリン精製中に起きたものだという。
この事故で当局からストックホルムでの研究開発が禁止されたためハンブルクに工場を建設。
また合成者のアスカニオ・ソブレロ (Ascanio Sobrero) に対し充分な対価を支払った。 1865年ニトログリセリンの製造業を開始する。』(アルフレッド・ノーベル(Wikipedia)より)
これにより、以後の軍隊は人間への殺傷能力を飛躍的に高めていく。
黒人奴隷軍が北軍の白人部隊に勝利したことによって、アメリカ南北戦争の事実上の終結が決定している。
兵士の数だけでも白人+黒人で構成される北軍が圧倒的に有利である。
何よりも黒人奴隷が南部の白人社会に対して持っていた怨念が生むエネルギーは凄いものがあっただろう。
皮肉なことであるが、南北戦争の終結により、日本革命は無血開城だけで平和に終わることはできなくなった。
世界中に武器が余る時代に突入したのである。
薩摩や新潟の港に大量の最新鋭兵器が輸入され、大量の血が戊辰戦争で流されたことは多くの日本人は知っている。
しかし、なぜ最新鋭兵器が続々と日本へと運ばれたのか、その理由はあまり知らない。
品川弥二郎が皇室から内示を受けていた奥羽鎮撫総督府下参謀を急遽辞退し、木戸孝允が代わりに敢えて世良修蔵を指名した理由は、南北戦争の終結を強い関係があったのではないだろうか。
敢えて奥州で殺傷を伴う戦争をやらねばならない状況が発生し、説得力を持つ黒田清隆(薩摩)さと松下村塾生の品川弥二郎(長州)が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退した理由は、東北地方で英米仏が戦争をやらせたかったからではないか?!
日本革命の成就に関して、長州はとりわけ英米にはお世話になっているはずである。
倒幕まではフランスは徳川幕府の支援をしていたが、幕府の政権返上とともに新政府、つまり薩長政府へ取り入ったはずである。
英米仏の新しい日本政府への強い要請は、だぶついている兵器の大量輸入と火薬と弾薬の大量消費であったのだ。
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