アヘンの大和接近~長州(33) [萩の吉田松陰]

SH3B0104.jpgSH3B0104高杉晋作の墓(行年29歳)
SH3B0105.jpgSH3B0105晋作の墓から松陰の墓と楓を見下す
SH3B0106.jpgSH3B0106秋11月に訪れれば、真っ赤な楓の葉の下に松陰の墓を見出すだろう

『松蔭の登場:第一の条件
中略。

世界的にも、民族が爆発的にその力を発揮するには、第一に長い休眠期と居心地の悪い環境にあることを歴史が示している。
そのいずれもが江戸末期の西国の諸藩の多くを幕末に飛躍する適格者にしたのである。

松蔭の登場:第二の条件
1838年の春、アヘンの密貿易に手を焼いた清の道光帝は全国から有能な人材を登用した。その一人であった林則徐は皇帝の信頼を受けてアヘンの禁止に乗り出す。
相手になる商人はイギリスを中心とするヨーロッパのアヘン船であった。

林則徐の強力なアヘンの取り締まりは当然、アヘンで利権を得ていた人々との間に様々なトラブルを呼び、遂にアヘン擁護側のイギリス艦隊の出撃となる。

イギリス政府は、アヘン貿易を守るという大義名分の立たない戦争に乗り気ではなかったが、それでも結局、イギリス商人の利害を守るために艦隊の派遣を決意した。

その出陣決定の直前、イギリス下院では青年代議士グラッドストーンが政府の批判演説を行う。

「清国にはアヘン貿易を止めさせる権利がある。それなのになぜこの正当な清国の権利を踏みにじって、わが国の外務大臣はこの不正な貿易を援助したのか。
これほど不正な、わが国の恥さらしになるような戦争はかつて聞いたこともない。

大英帝国の国旗は、かつては正義の味方、圧制の敵、民族の権利、公明正大な商業の為に戦ってきた。

それなのに、今やあの醜悪なアヘン貿易を保護するために掲げられるのだ。
国旗の名誉はけがされた。

もはや我々は大英帝国の国旗が扁翻と翻っているのをみても、血湧き肉おどるような感激を覚えないだろう。」

蒸気機関と鐵の生産力で有頂天になっていた当時のイギリスにもグラッドストーンの様な正義の人もいたが、結局イギリスは政府の決定通り遠征軍を極東に送った。

戦争は約2年に及んだが、最後の決戦は1841年、4月から5月の作浦と鎮江で行われた。作浦の戦いでは、イギリス軍の戦死9名に対して、清軍は女子供を含み、イギリス軍の埋葬者だけで1000名を数えたと記録されている。

イギリス軍は好んで女性、子供の殺戮をしたわけではなかったが、戦いは圧倒的な火力を持つイギリス軍と貧弱な清軍である。
戦いと言えるものではなく、事実多くの女性子供が殺された。

また、鎮江ではイギリス軍の戦死者37に対して、1600の清軍が死亡した。
まさに圧倒的な火力を使っての中国人の虐殺と言えるものである。

8月には清は降伏し、香港の割譲、戦費など2000百万ドルの賠償を支払うことになった。勝てば官軍の時代である。
アヘン戦争のきっかけやその大義名分がどうであれ、勝った方が正しい。
だから、イギリスは香港を手に入れ、賠償金までもらうのだ。

他国にアヘンの貿易を迫り、アヘンの密輸を認めないと言うって戦争を仕掛け、圧倒的な力で虐殺し、その上国土の一部を取り上げ、金まで徒労というのだから、まさに世にも醜悪な江寧条約である。

しかしさすがに戦争のきっかけとなったアヘンについてはこの条約に何も触れられていない。

このとき割譲された香港は今年返還の時を迎える。
テレビで伝えられる香港の返還は何かわれわれにも華やかなものが感じられ、返還の式典にイギリス元首相が列席して愛嬌を振りまいている。

式典に参加する中国人はどう感じているのであろうか。

香港返還の式典こそ、ヨーロッパ列強が今から150年前、世界を力で支配した醜い歴史の証拠であり、イギリスの国旗の下で行われた恥を晒すことになるのである。

それはともかくこの理不尽なヨーロッパの行為は隣国日本に衝撃を与えずには居られなかった。

当時、長崎でこのアヘン戦争についての詳報に接した吉田松陰は驚愕した。
平戸滞在中に松蔭が読んだとされる書物に「阿芙蓉彙聞」7冊があり、松蔭が必読書としてあげているものにも「阿片始末」がある。

松蔭が読んだ書の一文字一文字が心に刺さり、それが松蔭の口を通して弟子達に語られ、やがて日本を救うことなる。

第二の条件は、眠りについている民族が厳しいムチを打たれることである。
居心地の悪い環境にあっても、どうやら休んでいられるような場合には、人間は起きあがらない。

周囲の状態が予断を許さず、このままでは自分たちの生死が問われると言うことになって、人間は初めて起きあがるのである。
中略。

松蔭の登場 : 第三の条件
歴史の大きな転換期には、まるで歴史の流れを個人の体の中に取り込んでいるかの様な人物が現れるものである。
世界史の大きな舞台では、ローマのシーザー、蒙古のチンギス・ハーン、そしてフランスのナポレオン、日本では豊臣秀吉などのがその典型的な人物である。
もちろん、どの国にも数人以上のこの種の人物を捜すことができる。それぞれが偉大な人物ではあるが、多くは夜空に輝く流れ星のように、急激に光り輝き、そして不幸なうちにその人生を終える。

それは、その人物が歴史を動かしているようでもあり、あるいは、トルストイがその小説の中で書いているように、歴史がその人物を翻弄しているようでもある。

1858年、この年は吉田松陰にとっても特別な年であった
4月には反動派の井伊直弼が大老に就任し、9月には老中・間部詮勝が上京して志士の逮捕を始めた。
事態は急速に進み、松蔭の心は燃える。

11月には老中暗殺の計画を立てて、血判書を作り、資金の調達を計画する。

これにはさすがの松蔭の門弟も「やりすぎではないか」と後込みをする。
久坂玄端、高杉晋作、飯田正伯、尾寺新之丞、そして中谷正亮らの高弟の考え方は、いわゆる常識的なものである。

松蔭は無謀にも老中を殺害して幕府に打撃を与えようとしているが、時期が悪い。
いま倒幕の旗を揚げたにしてもそれは失敗に終わるだろう。
そのうちに混乱が来るからそのときを狙うのが上策である、というものである。

確かに、このような考え方は「普通の人」を納得させるには適当であるし、師を思ってかばう高弟達の思いは胸を打つ。

しかし、松蔭は違っていた。

「沢山な御家来のこと、吾が輩のみが忠臣に之れなく候。
吾が輩が皆に先駆けて死んで見せたら親感しておこるものあらん。
夫れがなき程では何方時を待ちたるとて時はこぬなり。
且つ今日の逆焔は誰が是を激したるぞ、吾が輩に非ずや。
吾が輩なければ此の逆焔千年経ちてもなし。
吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。

忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むようなものではなし。
江戸居の諸友、久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違ふなり。
其の分かれる所は、僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなす積もり」

今は時期ではない、というのは死んでも敵を打ち破る気概がなく、自分の立身出世も考えの中に入っているのじゃないか、何時死んでも良いのなら、今死んだらよい、という松蔭の言葉はそれが真実のものであるだけに、弟子の心をも貫く。

確かに、必要なものは必要なのである。
やらなければならないことは何時やっても同じで、どうせならすぐやるべきである。
人は多くいるのだから、自分が死んでもそれはかまわないではないか。
自分の身の危険と関係ない我々には理解できることでも、当事者には判らないことだ。

それは、自分の意見がいかにも最らしく見えてもその中には自分が大切であるという利己的な考えが入っているのである。それが渦中に居ても判ったのは松蔭、ただ一人である。

第三の条件は歴史をその体内に宿した人物の出現である。

居心地は悪いが長い眠りで爆発力をつけた民族、
生死にかかわるような急激な環境の悪化、
そして歴史そのものをその体内に宿した強力な個性を持った人物、

この三つが重なった地、それが幕末の萩であり、そして吉田松陰であった。

日本が植民地にならなかったのはなぜか?という問いに対する答えは既に与えられた。
それは、
「日本には吉田松陰という一人の英傑が存在した」ということ、一点なのである。

その点で、松蔭は近代日本の恩人であり、吉田松陰の前には、江戸末期の大秀才、老中阿部正弘や首相伊藤博文なども小さく見えるのはやむを得ない。
伊藤博文が松蔭の教えを充分に理解していなかったということも、いわば当然である。

松蔭の大きさの前には当時のどんな人を持ってきても格が違うのである。
そうだからといって伊藤博文を非難しては博文が可哀想と言うものである。』
(「恩人・吉田松陰 (2) 松蔭登場の三条件」より)
http://takedanet.com/2007/04/post_8d64.html

師の松陰は、敢えて主だった優れた弟子たちに対して「久坂、中谷、高杉なども皆僕と所見違ふ」と断定している。

「僕(松陰)はこの国と天皇と人民への忠義を実践するが、君らは自らの功績を追い求める。」と手厳しい。

「何時死んでも良いのなら、今死んだらよい。」

決起の前夜、湯田温泉の松田屋旅館の玄関先で太い楓の幹の皮を削ぎながら、晋作はこの師の言葉を思い出したことだろう。


上海旅行で晋作に点火~長州(32) [萩の吉田松陰]

SH3B0103.jpgSH3B0103松陰二十一(回孟士)の墓碑銘、その後方1段上に高杉晋作の墓

「松陰二十一……」の墓碑が見える。「……」は供えられた樹木の葉でさえぎられて見えない。
しかし、それは「松陰二十一回孟士之墓」の墓碑銘であることは自明である。
その右隣に義父吉田大助の墓がある。

『天保5年(1834年)6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

その後方1段上から、やや右斜め下に松陰を見下ろすような位置に高杉晋作の墓が見える。
晋作は松下村塾では松陰の弟子でありながら、長州藩での身分は松陰よりはるかに高い上士であった。

父杉百合之助は家禄わずか26石の萩藩士であった。
養子に行った吉田家は山鹿流兵学師範であり家禄は57石余。

一方、高杉家は「馬廻り役」で家禄は200石である。
戦になった場合に主君の馬の廻りを護衛する大事な役目を担う。

だから晋作の墓が一段高い位置にあっても萩の人々にとっては不思議ではない。
しかし、明治維新革命は一体誰によって実効支配されたか、後世の歴史研究者たちは松陰の功績が大なることをよく知っているし、その教えに弟子の高杉晋作はよく応えたこともよく知られている。

ならば、師匠松陰の墓の下段に晋作は位置するべきだろう。

世田谷の墓所では墓石に高低差は殆どついていない。
ほぼみな平等の大きさの墓石であり、それは松陰の万民平等の思想をよく晋作らが配慮して設計したものに見える。

一見して松陰の墓を見出せるようになっていない。
正面中央付近にある墓が松陰であることが、近づいてみてあとでわかる。

しかし、ここでは晋作が上段に座り松陰の行動を見張っているかのようにも見える。

萩の高杉晋作の役割は、当初は松下村で塾を主催している松陰の見張り役だったのではないだろうか?
ミイラ取りが結局ミイラにされてしまった姿が、奇兵隊総督の晋作ではなかったか。

今こそ国のために立てと獄中から松陰が晋作に檄を飛ばすものの、優柔不断でなかなか決行に踏み切れなかった。

晋作に、上海洋行を薦めたのは松陰ではなかったか。
松陰は平戸滞在の間に上海での出来事を詳細に学んでいるから、行ったことがなくても中国で起きていることはよく知っていたはずだ。

松陰が説く国家の危機は、上海に実際行って見聞しなければわからないだろう。

上海から帰国後の晋作は超過激行動を連続して起こしている。

拙著記事から抜粋する。

『晋作は上海に2ヶ月間滞在後、帰国(1862年7月)して5ヵ月後に品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち(12月)している。

年が明けて翌月(1863年1月)に高杉・伊藤らは南千住の回向院へ向かった。
泥にまみれたまま士分を剥奪された上に斬首された松陰の遺骸を清め、士分に名誉を回復してから世田谷に改葬している。

上野で徳川将軍専用の御成橋を馬に乗って逆走し、松陰の偉大さを大衆へデモンストレーションしている。

そして3月には江戸の藩主に「十年間の暇方」を請い、許されている。
今風に言えば、「社長!私は10年間休職します。」と願い出たのに近い。

これは辞表と同じであるが、なかなか踏み切れない晋作の心境がユーモアを伴いうかがえる。

その翌月(1863年4月)に萩へ戻り、この松本村の草庵に入居している。
中略。

わずか3ヶ月前に晋作は江戸で松陰の白骨化した遺骸を改葬したばかりである。
手ぶらで松本村へ戻ってくるはずがないではないか!
おそらく晋作は遺骨の一部を松陰のご両親の住む萩松本村の生家に届け、隣のこの草案に暫く住み着いて喪に服したのであろう。

49日の間、仲間らとともにここで軍事戦略を練ったとも考えられる。

中略。

そして松本村での喪があける49日ころの6月、晋作は奇兵隊を結成している。
晋作自身の心の決起までに、およそ49日を要したのであろう。

1863年6月6日、下関で奇兵隊を組織。
同年8月16日、教法寺事件が発生。』

地元の人々は両者の家禄の違いを良く知っているが、松陰や晋作の死亡当時には明治維新の歴史的背景や松陰の果たした役割などはまだよく知られていない。

僧侶と親族が集まって墓石の位置を決めたのであろうから、当時の力関係などが主な墓石位置の決定理由となったのではあるまいか。

舞台裏をほぼ知っている現代の我々から見れば、松陰よりも高く奥まっている晋作の墓の位置はちょっとおかしく見える。

晋作の上海旅行は1862年のことであるが、松陰はその12年も前に平戸で詳細な情報を入手していた。

『第4節 吉田松陰の西遊
 
嘉永3年(1850)、吉田松陰は21歳のとき、平戸の葉山鎧軒、山鹿高紹(万助)の教えを受けるために、9月平戸に来た。

浦の町の「紙屋」に投宿し、50余日間、勉学に励んだ。

先ず、鎧軒に「儒学」を学び、その高潔な博学に感銘を受け、おおいに啓発された。
また、山鹿高紹に教えを乞い、朝夕、清水川の山鹿家に出入りして、「山鹿兵学」の講義を受け、そのかたわら山鹿素行の著述を悉く読破した。

或る時は、藩士たちの夜学会に出席し、請われて「経学」を講義した。
豊島権平からは、海外事情や砲術のことを聞き、開眼啓発された。
松陰の『西遊日記』に詳しく述べられている。

彼が、平戸の土風を称揚したものの一節に、
「僕嘗て平戸に遊ぶ。
その士林をみるに家毎に必ず小舸を置く。
少しく余暇あれば洋に出でて魚を捕うるを楽しみと為す。
予が知るところの葉山左内なるもの、食禄五百石、藩中老に列す。
其齢亦既に六十余、官暇あれば出でて大洋に漁す。
常に日く、海島の土此の如くするにあらずんば事に臨んで用をなさずと。
西南諸国右より最も水戦に長ずと称す。
而て平戸今頗る古風を存す、蓋し由りて然る所あるなり云々」とある。

のちに、松陰が松下村塾を開いて、後輩を教育、激励し、勤王を唱えたのも、かつて平戸で修得した山鹿流によるものがあったのであろう。

松陰はこの西遊のとき、佐世保を発って平戸に向かう途中、江迎の庄屋に一泊した。
 
『一、十三日(九月)雨、早岐より佐世保浦へ二里、浦より中里へ八里、中里より江向(江迎)へ四里、共に八里。(一里は五〇町と言)
皆夜に入り江向に着し、庄屋の家に投宿す。是日の艱難実に遺忘すべからず。

一には八里の間、皆山坂嶺岨の地なり。
二には雨に依りて、途中傘を買い煩を添う。
三は独行、呼びて応うるものなし。唱えて和するものなし。
四は新泥滑々、行歩遅渋す。
五は夜に入り宿に至り、宿すべき家なく、徘徊周章し、終に庄屋の家に宿す。
其の他の艱難枚挙に勝えず。

江向は海浜の地なり。
是の夜、平戸の人某と同宿す。

昨夜二朱一片出して銅銭に代う、是亦極めて重し。
佐世保にて蓬杖を忘れ半程ばかり還る。
佐世保の一医僧の誤る所なり。

浦に入る。
江向を距てること一里半程の処で日暮る、是の夜平戸人に遭わずんば、其れ亦如何ぞや。天なるかな。
十四日晴、江向を発し、山坂を行くこと三里にして日野浦に至る。
舟行一里にして平戸城下に至る。』
(「第2節 新田開発」(江迎町公式ページ)より)
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/emukae/rekishi2/gaisetsu_07.html

見知らぬ平戸島の、草に埋もれそうな古道を、一人で歩いて旅をする松陰の姿が目に浮かんでくるようだ。

ここ平戸で松陰はイギリス政府による中国でのアヘン貿易の実態を把握している。

松楓(しょうふう)のもとで~長州(31) [萩の吉田松陰]

SH3B0100.jpgSH3B0100案内板
SH3B0099.jpgSH3B0099楓と松
SH3B0103.jpgSH3B0103吉田松陰の墓
SH3B0102.jpgSH3B0102松陰のほぼ正面に幹の太い楓の木

案内板に従って墓所の左奥へと歩いていく。

先ほどの雑木林の墓所の背景とは様子が少し変わってくる。

そこには大きな楓の木と松があった。
「松楓(しょうふう)」の景色の下に松陰は眠っていた。

世田谷の太夫山の楓の木の根元に晋作は松陰の遺骨を埋めたが、そこと似た風景が萩にもある。
ここには松陰の遺髪が埋められているそうだが、私は晋作が遺骨の一部を持ち帰って埋めたと想像したい。

僧月性が放った聾唖の僧侶宇都宮黙霖は、手紙のやり取りで松陰を過激な思想へと導いた。

29歳の多感な青年松陰は、萩の野山獄の中で最後の脱皮をしたようだ。
その脱皮さえなければ、井伊直弼も斬首せねばならぬほどの危険な青年だとは思いもしなかっただろう。

松陰は、萩・野山獄の中で、あまりに危険な人物へと成長してしまった。

黙霖が、勤皇論に目覚めたのは聾唖になってから、22歳頃のことである。
識者となったあとで聾唖になった黙霖の存在を知って、ある人物が黙霖に急接近してきた可能性もあるし、また、そういう活動傾向の強い団体もある。

肥前平戸の光明寺拙厳勧学という人物は、相当大きな影響を黙霖に及ぼしたであろうと私は想像している。

山鹿素行の末裔も同じ肥前平戸に住んで藩重臣となって兵学を教えている。
松陰も山鹿流兵法学をそこで学んでいる。

明治革命が成就して以後の、完璧なまでの黙霖の無欲さは、「革命そのもの」が行動目的であるかのようであって、革命後の名誉欲や出世欲などはさっぱり感じられない。

北朝の天皇政権を、正統である南朝方の世に替える。
それだけが黙霖の狙いではなかったのか。

私はそう感じる。

孝明天皇毒殺説は、その可能性を示唆するものであろう。
死人に口はない。

「吉田松陰【憂国】から【改革】へ」というサイトに、松陰の手紙の分析により松陰の思想の変遷を説いた優れた記事があった。
少々長くなるが、松陰の墓の前で紹介したい。

なぜ松陰の思想は、大老井伊直弼を驚愕せしめ斬首されるまでに過激化していったのか、その理由が知りたい。

『松陰の、西洋列強の侵略の手がアジアに迫っていると言う認識は、黒船来航をきっかけとして、彼の中に現実化し、もはや侵略の問題を認識の段階に終わらせておくことは出来なかった。

この黒船来航という一つの事件は、それほどまでに、彼に衝撃を与え、彼の全存在を巻き込んでいった。

この様に松陰が全存在で受け止めたモノは、父百合之助から、感覚的に注入された「忠」の意識であり、それに連なる「愛国の至情」であり、日本民族への誇りであった。

事に、中国の書物を通じて中華思想を学び取ってきた松陰には、日本は、すてきな国、守るに値するすばらしい国という観念が育っていたとも思われる。

しかも、黒船を前にして、これと言った定見もないまま慌てふためき、あまつさえ、「古聖賢の言葉、行為に名を借りて、自らを弁護しながら、向こうの云うままになっている。」(幽因録)幕府の姿を見たとき、兵学者松陰の中の、怒りと不安は膨らんでいく。
こうして、松陰の思想と行動は急激な展開を見せていく。

中略。

そして、この命を懸けた行動に追いやったモノは松陰の中の「愛国心」であった。
事破れて獄中の人となった松陰の中の「愛国心」と「危機感」は、行動を断ち切られたとき、ますます熾烈になっていった。

獄中での松陰は、まず、その関心を「日本の発見」に向けた。
すなわち、大和朝廷の誇りと合理化の為に書かれた数々の書物の読破である。
その書物を信じ、それを自らのよりどころとしていった。

批判など、松陰にとっては、とんでもないこと事であった。
そして、「この発見」が「忠」の思想に変革を興すきっかけとなっていった。

即ち、藩主・幕府・天朝へと貫かれた「忠」の意識が、藩主(幕府)・天朝への「忠」となり、幕府は藩主と同格に置かれたのである。

と同時に、藩主や幕府への絶対的忠の観念を相対的なモノに転換させ、「絶対的忠」は「天朝」に対してのみ成立すると考え始めるのである。

かつては「忠臣は二君にまみえず、諫死あるのみで、他国に行くなんてとんでもない」といっていたのが、「藩主が諫めをきかず、道理を行わないばかりか、小人を助長するようなときは、官を辞し、身を退く」事を認め、「将軍は天朝の命ずるところで、もし足利氏のように、むなしくその職にあるときは、直ちに廃するも可」(講孟余話)と言い切るようになる。

松陰は初めて、幕府批判、諸侯批判の拠点を掴んだのである。

早速、当時長州藩きっての学者とみなされた山県太華の批評を乞うた。
松陰としては、太華の賛同を予期してのものであったが、太華からは、あっさりと突き放されてしまった。

太華は松陰に答えた。
「神武天皇が西国よりおこって、諸国を平定してから代々聖君がでたが、天子に人民を治める事が出来なくなったときは、これに代わって他の人が治めるのが、自然の道理というモノ。

藤原氏が治めるようになったのも、徳川家がそれに代わったのも、天子が日本を治めることが出来なくなったためである。

天下が天子の天下でなくて、天下の天下であるということははっきりしている。
貴方が天下を天子の天下というのは、とんでもないことである。

寸地一民といえども、天子が勝手に出来ないときは、天子のモノと云うことは出来ない。歴史的に見てもそうではないか。

諸侯が持っている今の禄にしても、幕府から受けたモノである。
貴方は、わが長州藩が代々天子に対して臣礼をつくしてきたように強調するが、参勤交代の時、京都に立ち寄ったことはあっても、天子に対して臣礼を尽くしたようなことは一度もなかった。
全く路傍の人と変わらなかった。

藩主に不忠になっても、天子に忠義になればよいというが、心得違いも甚しい。
人はそれぞれ、王臣・幕臣・諸侯の臣・大夫の臣とあって、その主君に対して忠を尽くしてこそ、世の中は平和に治まる。

君臣相対して、争乱を引き起こして、どうして、天子の御為になると言うことが出来よう。事実を見て、事実に従って考えるべきである」(講孟余話評語)と。

それに対し松陰は
「外国は人民がいて、しかる後に天子ができた。
日本は天子があって人民が出来たのである。

先生は神代巻を信じないから、こういう説をなすのである。
論ずることは勿論、疑ってもいけない。
ただ信奉すればよいのだ。
特に疑わしいところは取り除けばよい。

もし土地、人民が天子のモノでないとすれば、幕府のモノでもなくて人民のモノである。しかし、僕はこの立場をとりたくない」と反論する。

幕府批判の視点をつかんだ松陰は、それ自身は古いモノであったが、逆に、時代に対して変革的な姿勢をもつことになる。

そして、幕府批判の視点は松陰の現状認識でもあった。

即ち、月性から「幕府を倒すべきである」と云ってきたとき、「西洋列強が日本を狙っている今、国内で相闘うときでなく、有志が諸侯と力を合わせて、幕府を戒めながら、この困難に立ち向かうときである」と答えた。

それは、幕府について考えた結果、「衰えたと云っても、諸侯の賢否、武備の強弱を一々知っており、人材も到底、諸藩の及ぶところではない」(獄舎問答)それに「幕府に代わって、日本を指導して行くだけの人物はまだない」(兄への手紙)と言う結論に到達したためである。

この様に幕府批判はありながら、幕府の否定にいっていない松陰だが、安政5年7月、幕府が天皇の許可なしに日米通商条約に調印したのをきっかけに、その立場は大きく変わっていく。

天子の意に叛くモノとして、許すことの出来ない幕府という認識であり、その否定である。

「将軍は天下の賊、今討たずんば、後世の人たちはなんといおう」(大義を議す)さらに、13歳の将軍をたて、22歳の慶喜を抑えた事は、松陰としては我慢が成らなかった。

今こそ聡明の将軍が必要なときに、その反対をゆく老中たちはなんとしても許せなかった。とはいっても、その時は、まだ幕府そのものの否定でなく、幕府の政治家達の否定である。

松陰は水野土佐守の暗殺、老中間部の要撃と、はっきり幕府権力に対決していく。
しかも、これが、藩政府の妨害で失敗に追い込まれたとき、長いこと疑うこともなかった藩政府への否定へと踏み出すのである。

「これまで、藩政府を相手にしてきた誤り」(野村和作あての手紙)

安政6年4月に、野村和作にあてた松陰の手紙は、彼の立場をもう一つはっきりさせている。
「今日の日本の状況は古今の歴史にもないほどに悪い。
なぜかといえば、アメリカが幕府の自由を抑え、幕府は天朝と諸侯の自由を抑え、諸侯は、国中の志士の自由を抑えてしまっている。

その為に、心ならずも天朝に不忠をしている。
それというのも、アメリカの大統領の方が将軍よりも智があるし、その使者は、老中の堀田や間部より才があるからである。

人物が及ばなければどうにも成らない。
このままでは、乱世も無しに直ちに亡国になるしかない。

今大切なのは日本を乱世にすることである。
乱世に成れば何とか打つ手も出てくる。
だめになったわが藩を、外から蹶起して変革する方法もある」(4月4日)

「今後はこれまでの方法を変えて草莽蹶起という方法でやってみよう。
その為には少しでも早く獄を出るように考えることである。」(4月14日)

北山安世への手紙には、
「幕府にも結局人物はいなかった。小さな事は分かっているようだが世界の動きを見通して大略をたてられるような人物はいない。
外国との交渉は、向こうの云うなりになって、次々と制せられている。
黒船以来数年にもなるのに、航海の策一つない。

ワシントンがどこにあり、ロンドンがどんなところか分からない連中に何かができるわけもない。
たとえ、一、二の人物があったからといって、ああ下らぬ連中が多すぎては、どうすることもできまい。

公卿たちの陋習となると幕府よりももっとひどい。
ただ外国を近づけては、神国の汚れというだけでどうにもならない。
これでは旨く行かないのも無理はない。

ナポレオンのいう自由でも唱えないとだめかもしれない。
今となっては草莽蹶起の人を望むしかない」(4月7日)と幕府に絶縁状を叩き付けると共に天朝への批判が始まる。

松陰が終始、第一に考えたのは、日本を外国の侵略から守るという事である。
そして、その責任者として、初めは藩主が意識されたが、次第に、日本的規模における統率者として、天朝が浮かびあがった。

天子が深く外国の侵略を心にかけていることを知って、国を思う同志の中心として、中心になりうる人間としてうけとめられていったのである。

しかし、天子をとりまく公卿たちもやがて幕府や諸侯と同じく、失格者としてうけとめられるのである。

松陰がその後、西洋の列強に対抗できる日本として、どういう構想をもっていたかは定かでないが、同じ北山安世への手紙のなかで、
「アメリカはその建国の方法がいい。国も新しく最強国である」と書いている。

ナポレオンの自由を唱えたいといっている点からみても、最低、自由と独立を求めて建国されたアメリカを認めていたことだけはたしかであろう。

しかも、松陰はすでに魏源の「海国図志」を読んでいた。
この本の中で、魏源は、世界各国の政体を君主政体の中国、トルコ、君民同権の英、仏、共和制で主権在民のアメリカの三つにわけて説明している。

世襲制の場合、必ずしもつねに明君を仰ぐことができないことを知悉していた松陰としては、アメリカに相当共鳴していたのでほあるまいか。
選挙で選ばれた米大統領の知恵を評価していたのではあるまいか。

「天朝も幕府もわが藩もいらぬ。只六尺の我が身体が必要」(野村和作への手紙)という立場に到達したのは、これらの考えが、無意識のうちに影響したとはいえよう。

獄中で死をみつめて生きる松陰にとって、たのむべきものが自分しかないことを知ったのも当然であった。

「忠」についても、これまで天子とか藩主とか、つねに何かへの忠であったのが、「我が心に生きる、我が心の限りをつくす」(前原一誠への手紙)というふうに変わってきている。

この頃から、松陰は弟子たちに対しても、さかんに亡命をすすめはじめている。

自覚した一個の志士として自分を確立するように求めはじめる。
松陰は絶望と不信のなかから、個としての人間を発見し、個としての人間の確立に向かって、大きく一歩ふみだしたのである。

しかし、ここまで達した松陰が、安政二年当時の彼の
「所謂世人のいう尊爵は其の尊爵ではない。
真の尊爵は人々の固有するところのもの、何をくるしんで、人の役となることがあろう」

「人はすべて、徳を心にそなえている。
尊重といわねばならない」

「天は民心を以て心とし、民の視聴を以て、視聴とする」(講孟余話)考え方と重なりあったとき、彼の思想がどう発展していったかは容易に想像できる。

松陰の思考はこれから本格的にはじまろうとしていたということがいえる。
日本の未来へのビジョンをいよいよ構想しようとする。

まさにその地点で、彼の思考は断ち切られてしまったのである。』
(「吉田松陰【憂国】から【改革】へ」より)
http://www.togyo.net/meigen/19.html

山県太華は、江戸に遊学して林家で朱子学を修めている人である。

山県大華は松陰に対してこういった。
「寸地一民といえども、天子が勝手に出来ないときは、天子のモノと云うことは出来ない。歴史的に見てもそうではないか。」

領地は実効支配して初めて己の領土となるというグローバルスタンダードを大華は持ち出し、徳川幕府の正当性を主張している。

尖閣列島で中国漁船団を実効支配できない現在の日本政府を見たら、松陰は一体どういうであろうか。

「もし土地、人民が天子のモノでないとすれば、幕府のモノでもなくて人民のモノである。しかし、僕はこの立場をとりたくない」と松陰は萩・藩校明倫館の元学頭山県太華に反論している。

松陰は「土地は人民のモノ」と言った。

獄中の松陰は、幕府のみならず朝廷・公家側から見ても危険な思想に変化していったといえよう。

草莽蹶起は「ナポレオンのいう自由でも唱えないとだめかもしれない。」という心境から起こったものだった。

革命後の日本国の政治に、アメリカ大統領のような仕組みさえ松陰の念頭にあった可能性がある。
そしてもし吉田稔麿が生きていたら、最初の○○○、つまり「大統領」になっていたかも知れない。

将軍による大政奉還は当たり前のこと。
しかし、松陰のその思想は朝廷や公家集団にとっても恐るべき自由平等社会を意味するものであった。

吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬などの国民的英雄が次々と消えて行ったのも、明治新政府の体制維持のために「必要な死」であったのかも知れない。

僧月性(げっしょう)が、宇都宮黙霖を仕掛け人として松陰に倒幕を実行させる目的で思想制御を試みたが、野山獄内で松陰は皇室と関係の深い連中をも驚愕させるほどの思想に変化していったのではないだろうか。

「関係の深い連中」の中に、本願寺も含まれる。

月性は、周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)妙円寺(本願寺派)の住職である。
織田信長が十分な火薬や鉄砲を持ってしても落とせなかった石山本願寺の末裔たちである。
本願寺ルートを通じて、当時の政治情勢を世界的視野で捉えるだけの情報網はもっていたはずだ。

松陰の意図する大統領制度なるものがこの国で実現した場合、本願寺派にとっては不利になることだろう。

米国の大統領は、カトリック教宣教師の前に立ち、聖書の上に片手を置いて宣誓するのである。

過激すぎる松陰を途中から月性(げっしょう)が見限った、という可能性を感じている。
根拠はないが、松陰を死へ追いやったのは、直接的には宇都宮黙霖に見えるが、実は月性であったのではないかと私は思っている。

その仮説が成り立つならば、大老井伊直弼は上からの指示、それも将軍よりも上からだっただろう指示に忠実に従ったに過ぎない。

明治維新政府は、それらの「上」の意向に沿った体制で成立しているはずだ。

明治維新革命で最も利益を手にした人々が、松陰を死へ追いやったことになる。
そういう推理は、現代においても殺人事件の動機解明のために重要な思考方法としてよく知られている。

被害者の死によって最大の受益をした者が、真の殺人犯である可能性が高い。

松下村塾の使い走り役、長じても調整役に過ぎなかった伊藤博文を、松陰の弟子として初代総理大臣に任命することで、最低限の贖罪をしたつもりであろう。

幼い頃から松陰の講義で聞かされていた世界観、倫理観とは大きく異なる新政府政策を進めながら、伊藤博文も心を痛めていたところがあるのではないだろうか。

伊藤に西郷隆盛ほどの気迫があったならば、西郷に呼応して下野し長州武士団も新政府に対して銃を向けたであろう。
その場合は、もう一度革命が起きたかもしれない。

だから初代総理大臣は調整役しか果たせない伊藤博文でなければならなかったのである。
明治になって木戸孝允がなぜか静かになっていることが気にかかるが、彼は松門、つまり松陰の本当の弟子ではない。

もし高杉晋作が生き延びて初代総理大臣になってしまうと、せっかく消した松陰が蘇生するのと同じ効果を生む。

大政奉還を前にした高杉晋作の『病死』は、実に新政府人事の人選にとっては都合のよい出来事だった。

三山翁~長州(30) [萩の吉田松陰]

SH3B0112.jpgSH3B0112先の墓所背景は雑木林だった

大名の末裔のものらしき五輪の塔の姿をした墓石の近くに松陰の父母や弟、久坂ら、松陰を取り巻いていた人々の墓があったのを前の記事で紹介した。

その墓所の背景を撮影したので掲載しておく。
どこにもある普通の雑木林の風景である。
松陰の墓は少し離れたところにあり、そこの風景との対比のために敢えて近い関係者の墓所背景を撮影した。

私が世田谷で見た松陰の墓の風景は自然な雑木林の風景ではない。
人か、あるいは神の、意思が働いていると私が感じる風景だった。

松陰の実弟敏三郎は聾唖者であったが、松陰に思想的影響を与えた聾唖者は僧侶宇都宮黙霖の他に、もう一人いる。

聾の儒学者「谷 三山(たに さんざん)」である。

三山は、純粋な朱子学者であった。

『谷三山
儒学者であり、尊王攘夷論の先駆者であった谷三山のことを知る人は少ない。
『聾儒谷三山』(大伴茂、1941)が、谷三山について最も詳しい資料であろう。

これによると、谷三山は11歳の時、耳が聴こえなくなり、数年後に全聾となったとある。
11歳で進行性難聴をわずらい、全聾になったという見方ができる。

この書によると、谷三山は筆談にて多くの人との手紙のやり取り、訪問者との会話を交わしている。

著名な人間に猪飼敬所、頼山陽、斎藤拙堂、森田節斎、吉田松陰らがいる。
彼らとは、すべて筆談で思想を語り合っている。

少年時代に失聴しているにもかかわらず、生まれつきの知的才能に恵まれていて、新しい情報が全く入らない大和の田舎暮らし、藩の学問所に集まる知識人にひけをとらず、社会情勢に関する情報を正確に捉えている。

その後、三山が30歳になったときに、私塾「興譲館」を開き、多くの人々を受け入れ、詩文、経文、教育、政治など幅広く教えている。

当時から、三山は尊皇攘夷の考えから幕府の政策を厳しく批判し、吉田松陰、森田節斎、頼山陽と筆談で延々と論じ合っている。

そして三山は「尊皇攘夷論策」を発表している。

三山の先見の明には確かなものがあり、吉田松陰の日記の中に三山のことを「三山翁」とわざわざ「翁」とつけている。

どうやら、松陰は三山を尊敬しているようでもある。』
(「ろうあ者偉人伝」より)
http://image01.wiki.livedoor.jp/c/u/comskill_ris_fuku/e61ca662aef00895.pdf

松陰は1830年生まれであるから、1802年生まれの谷三山は、28歳年長の人である。

安政元年(1854年)、ペリー再航時に停泊中のポーハタン号に乗り込んだときの松陰は24歳であり、遠く奈良でその知らせを聞いた三山翁は52歳である。

松陰が三山に「翁」をつけて呼ぶのは、中国的儒教道徳上では普通のことである。
普通に尊敬していたことは間違いない。
それ以上の敬愛の情を三山に抱いていたのか、それは「翁」の一文字だけではわからない。

『谷三山は、先ほど訪れた「華甍(はないらか)」の前に顕彰碑があった。
注)今井まちなみ交流センター「華甍」

享和2年(1802)、この町の裕福な造り酒屋、重之の次男として生まれる。
11歳の時わずらい聴覚を失った。

しかし、京都の儒学者・猪飼敬所に敬服し、その門下生となった。
やがて彼の学識は、敬所の認めるところとなり、その名声を慕って、多くの人々が三山の門をたたいた。

家塾”興譲館”を興し、ここを拠点として、吉田松陰、頼山陽らと交際を結んだ。

48歳にして失明。
読書も会話も不可能となった三山は、いつも机に寄りかかって座り、門人を待った。

門人が来て、その机をたたくと、三山が手のひらを差し出す。
その手のひらに、詩文や、経典を書いて講義や、質疑応答をしたという。

数百語に及ぶ経典でも、よく暗記していて、一々添削すべき箇所をしめしたという。
慶応3年(1867)12月、66歳で没した。』
(「奈良の旅 その2」(うるめしま)より)
http://blogs.dion.ne.jp/kaiyo/archives/9850673.html

松陰が「三山翁」と敬愛したのは、聾儒者のこういう行動や態度についてであって、弟の敏三郎の病がいずれ癒えて三山先生のような人間になって欲しいという願望や憧れを伴うものであっただろう。

陽明学に傾倒していた松陰が、純粋な朱子学者三山の思想にどこまで敬服していたかどうか、それは疑問である。

参考)「CiNii 論文 - 三島由紀夫と司馬遼太郎(第12回)陽明学--松陰と乃木希典(中)
(松本 健一著)
陽明学の創始者王陽明も、元は朱子学者であった。

『当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。

その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に以下のような疑義を呈した。

まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。

そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。

こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。

ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。
なお陽明学の登場は、朱子学の時ほどドラスティックではなかった。

朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。

しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。
無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、だからといって大規模なパラダイム・シフトが起こったわけではなく、その点は注意を要する。

中略。

陽明学が開いた地平
聖人観の変化
宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。

つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。
ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。

しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。
むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。

王陽明のある弟子の「満街これ聖人」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは端的にこのことを表現していると言えよう。

陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。

朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。

中略。

清末の陽明学
陽明学の沈滞状況は、1840年のアヘン戦争以降徐々に変化する。

まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになる。

後に今文公羊学を掲げる康有為自身も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。』(陽明学(Wikipedia)より)

「満街これ聖人」という陽明学の思想的展開は、のちの民主主義や人道主義に近いものを感じる。

欧米列強のアヘンを伴う植民地政策の行き過ぎが、陽明学の変質をも招いたのであろう。
野山獄で書いた吉田松陰の『幽室文稿』を、中国人康有為(和名表記: こう ゆうい)が学ぶという時代背景があった。

『1895年、康有為が科挙に合格した時はまさしく下関条約が締結された時期にあたり、科挙受験者をまとめ上げて日本への徹底抗戦を上奏し一躍時の人となった(公車上書)。

(清朝が)明治日本に敗れたことは、康有為に政治改革の緊急性を認識させ、同時に短期間で改革を成し遂げた明治日本へのより一層の興味関心をかきたてることになる。

そして明治日本やロシアをはじめとする西欧各国の現状についての理解が深まるにつれ、それまでの改革、すなわち李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行われていた洋務運動を形式的だと非難して、徹底した内政改革による洋務運動、つまり変法による改革を主張するようになった。

その後、時の皇帝・光緒帝に立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう上奏を幾度となく行い、1898年6月、ついに光緒帝から改革の主導権を与えられることとなった(戊戌の変法)。

ところが康有為の改革は当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革は9月、わずか100日あまりで西太后のクーデターにあって失敗に終わった(戊戌の政変)。
そしてこの時康有為の実弟を含む同志の幾人かは逮捕処刑されてしまった(戊戌六君子)。

しかし康有為自身は一旦上海のイギリス領事館に保護され、その後大陸浪人の宮崎滔天や宇佐穏来彦らの手引きで香港を経由して日本に亡命している。
その日本で同じく亡命してきた愛弟子梁啓超と邂逅を果たすのである。

ちなみに康有為はこれ以後日本に都合三度ほど滞在し、犬養毅や大隈重信、佐々友房、品川弥二郎、近衛篤麿、伊藤博文といった明治の著名人と親交を結んでいる。

また須磨在住の際に知り合った日本人の女性を妻として迎えてもいる。
日本とは因縁浅からぬ人物であったといえよう。』
(康有為(Wikipedia)より)

松陰の弟子である品川弥二郎と伊藤博文がちゃんと康有為の面倒を見ている。

松陰の兵学の師「山鹿素行」は、その著書「中朝事実」でいう、本当の中華思想は日本国の中にこそある、という気迫は松陰を経て現実化しているように見える。

もし、松陰が三山の純粋朱子学を敬服していたとすれば、幕末あれほどの過激な思想には至っていなかっただろう。

過激派松陰の仕込みには、もう一人の聾唖の僧侶、宇都宮黙霖の「影響」があったと言える。
黙霖を萩へ行かせ松陰と会わせようと画策したのは、山口県柳井の僧月性であろう。

『安政2年(1855)の9月、黙霖という30代半ばの僧が萩にきて、藩儒「士屋蕭海」の家に滞在して、吉田松陰が書いた『幽因録』を読んだ。
今度、萩へきたのは、吉田松陰と論争をするのが目的であった。

海外密航を企てた罪で、萩の野山獄につながれた松陰は出獄して、松本村の父の家で謹慎をさせられている。

黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生れの本願寺派の僧で、やはり僧だった父の私生児である。

幼いときに寺にやられ、唖で聾という二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤皇を説いた。

周防の僧、月性は親友である。

黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わしが容貌にみるべきものなし」と断わり、二人は手紙で論争をした。

実は松陰は、この時期「倒幕」の考えをもっていたわけではなかった。
彼が説いたのは、「諌幕」である。

野山獄にいた頃にも、少年時代から学んだ水戸学の影響から抜け出てはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、
「幕府への御忠節は、すなわち天朝への御忠節にて二つこれなく候」
「君は君道をもて君を感格し、臣は臣道をもて君を感格すべし」
と、藩主にも徳川にも臣としての厳格な立場を守っていたのだ。

しかし黙霖との論争で、29歳の松陰はたたきのめされた。

「茫然自失し、ああこれまた(僕の考えは)妄動なりしとて絶倒いたし候」
「僕、ついに降参するなり」

黙霖の論というのは、つぎのようなものである。

「幕府の政治は、支那でいう覇道にほかならず、この国を古えの朝廷政治の王道にもどさねばならない」
「孔孟の道にしたがい、今の幕府は放伐すべきである」
「水戸学は口では尊王を説くが、いまだかつて将軍に諫言をし、天室を重んじたためしがないではないか」

そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。

大弐は孟子の放伐論によって徳川幕府を否定し、日本の古代王朝政治に王道をみようとした。
そして民衆の教化に乗り出したら、弟子の密告によって捕えられ、斬首された。

吉田松陰の目は開いた。
「僕は毛利家の臣なり。ゆえに日夜、毛利に奉公することを練磨するなり。
毛利家は天子の臣なり、ゆえに日夜、天子に奉公するなり。
われら国主に忠勤するは、すなわち天子に忠勤するなり」

松陰のこれから歩く道はきまった。

「もしもこの事が成らずして、半途に首を刎ねられたればそれ迄なり。もし僕、幽囚の身にて死なば、われ必ず一人のわが志を継ぐ士をば、後世に残し置くなり」

そしてこうも書き送った。「僕は口先でとやかくいうのは、生来大きらいで、以上のことも口に出しませんが、上人のことゆえ申すのです。僕がこのことによって死ぬるのを、あなたは黙って見てくれよ」

この手紙を読んで、黙霖毛髪が逆立ち、声をあげて泣いた。「同窓会百年史」』
(「宇都宮黙霖 うつのみやもくりん」より)         
http://blogs.yahoo.co.jp/deafdramaz/62007847.html

聾唖の僧の面会要請に対して、松陰は「わしが容貌にみるべきものなし」と自分の視覚情報価値の有無を評価して面会拒絶の理由にしている。

耳が見えず、声を発することのできない黙霖は、『幽因録』の著者松陰を人目見たかったのであろう。

しかし松陰は黙霖に残された視覚だけを用いたところで、自分の価値はわかるまいと突き放したのである。
むしろ聾唖者ならば、文字のやり取りで殆どすべてが理解し合えるという自信松陰にはあったのだ。

弟敏三郎がそれを教えてくれた。

『宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)は、明治維新の勤皇僧として、吉田松陰・月照(京都の清水寺成就院の住職)たちと交わって討幕に奔走し、数奇な運命のもとに活躍した人物であります。

幼名は宇都宮采女といい、法名を覚了、または黙霖といいます。
その他真名介・雄綱・絢夫・斐夫・楳渓・雪郷・文雄・史狂王民・史狂道人・源雄綱・日本三蔵などなど、自らさまざまな名を用いています。

文政7年(1824)に長浜(安芸国(広島県)賀茂郡)で生まれましたが、その一生は誠に不遇な出生から始まっております。

父は中黒瀬村西福寺の三男峻嶺で、石泉塾で勉学中の身でありました。

その峻嶺と長浜の旧家下兼屋宇都宮作兵衛の娘お琴との間に生まれるのですが、峻嶺は勉学中の身で結婚を認められず、実家へと帰され、お琴は姉の嫁ぎ先である住蓮寺で采女を出産しました。

生後半年は母のもとで育てられていましたが、父としての責任から西福寺へ引き取られ、黒瀬で育てられることとなりました。

しかし、そこでも厄介者として入籍させられず、若い父は途方にくれながら、貰い乳をして育てました。

3歳の秋、八本松阿弥陀堂の堂守一道のもとに養子に出されました。

一道といっしょに農作業に従事していましたが、なかなかいうことを聞かず、7、8歳の頃に手習修行のためとして長浜へと帰され、しばらく母のもとで暖かい養育を受けることになりました。

後に一道のもとへ連れ戻されますが、どうしてもその生活になじめず、ついに母のもとへと逃げ帰り、一道に義絶され、長浜での生活が続くこととなります。

しかし、不倫の子、日陰者といじめられながらの日々は、あまりにもつらかったのでしょう。
手のつけようのない腕白小僧に育ってゆきました。

叔父にあたる専徳寺の常諦は、この腕白小僧をわが子のようにかわいがっていましたが、その腕白ぶりを見かねて、『大学』の素読を授け、勉学の道を勧めました。

時に15歳。
この頃から心機一転、学問に志すこととなったのです。

その後、西条町(広島)の漢学者野坂由節に師事し、次いで蒲刈島弘願寺円識(石泉和上の弟子・本願寺派勧学)について宗学を学び、さらに円識の奨めで、天下に師を求めて遊学し、広島の坂井虎山(芸州きっての儒学者)・木原桑宅・肥前平戸の光明寺拙厳勧学などを尋ねていったと伝えられています。

そんな黙霖でしたが、20歳の頃、大阪で大病を患い、長浜に帰って療養しました。
しかし、その結果耳が聞こえなくなり、その後はすべて筆談を用いることになりました。

弘化2年、22歳の夏に得度して本願寺の僧籍に入り、法名覚了となります。
しかし、後に「黙霖」の号を称することが多く、世間でもこの法名を通称としています。

この頃から国学研究によって勤皇論を唱え始め、それから40余国をわたり識見をひろめ、多くの漢学者・国学者と出会い、ますますその思想を固めてゆきました。

嘉永5年、江戸に上って老中阿部伊勢之守正弘に、尊王抑覇の論稿を送って、反幕府的思想を確立し、ひとり勤皇討幕論を叫んで人身を驚かせました。

そのため、安政元年、幕府・広島藩からの追及を受け、父峻嶺にも厳しい詮議が及びましたが、よく逃れて、また流浪の旅を続けます。

安政2年、萩に赴き、吉田松陰の『幽囚録』を読んで感動し、獄中の松陰に書を送って文通を繰り返して、松陰に大きな思想的影響を与えたといわれております。

松陰が「時局観を先にし、攘夷の為に尊王論を統一し、人身を一に帰せしむべし」と考えたのに対し、黙霖は「国体論を第一にし、攘夷の有無に拘らず尊王を叫ぶべきである」と主張しました。

また、松陰が幕府に対して、その誤りを諌める考えであったのに対し、黙霖は徹底的に討幕を主張して、松陰に思想的転換を与えたのです。

安政の大獄の際に、頼三樹三郎・梅田雲浜などといっしょに捕らわれましたが、僧形のために釈放されたとか、広島藩に捕えられ、棺に入って脱出し、山口に逃れて毛利家の歓待を受けたともいわれています。

再び広島藩から幕府に渡され、大阪にいた時、ようやく明治維新を迎えることとなりました。

明治2年に釈放され、還俗してからは宇都宮真名介と名乗りました。
そして、明治4年に終身三人附持の沙汰があり、同6年、湊川神社権宮司・男山八幡宮の禰宜(ねぎ)ねぎに補任せられています。

維新後は長年の宿望が成し遂げられたためか、それまでの烈しさはまったく影をひそめておりました。

明治10年頃、長浜へと帰り、石泉文庫にある大蔵経を読破して、この和訳を行い、それから約20年間を費やして46万首の和歌の形式に整えております。
その中の35万首が現在石泉文庫に遺されています。

若い頃から詩や和歌を好み、20歳の頃につくった『菊花の詩』は、志士の間で愛好されたといわれております。

明治14年頃から呉市の沢原家(当時の郡長で、従来から交友があった人)の食客となり、安芸郡役場の嘱託として晩年を送り、明治30年に74歳でその一生を終えました。

当時の総理大臣伊藤博文が広島へ来られた時、一度黙霖先生にお会いしたいとわざわざ呉まで尋ねて来て、「先生」「先生」と呼ぶので、周りの人は一様に驚いたという逸話が残っております。

明治44年、鏡如上人(光瑞門主)は、その功を賞して特別賞与第一種と「操心院」の院号を追贈されております。また大正5年には、政府から従五位を贈られています。』
(「宇都宮黙霖」より)
http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/old/sekisen/sekisen_mokurin.htm

鏡如上人(光瑞門主)とは、本願寺第二十二代宗主鏡如(きょうにょ)上人(1876~1948年)のことである。

『明治三十一年(1898)、23歳で貞明皇后(ていめいこうごう:大正天皇の皇后)の姉君・九条籌子(くじょうかずこ)様とご結婚され、その後、明治三十六年(1903)に明如上人のご往生のあとを承けて28歳で本願寺の法灯をご継職されました。』

(「10月5日御祥月 本願寺第二十二代宗主鏡如(きょうにょ)上人より」)
http://tsukijihongwanji.jp/gorekidai/1574


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