東洋侵略と鎖国戦略の妙~長州(131) [萩の吉田松陰]
SH3B0505歴史資料館にあった「西欧の東洋侵略」年表
SH3B0501旅立ち
SH3B0506自警の詩
日本人の歴史教育ではこういう洋の東西を比較した考察が欠落しているようだ。
それに比べれば、ここ松陰神社境内にある歴史資料館、私には蝋人形展に見えるが、そこに掲げられていた年表の方がより歴史事実に肉薄しているように見える。
家康の鎖国令にはそれなりの意味があったことがよくわかる。
囲碁将棋でいう「西欧植民地化」に対する次の手として意味がある。
家康以降の日本人にその種の高度な戦略性がかけていたともいえよう。
家康による鎖国の歴史的価値はもっと大きく見直す必要があるだろう。
「西洋の東洋侵略」年表を抜粋する。
『西洋の東洋侵略
1271(文永8年)マルコ・ポーロ東方旅行へ出発
(1299『東方見聞録』を著わす。)
1498(明応7年)バスコ・ダ・ガマ、インド航路発見
1519(永正16年)マゼラン世界一周に出発
1543(天文12年)ポルトガル人、種子島に漂着
1592(文禄元年)豊臣秀吉朝鮮に出兵
1600(慶長5年)イギリス、東インド会社設立
1602(慶長7年)オランダ、東インド会社設立
1604(慶長9年)フランス、東インド会社設立
1639(寛永16年)日本の鎖国
1641(寛政18年)オランダ、マラッカ占領
1745(延享2年)インドにおける英仏戦争はじまる
1825(文政8年)日本、外国船打払い令を出す
1840(天保11年)阿片戦争起こる
1853(嘉永6年)米国使節ペリー浦賀に来航
1854(安政元年)クリミア戦争はじまる』(抜粋終わり)
これだけ西洋と東洋の濃い関わりを年表で論じながら、奇異な感じを私は受けた。
それは、何よりも大事なイベントが書かれていないからだ。
蝋人形展示を企画した者たちはあえて「そのこと」を隠したのか?
それは何故なのか?
「そのこと」とは、1549年8月15日ザビエルの日本上陸のことである。
上の年表では「鉄砲伝来と秀吉の朝鮮出兵の間の出来事」である。
しかもザビエル来日による山口への影響は、とてつもなく大きかったのである。
なぜならば大名大内義隆は山口での布教をザビエルに許したからである。
『日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由しヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[4]。
ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。
後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。
博多に滞在の後、11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りをかい、同年12月17日に周防を立つ。
岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。
失意の京滞在 山口での宣教
以下略。』(フランシスコ・ザビエル(Wikipedia)より)
「種子島へのポルトガル船漂着」と私たちは歴史で習うが、中国人倭寇がポルトガル商人2名を載せて中国製ジャンク(帆船)に乗り銃と火薬の売り込みにやってきたのだ。
その後、ヤジロウを含む3人の日本人がザビエルをゴアまで迎えに行っている。
ヤジロウは「人をあやめた薩摩藩士で、海外逃亡した」といわれている人物であるが、それもあやしい。
薩摩藩か平戸松浦藩の藩主が、ヤジロウらを使って鉄砲と火薬を届けてくれる西欧人宣教師とポルトガル商人を迎えにやらせたのだろう。
8月15日に鹿児島に上陸するも、藩主の意向もあって8月中に鹿児島を去って平戸へ渡った。
ザビエルは平戸に2ヶ月間滞在していて、それから京都へ旅立った。
平戸で多くの信者の洗礼を行ったことは間違いない。
このことから、ゴアまでザビエルを迎えにやらせたのは平戸藩主であろう。
まずは南九州の覇者であって、中央勢力に対抗できる島津氏へ礼を尽くして先に行かせたのであろう。
鹿児島では、福昌寺の住職忍室(にんじつ)とザビエルの論争のどこかに問題があったようだ。
このことは、あとの記事で述べる。
こうしてみると、現在よりも当時の日本人は海を越えて積極的に世界とかかわりあってきたのである。
航海技術に長けた日本人倭寇や朝鮮人倭寇、中国人倭寇の果たした役割は大きかったはずだ。
倭寇は日本の海賊を指す言葉だが、後に倭寇の名をかたって朝鮮や中国沿岸で窃盗を働く集団が大量に発生していた。
日本人はゼロかわずか数名で、あとはほとんど中国人という「倭寇」も多かった。
彼らの中の一味のリーダー王直が、五島列島の本拠地からゴアへザビエルを迎えに行ったのであろう。
種子島にポルトガル商人2名を連れ鉄砲の売り込みへやってきたのは王直所有のジャンク船で、操船も王直自身が行っていた。
鉄砲の伝来によって軍事バランスが一変することに驚いた家康は、鎖国という手段で内乱を鎮め、西洋の植民地化へ対抗したのである。
打った「手」としては、家康の鎖国はなかなか鋭い戦略であると思う。
もし家康が鎖国をしなかったら、日本という国はどこかの植民地になっていた可能性がある。
西洋の日本に向けて打つ手は「開国要求」であるが、250年間もの長い間西欧はなかなかその要求を押し通せなかったのである。
幕末にやっとペリーがやってきて、黒船軍事力による威圧を背景にそれをなし遂げたのである。
幕末の松陰が世界の中の日本のあり方を考えていないわけはなかった。
戦国武将の家康でさえ、それほど真剣に悩み鎖国戦略を立てたのである。
街道歩きの得意な松陰の姿が蝋人形展の中に出ていた。
編み笠をかぶり、片ひざついて草鞋の緒を締める旅立ち姿だった。
蝋人形の傍の説明板にはこう書いてある。
『日本中を歩いて学んだ松陰
松陰16歳・山田亦介に、西欧諸国が盛んに東洋諸国を侵略して植民地としている状況を聞き大いに驚く。
鴉片(アヘン)戦争の結果、日本が老大国と信じ、文化の拠り所としていた清国が英国の為に破れた事は衝撃だった。
僅か唯一つ外国に向かって開いている港長崎、そして平戸、彼はそこに遊学し北九州各地を歴訪した。
特に平戸では葉山左内につき猛烈な勉強を開始する。
貸し与へられた新刊書の筆者に精力をささげた。
そして熊本に行き宮部鼎蔵と親友になった。
松陰は嘉永4年7月23日東北諸国遊歴を藩から許可されたが、宮部と共に南部藩士の安芸五蔵(江幡五郎)の仇討ちに協力する約束があったので、藩からの通行証明書が待ちきれず出発、奥州1円を巡って絵嘉永5年に江戸に帰り、藩邸にて脱藩の罪を問われ、萩に帰ったが、士籍を削られ、扶持も召し上げられ実父杉百合之助(はぐくみ)となりました。』(抜粋終わり)
松陰が脱藩し東北遊歴に旅立った日は、赤穂浪士討ち入りの日、つまり12月14日である。
多感な青年が、ちょっと前のドラマチックな事件にあこがれ、わが身をそこに置く気持ちはよくわかる。
ザビエルが平戸へ行き、そして300年後に松陰が平戸へ行ったのである。
平戸藩主は大石内蔵助と同じ山鹿素行から兵学を習っている。
平戸藩主は大石に討ち入りをけしかけ、成功してから両国橋のたもとで面会し天晴れとほめている。
そして、松陰は、平戸藩家老で山鹿素行の末裔である山鹿万介から兵学を学んでいる。
松陰が脱藩決行日として赤穂浪士討ち入りの日を選んだ意味は、多感な青年がドラマを夢見て選んだのとはわけが違うように思う。
松陰には討ち入りの日に重大事項を決行すべき必然性が生まれていたのではないだろうか。多感な萩の一青年が、そう洗脳され誘導されていたといっても良い。
蝋人形のそばの年表からはザビエルが削除されていて想像しにくいが、洋の東西を代表する重要人物二名は、時代は異なるものの小さな平戸の島で触れ合うことになる。
宗教哲学家でありイエズス会兵士(ザビエル書簡にその記載あり)でもあったザビエルと、日本の軍事革命専門家松陰との、時空を越えた出会いである。
蝋人形展企画者は、そのことを秘匿したかったのであろう。
これほど重要な「ザビエルの来日」を、その年表から省いてしまっている。
その企画者の中に金子重輔と同じ隠れキリシタンの紫福村(しぶきむら)の出身者がいたのだろう。
彼らは「重要な事実を秘匿する」ことで生き延びてきた人々である。
昨年私が歩いた奥州街道のことであるが、宿場終点の「三厩(みんまや)宿」から、更にバスで30分ほど北へ行くと、竜飛岬に至る。
松陰は歩いてそこまで行って海峡を眺めた。
「あれをご覧 竜飛岬 北のさいはて」は石川さゆりの代表曲である。
そこに立った松陰は、今風に言えば「メドベージェフ大統領の北方5島蹂躙」を強く憤った、ということになる。
『作家古川薫は「各地を行脚して志ある者と交流し、憂国の思いを述べ合う旅程の中で、激情と旅情が渾然(こんぜん)して吐露された魂の告白ともいうべき旅の詩が生まれた。松陰は、まさに吟遊詩人だった」と述べているが、
新潟での作、
「雪を排し来り窮(きわ)む北陸の陬(はて)
日暮れて乃(すなわ)ち海楼に向かって投ず
寒風栗烈(りつれつ)膚を裂かんと欲す
枉是(ことさら)に人に向って壮遊を誇る
悲しいかな男子蓬桑(ほうそう・天下を周遊せんとする志)の志
家郷更に慈親の憂となるを慈親子を憂うる致らざるなく
まさに算(かぞ)ふべし今夜何(いず)れの州(くに)に在るかと
枕頭眠り驚き燈滅せんと欲し涛声雷の如く夜悠々たり」
という詩も、松陰の真情をよく示すものであろう。
そうした松陰が佐渡から再び新潟に帰り、以後、酒田、本荘、秋田、大館、弘前、小泊とたどって三月五日、本州北辺の龍飛崎に立って、津軽海峡を目にしたとき、彼の心をとらえたものは、海峡の詩情といったものではなかった。
それは、海峡を傍若無人に通航する異国船への、いや、むしろそれを見過ごしているわが国自体への国士的な怒りであった。
龍飛崎と対岸松前の白神鼻とはわずかに三里、その間を恐れもなく通航する異国船に対して、わが方には何の手当もなく、これを傍観している。
一体、当局は何をしているのか。
切歯する思いであると憤慨しているのである。』
(「吉田松陰 その19 歴史舞台への登場」より)
http://www.rekishi.info/library/syoin/scrn2.cgi?n=1019
旅が若者を育て、そして国土を愛する心を育(はぐく)む。
しかし、松陰の脳内には陽明学や埼門学が既に注入されている。
よって改革も「現体制下での改善」ではとうてい済まない。
破壊して創り直そうとする。
現代で言えば、松陰青年は反カダフィであり、反ムバラクを叫び始めるのである。
蝋人形展を企画した人物の思いを想像してみると、彼が秘匿しようと努力しているザビエルの影が執拗に浮かびあがってくるのだった。
その影は、村田清風や村田右中の末裔、弟子たちへと掛かっていく。
おそらく松陰にもその影は届いたはずである。
時期は平戸滞在中であろう。
私はまだ松陰のキリシタンからの影響についてはその根拠を手にしていない。
よって、松陰と隠れキリシタンとの関係は、今はあくまで仮説のひとつに過ぎない。
ザビエルの影は、時代の推移にともなってキリシタン迫害者となった徳川幕府打倒へと雪崩を打っていくことになるが、それは当然すぎる帰結である。
ザビエルとその後継者たちは宣教師でもあるが、イエズス会兵士なのである。
仲間の宣教師や信者たちが信仰の自由を侵され殺されれば、その仇を討つべき立場にある。
ザビエルは来日してすぐの頃に大名による保護を願ったが、ポルトガル商人が持ち込んだ鉄砲の威力のために下克上の混乱を伴う戦国時代となってしまった。
庇護者だった大友宗麟や大内義隆が下克上により滅ぼされてしまった。
ザビエルは「朝廷や幕府の打倒」を彼の今後の行動目標に立てたことは間違いないだろう
イエズス会兵士ザビエルと兵学者松陰とは、時代を隔てて微妙な「和音」を奏でている。
その理由や証拠を探すのが、今回の萩の旅の目的であった。
蝋人形展のそばに掛けてある「松陰直筆の掛け軸」が目に付いた。
「自警の詩」松陰と書いてある。
士苟得正而斃
何必明哲保身
不能見幾而作
猶當殺身成仁
道並行而不悖
百世以俟聖人
これは安政六年(1859)3月14日、松陰30歳のときの詩である。
斬首刑になる7ヶ月前のものである。
冒頭句「士苟得正而斃」でGOOGLE検索してみたが、中国語の記事複数と拙著ブログしか検索されなかった。
日本人はあまり興味がないのだろう。
山鹿素行がその著「中朝事実」で地球上に残っている純粋な中国とは、日本のことであるという意味を実感した。
当時の日本の文学は、まさに純粋な中国・唐文化の影響を色濃く残したものであり、次の中国人と思われる萩観光客の書いた記事の中で、松陰の漢詩は自然体で収まっていた。
『至於在市區東面的松陰神社裏,我花上一整天的時間,因神社內的松陰遺墨展示館、松門神社、吉田松陰歷史館和小小的松下村塾,都得參觀;在吉田松陰歷史館裏,給我發現了一首意義深長但鮮見記載的松陰漢詩,題曰自警詩,於是連忙把它抄下,詩云:
士苟得正而斃,
何必明哲保身;
不能見幾而作,
猶當殺身成仁;
道並行而不悖,
百世以俟聖人。』
(「萩市行記」より部分抜粋)
http://bigfished.pixnet.net/blog/post/14811903
その後中国はモンゴルに侵略され、文化は人種的混合をしていくことになる。
日本国にだけ純粋な中国が残っていると主張した山鹿素行の意見には一理あると思った。
SH3B0501旅立ち
SH3B0506自警の詩
日本人の歴史教育ではこういう洋の東西を比較した考察が欠落しているようだ。
それに比べれば、ここ松陰神社境内にある歴史資料館、私には蝋人形展に見えるが、そこに掲げられていた年表の方がより歴史事実に肉薄しているように見える。
家康の鎖国令にはそれなりの意味があったことがよくわかる。
囲碁将棋でいう「西欧植民地化」に対する次の手として意味がある。
家康以降の日本人にその種の高度な戦略性がかけていたともいえよう。
家康による鎖国の歴史的価値はもっと大きく見直す必要があるだろう。
「西洋の東洋侵略」年表を抜粋する。
『西洋の東洋侵略
1271(文永8年)マルコ・ポーロ東方旅行へ出発
(1299『東方見聞録』を著わす。)
1498(明応7年)バスコ・ダ・ガマ、インド航路発見
1519(永正16年)マゼラン世界一周に出発
1543(天文12年)ポルトガル人、種子島に漂着
1592(文禄元年)豊臣秀吉朝鮮に出兵
1600(慶長5年)イギリス、東インド会社設立
1602(慶長7年)オランダ、東インド会社設立
1604(慶長9年)フランス、東インド会社設立
1639(寛永16年)日本の鎖国
1641(寛政18年)オランダ、マラッカ占領
1745(延享2年)インドにおける英仏戦争はじまる
1825(文政8年)日本、外国船打払い令を出す
1840(天保11年)阿片戦争起こる
1853(嘉永6年)米国使節ペリー浦賀に来航
1854(安政元年)クリミア戦争はじまる』(抜粋終わり)
これだけ西洋と東洋の濃い関わりを年表で論じながら、奇異な感じを私は受けた。
それは、何よりも大事なイベントが書かれていないからだ。
蝋人形展示を企画した者たちはあえて「そのこと」を隠したのか?
それは何故なのか?
「そのこと」とは、1549年8月15日ザビエルの日本上陸のことである。
上の年表では「鉄砲伝来と秀吉の朝鮮出兵の間の出来事」である。
しかもザビエル来日による山口への影響は、とてつもなく大きかったのである。
なぜならば大名大内義隆は山口での布教をザビエルに許したからである。
『日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由しヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。
1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[4]。
ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。
後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。
博多に滞在の後、11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りをかい、同年12月17日に周防を立つ。
岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。
失意の京滞在 山口での宣教
以下略。』(フランシスコ・ザビエル(Wikipedia)より)
「種子島へのポルトガル船漂着」と私たちは歴史で習うが、中国人倭寇がポルトガル商人2名を載せて中国製ジャンク(帆船)に乗り銃と火薬の売り込みにやってきたのだ。
その後、ヤジロウを含む3人の日本人がザビエルをゴアまで迎えに行っている。
ヤジロウは「人をあやめた薩摩藩士で、海外逃亡した」といわれている人物であるが、それもあやしい。
薩摩藩か平戸松浦藩の藩主が、ヤジロウらを使って鉄砲と火薬を届けてくれる西欧人宣教師とポルトガル商人を迎えにやらせたのだろう。
8月15日に鹿児島に上陸するも、藩主の意向もあって8月中に鹿児島を去って平戸へ渡った。
ザビエルは平戸に2ヶ月間滞在していて、それから京都へ旅立った。
平戸で多くの信者の洗礼を行ったことは間違いない。
このことから、ゴアまでザビエルを迎えにやらせたのは平戸藩主であろう。
まずは南九州の覇者であって、中央勢力に対抗できる島津氏へ礼を尽くして先に行かせたのであろう。
鹿児島では、福昌寺の住職忍室(にんじつ)とザビエルの論争のどこかに問題があったようだ。
このことは、あとの記事で述べる。
こうしてみると、現在よりも当時の日本人は海を越えて積極的に世界とかかわりあってきたのである。
航海技術に長けた日本人倭寇や朝鮮人倭寇、中国人倭寇の果たした役割は大きかったはずだ。
倭寇は日本の海賊を指す言葉だが、後に倭寇の名をかたって朝鮮や中国沿岸で窃盗を働く集団が大量に発生していた。
日本人はゼロかわずか数名で、あとはほとんど中国人という「倭寇」も多かった。
彼らの中の一味のリーダー王直が、五島列島の本拠地からゴアへザビエルを迎えに行ったのであろう。
種子島にポルトガル商人2名を連れ鉄砲の売り込みへやってきたのは王直所有のジャンク船で、操船も王直自身が行っていた。
鉄砲の伝来によって軍事バランスが一変することに驚いた家康は、鎖国という手段で内乱を鎮め、西洋の植民地化へ対抗したのである。
打った「手」としては、家康の鎖国はなかなか鋭い戦略であると思う。
もし家康が鎖国をしなかったら、日本という国はどこかの植民地になっていた可能性がある。
西洋の日本に向けて打つ手は「開国要求」であるが、250年間もの長い間西欧はなかなかその要求を押し通せなかったのである。
幕末にやっとペリーがやってきて、黒船軍事力による威圧を背景にそれをなし遂げたのである。
幕末の松陰が世界の中の日本のあり方を考えていないわけはなかった。
戦国武将の家康でさえ、それほど真剣に悩み鎖国戦略を立てたのである。
街道歩きの得意な松陰の姿が蝋人形展の中に出ていた。
編み笠をかぶり、片ひざついて草鞋の緒を締める旅立ち姿だった。
蝋人形の傍の説明板にはこう書いてある。
『日本中を歩いて学んだ松陰
松陰16歳・山田亦介に、西欧諸国が盛んに東洋諸国を侵略して植民地としている状況を聞き大いに驚く。
鴉片(アヘン)戦争の結果、日本が老大国と信じ、文化の拠り所としていた清国が英国の為に破れた事は衝撃だった。
僅か唯一つ外国に向かって開いている港長崎、そして平戸、彼はそこに遊学し北九州各地を歴訪した。
特に平戸では葉山左内につき猛烈な勉強を開始する。
貸し与へられた新刊書の筆者に精力をささげた。
そして熊本に行き宮部鼎蔵と親友になった。
松陰は嘉永4年7月23日東北諸国遊歴を藩から許可されたが、宮部と共に南部藩士の安芸五蔵(江幡五郎)の仇討ちに協力する約束があったので、藩からの通行証明書が待ちきれず出発、奥州1円を巡って絵嘉永5年に江戸に帰り、藩邸にて脱藩の罪を問われ、萩に帰ったが、士籍を削られ、扶持も召し上げられ実父杉百合之助(はぐくみ)となりました。』(抜粋終わり)
松陰が脱藩し東北遊歴に旅立った日は、赤穂浪士討ち入りの日、つまり12月14日である。
多感な青年が、ちょっと前のドラマチックな事件にあこがれ、わが身をそこに置く気持ちはよくわかる。
ザビエルが平戸へ行き、そして300年後に松陰が平戸へ行ったのである。
平戸藩主は大石内蔵助と同じ山鹿素行から兵学を習っている。
平戸藩主は大石に討ち入りをけしかけ、成功してから両国橋のたもとで面会し天晴れとほめている。
そして、松陰は、平戸藩家老で山鹿素行の末裔である山鹿万介から兵学を学んでいる。
松陰が脱藩決行日として赤穂浪士討ち入りの日を選んだ意味は、多感な青年がドラマを夢見て選んだのとはわけが違うように思う。
松陰には討ち入りの日に重大事項を決行すべき必然性が生まれていたのではないだろうか。多感な萩の一青年が、そう洗脳され誘導されていたといっても良い。
蝋人形のそばの年表からはザビエルが削除されていて想像しにくいが、洋の東西を代表する重要人物二名は、時代は異なるものの小さな平戸の島で触れ合うことになる。
宗教哲学家でありイエズス会兵士(ザビエル書簡にその記載あり)でもあったザビエルと、日本の軍事革命専門家松陰との、時空を越えた出会いである。
蝋人形展企画者は、そのことを秘匿したかったのであろう。
これほど重要な「ザビエルの来日」を、その年表から省いてしまっている。
その企画者の中に金子重輔と同じ隠れキリシタンの紫福村(しぶきむら)の出身者がいたのだろう。
彼らは「重要な事実を秘匿する」ことで生き延びてきた人々である。
昨年私が歩いた奥州街道のことであるが、宿場終点の「三厩(みんまや)宿」から、更にバスで30分ほど北へ行くと、竜飛岬に至る。
松陰は歩いてそこまで行って海峡を眺めた。
「あれをご覧 竜飛岬 北のさいはて」は石川さゆりの代表曲である。
そこに立った松陰は、今風に言えば「メドベージェフ大統領の北方5島蹂躙」を強く憤った、ということになる。
『作家古川薫は「各地を行脚して志ある者と交流し、憂国の思いを述べ合う旅程の中で、激情と旅情が渾然(こんぜん)して吐露された魂の告白ともいうべき旅の詩が生まれた。松陰は、まさに吟遊詩人だった」と述べているが、
新潟での作、
「雪を排し来り窮(きわ)む北陸の陬(はて)
日暮れて乃(すなわ)ち海楼に向かって投ず
寒風栗烈(りつれつ)膚を裂かんと欲す
枉是(ことさら)に人に向って壮遊を誇る
悲しいかな男子蓬桑(ほうそう・天下を周遊せんとする志)の志
家郷更に慈親の憂となるを慈親子を憂うる致らざるなく
まさに算(かぞ)ふべし今夜何(いず)れの州(くに)に在るかと
枕頭眠り驚き燈滅せんと欲し涛声雷の如く夜悠々たり」
という詩も、松陰の真情をよく示すものであろう。
そうした松陰が佐渡から再び新潟に帰り、以後、酒田、本荘、秋田、大館、弘前、小泊とたどって三月五日、本州北辺の龍飛崎に立って、津軽海峡を目にしたとき、彼の心をとらえたものは、海峡の詩情といったものではなかった。
それは、海峡を傍若無人に通航する異国船への、いや、むしろそれを見過ごしているわが国自体への国士的な怒りであった。
龍飛崎と対岸松前の白神鼻とはわずかに三里、その間を恐れもなく通航する異国船に対して、わが方には何の手当もなく、これを傍観している。
一体、当局は何をしているのか。
切歯する思いであると憤慨しているのである。』
(「吉田松陰 その19 歴史舞台への登場」より)
http://www.rekishi.info/library/syoin/scrn2.cgi?n=1019
旅が若者を育て、そして国土を愛する心を育(はぐく)む。
しかし、松陰の脳内には陽明学や埼門学が既に注入されている。
よって改革も「現体制下での改善」ではとうてい済まない。
破壊して創り直そうとする。
現代で言えば、松陰青年は反カダフィであり、反ムバラクを叫び始めるのである。
蝋人形展を企画した人物の思いを想像してみると、彼が秘匿しようと努力しているザビエルの影が執拗に浮かびあがってくるのだった。
その影は、村田清風や村田右中の末裔、弟子たちへと掛かっていく。
おそらく松陰にもその影は届いたはずである。
時期は平戸滞在中であろう。
私はまだ松陰のキリシタンからの影響についてはその根拠を手にしていない。
よって、松陰と隠れキリシタンとの関係は、今はあくまで仮説のひとつに過ぎない。
ザビエルの影は、時代の推移にともなってキリシタン迫害者となった徳川幕府打倒へと雪崩を打っていくことになるが、それは当然すぎる帰結である。
ザビエルとその後継者たちは宣教師でもあるが、イエズス会兵士なのである。
仲間の宣教師や信者たちが信仰の自由を侵され殺されれば、その仇を討つべき立場にある。
ザビエルは来日してすぐの頃に大名による保護を願ったが、ポルトガル商人が持ち込んだ鉄砲の威力のために下克上の混乱を伴う戦国時代となってしまった。
庇護者だった大友宗麟や大内義隆が下克上により滅ぼされてしまった。
ザビエルは「朝廷や幕府の打倒」を彼の今後の行動目標に立てたことは間違いないだろう
イエズス会兵士ザビエルと兵学者松陰とは、時代を隔てて微妙な「和音」を奏でている。
その理由や証拠を探すのが、今回の萩の旅の目的であった。
蝋人形展のそばに掛けてある「松陰直筆の掛け軸」が目に付いた。
「自警の詩」松陰と書いてある。
士苟得正而斃
何必明哲保身
不能見幾而作
猶當殺身成仁
道並行而不悖
百世以俟聖人
これは安政六年(1859)3月14日、松陰30歳のときの詩である。
斬首刑になる7ヶ月前のものである。
冒頭句「士苟得正而斃」でGOOGLE検索してみたが、中国語の記事複数と拙著ブログしか検索されなかった。
日本人はあまり興味がないのだろう。
山鹿素行がその著「中朝事実」で地球上に残っている純粋な中国とは、日本のことであるという意味を実感した。
当時の日本の文学は、まさに純粋な中国・唐文化の影響を色濃く残したものであり、次の中国人と思われる萩観光客の書いた記事の中で、松陰の漢詩は自然体で収まっていた。
『至於在市區東面的松陰神社裏,我花上一整天的時間,因神社內的松陰遺墨展示館、松門神社、吉田松陰歷史館和小小的松下村塾,都得參觀;在吉田松陰歷史館裏,給我發現了一首意義深長但鮮見記載的松陰漢詩,題曰自警詩,於是連忙把它抄下,詩云:
士苟得正而斃,
何必明哲保身;
不能見幾而作,
猶當殺身成仁;
道並行而不悖,
百世以俟聖人。』
(「萩市行記」より部分抜粋)
http://bigfished.pixnet.net/blog/post/14811903
その後中国はモンゴルに侵略され、文化は人種的混合をしていくことになる。
日本国にだけ純粋な中国が残っていると主張した山鹿素行の意見には一理あると思った。
ザビエルの置き土産~長州(130) [萩の吉田松陰]
写真 フランシスコ・ザビエル(Wikipedia)より引用
ヨセフこと、ジョセフ・ヒコの日本帰還により松陰は斬首されたのかも知れない。
それほどに大きな役割を担うかもしれない日系アメリカ人で、おそらくカトリック教徒(プロテスタント系の可能性もあるが)であろう。
はなはだおぼつかない私の記憶によれば、両派はアイルランドなどでは同じキリスト教徒でありながら、殺し合いをしていた間柄だ。
一概にキリスト教徒という言い方はかえって時代の流れを読む力を削ぐことになりかねない。
どちらのキリスト教徒であったかということが、前後の歴史に深くかかわってくる。
アメリカ建国をしたのはピューリタン(清教徒)であるが、プロテスタントに近いのではないだろうか。
しかし、現在の米国大統領が就任式で宣誓をするのはカトリック教徒の慣習によるのではないだろうか。
禅宗に臨済宗と曹洞宗があって、それ以前には天台宗と真言宗があるというわかりにくさに似ている。
天台も真言も僧兵を多数抱えて宗派のために大いに人を殺しあった時期がある。
織田信長が比叡山を焼き討ちし僧侶、女、子供を惨殺したことは姦しく歴史資料に書かれているが、当時は信長以外の武将もみな戦ではそうしたものだ。
僧兵だって、そうしていたのである。
信長は寺が軍隊能力を持つことを徹底的に叩きのめした。
だから私たちはその恩恵をこうむっている。
寺から脅されたり、拷問されたり、殺されたりすることは、例外を除き、まず信長以降の日本では起きていない。
信長の政教分離の識見の卓越さに驚くばかりである。
あの下克上の混乱の世相の中で、どうやって信長は普遍的真理を読み取ることができたのだろうか。
私はイエズス会の宗教、哲学、文学の影響が大きかったのであろうと推測している。
ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計、これが日本初の時計使用となるが、その修理を始めた宮大工の技術承継が江戸期にからくり人形師を育てた。
有名な江戸末期のからくり人形師の手によって、東芝の前身やトヨタ自動織機が創業されたのである。
ザビエルは技術以外にも多くの種をこの国に撒いている。
織田信長の政教分離政策や楽市楽座はザビエルの置き土産のように見える。
ザビエルはバスク人である。
そして、ザビエルをキリスト教宣教師への道へ導いたイエズス会の創立者で聖人のイグナチオ・デ・ロヨラもまた、バスク人なのである。
『バスク人は85%がRh-型の血液である。このことから、バスク人はヨーロッパで最も古い種族ではないかと推測されている。』(バスク人(Wikipedia)より)
私はスペインサッカーリーグを時々見るが、シャビ・アロンソ、ミケル・アロンソというサッカー選手の顔がテレビ画面に大写しされると、ザビエルに重なった見える。
とくに髭を生やしたシャビの横顔はザビエルによく似ている。
アロンソ兄弟も、ルイス・フェルナンデスも、サッカー選手にバスク人が多い。
身体能力も高いのであろうか。
ヨセフこと、ジョセフ・ヒコの日本帰還により松陰は斬首されたのかも知れない。
それほどに大きな役割を担うかもしれない日系アメリカ人で、おそらくカトリック教徒(プロテスタント系の可能性もあるが)であろう。
はなはだおぼつかない私の記憶によれば、両派はアイルランドなどでは同じキリスト教徒でありながら、殺し合いをしていた間柄だ。
一概にキリスト教徒という言い方はかえって時代の流れを読む力を削ぐことになりかねない。
どちらのキリスト教徒であったかということが、前後の歴史に深くかかわってくる。
アメリカ建国をしたのはピューリタン(清教徒)であるが、プロテスタントに近いのではないだろうか。
しかし、現在の米国大統領が就任式で宣誓をするのはカトリック教徒の慣習によるのではないだろうか。
禅宗に臨済宗と曹洞宗があって、それ以前には天台宗と真言宗があるというわかりにくさに似ている。
天台も真言も僧兵を多数抱えて宗派のために大いに人を殺しあった時期がある。
織田信長が比叡山を焼き討ちし僧侶、女、子供を惨殺したことは姦しく歴史資料に書かれているが、当時は信長以外の武将もみな戦ではそうしたものだ。
僧兵だって、そうしていたのである。
信長は寺が軍隊能力を持つことを徹底的に叩きのめした。
だから私たちはその恩恵をこうむっている。
寺から脅されたり、拷問されたり、殺されたりすることは、例外を除き、まず信長以降の日本では起きていない。
信長の政教分離の識見の卓越さに驚くばかりである。
あの下克上の混乱の世相の中で、どうやって信長は普遍的真理を読み取ることができたのだろうか。
私はイエズス会の宗教、哲学、文学の影響が大きかったのであろうと推測している。
ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計、これが日本初の時計使用となるが、その修理を始めた宮大工の技術承継が江戸期にからくり人形師を育てた。
有名な江戸末期のからくり人形師の手によって、東芝の前身やトヨタ自動織機が創業されたのである。
ザビエルは技術以外にも多くの種をこの国に撒いている。
織田信長の政教分離政策や楽市楽座はザビエルの置き土産のように見える。
ザビエルはバスク人である。
そして、ザビエルをキリスト教宣教師への道へ導いたイエズス会の創立者で聖人のイグナチオ・デ・ロヨラもまた、バスク人なのである。
『バスク人は85%がRh-型の血液である。このことから、バスク人はヨーロッパで最も古い種族ではないかと推測されている。』(バスク人(Wikipedia)より)
私はスペインサッカーリーグを時々見るが、シャビ・アロンソ、ミケル・アロンソというサッカー選手の顔がテレビ画面に大写しされると、ザビエルに重なった見える。
とくに髭を生やしたシャビの横顔はザビエルによく似ている。
アロンソ兄弟も、ルイス・フェルナンデスも、サッカー選手にバスク人が多い。
身体能力も高いのであろうか。
ヨセフの帰国と松陰の死~長州(129) [萩の吉田松陰]
SH3B0521「金子よ、あれが目指す黒船だ」(蝋人形展より)
SH3B0516「ハリス上陸」(蝋人形展より)
写真 「後から送りこまれたヨセフ」(浜田彦蔵(Wikipedia)より引用)
晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に杉梅太郎(松陰の兄)から受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。
晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。
晋作は執拗に久坂の「戦」の始まりと終わりを気にして梅太郎に書簡でたずねている。
それは「歴史を作る」ということなのだろうか。
この後の下関功山寺での晋作による奇兵隊決起は、確かに歴史を作った行動だったといえる。
しかもわざわざ雪の中を、深夜に功山寺境内まで騎馬で乗り付けている。
そこは急な長い階段が多い寺である。
馬も苦労して石段を登っていっただろう。
晋作が馬から下りて、馬の手綱を引いて歩いて上ったとしたら、それは大変興味深いことであるし、現地を見てみればそのほうが現実的でもある。
一度、雪の降り積もる夜の功山寺を上の境内まで騎馬で乗ってみたいと私は思っている。
あり得ないほど危険な行為ではないかと思うが、ひょっとして石段とは別に土の馬車道があったのかも知れない。
現地を歩いた体験からみて、「難儀しつつ馬で境内まで辿り着いた」という推測は成り立つが、おかしくもある。
映画製作でもそうであるが、ドラマ演出はなかなか大変なことである。
赤穂浪士討ち入りの12月14日を狙って挙兵したはずだが、手違いで1日遅れてしまった。
師匠が赤穂浪士討ち入りの日にこだわっていたことは晋作もよく知っていたはずだ。
だから12月に奇兵隊挙兵としたのである。
なのに、結局一日遅れてしまった。
そういうところも、晋作に人間味が感じられて面白い。
松陰はきちんと12月14日に江戸長州藩邸を脱藩して、東北遊歴の旅へと出発している。
師匠の方のドラマ演出はいつも完璧だった。
山鹿流兵学者は、忠臣蔵ドラマをお手本にするように演劇指導を受けているようである。
大石内蔵助も、赤穂藩お抱えの兵学者山鹿素行の指導を実地で受けている。
大石自身はあまり勉強に身が入らなかったようである。
なぜそう推理するかというと、討ち入りまでには優柔不断な期間が長く、松陰のようにスパッと行動はしていない。
仕方なく、最後はしぶしぶと腰を上げているが、行動を起こしたときは立派な山鹿流を披露している。
その点では、晋作の行動は大石に似ている。
大石も晋作も行動するならば、失敗しないようにと配慮を重ねている。
一方松陰の行動は、その場の激情に従い急である。
偽の仇討ちを目指す南部藩士を信じ切ってしまい、涙する松陰がいた。
松陰には人を疑う余裕すらなく、すぐに行動に移すところがある。
騙されやすく、純粋な人間であった。
斬首刑の前日に松陰が弟子へ書いた「留魂録」には、失敗を恐れるな、失敗から学べと諭していた。
失敗はあってもよいと松陰は考えていたのである。
むしろ失敗して、それが元で挫折するような奴は武士ではないと手厳しい。
就職活動で苦しんでいる学生さんたちには、多少の励ましの言葉になる。
学生さんは、大多数が学士か修士である。
その「士」という字は、「武士」からもぎ取って明治になって名づけたものである。
だから松陰が「士(さむらい)」へ投げかける言葉が学生さんたちの身に浸みるのも当たり前なのである。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」から部分的に解説を抜粋する。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
『一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す』
「一度失敗したからといって、たちまち挫折してしまうようでは、勇士とはいえないではないか。諸君よ、切に頼む、切に頼むぞ」
『今日の事、同志の諸士、戦敗の餘、傷残の同士を問訊する如くすべし』
「何が失敗だったのか。だれに責任があるのか。どうすれば、よかったのか。すべてを明らかにし、残すのだ。次の戦いには、それらに十分注意し、再び失敗せぬように戦え、そして勝て。」
久坂玄瑞ほどの松陰高弟であっても、師の松陰の哲学を実践することはできなかった。
受傷を負った久坂は鷹司邸内へ行き、朝廷への願いを訴えた。
相手の鷹司卿が恐れて逃げてしまい、その願いは届かなかった。
そのために久坂は邸内で自刃している。
久坂も恩師の遺言書「留魂録」を読んでいたはずだ。
師の言葉は、読んで知っていたとしても、あまりに実践することに困難を伴うものだった。
晋作においても、決起のタイミングを見計らうことにおいてかなり迷っていた。
目出度く奇兵隊決起はしたものの、戦や政治活動の中で死を敢えて選ぶということをしなかった。
しかし、松陰自身は、己(おのれ)が吐いた言葉通りの人生を歩いたように見える。
松陰がそういう人間であることが、松陰の敵(井伊直弼以外に朝廷内にもいたはずだ)には空恐ろしかったに違いない。
松陰は、朝廷も幕府も要らないと最後には言い出していた。
「幕末にあって民衆革命を叫んだ」のである。
平戸訪問時に松陰は長崎にも足を伸ばしている。
晋作よりも先に米国人宣教師フルベッキと松陰は会っているのではないか。
まだ、そういう資料にはめぐり合ってはいないのだが、萩歴史散歩を終えてみて、そんな気がしてきた。
調べてみると、「松陰とフルベッキの関係」については語られていないが、両者の間にいる人間を論じている対談があった。
これまでに私はフルベッキを米国人宣教師と紹介してきたが、無国籍の宣教師だったようだ。日本に墓がある。
『小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。
藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。
でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。
確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。
また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。
小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。
しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。
でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。
また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。
生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。
藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。
また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。
小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。
それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。
●忘れ去られた近代日本への影響
藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。
小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。
ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。
しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・
日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。
中略。
藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。
オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。
その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。
ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。
彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。
彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。
小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。
日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。
人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 』
(「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」より)
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=494
さらに松陰とフルベッキの関係を探ろうとしていると、熱く二人を語るブログ記事が見つかった。
よく読んでみると、この萩散歩の初め頃に書いた拙著ブログだった。
熱いはずである。
その題名は、「萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58)[萩の吉田松陰]」となっていた。
http://shono.blog.so-net.ne.jp/archive/20110116
『途中略。
周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。
ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。
徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。
世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。
月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。
その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。
囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂 松陰」
侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。
月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。
宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。
その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。
獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。
月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。
月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。
国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。
大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。
しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。
松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。
松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。
日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。
日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。
学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。
歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。
そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。
松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。
松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。
いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。
長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。
平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。』
(拙著ブログより再掲)
松陰が消された理由が、天皇制廃止、米国型大統領制導入という思想の転換にあるとそのときの私は推測していた。
今松陰神社を離れるにあたって、その思いはさらに強くなっている。
なぜかというと、聾唖の弟敏三郎でさえも、努力すれば米国では国家元首(大統領)になれるということを松陰は獄中で学んだからであろう。
獄中の松陰は、日本の国体を揺るがすほどに恐ろしい人物へと変わっていったのであろう。
松陰がまだ江戸伝馬町牢屋内で生きていた安政6年6月18日、アメリカは米国人で日系1世のジョセフを日本へ送り込んできた。
『中略。
日本人で初めて大統領に接見し、日本人で初めてアメリカに帰化した人物が、今年、アメリカ帰化後150周年を迎えました。
その人の名は、「ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)」日本名浜田彦蔵、兵庫人です。
現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた浜田彦蔵は、運搬船(樽廻船)の乗組員だった13歳(嘉永4年)のときに、静岡沖で遭難しました。
太平洋を漂流中に、中国から母国アメリカに帰港中の船オークランド号の乗組員に救助され、そのままサンフランシスコの土を踏むこととなります。
その2年後、嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。
その後、色んな事業をやり、「新聞の父」とも呼ばれています。
詳しく書き出すときりがないので、この程度で。
漂流民としてアメリカに渡った人物としては、高知土佐藩の「ジョン・万次郎」が有名ですね。
でも、アメリカでの実績や日本への貢献度からすると、ジョセフ・ヒコの方が上ではないかと思います。
でも、なぜかヒコは、あまりメジャーではありません。
一方、ジョン・万は、NHK大河ドラマ「篤姫」にも出てきてますよね。
ヒコにちょっと興味が沸いた方、「ジョセフ・ヒコ、アメリカ帰化150周年」を機会に、関連する本を読んでみてください。
文久年間に本人が書いた「漂流記」や、最近の出版本では「ヒコの幕末―漂流民ジョセフ・ヒコの生涯」など他にもありますので、ぜひ。』
(「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)
http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
米国大統領にあった幕末の日本人ジョセフ・ヒコは、何と「安政6年」に日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきている。
それは松陰が春に江戸送りされ、秋に斬首された年である。
『安政3年(1856)、総領事ハリスが来日した。
ハリスは、通商開国を強く求め、安政4年末には日米修好通商条約の案文が定まった。
安政5年(1858)、幕府は調印前に勅許を得ようとしたが、孝明天皇の強い攘夷の意思もあり、勅許を得ることはできなかった。
幕府は結局、勅許なしで調印をしたが、このことは尊攘激派の強い反発を買った。』(総領事ハリス来日と通商条約より)
http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku2.htm
ハリスの来日は安政3年である。
なのに、日本人通訳を安政6年に送り込み、補充している。
ハリス入国から3年も経過して、わざわざ日本人通訳を日本へ送り込んだアメリカFBIあるいはCIAの狙いは何だったのか。
当時そういう部局が米国政府内にあったかどうかは知らないが、アメリカは本来諜報好きな国民である。
ハリスの後ろに必ず諜報部隊が暗躍していたはずである。
『1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国、後任はロバート・プルイン。
辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。』タウンゼント・ハリス(Wikipedia)
ハリスが離日したのは、1862年つまり文久2年である。
5年9ヶ月も滞在していたから、来日したのは1856~7年頃となる。
つまり、ハリスは安政3年(1856)の「初来日」以来、ずっと日本に住んでいたのである。
そのハリスの通訳として、米国民となった元日本人が来日3年を経た安政6年に日本へやってきた。
通訳というより、何らかのスパイ活動のために送り込まれてきたのだろう。
革命扇動業務ではなかったか。
アフガン・タリバン養成係は、当初はアメリカ軍の担当だったという。
今はかつての教え子と戦争をしており、よって米国内の軍需産業は潤い続けている。
ジョセフ・ヒコは米国人国籍を取得し、米国大統領にも面会しているエリートである。
つまり、ジョセフ・ヒコは米国キリスト教(おそらくカトリック)の洗礼を受けていたはずだ。
そうでなくては、こうもとんとん拍子に大統領に謁見できないだろう。
アメリカは、ある確かな意図をもってジョセフ・ヒコを育てている。
アメリカの行動は、このように計画的でかつ合理的である。
今でもそうである。
『嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。』
(前回抜粋より再掲、「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
松陰は安政6年4月に萩・野山獄を出て江戸へ向かい、10月に江戸伝馬町で斬首された。
その間にジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)こと浜田彦蔵から、米国の民主主義と大統領制度の話を聞いたのではないか。
フルベッキ人脈の中に晋作は入ったが、松陰生存時にフルベッキ人脈が萩で駆動されていたかどうか。
私は隠れキリシタンの人脈から既に村田清風の全盛期にフルベッキ人脈もしくはそれに相当する人脈が動いていたと見ている。
ジョセフ・ヒコの情報は、「松陰の米国密航の目的」を完全達成するほど貴重なものであったはずだ。
松陰は、それを知ったらすかさず行動を起こすように訓練されてきた。
玉木文之進の教育の賜物である。
山田宇右門の影響もあっただろう。
そして、それは陽明学の基本理念でもある。
ジョセフ・ヒコからの情報を受け取り、獄中で松陰は日本革命の発動、幕府のみならず朝廷さえも消し去る過激な計画を発動しようとしたのではないだろうか。
それが、急いで松陰が消された理由であると私は推理した。
東京・世田谷の松陰神社の横の墓の前で、「この萩の青年はなぜ江戸で斬首などされたのか」と自然と感じたなぞはようやく解けそうになってきた。
なぜかではなく、必然的に松陰は消されたのである。
そのことにアメリカの政策判断のミスが働いていたのだろう。
ジョセフ・ヒコの日本への送り込みは問題を解決すると読み誤っていたのである。
それどころか、囲炉裏にガソリンを撒くような事態を惹起してしまった。
井伊直弼の悪役大老ぶりだけがドラマでは目だってしまうが、実は朝廷自身が大きく変質してしまった松陰を恐れ、幕府に命じて消させたのであろう。
ジョセフ・ヒコの来日前の安政6年春のことだが、松陰は「天朝も要らぬ」(朝廷不要)と書簡で書いているから、それ以前から火はついてしまっていたかも知れない。
『恐れながら、天朝も幕府 吾が藩も入らぬ、ただ六尺の微躯が入用』(野村万作に宛てた書簡より)
天朝を恐れてはいるから、まだ国体の破壊者ではない。
革命軍構成としては草莽崛起しかないという意味合いであろう。
ジョセフ・ヒコの来日は松陰の火に油を注いだであろう。
ジョセフ・ヒコの帰国という事件によって、松陰は日本全体を震えあがらせたのかも知れない。
兵庫県人船乗り浜田彦蔵の帰国とは、相手のアメリカ側から見れば、米国人となったキリスト教徒ジョセフ・ヒコによる日本革命の火付け役投入と期待されるだろう。
ジョセフは日本に着くと、まず長崎にいる米国宣教師フルベッキに面会して日本革命予備軍(タリバン)の事情を聴取しているはずだ。
米国名ジョセフとは、旧約聖書では「ヨセフ」である。
『ヤコブは、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。
別名をイスラエルといい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。
中略、
レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。
その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。
晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。
エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。』(ヤコブ (旧約聖書)(Wikipedia)より)
江戸(横浜?)滞在中のハリスのもとにジョセフ(ヨセフ)の名を持つヒコが送られてきた事実に、朝廷が一番驚いたのではないだろうか。
日ユ同祖論、つまり日本人の遠い祖先はユダヤ人であるという説を唱える人々は、日本人のルーツをイスラエル十二部族としているからである。
最近の遺伝子分析によれば、日本人である私たちの血の10%程度は中東からやってきたユダヤ人由来のものがあるらしい。
シルクロードを辿ってきた宝物は、奈良法隆寺の中に納められている。
絹の道の出発点はエルサレムである。
「宝物だけいただいて、混血していない」と言うほうがおかしいだろう。
孝明天皇が米国人との接触を毛嫌いしていた理由は、血の由来とも関係があったかも知れない。
そういう直感的な外国人嫌いの感情は、朝廷自身の手によって毒で消されたようである。
命がけで黒船密航を実行しようとした松陰である。
元日本人ジョセフ・ヒコ帰国の情報を入手して、じっとしているはずがない。
問題は松陰とジョセフ・ヒコとに接触があり得たかどうかである。
『安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用される。
6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。
(1860年)2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。
文久元年9月17日(1861年10月20日)当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じてにアメリカに戻った。
文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。
文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。
元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。』(浜田彦蔵(Wikipedia)より)
ヨセフの公的業務は、松陰の死後4ヵ月後に終わっている。
約4ヶ月の間、二人は同じ日本国に生きていたことになる。
松陰は、絶対といっていいが、弟子たちにジョセフの情報を入手して教えるように命じたはずである。
まるで松陰を死なせるためにジョセフが日本に送り込まれたような気がしてきた。
当時のアメリカ諜報部は、「日本列島の土人たちに対する植民地化戦略」を間違えたのではないだろうか。
米国で先進文明人となったヨセフを日本へ送り込むことで、親米派が増えると考えたのだろうが、日本におけるキリスト教徒への迫害の激しさを読み切れていなかったのだろう。
西洋人の想像を超えるキリスト教徒迫害が200年以上も続いている「神々の統べる国」なのだった。
ジョセフは、公務から離れ民間人としてビジネスに精を出そうとするも、殺されそうになり、アメリカに一時帰国している。
「日本人土人たち」は、米国人が征服を果たしたアメリカインディアンなどとは文化宗教面で大きく異なっていたのだ。
戦略を誤ったと気づいて早々に「ヨセフ戦略」は取りやめたようだが、松陰はその稚拙な諜報戦略ために犠牲となってしまったように思われる。
SH3B0516「ハリス上陸」(蝋人形展より)
写真 「後から送りこまれたヨセフ」(浜田彦蔵(Wikipedia)より引用)
晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に杉梅太郎(松陰の兄)から受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。
晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。
晋作は執拗に久坂の「戦」の始まりと終わりを気にして梅太郎に書簡でたずねている。
それは「歴史を作る」ということなのだろうか。
この後の下関功山寺での晋作による奇兵隊決起は、確かに歴史を作った行動だったといえる。
しかもわざわざ雪の中を、深夜に功山寺境内まで騎馬で乗り付けている。
そこは急な長い階段が多い寺である。
馬も苦労して石段を登っていっただろう。
晋作が馬から下りて、馬の手綱を引いて歩いて上ったとしたら、それは大変興味深いことであるし、現地を見てみればそのほうが現実的でもある。
一度、雪の降り積もる夜の功山寺を上の境内まで騎馬で乗ってみたいと私は思っている。
あり得ないほど危険な行為ではないかと思うが、ひょっとして石段とは別に土の馬車道があったのかも知れない。
現地を歩いた体験からみて、「難儀しつつ馬で境内まで辿り着いた」という推測は成り立つが、おかしくもある。
映画製作でもそうであるが、ドラマ演出はなかなか大変なことである。
赤穂浪士討ち入りの12月14日を狙って挙兵したはずだが、手違いで1日遅れてしまった。
師匠が赤穂浪士討ち入りの日にこだわっていたことは晋作もよく知っていたはずだ。
だから12月に奇兵隊挙兵としたのである。
なのに、結局一日遅れてしまった。
そういうところも、晋作に人間味が感じられて面白い。
松陰はきちんと12月14日に江戸長州藩邸を脱藩して、東北遊歴の旅へと出発している。
師匠の方のドラマ演出はいつも完璧だった。
山鹿流兵学者は、忠臣蔵ドラマをお手本にするように演劇指導を受けているようである。
大石内蔵助も、赤穂藩お抱えの兵学者山鹿素行の指導を実地で受けている。
大石自身はあまり勉強に身が入らなかったようである。
なぜそう推理するかというと、討ち入りまでには優柔不断な期間が長く、松陰のようにスパッと行動はしていない。
仕方なく、最後はしぶしぶと腰を上げているが、行動を起こしたときは立派な山鹿流を披露している。
その点では、晋作の行動は大石に似ている。
大石も晋作も行動するならば、失敗しないようにと配慮を重ねている。
一方松陰の行動は、その場の激情に従い急である。
偽の仇討ちを目指す南部藩士を信じ切ってしまい、涙する松陰がいた。
松陰には人を疑う余裕すらなく、すぐに行動に移すところがある。
騙されやすく、純粋な人間であった。
斬首刑の前日に松陰が弟子へ書いた「留魂録」には、失敗を恐れるな、失敗から学べと諭していた。
失敗はあってもよいと松陰は考えていたのである。
むしろ失敗して、それが元で挫折するような奴は武士ではないと手厳しい。
就職活動で苦しんでいる学生さんたちには、多少の励ましの言葉になる。
学生さんは、大多数が学士か修士である。
その「士」という字は、「武士」からもぎ取って明治になって名づけたものである。
だから松陰が「士(さむらい)」へ投げかける言葉が学生さんたちの身に浸みるのも当たり前なのである。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」から部分的に解説を抜粋する。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
『一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す』
「一度失敗したからといって、たちまち挫折してしまうようでは、勇士とはいえないではないか。諸君よ、切に頼む、切に頼むぞ」
『今日の事、同志の諸士、戦敗の餘、傷残の同士を問訊する如くすべし』
「何が失敗だったのか。だれに責任があるのか。どうすれば、よかったのか。すべてを明らかにし、残すのだ。次の戦いには、それらに十分注意し、再び失敗せぬように戦え、そして勝て。」
久坂玄瑞ほどの松陰高弟であっても、師の松陰の哲学を実践することはできなかった。
受傷を負った久坂は鷹司邸内へ行き、朝廷への願いを訴えた。
相手の鷹司卿が恐れて逃げてしまい、その願いは届かなかった。
そのために久坂は邸内で自刃している。
久坂も恩師の遺言書「留魂録」を読んでいたはずだ。
師の言葉は、読んで知っていたとしても、あまりに実践することに困難を伴うものだった。
晋作においても、決起のタイミングを見計らうことにおいてかなり迷っていた。
目出度く奇兵隊決起はしたものの、戦や政治活動の中で死を敢えて選ぶということをしなかった。
しかし、松陰自身は、己(おのれ)が吐いた言葉通りの人生を歩いたように見える。
松陰がそういう人間であることが、松陰の敵(井伊直弼以外に朝廷内にもいたはずだ)には空恐ろしかったに違いない。
松陰は、朝廷も幕府も要らないと最後には言い出していた。
「幕末にあって民衆革命を叫んだ」のである。
平戸訪問時に松陰は長崎にも足を伸ばしている。
晋作よりも先に米国人宣教師フルベッキと松陰は会っているのではないか。
まだ、そういう資料にはめぐり合ってはいないのだが、萩歴史散歩を終えてみて、そんな気がしてきた。
調べてみると、「松陰とフルベッキの関係」については語られていないが、両者の間にいる人間を論じている対談があった。
これまでに私はフルベッキを米国人宣教師と紹介してきたが、無国籍の宣教師だったようだ。日本に墓がある。
『小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。
藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。
でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。
確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。
また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。
小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。
しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。
でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。
また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。
生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。
藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。
また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。
小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。
それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。
●忘れ去られた近代日本への影響
藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。
小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。
ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。
しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・
日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。
中略。
藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。
オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。
その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。
ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。
彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。
彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。
小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。
日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。
人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 』
(「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」より)
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=494
さらに松陰とフルベッキの関係を探ろうとしていると、熱く二人を語るブログ記事が見つかった。
よく読んでみると、この萩散歩の初め頃に書いた拙著ブログだった。
熱いはずである。
その題名は、「萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58)[萩の吉田松陰]」となっていた。
http://shono.blog.so-net.ne.jp/archive/20110116
『途中略。
周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。
ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。
徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。
世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。
月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。
その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。
囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂 松陰」
侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。
月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。
宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。
その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。
獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。
月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。
月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。
国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。
大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。
しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。
松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。
松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。
日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。
日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。
学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。
歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。
そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。
松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。
松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。
いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。
長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。
平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。』
(拙著ブログより再掲)
松陰が消された理由が、天皇制廃止、米国型大統領制導入という思想の転換にあるとそのときの私は推測していた。
今松陰神社を離れるにあたって、その思いはさらに強くなっている。
なぜかというと、聾唖の弟敏三郎でさえも、努力すれば米国では国家元首(大統領)になれるということを松陰は獄中で学んだからであろう。
獄中の松陰は、日本の国体を揺るがすほどに恐ろしい人物へと変わっていったのであろう。
松陰がまだ江戸伝馬町牢屋内で生きていた安政6年6月18日、アメリカは米国人で日系1世のジョセフを日本へ送り込んできた。
『中略。
日本人で初めて大統領に接見し、日本人で初めてアメリカに帰化した人物が、今年、アメリカ帰化後150周年を迎えました。
その人の名は、「ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)」日本名浜田彦蔵、兵庫人です。
現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた浜田彦蔵は、運搬船(樽廻船)の乗組員だった13歳(嘉永4年)のときに、静岡沖で遭難しました。
太平洋を漂流中に、中国から母国アメリカに帰港中の船オークランド号の乗組員に救助され、そのままサンフランシスコの土を踏むこととなります。
その2年後、嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。
その後、色んな事業をやり、「新聞の父」とも呼ばれています。
詳しく書き出すときりがないので、この程度で。
漂流民としてアメリカに渡った人物としては、高知土佐藩の「ジョン・万次郎」が有名ですね。
でも、アメリカでの実績や日本への貢献度からすると、ジョセフ・ヒコの方が上ではないかと思います。
でも、なぜかヒコは、あまりメジャーではありません。
一方、ジョン・万は、NHK大河ドラマ「篤姫」にも出てきてますよね。
ヒコにちょっと興味が沸いた方、「ジョセフ・ヒコ、アメリカ帰化150周年」を機会に、関連する本を読んでみてください。
文久年間に本人が書いた「漂流記」や、最近の出版本では「ヒコの幕末―漂流民ジョセフ・ヒコの生涯」など他にもありますので、ぜひ。』
(「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)
http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
米国大統領にあった幕末の日本人ジョセフ・ヒコは、何と「安政6年」に日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきている。
それは松陰が春に江戸送りされ、秋に斬首された年である。
『安政3年(1856)、総領事ハリスが来日した。
ハリスは、通商開国を強く求め、安政4年末には日米修好通商条約の案文が定まった。
安政5年(1858)、幕府は調印前に勅許を得ようとしたが、孝明天皇の強い攘夷の意思もあり、勅許を得ることはできなかった。
幕府は結局、勅許なしで調印をしたが、このことは尊攘激派の強い反発を買った。』(総領事ハリス来日と通商条約より)
http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku2.htm
ハリスの来日は安政3年である。
なのに、日本人通訳を安政6年に送り込み、補充している。
ハリス入国から3年も経過して、わざわざ日本人通訳を日本へ送り込んだアメリカFBIあるいはCIAの狙いは何だったのか。
当時そういう部局が米国政府内にあったかどうかは知らないが、アメリカは本来諜報好きな国民である。
ハリスの後ろに必ず諜報部隊が暗躍していたはずである。
『1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国、後任はロバート・プルイン。
辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。』タウンゼント・ハリス(Wikipedia)
ハリスが離日したのは、1862年つまり文久2年である。
5年9ヶ月も滞在していたから、来日したのは1856~7年頃となる。
つまり、ハリスは安政3年(1856)の「初来日」以来、ずっと日本に住んでいたのである。
そのハリスの通訳として、米国民となった元日本人が来日3年を経た安政6年に日本へやってきた。
通訳というより、何らかのスパイ活動のために送り込まれてきたのだろう。
革命扇動業務ではなかったか。
アフガン・タリバン養成係は、当初はアメリカ軍の担当だったという。
今はかつての教え子と戦争をしており、よって米国内の軍需産業は潤い続けている。
ジョセフ・ヒコは米国人国籍を取得し、米国大統領にも面会しているエリートである。
つまり、ジョセフ・ヒコは米国キリスト教(おそらくカトリック)の洗礼を受けていたはずだ。
そうでなくては、こうもとんとん拍子に大統領に謁見できないだろう。
アメリカは、ある確かな意図をもってジョセフ・ヒコを育てている。
アメリカの行動は、このように計画的でかつ合理的である。
今でもそうである。
『嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。』
(前回抜粋より再掲、「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
松陰は安政6年4月に萩・野山獄を出て江戸へ向かい、10月に江戸伝馬町で斬首された。
その間にジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)こと浜田彦蔵から、米国の民主主義と大統領制度の話を聞いたのではないか。
フルベッキ人脈の中に晋作は入ったが、松陰生存時にフルベッキ人脈が萩で駆動されていたかどうか。
私は隠れキリシタンの人脈から既に村田清風の全盛期にフルベッキ人脈もしくはそれに相当する人脈が動いていたと見ている。
ジョセフ・ヒコの情報は、「松陰の米国密航の目的」を完全達成するほど貴重なものであったはずだ。
松陰は、それを知ったらすかさず行動を起こすように訓練されてきた。
玉木文之進の教育の賜物である。
山田宇右門の影響もあっただろう。
そして、それは陽明学の基本理念でもある。
ジョセフ・ヒコからの情報を受け取り、獄中で松陰は日本革命の発動、幕府のみならず朝廷さえも消し去る過激な計画を発動しようとしたのではないだろうか。
それが、急いで松陰が消された理由であると私は推理した。
東京・世田谷の松陰神社の横の墓の前で、「この萩の青年はなぜ江戸で斬首などされたのか」と自然と感じたなぞはようやく解けそうになってきた。
なぜかではなく、必然的に松陰は消されたのである。
そのことにアメリカの政策判断のミスが働いていたのだろう。
ジョセフ・ヒコの日本への送り込みは問題を解決すると読み誤っていたのである。
それどころか、囲炉裏にガソリンを撒くような事態を惹起してしまった。
井伊直弼の悪役大老ぶりだけがドラマでは目だってしまうが、実は朝廷自身が大きく変質してしまった松陰を恐れ、幕府に命じて消させたのであろう。
ジョセフ・ヒコの来日前の安政6年春のことだが、松陰は「天朝も要らぬ」(朝廷不要)と書簡で書いているから、それ以前から火はついてしまっていたかも知れない。
『恐れながら、天朝も幕府 吾が藩も入らぬ、ただ六尺の微躯が入用』(野村万作に宛てた書簡より)
天朝を恐れてはいるから、まだ国体の破壊者ではない。
革命軍構成としては草莽崛起しかないという意味合いであろう。
ジョセフ・ヒコの来日は松陰の火に油を注いだであろう。
ジョセフ・ヒコの帰国という事件によって、松陰は日本全体を震えあがらせたのかも知れない。
兵庫県人船乗り浜田彦蔵の帰国とは、相手のアメリカ側から見れば、米国人となったキリスト教徒ジョセフ・ヒコによる日本革命の火付け役投入と期待されるだろう。
ジョセフは日本に着くと、まず長崎にいる米国宣教師フルベッキに面会して日本革命予備軍(タリバン)の事情を聴取しているはずだ。
米国名ジョセフとは、旧約聖書では「ヨセフ」である。
『ヤコブは、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。
別名をイスラエルといい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。
中略、
レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。
その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。
晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。
エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。』(ヤコブ (旧約聖書)(Wikipedia)より)
江戸(横浜?)滞在中のハリスのもとにジョセフ(ヨセフ)の名を持つヒコが送られてきた事実に、朝廷が一番驚いたのではないだろうか。
日ユ同祖論、つまり日本人の遠い祖先はユダヤ人であるという説を唱える人々は、日本人のルーツをイスラエル十二部族としているからである。
最近の遺伝子分析によれば、日本人である私たちの血の10%程度は中東からやってきたユダヤ人由来のものがあるらしい。
シルクロードを辿ってきた宝物は、奈良法隆寺の中に納められている。
絹の道の出発点はエルサレムである。
「宝物だけいただいて、混血していない」と言うほうがおかしいだろう。
孝明天皇が米国人との接触を毛嫌いしていた理由は、血の由来とも関係があったかも知れない。
そういう直感的な外国人嫌いの感情は、朝廷自身の手によって毒で消されたようである。
命がけで黒船密航を実行しようとした松陰である。
元日本人ジョセフ・ヒコ帰国の情報を入手して、じっとしているはずがない。
問題は松陰とジョセフ・ヒコとに接触があり得たかどうかである。
『安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用される。
6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。
(1860年)2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。
文久元年9月17日(1861年10月20日)当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じてにアメリカに戻った。
文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。
文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。
元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。』(浜田彦蔵(Wikipedia)より)
ヨセフの公的業務は、松陰の死後4ヵ月後に終わっている。
約4ヶ月の間、二人は同じ日本国に生きていたことになる。
松陰は、絶対といっていいが、弟子たちにジョセフの情報を入手して教えるように命じたはずである。
まるで松陰を死なせるためにジョセフが日本に送り込まれたような気がしてきた。
当時のアメリカ諜報部は、「日本列島の土人たちに対する植民地化戦略」を間違えたのではないだろうか。
米国で先進文明人となったヨセフを日本へ送り込むことで、親米派が増えると考えたのだろうが、日本におけるキリスト教徒への迫害の激しさを読み切れていなかったのだろう。
西洋人の想像を超えるキリスト教徒迫害が200年以上も続いている「神々の統べる国」なのだった。
ジョセフは、公務から離れ民間人としてビジネスに精を出そうとするも、殺されそうになり、アメリカに一時帰国している。
「日本人土人たち」は、米国人が征服を果たしたアメリカインディアンなどとは文化宗教面で大きく異なっていたのだ。
戦略を誤ったと気づいて早々に「ヨセフ戦略」は取りやめたようだが、松陰はその稚拙な諜報戦略ために犠牲となってしまったように思われる。
タグ:ヨセフの帰国 松陰の死 黒船 ハリス上陸 下関功山寺 奇兵隊決起 雪の中 深夜 騎馬 危険な行為 ドラマ演出 赤穂浪士討ち入りの日 東北遊歴の旅 12月14日 脱藩 山鹿素行 留魂録 失敗はあってもよい 挫折 武士ではない 学士 修士 さむらい 一敗乃ち挫折 宣教師 フルベッキ 無国籍 松下村塾 テロリスト養成所 タリバン 神学塾生 アフガン オランダ語 英語 切り替え フライング・ダッチマン 彷徨えるオランダ人 ユトレヒトの工科学校 鉄道技師 伝染病 病床 主君の変更 総領事ハリス ジョセフ・ヒコ 洗礼 天朝 幕府 吾が藩 入らぬ 六尺の微躯 入用 野村万作 ヨセフ 旧約聖書 ヤコブ 子 イスラエル十二部族 日ユ同祖論 奈良法隆寺 シルクロード 絹の道 エルサレム 浜田彦蔵 兵庫 船乗り 長崎
ナポレオンを目指した晋作~長州(128) [萩の吉田松陰]
写真 功山寺挙兵の銅像(高杉晋作(Wikipedia)より引用)
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。
ここでは原文のみ抜粋する。
この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。
松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。
『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付
徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。
列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。
那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。
徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。
「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。
そう書いていて、思い当たった。
晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。
後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。
はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。
奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。
しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。
なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。
あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。
奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。
天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。
民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。
高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。
奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。
晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。
黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。
その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。
晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。
晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。
晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。
写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。
ここでは原文のみ抜粋する。
この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。
松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。
『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付
徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。
列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。
那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。
徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。
「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。
そう書いていて、思い当たった。
晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。
後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。
はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。
奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。
しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。
なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。
あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。
奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。
天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。
民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。
高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。
奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。
晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。
黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。
その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。
晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。
晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。
晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。
写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。
タグ:ナポレオン 目指した 晋作 功山寺挙兵 銅像 吉田松陰 草莽崛起論」 北山安世宛書簡 安政六年四月 草莽崛起 初出の書簡 北山安世 実母 殺し 狂死 処刑の半年前 那波列翁 フレーヘード 幕府も大名も酔っ払い 小柄 ドラマチック 決起 晋作の草庵 読み込んだ 奇 狂 民衆 近衛兵 正規軍 幕府軍 傭兵 征夷大将軍 民衆の軍隊 東洋一狂生 アメリカ 黒人奴隷 白人 マサチューセッツ第54歩兵連隊 ワグナー砦 攻撃 1863年7月18日 偏見 一掃 文久3年 8月18日の政変 禁門の変 挙兵 文久4年 1年半年も前のアメリカのニュース 長崎の米国人宣教師フルベッキ 届けられていた可能性 フルベッキ 上海視察 長崎 懇談 勝てる戦 慎重な性格 ナポレオン騎馬像
育て主、村田清風~長州(127) [萩の吉田松陰]
SH3B0495境内西横に歴史館?
SH3B0500蝋人形が語る「村田清風(右手)と松陰(背中)」
萩・松陰神社境内を出て帰途に着くことにしよう。
そう思って境内を歩いて鳥居の下をくぐった。
夏の西日が暑いのでついソフトクリームの模型に目がいった。
そのままソフトクリームを買ってよろよろとベンチに座り、木陰で冷たいクリームを堪能した。
顔をソフトクリームから上げて自分の正面を見ると、境内の西の方に館がある。
歴史博物館のようでもある。
立ち上がって自然にそちらへ入っていった。
入館料を500~600円くらい支払ったようである。
入ってみると、なんと松陰の歴史を蝋人形で表現した館だった。
「蝋人形かあ」と落胆しつつ、逆流して出るわけにも行かないので、ざっと見て巡った。
地元の古老に松陰生存時の話を聞いたりして、地元の皆さんが語りつないできたものを小学生にもわかりやすく人形で教えたものである。
明治維新革命直後であったならば、まだ文盲の人も多かったはずだ。
蝋人形の果たした役割は大きかったであろう。
テレビが普及し、インターネットが発達した現代では、訪問する一般者は少ないように見受けられた。
修学旅行や団体旅行者が目当ての興行ということであろう。
ところが最後のこの見学が、思いがけずに私に大きな勇気を与えてくれることになった。
私は、萩のキリシタン殉教地と村田清風の居宅(別宅)の距離が近いこと、ひょっとして村田清風と松陰に隠れキリシタンを介して接点があったのではないかという推理を立てて、今回の萩訪問を企画した。
松陰とキリシタンの関係はわからないままであった。
ただ萩を追われたキリシタンたちは、松陰神社西側の道を通って山の中へ入っていったのは確かである。
松陰の母お滝の父村田右中(うちゅう)にはそれらしき雰囲気が漂っていた。
右中(うちゅう)は、毛利志摩守、支藩徳山藩主の家臣である。
萩毛利本藩から見れば陪臣である。
今回の萩訪問は「村田清風と松陰の接点探しの旅」でもあった。
それを探せないまま、これから帰京しようとしていた。
ところが幼い頃の松陰の蝋人形を見て歩いていると、藩主に向かって講義している幼い松陰の両側に藩士2名が座っており、その傍の名札に村田清風の名があったのだ。
藩主に11歳の兵学者松陰を師として立ち会わせた仕掛け人はこの二人である。
村田清風と、もう一人は甥の山田亦介だったと記憶している。
あまりの感激で、もう一人の武士の名前を記憶しないまま出てきてしまった。
それほど私にとってはこの蝋人形は嬉しい情報だったのである。
地元の人々の言い伝えを元に、正確を期して製作しただろう蝋人形である。
内部は暗いため、携帯カメラは長時間露光となり、ピントボケして写ってしまった。
よって、付き添いの藩士の傍に名札が立ててあるのだが、それも判読できなかった。
現地の蝋人形館に入って直接確かめていただくほかない。
私の記憶では、松陰の傍に臨席した藩士は、藩主に向かって右手が村田清風で、左手が山田亦介だった。
両者は伯父、甥の関係である。
村田清風が松陰を兵学者として育てたということがこの光景からよくわかる。
実際に後見人として手を下したのは、山田宇右衛門のようであるが、大きな仕掛けは村田清風が創ったのであろう。
吉田松陰(1830~1859)が吉田家に養子に行ってからの教育環境を見てみよう。
藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じたのは松陰11歳のときだった。
1783年生まれの村田清風はそのとき58歳になる。
年齢的にみて、両者が互いに同席できたぎりぎりの接点だったようだ。
村田清風は1855年(安政2年)に、持病の中風が再発して73歳で死去しているが、あの村田清風別宅内で寝起きしつつ、脱藩事件や米国密航未遂事件のことなどを頼もしく聞いていたことだろう。
そういう松陰となるべく、村田清風は松陰を引き立ててきたのである。
『中略。
五歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となる。
翌年、養父・吉田大助が亡くなり、六歳で吉田家の八代当主となる。
大次郎と改名。 後には寅次郎、松陰を名乗る。
父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、天保十(1840)年、藩校「明倫館」で山鹿流兵学を講義し、林雅人(大助の高弟)らが後見人となる。
同十一年、藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じ、慶親を驚嘆させる。
少年時代の松陰に感化を与えた人物に、家学の後見人である山田宇右衛門と、山田亦助がいる。
宇右衛門は、他流を学び海外の知識に通ずる必要性を説き、世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈って、欧米列強の存在を教えた。
また、長沼流兵学者、山田亦助を松陰に紹介した。
松陰は十六歳で亦助の門に入り、翌年に免許を受けて家伝の長沼流兵要録を贈られた。
この頃から海外の情報を得ることに熱心で、アヘン戦争についての情報を得て、強い衝撃を受ける。
十九歳で明倫館の兵学教授となる。
嘉永二年(1849)、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。
その後、九州を旅し、江戸に遊学、熊本藩士・宮部鼎蔵らとともに東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。
しかし手続き上の不備から亡命の罪に問われ、士籍、世禄を剥奪されてしまう。
その後、藩主より十年間の諸国遊学の許可を受け、再び江戸に向う。
安政元(1854)年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄。
同二年、実家の杉家預りとなり、同四年に松下村塾を主宰。
その間、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義、山縣有朋ら約八十人の人材を育成した。
安政五(1858)年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたことから、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。
安政六(1859)年四月、幕府より松陰の江戸護送の命が下る。
「安政の大獄」で勤皇派への弾圧が続くなか、同年10月27日、死罪となり斬首された。』(「人物紹介 長州藩」より)
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choshu1.html
萩で松陰の思想形成に影響を及ぼしたのは、吉田家家学(山鹿流兵学)の後見人である山田宇右衛門と、長沼流兵学者の山田亦助だった。
大抵の記事にはそう書いてあるが、村田清風が藩主に面会させたことはほとんど出てこない。
地元萩では蝋人形で周知のことなのに、である。
この長州藩の兵学者両名は、文久元年に下関に着いた英国軍艦に乗り込み誰かと何事かを話し合っている。
『天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。
九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。
嘉永4年(1851年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。
嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、金子重輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。
安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。
安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。』
(吉田松陰(Wikipedia)より)
山田亦介は村田清風の甥である。
ここに村田清風と松陰の間に、意外と太い関係線があることが見えてきた。
また、山田宇右衛門は世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈り、欧米列強の存在を教えたという。
後、文久3年に、山田宇右衛門は隠れキリシタン村の行政担当者として奥阿武山中に赴任することになる。
山田宇右衛門がその地区のコントロールを得意としていた理由は、おそらく宣教師や信者からもたらされる西洋情報にもかなり通じていたからであろう。
SH3B0500蝋人形が語る「村田清風(右手)と松陰(背中)」
萩・松陰神社境内を出て帰途に着くことにしよう。
そう思って境内を歩いて鳥居の下をくぐった。
夏の西日が暑いのでついソフトクリームの模型に目がいった。
そのままソフトクリームを買ってよろよろとベンチに座り、木陰で冷たいクリームを堪能した。
顔をソフトクリームから上げて自分の正面を見ると、境内の西の方に館がある。
歴史博物館のようでもある。
立ち上がって自然にそちらへ入っていった。
入館料を500~600円くらい支払ったようである。
入ってみると、なんと松陰の歴史を蝋人形で表現した館だった。
「蝋人形かあ」と落胆しつつ、逆流して出るわけにも行かないので、ざっと見て巡った。
地元の古老に松陰生存時の話を聞いたりして、地元の皆さんが語りつないできたものを小学生にもわかりやすく人形で教えたものである。
明治維新革命直後であったならば、まだ文盲の人も多かったはずだ。
蝋人形の果たした役割は大きかったであろう。
テレビが普及し、インターネットが発達した現代では、訪問する一般者は少ないように見受けられた。
修学旅行や団体旅行者が目当ての興行ということであろう。
ところが最後のこの見学が、思いがけずに私に大きな勇気を与えてくれることになった。
私は、萩のキリシタン殉教地と村田清風の居宅(別宅)の距離が近いこと、ひょっとして村田清風と松陰に隠れキリシタンを介して接点があったのではないかという推理を立てて、今回の萩訪問を企画した。
松陰とキリシタンの関係はわからないままであった。
ただ萩を追われたキリシタンたちは、松陰神社西側の道を通って山の中へ入っていったのは確かである。
松陰の母お滝の父村田右中(うちゅう)にはそれらしき雰囲気が漂っていた。
右中(うちゅう)は、毛利志摩守、支藩徳山藩主の家臣である。
萩毛利本藩から見れば陪臣である。
今回の萩訪問は「村田清風と松陰の接点探しの旅」でもあった。
それを探せないまま、これから帰京しようとしていた。
ところが幼い頃の松陰の蝋人形を見て歩いていると、藩主に向かって講義している幼い松陰の両側に藩士2名が座っており、その傍の名札に村田清風の名があったのだ。
藩主に11歳の兵学者松陰を師として立ち会わせた仕掛け人はこの二人である。
村田清風と、もう一人は甥の山田亦介だったと記憶している。
あまりの感激で、もう一人の武士の名前を記憶しないまま出てきてしまった。
それほど私にとってはこの蝋人形は嬉しい情報だったのである。
地元の人々の言い伝えを元に、正確を期して製作しただろう蝋人形である。
内部は暗いため、携帯カメラは長時間露光となり、ピントボケして写ってしまった。
よって、付き添いの藩士の傍に名札が立ててあるのだが、それも判読できなかった。
現地の蝋人形館に入って直接確かめていただくほかない。
私の記憶では、松陰の傍に臨席した藩士は、藩主に向かって右手が村田清風で、左手が山田亦介だった。
両者は伯父、甥の関係である。
村田清風が松陰を兵学者として育てたということがこの光景からよくわかる。
実際に後見人として手を下したのは、山田宇右衛門のようであるが、大きな仕掛けは村田清風が創ったのであろう。
吉田松陰(1830~1859)が吉田家に養子に行ってからの教育環境を見てみよう。
藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じたのは松陰11歳のときだった。
1783年生まれの村田清風はそのとき58歳になる。
年齢的にみて、両者が互いに同席できたぎりぎりの接点だったようだ。
村田清風は1855年(安政2年)に、持病の中風が再発して73歳で死去しているが、あの村田清風別宅内で寝起きしつつ、脱藩事件や米国密航未遂事件のことなどを頼もしく聞いていたことだろう。
そういう松陰となるべく、村田清風は松陰を引き立ててきたのである。
『中略。
五歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となる。
翌年、養父・吉田大助が亡くなり、六歳で吉田家の八代当主となる。
大次郎と改名。 後には寅次郎、松陰を名乗る。
父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、天保十(1840)年、藩校「明倫館」で山鹿流兵学を講義し、林雅人(大助の高弟)らが後見人となる。
同十一年、藩主慶親の前で「武教全書戦法篇」を講じ、慶親を驚嘆させる。
少年時代の松陰に感化を与えた人物に、家学の後見人である山田宇右衛門と、山田亦助がいる。
宇右衛門は、他流を学び海外の知識に通ずる必要性を説き、世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈って、欧米列強の存在を教えた。
また、長沼流兵学者、山田亦助を松陰に紹介した。
松陰は十六歳で亦助の門に入り、翌年に免許を受けて家伝の長沼流兵要録を贈られた。
この頃から海外の情報を得ることに熱心で、アヘン戦争についての情報を得て、強い衝撃を受ける。
十九歳で明倫館の兵学教授となる。
嘉永二年(1849)、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。
その後、九州を旅し、江戸に遊学、熊本藩士・宮部鼎蔵らとともに東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。
しかし手続き上の不備から亡命の罪に問われ、士籍、世禄を剥奪されてしまう。
その後、藩主より十年間の諸国遊学の許可を受け、再び江戸に向う。
安政元(1854)年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄。
同二年、実家の杉家預りとなり、同四年に松下村塾を主宰。
その間、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山田顕義、山縣有朋ら約八十人の人材を育成した。
安政五(1858)年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたことから、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。
安政六(1859)年四月、幕府より松陰の江戸護送の命が下る。
「安政の大獄」で勤皇派への弾圧が続くなか、同年10月27日、死罪となり斬首された。』(「人物紹介 長州藩」より)
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/choshu1.html
萩で松陰の思想形成に影響を及ぼしたのは、吉田家家学(山鹿流兵学)の後見人である山田宇右衛門と、長沼流兵学者の山田亦助だった。
大抵の記事にはそう書いてあるが、村田清風が藩主に面会させたことはほとんど出てこない。
地元萩では蝋人形で周知のことなのに、である。
この長州藩の兵学者両名は、文久元年に下関に着いた英国軍艦に乗り込み誰かと何事かを話し合っている。
『天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
弘化2年(1845年)、山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。
九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。
嘉永4年(1851年)、東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。
嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、金子重輔と長崎に寄港していたロシア帝国の軍艦に乗り込もうとするが、失敗。
安政元年(1854年)、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。
事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。
安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。』
(吉田松陰(Wikipedia)より)
山田亦介は村田清風の甥である。
ここに村田清風と松陰の間に、意外と太い関係線があることが見えてきた。
また、山田宇右衛門は世界地図を収録した「坤輿図識」(こんよずしき)を松陰に贈り、欧米列強の存在を教えたという。
後、文久3年に、山田宇右衛門は隠れキリシタン村の行政担当者として奥阿武山中に赴任することになる。
山田宇右衛門がその地区のコントロールを得意としていた理由は、おそらく宣教師や信者からもたらされる西洋情報にもかなり通じていたからであろう。
松陰は寅年生まれ~長州(126) [萩の吉田松陰]
SH3B0493松下村塾座敷の写真(鉢巻姿の久坂玄瑞ほか)
SH3B0494今年(2010年)は松陰寅次郎の「寅年」だった
松下村塾座敷に明治の偉勲たちの写真が飾ってあった。
私は鉢巻姿の久坂玄瑞の姿がこの塾生に一番にあっていると思った。
少年団が鉢巻姿で死を覚悟して革命の火蓋を切る。
ここは、そのためのボーイスカウト道場だった。
実は世田谷松陰神社鳥居の左手奥にボーイスカウトのトーテムポールが立っている。
そのことは、ほとんどの人は知らないだろう。
尤も師匠の松陰が追及した思想はもっと深いものがあった。
おそらく松陰の最終断面での思想は、天皇制度さえも否定する完全民主化路線だったであろう。
井伊直弼と幕府寄りの朝廷方はそれを聞き、震え上がったのであろう。
残酷ではあるが、萩松陰神社を去るにあたり、松陰斬首の姿に迫っておきたい。
私がかつてやったように、松陰刑死の足跡を東京・江戸で追う人の記事が二つあったので紹介する。
『松蔭が世田谷区若林に埋葬された経緯について
安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬された。
その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。
この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。
当時、刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。
役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだったという。』
松蔭先生は寅年生まれ(立志尚特異・俗流與議難)
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col15236.htm
「胴体は裸のままだったという。」と表記している伝聞記事の出典はよくわからない。
『松陰 最初の墓
松陰処刑の報を知った在江戸の門下生達は、何とか師の遺骸を取り戻すべく百方手を尽くしたが上手く行かず、遂に正々堂々と獄吏に面会を求め熱心に引き渡しを請うた結果、その熱意と至誠に動かされた獄吏は「獄中死骸の処分に苦しむ」として小塚原回向院での交付を約し、桂小五郎、伊藤博文らが受取りに行き、四斗桶の遺体を見てあまりの処刑の凄まじさに驚いた。
首は落ち、身は一寸の衣も纏っていなく、首を繋ごうとしたが後日の検視を恐れた獄吏に止められ、各自が脱いだ衣服で遺体を包み、橋本左内の墓の左に葬り、巨石で覆った。
その後遺体は、高杉晋作らによって世田谷若林に改葬されたが、墓碑は今も回向院に現存している。
遺骸の改葬
門下生の晋作や久坂玄瑞らは、小塚原は火付けや強盗、殺人犯の遺骸の埋葬地で、このような連中とわが師を一緒にするなと他所への移葬を願い出たがこれがうまく行かず、後の大赦令の布告により現在の世田谷区若林の毛利家お抱え地に埋葬することが出来た。
この地の風景が松下村塾のあった松本村に似ており、この地が選ばれたようである。
明治に入り、この地に松陰神社が建てられたのはご存知の通りである。』
(「東京の中の防長・見てある記 2」より)
http://homepage3.nifty.com/ne/kk/kk-kaiho/kk-1999/1999-14/p-05.html
斬首直後に幕府の目に隠れて、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らが遺体に面会していることは始めてこの記事で知った。
これにも胴体が全裸であることがかかれている。
見るに忍びず、彼らは着ていた着物を脱いで遺体に着せたようだ。
首を縫うことも許されずに、回向院を立ち去っている。
将軍が日光へ行くときに通る御成街道を南へくだりつつ、木戸も伊藤も泣いたことであろう。
しかし、このとき晋作らはその場にいたのだろうか。
松門の三秀(晋作、久坂、吉田稔麿)のいずれか一人でもこの場にいたならば、幕吏の命令とは言え、首と胴体を縫い合わせずにこの場を立ち退けただろうか。
松陰の弟子といえども、伊藤博文は松門の三秀と大きな温度差を持っているようだ。
木戸孝允は松陰の弟子ではない。
木戸孝允は、明倫館教授でもあった松陰が、明倫館で兵学を教えた学生の中の一人に過ぎない。
SH3B0494今年(2010年)は松陰寅次郎の「寅年」だった
松下村塾座敷に明治の偉勲たちの写真が飾ってあった。
私は鉢巻姿の久坂玄瑞の姿がこの塾生に一番にあっていると思った。
少年団が鉢巻姿で死を覚悟して革命の火蓋を切る。
ここは、そのためのボーイスカウト道場だった。
実は世田谷松陰神社鳥居の左手奥にボーイスカウトのトーテムポールが立っている。
そのことは、ほとんどの人は知らないだろう。
尤も師匠の松陰が追及した思想はもっと深いものがあった。
おそらく松陰の最終断面での思想は、天皇制度さえも否定する完全民主化路線だったであろう。
井伊直弼と幕府寄りの朝廷方はそれを聞き、震え上がったのであろう。
残酷ではあるが、萩松陰神社を去るにあたり、松陰斬首の姿に迫っておきたい。
私がかつてやったように、松陰刑死の足跡を東京・江戸で追う人の記事が二つあったので紹介する。
『松蔭が世田谷区若林に埋葬された経緯について
安政の大獄に連座し1859年(安政6年)10月27日に伝馬町の獄牢で処刑された吉田松陰の遺体は、最初は小塚原回向院に埋葬された。
その後、毛利家が所有していた東京都世田谷区若林お抱え地(現在、世田谷区若林4丁目)に改葬された。
この改葬地が現在、東京にある松陰神社となっている。
当時、刑死者の扱いは極めて粗雑で、松蔭の遺体は四斗桶に入れ、回向院のわら小屋に置かれていた。
役人が桶を取り出し、蓋を開けると、首の顔色はまだ生きてるようにも見えたが、髪は乱れ顔面を覆い、血がべったりとこびりつき、胴体は裸のままだったという。』
松蔭先生は寅年生まれ(立志尚特異・俗流與議難)
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col15236.htm
「胴体は裸のままだったという。」と表記している伝聞記事の出典はよくわからない。
『松陰 最初の墓
松陰処刑の報を知った在江戸の門下生達は、何とか師の遺骸を取り戻すべく百方手を尽くしたが上手く行かず、遂に正々堂々と獄吏に面会を求め熱心に引き渡しを請うた結果、その熱意と至誠に動かされた獄吏は「獄中死骸の処分に苦しむ」として小塚原回向院での交付を約し、桂小五郎、伊藤博文らが受取りに行き、四斗桶の遺体を見てあまりの処刑の凄まじさに驚いた。
首は落ち、身は一寸の衣も纏っていなく、首を繋ごうとしたが後日の検視を恐れた獄吏に止められ、各自が脱いだ衣服で遺体を包み、橋本左内の墓の左に葬り、巨石で覆った。
その後遺体は、高杉晋作らによって世田谷若林に改葬されたが、墓碑は今も回向院に現存している。
遺骸の改葬
門下生の晋作や久坂玄瑞らは、小塚原は火付けや強盗、殺人犯の遺骸の埋葬地で、このような連中とわが師を一緒にするなと他所への移葬を願い出たがこれがうまく行かず、後の大赦令の布告により現在の世田谷区若林の毛利家お抱え地に埋葬することが出来た。
この地の風景が松下村塾のあった松本村に似ており、この地が選ばれたようである。
明治に入り、この地に松陰神社が建てられたのはご存知の通りである。』
(「東京の中の防長・見てある記 2」より)
http://homepage3.nifty.com/ne/kk/kk-kaiho/kk-1999/1999-14/p-05.html
斬首直後に幕府の目に隠れて、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らが遺体に面会していることは始めてこの記事で知った。
これにも胴体が全裸であることがかかれている。
見るに忍びず、彼らは着ていた着物を脱いで遺体に着せたようだ。
首を縫うことも許されずに、回向院を立ち去っている。
将軍が日光へ行くときに通る御成街道を南へくだりつつ、木戸も伊藤も泣いたことであろう。
しかし、このとき晋作らはその場にいたのだろうか。
松門の三秀(晋作、久坂、吉田稔麿)のいずれか一人でもこの場にいたならば、幕吏の命令とは言え、首と胴体を縫い合わせずにこの場を立ち退けただろうか。
松陰の弟子といえども、伊藤博文は松門の三秀と大きな温度差を持っているようだ。
木戸孝允は松陰の弟子ではない。
木戸孝允は、明倫館教授でもあった松陰が、明倫館で兵学を教えた学生の中の一人に過ぎない。
平戸行きを勧めた人物~長州(125) [萩の吉田松陰]
SH3B0489松下村塾(松陰神社境内)
SH3B0490講義室
SH3B0491庭から講義室を見る
萩の松陰神社境内にある松下村塾の講義室の前に来ている。
庭の方から講義室を眺めていると、松陰が本を読む声が聞こえ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿らがそれを復唱する姿が見えてくるようだ。
東京・世田谷の松陰神社横の墓所で松陰の墓に参った。
葉が真っ赤に色づいた11月のことだった。
楓の木の下の埋められている長州人の青年松陰の死の理由について考えようと思った。
静かに落ち着いた田舎町の萩で生まれ育った青年が、なぜ江戸で罪人として斬首されるまでに至ったのか。
山口県で20年間ほど暮らしたことのある私には、とうてい想像がつかない異常事件である。
誰が松陰青年をそういう過激志士へと教育したのか、それが大問題である。
平戸は、松陰が藩外へ出た最初の旅の行き先だった。
その藩は新生日本の天皇の誕生に関係していたことは先の記事で述べた。
藩主松浦清(静山)のひ孫が明治天皇だった。
私の推理では、静山の孫忠光と天皇を入れ替えており、入れ替えられた方の天皇は忠光になりすまして攘夷の第1声を発するため長州下関へやってきていた。
その間に滞在中の長府藩から惨殺された。
忠光が長府藩士に暗殺されたのは事実であるが、身代わりだったかどうかは議論の余地があるだろう。
若き松陰が、修行のために平戸へいくのを大げさに誉めて薦めた兵学者が萩にいた。
彼は幼い頃の松陰の後見人で、周防国熊毛郡上関(かみのせき)の生まれである。
私は司馬遼太郎著「世に棲む日日」でそのくだりを読んだが、その部分を抽出している記事があったので、抜粋する。
『松陰は平戸に留学する。生まれて初めて長州藩の外に出た。
この山田宇右衛門が、
「遊歴のこと、容易なことではおゆるしがおりまい。いったい、どこへゆくつもりか」と、松陰にきいた。
「肥前(長崎県)平戸へまいりたいとおもいますが」
松陰がいうと、宇右衛門はひざをうって声をあげ、
「こいつはぐうぜん、一致した。わしも平戸がよいとおもった。平戸へゆけ。ゆけば、おぬしの学問がひと皮むけるはずだ。」
と、ひどく昂奮した。
山田宇右衛門が「平戸、平戸」と、しきりにいう肥前平戸とは、わずか六万一千石の小藩にすぎない。
そのおもな藩域である平戸島は、まわりが一六〇キロ、山がほとんどで海岸に断崖がせまり、人口は三万に足りない。
しかしこの藩(松浦家)はむかしから学問のさかんなことで有名であり、多くの人材を出したが、いま松陰が考えつづけている平戸ゆきの目的は、かれの専門である山鹿流兵学の研究のためであった。
中略、
話をはやく他へ転じたいとおもいながら、この稿における松陰はまだ九州に、とくに平戸に居つづけている。
このこと、どうも筆者にとってやむをえない。
なぜならば松陰にとって最初の外界への旅立ちである九州旅行は、この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえるからである。
このうつくしい城のある平戸島は、島そのものが書物の宝庫のように松陰にはおもえた。さまざまの書物を借りだしては読み、あるいは全部写したり、一部だけ写しとったりした。』
(「世に棲む日日(その3)平戸編」より)
http://homepage3.nifty.com/torabane/meisaku27.htm
『この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえる』と司馬氏はほのめかしているが、司馬氏はもっと確かな証拠をつかんでいたのではないだろうか。
彼は京都で寺社に関する新聞記者をしていたから、宗教関係については造詣が深かった。
おそらくそれを知っていても言えなかったのであろう。
私は、山鹿素行の末裔、山鹿万介が家老をする平戸藩滞在中に、青年松陰は別人となるべく訓練か修行がほどこされたものと推理している。
ひょっとすると、それは「宗教的な洗礼のような儀式」だったかも知れない。
後の松陰の江戸における悲惨な死は、平戸訪問によって決定付けられたと言ってもよい。
それに比べると、司馬遼太郎氏の言い方は慎重である。
松陰を斬首刑に追い込んでいくことで、三条実美や月性が育てた草莽たちをまんまと崛起させた。
そういう「闇の力」がこの国に存在すると仮定しよう。
その組織はこの国の出版界をも牛耳っている可能性が高い。
とくに革命成就した明治以降の活版印刷事業には深くかかわっているだろう。
世界で最初に活版印刷を事業活用したのは、確か「聖書」ではなかっただろうか。
司馬さんには、作家の生活がかかっている。
だから司馬氏も慎重な表現にならざるを得なかったのだろう。
さて、この小説では長州藩の山田宇右衛門が松陰の平戸行きの願いを吟味し、承認した人物として登場してきた。
山田宇右衛門は、幼い頃の松陰の後見人であった。
松陰に平戸へ言ってみたいと言わせることなど造作もないことだろう。
言わせて、誉めて、旅立たせている。
山田宇右衛門は、革命直前に55歳で世を去っている。
『名は頼毅、号を治心気斎(じしんきさい)または星山という。
長州藩士、禄100石。
文化10年(1813)熊毛郡上関(山口県)に生まれる。
藩士増野茂左衛門の三男。
文化14年、山田家を継ぐ。
吉田大助門下の高弟で松陰幼少時代の後見人、また山鹿流の代理教授も行う。
松陰の教育には最も力を尽くし将来の方向を与える。
松陰はその人物に敬服し、終生先生として崇める。
安政元年(1854)2月浦賀戌衛総奉行の手元役、2年3月長崎薩摩に出かける。
後徳地の代官。
文久元年(1861)5月英国軍艦が馬関(下関)に碇泊すると山田亦介(またすけ)と出張する。
文久2年8月学習院用掛として上京、勤皇のことに働き、帰国して参政する。
文久3年奥阿武の代官、慶応元年1月表番頭格に進み兵学校教授、2月には参政し教授を兼務。当時恭順派(きょうじゅんは)が失政し、その後をうけて藩政を改革し、兵備を拡張し幕府との戦いに備える。
慶応2年四境戦争に勝利したのは彼の功績は大きい。
5月撫育方(ぶいくがた)用掛を兼務。慶応3年6月民政方改正掛となり、11月11日亡くなる。享年55歳。明治31年正四位を贈られる。』
(「山田宇右衛門」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-y.htm
文久元年(1861)5月、英国軍艦が馬関(下関)に碇泊するとこれを訪ねていると紹介されている。
攘夷を叫んでいた長州人が、なぜ英国軍艦を訪問したのであろうか。
その3年後には、山田宇右衛門は奥阿武の代官をしている。
松陰の後見人で山鹿流兵学の代理教授たる人物が、この風雲急を告げる文久3年に山奥のキリシタン遺跡のある奥阿武の代官となって静かにしている意味は何なのか。
それは文久元年にあった英国人との話と、どう関連しているのか。
兵学専門家だった山田宇右衛門がキリシタン村のある奥阿武の代官をしていた文久3年とは、長州藩にとって藩滅亡の寸前にまで行った大変な年である。
山の中の村民の生活指導どころの事態ではない。
山田はあえて長州藩自体、それも長州の古い体質を対英国戦争で破壊しようとしていたのではあるまいか。
兵学者が戦略も持たずに戦争を眺めたりはしないはずだ。
ある戦略をもって、山中の行政担当として戦争中に引きこもったと私には読める。
明治天皇の叔父の中山忠光が狐一疋(ひき)を光明寺へ持参し、その1ヵ月後に下関戦争は火蓋を切った。
砲撃開始の合図は、松陰の一番弟子の久坂玄瑞の仕事であった。
次の記事の中に、米国南北戦争の終結間際にアジア方面へと逃げていった南軍の軍艦を追って日本へやってきた北軍の軍艦のことが出ている。
彼らもやはり久坂らの砲撃を受けている点に注目すべきである。
アメリカ南北戦争の勝敗があらかた決まり、やがて世界中の武器が余るという時代が文久3年であった。
既に述べたことだが、黒人奴隷だけで編成した北軍側部隊が白人だけの南軍正規部隊を負かしたことがきっかけで、戦争の勝敗が分かれた。
銃による近代武装によれば、農民兵中心であっても幕府の正規軍を負かすことができると言う知恵は、形を変えて世界中に伝わったはずである。
晋作も上海や長崎の米国人宣教師フルベッキから聞かされていたはずだ。
それが奇兵隊へとつながってくる。
明治維新とアメリカ南北戦争の関係を分けて考える限り、松陰の死の謎は解けない。
この攘夷戦争のあとで、世界中に余った大量の武器が「まるで長州藩が江戸幕府に勝利するかように」大量に届けられるのである。
『1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。
中略。
長州藩の攘夷決行
攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。
攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を発見。
総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。
海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったベンプローク号は周防灘へ逃走した。
初めて外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。
フランスの通報艦キャンシャン号の被害23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。
長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。
キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ベンプローク号が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。
キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが振り切られ、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。
26日、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。
キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代からの長い友好関係があり、攻撃はされまいと判断していた。
だが、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。
メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。
米仏軍艦による報復
この時期のアメリカは南北戦争の最中で、軍艦ワイオミング号(砲6門)は南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使ロバート・プルインの要請を受けて横浜に入港していた。
アメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。
米艦ワイオミング号の下関攻撃
6月1日、ワイオミング号は下関海峡に入った。
不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。
壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。
庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。
ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。
もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、ワイオミング号の砲撃で砲台も甚大な被害を受けた。
フランス艦隊による報復攻撃6月5日、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号(砲36門)とタンクレード号(砲6門)が報復攻撃のため海峡に入った。
セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。
長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。
長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。
米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。
これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。
また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。
長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。」(下関戦争(Wikipedia)より)
「藩兵ほか1000名、帆走軍艦2隻、蒸気軍艦2隻配備して海峡封鎖の態勢」を取っている文久3年に、松陰の後見人で山鹿流兵学代理教授たる人物が隠れキリシタン村の代官として阿武山中の村民生活全般の世話を焼いていたことは、とても信じがたいことである。
戦争の帰結を確信しており、しばらくは高みの見物としゃれ込もうという心境ではなかったか。
かつて東北遊歴の際に、松陰は友人との約束を優先して藩主を裏切り脱藩した。
そのとき来島、宮部らの説得を受け入れ、松陰は帰藩し野山獄へ入れられた。
そのとき後見人であった山田宇右衛門老人は松陰になんと言ったか。
「脱藩したのになぜおめおめと帰ってきたのだ。お前のような根性なしとは今後絶縁する」という意味の言葉を松陰へ与えている。
「友人との約束のためなら、藩主への忠誠なんて忘れちゃえ。」
そう言ったも同然である。
長州藩などという小藩は捨て去り、日本人兵学者として大きく国防に身をささげよといいたかったようである。
『松陰は叔父玉木文之進以外からも兵学を学んでいった。
山田宇右衛門は吉田大助の高弟で、江戸から帰ったばかりだった。
宇右衛門は西洋列強の侵略に対する危機意識を喚起し、海防研究を兵学上の重要課題とした。
さらに、長沼流兵学を山田亦介から学んだ。
亦介は国内外情勢に詳しく、西洋兵学も研究していた。
この二人の師の影響で、西洋列強からいかに国を守るかの研究に没頭するようになっていった。
二十歳の時、外国との水戦、陸戦について論じた『水陸戦略』を藩に提出した。
そこでは、日本の危機を指摘し、軍備の充実を論じているが、戦術としては「大船より小船のほうが適している。
小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。
外国船は大きく動きにくく、大砲の弾丸は遠くへ飛ぶが、命中しにくい」と述べている。
危機感はあっても、外国事情に関しては、まだ井の中の蛙であった。』
(関根徳男著「偉人たちの獄中期」より)
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/book1-1.htm
外国にはとてもかなわなかったのが幕末の歴史事実だったから、この記事の著者は松陰の海防論を井の中蛙と形容している。
一部あたってはいるが、しかし、私はそうは思わない。
幕府と薩長土肥が一致協力して松陰の戦法を取っていれば、日本の沿岸戦であれば日本水軍は戦えたのではないかと思う。
「小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。」という戦法は、暗闇の周防大島沖で晋作が西洋式の幕府軍艦に仕掛けた戦法であり、長州藩の勝利へ貢献している。
もっとも昼間の戦闘では下関戦争では散々な目にあっているから、武力の差異は大きかった。
ベトナムのベトコンのような闇夜での艦船攻撃を継続することで、相手の戦意を喪失させることはできたかも知れない。
当時は日本の造船技術が未熟だったので、沈めてしまえば異人は帰国できなくなる。
日本刀がうじゃうじゃいるこの国で生きていくのは大変なことだっただろう。
そういう海防研究を兵学上の重要課題としていた山田宇右衛門が、文久3年に隠れキリシタン村の行政担当者として生活指導をしていたということが脳裏に焼きついている。
文久元年に下関で英国軍艦に乗り込んだ山田宇右衛門は、誰と、何を、話し合ったのだろうか。
おそらく相手は英国通訳書記官アーネスト・サトウであろう。
話し合ったテーマは幕府の怒りも配慮して、当然極秘扱いとしたはずだ。
アーネスト・サトウの日記抄、荻原延壽著「遠い崖」は全14巻を全て読んだが、下関戦争の3年前(文久元年)に長州藩兵学者山田宇右衛門と密談があったという記載の記憶はない。
英国軍艦の表向きの用事は、薪と水の補給を長州藩に申し入れただけであろう。
日本革命を仕掛けるスパイサトウと、長州藩の山鹿流兵学の代理教授との面談である。
国防や戦争、それへの英国軍支援などの話題が出ないはずはない。
山田は、ともかく一番重要な局面に臨んで、山の中のキリシタン村の行政担当を命じられている。
松陰が脱藩後に帰藩した態度をきつくなじった山田であるが、その厳しい姿勢は下関戦争を前にして急におとなしくなっている。
それはなぜだろうか。
55歳で無くなったのは、その4年後の慶応3年である。
文久3年当時の山田は、51歳である。
死の前の隠居仕事というにはまだ早い。
SH3B0490講義室
SH3B0491庭から講義室を見る
萩の松陰神社境内にある松下村塾の講義室の前に来ている。
庭の方から講義室を眺めていると、松陰が本を読む声が聞こえ、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿らがそれを復唱する姿が見えてくるようだ。
東京・世田谷の松陰神社横の墓所で松陰の墓に参った。
葉が真っ赤に色づいた11月のことだった。
楓の木の下の埋められている長州人の青年松陰の死の理由について考えようと思った。
静かに落ち着いた田舎町の萩で生まれ育った青年が、なぜ江戸で罪人として斬首されるまでに至ったのか。
山口県で20年間ほど暮らしたことのある私には、とうてい想像がつかない異常事件である。
誰が松陰青年をそういう過激志士へと教育したのか、それが大問題である。
平戸は、松陰が藩外へ出た最初の旅の行き先だった。
その藩は新生日本の天皇の誕生に関係していたことは先の記事で述べた。
藩主松浦清(静山)のひ孫が明治天皇だった。
私の推理では、静山の孫忠光と天皇を入れ替えており、入れ替えられた方の天皇は忠光になりすまして攘夷の第1声を発するため長州下関へやってきていた。
その間に滞在中の長府藩から惨殺された。
忠光が長府藩士に暗殺されたのは事実であるが、身代わりだったかどうかは議論の余地があるだろう。
若き松陰が、修行のために平戸へいくのを大げさに誉めて薦めた兵学者が萩にいた。
彼は幼い頃の松陰の後見人で、周防国熊毛郡上関(かみのせき)の生まれである。
私は司馬遼太郎著「世に棲む日日」でそのくだりを読んだが、その部分を抽出している記事があったので、抜粋する。
『松陰は平戸に留学する。生まれて初めて長州藩の外に出た。
この山田宇右衛門が、
「遊歴のこと、容易なことではおゆるしがおりまい。いったい、どこへゆくつもりか」と、松陰にきいた。
「肥前(長崎県)平戸へまいりたいとおもいますが」
松陰がいうと、宇右衛門はひざをうって声をあげ、
「こいつはぐうぜん、一致した。わしも平戸がよいとおもった。平戸へゆけ。ゆけば、おぬしの学問がひと皮むけるはずだ。」
と、ひどく昂奮した。
山田宇右衛門が「平戸、平戸」と、しきりにいう肥前平戸とは、わずか六万一千石の小藩にすぎない。
そのおもな藩域である平戸島は、まわりが一六〇キロ、山がほとんどで海岸に断崖がせまり、人口は三万に足りない。
しかしこの藩(松浦家)はむかしから学問のさかんなことで有名であり、多くの人材を出したが、いま松陰が考えつづけている平戸ゆきの目的は、かれの専門である山鹿流兵学の研究のためであった。
中略、
話をはやく他へ転じたいとおもいながら、この稿における松陰はまだ九州に、とくに平戸に居つづけている。
このこと、どうも筆者にとってやむをえない。
なぜならば松陰にとって最初の外界への旅立ちである九州旅行は、この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえるからである。
このうつくしい城のある平戸島は、島そのものが書物の宝庫のように松陰にはおもえた。さまざまの書物を借りだしては読み、あるいは全部写したり、一部だけ写しとったりした。』
(「世に棲む日日(その3)平戸編」より)
http://homepage3.nifty.com/torabane/meisaku27.htm
『この青年の生涯のものの考え方の一部をきめてしまったようにおもえる』と司馬氏はほのめかしているが、司馬氏はもっと確かな証拠をつかんでいたのではないだろうか。
彼は京都で寺社に関する新聞記者をしていたから、宗教関係については造詣が深かった。
おそらくそれを知っていても言えなかったのであろう。
私は、山鹿素行の末裔、山鹿万介が家老をする平戸藩滞在中に、青年松陰は別人となるべく訓練か修行がほどこされたものと推理している。
ひょっとすると、それは「宗教的な洗礼のような儀式」だったかも知れない。
後の松陰の江戸における悲惨な死は、平戸訪問によって決定付けられたと言ってもよい。
それに比べると、司馬遼太郎氏の言い方は慎重である。
松陰を斬首刑に追い込んでいくことで、三条実美や月性が育てた草莽たちをまんまと崛起させた。
そういう「闇の力」がこの国に存在すると仮定しよう。
その組織はこの国の出版界をも牛耳っている可能性が高い。
とくに革命成就した明治以降の活版印刷事業には深くかかわっているだろう。
世界で最初に活版印刷を事業活用したのは、確か「聖書」ではなかっただろうか。
司馬さんには、作家の生活がかかっている。
だから司馬氏も慎重な表現にならざるを得なかったのだろう。
さて、この小説では長州藩の山田宇右衛門が松陰の平戸行きの願いを吟味し、承認した人物として登場してきた。
山田宇右衛門は、幼い頃の松陰の後見人であった。
松陰に平戸へ言ってみたいと言わせることなど造作もないことだろう。
言わせて、誉めて、旅立たせている。
山田宇右衛門は、革命直前に55歳で世を去っている。
『名は頼毅、号を治心気斎(じしんきさい)または星山という。
長州藩士、禄100石。
文化10年(1813)熊毛郡上関(山口県)に生まれる。
藩士増野茂左衛門の三男。
文化14年、山田家を継ぐ。
吉田大助門下の高弟で松陰幼少時代の後見人、また山鹿流の代理教授も行う。
松陰の教育には最も力を尽くし将来の方向を与える。
松陰はその人物に敬服し、終生先生として崇める。
安政元年(1854)2月浦賀戌衛総奉行の手元役、2年3月長崎薩摩に出かける。
後徳地の代官。
文久元年(1861)5月英国軍艦が馬関(下関)に碇泊すると山田亦介(またすけ)と出張する。
文久2年8月学習院用掛として上京、勤皇のことに働き、帰国して参政する。
文久3年奥阿武の代官、慶応元年1月表番頭格に進み兵学校教授、2月には参政し教授を兼務。当時恭順派(きょうじゅんは)が失政し、その後をうけて藩政を改革し、兵備を拡張し幕府との戦いに備える。
慶応2年四境戦争に勝利したのは彼の功績は大きい。
5月撫育方(ぶいくがた)用掛を兼務。慶応3年6月民政方改正掛となり、11月11日亡くなる。享年55歳。明治31年正四位を贈られる。』
(「山田宇右衛門」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-y.htm
文久元年(1861)5月、英国軍艦が馬関(下関)に碇泊するとこれを訪ねていると紹介されている。
攘夷を叫んでいた長州人が、なぜ英国軍艦を訪問したのであろうか。
その3年後には、山田宇右衛門は奥阿武の代官をしている。
松陰の後見人で山鹿流兵学の代理教授たる人物が、この風雲急を告げる文久3年に山奥のキリシタン遺跡のある奥阿武の代官となって静かにしている意味は何なのか。
それは文久元年にあった英国人との話と、どう関連しているのか。
兵学専門家だった山田宇右衛門がキリシタン村のある奥阿武の代官をしていた文久3年とは、長州藩にとって藩滅亡の寸前にまで行った大変な年である。
山の中の村民の生活指導どころの事態ではない。
山田はあえて長州藩自体、それも長州の古い体質を対英国戦争で破壊しようとしていたのではあるまいか。
兵学者が戦略も持たずに戦争を眺めたりはしないはずだ。
ある戦略をもって、山中の行政担当として戦争中に引きこもったと私には読める。
明治天皇の叔父の中山忠光が狐一疋(ひき)を光明寺へ持参し、その1ヵ月後に下関戦争は火蓋を切った。
砲撃開始の合図は、松陰の一番弟子の久坂玄瑞の仕事であった。
次の記事の中に、米国南北戦争の終結間際にアジア方面へと逃げていった南軍の軍艦を追って日本へやってきた北軍の軍艦のことが出ている。
彼らもやはり久坂らの砲撃を受けている点に注目すべきである。
アメリカ南北戦争の勝敗があらかた決まり、やがて世界中の武器が余るという時代が文久3年であった。
既に述べたことだが、黒人奴隷だけで編成した北軍側部隊が白人だけの南軍正規部隊を負かしたことがきっかけで、戦争の勝敗が分かれた。
銃による近代武装によれば、農民兵中心であっても幕府の正規軍を負かすことができると言う知恵は、形を変えて世界中に伝わったはずである。
晋作も上海や長崎の米国人宣教師フルベッキから聞かされていたはずだ。
それが奇兵隊へとつながってくる。
明治維新とアメリカ南北戦争の関係を分けて考える限り、松陰の死の謎は解けない。
この攘夷戦争のあとで、世界中に余った大量の武器が「まるで長州藩が江戸幕府に勝利するかように」大量に届けられるのである。
『1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。
中略。
長州藩の攘夷決行
攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。
攘夷期日の5月10日、長州藩の見張りが田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を発見。
総奉行の毛利元周(長府藩主)は躊躇するが、久坂玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し決行と決まった。
海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が砲撃を行い、攻撃を予期していなかったベンプローク号は周防灘へ逃走した。
初めて外国船を打ち払ったことで長州藩の意気は大いに上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった。
フランスの通報艦キャンシャン号の被害23日、長府藩(長州藩の支藩)の物見が横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)が長府沖に停泊しているのを発見。
長州藩はこれを待ち受け、キャンシャン号が海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。
キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず(ベンプローク号が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水兵4人が死亡した。
キャンシャン号は急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸亥丸がこれを追うが振り切られ、キャンシャン号は損傷しつつも翌日長崎に到着した。
26日、オランダ東洋艦隊所属のメジューサ号(Medusa)が長崎から横浜へ向かうべく海峡に入った。
キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダは他国と異なり鎖国時代からの長い友好関係があり、攻撃はされまいと判断していた。
だが、長州藩の砲台は構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲戦となった。
メデューサ号は1時間ほど交戦したが死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。
米仏軍艦による報復
この時期のアメリカは南北戦争の最中で、軍艦ワイオミング号(砲6門)は南軍の襲撃艦アラバマ号の追跡のためにアジアに派遣されていたが、アメリカ公使ロバート・プルインの要請を受けて横浜に入港していた。
アメリカ商船ベンプローク号が攻撃を受けたことを知らされたデービット・マックドガール艦長はただちに報復攻撃を決意して横浜を出港した。
米艦ワイオミング号の下関攻撃
6月1日、ワイオミング号は下関海峡に入った。
不意を打たれた先の船と異なり、ワイオミング号は砲台の射程外を航行し、下関港内に停泊する長州藩の軍艦の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を発見し、壬戌丸に狙いを定めて砲撃を加えた。
壬戊丸は逃走するが遙かに性能に勝るワイオミング号はこれを追跡して撃沈する。
庚申丸、癸亥丸が救援に向かうが、ワイオミング号はこれを返り討ちにし庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。
ワイオミング号は報復の戦果をあげたとして海峡を瀬戸内海へ出て横浜へ帰還した。
もともと貧弱だった長州海軍はこれで壊滅状態になり、ワイオミング号の砲撃で砲台も甚大な被害を受けた。
フランス艦隊による報復攻撃6月5日、フランス東洋艦隊のバンジャマン・ジョレス准将率いるセミラミス号(砲36門)とタンクレード号(砲6門)が報復攻撃のため海峡に入った。
セミラミス号は砲36門の大型艦で前田、壇ノ浦の砲台に猛砲撃を加えて沈黙させ、陸戦隊を降ろして砲台を占拠した。
長州藩兵は抵抗するが敵わず、フランス兵は民家を焼き払い、砲を破壊した。
長州藩は救援の部隊を送るが軍艦からの砲撃に阻まれ、その間に陸戦隊は撤収し、フランス艦隊も横浜へ帰還した。
米仏艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。
このため、長州藩は士分以外の農民、町人から広く募兵することを決める。
これにより高杉晋作が下級武士と農民、町人からなる奇兵隊を結成した。
また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの諸隊も結成された。
長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。」(下関戦争(Wikipedia)より)
「藩兵ほか1000名、帆走軍艦2隻、蒸気軍艦2隻配備して海峡封鎖の態勢」を取っている文久3年に、松陰の後見人で山鹿流兵学代理教授たる人物が隠れキリシタン村の代官として阿武山中の村民生活全般の世話を焼いていたことは、とても信じがたいことである。
戦争の帰結を確信しており、しばらくは高みの見物としゃれ込もうという心境ではなかったか。
かつて東北遊歴の際に、松陰は友人との約束を優先して藩主を裏切り脱藩した。
そのとき来島、宮部らの説得を受け入れ、松陰は帰藩し野山獄へ入れられた。
そのとき後見人であった山田宇右衛門老人は松陰になんと言ったか。
「脱藩したのになぜおめおめと帰ってきたのだ。お前のような根性なしとは今後絶縁する」という意味の言葉を松陰へ与えている。
「友人との約束のためなら、藩主への忠誠なんて忘れちゃえ。」
そう言ったも同然である。
長州藩などという小藩は捨て去り、日本人兵学者として大きく国防に身をささげよといいたかったようである。
『松陰は叔父玉木文之進以外からも兵学を学んでいった。
山田宇右衛門は吉田大助の高弟で、江戸から帰ったばかりだった。
宇右衛門は西洋列強の侵略に対する危機意識を喚起し、海防研究を兵学上の重要課題とした。
さらに、長沼流兵学を山田亦介から学んだ。
亦介は国内外情勢に詳しく、西洋兵学も研究していた。
この二人の師の影響で、西洋列強からいかに国を守るかの研究に没頭するようになっていった。
二十歳の時、外国との水戦、陸戦について論じた『水陸戦略』を藩に提出した。
そこでは、日本の危機を指摘し、軍備の充実を論じているが、戦術としては「大船より小船のほうが適している。
小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。
外国船は大きく動きにくく、大砲の弾丸は遠くへ飛ぶが、命中しにくい」と述べている。
危機感はあっても、外国事情に関しては、まだ井の中の蛙であった。』
(関根徳男著「偉人たちの獄中期」より)
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/book1-1.htm
外国にはとてもかなわなかったのが幕末の歴史事実だったから、この記事の著者は松陰の海防論を井の中蛙と形容している。
一部あたってはいるが、しかし、私はそうは思わない。
幕府と薩長土肥が一致協力して松陰の戦法を取っていれば、日本の沿岸戦であれば日本水軍は戦えたのではないかと思う。
「小船なら素早く動け、砲術も正確で大きな外国船にはよく命中する。」という戦法は、暗闇の周防大島沖で晋作が西洋式の幕府軍艦に仕掛けた戦法であり、長州藩の勝利へ貢献している。
もっとも昼間の戦闘では下関戦争では散々な目にあっているから、武力の差異は大きかった。
ベトナムのベトコンのような闇夜での艦船攻撃を継続することで、相手の戦意を喪失させることはできたかも知れない。
当時は日本の造船技術が未熟だったので、沈めてしまえば異人は帰国できなくなる。
日本刀がうじゃうじゃいるこの国で生きていくのは大変なことだっただろう。
そういう海防研究を兵学上の重要課題としていた山田宇右衛門が、文久3年に隠れキリシタン村の行政担当者として生活指導をしていたということが脳裏に焼きついている。
文久元年に下関で英国軍艦に乗り込んだ山田宇右衛門は、誰と、何を、話し合ったのだろうか。
おそらく相手は英国通訳書記官アーネスト・サトウであろう。
話し合ったテーマは幕府の怒りも配慮して、当然極秘扱いとしたはずだ。
アーネスト・サトウの日記抄、荻原延壽著「遠い崖」は全14巻を全て読んだが、下関戦争の3年前(文久元年)に長州藩兵学者山田宇右衛門と密談があったという記載の記憶はない。
英国軍艦の表向きの用事は、薪と水の補給を長州藩に申し入れただけであろう。
日本革命を仕掛けるスパイサトウと、長州藩の山鹿流兵学の代理教授との面談である。
国防や戦争、それへの英国軍支援などの話題が出ないはずはない。
山田は、ともかく一番重要な局面に臨んで、山の中のキリシタン村の行政担当を命じられている。
松陰が脱藩後に帰藩した態度をきつくなじった山田であるが、その厳しい姿勢は下関戦争を前にして急におとなしくなっている。
それはなぜだろうか。
55歳で無くなったのは、その4年後の慶応3年である。
文久3年当時の山田は、51歳である。
死の前の隠居仕事というにはまだ早い。
慶子の夢は~長州(124) [萩の吉田松陰]
SH3B0484 松陰の実家「杉家」
SH3B0488杉家の井戸
貧しかったこの松陰の塾にも、中山公子が訪ねてきたことがあるのではないか。
ならば、そのときは久坂が連れてきたのであろう。
それがもし「明治天皇になるはずだった孝明天皇の子」だとしたら、「連れてきた」ではなく「お連れした」と表現を変えねばなるまい。
「幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。
このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。
それは平戸藩主のひ孫で、明治天皇の叔父となる人物である。」
こう先の記事で書いた。
おそらくそこまでは史実であっただろう。
この稿では、約1年間情報不足のために足踏み状態だった私の推理を、勇ましく発展させていきたい。
幕末の平戸藩主とは、松浦清のことである。
「(松浦)清は17男16女に恵まれた。
そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。」
(「松浦清(Wikipedia)」より)
つまり、松浦清(静山)が皇室の寝室へ接近するために、娘愛子を公家に嫁がせて、生まれた娘を天皇の妻としている。
松浦清に利用された公家(婿)の名が、中山忠能である。
公家とはいえ、中山忠能は家禄わずか二百石の貧乏公家である。
静山の娘愛子が産んだ慶子が、孝明天皇の妻となって、明治天皇を産んでいる。
中山忠能自身は明治21年(1888年)、80歳まで長生きしているから、決して悲劇の死ではない。
だが、その息子が大変な「悲劇の死」を遂げている。
『中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。
文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。』
(「中山忠能と明治天皇すりかえ説」より)
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_916c.html
中山忠光は、睦仁親王(後の明治天皇)の祇候となっている。
祇候(伺候)とは、「謹んで貴人のそば近く仕えること」であり、立身出世の道でもある。
つまり、中山忠光は本物の明治天皇のお傍に仕えていて、明治天皇の顔や性格までもよく知っていた。
もし、明治天皇をすり替えたものがいたとすれば、中山忠光が京都に居てはたいそうまずいことになる。
長州に旅に出ているという中山忠光の口封じを急がねばなるまい。
中山忠光は、何かの手違いで殺されたのではなく、狙って殺害されているのだ。
白石正一郎は日誌に「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々」と書いていた。
それは、中山慶子の弟・中山忠光のことだった。
これらのキーワードでもう一度「悲劇の死」を検索すると、「そのものずばりの記事」に遭遇することができた。
今までも何となくモヤモヤっとしていて「よくわからなかったこと」が、これによりはっきりと見えてきた。
可能性のひとつとして、「悲劇の死」を遂げた青年が実は慶子の生んだ祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)であったのではないか、などと私は勝手な推理をしている。
あながち、あり得ないことではない。
つまり、「中山忠光と明治天皇がどこかで入れ替わっていた」という推理である。
そう推理する根拠は、慶子の父にある。
松浦静山が「慶子の子の入れ替え」も可能な位置、外戚の祖父という立場にいたから、推理の可能性も随分と高くなるのである。
そうでなければ、そういう推理は成立し得ない。
そう仮定すると、もし長州で中山公子が「明治天皇を詐称する人物」に会ったとき、そのうそを見破ることはいとも容易(たやす)いことである。
証明する手間が省けるのだ。
なにせ、「中山忠光を名乗る自分こそ、本物の睦仁親王(のちの明治天皇)である」からだ。
歌舞伎やドラマの忠臣蔵を見てもわかるが、松浦静山は歴史をドラマチックに創ることに情熱を注いだ人である。
「攘夷決行」の光明寺境内で、久坂に攘夷発砲の最初の命令を下すのは、実は幼い頃の明治天皇(当時は睦仁親王)だった、そういうドラマはあまりに美しいのではないか。
私は、次の記事「公子・中山忠光」を読むとき、「中山忠光=実は祐宮(さちのみや)」という仮説を立てて読んでいる。
そのために、この記事の内容は息を呑むものがある。
なぜそういう仮説を立てるかというと、松浦静山にはそうできる権限もあったし、そうなる必然性もあったからである。
静山は、やがて天皇になるひ孫を温室で育てることを好まなかった。
いよいよ孝明天皇の攘夷の『詔勅』命令を受け、日本全土で攘夷の火を発する時がやってきた。
その第一発が我がひ孫から発せられ、それが革命後の新天皇になる男児であったとすれば、これほど「天晴(あっぱ)れ」なことはない。
そう静山は考えたはずだ。
そうする必然性が静山の心中に生まれたと私は思う。
歴史を華やかに彩ることが好きな静山は、常に慶子の傍にいた。
慶子の傍とは、孝明天皇の閨にも近い。
慶子の夢は何だったのか。
慶子の夢はいつ開くのか。
慶子は正室ではない。
慶子が生んだ男の子は、いずれの九条の娘の手に渡るのである。
『万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮(さちのみや)は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。』(中山慶子(Wikipedia)より)
慶子は8歳のわが子祐宮を九条夙子に取られている。
それも絶対に断れない「勅命」によって、である。
もし子を入れ替えておけば、わが子はいつまでも慶子の手元で育てることはできる。
ひ孫であれ、子であれ、手元に置きたいのは人情であろう。
慶子の夢は、静山の夢でもあった。
わが子に「その叔父中山忠光」を名乗らせて新日本の歴史創造の旅をさせている間に、シナリオが狂って預けていた長州藩、正確には支藩である長府藩に子を殺されるとは慶子も、その祖父静山も思っていなかったことだろう。
大和国の攘夷第一発砲の命令を、長州藩光明寺党を率いて馬関海峡に向けて発する忠光の姿は、いかにも神々しく美しい。
以下のことは、長州人もあまり知らない話題であろう。
長い記事だが、割愛せずに全文を引用したい。
『「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」
この和歌の詠み手の名を中山忠光と言う。
忠光は、大納言中山忠能(ただやす)の第五子である。
姉の慶子が宮中に出仕し、後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を生んだことから、忠光は明治天皇の叔父にあたる。
祐宮は中山家の敷地内に設けられた御産所で生まれ、5歳になるまで中山家で養育された。
そして、祐宮が宮中に戻った翌々年の正月、14歳の忠光は、従五位侍従に叙せられ、宮中に出仕している。
宮中では異色の存在だったようだ。
場所もわきまえず、いきなり同輩に相撲をいどんだとか、衣冠束帯のまま袴の裾もとらずに賀茂川の浅瀬を歩いて渡ったとか、殿上人らしからぬ逸話がいくつか残っている。
明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。
忠光が土佐や長州の志士たちと盛んに交流し、尊皇攘夷の激派として頭角を現すようになったのは文久2年秋以降のことである。
この時、忠光は18歳。
土佐勤王党の党首・武市半平太の寓居を訪れ、「和宮降嫁を推進した宮中の奸物どもを刺そうと思うから、刺客を何人か貸して欲しい」と言ったという。
その頃、天誅の指令塔のようだった武市も、これには仰天したに違いない。
もっとも、この天誅計画は実行には移されなかった。
父の忠能が、忠光の前に立ちふさがり、「どうしてもやるなら、この私を刺してからやれ!」と、捨て身で引き止めた。
問題児を持つ父親の苦労は今も昔も同じである。
文久3年3月11日。
孝明天皇は、将軍・徳川家茂をはじめとする諸侯を従え、攘夷祈願のため賀茂神社に行幸した。
この時は忠光も騎馬で行列に加わったが、7日後の18日には忽然と姿を消している。
心配した忠能は八方手をつくして探したが、いくら探しても見つからない。
そうこうしているうちに、忠光の従僕が1通の書状を携えて戻ってきた。
それは大阪で書かれたもので、内容は以下のようなものだった。
「段々ご心配のこと、深々恐れ入り奉り候。然れば、皇国御ために相なり候心得にこれあり。不孝の次第、実にもって恐れ入り候。兼ねて御預け申し上げ候金子早々御まわし願い上げ候なり 忠光」
つまり、「ご心配をおかけして申し訳ありませんが、皇国のためにひとがんばりしたいと思いますので、そのための活動資金として、お預けしているお金を大至急おまわし下さい」
と言ったところか。
詳しいことは何一つ書かず金銭を要求するあたり、いかにも苦労知らずのお坊ちゃんである。驚いた忠能は、すぐさま使者を大阪に遣るが、忠光の姿はすでになかった。
久坂義助や入江九一の手引きで、海路、長州へ向かっていたのである。
3月26日に富海に上陸し、4月1日には下関の豪商・白石正一郎の屋敷に落ち着いている。
そのうち久坂義助が、数十人の浪士を率いて下関へやってきた。
忠光は久坂たちに担ぎ上げられ、光明寺党の党首として攘夷戦に参加。
5月10日の攘夷期日を待って、海峡を航行する異国船を次々と攻撃した。
ふいをつかれた船は、応戦もできずに大あわてで逃げていく。
その船影を見ながら忠光も浪士たちと共に快哉を叫んだに違いない。
文久3年6月8日、森俊齋と改名した忠光は、同志18人をしたがえて京都へ舞い戻った。
忠能は、無事に戻ってきた息子を見て、さぞかし喜んだことだろう。
ところが、ほっとしたのもつかの間、2カ月後の8月14日に、不肖の息子は再び家を飛び出し、2度と戻っては来なかった。
忠光が出奔する前日、尊攘派の画策により、大和行幸の詔(みことのり)が発せられた。
その建前は「攘夷祈願」であったが、真の目的は、大和の国に陣取って、攘夷実行の大号令を発し、それに従わざるもの、すなわち徳川幕府を討つというものだった。
忠光は、土佐の吉村虎太郎らと共に大和国へ向かい、五條代官所を襲って、代官の鈴木源内ら6名を血祭にあげた。
しかし、天誅組の活躍はここまでであった。
翌18日にぼっ発した「八・一・八の政変」で、彼らが頼みとする長州藩は失脚。
彦根藩、藤堂藩、紀州藩をはじめとする諸藩の追討軍に包囲され、文久3年9月末までに天誅組は壊滅する。
虎口を脱出できたのは、忠光の他、数えるほどしかいなかった。
その後、忠光は、船荷に隠れて海路・三田尻へ落ちのび、長州藩の支藩である長府藩に身を寄せることになる。けれども、幕府のおたずね者になった彼にとって、もはや長州は安全な場所ではなかった。
幕府の隠密の目を逃れるため、長府藩は忠光の自由を奪い、次々と隠れ家を移した。
終の棲家となった豊浦郡田耕村・太田新右衛門の家に入るまでの約1年で、彼は8回も居所を変えている。
監禁同様の隠棲生活に耐えられず、何度も脱走を試みるが、その度にとらえられ連れ戻された。
忠光を少しでも落ち着かせようと、長府藩は下関・赤間町の商人・恩地与兵衛の娘・登美を侍女として送り込んだりもしている。
運命の日は突然訪れた。
元治元年11月8日の夜、病で寝ていた忠光のもとに、庄屋の山田幸八が、真っ青な顔をしてやって来て、「幕吏が迫っています。今すぐここからお逃げ下さい」と告げた。
忠光は急いで服をあらため外に出た。
幸八は提灯を携えて、昼なお暗い密林の中を進んで行く。
凍てつく寒さの中、熱でふらつく身体をもてあましながら、幸八に従う忠光の胸に去来する思いはどのようなものだったのか。
今となっては知るよしもない。
川に沿って3・4町(1町=約109m)ばかり登ったところに、巨大な岩が横たわっていた。
そこまで来ると、何を思ったか幸八は、急に提灯の灯りを吹き消し、岩を乗り越えて駆け出した。
「待て!どこへ行く!?」忠光はとっさに叫んだが、幸八の姿はたちまち闇の中にかき消えた。
その刹那、何者かが忠光に近付き、棍棒で足を払った。
枯田に転倒したところに4人の男が一斉にのしかかる。
3人が手足を押え、残りの1人が首を締めて殺した。
計画されつくした上での完全犯罪。
男たちは長府藩が放った刺客であり、幸八は藩に命じられて忠光をおびき出したのだった。
後に幸八は狂い死にしている。
良心の呵責に絶えかねたのかも知れない。
刺客は忠光の死体を長持(ながもち)に収め下関を目指した。
ところが、ここで誤算が生じた。
下関郊外・綾羅木まで来たところで夜が明けてしまい、人目をはばかった刺客たちは、下関行きを断念して海岸の松林に長持を埋めた。
その後、長府藩は忠光暗殺を隠蔽するためにその死因を「病死」とし、医師の診断書をつけて朝廷へ報告。
また、別の報告書には、「かねて大酒好み、その上御色情深く御虚弱のように相見え」12月5日に亡くなったとしている。
現在、山口県には中山忠光を祀る神社が2つある。
1つは忠光の死体を埋めた綾羅木の地、そしてもう1つは彼が暗殺された田耕の地。
田耕の中山神社はささやかなものだが、綾羅木のそれは、なかなか立派で、私が訪れた時は、お宮参りの家族連れで賑わっていた。
私は少し複雑な思いで彼らを眺めた。
この神社を訪れる参拝者の中に、祭神である二十歳の青年公卿のことを知っている人が一体どのぐらいいるのだろう。
太田新右衛門の家は今でも田耕に残っている。
家の前にはのどかな田園風景が広がっていて、山と田んぼの他には何もない。
秋の空は爽やかに晴れ上がり、真っ赤な彼岸花が風に揺れていた。忠光が見た風景も、これと似たようなものだったかも知れない。
「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」
太田家の前に佇み、ふとつぶやいてみる。
すると、縁側に座って田んぼを見つめている貴公子の姿が一瞬浮かんで消えた。
中山忠光の暗殺は、幕末の長州にとって唯一の汚点と言えるかも知れない。
長府藩の隠蔽工作も空しく、暗殺の一件は明治天皇の知るところとなった。
明治になって、維新の功労者に爵位が贈られた際、長府藩は伯爵の地位がもらえず子爵止まりだったが、その裏には明治天皇の意思が働いていたと言われている。
明治天皇は、忠光に遊んでもらった幼い日々を忘れてはいなかったのだと思いたい。
公子・中山忠光は、地位を捨て、故郷を捨て、国事に奔走し、京都から遠く離れた田耕の地で非業の死を遂げた。
今は知る人も少ない彼もまた1人の草莽と言えるかも知れない。』
(「公子・中山忠光」より)
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/04nakayamatadamitu.htm
明治天皇は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)の生まれで、忠光は弘化2年4月13日(1845年5月18日)の生まれである。
忠光は14歳で宮中に出仕している。
それは1859年のことで、そのとき明治天皇は7歳である。
二人が入れ替わるには少し年が開きすぎているが、別の場所で生活するとすればできないことではない。
孝明天皇には毒殺説がある。
もし誰かが毒殺したとすると、孝明から明治への権限委譲を有利に進めることを狙ったものが犯人であろう。
実際の歴史は、「狂信的な攘夷」の孝明から、「開国友好」の明治へと変わっている。
開国により多くの利益を得ることになる海洋貿易商の姿が、私の目には浮かんでくる。
「お前も悪じゃあのう? ふふふ」という悪代官役は、この場合は公家かその親戚となろう。
その悪徳海洋貿易商(ビジネスマン)とは、まだ江戸末期にあってはどこかの海洋交通に長けている大名であったかも知れない。
天皇を入れ替え得る人物とは、まさに日本の歴史を創れる人物である。
井沢元彦氏の逆説の日本史だったと記憶しているが、織田信長が天下を取れなかった理由は「天皇を殺さなかったからだ」という。
あくまで天皇を尊重し、安土城内に居を移させ、藤原氏と同様に外戚関係を持って朝廷を支配しようとした。
そこが信長の唯一の欠点だった。
もし信長が天皇家を滅ぼしていれば、圧倒的な重火器を持つ信長の天下は確立したはずだ。
そういう論理展開であった。
日本人には天皇を心底尊敬するやさしい心根が古来から自然と備わっている。
私自身にもそれはある。
歴史を都合のいいように作り変えていく人物たちは、その心根をうまく利用しているのではないか。
一種の「民族マインドコントロールテクニック」であると言えよう。
まさか天皇がすりかえられていたなどとは、日本人は疑うことすらしないものである。
日本人はそろそろ自らの歴史に目覚める必要がある。
『忠光の死が元治元年(1864)11月5日(6日説あり)であり、頼徳の死から20日あまりで、潜居中の身にはるか茨城県から山口県まで辞世が伝わったとも思えず推量だが忠光の辞世なるものは後世の作と考えられる。
また完全な盗作である。
頼徳の辞世
野田の案山子の竹の弓 と 朽ち果てんとは が
忠光では
野田の案山子の梓弓 と 朽ち果つるとは に置き換えられている。
梓弓は万葉でよく唄われており、少し考えると田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。』
(「天誅組の変と立石孫一郎」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/kaitei/nakayama.htm
この記事の著者は「田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。」と言い切っているが、私はそうは思わない。
ドラマチック歴史を創るためにも、敢えて梓の立派な弓を持つ人物を田んぼの案山子として派遣するという演出も十分あり得る。
田んぼの案山子は、実は孝明天皇の子供だったのではないか。
「明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。」と叔父に感化された明治天皇の様子を描写しているが、実は明治天皇は虚弱だった。
相撲が得意なのは確かに叔父の中山忠光そのひとだったのだ。
長州で人違いのため明治天皇が殺害されたとすると、京都御所にいるのは一体誰なのか。
相撲が得意だった中山忠光自身ではなかったのか、と私は推理している。
もちろん、似たような年齢の虚弱なお子を身代わりにする手もあっただろう。
しかし、松浦静山にとってはひ孫にあたる後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を失ったことになる。
やがて天皇の外戚として権力を振るうはずだったのが、他人のお子を天皇に入れ替えては長年の計画が水の泡になる。
慶子の弟中山忠光であれば、静山にとっては孫にあたる。
祐宮(さちのみや)の長州旅行のために、相撲の得意な忠光を身代わりさせていたのだが、そのまま明治天皇になってもらうしかないと考えただろう。
その場合、7歳もの年の開きや身体性格の特徴の違うところは多々ある。
無理は承知で静山の血を持つ人物に入れ替わるように仕組んだのであろう。
革命完了直後に遷都すれば何とか隠せおおせるだろう。
「明治天皇は入れ替わっており、本物は暗殺されていた。」
私の推理はそれであるが、それとまったく同じことを論じるサイトがあった。
文中には、即位の前後で別人と思われる人的特徴の段差を指摘していた。
『即位前(睦仁親王時代)
① 睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。
疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。
②元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。
③睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。
又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。
④睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。
又、政務にも無関心であった。
⑤即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。
つまり、馬には乗れなかった。
即位後(明治天皇時代)
①明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。
又、実際の顔にも「あばた」は無かった。
②明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
③体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
④明治天皇は書が「達筆」であった。
又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
⑤明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。』
(「「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史―其の肆(1998.1.4)」より)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4.html
性格といい、体格の違いといい、即位前後ではまったく別の人間である。
新政府が都を急いで京都から一旦は大阪へ遷そうとし、それがだめとなれば今度は江戸へ遷したというのも、そういう即位前の明治天皇を知る人々から御所を遠ざける必要があったのかも知れない。
長州藩で暗殺された男子は、おそらくは大砲の音で失神するほどの虚弱なお子だったのであろう。
歴史は繰り返される。
私たちは、天皇を国民の象徴と崇める限り、皇室の実態について無知であってはならない。
崇めつつ、見てみぬ振りをしてはならない。
もし、松陰が松下村塾で中山公子に会っていたら、互いに気が合ったのではないか。
松陰も即位前の親王と同様、幼い頃に痘瘡を患っており顔にあばたが残っていたのである。
そして剣術も苦手な痩せた松陰青年であった。
生きていたら、天皇の入れ替えという荒療治を松陰自身は果たして許しただろうか。
臣下がまずとるべき道というものを必死で探り実行していったはずだ。
松陰であれば、「使えないから殺してしまえ」とは決してならない。
松陰の思想は開国攘夷であると思う。
開国して貿易産業を振興し、日本を富国して後に強兵を実現する。
その結果、日本の植民地化を防御し、なおかつインド・中国をも含むアジアの西洋からの独立を画策するのである。
松陰は、「まず天皇を殺し、その子をも殺す」というひどい戦略を採らないはずだ。
以上は松陰と平戸を舞台に展開した幕末の推理劇であるが、実は時代考証に大きな問題を含む。
主役となっている松浦静山は、忠臣蔵で有名になった平戸藩主であるが、天保12年(1841)に死没している。
安政5年9月に家督を相続した肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主松浦 詮(まつら あきら)が静山の見果てぬ夢を後押ししたと考えるべきであろう。
松浦 詮は明治41年(1908年)まで生きた。
SH3B0488杉家の井戸
貧しかったこの松陰の塾にも、中山公子が訪ねてきたことがあるのではないか。
ならば、そのときは久坂が連れてきたのであろう。
それがもし「明治天皇になるはずだった孝明天皇の子」だとしたら、「連れてきた」ではなく「お連れした」と表現を変えねばなるまい。
「幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。
このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。
それは平戸藩主のひ孫で、明治天皇の叔父となる人物である。」
こう先の記事で書いた。
おそらくそこまでは史実であっただろう。
この稿では、約1年間情報不足のために足踏み状態だった私の推理を、勇ましく発展させていきたい。
幕末の平戸藩主とは、松浦清のことである。
「(松浦)清は17男16女に恵まれた。
そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。」
(「松浦清(Wikipedia)」より)
つまり、松浦清(静山)が皇室の寝室へ接近するために、娘愛子を公家に嫁がせて、生まれた娘を天皇の妻としている。
松浦清に利用された公家(婿)の名が、中山忠能である。
公家とはいえ、中山忠能は家禄わずか二百石の貧乏公家である。
静山の娘愛子が産んだ慶子が、孝明天皇の妻となって、明治天皇を産んでいる。
中山忠能自身は明治21年(1888年)、80歳まで長生きしているから、決して悲劇の死ではない。
だが、その息子が大変な「悲劇の死」を遂げている。
『中山慶子の弟・中山忠光(1845-1864)は14歳で孝明天皇の侍従となり、万延3年に睦仁親王の祇候となった。
文久3年、吉村寅太郎らの天誅組を指揮して反乱を起こしたが、敗れて長州下関で暗殺された。』
(「中山忠能と明治天皇すりかえ説」より)
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_916c.html
中山忠光は、睦仁親王(後の明治天皇)の祇候となっている。
祇候(伺候)とは、「謹んで貴人のそば近く仕えること」であり、立身出世の道でもある。
つまり、中山忠光は本物の明治天皇のお傍に仕えていて、明治天皇の顔や性格までもよく知っていた。
もし、明治天皇をすり替えたものがいたとすれば、中山忠光が京都に居てはたいそうまずいことになる。
長州に旅に出ているという中山忠光の口封じを急がねばなるまい。
中山忠光は、何かの手違いで殺されたのではなく、狙って殺害されているのだ。
白石正一郎は日誌に「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々」と書いていた。
それは、中山慶子の弟・中山忠光のことだった。
これらのキーワードでもう一度「悲劇の死」を検索すると、「そのものずばりの記事」に遭遇することができた。
今までも何となくモヤモヤっとしていて「よくわからなかったこと」が、これによりはっきりと見えてきた。
可能性のひとつとして、「悲劇の死」を遂げた青年が実は慶子の生んだ祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)であったのではないか、などと私は勝手な推理をしている。
あながち、あり得ないことではない。
つまり、「中山忠光と明治天皇がどこかで入れ替わっていた」という推理である。
そう推理する根拠は、慶子の父にある。
松浦静山が「慶子の子の入れ替え」も可能な位置、外戚の祖父という立場にいたから、推理の可能性も随分と高くなるのである。
そうでなければ、そういう推理は成立し得ない。
そう仮定すると、もし長州で中山公子が「明治天皇を詐称する人物」に会ったとき、そのうそを見破ることはいとも容易(たやす)いことである。
証明する手間が省けるのだ。
なにせ、「中山忠光を名乗る自分こそ、本物の睦仁親王(のちの明治天皇)である」からだ。
歌舞伎やドラマの忠臣蔵を見てもわかるが、松浦静山は歴史をドラマチックに創ることに情熱を注いだ人である。
「攘夷決行」の光明寺境内で、久坂に攘夷発砲の最初の命令を下すのは、実は幼い頃の明治天皇(当時は睦仁親王)だった、そういうドラマはあまりに美しいのではないか。
私は、次の記事「公子・中山忠光」を読むとき、「中山忠光=実は祐宮(さちのみや)」という仮説を立てて読んでいる。
そのために、この記事の内容は息を呑むものがある。
なぜそういう仮説を立てるかというと、松浦静山にはそうできる権限もあったし、そうなる必然性もあったからである。
静山は、やがて天皇になるひ孫を温室で育てることを好まなかった。
いよいよ孝明天皇の攘夷の『詔勅』命令を受け、日本全土で攘夷の火を発する時がやってきた。
その第一発が我がひ孫から発せられ、それが革命後の新天皇になる男児であったとすれば、これほど「天晴(あっぱ)れ」なことはない。
そう静山は考えたはずだ。
そうする必然性が静山の心中に生まれたと私は思う。
歴史を華やかに彩ることが好きな静山は、常に慶子の傍にいた。
慶子の傍とは、孝明天皇の閨にも近い。
慶子の夢は何だったのか。
慶子の夢はいつ開くのか。
慶子は正室ではない。
慶子が生んだ男の子は、いずれの九条の娘の手に渡るのである。
『万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮(さちのみや)は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。』(中山慶子(Wikipedia)より)
慶子は8歳のわが子祐宮を九条夙子に取られている。
それも絶対に断れない「勅命」によって、である。
もし子を入れ替えておけば、わが子はいつまでも慶子の手元で育てることはできる。
ひ孫であれ、子であれ、手元に置きたいのは人情であろう。
慶子の夢は、静山の夢でもあった。
わが子に「その叔父中山忠光」を名乗らせて新日本の歴史創造の旅をさせている間に、シナリオが狂って預けていた長州藩、正確には支藩である長府藩に子を殺されるとは慶子も、その祖父静山も思っていなかったことだろう。
大和国の攘夷第一発砲の命令を、長州藩光明寺党を率いて馬関海峡に向けて発する忠光の姿は、いかにも神々しく美しい。
以下のことは、長州人もあまり知らない話題であろう。
長い記事だが、割愛せずに全文を引用したい。
『「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」
この和歌の詠み手の名を中山忠光と言う。
忠光は、大納言中山忠能(ただやす)の第五子である。
姉の慶子が宮中に出仕し、後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を生んだことから、忠光は明治天皇の叔父にあたる。
祐宮は中山家の敷地内に設けられた御産所で生まれ、5歳になるまで中山家で養育された。
そして、祐宮が宮中に戻った翌々年の正月、14歳の忠光は、従五位侍従に叙せられ、宮中に出仕している。
宮中では異色の存在だったようだ。
場所もわきまえず、いきなり同輩に相撲をいどんだとか、衣冠束帯のまま袴の裾もとらずに賀茂川の浅瀬を歩いて渡ったとか、殿上人らしからぬ逸話がいくつか残っている。
明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。
忠光が土佐や長州の志士たちと盛んに交流し、尊皇攘夷の激派として頭角を現すようになったのは文久2年秋以降のことである。
この時、忠光は18歳。
土佐勤王党の党首・武市半平太の寓居を訪れ、「和宮降嫁を推進した宮中の奸物どもを刺そうと思うから、刺客を何人か貸して欲しい」と言ったという。
その頃、天誅の指令塔のようだった武市も、これには仰天したに違いない。
もっとも、この天誅計画は実行には移されなかった。
父の忠能が、忠光の前に立ちふさがり、「どうしてもやるなら、この私を刺してからやれ!」と、捨て身で引き止めた。
問題児を持つ父親の苦労は今も昔も同じである。
文久3年3月11日。
孝明天皇は、将軍・徳川家茂をはじめとする諸侯を従え、攘夷祈願のため賀茂神社に行幸した。
この時は忠光も騎馬で行列に加わったが、7日後の18日には忽然と姿を消している。
心配した忠能は八方手をつくして探したが、いくら探しても見つからない。
そうこうしているうちに、忠光の従僕が1通の書状を携えて戻ってきた。
それは大阪で書かれたもので、内容は以下のようなものだった。
「段々ご心配のこと、深々恐れ入り奉り候。然れば、皇国御ために相なり候心得にこれあり。不孝の次第、実にもって恐れ入り候。兼ねて御預け申し上げ候金子早々御まわし願い上げ候なり 忠光」
つまり、「ご心配をおかけして申し訳ありませんが、皇国のためにひとがんばりしたいと思いますので、そのための活動資金として、お預けしているお金を大至急おまわし下さい」
と言ったところか。
詳しいことは何一つ書かず金銭を要求するあたり、いかにも苦労知らずのお坊ちゃんである。驚いた忠能は、すぐさま使者を大阪に遣るが、忠光の姿はすでになかった。
久坂義助や入江九一の手引きで、海路、長州へ向かっていたのである。
3月26日に富海に上陸し、4月1日には下関の豪商・白石正一郎の屋敷に落ち着いている。
そのうち久坂義助が、数十人の浪士を率いて下関へやってきた。
忠光は久坂たちに担ぎ上げられ、光明寺党の党首として攘夷戦に参加。
5月10日の攘夷期日を待って、海峡を航行する異国船を次々と攻撃した。
ふいをつかれた船は、応戦もできずに大あわてで逃げていく。
その船影を見ながら忠光も浪士たちと共に快哉を叫んだに違いない。
文久3年6月8日、森俊齋と改名した忠光は、同志18人をしたがえて京都へ舞い戻った。
忠能は、無事に戻ってきた息子を見て、さぞかし喜んだことだろう。
ところが、ほっとしたのもつかの間、2カ月後の8月14日に、不肖の息子は再び家を飛び出し、2度と戻っては来なかった。
忠光が出奔する前日、尊攘派の画策により、大和行幸の詔(みことのり)が発せられた。
その建前は「攘夷祈願」であったが、真の目的は、大和の国に陣取って、攘夷実行の大号令を発し、それに従わざるもの、すなわち徳川幕府を討つというものだった。
忠光は、土佐の吉村虎太郎らと共に大和国へ向かい、五條代官所を襲って、代官の鈴木源内ら6名を血祭にあげた。
しかし、天誅組の活躍はここまでであった。
翌18日にぼっ発した「八・一・八の政変」で、彼らが頼みとする長州藩は失脚。
彦根藩、藤堂藩、紀州藩をはじめとする諸藩の追討軍に包囲され、文久3年9月末までに天誅組は壊滅する。
虎口を脱出できたのは、忠光の他、数えるほどしかいなかった。
その後、忠光は、船荷に隠れて海路・三田尻へ落ちのび、長州藩の支藩である長府藩に身を寄せることになる。けれども、幕府のおたずね者になった彼にとって、もはや長州は安全な場所ではなかった。
幕府の隠密の目を逃れるため、長府藩は忠光の自由を奪い、次々と隠れ家を移した。
終の棲家となった豊浦郡田耕村・太田新右衛門の家に入るまでの約1年で、彼は8回も居所を変えている。
監禁同様の隠棲生活に耐えられず、何度も脱走を試みるが、その度にとらえられ連れ戻された。
忠光を少しでも落ち着かせようと、長府藩は下関・赤間町の商人・恩地与兵衛の娘・登美を侍女として送り込んだりもしている。
運命の日は突然訪れた。
元治元年11月8日の夜、病で寝ていた忠光のもとに、庄屋の山田幸八が、真っ青な顔をしてやって来て、「幕吏が迫っています。今すぐここからお逃げ下さい」と告げた。
忠光は急いで服をあらため外に出た。
幸八は提灯を携えて、昼なお暗い密林の中を進んで行く。
凍てつく寒さの中、熱でふらつく身体をもてあましながら、幸八に従う忠光の胸に去来する思いはどのようなものだったのか。
今となっては知るよしもない。
川に沿って3・4町(1町=約109m)ばかり登ったところに、巨大な岩が横たわっていた。
そこまで来ると、何を思ったか幸八は、急に提灯の灯りを吹き消し、岩を乗り越えて駆け出した。
「待て!どこへ行く!?」忠光はとっさに叫んだが、幸八の姿はたちまち闇の中にかき消えた。
その刹那、何者かが忠光に近付き、棍棒で足を払った。
枯田に転倒したところに4人の男が一斉にのしかかる。
3人が手足を押え、残りの1人が首を締めて殺した。
計画されつくした上での完全犯罪。
男たちは長府藩が放った刺客であり、幸八は藩に命じられて忠光をおびき出したのだった。
後に幸八は狂い死にしている。
良心の呵責に絶えかねたのかも知れない。
刺客は忠光の死体を長持(ながもち)に収め下関を目指した。
ところが、ここで誤算が生じた。
下関郊外・綾羅木まで来たところで夜が明けてしまい、人目をはばかった刺客たちは、下関行きを断念して海岸の松林に長持を埋めた。
その後、長府藩は忠光暗殺を隠蔽するためにその死因を「病死」とし、医師の診断書をつけて朝廷へ報告。
また、別の報告書には、「かねて大酒好み、その上御色情深く御虚弱のように相見え」12月5日に亡くなったとしている。
現在、山口県には中山忠光を祀る神社が2つある。
1つは忠光の死体を埋めた綾羅木の地、そしてもう1つは彼が暗殺された田耕の地。
田耕の中山神社はささやかなものだが、綾羅木のそれは、なかなか立派で、私が訪れた時は、お宮参りの家族連れで賑わっていた。
私は少し複雑な思いで彼らを眺めた。
この神社を訪れる参拝者の中に、祭神である二十歳の青年公卿のことを知っている人が一体どのぐらいいるのだろう。
太田新右衛門の家は今でも田耕に残っている。
家の前にはのどかな田園風景が広がっていて、山と田んぼの他には何もない。
秋の空は爽やかに晴れ上がり、真っ赤な彼岸花が風に揺れていた。忠光が見た風景も、これと似たようなものだったかも知れない。
「思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ) 引きも放たで 朽ちはつるとは」
太田家の前に佇み、ふとつぶやいてみる。
すると、縁側に座って田んぼを見つめている貴公子の姿が一瞬浮かんで消えた。
中山忠光の暗殺は、幕末の長州にとって唯一の汚点と言えるかも知れない。
長府藩の隠蔽工作も空しく、暗殺の一件は明治天皇の知るところとなった。
明治になって、維新の功労者に爵位が贈られた際、長府藩は伯爵の地位がもらえず子爵止まりだったが、その裏には明治天皇の意思が働いていたと言われている。
明治天皇は、忠光に遊んでもらった幼い日々を忘れてはいなかったのだと思いたい。
公子・中山忠光は、地位を捨て、故郷を捨て、国事に奔走し、京都から遠く離れた田耕の地で非業の死を遂げた。
今は知る人も少ない彼もまた1人の草莽と言えるかも知れない。』
(「公子・中山忠光」より)
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/04nakayamatadamitu.htm
明治天皇は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)の生まれで、忠光は弘化2年4月13日(1845年5月18日)の生まれである。
忠光は14歳で宮中に出仕している。
それは1859年のことで、そのとき明治天皇は7歳である。
二人が入れ替わるには少し年が開きすぎているが、別の場所で生活するとすればできないことではない。
孝明天皇には毒殺説がある。
もし誰かが毒殺したとすると、孝明から明治への権限委譲を有利に進めることを狙ったものが犯人であろう。
実際の歴史は、「狂信的な攘夷」の孝明から、「開国友好」の明治へと変わっている。
開国により多くの利益を得ることになる海洋貿易商の姿が、私の目には浮かんでくる。
「お前も悪じゃあのう? ふふふ」という悪代官役は、この場合は公家かその親戚となろう。
その悪徳海洋貿易商(ビジネスマン)とは、まだ江戸末期にあってはどこかの海洋交通に長けている大名であったかも知れない。
天皇を入れ替え得る人物とは、まさに日本の歴史を創れる人物である。
井沢元彦氏の逆説の日本史だったと記憶しているが、織田信長が天下を取れなかった理由は「天皇を殺さなかったからだ」という。
あくまで天皇を尊重し、安土城内に居を移させ、藤原氏と同様に外戚関係を持って朝廷を支配しようとした。
そこが信長の唯一の欠点だった。
もし信長が天皇家を滅ぼしていれば、圧倒的な重火器を持つ信長の天下は確立したはずだ。
そういう論理展開であった。
日本人には天皇を心底尊敬するやさしい心根が古来から自然と備わっている。
私自身にもそれはある。
歴史を都合のいいように作り変えていく人物たちは、その心根をうまく利用しているのではないか。
一種の「民族マインドコントロールテクニック」であると言えよう。
まさか天皇がすりかえられていたなどとは、日本人は疑うことすらしないものである。
日本人はそろそろ自らの歴史に目覚める必要がある。
『忠光の死が元治元年(1864)11月5日(6日説あり)であり、頼徳の死から20日あまりで、潜居中の身にはるか茨城県から山口県まで辞世が伝わったとも思えず推量だが忠光の辞世なるものは後世の作と考えられる。
また完全な盗作である。
頼徳の辞世
野田の案山子の竹の弓 と 朽ち果てんとは が
忠光では
野田の案山子の梓弓 と 朽ち果つるとは に置き換えられている。
梓弓は万葉でよく唄われており、少し考えると田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。』
(「天誅組の変と立石孫一郎」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/kaitei/nakayama.htm
この記事の著者は「田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。」と言い切っているが、私はそうは思わない。
ドラマチック歴史を創るためにも、敢えて梓の立派な弓を持つ人物を田んぼの案山子として派遣するという演出も十分あり得る。
田んぼの案山子は、実は孝明天皇の子供だったのではないか。
「明治天皇は大の相撲好きで、おまけにすこぶる強かったというのは、あるいは、この、型破りだった叔父の影響かも知れない。」と叔父に感化された明治天皇の様子を描写しているが、実は明治天皇は虚弱だった。
相撲が得意なのは確かに叔父の中山忠光そのひとだったのだ。
長州で人違いのため明治天皇が殺害されたとすると、京都御所にいるのは一体誰なのか。
相撲が得意だった中山忠光自身ではなかったのか、と私は推理している。
もちろん、似たような年齢の虚弱なお子を身代わりにする手もあっただろう。
しかし、松浦静山にとってはひ孫にあたる後の明治天皇・祐宮(さちのみや)を失ったことになる。
やがて天皇の外戚として権力を振るうはずだったのが、他人のお子を天皇に入れ替えては長年の計画が水の泡になる。
慶子の弟中山忠光であれば、静山にとっては孫にあたる。
祐宮(さちのみや)の長州旅行のために、相撲の得意な忠光を身代わりさせていたのだが、そのまま明治天皇になってもらうしかないと考えただろう。
その場合、7歳もの年の開きや身体性格の特徴の違うところは多々ある。
無理は承知で静山の血を持つ人物に入れ替わるように仕組んだのであろう。
革命完了直後に遷都すれば何とか隠せおおせるだろう。
「明治天皇は入れ替わっており、本物は暗殺されていた。」
私の推理はそれであるが、それとまったく同じことを論じるサイトがあった。
文中には、即位の前後で別人と思われる人的特徴の段差を指摘していた。
『即位前(睦仁親王時代)
① 睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。
疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。
②元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、「失神」した。
③睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、毎年風邪をこじらせていた。
又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」にいそしんでいた。
④睦仁親王は16才になっても、書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。
又、政務にも無関心であった。
⑤即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。
つまり、馬には乗れなかった。
即位後(明治天皇時代)
①明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。
又、実際の顔にも「あばた」は無かった。
②明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
③体重24貫(約90Kg)の巨漢で、側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
④明治天皇は書が「達筆」であった。
又、学問にも熱心であり、教養豊かであった。
⑤明治天皇は、鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。』
(「「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史―其の肆(1998.1.4)」より)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4.html
性格といい、体格の違いといい、即位前後ではまったく別の人間である。
新政府が都を急いで京都から一旦は大阪へ遷そうとし、それがだめとなれば今度は江戸へ遷したというのも、そういう即位前の明治天皇を知る人々から御所を遠ざける必要があったのかも知れない。
長州藩で暗殺された男子は、おそらくは大砲の音で失神するほどの虚弱なお子だったのであろう。
歴史は繰り返される。
私たちは、天皇を国民の象徴と崇める限り、皇室の実態について無知であってはならない。
崇めつつ、見てみぬ振りをしてはならない。
もし、松陰が松下村塾で中山公子に会っていたら、互いに気が合ったのではないか。
松陰も即位前の親王と同様、幼い頃に痘瘡を患っており顔にあばたが残っていたのである。
そして剣術も苦手な痩せた松陰青年であった。
生きていたら、天皇の入れ替えという荒療治を松陰自身は果たして許しただろうか。
臣下がまずとるべき道というものを必死で探り実行していったはずだ。
松陰であれば、「使えないから殺してしまえ」とは決してならない。
松陰の思想は開国攘夷であると思う。
開国して貿易産業を振興し、日本を富国して後に強兵を実現する。
その結果、日本の植民地化を防御し、なおかつインド・中国をも含むアジアの西洋からの独立を画策するのである。
松陰は、「まず天皇を殺し、その子をも殺す」というひどい戦略を採らないはずだ。
以上は松陰と平戸を舞台に展開した幕末の推理劇であるが、実は時代考証に大きな問題を含む。
主役となっている松浦静山は、忠臣蔵で有名になった平戸藩主であるが、天保12年(1841)に死没している。
安政5年9月に家督を相続した肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主松浦 詮(まつら あきら)が静山の見果てぬ夢を後押ししたと考えるべきであろう。
松浦 詮は明治41年(1908年)まで生きた。
中山公子(こうし)とは~長州(123) [萩の吉田松陰]
SH3B0483「楷(かい)の木」側から見た松陰神社側面
「楷(かい)の木」の傍から松陰神社の側面を見ている。
意外に洒落たデザインである。
仙台伊達、鳥取池田、長州毛利の三藩が、黄檗宗を通じて宗教連携ができていたことがわかった。
長崎では日本へやってきた中国人が、キリスト教徒ではないことを証明するために仏教門徒になるべく黄檗宗の寺院の信者や檀家になった。
黄檗宗はそうやって新しく設けられた禅宗の一派である。
言い換えれば、日本へ入国するキリスト教徒にとって黄檗宗寺院は隠れ蓑として機能する。
黄檗宗信者だといえば、幕府のキリシタン疑惑による詮索を免れることができる。
踏み絵の苦しみから逃れることもできたことだろう。
信者にとってマリア像を彫った板を足で踏むことは拷問以上につらい。
岡山藩から鳥取藩へ移した池田氏の菩提寺は、当初は京都妙心寺派寺院だった。
黄檗宗に宗派替えをするのに、京都妙心寺と「ひと悶着」あったという。
私の母が亡父の遺骨を臨済宗寺院のアパート墓地から曹洞宗寺院の土石の墓に移そうと相談した。
臨済宗の僧侶が老いた母にいうには、名づけた40万円もする亡父の戒名を召し上げて「名無しの遺骨にする」と脅された。
これはほんの10年ほど前の、私の家族にあった話である。
大層気に入っていた亡き夫の戒名が墓替えで消滅すると脅された母は、遺骨の移し替えをあきらめた。
この例でわかるように、死んだ父に対して宗教があるのではない。
まだ生きている遺族のためにこそ、宗教がある。
死んだものはモノをいわないし、悔いもしない。
現代では、坊主の言うことの方が私たち在家の者よりもずっと生々しい。
「墓を替えてもよいが、その代わりわが宗派がつけた40万円の戒名は消滅するぞ!」とまで言って檀家をつなぎとめようとする。
釈迦が聞いたらさぞかし嘆くことだろう。
仏法創始者の思いなど、2500年も経過すると吹っ飛んでしまっている。
話は現代の我が家のことへ脱線したが、池田氏の宗旨替えトラブルのくだりで、池田氏は京都妙心寺派をかつて菩提寺にしていたことがわかった。
妙心寺の雑華院(ざっかいん)という塔頭は、キリシタン大名牧村利貞が建立したものである。
その娘は祖心尼となり大奥で将軍家光にキリシタンの教えに酷似している禅の教えを授けている。
そして京都妙心寺境内には、秀吉により破却された南蛮寺の鐘が大事に保管されている。
つまり、黄檗宗以前から池田氏にはキリシタンの教えが潜んでいた妙心寺と因縁が深かった。
このことは注目すべきことであろう。
さて、仙台にキリシタンを埋葬している「光明寺」という名の寺院がある。
拙著街道ブログに、その寺へ寄ったことを以前書いた。
奥州街道歩きの途上である。
以下に再掲する。
『光明寺党と攘夷~奥州街道(3-387)
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59402246.html
2010/4/4(日) 午後 5:40中山道を歩こう
TS392397支倉六右衛門の文字のある石碑
TS392399光明寺
TS392401旧奥州街道
(注;写真は割愛しますので、見たい方は上のアドレスを参照してください。)
仙台市青葉区北山にある光明寺の門前に苔むした石柱が立っている。
北山五山の1つである。
「支倉六右衛門」の文字が見える。
支倉常長のことである。
「六右衛門」は別名である。
そして、霊名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ」である。
フランシスコ・ザビエルの影響は、確実に仙台までやってきていた。
後の時代だが、(大分県国東出身の)ペトロ岐部も仙台布教に貢献している。
キリシタンの洗礼を受けた支倉常長の墓が光明寺にある。
以前も書いたが、旧約聖書の神は「光」を好む。
御みこしを金銀で飾るのもそのためである。
光の文字のあるところに私は旧約聖書やキリシタンの影響を感じる。
ここ「光明寺」と同じ名前の寺が、下関の瀬戸内海に面してある。
長州藩砲台から「砲弾」がアメリカ商船に向けて発射されたことは知られている。
光明寺から久坂ら光明寺党が小船で繰り出して、(沖で)大砲を積んだ(長州藩の)戦艦に乗り込み、明治維新革命の「最初の砲弾」を発砲させたという、ことの細部はあまり知られていない。
『刀痕の所在地
山口県下関市細江1-7-10 光明寺本堂前廊下の柱
刀痕の誕生日
文久3年(1863)5月5日頃 馬関戦争勃発前、光明寺党が光明寺に駐屯していた頃
刀痕の背景
光明寺と光明寺党について、
文久3年(1863)の下関攘夷戦争の際には、久坂玄瑞率いる浪士隊約50~60人がこの寺に駐屯しており、5月11日未明、アメリカ商船ベンブローグ号に対して庚申、癸亥両艦で海峡に乗り出し、又亀山八幡宮に築かれた砲台から攘夷の第一弾を打ち出したのが彼らでした。
今日この浪士隊は「光明寺党」と呼ばれています。
白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」という記事もみられる。
中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。
又癸亥丸(英国より購入の軍艦)を飾っていた「艦首像」を切り取ってきて、光明寺本堂の前に置き出入の度ごとに叩いたりして、攘夷の思いを高揚させていたとも伝えられている。
若者らしき稚気では有りますが云々。
と説明され伝えられています。(要旨 地元紙、寺伝)』
(「下関攘夷戦争「下関光明寺に残る光明寺党の刀痕」」より)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/tyou-koumyouji.htm
文久3年(1863)4月に中山公子が狐を一匹光明寺に持参した。
5月5日頃、浪士たちの乱闘が本堂内であったようである。
刀を抜いて単に暴れただけかも知れないが、寺の本堂の柱に刀傷をつけるという、釈迦が聞いたらあきれるような行動を若者たちが行っている。
その約1週間後(5月11日未明)に外国船に大砲をぶっ放している。
狐を光明寺に持参した白石正一郎のいう「中山公子」とは一体誰のことだろう。
長府より下関に狩に出てきたというから、いつもは長府に住んでいたのだろう。
中山の公子牟(こうしぼう)、それは魏の公子で魏牟(ぎぼう)であるという文がある。
公子(こうし)とは、貴族の子弟、公達(きんだち)のことを指す。
白石正一郎が長府からやってきた高貴な人物を、中国「魏」の公子に比喩して記したものであろう。
『「仲尼第四」〔十三〕
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子なり。
好みて賢人と游び、國事を恤(かへりみ)ずして、趙人公孫龍(こうそんりよう)を悅ぶ。
樂正子輿(がくせい しよ)の徒之を笑ふ。
公子牟曰く、子何ぞ牟の公孫龍を悅ぶを笑ふや。
子輿曰く、公孫龍の爲人(ひとゝなり)や、行ふに師無く、學ぶに友無く、佞給*にして中らず、漫衍*にして家無く*、怪を好みて妄言す、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀*等と之を肄(なら)ふと。
* 佞給、ねいきふ、口先がうまい。
* 漫衍、まんえん、とりとめがない。
* 家無く、一家をなさない。
* 韓檀、かんだん、人名。』(「仲尼第四」より)
http://sudana.hp.infoseek.co.jp/chuuji.htm
公孫龍は孔子の弟子の一人である。
中山の公子牟(ぼう)は「公孫龍を悅ぶ」、つまり「公孫龍の教え」を好むということだろう。
「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」がそれを笑ったという。
「樂正」が姓で「子輿」は名であり、前漢の成帝の子の名をかたった人物のことであろう。
子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子というから、王国の高貴な貴族の子だろう。
ちょうど中山忠光と条件が一致し、しかも漢字表記まで同じである。
白石はこの中国の故事を知っており、それをなぞるようにして、忠光を中山公子と表現したのである。
つまり、中国の故事の前後と、幕末日本の当時の状況が一致する可能性を示唆している。
『公孫龍のひとゝなりは、行動するにも師が無く、学問をしようにも友が無く、口先はうまいけれど道理に外れ、とりとめがないけれど一家をなさないし、怪を好んででたらめを言い、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀等と之を肄(なら)ふと。』
ここには出てこないが、このあとで中山公子牟は「愚かな者には、智恵者の言葉を理解することはできない。」と反論を展開している。
「前漢の成帝の子」であると詐称するような連中には、公孫龍の教えなどはわかるまいという意味であろう。
「天皇の子であることを詐称する」というくだりは、幕末のこの時代にあっては孝明天皇の子、つまり「明治天皇であることを詐称する」ということになろう。
それが「子輿の徒」であれば、中山公子はそれらの怪しい連中とは一線を画した公家であったと自覚している。
「子輿の徒」の真似をした楽正王郎(おうろう)という思想家がいる。
子輿の名をかたった楽正氏だから、楽正子輿となる。
日本に置き換えると、また一段とややこしくなる。
「孝明天皇の子であることを詐称する」「子輿の徒」、つまり偽明治天皇がいて、それの真似をした楽正子輿がいた。
つまり、われは明治天皇であると詐称して有名になった男の真似をして、また「われこそは明治天皇である」と詐称した男まで現れたということになる。
孝明天皇毒殺(仮説)によって、ちまたにそういう連中が沸きあがってきたのであろう。
楽正子輿がどういう人物かを知ることで、幕末にその真似をした日本人がどういう人物かを投影してみることができるかも知れない。
『戦国時代の思想家。『列子』にみえる。
姓は楽正。
王莽が新を建国した際に、偶々長安では前漢の成帝の子である子輿を自称して誅殺された者がいた。
王郎はこの事件を利用し、自分こそが本物の子輿であると詐称する。』(王郎(Wikipedia)より)
「子輿」は成帝の子であるが、「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」とは「実は私こそが成帝の子である」と詐称する王郎のようなものたちを指す。
長州藩に王郎のような人々がいたのであろう。
中山公子は、その対極にある公家である。
すなわち「天皇の子を騙(かた)る」などというおろかな行為をしない公家である。
以下略。』(再掲載終わり)
今この拙著記事を読み直してみると、相当奥が深いものへ接近しようとしているように見える。
ことは下手をすると天皇家の正統性にまで及び兼ねない。
「子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。」
これは日本の天皇の子であることを詐称する長州の男(ここでは子輿とあだ名している)が、中山公子が尊敬する孔子の弟子公孫龍を批判したということを示唆する。
儒教の忠孝の教えに反する人物だということだろう。
中山公子は長州藩内で天皇の子、幕末当時で言えば「孝明天皇の子である」と詐称する男と会って、孔子批判を聞かされたことになる。
「孝明天皇の子」を詐称するということは、「我は明治天皇である」と嘯(うそぶ)くことを意味する。
その男が本当に「孝明天皇の子である」かどうかを忠光が確認したかどうかは定かではない。
可能性としては、可愛い孫(天皇の後継者)に旅をさせようとしたおじいちゃんが、天皇の子であった孫を他人と入れ替えたことも考えられる。
中山公子が天皇と入れ替わったのではなく、天皇の子が中山公子と詐称して長州にいた可能性もある。
ともあれ、うそか真かはわからないが、「われは天皇の子」と主張する人物が長州藩にいたことは事実のようである。
もし「真」であるならば、それは皇統断絶に通じる可能性を生むことになる。
久坂玄瑞ら若者は、光明寺本堂の前に(階段下にという説もある)癸亥丸の「艦首像」を置き、出入の度ごとに叩いて攘夷の思いを高揚させていたとあった。
その船は英国で造られたブリック級木造帆船で、ランリックといった。
次の記事によれば、光明寺党はその像を蹴飛ばしていたという。
『原名ランリック。
イギリスで建造され、1863年1月英国より購入。
艦首には船首像が付いていたのだが、長州藩の過激派光明寺党が攘夷の魁とばかりに切り離し、宿舎である光明寺の階段の下に置いて、出入りの度に蹴飛ばしていた。
下関に配置され、文久三年五月十一日には庚申丸と共にアメリカ商船ペンブローク号を攻撃した。
この際の攻撃は拙劣で、癸亥と併せて12発の砲弾を撃ちながらマストに軽微な損傷を与えるに留まった。
此の後、二十二日にもフランス通報艦キェンシャンが馬関に近付くと、此を攻撃する為に庚申と共に出撃し、軽微な損害を与えた。
メデューサ号の攻撃に際しても庚申・壬戌と共に出撃して損害を与えて撃退したが、その命中弾が癸亥による物かは不明。
文久三年六月一日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関港に突入し、砲撃戦となるや、今度は間違えて味方の壬戌に当ててしまった。
その後ワイオミングの強力な11インチ砲弾2発を受け、大破した。
その後一時期の間廃艦扱いとされていたが、後に大改修を受け、慶応二(1866)年六月十七日に小倉口に出撃。
丙寅丸、丙辰丸らと共に田野浦を砲撃した。
鳥羽伏見の戦いの前夜、蒸気船鞠府丸・丙寅丸・満殊丸、帆船丙辰丸・庚申丸・乙丑丸と共に広島藩船万年丸の誘導の元、総督毛利元功(徳山藩世子)・隊長毛利内匠(徳山藩家老)以下1200名の藩兵を上陸させた。』
(「長州藩」より)
http://page.freett.com/sukechika/ship/ship04.html
艦首像は悲惨な目に遭っているが、艦船本体は後半ではそこそこ活躍していたようだ。
一般に欧州の帆船は女神像を艦首に飾ることが多いようだが、叩かれたり蹴られたりした像がどういう像であったかはわからない。
白石はその行為を「若者らしき稚気」と表現している。
松陰が育てた草莽たちは、案外子供っぽかった。
その腕白ぶりがそれをよく物語っている。
少年の集団はマインドコントロールに罹りやすい。
高校野球、高校サッカーなどの番組を見ると、涙々の物語は暇がないほど多い。
それをアジテータ(扇動者)が戦略的に利用したという側面もあるかも知れない。
私は奥州街道で訪ねた仙台の光明寺のことを思いながら、自然と長州の光明寺を連想している。
それほど、仙台と長州のイメージは近いのだろう。
キリシタン信仰と捕らえれば、さもありなんとなる。
長州はフランシスコ・ザビエルで、仙台は支倉常長(ドン・フィリッポ・フランシスコ)である。
どちらもかつては「フランシスコの独壇場」だった。
長州の光明寺で久坂らが異国船へ攘夷発砲をするに到った動機を調べようとしている。
それが「攘夷のため」ということは既にわかっている。
私が知りたいのは、日本国において「攘夷の第一発目の砲弾」がなぜ長州の光明寺から発せられたのか、という理由である。
正確には光明寺の少し西の高台にある亀山砲台から第一発目が打たれたのであるが、光明寺党がやったということは確かであろう。
発砲の約1ヶ月前に、光明寺に狐を持参した人物がいる。
それが「光明寺からの攘夷開始」の予兆を示すのではないか。
「白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」とある。
「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。」
この中にその動機が書かれていると、ずっと私は感じていた。
しかし、「中山公子」が誰を意味するのか、上記の拙著記事を書いた2009年当時にはわからないままだった。
ところが、一つ前に書いた記事の中に、幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。
このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。
それは平戸藩主の子で、明治天皇の叔父にあたる人物である。
「楷(かい)の木」の傍から松陰神社の側面を見ている。
意外に洒落たデザインである。
仙台伊達、鳥取池田、長州毛利の三藩が、黄檗宗を通じて宗教連携ができていたことがわかった。
長崎では日本へやってきた中国人が、キリスト教徒ではないことを証明するために仏教門徒になるべく黄檗宗の寺院の信者や檀家になった。
黄檗宗はそうやって新しく設けられた禅宗の一派である。
言い換えれば、日本へ入国するキリスト教徒にとって黄檗宗寺院は隠れ蓑として機能する。
黄檗宗信者だといえば、幕府のキリシタン疑惑による詮索を免れることができる。
踏み絵の苦しみから逃れることもできたことだろう。
信者にとってマリア像を彫った板を足で踏むことは拷問以上につらい。
岡山藩から鳥取藩へ移した池田氏の菩提寺は、当初は京都妙心寺派寺院だった。
黄檗宗に宗派替えをするのに、京都妙心寺と「ひと悶着」あったという。
私の母が亡父の遺骨を臨済宗寺院のアパート墓地から曹洞宗寺院の土石の墓に移そうと相談した。
臨済宗の僧侶が老いた母にいうには、名づけた40万円もする亡父の戒名を召し上げて「名無しの遺骨にする」と脅された。
これはほんの10年ほど前の、私の家族にあった話である。
大層気に入っていた亡き夫の戒名が墓替えで消滅すると脅された母は、遺骨の移し替えをあきらめた。
この例でわかるように、死んだ父に対して宗教があるのではない。
まだ生きている遺族のためにこそ、宗教がある。
死んだものはモノをいわないし、悔いもしない。
現代では、坊主の言うことの方が私たち在家の者よりもずっと生々しい。
「墓を替えてもよいが、その代わりわが宗派がつけた40万円の戒名は消滅するぞ!」とまで言って檀家をつなぎとめようとする。
釈迦が聞いたらさぞかし嘆くことだろう。
仏法創始者の思いなど、2500年も経過すると吹っ飛んでしまっている。
話は現代の我が家のことへ脱線したが、池田氏の宗旨替えトラブルのくだりで、池田氏は京都妙心寺派をかつて菩提寺にしていたことがわかった。
妙心寺の雑華院(ざっかいん)という塔頭は、キリシタン大名牧村利貞が建立したものである。
その娘は祖心尼となり大奥で将軍家光にキリシタンの教えに酷似している禅の教えを授けている。
そして京都妙心寺境内には、秀吉により破却された南蛮寺の鐘が大事に保管されている。
つまり、黄檗宗以前から池田氏にはキリシタンの教えが潜んでいた妙心寺と因縁が深かった。
このことは注目すべきことであろう。
さて、仙台にキリシタンを埋葬している「光明寺」という名の寺院がある。
拙著街道ブログに、その寺へ寄ったことを以前書いた。
奥州街道歩きの途上である。
以下に再掲する。
『光明寺党と攘夷~奥州街道(3-387)
http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59402246.html
2010/4/4(日) 午後 5:40中山道を歩こう
TS392397支倉六右衛門の文字のある石碑
TS392399光明寺
TS392401旧奥州街道
(注;写真は割愛しますので、見たい方は上のアドレスを参照してください。)
仙台市青葉区北山にある光明寺の門前に苔むした石柱が立っている。
北山五山の1つである。
「支倉六右衛門」の文字が見える。
支倉常長のことである。
「六右衛門」は別名である。
そして、霊名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ」である。
フランシスコ・ザビエルの影響は、確実に仙台までやってきていた。
後の時代だが、(大分県国東出身の)ペトロ岐部も仙台布教に貢献している。
キリシタンの洗礼を受けた支倉常長の墓が光明寺にある。
以前も書いたが、旧約聖書の神は「光」を好む。
御みこしを金銀で飾るのもそのためである。
光の文字のあるところに私は旧約聖書やキリシタンの影響を感じる。
ここ「光明寺」と同じ名前の寺が、下関の瀬戸内海に面してある。
長州藩砲台から「砲弾」がアメリカ商船に向けて発射されたことは知られている。
光明寺から久坂ら光明寺党が小船で繰り出して、(沖で)大砲を積んだ(長州藩の)戦艦に乗り込み、明治維新革命の「最初の砲弾」を発砲させたという、ことの細部はあまり知られていない。
『刀痕の所在地
山口県下関市細江1-7-10 光明寺本堂前廊下の柱
刀痕の誕生日
文久3年(1863)5月5日頃 馬関戦争勃発前、光明寺党が光明寺に駐屯していた頃
刀痕の背景
光明寺と光明寺党について、
文久3年(1863)の下関攘夷戦争の際には、久坂玄瑞率いる浪士隊約50~60人がこの寺に駐屯しており、5月11日未明、アメリカ商船ベンブローグ号に対して庚申、癸亥両艦で海峡に乗り出し、又亀山八幡宮に築かれた砲台から攘夷の第一弾を打ち出したのが彼らでした。
今日この浪士隊は「光明寺党」と呼ばれています。
白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」という記事もみられる。
中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。
又癸亥丸(英国より購入の軍艦)を飾っていた「艦首像」を切り取ってきて、光明寺本堂の前に置き出入の度ごとに叩いたりして、攘夷の思いを高揚させていたとも伝えられている。
若者らしき稚気では有りますが云々。
と説明され伝えられています。(要旨 地元紙、寺伝)』
(「下関攘夷戦争「下関光明寺に残る光明寺党の刀痕」」より)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/tyou-koumyouji.htm
文久3年(1863)4月に中山公子が狐を一匹光明寺に持参した。
5月5日頃、浪士たちの乱闘が本堂内であったようである。
刀を抜いて単に暴れただけかも知れないが、寺の本堂の柱に刀傷をつけるという、釈迦が聞いたらあきれるような行動を若者たちが行っている。
その約1週間後(5月11日未明)に外国船に大砲をぶっ放している。
狐を光明寺に持参した白石正一郎のいう「中山公子」とは一体誰のことだろう。
長府より下関に狩に出てきたというから、いつもは長府に住んでいたのだろう。
中山の公子牟(こうしぼう)、それは魏の公子で魏牟(ぎぼう)であるという文がある。
公子(こうし)とは、貴族の子弟、公達(きんだち)のことを指す。
白石正一郎が長府からやってきた高貴な人物を、中国「魏」の公子に比喩して記したものであろう。
『「仲尼第四」〔十三〕
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子なり。
好みて賢人と游び、國事を恤(かへりみ)ずして、趙人公孫龍(こうそんりよう)を悅ぶ。
樂正子輿(がくせい しよ)の徒之を笑ふ。
公子牟曰く、子何ぞ牟の公孫龍を悅ぶを笑ふや。
子輿曰く、公孫龍の爲人(ひとゝなり)や、行ふに師無く、學ぶに友無く、佞給*にして中らず、漫衍*にして家無く*、怪を好みて妄言す、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀*等と之を肄(なら)ふと。
* 佞給、ねいきふ、口先がうまい。
* 漫衍、まんえん、とりとめがない。
* 家無く、一家をなさない。
* 韓檀、かんだん、人名。』(「仲尼第四」より)
http://sudana.hp.infoseek.co.jp/chuuji.htm
公孫龍は孔子の弟子の一人である。
中山の公子牟(ぼう)は「公孫龍を悅ぶ」、つまり「公孫龍の教え」を好むということだろう。
「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」がそれを笑ったという。
「樂正」が姓で「子輿」は名であり、前漢の成帝の子の名をかたった人物のことであろう。
子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。
中山の公子牟(ぼう)は魏國の賢公子というから、王国の高貴な貴族の子だろう。
ちょうど中山忠光と条件が一致し、しかも漢字表記まで同じである。
白石はこの中国の故事を知っており、それをなぞるようにして、忠光を中山公子と表現したのである。
つまり、中国の故事の前後と、幕末日本の当時の状況が一致する可能性を示唆している。
『公孫龍のひとゝなりは、行動するにも師が無く、学問をしようにも友が無く、口先はうまいけれど道理に外れ、とりとめがないけれど一家をなさないし、怪を好んででたらめを言い、人の心を惑はし,人の口を屈せんと欲して、韓檀等と之を肄(なら)ふと。』
ここには出てこないが、このあとで中山公子牟は「愚かな者には、智恵者の言葉を理解することはできない。」と反論を展開している。
「前漢の成帝の子」であると詐称するような連中には、公孫龍の教えなどはわかるまいという意味であろう。
「天皇の子であることを詐称する」というくだりは、幕末のこの時代にあっては孝明天皇の子、つまり「明治天皇であることを詐称する」ということになろう。
それが「子輿の徒」であれば、中山公子はそれらの怪しい連中とは一線を画した公家であったと自覚している。
「子輿の徒」の真似をした楽正王郎(おうろう)という思想家がいる。
子輿の名をかたった楽正氏だから、楽正子輿となる。
日本に置き換えると、また一段とややこしくなる。
「孝明天皇の子であることを詐称する」「子輿の徒」、つまり偽明治天皇がいて、それの真似をした楽正子輿がいた。
つまり、われは明治天皇であると詐称して有名になった男の真似をして、また「われこそは明治天皇である」と詐称した男まで現れたということになる。
孝明天皇毒殺(仮説)によって、ちまたにそういう連中が沸きあがってきたのであろう。
楽正子輿がどういう人物かを知ることで、幕末にその真似をした日本人がどういう人物かを投影してみることができるかも知れない。
『戦国時代の思想家。『列子』にみえる。
姓は楽正。
王莽が新を建国した際に、偶々長安では前漢の成帝の子である子輿を自称して誅殺された者がいた。
王郎はこの事件を利用し、自分こそが本物の子輿であると詐称する。』(王郎(Wikipedia)より)
「子輿」は成帝の子であるが、「樂正子輿(がくせい しよ)の徒」とは「実は私こそが成帝の子である」と詐称する王郎のようなものたちを指す。
長州藩に王郎のような人々がいたのであろう。
中山公子は、その対極にある公家である。
すなわち「天皇の子を騙(かた)る」などというおろかな行為をしない公家である。
以下略。』(再掲載終わり)
今この拙著記事を読み直してみると、相当奥が深いものへ接近しようとしているように見える。
ことは下手をすると天皇家の正統性にまで及び兼ねない。
「子輿は中山の公子が喜ぶという公孫龍を批判した。」
これは日本の天皇の子であることを詐称する長州の男(ここでは子輿とあだ名している)が、中山公子が尊敬する孔子の弟子公孫龍を批判したということを示唆する。
儒教の忠孝の教えに反する人物だということだろう。
中山公子は長州藩内で天皇の子、幕末当時で言えば「孝明天皇の子である」と詐称する男と会って、孔子批判を聞かされたことになる。
「孝明天皇の子」を詐称するということは、「我は明治天皇である」と嘯(うそぶ)くことを意味する。
その男が本当に「孝明天皇の子である」かどうかを忠光が確認したかどうかは定かではない。
可能性としては、可愛い孫(天皇の後継者)に旅をさせようとしたおじいちゃんが、天皇の子であった孫を他人と入れ替えたことも考えられる。
中山公子が天皇と入れ替わったのではなく、天皇の子が中山公子と詐称して長州にいた可能性もある。
ともあれ、うそか真かはわからないが、「われは天皇の子」と主張する人物が長州藩にいたことは事実のようである。
もし「真」であるならば、それは皇統断絶に通じる可能性を生むことになる。
久坂玄瑞ら若者は、光明寺本堂の前に(階段下にという説もある)癸亥丸の「艦首像」を置き、出入の度ごとに叩いて攘夷の思いを高揚させていたとあった。
その船は英国で造られたブリック級木造帆船で、ランリックといった。
次の記事によれば、光明寺党はその像を蹴飛ばしていたという。
『原名ランリック。
イギリスで建造され、1863年1月英国より購入。
艦首には船首像が付いていたのだが、長州藩の過激派光明寺党が攘夷の魁とばかりに切り離し、宿舎である光明寺の階段の下に置いて、出入りの度に蹴飛ばしていた。
下関に配置され、文久三年五月十一日には庚申丸と共にアメリカ商船ペンブローク号を攻撃した。
この際の攻撃は拙劣で、癸亥と併せて12発の砲弾を撃ちながらマストに軽微な損傷を与えるに留まった。
此の後、二十二日にもフランス通報艦キェンシャンが馬関に近付くと、此を攻撃する為に庚申と共に出撃し、軽微な損害を与えた。
メデューサ号の攻撃に際しても庚申・壬戌と共に出撃して損害を与えて撃退したが、その命中弾が癸亥による物かは不明。
文久三年六月一日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関港に突入し、砲撃戦となるや、今度は間違えて味方の壬戌に当ててしまった。
その後ワイオミングの強力な11インチ砲弾2発を受け、大破した。
その後一時期の間廃艦扱いとされていたが、後に大改修を受け、慶応二(1866)年六月十七日に小倉口に出撃。
丙寅丸、丙辰丸らと共に田野浦を砲撃した。
鳥羽伏見の戦いの前夜、蒸気船鞠府丸・丙寅丸・満殊丸、帆船丙辰丸・庚申丸・乙丑丸と共に広島藩船万年丸の誘導の元、総督毛利元功(徳山藩世子)・隊長毛利内匠(徳山藩家老)以下1200名の藩兵を上陸させた。』
(「長州藩」より)
http://page.freett.com/sukechika/ship/ship04.html
艦首像は悲惨な目に遭っているが、艦船本体は後半ではそこそこ活躍していたようだ。
一般に欧州の帆船は女神像を艦首に飾ることが多いようだが、叩かれたり蹴られたりした像がどういう像であったかはわからない。
白石はその行為を「若者らしき稚気」と表現している。
松陰が育てた草莽たちは、案外子供っぽかった。
その腕白ぶりがそれをよく物語っている。
少年の集団はマインドコントロールに罹りやすい。
高校野球、高校サッカーなどの番組を見ると、涙々の物語は暇がないほど多い。
それをアジテータ(扇動者)が戦略的に利用したという側面もあるかも知れない。
私は奥州街道で訪ねた仙台の光明寺のことを思いながら、自然と長州の光明寺を連想している。
それほど、仙台と長州のイメージは近いのだろう。
キリシタン信仰と捕らえれば、さもありなんとなる。
長州はフランシスコ・ザビエルで、仙台は支倉常長(ドン・フィリッポ・フランシスコ)である。
どちらもかつては「フランシスコの独壇場」だった。
長州の光明寺で久坂らが異国船へ攘夷発砲をするに到った動機を調べようとしている。
それが「攘夷のため」ということは既にわかっている。
私が知りたいのは、日本国において「攘夷の第一発目の砲弾」がなぜ長州の光明寺から発せられたのか、という理由である。
正確には光明寺の少し西の高台にある亀山砲台から第一発目が打たれたのであるが、光明寺党がやったということは確かであろう。
発砲の約1ヶ月前に、光明寺に狐を持参した人物がいる。
それが「光明寺からの攘夷開始」の予兆を示すのではないか。
「白石正一郎日誌の中に、文久3年4月、「中山公子今日狐狩りに御出長府より御猟方来る、得物の狐一疋光明寺へ御持ち行候」とある。
「中山公子とは、悲劇の死を遂げた云々。」
この中にその動機が書かれていると、ずっと私は感じていた。
しかし、「中山公子」が誰を意味するのか、上記の拙著記事を書いた2009年当時にはわからないままだった。
ところが、一つ前に書いた記事の中に、幕末日本史にとても重要な役割を果たす公家の名、中山忠能が登場してきた。
このことから、一気に「中山公子」の実像が見えてきた。
それは平戸藩主の子で、明治天皇の叔父にあたる人物である。
タグ:中山公子( 松陰神社の側面 黄檗宗 宗教連携 仙台伊達 鳥取池田 長州毛利 キリスト教徒 中国人 長崎 隠れ蓑 京都妙心寺派 ひと悶着 名無しの遺骨 老いた母 墓替え 坊主 生々しい キリシタン大名 牧村利貞 雑華院 祖心尼 キリシタンの教え 酷似 禅の教え 将軍家光 光明寺 奥州街道歩き 青葉区北山 支倉六右衛門 支倉常長 ドン・フィリッポ・フランシスコ フランシスコ・ザビエル ペトロ岐部 旧約聖書 神 光 好む 御みこし 金銀 瀬戸内海 光明寺党 中山公子 狐一疋 白石正一郎 中山の公子牟 魏の公子 魏牟 ぎぼう 貴族の子弟 天皇の子 詐称 子輿の徒 楽正王郎 楽正子輿 孝明天皇毒殺 成帝の子 癸亥丸 艦首像 稚気 平戸藩主の孫 明治天皇の叔父
光仲とキリシタン灯篭~長州(123) [萩の吉田松陰]
(写真) 岡山藩主池田光政によって開設された世界最古の庶民学校にある「楷(かい)の木」(閑谷(しずたに)学校(Wikipedia)より引用)
気になっているのは、会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」のことである。
萩・松陰神社境内の説明板によれば、現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)に林学博士、白沢保美(しらさわ やすみ)氏が中国曲阜(きょくふ)から種子を持ち帰ったものが成長したもので、その大木は岡山県の閑谷(しずたに)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にあるという。
「会津藩」と「萩の松陰」と「岡山藩」が、一本の線で結ばれてきた。
会津と萩で、私はキリシタン殉教地を訪ねている。
山口はザビエルが直接布教した町で、大内氏滅亡により萩へ信者が流れてきたようだ。
江戸期には萩を追われて、山中の阿武郡紫福村へとキリシタンたちは隠れて棲んだ。
会津は近江出身のキリシタン大名が治めた国である。
では、岡山藩とキリシタンの関係がどうなのだろうか。
幼くして備前岡山藩当主となった池田光仲は、「政治手腕の幼さ」のため、岡山藩から鳥取藩に転封となり、代わりに従兄弟の光政が岡山藩に赴任した。
両者ともに名に『光』の文字を持つから、私はすぐに「旧約聖書のにおい」を感じている。
新約聖書でも、同じく神は光を好むはずだ。
日本の神輿を金箔でキラキラ飾るのも、ほぼ同じ風習による。
光仲の伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺は、家臣団によって岡山から鳥取に移されている。
その寺の宗派が少し臭う。
長崎に来日した中国人たちが、自分たちが禁令に触れるキリシタンではないことを証明する目的で日本に作ったという黄檗宗なのである。
一応、禅宗のひとつである。
岡山から鳥取へ移された菩提寺の名は興禅寺といい、幼い池田光仲が開基である。
『興禅寺 本堂 所在地 鳥取県鳥取市栗谷町10
山号 龍峯山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永9年(1632年)
開基 池田光仲
文化財 キリシタン灯籠(鳥取県保護文化財)
書院庭園(鳥取市名勝)
興禅寺(こうぜんじ)は鳥取県鳥取市に所在する黄檗宗の寺院。山号は龍峯山。
鳥取藩主池田家の菩提寺である。
歴史
寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まる。
この際には臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より広徳山龍峯寺と名乗っていた。
その後、住職は黄檗宗への転向を願い光仲はそれを認めた。
しかし、妙心寺はこれを不服とし転向を認めず、両者間で争議が起こった。
結局、光仲が没した後に寺号を返納する事で和解が成立した。
元禄6年(1693年)に光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)寺号が妙心寺に返納された。
こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が龍峯山興禅寺と改められた。
その後、藩により興禅寺の隣地に再び龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された。
池田家の菩提寺ではあるが墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営された。
江戸時代は鳥取藩主池田家庇護のもと、仙台藩伊達家の大年寺、長州藩毛利家の東光寺と並んで黄檗宗の三大叢林として栄えた。
しかし、明治時代になり廃藩置県以後は藩の支援が途絶え、経済的危機に見舞われた。
このため、本堂の売却を希望し、火災で本堂を焼亡した兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に明治21年(1988年)に移築された。
現在の本堂は、鳥取藩主の御霊屋であった唯一現存する江戸期の建物である。
庭園
書院庭園久松山系の丘陵を生かして築山とし、麓に池、その対岸に書院を配する書院造の蓬莱山水・池泉鑑賞式庭園で、作庭時期は江戸時代初期と推定されている。『日本庭園史大系』において重森三玲・重森完途が「絵画的表現美を誇る意匠」、「山陰を代表する名庭の一つ」と絶賛している。
文化財 [編集]
尾崎放哉の句碑寺の周辺はキマダラルリツバメ(国の天然記念物)生息地に指定されている。
キリシタン灯籠
書院庭園の西の隅にあり、十字架の彫刻が見られることからキリシタン灯籠の名が付いた。鳥取県保護文化財。』
(興禅寺 (鳥取市)(Wikipedia)より)
光仲の開いた黄檗宗寺院に、鳥取県保護文化財となっているキリシタン灯籠がある。
これで池田光仲がかつて治めていた岡山藩にもキリシタンにつながるものがあることがわかった。
会津、萩、岡山ともに、キリシタンの存在が濃い地域である。
その会津からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子がプレゼントされて、ここ松陰神社に植えられている。
鳥取藩主池田家は、仙台藩伊達家と長州藩毛利家(東光寺)と並び、黄檗宗の三大叢林と呼ばれていた。
黄檗宗に関して、鳥取藩と長州藩は同じくらいの重要な位置を占める藩だった。
仙台藩は、スペインへキリシタン支倉常長を派遣しており、江戸初期にはほぼ公然とキリシタン信仰を続けていた。
幕末の戊辰戦争では、会津と長州が戦火を開くことにおいて、仙台は重要な役割を演じている。
奥羽鎮撫府下参謀である長州藩士世良修蔵を滅多斬りし、旅籠の二階から追い落としている。
『(世良修蔵は、』仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。
2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。
世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。』(「世良修蔵(Wikipedia)より」
世良の斬首は、会津の歴史を大きく変換してしまった。
そう仕組んだ結果ともいえる。
木戸孝允はそれを誰に依頼されたのか?
池田屋事件では、「新政府での総理大臣候補第一人者」と目されていた松門三秀の一人、吉田稔麿が池田屋へ救援に向かう途中、会津藩士数名に切り殺されたという説がある。
それが事実であれば、松陰の子飼いの門弟を殺された恨みは長州人には残っただろう。
稔麿の死は、松陰が理想としていた新生日本国の死でもあった。
長州藩と仙台藩は黄檗宗関係で人的つながりはある。
幕末の仙台藩には、会津藩に恭順を薦める派閥と武断を薦める派閥と、両方あった。
長州の木戸孝允が仙台藩の武断派と結託して、会津が武断へと進まざるを得ない状況に追い込んだ可能性もある。
長崎では、黄檗宗寺院が日本に上陸した中国人キリシタンたちの隠れ蓑として機能した。
その線でつないでいけば、長崎、長州、仙台、鳥取、岡山に濃い人的つながりは出てくる。
『1623(元和9)年創建されたわが国最初の唐寺である。
あか寺、南京寺とも呼ばれる。
1620(元和6)年ころ、中国江西省の劉覚が長崎に渡来、彼はその後に剃髪して僧となり真円を名乗った。
同郷三江系(江南、江西、浙江)の欧陽の伊良林郷にある別荘地(現在の輿福寺の地)に3年間草庵を結んだ。
当時はキリスト教が禁止されていたが、渡来してくる唐人の中にキリスト教の信者も混じっていた。
このため唐船が入港したらすぐにキリスト教の信者かを厳しく問いただされた。
南京方面の船主達は協議の上、キリスト教との懐疑を晴すため、且つ海上神の菩薩を祀るため、また亡くなった唐人の供養のために、真円を開基の住持として寺院開基を奉行所に願出たところ許しを得て東明山興福寺を開創した。
諸船主からは寄進を受け船神媽姐堂を道立し、毎船持渡る処の船神媽姐の像を寺内に安置した。
輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)としては、欧陽雲台(唐通事陽氏祖)、何高材(唐通事何氏祖)、陳九官(唐通事潁川氏祖)、王心渠(唐通事王氏祖)などがいた。
真円に続いて、1632(寛永9)年江蘇省の出身である唐僧黙子如定が渡来して2代住職となると、本堂をはじめとする諸堂を建立し、寺観を大いに整えた。また黙子は、アーチ型の石橋である眼鏡橋を架けたことでも知られる。
黙子に続いて、1645(正保2)年浙江省の出身である逸然性融が渡来して3代住職となった。逸然は当時の日本仏教界の荒廃を憂いて、黙子や有力な檀越らと協議して、当時中国の黄檗山万福寺の住職であった隠元隆琦を招請し住持に推戴し自らは監寺に下った。このほか逸然は仏画や高徳画などを得意とし、長崎漢画の祖といわれている。
1655(明暦元)年隠元が東上すると、翌2年正月から4代目(中興二代)澄一道亮が住持を勤めた。
澄一が在任中の1663(寛文3)年のいわゆる「寛文の大火」で伽藍はことごとく焼失してしまった。
1686(貞享3)年澄一の後を経いで5代住職となった悦峰道章は山門(県有形文化財)や鐘鼓楼(県有形文化財)をはじめとする諸堂の再建を行った。
9代住職となった竺庵が宇治の黄檗山万福寺の13代住職となると、以後唐僧の渡来がなったので、和僧の大倫が監寺(かんす)となり、住職の代行をした。
以後も住職は空席とされ(唐三か寺の住職は唐僧に限られていた)、和僧が監寺を務める例が幕末、維新まで続いた。
興福寺はこのように臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の記念すべき地である。』(「興福寺(東明山 興福寺)」より)
http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/2100kofuku/2110kofukuji.htm
戦国時代の会津キリシタン大名蒲生氏郷の育てたキリシタンが、幕末にもいたはずだが、九州の有名なキリシタン大名大友宗麟の家臣団は、歴史舞台から消えたのか?
宗麟の血筋にあたる立花氏は、家紋に十字を入れて元気に活躍していた。
『祇園守とは、京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のことである。
八坂神社は全国にある祇園さんの本家で、京に夏を呼ぶ祇園祭で知られた神社である。
中略。
祇園守紋の由来には、三つの説がある。
すなわち祇園社の森の図案化、牛の頭部の図案化、キリスト教の十字架の図案化だが、いずれも決め手を欠いている。
いずれにしろ、牛頭天王や八坂神社への信仰から家紋として用いられるようになったことは間違いない。
祇園守紋は単に守紋ともいわれ、その図柄はクロスした筒が特徴である。
後世筒は巻き物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。
中略。
この紋を用いる近世大名で有名なのが、豊後の戦国大名大友氏の一族で柳川藩主立花氏である。
祖の立花宗茂は、薩摩島津氏との戦いにおける潔さ、また、朝鮮の役における碧蹄館の戦での大勝利が知られる。
本来、立花氏は杏葉紋を用いていたが、関が原の合戦後、封を失った宗茂は、数年の流浪の末に棚倉城主に返り咲くことができた。
正月の夜、夢の中に祇園の蘇民将来の守りを捧げた老人があらわれ、この守りをもって本国へ帰り給えといって守りを手渡した。
もともと宗茂は本国の柳川祇園社を深く信仰していたことでもあり、祇園天王の夢のお告げかもしれないとありがたくおもっていたところ、将軍家より旧領柳川を返し与えられたのであった。
喜んだ宗茂は祇園天王の加護に感謝して祇園守を家紋とするようになったのだという。
柳河藩立花氏のものは、とくに「柳河守」とよばれ、中心に二つ巴が入っているのが特徴になっている。
●ヤソ教(キリシタン)との関係は如何
その他、大名家では備前岡山と因幡鳥取の両池田氏が用いている。
池田氏は清和源氏頼光流を称し、本紋には輪蝶を用い、副紋として守を用いた。
松浦静山の著した『甲子夜話』に、ある日、静山が池田家の分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒を尋ね、ヤソ教関係のものではないのかと聞いた。
すると松平氏は由緒のことはよく知らないが、我が家では天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えた。
つまり、天王ではなく天主であったと。
これから推せば祇園守紋は、ヤソ教の十字架を家紋として意匠化したものということになる。
立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大名として知られ、宗茂も少なからず影響を受けたかもしれない。
一方の池田氏はキリシタンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いたことが知られている。
加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。
同紋は、別名中川久留守といわれるように十字架を象ったものであった。
同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クルスを象ったものという。
さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用いたが、これもキリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている。』
(「名字と家紋column(祇園守)」より)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html
柳川藩主立花氏は幕末の水戸学成立に貢献している。
明滅亡に際して明は徳川家康に軍事援助を何度も要請し、その都度断られている。
その救援要請者であった明の遺臣朱舜水が長崎へ亡命してきたとき、柳川藩主立花氏が保護し、かつ水戸徳川光圀へ朱を預ける手配をしている。
朱は水戸光圀の江戸別邸へ移り住み、そこで歴史編纂を手伝った。
その場所は、現在の東大農学部正門の左奥であり、今もそこに朱の住居跡を示す石碑が立つ。
大日本史編纂事業に大きく関わった人物である。
すなわち、水戸史観の形成に影響を及ぼしている。
立花氏は十字デザインの家紋を用いていたが、備前岡山の池田氏も副紋として祇園守を使用していたという。
図柄は以下のサイトに掲載されている。
「祇園守紋」(備前池田氏の副紋)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html
「能勢氏 切り竹矢筈十字紋」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html
松浦静山が池田家分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒はヤソ教関係のものではないのかと聞いたところ、松平氏は我が家では(牛頭)天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えたという。
つまり、天王ではなく天主(キリスト)であったと示唆したのである。
松浦静山は、肥前国平戸藩の第9代藩主「松浦 清」(まつら きよし)のことで、静山は号である。
平戸は、松陰も山鹿素行の末裔の平戸藩家老「山鹿万介」に兵学を習いにいったところだが、キリスト教会と仏教寺院がすぐ隣に建っているような宗教環境の町である。
ザビエルは鹿児島から、長崎を経て、まもなく平戸へ入っている。
一時期は長崎よりも平戸の方が布教は進んだのではなかっただろうか。
平戸はそういう歴史を持つ藩である。
松浦静山が上手に「天主」の話へと池田氏親族を誘導した可能性もある。
キリシタンたちにとって、戦国~江戸期の平戸の藩主は、ただの西洋かぶれの殿様ではなかった。
摂津能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」であり、東京・本所のある寺の門扉に見られる。
一度見に行ったが、十字架のように私には見えた。
檀家もそれをたぶんに意識して門をくぐるのであろう。
海舟が犬に睾丸を噛まれて瀕死の重傷を負ったときに、父が子の快癒を祈願した寺である。
勝海舟も隠れキリシタンだったのだろうか。
それより、興味深いのは、松浦静山の孫娘慶子のことである。
『(松浦)清は17男16女に恵まれた。
そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。
つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。』(松浦静山(Wikipedia)より)
松浦静山は孝明天皇の外祖父であった。
孫娘を通じて皇室内部にも通じている人物だといえよう。
彼は忠臣蔵にも登場する「武断を激しく好む大名」である。
ヒトの全身に塗れば、おそらく痙攣を起こして致死する猛毒サフロール(safrol)は樟脳赤油から得られる。
白沢博士は欧州留学の2年後に、樟脳油の研究で林学博士号を取得し、中国の曲阜からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子を日本に持ち込んだ。
その種子から育った「楷(かい)の木」が、松陰神社境内に植えられていた。
それが会津藩からの贈り物なのである。
安政3年 (1856) 江戸森田座初演の、三代目瀬川如皐・三代目桜田治助合作『新臺いろは書初』(しんぶたい いろはの かきぞめ、新字体:新台〜)の十一段目に、山鹿流陣太鼓を叩いて赤穂浪士に討ち入りを催促する松浦侯が登場する。
松陰が東北遊歴の旅に出発したのは、討ち入りの日(12月14日)だった。
晋作の奇兵隊が功山寺で決起したのは12月15日未明だったが、晋作の予定では14日決起のつもりだった。
松浦藩主は、日本の歴史的事件において、絶妙のタイミングと役割で「ちょっとだけ」顔を出す。
大石内蔵助も吉田松陰も、山鹿素行の兵学を学んでいる。
江戸末期には山鹿素行の末裔「万介」は、平戸藩家老として幕末の勤皇の志士たちに兵学を伝えている。
気になっているのは、会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」のことである。
萩・松陰神社境内の説明板によれば、現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)に林学博士、白沢保美(しらさわ やすみ)氏が中国曲阜(きょくふ)から種子を持ち帰ったものが成長したもので、その大木は岡山県の閑谷(しずたに)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にあるという。
「会津藩」と「萩の松陰」と「岡山藩」が、一本の線で結ばれてきた。
会津と萩で、私はキリシタン殉教地を訪ねている。
山口はザビエルが直接布教した町で、大内氏滅亡により萩へ信者が流れてきたようだ。
江戸期には萩を追われて、山中の阿武郡紫福村へとキリシタンたちは隠れて棲んだ。
会津は近江出身のキリシタン大名が治めた国である。
では、岡山藩とキリシタンの関係がどうなのだろうか。
幼くして備前岡山藩当主となった池田光仲は、「政治手腕の幼さ」のため、岡山藩から鳥取藩に転封となり、代わりに従兄弟の光政が岡山藩に赴任した。
両者ともに名に『光』の文字を持つから、私はすぐに「旧約聖書のにおい」を感じている。
新約聖書でも、同じく神は光を好むはずだ。
日本の神輿を金箔でキラキラ飾るのも、ほぼ同じ風習による。
光仲の伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺は、家臣団によって岡山から鳥取に移されている。
その寺の宗派が少し臭う。
長崎に来日した中国人たちが、自分たちが禁令に触れるキリシタンではないことを証明する目的で日本に作ったという黄檗宗なのである。
一応、禅宗のひとつである。
岡山から鳥取へ移された菩提寺の名は興禅寺といい、幼い池田光仲が開基である。
『興禅寺 本堂 所在地 鳥取県鳥取市栗谷町10
山号 龍峯山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永9年(1632年)
開基 池田光仲
文化財 キリシタン灯籠(鳥取県保護文化財)
書院庭園(鳥取市名勝)
興禅寺(こうぜんじ)は鳥取県鳥取市に所在する黄檗宗の寺院。山号は龍峯山。
鳥取藩主池田家の菩提寺である。
歴史
寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まる。
この際には臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より広徳山龍峯寺と名乗っていた。
その後、住職は黄檗宗への転向を願い光仲はそれを認めた。
しかし、妙心寺はこれを不服とし転向を認めず、両者間で争議が起こった。
結局、光仲が没した後に寺号を返納する事で和解が成立した。
元禄6年(1693年)に光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)寺号が妙心寺に返納された。
こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が龍峯山興禅寺と改められた。
その後、藩により興禅寺の隣地に再び龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された。
池田家の菩提寺ではあるが墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営された。
江戸時代は鳥取藩主池田家庇護のもと、仙台藩伊達家の大年寺、長州藩毛利家の東光寺と並んで黄檗宗の三大叢林として栄えた。
しかし、明治時代になり廃藩置県以後は藩の支援が途絶え、経済的危機に見舞われた。
このため、本堂の売却を希望し、火災で本堂を焼亡した兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に明治21年(1988年)に移築された。
現在の本堂は、鳥取藩主の御霊屋であった唯一現存する江戸期の建物である。
庭園
書院庭園久松山系の丘陵を生かして築山とし、麓に池、その対岸に書院を配する書院造の蓬莱山水・池泉鑑賞式庭園で、作庭時期は江戸時代初期と推定されている。『日本庭園史大系』において重森三玲・重森完途が「絵画的表現美を誇る意匠」、「山陰を代表する名庭の一つ」と絶賛している。
文化財 [編集]
尾崎放哉の句碑寺の周辺はキマダラルリツバメ(国の天然記念物)生息地に指定されている。
キリシタン灯籠
書院庭園の西の隅にあり、十字架の彫刻が見られることからキリシタン灯籠の名が付いた。鳥取県保護文化財。』
(興禅寺 (鳥取市)(Wikipedia)より)
光仲の開いた黄檗宗寺院に、鳥取県保護文化財となっているキリシタン灯籠がある。
これで池田光仲がかつて治めていた岡山藩にもキリシタンにつながるものがあることがわかった。
会津、萩、岡山ともに、キリシタンの存在が濃い地域である。
その会津からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子がプレゼントされて、ここ松陰神社に植えられている。
鳥取藩主池田家は、仙台藩伊達家と長州藩毛利家(東光寺)と並び、黄檗宗の三大叢林と呼ばれていた。
黄檗宗に関して、鳥取藩と長州藩は同じくらいの重要な位置を占める藩だった。
仙台藩は、スペインへキリシタン支倉常長を派遣しており、江戸初期にはほぼ公然とキリシタン信仰を続けていた。
幕末の戊辰戦争では、会津と長州が戦火を開くことにおいて、仙台は重要な役割を演じている。
奥羽鎮撫府下参謀である長州藩士世良修蔵を滅多斬りし、旅籠の二階から追い落としている。
『(世良修蔵は、』仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。
2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。
世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。』(「世良修蔵(Wikipedia)より」
世良の斬首は、会津の歴史を大きく変換してしまった。
そう仕組んだ結果ともいえる。
木戸孝允はそれを誰に依頼されたのか?
池田屋事件では、「新政府での総理大臣候補第一人者」と目されていた松門三秀の一人、吉田稔麿が池田屋へ救援に向かう途中、会津藩士数名に切り殺されたという説がある。
それが事実であれば、松陰の子飼いの門弟を殺された恨みは長州人には残っただろう。
稔麿の死は、松陰が理想としていた新生日本国の死でもあった。
長州藩と仙台藩は黄檗宗関係で人的つながりはある。
幕末の仙台藩には、会津藩に恭順を薦める派閥と武断を薦める派閥と、両方あった。
長州の木戸孝允が仙台藩の武断派と結託して、会津が武断へと進まざるを得ない状況に追い込んだ可能性もある。
長崎では、黄檗宗寺院が日本に上陸した中国人キリシタンたちの隠れ蓑として機能した。
その線でつないでいけば、長崎、長州、仙台、鳥取、岡山に濃い人的つながりは出てくる。
『1623(元和9)年創建されたわが国最初の唐寺である。
あか寺、南京寺とも呼ばれる。
1620(元和6)年ころ、中国江西省の劉覚が長崎に渡来、彼はその後に剃髪して僧となり真円を名乗った。
同郷三江系(江南、江西、浙江)の欧陽の伊良林郷にある別荘地(現在の輿福寺の地)に3年間草庵を結んだ。
当時はキリスト教が禁止されていたが、渡来してくる唐人の中にキリスト教の信者も混じっていた。
このため唐船が入港したらすぐにキリスト教の信者かを厳しく問いただされた。
南京方面の船主達は協議の上、キリスト教との懐疑を晴すため、且つ海上神の菩薩を祀るため、また亡くなった唐人の供養のために、真円を開基の住持として寺院開基を奉行所に願出たところ許しを得て東明山興福寺を開創した。
諸船主からは寄進を受け船神媽姐堂を道立し、毎船持渡る処の船神媽姐の像を寺内に安置した。
輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)としては、欧陽雲台(唐通事陽氏祖)、何高材(唐通事何氏祖)、陳九官(唐通事潁川氏祖)、王心渠(唐通事王氏祖)などがいた。
真円に続いて、1632(寛永9)年江蘇省の出身である唐僧黙子如定が渡来して2代住職となると、本堂をはじめとする諸堂を建立し、寺観を大いに整えた。また黙子は、アーチ型の石橋である眼鏡橋を架けたことでも知られる。
黙子に続いて、1645(正保2)年浙江省の出身である逸然性融が渡来して3代住職となった。逸然は当時の日本仏教界の荒廃を憂いて、黙子や有力な檀越らと協議して、当時中国の黄檗山万福寺の住職であった隠元隆琦を招請し住持に推戴し自らは監寺に下った。このほか逸然は仏画や高徳画などを得意とし、長崎漢画の祖といわれている。
1655(明暦元)年隠元が東上すると、翌2年正月から4代目(中興二代)澄一道亮が住持を勤めた。
澄一が在任中の1663(寛文3)年のいわゆる「寛文の大火」で伽藍はことごとく焼失してしまった。
1686(貞享3)年澄一の後を経いで5代住職となった悦峰道章は山門(県有形文化財)や鐘鼓楼(県有形文化財)をはじめとする諸堂の再建を行った。
9代住職となった竺庵が宇治の黄檗山万福寺の13代住職となると、以後唐僧の渡来がなったので、和僧の大倫が監寺(かんす)となり、住職の代行をした。
以後も住職は空席とされ(唐三か寺の住職は唐僧に限られていた)、和僧が監寺を務める例が幕末、維新まで続いた。
興福寺はこのように臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の記念すべき地である。』(「興福寺(東明山 興福寺)」より)
http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/2100kofuku/2110kofukuji.htm
戦国時代の会津キリシタン大名蒲生氏郷の育てたキリシタンが、幕末にもいたはずだが、九州の有名なキリシタン大名大友宗麟の家臣団は、歴史舞台から消えたのか?
宗麟の血筋にあたる立花氏は、家紋に十字を入れて元気に活躍していた。
『祇園守とは、京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のことである。
八坂神社は全国にある祇園さんの本家で、京に夏を呼ぶ祇園祭で知られた神社である。
中略。
祇園守紋の由来には、三つの説がある。
すなわち祇園社の森の図案化、牛の頭部の図案化、キリスト教の十字架の図案化だが、いずれも決め手を欠いている。
いずれにしろ、牛頭天王や八坂神社への信仰から家紋として用いられるようになったことは間違いない。
祇園守紋は単に守紋ともいわれ、その図柄はクロスした筒が特徴である。
後世筒は巻き物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。
中略。
この紋を用いる近世大名で有名なのが、豊後の戦国大名大友氏の一族で柳川藩主立花氏である。
祖の立花宗茂は、薩摩島津氏との戦いにおける潔さ、また、朝鮮の役における碧蹄館の戦での大勝利が知られる。
本来、立花氏は杏葉紋を用いていたが、関が原の合戦後、封を失った宗茂は、数年の流浪の末に棚倉城主に返り咲くことができた。
正月の夜、夢の中に祇園の蘇民将来の守りを捧げた老人があらわれ、この守りをもって本国へ帰り給えといって守りを手渡した。
もともと宗茂は本国の柳川祇園社を深く信仰していたことでもあり、祇園天王の夢のお告げかもしれないとありがたくおもっていたところ、将軍家より旧領柳川を返し与えられたのであった。
喜んだ宗茂は祇園天王の加護に感謝して祇園守を家紋とするようになったのだという。
柳河藩立花氏のものは、とくに「柳河守」とよばれ、中心に二つ巴が入っているのが特徴になっている。
●ヤソ教(キリシタン)との関係は如何
その他、大名家では備前岡山と因幡鳥取の両池田氏が用いている。
池田氏は清和源氏頼光流を称し、本紋には輪蝶を用い、副紋として守を用いた。
松浦静山の著した『甲子夜話』に、ある日、静山が池田家の分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒を尋ね、ヤソ教関係のものではないのかと聞いた。
すると松平氏は由緒のことはよく知らないが、我が家では天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えた。
つまり、天王ではなく天主であったと。
これから推せば祇園守紋は、ヤソ教の十字架を家紋として意匠化したものということになる。
立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大名として知られ、宗茂も少なからず影響を受けたかもしれない。
一方の池田氏はキリシタンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いたことが知られている。
加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。
同紋は、別名中川久留守といわれるように十字架を象ったものであった。
同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クルスを象ったものという。
さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用いたが、これもキリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている。』
(「名字と家紋column(祇園守)」より)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html
柳川藩主立花氏は幕末の水戸学成立に貢献している。
明滅亡に際して明は徳川家康に軍事援助を何度も要請し、その都度断られている。
その救援要請者であった明の遺臣朱舜水が長崎へ亡命してきたとき、柳川藩主立花氏が保護し、かつ水戸徳川光圀へ朱を預ける手配をしている。
朱は水戸光圀の江戸別邸へ移り住み、そこで歴史編纂を手伝った。
その場所は、現在の東大農学部正門の左奥であり、今もそこに朱の住居跡を示す石碑が立つ。
大日本史編纂事業に大きく関わった人物である。
すなわち、水戸史観の形成に影響を及ぼしている。
立花氏は十字デザインの家紋を用いていたが、備前岡山の池田氏も副紋として祇園守を使用していたという。
図柄は以下のサイトに掲載されている。
「祇園守紋」(備前池田氏の副紋)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html
「能勢氏 切り竹矢筈十字紋」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html
松浦静山が池田家分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒はヤソ教関係のものではないのかと聞いたところ、松平氏は我が家では(牛頭)天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えたという。
つまり、天王ではなく天主(キリスト)であったと示唆したのである。
松浦静山は、肥前国平戸藩の第9代藩主「松浦 清」(まつら きよし)のことで、静山は号である。
平戸は、松陰も山鹿素行の末裔の平戸藩家老「山鹿万介」に兵学を習いにいったところだが、キリスト教会と仏教寺院がすぐ隣に建っているような宗教環境の町である。
ザビエルは鹿児島から、長崎を経て、まもなく平戸へ入っている。
一時期は長崎よりも平戸の方が布教は進んだのではなかっただろうか。
平戸はそういう歴史を持つ藩である。
松浦静山が上手に「天主」の話へと池田氏親族を誘導した可能性もある。
キリシタンたちにとって、戦国~江戸期の平戸の藩主は、ただの西洋かぶれの殿様ではなかった。
摂津能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」であり、東京・本所のある寺の門扉に見られる。
一度見に行ったが、十字架のように私には見えた。
檀家もそれをたぶんに意識して門をくぐるのであろう。
海舟が犬に睾丸を噛まれて瀕死の重傷を負ったときに、父が子の快癒を祈願した寺である。
勝海舟も隠れキリシタンだったのだろうか。
それより、興味深いのは、松浦静山の孫娘慶子のことである。
『(松浦)清は17男16女に恵まれた。
そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。
つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。』(松浦静山(Wikipedia)より)
松浦静山は孝明天皇の外祖父であった。
孫娘を通じて皇室内部にも通じている人物だといえよう。
彼は忠臣蔵にも登場する「武断を激しく好む大名」である。
ヒトの全身に塗れば、おそらく痙攣を起こして致死する猛毒サフロール(safrol)は樟脳赤油から得られる。
白沢博士は欧州留学の2年後に、樟脳油の研究で林学博士号を取得し、中国の曲阜からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子を日本に持ち込んだ。
その種子から育った「楷(かい)の木」が、松陰神社境内に植えられていた。
それが会津藩からの贈り物なのである。
安政3年 (1856) 江戸森田座初演の、三代目瀬川如皐・三代目桜田治助合作『新臺いろは書初』(しんぶたい いろはの かきぞめ、新字体:新台〜)の十一段目に、山鹿流陣太鼓を叩いて赤穂浪士に討ち入りを催促する松浦侯が登場する。
松陰が東北遊歴の旅に出発したのは、討ち入りの日(12月14日)だった。
晋作の奇兵隊が功山寺で決起したのは12月15日未明だったが、晋作の予定では14日決起のつもりだった。
松浦藩主は、日本の歴史的事件において、絶妙のタイミングと役割で「ちょっとだけ」顔を出す。
大石内蔵助も吉田松陰も、山鹿素行の兵学を学んでいる。
江戸末期には山鹿素行の末裔「万介」は、平戸藩家老として幕末の勤皇の志士たちに兵学を伝えている。
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