坂の下の家~長州(38) [萩の吉田松陰]

SH3B0121.jpgSH3B0121松本護国山麓団子岩椎原霊園(上の森の中に玉木家祖先と松陰は眠る)
SH3B0122.jpgSH3B0122坂の突き当たりが初代松下村塾(玉木家旧宅)
SH3B0054.jpgSH3B0054玉木家旧宅へ

松本護国山麓団子岩にある松陰生誕地の樹々亭跡を去る。
右手に椎原霊園を見ながら坂を下る。

樹々亭にも椎木があり、少年杉虎之助(松陰の幼名)も父と椎の実を拾った。
霊園の上にこんもりした森が見えるが、これも椎の実み林であろう。

その森の中に玉木家祖先の墓があり、それは大名クラスが用いる五輪塔の墓石だった。
松陰は、玉木家の末裔かその重臣の子孫であろう。

虎之助が樹々亭から歩いて私塾松下村塾へ通った坂道を私も下っていく。
坂が緩やかになったところで三叉路に出会う。
そこが玉木文之進の初代松下村塾だった。

虎之助の母お滝(杉滝子)は、この玉木家宅で塾生たちの世話を焼いていた。
安田辰之助(のちの山県半蔵)もこの最初の松下村塾で虎之助と一緒に学んだ。

山県半蔵は藩主名代として幕府の人質だったのが解放されるという幸運にめぐり合い、後に出世して家老の宍戸姓を賜り、名を「たまき」と称したのは面白い。
半蔵も玉木一族の出身だったのであろう。

前の記事でこう書いた。

『「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。
それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。』

あくまで私の想像である。
公家としては、三条実美までは柳井の西本願寺派僧月性の私塾「清狂草堂」の扁額を見てたどり着くことができた。
三条実美がキリシタンと関係があったかどうかはわからない。

「清狂草堂」とは、「狂える草莽」たちが、いかにも育ちそうな名である。
仙台藩士たちに滅多切斬りされた世良修蔵は、「清狂草堂」で育っている。
会津藩全滅への協奏曲は、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退し、品川の代わりに世良修蔵が就任したところから始まっている。

東北で混乱をおこさせるために、調整能力の低い人材に敢えて替えた節がある。
いったん朝廷から出された奥羽鎮圧軍関係人事の発令を拒絶するということは、よほどの外圧か高位の者からの差し金があったのであろう。

人選入れ替え作業そのもは木戸孝允の仕業であり、世良を選定したのも木戸だと思う。

そういえば高杉晋作の号は東行ともいうが、または東洋一狂生とも言い「狂」の字を含み、山県有朋も名前として狂介を名乗っていた。

三条実美は長州側、攘夷派では確かに位が高いが、しかし、京都の権力中枢の中では三条家は摂関家にも入いれないほど低いとも言えよう。

つまり孝明天皇のもとで繰り広げられている権力闘争は、一面摂関家の間の抗争でもあったはずだ。

が、その日本革命計画の罪は歴史の表側では三条以下7名の公家たちに背負わされた格好になっているから、摂関家の中の罪人は存在していても表には出ていない。

それが実は革命の首謀者であるはずで、その人物は安政の大獄後も生存しているとすれば、実質的に明治新政府の実権を握ることができたはずである。

真の革命功労者なのだからだ。

摂関家の中に真犯人(攘夷派から見れば神のごとき英雄男児)はいる可能性が高いが、それは北朝方の摂関家だけではない。

南朝方として世が世なら摂関家筋に当たる人物ならば、明治時代の天皇が南朝方に替わった(フルベッキ写真論争)とすれば、明治以後は必ず復権しているはずである。

摂関家に関する詳細な資料はネットでは入手が難しいし、それは仮にあったとしてもある意味で厳重に秘匿されていることだろう。

私の推理する「皇室や公家の中の人物」とは、そういう意味を含めたものだから、表の歴史資料からそれをあきらかにするのはおそらく困難だろう。

それが実在するとするならば、安政の大獄で宮中での捕縛該当者がいたはずで、その人物が安政の大獄の第一号捕縛者となろう。

しかし、権力中枢家の出自なのだから、天皇の許しを得て免罪された可能性がある。

井伊直弼の権限も、そこまでは及ばなかったという意味で、雲浜が捕縛第2号の名誉を与えられた可能性がある。

その場合、捕縛第2号は雲浜だと主張するのみとなり、第1号の氏名は秘匿されてしまうから、中途半端な歴史叙述になってしまう。
つまり、雲浜が第2号といわれたり、第1号といわれたりする。

NO2の梅田雲浜から大々的に逮捕し、毒殺、病死や斬首刑など、それ以下の身分のものを派手に粛清したものと推定する。

身分といえば、松陰の方が罪は重いのだが、身分が高いので待遇の良い野山獄へ入れられ、足軽の金子は身分が低いゆえに岩倉獄へ入れられた。
そのせいで金子は病死に至っている。

高貴な人ほど、罪の重軽に関係なく免罪される仕組みが日本にはある。
現代社会においても、それに似た現象はある。

企業犯罪が明るみに出たときに、主犯者は免罪秘匿され、中間管理職が刑務所送りになる。
「とかげの尻尾切り」という世論制御の知恵である。
たとえ尻尾であって、「切った」姿を見せれば、世論は収まる。

公家の尻尾の中でも、三条実美は最も位が高かったと言えるが、胴と頭の部分は闇に包まれたままなのである。

一方、玉木家の周囲には公家の末裔も住んでいたはずだ。
大内義隆とザビエルを慕って、当時は京都から大勢の貴族が山口(萩ではなく現在の山口市)へ来ていた。


『大内文化(おおうちぶんか)とは、室町時代の山口を中心とする文化を指す用語。
大内氏第9代当主大内弘世(1325年- 1380年)が京の都を模倣し街づくりを行ったのを発端とする。
第14代大内政弘(1446年- 1495年)が文化を奨励し、第16代大内義隆(1507年- 1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって北山文化・東山文化と大陸文化を融合させた独自文化が隆盛した。
多くは戦火で焼失しているが、瑠璃光寺五重塔や雪舟庭は現存しており大内文化を代表する建築物となっている。

概要
南朝から北朝へ帰順し、周防長門両国を統一した大内弘世は第2代将軍足利義詮に謁見するため、1363年に上洛した。

この時、京と山口の地形が似ていることから山口を「西の京」とすべく大路・小路といった京風市街整備を行うとともに文化人を招いた。

室町中期以降の大内氏は日本一の経済基盤を有するようになり、その財力を頼る文化人や公家が戦乱で荒廃した京より多数来訪したことで末期は京をしのぐほど繁栄した。

当時の山口の繁栄ぶりはルイス・フロイスやフランシスコ・ザビエルの記述にもみられる。多くは戦乱の戦火で焼失した。

大内文化を支えた経済基盤
大内氏は広大な領国を支配していたが石高自体は突出していたわけではない。

しかし商業地博多・港町門司の支配や博多商人による貿易や銀山開発の運上益は莫大であり経済力は諸大名の中で突出していた。

大内氏は倭寇を取り締まることで明や朝鮮と私貿易を行い利益を得ていたが、後期には「日本国王之印(毛利博物館所蔵)」の通信符を用い対外貿易を行うようになる。

すなわち1468年成化の勘合、1523年正徳の勘合を手に入れ勘合貿易を独占すべく細川氏と争い(寧波の乱など)貿易独占権を手に入れた。

また、石見銀山の銀産出量を灰吹法の成功により飛躍的に増大させるとその量は世界の三分の一を占めた。

大内文化と勘合貿易
勘合貿易における主な輸入品と輸出品は以下のとおりである。

輸出品 - 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯
輸入品 - 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器

大内氏は主力輸出品を領内で確保しようと尽力している。
鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有していた。
寺尾鉱山などに精錬した遺構があり、精製技術を開発しこれらの産出を増やすことに努めていた様子が伺える。

また、大内塗、赤間硯、長州鍔の職人を保護、奨励することや文化人を招き庇護することはより質の高い輸出品を産出することにつながり、より多くの輸入品を手に入れることに繋がった。

大内氏は文治に傾倒し衰退したが、文化奨励は貿易を通じて大内氏の利益に還元される合理的システムになっていた。

また、大内氏は1346年頃から大部分を輸入に依存していた絹織物の国内生産にも尽力し、絹普及と後の西陣織や博多織に大きな影響を与えた。

幻の鉄砲伝来
種子島銃の伝来前から明との交易により鳥銃と呼ばれる火縄銃が伝来していた。
しかし、大内氏は鉄砲の量産よりも輸出品の増産に努めており普及しなかった。』
(大内文化(Wikipedia)より)

山口に来ていた文化人代表の公家たちは、大内滅亡で京都へ帰ろうにも京都は戦争で荒れ果てて戻る場所も生活のあてもない。
道端に人の死骸がごろごろしていた。

インドネシアの人食い人種の住むジャングルへ分け入り布教をしてきたザビエルですら、京都の戦争での荒放題を見て、布教をそこそこに京都滞在をあきらめて山口へ戻ったくらいである。


仕方なく山口に住み着いた公家たちも多かったに違いない。

玉木家は、大内家遺族とそれらの公家を包含する家だったような気がする。

先ほどは先客がいたので、玉木家旧宅へ上がらずに通過した。
帰りには空いているだろうから、勝手口の受付へ顔を出してみることにしよう。

できれば、初代松下村塾の座敷に上がってみたい。

至福~長州(37) [萩の吉田松陰]

SH3B0118.jpgSH3B0118松陰と金子重之助の銅像
SH3B0119.jpgSH3B0119二人の銅像の位置から萩市街を眺める

「コノハナ」の石碑のところから階段を上って、二人の銅像のところへ向かう。
二人の銅像は、松陰と金子重之助だった。

金子重之助はしゃがんだまま、立ち姿の松陰を見上げている。

ペリー2度目の来航嘉永7年(1854年)1月のある深夜、松陰は長州藩足軽・金子重之助とともに静岡県下田沖に停泊中のペリーの艦隊に伝馬船で漕ぎ着き、米国密航を申し入れたが失敗した。

江戸の獄から囚人として帰国し、萩の野山獄に幽囚された。
身分の異なる金子は、野山獄の道路向かいにある岩倉獄に入れられた。

待遇の悪さを心配した松陰は、金子も野山獄へ入れろと主張したが聞き入れられず、金子は岩倉獄で病没した。

『金子 重之輔(かねこ しげのすけ、天保2年2月13日(1831年3月26日~安政2年1月11日(1855年2月27日))は幕末の長州藩士である。名は貞吉。別称に卯之助、直三郎、重輔。渋木松太郎、市木公太という変名を用いた。

長門国阿武郡紫福村 商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。
幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。

同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。
嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国の東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。

鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。
日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。

その後、幕吏によって萩へ送還され安政2年(1855年)、士分以下の者が入る岩倉獄で病没した。』(金子重之輔(Wikipedia)より)

司馬遼太郎の小説などを読み、足軽の青年が松陰思想にほれ込み、渡海を決意したくらいにしか感じていなかった。

長門国阿武郡紫福村の商人のせがれが、幕末に『鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。』という姿勢に疑問を感じる。

商人のせがれだけでは、なしえない思考であろう。
誰かの手助けがあったはずだ。

出身地は紫福村であり、「音」の類似性から「至福村」を連想する。

以前私は訪問したことがあるから、その意味はわかっていたが、念のためにgoogleで「紫福村」を検索してみた。

自治体ホームページの次に2番目に次の記事が登場してきた。

やはり金子は隠れキリシタンだったようだ。

『隠れキリシタン墓標群
掲載日: 2007年04月01日 / 担当: 観光課

長久寺「マリア観音像」
北巌山と号する。
明治4年、永巌山鉄心寺と北山見性院と合併し、見性院の寺地へ鉄心寺の建物を移築し、北巌山長久寺となる。
境内の中には子供を抱いた地蔵と観音の石像がある。
この観音の姿はさながらマリア観音像を彷彿とさせる。
さらに境内の奥まったところに一体の地蔵があり、手にした錫杖には十字が見られる。

三位一体像
室町時代、大内氏滅亡のあと戦乱の場となった山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてきたという。

さらに、江戸時代になると毛利の切支丹禁断政策により、信者はひっそりと、山里に隠れすんだといわれてます。

この路傍にある二基の苔むした墓碑の一基は三面一体となった像です。
合掌像や墓石の小窓の形に使われている三角形はキリスト教の奥義である三位一体をはのめかす何らかの象徴でしょう。

伴天連の墓
室町時代、大内氏滅亡のあと戦乱の場となった山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてきたという。
さらに、江戸時代になると毛利の切支丹禁断政策により、信者はひっそりと、山里に隠れすんだといわれてます。
鉄心寺跡には、伴天連墓と呼ばれる六角形の石憧(石灯籠に似せて造った六角形の墓石)があり、宣教師の墓と言われています。

キリシタン祈念地
1549年フランシスコ・ザビエルがキリスト教を布教するため来日し、大内義隆(1507?1551)の頃山口で布教活動をし、多くの人たちが信徒となりました。そしてザビエルが日本から去り毛利氏の時代となってからは、切支丹禁制の政策がとられ、宣教師を追放する等、キリスト教にとって厳しい時代となり、大半の信徒たちは山口の仁保あたりからここ紫福の山中に移り住んだといわれています。【1560年頃】

以来信徒たちはこの地でキリスト教の教えを守り至福の時を待ちながら、ひっそりと生活してきました。

この間、至福がなまって紫福になったとか、紫福を至福と呼んだとか、或いは近くの鍋山を至福の丘と言っていたとありますが何れも伝説となっています。

やがて時は流れ信徒たちの墓標も風雪にさらされる状態となりました。
そこで、この山腹の墓地を整備し「キリシタン至福の里・中山地区祈念地」としたものであります。』
(「隠れキリシタン墓標群」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10353

『室町時代、大内氏滅亡のあと戦乱の場となった山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてきたという。』に着目したい。

一般庶民のキリシタンはこの山奥へ隠棲し大内義隆の遺児や遺臣は松本村に居住したのであろう。

正確には川の近くに居住していたが、火災にあって松本村へ引っ越してきた。

ここ松本村は萩市街の東郊、田床山の山裾、団子岩と呼ばれる小高い丘にある吉田松陰誕生地の裏手である。

ここから萩市の北東にある笠山に向かうとき、途中の半島のくびれ辺りに萩越ヶ浜郵便局がある。すぐ傍には嫁泣港という変わった名の港がある。

その付近を萩市大字椿東というが、ホテルの観光案内によればそこにも「この花」の同じ句碑があるという。

『伊藤柏翠石碑(いとう はくすい)
更新 : 2010/11/15 15:21

萩市大字椿東にある伊藤柏翠石碑です。
高さ100センチメートル、幅140センチメートルの斑糲岩の石碑で表上部に句、

この花の 松陰を生み 志士を生む

が彫ってあります。

伊藤柏翠は本名を勇といい、明治44年(1911)東京浅草に生まれました。
昭和7年(1932)鎌倉にて病気治療中より句を作り始め、昭和11年(1936)高浜虚子に師事しました。
昭和56年(1981)から毎年萩に来て、萩花鳥句会を指導し、俳誌「花鳥」を主宰し発行しました。
句集「虹」「永平寺」「越前若狭」、随筆「花鳥禅」なども出版されました。

白木屋グランドホテルから車で45分の伊藤柏翠石碑を御覧に是非お越し下さいませ。』
(「白木屋グランドホテル ブログ一覧」より)
http://www.jalan.net/yad393948/blog/3.HTML

先の写真と瓜二つの石碑である。

この案内には、その石は斑糲岩だと書いている。
「はんれいがん」と読むことは既に紹介した。

高杉晋作の草庵の前にあった石碑がそれであった。

『萩に来て
 ふと おもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰  』

(「吉井勇歌碑 椎原(吉田松陰誕生地)」より)   
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/takuhon/html/021.htm

『五足の靴』のひとつ、吉井勇の歌碑だった。

『五足の靴』とは明治40年(1907)み新詩社主幹の与謝野寛と木下杢太郎(本名太田正雄)、北原自秋、平野万里、吉井勇の5人が九州のキリシタン遺跡を巡った時の紀行文の題名だった。

彼らの旅の目的は天草の大江天主堂でフランス人のガルニエ神父に会うことだった。

斑糲岩は、イタリアの工芸家が呼んでいた石材名gabbroに由来することは既に述べたし、イタリアはローマカトリックの「メッカ」である。

Gabbroを岩石名としたのは1810年のフォン・ブッフであるが、明治初期にはかすり模様
から「飛白石・カスリイシ」の訳も行なわれたが、1884年〈明治17年〉に小藤文次郎が斑糲岩という難しい訳語を作った。

斑糲岩の名が歴史の表舞台に登場したのは明治17年であるが、ザビエルや織田信長の頃から石材として使われ、製品となって日本にも輸入されていたかも知れない。

あったとしても、墓石や灯篭の石など隠れキリシタンの信仰の道具だったであろう。

萩市大字椿東にある伊藤柏翠石碑が斑糲岩でできているなら、写真を見比べる限り瓜二つの句碑であるから、松陰生誕地の崖裏にあるこの句碑も斑糲岩となる。

「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。

それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。

萩市大字椿東にある嫁泣港とは面白い命名である。

嫁が港で泣くのだから、異国から運ばれてきて泣く新妻なのか、日本から異国へ嫁に出すときに泣くのか、或いは最愛の夫が異国へ旅立つのを見送って泣くのか。

いずれもあった港なのだろう。

多々良氏すなわち百済の琳聖太子の後裔たちが最初に漂着した港はこういう日本海の荒波を沈める湾だったのだろう。

多々良氏は大内義隆の末裔であり、その遺児たちは萩で環家を名乗り、後玉木家を称したようだ。

松陰の墓のある椎原墓所の中で、一番大きく立派な墓は、「玉木家御祖之墓」だった。
その大きな墓を見て、正面右手が松陰生誕地で、左手に松陰の「松楓」の墓がある。

松陰は百済の琳聖太子の後裔だったのではないか。

「この花の」~長州(36) [萩の吉田松陰]

SH3B0115.jpgSH3B0115この花の 松陰を生み 志士を生む
SH3B0116.jpgSH3B0116あたりに花は見当たらない
SH3B0117.jpgSH3B0117二人の銅像
芍薬.jpg芍薬(Wikipediaより引用)

松陰の墓所の隣、高杉の草庵の道路向かいの斜面の上に、二人の銅像がある。
大方の銅像は一人であるが、この銅像は二人で人セットだ。

長い階段があり暑い最中に登るのをためらいたくなる。

階段上り口に石碑がある。
自然石の正面一部のみを平らにして、そこに文字を刻んだものだが、苔むしている。

「この花の 松陰を生み 志士を生む」

作者の名が書かれているが、崩して書いてあるので私には読めない。
私は日本人なのに、旧日本語体を読めない。

そばにある案内板に著者名と略歴がかれていた。

『伊藤柏翠(勇)(1911~1999)

高浜虚子に師事。俳人。
俳諧「花鳥」主宰。
日本伝統俳句協会副会長。

東京都浅草生まれ。
福井市在住。

昭和7年鎌倉にて病気療養中より作句現在に至る。
昭和56年より毎年来萩。
萩花鳥句会を指導。

句集「虹」「越前若狭」他』(抜粋終わり)

高浜虚子の弟子で俳人である。
俳諧「花鳥」主宰というから、松陰が俳句でもやっていたのだろうか。
いやいや、正岡子規は松陰の後の人で、高浜虚子はその弟子である。

強いて言えば、松尾芭蕉の俳句を松陰は好んでいたのだろうか。
あまりその手の話は聞かない。

石碑の周囲を見渡しても、「この花」らしき花は見当たらない。
私の目に見えるのは、羊歯(しだ)類の葉と、蕗(ふき)の葉と苔むした岩くらいである。

句碑に「松陰を生み」とあるが、松陰虎之助を生んだのは杉滝子である。
また、松陰を育てたのは玉木文之進である。
決して「花」ではない。

しかし、伊藤柏翠(勇)は、松陰や志士を生んだのは「この花」であるという。

神様の名に、それに似た名前がある。
「コノハナサクヤヒメ」である。

しかも、「サクヤヒメ」という花は存在する。

『サクヤヒメ
サクヤヒメ (咲耶姫 学名P. ×yedoensis Matsum. cv. Sakuyahime )はバラ科サクラ属の植物。
ソメイヨシノの実生種から作られたとされる桜。
名前はコノハナサクヤビメに因んでつけられた。

特徴
花は八重咲きで五枚の花弁が2~3重になる。
白から薄い桜色であり、中心部が若干赤い。
花が咲いているうちから葉が出てくる。
また葉の形はオオシマザクラに似る。』

「花が咲いているうちから葉が出る」のは、私が知っているものとしては山桜の特徴である。
あせって葉がすぐに出るから、山桜は「出っ葉」などと馬鹿にされるものであるが、「八重咲きで五枚の花弁が2~3重」とあるから、サクヤヒメは豪華さのある桜花で、山桜とは異なるようだ。

その名前は日本の神「コノハナサクヤビメ」からつけられたという。

桜花のサクヤヒメが松陰を生んだのか、或いは「コノハナサクヤビメ」が松陰を生んだのか。

俳句の名人は何を思い浮かべてこの句を詠んだのだろうか。

案内板の最後の方に書かれている句集名らしきもの、「越前若狭」を見たとき、私はふと梅田雲浜のことを思い浮かべた。
安政の大獄の捕縛者第1号である。

また伊藤も一時期越前福井に住んでいた。
鎌倉の療養所で知り合った森田愛子が福井港と東尋坊の間を南に注ぐ九頭竜川(くずりゅうがわ)の河口にある坂井市三国町の出身であり、昭和20年の戦争疎開のためにそこに住んでいた。

越前で伊藤柏翠は、松陰と梅田雲浜の関係の深さを知ったことだろう。
雲浜は松陰が目指した革命の経済的支援者であったということも。

井伊直弼は真っ先に雲浜を捕らえ、恐らくは毒殺し、そして松陰を斬首した。
倒幕の火を根絶やしするために、この二人はまずもって消さねばならなかったのだろう。

雲浜が安政の大獄捕縛第一号であることで、大老井伊直弼から見て、或いは徳川幕府から見て、最も危険な人物だったことがわかる。

その雲浜は、越前若狭国の生まれなのである。
伊藤柏翠の句集名「越前若狭」には、そういう意味も含まれているだろう。

『雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。

天保元年(1830年)、藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田氏を継いだ。

小浜で学んだ知識をもって、大津に湖南塾を開いている。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。

しかし嘉永5年(1852年)、藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて、藩籍を剥奪された。
翌年、アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。

しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。』
(梅田雲浜(Wikipedia)より)

私が調べた限りでは、この記事だけが「二人目の逮捕者」と書いていた。
もう一人雲浜の前に逮捕されたものがいることを匂わせているが、それはあとで述べる。

また、このWikipedia記事には、「幕政を激しく批判」したから雲浜は逮捕されたと書いている。
そんな生易しい罪名ではなかろう。

しかし、雲浜の最大の罪は、長州藩財政の重要な収入源を確立し経済支援をしていたことである。

藩主・酒井忠義の怒りに触れて、藩籍を剥奪されて浪人となった雲浜であるが、その後攘夷運動に傾倒し、当然のことながら尊王藩である長州・萩を訪ねている。

『弘化元年(1844)村田清風が退くと政権を担い、公内借捌の法により藩士の負債を軽減させたが、かえって藩財政の赤字が増大したことにより、責任を追及されて隠退する。

村田派の周布政之助による改革後、安政2年(1855)坪井の後継者である椋梨藤太とともに藩政に復帰し、藩政改革に着手する。

産物取立政策を実施し、のちに萩を訪れた梅田雲浜の意見を受け入れ、上方との交易を開始する。

その後、周布派の反対にあって羽島に流され、結党強訴の罪名により野山獄で処刑された。』
(「坪井九右衛門旧宅」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/shingoroad/38298565.html

長州藩では坪井九右衛門(つぼい くえもん)が、梅田雲浜の京都・大阪物産販売行を担当していた。

この人は経歴から見れば村田清風派(つまり松陰、晋作と同じ)だが、村田清風亡きあとは周布政之助と対立した構図の中に身をおいているように見える。

坪井の後継者が俗論党の椋梨藤太であることから、周布派により処刑されてしまった。

雲浜とともに、まずは長州の貿易を振興し、倒幕のための経済基盤を強化する仕事をしていた人物である。

どこかで長州藩内に「政治的なねじれ」が生じていたのではないか。

坪井の処刑は文久3年10月28日(1863年12月8日))である。

松陰の処刑がその4年前である。(安政6年10月27日(1859年11月21日))
さらにその4年前に村田清風が病死している。(安政2年(1855年))

しかし、晋作は慶応3年4月14日(1867年5月17日)の病没だから、まだ坪井の処刑時は生きていた。

松陰であれば抑えきれていた「もの」が、松陰亡きあとの晋作では抑えきれない「もの」が、萩に存在していた。

松陰の存在とは、それほどまでに大きかったのか。
いや、そうではあるまい。

松陰は「この花」が生んだのである。
「生まれた」のではない。
「杉滝子」からは、松陰は生物的に「生まれた」と言っていい。

しかし、松陰は「この花」が生み出したのである。
つまり、「この花」が作った機械ロボットに過ぎない。

「この花」が松陰を生んだのは、国家の大混乱を起こすためだった。
大混乱の中でなければ、「この花」の抱く野望は決して達成できないからである。

村田清風派であった坪井九右衛門は、「この花」の望むように大混乱の中で元の仲間たちから処刑されていた。

坪井九右衛門の最後を「Wikipedia記事」で見てみよう。

山口県選出の衆議院議員で、歴代総理や大臣の要職を継いで来ている岸信介、佐藤栄作兄弟、安部晋太郎、晋三親子と坪井九右衛門は血の濃い親戚である。
岸信介、佐藤栄作の父方の伯父に当たるのではないか。

『坪井 九右衛門(寛政12年(1800年)- 文久3年10月28日(1863年12月8日))は、日本の武士・長州藩士。名は正裕。子寛。号は顔山。

佐藤家(内閣総理大臣・岸信介、佐藤栄作兄弟の実家)に生まれ、幼少時に坪井家の養子になった。

経歴
村田清風の藩政改革に協力して功を挙げた。
清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。

しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界。
このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。

後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。』
(坪井九右衛門(Wikipedia)より)

「過激な一部の尊王攘夷派」が坪井を殺害している。
「この花」が生み出した「志士たち」である。

「この花」は、村田清風や松陰が生んだのではない「過激な志士」を萩に生んだ。

さて、この幕末の大混乱の首謀者の第一人者は、安政の大獄の第一号捕縛者とも言えよう。
しかし、大方の資料ではそれは梅田雲浜だと書いてある。

私が見た限りでは、Wikipedia記事だけが「雲浜は第2番目の逮捕者」だと書いていた。

Wikipedia記事のいう「第一番目」とは誰だったのか?

雲浜を指導した人物がいた。

『梁川 星巌(やながわ せいがん、寛政元年6月18日(1789年7月10日)~安政5年9月2日(1858年10月8日))は、江戸時代後期の漢詩人である。
名は「卯」、字は「伯兎」。
後に、名を「孟緯」、字を「公図」と改めた。通称は新十郎。星巌は号。

人物 [編集]
美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。
文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。
紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。

梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。

星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。

妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。

出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。

かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在の大垣の代表的文人とされている。

なお、大垣市立星和中学校の校名は、彼の名前に由来するものである。

星巌と妻紅蘭
星巌とその妻紅蘭はまたいとこにあたる。

江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾の様なものを開いた。
そこに通っていた中に紅蘭もいた(当時14歳)。
紅蘭は星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたと言われている。 星巌32歳、紅蘭17歳の年に結婚をする。

ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。

それから三年後、帰ってきた星巌を迎えた紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。

階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。


きざはしの前には芍薬を植え、座敷のうしろには當歸をまきました。
花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。
ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。

星巌の放浪癖はその後も変わらなかったものの、これ以降は当時としては珍しく、妻を同伴して旅をする様になったという。』
梁川星巌(Wikipedia)

梁川星巌の名は「卯」、字は「伯兎」である。

幼い頃の素直な気持ちでこれを眺めれば、日本人の脳内には因幡の白ウサギが浮かんでくる。

妻・紅蘭は
階前栽芍薬。堂後蒔當歸。
一花還一草。情緒兩依依。

「芍薬を植え、うしろに當歸をまきました。」

「花には私の姿をうつし、草には私の心を込めて。
ああ、私の想いは、この花とこの草に離れたことはありませぬ。」

そういえば、石碑の左手前には蕗(ふき)の葉があった。
ならば私が立つ石碑の表面が紅蘭の言う庭の「うしろ」になる。
すると私から見て石碑の裏側に芍薬の花があったのだろうか。

梁川星巌夫妻と伊藤柏翠夫妻に相似形が見られる。
根拠はないのだが、私には両夫婦が血縁者か思想的近親者であるように見える。

以下は私の推理だが、「この花」が最初に生んだのは「因幡の白ウサギ」であって、この梁川星巌だったのではないだろうか。

いや因幡の白兎ではなく、「稻羽之素菟」(『古事記』の表記の方が似合う。
素菟(しろうさぎ)の「素」は「ただの」という意味と、「裸の」という意味がある。

ただの人は素人であり、ただの兎は「普通の兎」である。
日本古来の野生のノウサギは白くなることはない。
白い兎とは外来種なのである。
人間に例えれば、ノウサギが古事記の時代からこの国に住む原始日本人である。
白兎は、帰化人になる。

しかし、海に浮かぶワニは何を意味するのだろうか。
海賊、つまり古代の倭寇集団のようなものがあったのであろう。
白い兎(日本にとっては外来)はワニを利用して島(日本列島)に渡ったが、裏切られて皮をはがれてしまったということにも見える。

渡来人には中国人、朝鮮人のほかに、ユダヤ人、ペルシャ(イラン、イラク)人などもいたはずだ。

シルクロード終点が奈良であることは異種文化の交流の中で日本文化が生まれたことを語ってくれるが、日本人という民族も、それらの混血の過程で作られていったのである。

萩・松本村に隠棲していた多々良氏つまり百済の琳聖太子の後裔たちが「この花」だったのではないかと思う。

以前この記事に私はこう書いた。

『大内義隆の先祖である大内氏の本姓は多々良氏である。
彼ら自身は、百済の琳聖太子の後裔であることを自称していた。

松陰にとって、毛利氏は本来の主ではなかったはずだ。』

松陰は「百済の琳聖太子の後裔」の家臣であったはずだ。
それは松陰の生誕地、杉百合之助の住居跡から眺める景色からわかる。

棕櫚の木のそばから指月山を毎日見つめることの意味は、「仇討ち」と「復権」である。
毛利氏と、その主君である徳川将軍を滅ぼし、この国の覇権を取り戻すことである。

若き日の松陰自身は毛利氏を主君と思っていただろうが、脱藩して東北遊行に出発した頃の松陰は既に毛利氏を主君とは考えなかっただろう。

伝馬町牢屋敷の29歳の松陰の目には、はっきりと「本当の主君」の顔が見えていただろう。

「この花」の顔が、見えていたのである。

「この花」が生み出した第一号は梁川星巌だったと私は思っている。
しかし、幕府の追及の手が及ぶと、星巌はあっさりと服毒したのだろう。

仕方なく、井伊直弼はその弟子の雲浜を捕縛した。

第一号捕縛者と第二号捕縛者の冠の両方を梅田雲浜が受け取っている理由は、そういうことではなかったのだろうか。

「この花の 松陰を生み 志士を生む」

この階段を上っていけば、そこに二人の銅像が見える。
その二人は、「この花」が生んだ「松陰ともう一人の志士」なのだろう。

この句がここにある意味は、とてつもなく大きい。
正岡子規の流れを汲む伊藤柏翠ならではの歌である。

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