晋作と菅原道真~長州(64) [萩の吉田松陰]

SH3B0238.jpgSH3B0238高杉晋作の事跡
SH3B0239.jpgSH3B0239高杉家の庭
SH3B0241.jpgSH3B0241晋作初湯の井戸

高杉晋作の事跡と書いた木版が掲げられているが、周知の事実は省略して最後の4行だけを抜粋する。

「屋敷は現在半分以下になっておりますが、庭内には毛利公碑、東行言志、高杉家鎮守堂、奥には初湯の井戸と東行歌碑などがあります。」(抜粋終わり)

先ほど入った玄関の門そばの石柱には、「高杉晋作誕生地」「高杉春樹旧宅」と刻まれていた。
春樹とは誰のことだろうか。
それは、晋作の父高杉小忠太の号であり、家禄二百石の萩藩士だった。

つまり晋作は春樹の嫡男であって、大組士の家柄を継承したのだった。
病死の直前まで晋作は親孝行を遂げている。

松陰が当初久坂や晋作に求めたのは、命を捨てて決起することだった。

しかし、野山獄中で過激な勤皇倒幕志士へと生まれ変わっていく師匠からの命令に従わず、それぞれのチャンスのときを待った。

松陰は金子だけを共にして黒船へ密航を企てた。
それが師弟の運命を分けることになった。

途中、松陰の一番弟子ともいえる久坂は禁門の変における働きで師匠の後を追った。
晋作はそれでもまだ時期尚早と考えていた。

松陰は過激行動を躊躇する晋作ら弟子に向かって、許しの言葉を与えている。

そのことは、このブログに以前書いた。
「晋作の死所」を求める手紙の返事の下りを抜粋再掲する。

『(安政6年)7月、伝馬町牢屋敷に移った松陰は、晋作の死生観の問いに手紙で答えた。

『松陰は、弟子の高杉晋作から、男子たる者の死生観について問われ、以下のように答えている

死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。
道尽き心安ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

「道尽き心安ずるところ」が死所であるとしている。
求める崇高な目標を求める旅が終わり、平安の心が生まれるところとでも言うのだろうか。

当然のこととして、松陰は『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。』を選ぶだろう。

しかし、晋作は師の言葉にある『生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』を取ったものと思われる。
松陰はそうするように晋作にほのめかしたようである。

松陰のような過酷な思想教育を受けた人間は、一人しかいない。
松陰は自分の選ぶ道を他の人間が辿れるとは思っていなかっただろう。

久坂さえ、完全には松陰をトレースできずに最後は切腹をしている。
松陰なら、決して切腹を選ばなかっただろうと私は思う。
あらゆる戦略を駆使して、戦って戦い抜くはずだ。

黒船密航の松陰の行動を見れば、そう予想できる。
櫓が壊れてしまって、兵児帯や褌で魯を固定して漕いで、ペリー艦隊の旗艦へたどり着いているのである。

太平洋の夜の風雨の中で実際にカッター船などを漕いだことのある人なら、それがどれほど困難な行為であるかわかるだろうが、多くの農耕民族である日本人にはよくわかっていない。

「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」と師に言われた1ヵ月後(8月23日)、晋作は久坂玄瑞に対して「攘夷には富国強兵が必要」と手紙に書いている。

この「富国強兵」は、当時の武士が藩を『国』と見ていたのだから晋作も長州藩を「国」として富国を主張したものである。

しかし、後に上海に渡ってからの晋作の脳裏には、日本国という概念がはっきりと見えてきたはずである。

革命後の新政府で晋作がやるべき「大業の見込み」の種は、この江戸留学で得られたと言えよう。

恩師松陰は、そのわずか2ヵ月後に江戸伝馬町の座敷牢で斬首された。
それは安政6年(1859)10月27日(1859年11月21日)のことであった。

武士としての最低限の礼儀である切腹さえ許されない、惨めな罪人としての恩師の最後だった。

松門四天王たちの断腸の思いは、切腹した主君を持つ赤穂浪士よりも強かったことだろう。

『(松陰は、)9月5日、10月5日、16日に尋問を受けている。
この16日の尋問で供述内容をめぐって奉行らと論争になった。

この紛議以降松陰は自らの刑死を確信する。

最後の書簡は10月20日(父・叔父・兄宛)である。
その中に 「親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん」 

そして、かの有名な留魂録は25日に書き始められる。』
(「長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/bochoshisya-1.htm』(抜粋再掲終わり)

高杉家の庭は小ぢんまりしているが、昔はこの2倍の屋敷の広さだったから、庭もこの倍の広さだと想像すべきだろう。

座敷正面に晋作の「初湯の井戸」があった。

山口の大内義隆の屋敷跡のすぐ近くに井戸がある。
名をザビエルの井戸という。

今でも観光スポットとして井戸の姿と案内板があり、その周囲は一面が楓の葉でうずめられている。

おそらく秋の11月下中には、その井戸は血色の空のごとく頭上を覆う楓葉で彩られることだろう。

そこが、あのザビエルが山口で布教を行った場所である。

キリスト教徒にとって、井戸は神聖なものを意味する。
生まれてまもない幼子に洗礼を授ける際に、幼児の額に水滴を垂らす。
その水の出所が井戸なのである。

聖なる井戸と言える。

この高杉家に残る晋作が初湯を浴びた井戸が何を指すのか私にはわからない。

日本古来の初湯信仰というものがあるのかどうか。

京都の上京区に「菅公初湯の井戸」という観光名所がある。

『初湯の井戸について
この井戸は道真公(845年生)が初湯をつかわれた井戸です。
この井戸はその当時のままに残り現在にいたっております。
1,165年が経過いたしております。

外寸 百十センチ角、
深さ 約九メートル、
現在は涌いておりません。 社務所

◆上は初湯の井戸の上に書かれている説明をそのまま再録しました。
今は水は汲めませんが、水脈はあるので20メートルほど掘れば水は出るそうです。

菅公が好まれたという石灯籠が菅原院天満宮神社の境内に置いてあります。
菅公生誕地を主張する神社が京都市に3ヶ所、奈良に1ヶ所確認できていますが、探せばもっとあると考えられます。
飛梅も各所にあります。』(「菅公初湯の井戸(京都観光上京区)」より)
http://www.kyotok.com/jin1032.html

私はふと菅原道真の洗礼のシーンを思い浮かべて見た。
日本の歴史は謎に満ちていてた大変面白い。

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