松陰生誕の地~長州(20) [萩の吉田松陰]
SH3B0066春は桜がきれいだろう(坂道にて)
SH3B0067椎原霊園の文字が壁に見える
SH3B0068右手に背の低いシュロ木がある公園
坂道は急になっていく。
サンダルの擦れたあとが皮がはがれて赤くなり、ヒリヒリしてくる。
サンダルの紐を少し緩めて、ぺったんぺったんと不揃いな歩行になっている。
街道歩キニストが聞いてあきれる。
伊藤博文旧宅の駐車場からまだ1kmほどしか歩いていないのに、もう豆を作ってしまった。
坂道右手にかなり古い桜の木が枝を道の上に広げている。
幼い頃の松陰も、春の時期にはこの桜を見て玉木家の塾へ通ったのであろう。
桜の木も松陰の時代から数えて2代目、3代目かも知れない。
やがて坂道の傾斜がやや緩やかになってきた。
頂上か坂の踊り場に近づいたらしい。
正面左手の林の隙間から墓石がいくつか見える。
左手は墓場のようだ。
壁の上に「椎原霊園」と書かれている。
この地域を椎原というのであろう。
霊園を通り過ぎると、踊り場に至る。
右手に細長い公園が広がっている。
樹木に囲まれた涼しげな空間である。
芝生の公園には、木製のベンチと椅子のセットが二つ見える。
公園の入り口には背の低いシュロの木が植えられていた。
実は、ここが吉田松陰の生家跡なのである。
家屋はというと、現在の松陰神社境内へ移築し復元されている。
ここには何もない。
玄関脇のシュロの木だけが残っている……と、私は感じた。
うっかり移植を忘れたのではないだろう。
確信を持って、この地に置き捨てて言ったに違いない。
ここにシュロの木があって初めて、その意味を表すのである。
墓場のある場所、そういう場所に杉家はあり、そこで松陰は生まれ育ったのである。
SH3B0067椎原霊園の文字が壁に見える
SH3B0068右手に背の低いシュロ木がある公園
坂道は急になっていく。
サンダルの擦れたあとが皮がはがれて赤くなり、ヒリヒリしてくる。
サンダルの紐を少し緩めて、ぺったんぺったんと不揃いな歩行になっている。
街道歩キニストが聞いてあきれる。
伊藤博文旧宅の駐車場からまだ1kmほどしか歩いていないのに、もう豆を作ってしまった。
坂道右手にかなり古い桜の木が枝を道の上に広げている。
幼い頃の松陰も、春の時期にはこの桜を見て玉木家の塾へ通ったのであろう。
桜の木も松陰の時代から数えて2代目、3代目かも知れない。
やがて坂道の傾斜がやや緩やかになってきた。
頂上か坂の踊り場に近づいたらしい。
正面左手の林の隙間から墓石がいくつか見える。
左手は墓場のようだ。
壁の上に「椎原霊園」と書かれている。
この地域を椎原というのであろう。
霊園を通り過ぎると、踊り場に至る。
右手に細長い公園が広がっている。
樹木に囲まれた涼しげな空間である。
芝生の公園には、木製のベンチと椅子のセットが二つ見える。
公園の入り口には背の低いシュロの木が植えられていた。
実は、ここが吉田松陰の生家跡なのである。
家屋はというと、現在の松陰神社境内へ移築し復元されている。
ここには何もない。
玄関脇のシュロの木だけが残っている……と、私は感じた。
うっかり移植を忘れたのではないだろう。
確信を持って、この地に置き捨てて言ったに違いない。
ここにシュロの木があって初めて、その意味を表すのである。
墓場のある場所、そういう場所に杉家はあり、そこで松陰は生まれ育ったのである。
「しげつざん」か「しづきやま」か~長州(19) [萩の吉田松陰]
SH3B0062石垣にシュロの若木
SH3B0063木の上に指月山(萩城)が見える
SH3B0064竹やぶ(シュロは見当たらない)
SH3B0065孟宗竹
石垣の上にシュロの若木が生えていた。
昔あったシュロの木が伐採されて、わずかに残存している苗か種が若芽を出したのであろう。
坂道は桜の木がまばらにあるが、竹やぶもある。
竹は孟宗竹である。
「孟」の字で思い出したが、松陰は号であるが、別の号で「二十一回猛士」ともいう。
『幼時の名字は杉(本姓不明)。
幼名は虎之助。
吉田家に養子入り後、大次郎と改める。
通称は寅次郎。
諱は矩方(のりかた)。
字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。
松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。
また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。』
『名字は杉(本姓不明)』と書いてあったが、姓がなかった可能性もあるだろう。
つまり士族ではなく農民か足軽以下のような存在だったのであろうか。
「訳ありの杉家」という印象を持つ。
もし大内義隆の遺児が山口を逃れ、玉木氏(環氏)となって萩の山奥に隠れたとすれば、その大内氏遺臣たちは農民に身をやつしながら御曹司の再起を支えて生きてきた可能性があるかも知れない。
関が原のあとで、広島から家康に追われて萩へやってきた毛利家家臣団たちは城下に住み、松陰や玉木家は城から数キロはなれた山すそに住んでいる。
高杉晋作も木戸孝允も、広島から移ってきた家臣団の末裔だろう。
坂道の左側の木々の上方に、遠く萩城を包む指月山(しづきやま)の頂(いただき)がのぞいている。
「しづきやま」と私は送り仮名を振ってしまったのだが、「しづきさん」の可能性があるため調べてみることにした。
萩城を別名指月城(しづきじょう)と読むことは以前から知っていたので、「しづき」にはかなり自信があった。
しかし、調べてみると、何と「そこ」がぐらつき始めた。
『すなわち、「指月」という山名は、川島にある善福寺が築城以前にはこの地(指月山麓)にあって、山号を「指月山」といったので、それに基づいているのであるが、ただ、その当時、善福寺の山号を「シヅキ山」といったのか「シゲツ山」といったのかは知らない、とことわっている。
現在、善福寺の山号「指月山」は「しげつざん」と読むのであり、「しづきさん」と読めば、いわゆる重箱読みとなるので、そのようなことはなかったはずである。
少しややこしくなったので整理しておくと、山名の「指月山」は「しづきやま」と読むが、善福寺の山号「指月山」は「しげつざん」と読むということである。
ところで、「山号」について『岩波仏教辞典』には「寺名の上につけられる〈山〉の称号。中国で、寺の所在を示すために用いたのにはじまる。」とあるので、山の山名があって、それに基づいて寺の山号があるのが普通であるが、近藤清石は「指月山」についてはそうではないことを強調して「指月ノ山名アリテ、寺家ノ山号ニセシニハアラズ。開基翔天源ノ命名セシナルベシ。」といっているのは何故かというと、「指月」という言葉が仏教用語だからである。
仏教用語であるが故に善福寺の開山である翔天源(嘉吉元年〈一四四一〉没)が命名したに違いないと断言しているわけである。
しかし、翔天が山号を命名したのはわかるが、山名まで命名したかどうかは疑わしい。
事実、山号は「しげつざん」であるのに、山名は「しづきやま」であって読み方が異なっている。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
しかも毛利家が広島から引っ越してくる前から指月山という地名はあったということである。それも陶晴賢(すえ はるかた)が滅び毛利家を利するに功績があった吉見正頼の居城があった場所ということである。
吉見正頼は陶晴賢と戦った戦国時代の武将である。
『小京都として栄えた石見国津和野を舞台に、城主・吉見正頼が、西国無双の武将とうたわれた陶晴賢と、最後の生き残りを賭けて戦う歴史小説。
津和野城攻防戦を活写した臨場感あふれる物語。』
(「生き残りを賭けて―津和野城主吉見正頼の生涯(大草貫治 (著))より)
http://www.amazon.co.jp
陶晴賢の反逆により滅亡した大内義隆であるが、その遺児や遺臣団が吉見正頼の居城付近に住みついても不思議はない。
関が原の戦いで毛利が家康に敗れたあとは、毛利が指月山を占拠したため、玉木家や杉家などは、川を渡り山の麓へと移住してきたのであろう。
軽い気持ちで「指月山」の読みを調べただけだったが、深い謎へと入り込んでいくようだ。
しかし、そこに『吉田松陰誕生と斬首の秘密』が隠されているのかも知れない。
それは私の書く街道ブログの「主題」でもある。
『そこで山名を「指月山」としたのは誰であるかという謎に挑戦しなければならないが、善福寺の山号としてではなく、山名あるいは地名として出てくる「指月」について調べてみると、これまで最も古いと考えられたものに吉見正頼(一五一三~八八)の息女の死亡に関する記事が『防長風土注進案 二一』(山口県文書館、昭和三十九年刊)の鳴滝山妙性院(現 禅林寺)の項に、
往古吉見正頼様御代御女儀方之御菩提処ニ御建立、御法名見室妙性 大姉ト申候ニ付妙性庵ト被仰付、寺中ニ御石塔有之候、御位牌之裏ニ、 天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所ト御座候事
とある。
すなわち吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。
旧むつみ村の禅林寺に現存する石塔(墓)にも「妙性院殿」「吉見政頼息女」「萩津指月死所」「天正十三乙酉八月廿六日」の刻銘がある。
ところが、本年(平成十六年)十一月十一日に萩博物館開館と萩開府四〇〇年を記念して開催された特別展「毛利輝元と萩開府」で明らかとなった新資料に「吉見正頼銘文琵琶」(個人蔵)がある。
この琵琶の胴の内部にある墨書きの銘文に「天正八年庚辰 七月十九日長門萩之浦 於指月城下作也 吉見正頼」とあって、この琵琶が天正八年(一五八〇)に長門国萩浦の指月城下で吉見正頼によって作られたものであることが知られる。
正頼は石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(一六〇四)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けていたのであり、銘文中の「指月城」とは正頼の居館のことであろう。
恐らくこれが地名としての「指月」の初見と思われる。
また、文禄の役に出陣した吉見元頼の家臣下瀬頼直の陣中日記(『朝鮮渡海日記』山口県文書館蔵)に
天正廿年壬辰之日帳
三月八日ニ津和野を御立にて、(中略)九日晝程よりうちに、萩浦 御着被成、御船御覧候。(中略)夫過候て指月へ御着被成、諸給人寺 家社家殘らず御出候事
とある。
これは、豊臣秀吉が文禄の役をおこしたとき、吉見広頼の子元頼がこれに応じて、天正二十年(一五九二)三月八日に津和野を出発し、九日昼頃に萩に着き、指月の居館に着いて家臣や寺社家を引見したという記事である。
これらに見られる「指月」は、元亀元年(一五七〇)に津和野城主吉見正頼が家督を広頼に譲って萩の「しづき山」の麓に隠棲し、それ以来、吉見氏の居館が置かれていた場所の地名である。
このころ指月に吉見氏の居館が置かれていたのは、輝元が萩の指月に築城するまで萩地方は吉見氏の領地だったからに他ならない。
実は、陶晴賢が滅び周防、長門両国が毛利氏の手に入るのに吉見正頼の功績があったのであり、その功によって毛利元就から萩地方を含む阿武郡一帯を贈られていたのである。
いずれにしても、地名としての「指月」は吉見氏との関係で最初に出てくるのであるから、「しづき」という仮名の山名あるいは地名に、善福寺の山号である「指月」(シゲツ)という漢字を無理に(重箱読みして)当てはめたのは吉見氏ではないかと疑いたくなってくる。』
(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
私は吉見正頼の息女の菩提寺の名にある「妙性庵」の「妙」の字に釘付けになった。
京都・妙心寺の春光院(しゅんこういん)には、重要文化財の南蛮寺(なんばんじ)の鐘が保管されている。
織田信長の保護のもと、イエズス会を中心としたキリスト教の布教拠点として京都に南蛮寺が建立され、ポルトガルで鋳込まれた青銅製の鐘が置かれていた。
信長失脚後、キリシタン禁令の影響を受け南蛮寺は廃止され、妙法寺春光院が南蛮寺の鐘を引き取った。
一方、時代は下って徳川三代将軍の時代、大奥で女房たちにキリシタンと間違えられ将軍家光に告発されそうになったお奈(なあ)は、父であるキリシタン大名牧村利貞によって建立された京都・妙法寺の雑華院へ飛び込み得度を受け、そこで出家して祖心尼となった。
将軍徳川家光の禅の教師である祖心尼こそ、兵法学者「山鹿素行」を育てた女性である。
幕末の吉田松陰は山鹿素行の末裔に兵法を直接習ったが、山鹿素行自身は赤穂藩お抱え時代に大石内蔵助にも兵法指導をしている。
山鹿流陣太鼓は能や歌舞伎での創作だといわれているが、兵法指南をしたことは事実のようである。
また、織田信長を直接手を下して殺害したのは明智光秀の親族で重臣の斉藤利三といわれているが、その娘お福はお奈(祖心尼)の義理の叔母である。
お福は家康の子をはらむが、出産してから秀忠の子として育てたと言われている。
それが家光である。
お福は、実子でありながら「家光の乳母」として家光を育てたのだが、後に大奥の実権を握り春日局となった。
私の頭の中では、「妙」の文字一つで多くのキリシタン関係者の縁がつながっていく気がする。
或いは、吉見正頼の息女もキリシタンではなかったか。
陶晴賢の居城若山城は、萩とは反対側の瀬戸内海側にある。
瀬戸の海を見下ろす標高217mの若山に築かれた山城である。
若山城は廃城になっていて若山の山頂には天守閣跡を示す石碑しか残っていない。
しかし、山城への入り口付近に大きなシュロの木が幾本も並んでいるのを見たことがある。
その光景を見たとき、私は陶氏やその家臣団はキリシタンではないかと直感した。
陶氏の主人である大内義隆は、ザビエルを保護し山口での本格的キリスト教布教を保護した日本最初の大名である。
陶氏一族がいち早くザビエルの説教を聞き、家族や家臣たちの多くが洗礼を受けたことは想像に難くない。
しかも当時ポルトガル宣教師や商人と近づくことは、武将にとっては生き残りの条件でもあった。
硝石と鉄砲や大砲を輸入し、自らの軍事力を強化できるようになるのである。
その典型が織田信長である。
自らは信者にならずとも、家族や家臣の多くが信者になれば、火薬や兵器の流通経路を確立できる。
陶晴賢と吉見正頼の争いは、中国地方で覇権を目指す毛利を介してのキリシタン武将同士の戦いであったのではないか、と推理している。
吉見正頼の息女の菩提寺の名前にある「妙」の字が、私にそのきっかけを与えてくれた。
『毛利元就との戦いと(陶晴賢の)最期
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘で義隆の甥)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。
この時隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。
その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。
北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。
しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。
天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。
晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した。享年35。なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。』(陶晴賢(Wikipedia)より)
陶隆房は改名し後に晴賢と称したが、その「晴」の字は豊後(大分)のキリシタン大名大友宗麟の異母弟の名から取っている。
晴賢の軍備強化はどの流通経路を利用して行われたか?
私はポルトガル商人経由だろうと思う。
興味深いことだが、石見の吉見正頼の正室は、「大内義隆の姉」だった。
つまり、吉見正頼の居館でもあった萩の指月城(しづきじょう)は、亡命した大内義隆の遺児たちが辿りつけば彼らの仮住まいとなっていただろう。
そこは実の叔母の家である。
しかし、毛利元就が萩城に移封されてから、大内義隆の遺児たちは城から離れた場所へと移住しなければならなかったはずだ。
その場合、萩城から見て「川向こうの山すそ」へと向かうことになるだろう。
陶晴賢の指示で起こしたとされる「山田事件」のことは良く知らなかった、
これだけでいくつかの記事になるほど、奥が深い出来事のようだから別の機会に分析することにする。
『宗像正氏の正室の山田局と宗像氏貞の間で対立が起き、赤間山田の地に於いて陶晴賢の指示で、石松典宗によって山田局・山田局の娘で宗像氏男の正室の菊姫・4人の侍女が次々と惨殺された。
宗像氏の一連の内紛全体のことを宗像騒動という。』(山田事件(Wikipedia)より)
陶晴賢が主人の大内義隆を殺害したのは天文20年(1551年)のことである。
大内義隆、陶晴賢の時代は松陰の時代から300年も前の古い歴史である。
しかし、毛利氏を含めてこの三者は複雑に絡み合っている。
萩という山陰の片田舎から、なぜ日本革命を発火させるほどの偉人『松陰』が突然現れたのか?
私には300年の萩の歴史とそのことが無縁ではないと思われるのである。
SH3B0063木の上に指月山(萩城)が見える
SH3B0064竹やぶ(シュロは見当たらない)
SH3B0065孟宗竹
石垣の上にシュロの若木が生えていた。
昔あったシュロの木が伐採されて、わずかに残存している苗か種が若芽を出したのであろう。
坂道は桜の木がまばらにあるが、竹やぶもある。
竹は孟宗竹である。
「孟」の字で思い出したが、松陰は号であるが、別の号で「二十一回猛士」ともいう。
『幼時の名字は杉(本姓不明)。
幼名は虎之助。
吉田家に養子入り後、大次郎と改める。
通称は寅次郎。
諱は矩方(のりかた)。
字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。
松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。
また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。』
『名字は杉(本姓不明)』と書いてあったが、姓がなかった可能性もあるだろう。
つまり士族ではなく農民か足軽以下のような存在だったのであろうか。
「訳ありの杉家」という印象を持つ。
もし大内義隆の遺児が山口を逃れ、玉木氏(環氏)となって萩の山奥に隠れたとすれば、その大内氏遺臣たちは農民に身をやつしながら御曹司の再起を支えて生きてきた可能性があるかも知れない。
関が原のあとで、広島から家康に追われて萩へやってきた毛利家家臣団たちは城下に住み、松陰や玉木家は城から数キロはなれた山すそに住んでいる。
高杉晋作も木戸孝允も、広島から移ってきた家臣団の末裔だろう。
坂道の左側の木々の上方に、遠く萩城を包む指月山(しづきやま)の頂(いただき)がのぞいている。
「しづきやま」と私は送り仮名を振ってしまったのだが、「しづきさん」の可能性があるため調べてみることにした。
萩城を別名指月城(しづきじょう)と読むことは以前から知っていたので、「しづき」にはかなり自信があった。
しかし、調べてみると、何と「そこ」がぐらつき始めた。
『すなわち、「指月」という山名は、川島にある善福寺が築城以前にはこの地(指月山麓)にあって、山号を「指月山」といったので、それに基づいているのであるが、ただ、その当時、善福寺の山号を「シヅキ山」といったのか「シゲツ山」といったのかは知らない、とことわっている。
現在、善福寺の山号「指月山」は「しげつざん」と読むのであり、「しづきさん」と読めば、いわゆる重箱読みとなるので、そのようなことはなかったはずである。
少しややこしくなったので整理しておくと、山名の「指月山」は「しづきやま」と読むが、善福寺の山号「指月山」は「しげつざん」と読むということである。
ところで、「山号」について『岩波仏教辞典』には「寺名の上につけられる〈山〉の称号。中国で、寺の所在を示すために用いたのにはじまる。」とあるので、山の山名があって、それに基づいて寺の山号があるのが普通であるが、近藤清石は「指月山」についてはそうではないことを強調して「指月ノ山名アリテ、寺家ノ山号ニセシニハアラズ。開基翔天源ノ命名セシナルベシ。」といっているのは何故かというと、「指月」という言葉が仏教用語だからである。
仏教用語であるが故に善福寺の開山である翔天源(嘉吉元年〈一四四一〉没)が命名したに違いないと断言しているわけである。
しかし、翔天が山号を命名したのはわかるが、山名まで命名したかどうかは疑わしい。
事実、山号は「しげつざん」であるのに、山名は「しづきやま」であって読み方が異なっている。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
しかも毛利家が広島から引っ越してくる前から指月山という地名はあったということである。それも陶晴賢(すえ はるかた)が滅び毛利家を利するに功績があった吉見正頼の居城があった場所ということである。
吉見正頼は陶晴賢と戦った戦国時代の武将である。
『小京都として栄えた石見国津和野を舞台に、城主・吉見正頼が、西国無双の武将とうたわれた陶晴賢と、最後の生き残りを賭けて戦う歴史小説。
津和野城攻防戦を活写した臨場感あふれる物語。』
(「生き残りを賭けて―津和野城主吉見正頼の生涯(大草貫治 (著))より)
http://www.amazon.co.jp
陶晴賢の反逆により滅亡した大内義隆であるが、その遺児や遺臣団が吉見正頼の居城付近に住みついても不思議はない。
関が原の戦いで毛利が家康に敗れたあとは、毛利が指月山を占拠したため、玉木家や杉家などは、川を渡り山の麓へと移住してきたのであろう。
軽い気持ちで「指月山」の読みを調べただけだったが、深い謎へと入り込んでいくようだ。
しかし、そこに『吉田松陰誕生と斬首の秘密』が隠されているのかも知れない。
それは私の書く街道ブログの「主題」でもある。
『そこで山名を「指月山」としたのは誰であるかという謎に挑戦しなければならないが、善福寺の山号としてではなく、山名あるいは地名として出てくる「指月」について調べてみると、これまで最も古いと考えられたものに吉見正頼(一五一三~八八)の息女の死亡に関する記事が『防長風土注進案 二一』(山口県文書館、昭和三十九年刊)の鳴滝山妙性院(現 禅林寺)の項に、
往古吉見正頼様御代御女儀方之御菩提処ニ御建立、御法名見室妙性 大姉ト申候ニ付妙性庵ト被仰付、寺中ニ御石塔有之候、御位牌之裏ニ、 天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所ト御座候事
とある。
すなわち吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。
旧むつみ村の禅林寺に現存する石塔(墓)にも「妙性院殿」「吉見政頼息女」「萩津指月死所」「天正十三乙酉八月廿六日」の刻銘がある。
ところが、本年(平成十六年)十一月十一日に萩博物館開館と萩開府四〇〇年を記念して開催された特別展「毛利輝元と萩開府」で明らかとなった新資料に「吉見正頼銘文琵琶」(個人蔵)がある。
この琵琶の胴の内部にある墨書きの銘文に「天正八年庚辰 七月十九日長門萩之浦 於指月城下作也 吉見正頼」とあって、この琵琶が天正八年(一五八〇)に長門国萩浦の指月城下で吉見正頼によって作られたものであることが知られる。
正頼は石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(一六〇四)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けていたのであり、銘文中の「指月城」とは正頼の居館のことであろう。
恐らくこれが地名としての「指月」の初見と思われる。
また、文禄の役に出陣した吉見元頼の家臣下瀬頼直の陣中日記(『朝鮮渡海日記』山口県文書館蔵)に
天正廿年壬辰之日帳
三月八日ニ津和野を御立にて、(中略)九日晝程よりうちに、萩浦 御着被成、御船御覧候。(中略)夫過候て指月へ御着被成、諸給人寺 家社家殘らず御出候事
とある。
これは、豊臣秀吉が文禄の役をおこしたとき、吉見広頼の子元頼がこれに応じて、天正二十年(一五九二)三月八日に津和野を出発し、九日昼頃に萩に着き、指月の居館に着いて家臣や寺社家を引見したという記事である。
これらに見られる「指月」は、元亀元年(一五七〇)に津和野城主吉見正頼が家督を広頼に譲って萩の「しづき山」の麓に隠棲し、それ以来、吉見氏の居館が置かれていた場所の地名である。
このころ指月に吉見氏の居館が置かれていたのは、輝元が萩の指月に築城するまで萩地方は吉見氏の領地だったからに他ならない。
実は、陶晴賢が滅び周防、長門両国が毛利氏の手に入るのに吉見正頼の功績があったのであり、その功によって毛利元就から萩地方を含む阿武郡一帯を贈られていたのである。
いずれにしても、地名としての「指月」は吉見氏との関係で最初に出てくるのであるから、「しづき」という仮名の山名あるいは地名に、善福寺の山号である「指月」(シゲツ)という漢字を無理に(重箱読みして)当てはめたのは吉見氏ではないかと疑いたくなってくる。』
(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm
私は吉見正頼の息女の菩提寺の名にある「妙性庵」の「妙」の字に釘付けになった。
京都・妙心寺の春光院(しゅんこういん)には、重要文化財の南蛮寺(なんばんじ)の鐘が保管されている。
織田信長の保護のもと、イエズス会を中心としたキリスト教の布教拠点として京都に南蛮寺が建立され、ポルトガルで鋳込まれた青銅製の鐘が置かれていた。
信長失脚後、キリシタン禁令の影響を受け南蛮寺は廃止され、妙法寺春光院が南蛮寺の鐘を引き取った。
一方、時代は下って徳川三代将軍の時代、大奥で女房たちにキリシタンと間違えられ将軍家光に告発されそうになったお奈(なあ)は、父であるキリシタン大名牧村利貞によって建立された京都・妙法寺の雑華院へ飛び込み得度を受け、そこで出家して祖心尼となった。
将軍徳川家光の禅の教師である祖心尼こそ、兵法学者「山鹿素行」を育てた女性である。
幕末の吉田松陰は山鹿素行の末裔に兵法を直接習ったが、山鹿素行自身は赤穂藩お抱え時代に大石内蔵助にも兵法指導をしている。
山鹿流陣太鼓は能や歌舞伎での創作だといわれているが、兵法指南をしたことは事実のようである。
また、織田信長を直接手を下して殺害したのは明智光秀の親族で重臣の斉藤利三といわれているが、その娘お福はお奈(祖心尼)の義理の叔母である。
お福は家康の子をはらむが、出産してから秀忠の子として育てたと言われている。
それが家光である。
お福は、実子でありながら「家光の乳母」として家光を育てたのだが、後に大奥の実権を握り春日局となった。
私の頭の中では、「妙」の文字一つで多くのキリシタン関係者の縁がつながっていく気がする。
或いは、吉見正頼の息女もキリシタンではなかったか。
陶晴賢の居城若山城は、萩とは反対側の瀬戸内海側にある。
瀬戸の海を見下ろす標高217mの若山に築かれた山城である。
若山城は廃城になっていて若山の山頂には天守閣跡を示す石碑しか残っていない。
しかし、山城への入り口付近に大きなシュロの木が幾本も並んでいるのを見たことがある。
その光景を見たとき、私は陶氏やその家臣団はキリシタンではないかと直感した。
陶氏の主人である大内義隆は、ザビエルを保護し山口での本格的キリスト教布教を保護した日本最初の大名である。
陶氏一族がいち早くザビエルの説教を聞き、家族や家臣たちの多くが洗礼を受けたことは想像に難くない。
しかも当時ポルトガル宣教師や商人と近づくことは、武将にとっては生き残りの条件でもあった。
硝石と鉄砲や大砲を輸入し、自らの軍事力を強化できるようになるのである。
その典型が織田信長である。
自らは信者にならずとも、家族や家臣の多くが信者になれば、火薬や兵器の流通経路を確立できる。
陶晴賢と吉見正頼の争いは、中国地方で覇権を目指す毛利を介してのキリシタン武将同士の戦いであったのではないか、と推理している。
吉見正頼の息女の菩提寺の名前にある「妙」の字が、私にそのきっかけを与えてくれた。
『毛利元就との戦いと(陶晴賢の)最期
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、当時の豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟にあたる。生母は大内義興の娘で義隆の甥)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。
この時隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。
その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。
北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。
しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。
天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。
晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した。享年35。なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。』(陶晴賢(Wikipedia)より)
陶隆房は改名し後に晴賢と称したが、その「晴」の字は豊後(大分)のキリシタン大名大友宗麟の異母弟の名から取っている。
晴賢の軍備強化はどの流通経路を利用して行われたか?
私はポルトガル商人経由だろうと思う。
興味深いことだが、石見の吉見正頼の正室は、「大内義隆の姉」だった。
つまり、吉見正頼の居館でもあった萩の指月城(しづきじょう)は、亡命した大内義隆の遺児たちが辿りつけば彼らの仮住まいとなっていただろう。
そこは実の叔母の家である。
しかし、毛利元就が萩城に移封されてから、大内義隆の遺児たちは城から離れた場所へと移住しなければならなかったはずだ。
その場合、萩城から見て「川向こうの山すそ」へと向かうことになるだろう。
陶晴賢の指示で起こしたとされる「山田事件」のことは良く知らなかった、
これだけでいくつかの記事になるほど、奥が深い出来事のようだから別の機会に分析することにする。
『宗像正氏の正室の山田局と宗像氏貞の間で対立が起き、赤間山田の地に於いて陶晴賢の指示で、石松典宗によって山田局・山田局の娘で宗像氏男の正室の菊姫・4人の侍女が次々と惨殺された。
宗像氏の一連の内紛全体のことを宗像騒動という。』(山田事件(Wikipedia)より)
陶晴賢が主人の大内義隆を殺害したのは天文20年(1551年)のことである。
大内義隆、陶晴賢の時代は松陰の時代から300年も前の古い歴史である。
しかし、毛利氏を含めてこの三者は複雑に絡み合っている。
萩という山陰の片田舎から、なぜ日本革命を発火させるほどの偉人『松陰』が突然現れたのか?
私には300年の萩の歴史とそのことが無縁ではないと思われるのである。
松陰誕生地への最後の分岐(その2)~長州(18) [萩の吉田松陰]
SH3B0050玉木旧宅の前に立つ石柱
SH3B0051「吉田松陰誕生地」の文字
SH3B0061この坂道を登れば松陰誕生地へ至る
玉木文之進旧宅を出て正面に石柱が立っている。
「吉田松陰誕生地」の文字が刻まれている。
この細い坂道を登れば松陰誕生地へ至るということだ。
松陰の幼名は杉虎之助である。
虎は、この山の中腹にある杉家から、坂を下って玉木旧宅まで通っていたのである。
この分岐点に、シュロの木は見当たらなかった。
SH3B0051「吉田松陰誕生地」の文字
SH3B0061この坂道を登れば松陰誕生地へ至る
玉木文之進旧宅を出て正面に石柱が立っている。
「吉田松陰誕生地」の文字が刻まれている。
この細い坂道を登れば松陰誕生地へ至るということだ。
松陰の幼名は杉虎之助である。
虎は、この山の中腹にある杉家から、坂を下って玉木旧宅まで通っていたのである。
この分岐点に、シュロの木は見当たらなかった。
エデンの園の実~長州(17) [萩の吉田松陰]
SH3B0056玉木旧宅玄関前の空き地(シュロを探すがなかった)
SH3B0057納戸から奥座敷を眺める
SH3B0059茅葺屋根と土壁
唱歌に詠われた水師営の棗の木(乃木邸内)(ナツメ(Wikipedia)より引用)
玉木文之進旧宅で教育を受けた乃木希典のことを考えている。
ドラマ「坂の上の雲」が年末のテレビ画面に流れていた。
著者の司馬遼太郎氏は、あまり乃木を評価していなかったようだ。
『日露戦争・旅順攻略戦
日露戦争では、旅順要塞攻略のために新たに編成された第三軍の司令官に任命される。
第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ多くの犠牲者を出した。
乃木はこの失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させた。
この一連の戦闘で次男保典少尉が戦死(長男勝典も、先に行われた南山の戦いで戦死している)。
ロシア旅順要塞攻略後に同要塞司令官アナトーリイ・ステッセリとの間で水師営の会見が行われた。
乃木は紳士的にふるまい、従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。
旅順攻略戦が極めて困難であったことや、二人の子息を戦死で亡くしたことから、乃木の凱旋には多くの国民が押し寄せた。
日露戦争時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれる。
当時は名将論が一般的であったが、一部に乃木無能論もあった。
これが広まったのは1960年代末から書かれた司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』によるところが大きく、その刊行後、すぐに乃木擁護論が反論されるなど、大きな反響をもたらした。』(乃木希典(Wikipedia)より)
旧乃木邸には、日露戦争の旅順開城の調印を行った水師営で敵将ステッセルより譲られた乗馬の厩が保存されている。
また、旧乃木邸には水師営の棗(なつめ)の木の孫木が植えられている。
聖書では神を祝う場合に「ナツメヤシの枝で祝え」と書いてあるそうだが、ザビエルが薩摩藩士のヤジロウたちに和訳させた際、日本列島で生息しているシュロ(棕櫚)に翻訳させたので、日本では棕櫚(シュロ)の枝で神を祝うことになる。
日本のカトリック教会では、イエス・キリストの復活を祝う祭りのことを「枝の主日」と呼び、その枝は「シュロの枝」のことを指す。
ちょうど榊(さかき)の枝を日本の神棚に供えるように、棕櫚の葉で神を祝うようである。
先の記事では、内村鑑三全集にあるエデンの園の樹木や果実の表現解釈を紹介した。
そこでは楓の木がエデンの園の入り口に植えられていて、重要な役割を果たしていることがわかった。
しかし、松とシュロについてはさほどの重要性を表していなかったように見える。
しかし、下記サイトによれば、なつめやしの実は「(出エジプトの時に)神が約束した土地の蜜」であると解説されている。
『なつめやし(デーツ)
なつめやし(デーツ)とは砂漠のオアシスなどに生息する椰子の実のことをいう。
ヤシ科ナツメヤシ属で常緑高木。
鉄分,カリウム,マグネシウム,カルシウムなどの多くのミネラルや食物繊維に加え,ビタミンA,B1,B2,ナイアシンなどがバランスよく含まれている。
実以外の部分も便利に使われる。
幹と葉を乾燥させて組み合わせて家の屋根にしたり,樹皮の繊維で縄を編んだり,実を採った後の枝は,ほうきとしても使われる。
なつめやしの主な原産地は,イラン・パキスタン・サウジアラビア・オマーンなどの中近東諸国。
また,なつめやしは,通常のヤシの木とも異なり,ヤシの木になるのがいわゆるヤシの実であることに対して,ナツメヤシは,中国のなつめに似た果実をたくさんつける。
品種も何種類かあり,実の色は最初オリーブ色をしている。それが赤褐色になり,最終的に薄茶色や暗褐色,黒色などにかわる。
モーゼがイスラエルの民をエジプトから導き出したとき,神が約束した蜜とミルクの流れる土地の蜜とは,なつめやしのことであるともいわれている。
歴史は古く,コーランには「デーツは神の与えた食物」とされ,旧約聖書では「エデンの園の果実」とされており,クレオパトラも好んで食していたといわれる。
干したなつめやしは,モッチリ,ネチッとして干し柿のような味で,とても甘みが強くて美味しい。皮がチョコレートのような色でも中は山吹色。中央に大きな種がある。
棗(なつめ)
棗(なつめ)は,クロウメモドキ科ナツメ属の落葉小高木でヨーロッパ南東部から中国北部原産。
実の表面はなめらか。
始めは淡緑色で熟すと暗赤色となる。
中国では五果(桃,栗,杏,スモモ,棗)の一つとして珍重されてきた。以下略。』
(「なつめやしとなつめ」より)
http://www002.upp.so-net.ne.jp/tenroukisei/2caravan/dates.htm
棗(なつめ)はエデンの園の果実であった。
リンゴと違って毒のない果実なのだろう。
その木の下で、乃木は敵将ステッセルと日露戦争の旅順開城の調印を行っている。
「エデンの園の実がなる枝の下で、日露は平和を誓った」とも言えよう。
SH3B0057納戸から奥座敷を眺める
SH3B0059茅葺屋根と土壁
唱歌に詠われた水師営の棗の木(乃木邸内)(ナツメ(Wikipedia)より引用)
玉木文之進旧宅で教育を受けた乃木希典のことを考えている。
ドラマ「坂の上の雲」が年末のテレビ画面に流れていた。
著者の司馬遼太郎氏は、あまり乃木を評価していなかったようだ。
『日露戦争・旅順攻略戦
日露戦争では、旅順要塞攻略のために新たに編成された第三軍の司令官に任命される。
第一回総攻撃では空前の大規模な砲撃を行った後、第三軍を構成する各師団の歩兵部隊に対し、ロシア旅順要塞の堡塁へ白昼突撃を敢行させ多くの犠牲者を出した。
乃木はこの失敗により要塞の堡塁直前まで塹壕を掘るなどし犠牲者を激減させた。
この一連の戦闘で次男保典少尉が戦死(長男勝典も、先に行われた南山の戦いで戦死している)。
ロシア旅順要塞攻略後に同要塞司令官アナトーリイ・ステッセリとの間で水師営の会見が行われた。
乃木は紳士的にふるまい、従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。
旅順攻略戦が極めて困難であったことや、二人の子息を戦死で亡くしたことから、乃木の凱旋には多くの国民が押し寄せた。
日露戦争時の乃木、特に旅順攻略戦に対する乃木の評価は識者の間だけでなく、歴史通の人々の間でも評価が分かれる。
当時は名将論が一般的であったが、一部に乃木無能論もあった。
これが広まったのは1960年代末から書かれた司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』によるところが大きく、その刊行後、すぐに乃木擁護論が反論されるなど、大きな反響をもたらした。』(乃木希典(Wikipedia)より)
旧乃木邸には、日露戦争の旅順開城の調印を行った水師営で敵将ステッセルより譲られた乗馬の厩が保存されている。
また、旧乃木邸には水師営の棗(なつめ)の木の孫木が植えられている。
聖書では神を祝う場合に「ナツメヤシの枝で祝え」と書いてあるそうだが、ザビエルが薩摩藩士のヤジロウたちに和訳させた際、日本列島で生息しているシュロ(棕櫚)に翻訳させたので、日本では棕櫚(シュロ)の枝で神を祝うことになる。
日本のカトリック教会では、イエス・キリストの復活を祝う祭りのことを「枝の主日」と呼び、その枝は「シュロの枝」のことを指す。
ちょうど榊(さかき)の枝を日本の神棚に供えるように、棕櫚の葉で神を祝うようである。
先の記事では、内村鑑三全集にあるエデンの園の樹木や果実の表現解釈を紹介した。
そこでは楓の木がエデンの園の入り口に植えられていて、重要な役割を果たしていることがわかった。
しかし、松とシュロについてはさほどの重要性を表していなかったように見える。
しかし、下記サイトによれば、なつめやしの実は「(出エジプトの時に)神が約束した土地の蜜」であると解説されている。
『なつめやし(デーツ)
なつめやし(デーツ)とは砂漠のオアシスなどに生息する椰子の実のことをいう。
ヤシ科ナツメヤシ属で常緑高木。
鉄分,カリウム,マグネシウム,カルシウムなどの多くのミネラルや食物繊維に加え,ビタミンA,B1,B2,ナイアシンなどがバランスよく含まれている。
実以外の部分も便利に使われる。
幹と葉を乾燥させて組み合わせて家の屋根にしたり,樹皮の繊維で縄を編んだり,実を採った後の枝は,ほうきとしても使われる。
なつめやしの主な原産地は,イラン・パキスタン・サウジアラビア・オマーンなどの中近東諸国。
また,なつめやしは,通常のヤシの木とも異なり,ヤシの木になるのがいわゆるヤシの実であることに対して,ナツメヤシは,中国のなつめに似た果実をたくさんつける。
品種も何種類かあり,実の色は最初オリーブ色をしている。それが赤褐色になり,最終的に薄茶色や暗褐色,黒色などにかわる。
モーゼがイスラエルの民をエジプトから導き出したとき,神が約束した蜜とミルクの流れる土地の蜜とは,なつめやしのことであるともいわれている。
歴史は古く,コーランには「デーツは神の与えた食物」とされ,旧約聖書では「エデンの園の果実」とされており,クレオパトラも好んで食していたといわれる。
干したなつめやしは,モッチリ,ネチッとして干し柿のような味で,とても甘みが強くて美味しい。皮がチョコレートのような色でも中は山吹色。中央に大きな種がある。
棗(なつめ)
棗(なつめ)は,クロウメモドキ科ナツメ属の落葉小高木でヨーロッパ南東部から中国北部原産。
実の表面はなめらか。
始めは淡緑色で熟すと暗赤色となる。
中国では五果(桃,栗,杏,スモモ,棗)の一つとして珍重されてきた。以下略。』
(「なつめやしとなつめ」より)
http://www002.upp.so-net.ne.jp/tenroukisei/2caravan/dates.htm
棗(なつめ)はエデンの園の果実であった。
リンゴと違って毒のない果実なのだろう。
その木の下で、乃木は敵将ステッセルと日露戦争の旅順開城の調印を行っている。
「エデンの園の実がなる枝の下で、日露は平和を誓った」とも言えよう。
元祖「松下村塾」~長州(16) [萩の吉田松陰]
SH3B0052「玉木文之進舊宅(=旧宅)」の石柱
SH3B0054茅葺屋根は玉木文之進の旧宅だった
SH3B0055勝手口と自転車3台
写真 (乃木希典(Wikipedia)より引用)
自己主張していたあの茅葺屋根は、玉木文之進の旧宅だった。
松陰の生家ではなかった。
幼い頃の松陰を過激なまでに鍛えた実の叔父さんの家である。
あまりに過酷な幼児虎次郎(松陰)への教育指導に見かねた松陰の母はこう叫んだそうだ。
「虎や、死んでおしまい!」
母性を持つ母親が、幼稚園児や小学生ほどのわが子に向かって言う言葉ではない。
「いっそ死んでくれたほうが、わが子が楽になる」とまで思ったのであろうか。
それほど玉木文之進の松陰に対する教育指導は過酷なものだったようだ。
文之進は松陰の実父の弟に当たる。
杉家から玉木家に養子に行き、玉木姓を名乗っている。
松陰もまた杉家から吉田家へ養子に行っている。
玉木家は、「環(たまき)」家であって、大内義隆の遺児の末裔だという説をネット記事で見たことがある。
作者は玉木家の末裔を自称していた。
ことの信憑性はわからないが、記事には妙な説得力が感じられたことを記憶している。
茅葺屋根の勝手口は開け放されており、外に自転車が3台あった。
私は玉木家の階段を下りて、やや低い敷地へ降り、開いていた勝手口から中へ入った。
若い女性の観光客が座敷の間に立って中年夫人の説明を聞いていた。
その様子が納戸の土間にいる私の左手奥に見えた。
この土間は暗いけれど、座敷の間には太陽が当たっており、座敷の光景が浮き上がって見える。
応対者は中年のご夫人一人だけのようで、勝手口の受付の座椅子は無人となっている。
扇風機だけが静かに首を回していた。
私は声をかけるのを遠慮して、その家屋から外へ出た。
この時点では、ここが玉木の家であることしか私は知らない。
旧宅の玄関先に当たる道端に説明板があった。
『玉木文之進(たまき ぶんのしん)旧宅
玉木文之進(1810~76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家を出て玉木家(大組40石)を継いだ。
生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾(しょうかそんじゅく)と名付けた。
この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。』(抜粋終わり)
ここが元祖松下村塾であることを、このとき初めて知った。
今まで私は文之進を「ふみのしん」と読んでいたが、「ぶんのしん」と読むのが正しいことも理解できた。
『玉木 文之進は、日本の武士・長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者。
松下村塾の創立者。
吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、玉木文之進が一般的。
家格は大組。石高40石。
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の3男として萩で生まれる。
文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育した。また乃木希典も玉木の教育を受けている。
中略。
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。
加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので平素互いに推服していたという。
このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるがこれが玉木正誼である。』(玉木文之進(Wikipedia)より)
玉木と松陰の共通点は「山鹿流」である。
5年前に山鹿素行の墓を訪ねたときのことである。
東京・新宿区の曹洞宗宗参寺にある山鹿素行の墓のすぐ側には、屋根より高いシュロの木が3本聳え立っていた。
玉木姓の説明の下りに、『母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家である。』という表現があるが、意味深長である。
女性の社会的地位が低かった時代のことである。
どれほどまでに高貴な母の雅号だったか、ということが大きな問題となるだろう。
母が乃木傳庵と結婚しても、元の玉木姓を号として保ち、息子の誕生を得て再び玉木家を再興した可能性もその表現からは感じられる。
つまり玉木家が大事なのであって、乃木は玉木から見れば養子に過ぎない。
男子の誕生を持って堂々と玉木家を再興したのかも知れない。
母の玉木が大名大内義隆の直系子孫だと仮定すれば、その説明は付く。
松陰も乃木も、結果的に明治天皇に近い存在となっていく。
松陰は若くして斬首刑に遭ったために明治天皇のお側にいることはできなかったが、松下村塾出身者の中で生き残った伊藤利助(博文)は総理大臣となって長く明治天皇のお側に仕えていた。
もし生きていれば、松下村塾四天王の一人であった吉田稔麿が総理大臣になって、明治天皇のお側に付いていたはずである。
明治になってからの品川弥二郎の証言がある。
もし松陰さえも明治まで生きていれば、明治天皇と総理大臣吉田稔麿の間に位置したはずである。
乃木希典は江戸の長府藩上屋敷、現在の六本木ヒルズの場所で誕生したが、本藩の長州ではここ玉木家で教育を受けていたのである。
明治天皇の大葬の日、皇居から天皇が出棺される旨を告げる弔砲の音を聞き、乃木希典は妻静子とともに自宅で自刃している。享年62歳。
大正元年(1912年)9月13日夜のことであった。
旧乃木邸は、乃木坂の乃木神社本殿の隣地にある。
数年前に私はそこを訪ねて、その庭園を散策した。
庭園を歩きながら邸宅の内部をガラス戸越しにのぞくことができるようにしてある。
外からながめるだけで、夫婦の殉死の様子をある程度推測することができた。
『乃木希典と「殉死」』に、『その日』の夫婦の様子が詳しく記述されていた。
http://www.sakanouenokumo.jp/nogi/self_immolation.html
ここ萩の玉木家座敷に先客の女性二人が上がっている。
納戸の受付も無人のままである。
私は帰りにもう一度この玉木家に寄ろうと決心し、松陰の生家の方へ続く坂を上っていくことにした。
ここが元祖「松下村塾」なのである。
幼い頃の松陰、つまり杉虎之助が通った塾がここである。
「虎や、死んでおしまい」と母に言わせたほどの過酷な修行は、ここで行われていたのである。
そしてまた、乃木希典もここに通っていたのであった。
SH3B0054茅葺屋根は玉木文之進の旧宅だった
SH3B0055勝手口と自転車3台
写真 (乃木希典(Wikipedia)より引用)
自己主張していたあの茅葺屋根は、玉木文之進の旧宅だった。
松陰の生家ではなかった。
幼い頃の松陰を過激なまでに鍛えた実の叔父さんの家である。
あまりに過酷な幼児虎次郎(松陰)への教育指導に見かねた松陰の母はこう叫んだそうだ。
「虎や、死んでおしまい!」
母性を持つ母親が、幼稚園児や小学生ほどのわが子に向かって言う言葉ではない。
「いっそ死んでくれたほうが、わが子が楽になる」とまで思ったのであろうか。
それほど玉木文之進の松陰に対する教育指導は過酷なものだったようだ。
文之進は松陰の実父の弟に当たる。
杉家から玉木家に養子に行き、玉木姓を名乗っている。
松陰もまた杉家から吉田家へ養子に行っている。
玉木家は、「環(たまき)」家であって、大内義隆の遺児の末裔だという説をネット記事で見たことがある。
作者は玉木家の末裔を自称していた。
ことの信憑性はわからないが、記事には妙な説得力が感じられたことを記憶している。
茅葺屋根の勝手口は開け放されており、外に自転車が3台あった。
私は玉木家の階段を下りて、やや低い敷地へ降り、開いていた勝手口から中へ入った。
若い女性の観光客が座敷の間に立って中年夫人の説明を聞いていた。
その様子が納戸の土間にいる私の左手奥に見えた。
この土間は暗いけれど、座敷の間には太陽が当たっており、座敷の光景が浮き上がって見える。
応対者は中年のご夫人一人だけのようで、勝手口の受付の座椅子は無人となっている。
扇風機だけが静かに首を回していた。
私は声をかけるのを遠慮して、その家屋から外へ出た。
この時点では、ここが玉木の家であることしか私は知らない。
旧宅の玄関先に当たる道端に説明板があった。
『玉木文之進(たまき ぶんのしん)旧宅
玉木文之進(1810~76)は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家を出て玉木家(大組40石)を継いだ。
生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾(しょうかそんじゅく)と名付けた。
この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2年(1855)には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。』(抜粋終わり)
ここが元祖松下村塾であることを、このとき初めて知った。
今まで私は文之進を「ふみのしん」と読んでいたが、「ぶんのしん」と読むのが正しいことも理解できた。
『玉木 文之進は、日本の武士・長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者。
松下村塾の創立者。
吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、玉木文之進が一般的。
家格は大組。石高40石。
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の3男として萩で生まれる。
文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、幼少期の松蔭を厳しく教育した。また乃木希典も玉木の教育を受けている。
中略。
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。
加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので平素互いに推服していたという。
このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるがこれが玉木正誼である。』(玉木文之進(Wikipedia)より)
玉木と松陰の共通点は「山鹿流」である。
5年前に山鹿素行の墓を訪ねたときのことである。
東京・新宿区の曹洞宗宗参寺にある山鹿素行の墓のすぐ側には、屋根より高いシュロの木が3本聳え立っていた。
玉木姓の説明の下りに、『母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家である。』という表現があるが、意味深長である。
女性の社会的地位が低かった時代のことである。
どれほどまでに高貴な母の雅号だったか、ということが大きな問題となるだろう。
母が乃木傳庵と結婚しても、元の玉木姓を号として保ち、息子の誕生を得て再び玉木家を再興した可能性もその表現からは感じられる。
つまり玉木家が大事なのであって、乃木は玉木から見れば養子に過ぎない。
男子の誕生を持って堂々と玉木家を再興したのかも知れない。
母の玉木が大名大内義隆の直系子孫だと仮定すれば、その説明は付く。
松陰も乃木も、結果的に明治天皇に近い存在となっていく。
松陰は若くして斬首刑に遭ったために明治天皇のお側にいることはできなかったが、松下村塾出身者の中で生き残った伊藤利助(博文)は総理大臣となって長く明治天皇のお側に仕えていた。
もし生きていれば、松下村塾四天王の一人であった吉田稔麿が総理大臣になって、明治天皇のお側に付いていたはずである。
明治になってからの品川弥二郎の証言がある。
もし松陰さえも明治まで生きていれば、明治天皇と総理大臣吉田稔麿の間に位置したはずである。
乃木希典は江戸の長府藩上屋敷、現在の六本木ヒルズの場所で誕生したが、本藩の長州ではここ玉木家で教育を受けていたのである。
明治天皇の大葬の日、皇居から天皇が出棺される旨を告げる弔砲の音を聞き、乃木希典は妻静子とともに自宅で自刃している。享年62歳。
大正元年(1912年)9月13日夜のことであった。
旧乃木邸は、乃木坂の乃木神社本殿の隣地にある。
数年前に私はそこを訪ねて、その庭園を散策した。
庭園を歩きながら邸宅の内部をガラス戸越しにのぞくことができるようにしてある。
外からながめるだけで、夫婦の殉死の様子をある程度推測することができた。
『乃木希典と「殉死」』に、『その日』の夫婦の様子が詳しく記述されていた。
http://www.sakanouenokumo.jp/nogi/self_immolation.html
ここ萩の玉木家座敷に先客の女性二人が上がっている。
納戸の受付も無人のままである。
私は帰りにもう一度この玉木家に寄ろうと決心し、松陰の生家の方へ続く坂を上っていくことにした。
ここが元祖「松下村塾」なのである。
幼い頃の松陰、つまり杉虎之助が通った塾がここである。
「虎や、死んでおしまい」と母に言わせたほどの過酷な修行は、ここで行われていたのである。
そしてまた、乃木希典もここに通っていたのであった。
民宿「誕生地」~長州(15) [萩の吉田松陰]
SH3B0046 山の方へ
SH3B0047民宿「誕生地」
SH3B0048自己主張している茅葺屋根
城を背にして山の方へと私は歩いている。
城の方から見れば、川を渡ってさらに山の方へと登っている。
士農工商の身分制度から見れば、おそらく農民の住む区域である。
しかも山に近づくほどに身分は低いものたちだろう。
吉田松陰が生まれた家の江戸時代のポジションが何となくわかってきた。
理屈ではなく、城との距離との関係で体で「わかる」ということだ。
まだ訪ねていないが、高杉晋作や木戸孝允などの住まいはずっと背中の方向の城に近い市街地にある。
松陰の生家は、僻地といっていい山間地にあるようだ。
普通の民家の玄関先に木製の看板が下がっている。
「民宿 誕生地」と書いてある。
吉田松陰の誕生地を訪ねる客の泊まる宿である。
その先に広い駐車場があり、茅葺の屋根がくっきりと現れてきた。
瓦屋根の家屋の中にポツンと存在する茅葺屋根は、それが歴史的遺跡であることを遠目からもわからせてくれる。
SH3B0047民宿「誕生地」
SH3B0048自己主張している茅葺屋根
城を背にして山の方へと私は歩いている。
城の方から見れば、川を渡ってさらに山の方へと登っている。
士農工商の身分制度から見れば、おそらく農民の住む区域である。
しかも山に近づくほどに身分は低いものたちだろう。
吉田松陰が生まれた家の江戸時代のポジションが何となくわかってきた。
理屈ではなく、城との距離との関係で体で「わかる」ということだ。
まだ訪ねていないが、高杉晋作や木戸孝允などの住まいはずっと背中の方向の城に近い市街地にある。
松陰の生家は、僻地といっていい山間地にあるようだ。
普通の民家の玄関先に木製の看板が下がっている。
「民宿 誕生地」と書いてある。
吉田松陰の誕生地を訪ねる客の泊まる宿である。
その先に広い駐車場があり、茅葺の屋根がくっきりと現れてきた。
瓦屋根の家屋の中にポツンと存在する茅葺屋根は、それが歴史的遺跡であることを遠目からもわからせてくれる。
松陰誕生地への分岐(その1)~長州・萩の吉田松陰(14) [萩の吉田松陰]
SH3B0043自己主張の強いシュロの木(前述分の背面)
SH3B0044昔の宅地は奥行きが深い
SH3B0045道の分岐に右手にシュロの木
先ほどの「自己主張の強いシュロの木」が気になり、振り返って見た。
横から脇道が細いメイン道路へ交差している。
人家の門扉を入って敷地の右端、つまり脇道を歩いてメイン通りへ出てくる人への交通標識の役割を果たしているように見える。
このシュロの木が示す道路標識のような役目は、奥州街道のシュロの木にも感じた。
今でも東武鉄道の駅舎付近には背の高いシュロの木が目立つ。
古代オリエントのアケメネス朝のダレイオス1世(大王)の駅伝整備ではシュロの木は利用されていたのだろうか。
東武鉄道は信仰篤い鉄道会社である。
東武鉄道の西新井駅に降りると、大師線という単線が分岐している。
そして大師線はたった一駅だけある。
2列車両の電車がホームへ入ってくる。
次の駅は「西新井大師」で終点である。
弘法大師(空海)が旅行ビジネス、宗教ビジネスに長けていたことがそこでは体感できる。
話は変わるが、さいたま市(旧大宮市)にある武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)ではシュロを見つけるのは苦労した。
『氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある神社である。
足立郡を中心に武蔵国(東京都・埼玉県)各地にある氷川神社の総本社である。式内社(名神大)、武蔵国一宮、勅祭社で、旧社格は官幣大社。大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えたことに由来する。
主祭神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命。
他の氷川神社と区別するために「大宮氷川神社」とも呼ばれる。
一般に武蔵国の一宮は当社とされているが、大國魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、今のところ中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないとされる。
室町時代に成立した『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかと考えられている。
中略。
社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建されたというが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。
本社には、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されており、このことから本地域を足立と称するようになったとされる。以下略。』(氷川神社(Wikipedia)より)
紀元前5世紀の建立になる関東で最初の神社である。
本殿右手の神社敷地外にあたる杉林の中に1本シュロの木が立っていた。
おそらく昔は大きな境内の敷地内であっただろうが、その後の区画変更などで敷地外へと追いやられたのであろう。
しかし、中山宮(二ノ宮)から氷川女体神社(三ノ宮)へと歩いているときに、交差点には曲がるべき方向を示すかのように大きなシュロが立っていたことを思い出す。
氷川女体神社の境内には沢山のシュロの木が見られた。
女体の意味は何だろう。
『大宮(さいたま市大宮区)の氷川神社を「男体社」とし、当社を「女体社」としたものである。
女体の名の通り、奇稲田姫命(大宮氷川神社の祭神である須佐之男命の妻)を主祭神とする。
ほかに三穂津姫命・大己貴命を配祀する。
歴史
社伝では、崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える。
『大日本地名辞書』では、式内「武蔵国足立郡 多氣比賣神社」の論社としているが、多氣比賣神社は桶川市篠津の多氣比賣神社とする説が有力である。
近世の文書や拝殿の額に「武蔵国一宮」と記されている。
これは大宮の氷川神社と当社、および中山神社(簸王子社)の三社を一体のものとして、大宮の氷川神社が武蔵国一宮であることから当社もそれに含まれると解釈したものである。
現在は、氷川神社とともに「全国一の宮会」に加盟している。』
(氷川女体神社(Wikipedia)より)
「三社を一体」としている。
これから自然と「三位一体」を思い浮かべることができる。
三位は神と子と聖霊である。
或いは、神とキリストとマリアかも知れない。
紀元前に建立されたものであれば、「子」はイエス・キリストではないから「人間」ということになろうか。
この三社は、直線状に並んでおり、冬至(夏至だったかも知れない)の日にはその直線上を太陽が通過するという。
紀元前にこの国にこれだけの高いレベルの天文学と測量技術を持ち込んだのは帰化人以外に考えられない。
しかも西アジアや中近東の文化を持つ渡来民族たちの功績であろう。
エジプトには、それらの知恵と技術が古代からあったことは良く知られている。
彼らが街道のシュロの木にどういう役割を担わせていたのか、それはまだ謎である。
やがて朝日を浴びながら歩いている緩やかな坂は、道の分岐に突き当たった。
右手には、背の大変高いシュロの木がひょろひょろと聳え立っている。
分岐で迷った私は、シュロの木を見たことにより右へ行こうと「自然に」思った。
しかし、突き当たりに観光案内札が立っていた。
よく見ると、「吉田松陰誕生地は左手」だと書いてある。
私はシュロに触発された考え方を改めて、シュロの木のある方向とは反対側の左へと曲がった。
SH3B0044昔の宅地は奥行きが深い
SH3B0045道の分岐に右手にシュロの木
先ほどの「自己主張の強いシュロの木」が気になり、振り返って見た。
横から脇道が細いメイン道路へ交差している。
人家の門扉を入って敷地の右端、つまり脇道を歩いてメイン通りへ出てくる人への交通標識の役割を果たしているように見える。
このシュロの木が示す道路標識のような役目は、奥州街道のシュロの木にも感じた。
今でも東武鉄道の駅舎付近には背の高いシュロの木が目立つ。
古代オリエントのアケメネス朝のダレイオス1世(大王)の駅伝整備ではシュロの木は利用されていたのだろうか。
東武鉄道は信仰篤い鉄道会社である。
東武鉄道の西新井駅に降りると、大師線という単線が分岐している。
そして大師線はたった一駅だけある。
2列車両の電車がホームへ入ってくる。
次の駅は「西新井大師」で終点である。
弘法大師(空海)が旅行ビジネス、宗教ビジネスに長けていたことがそこでは体感できる。
話は変わるが、さいたま市(旧大宮市)にある武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)ではシュロを見つけるのは苦労した。
『氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある神社である。
足立郡を中心に武蔵国(東京都・埼玉県)各地にある氷川神社の総本社である。式内社(名神大)、武蔵国一宮、勅祭社で、旧社格は官幣大社。大宮の地名は氷川神社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えたことに由来する。
主祭神は須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命。
他の氷川神社と区別するために「大宮氷川神社」とも呼ばれる。
一般に武蔵国の一宮は当社とされているが、大國魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社(旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、今のところ中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないとされる。
室町時代に成立した『大日本国一宮記』では氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかと考えられている。
中略。
社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建されたというが、倭奴国王印が1世紀中頃のことであり、卑弥呼が3世紀前半の人物であり、倭の五王が5世紀の人物たちである、ということを考えると、氷川神社の創建が紀元前5世紀であるとは考え難いという意見もある。「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。
本社には、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されており、このことから本地域を足立と称するようになったとされる。以下略。』(氷川神社(Wikipedia)より)
紀元前5世紀の建立になる関東で最初の神社である。
本殿右手の神社敷地外にあたる杉林の中に1本シュロの木が立っていた。
おそらく昔は大きな境内の敷地内であっただろうが、その後の区画変更などで敷地外へと追いやられたのであろう。
しかし、中山宮(二ノ宮)から氷川女体神社(三ノ宮)へと歩いているときに、交差点には曲がるべき方向を示すかのように大きなシュロが立っていたことを思い出す。
氷川女体神社の境内には沢山のシュロの木が見られた。
女体の意味は何だろう。
『大宮(さいたま市大宮区)の氷川神社を「男体社」とし、当社を「女体社」としたものである。
女体の名の通り、奇稲田姫命(大宮氷川神社の祭神である須佐之男命の妻)を主祭神とする。
ほかに三穂津姫命・大己貴命を配祀する。
歴史
社伝では、崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える。
『大日本地名辞書』では、式内「武蔵国足立郡 多氣比賣神社」の論社としているが、多氣比賣神社は桶川市篠津の多氣比賣神社とする説が有力である。
近世の文書や拝殿の額に「武蔵国一宮」と記されている。
これは大宮の氷川神社と当社、および中山神社(簸王子社)の三社を一体のものとして、大宮の氷川神社が武蔵国一宮であることから当社もそれに含まれると解釈したものである。
現在は、氷川神社とともに「全国一の宮会」に加盟している。』
(氷川女体神社(Wikipedia)より)
「三社を一体」としている。
これから自然と「三位一体」を思い浮かべることができる。
三位は神と子と聖霊である。
或いは、神とキリストとマリアかも知れない。
紀元前に建立されたものであれば、「子」はイエス・キリストではないから「人間」ということになろうか。
この三社は、直線状に並んでおり、冬至(夏至だったかも知れない)の日にはその直線上を太陽が通過するという。
紀元前にこの国にこれだけの高いレベルの天文学と測量技術を持ち込んだのは帰化人以外に考えられない。
しかも西アジアや中近東の文化を持つ渡来民族たちの功績であろう。
エジプトには、それらの知恵と技術が古代からあったことは良く知られている。
彼らが街道のシュロの木にどういう役割を担わせていたのか、それはまだ謎である。
やがて朝日を浴びながら歩いている緩やかな坂は、道の分岐に突き当たった。
右手には、背の大変高いシュロの木がひょろひょろと聳え立っている。
分岐で迷った私は、シュロの木を見たことにより右へ行こうと「自然に」思った。
しかし、突き当たりに観光案内札が立っていた。
よく見ると、「吉田松陰誕生地は左手」だと書いてある。
私はシュロに触発された考え方を改めて、シュロの木のある方向とは反対側の左へと曲がった。