椎の実の降る家~長州(26 ) [萩の吉田松陰]

SH3B0087.jpgSH3B0087松陰誕生地と萩の眺望
SH3B0089.jpgSH3B0089「萩市指定史跡 吉田松陰の墓ならびに墓所」
SH3B0091.jpgSH3B0091「吉井勇 歌碑」

松陰神社境内の歴史資料館だけで販売しているという本に「椎の実の降る家」と最初の目次見出しを見た。(「維新の先達 吉田松陰」(田中俊資著))

「ああ、これは松陰の生まれた家のことだな。」と私は思った。

坂道を登って来たときに墓石が樹木の間からいくつか見え、塀の壁に「椎原霊園」と書いてあった。

ここは椎の実の取れる地域なのだった。

おそらく農作物の不作の時には飢えを凌ぐために大事な実だったのであろう。

幼いころの松陰も拾って集めたという。

「松陰誕生地と萩の眺望」と書いた案内板が高杉晋作の草案の向かい側にあった。

『この地は一名「団子岩」といわれ、吉田松陰が生まれ、幼児期を過ごした所です。

ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれます。

萩は関が原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であると言われています。』

誰がこの案内板を書いたのか、それは書かれていなかった。

『          勇
萩に来て
 ふと おもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰  』

(「吉井勇歌碑 椎原(吉田松陰誕生地)」より)   
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/takuhon/html/021.htm

この石の歌碑は、高さ120cm、幅240cmの斑糲岩からできているそうだ。

『斑糲岩(はんれいがん、gabbro、ガブロ)は、深成岩の一種。
火山岩の玄武岩に対応。

有色鉱物の角閃石や輝石を多く含み、岩石全体が黒っぽい(ペグマタイト質のものは斜長石の白い部分が目立つことがある)。
磁鉄鉱なども含んでいることがある。
無色鉱物はほとんどが斜長石で、アルカリ長石や石英をほとんど含まない。

閃緑岩との区別は、斜長石の灰長石成分(An)の割合による(An<50が閃緑岩、An>50が斑れい岩)。

アルカリ長石が含まれるようになるとモンゾ斑糲岩、石英が含まれるようになると石英斑糲岩、アルカリ長石と石英の両方を含むと石英モンゾ斑糲岩となる。
中略。

イタリアの工芸家が呼んでいた石材名gabbroに由来するが、初めは蛇紋岩や輝石からなる特殊な火成岩に使われていた。

これを岩石名としたのは1810年、フォン・ブッフで、初めは蛇紋岩や輝石からなる特殊な火成岩の名であったが、後になって、今日のような意味で使われるようになった。

斑糲岩という難しい訳語を作ったのは、小藤文次郎(1884年〈明治17年〉)。
糲は「くろごめ」玄米のことで、粒状で黒い斑点のある石という意味らしい。

明治初期にはまた、「飛白石・カスリイシ」の訳も行なわれたが、これはかすり模様という意味でつけられた名前である。

どちらも、白い斜長石と黒い輝石が白黒の斑点に見えることを意味する。』(斑れい岩(Wikipedia)より)

吉井勇は学生時代に与謝野鉄幹らと天草に旅し、神父を訪ねている。

『中略。

天草の南端大江に着きました。
途中が細い道とかあったので小高い丘の上の教会が見えたときには感激でした。

車を駐車場に留めて坂を上っていくと大江カトリック教会の石碑が立っています。

この教会は北原白秋・与謝野鉄幹・木下杢太郎・平野万里・吉井勇の五人の詩人が訪れたことでもよく知られています(五足の靴)

彼らの旅の目的は大江天主堂のガルニエ神父に会うことでした。
地元の人から「パアテルさん(神父さん)」と親しみを込めて呼ばれていたガルニエ神父に会った五人は、秘蔵の十字架やメダルを見せてもらったり、踏絵の『二度踏』の話を聞かせてもらったりしました。

そのガルニエ神父は明治25年(1891年)25歳で来日し昭和8年に私財を投じてこの白亜の天主堂を建立しました。
そして、祖国フランスに帰らず生涯をこの地に捧げました。』

『『五足の靴』とは明治40年(1907)8月新詩社主幹の与謝野寛と木下杢太郎(本名太田正雄)、北原自秋(本名隆吉)、平野万里、吉井勇の5人が九州のキリシタン遺跡を巡った時の紀行文の題名である。』
(「毎日新聞社 シリーズ日本の大自然」より)
http://ito-no-kai.la.coocan.jp/300_index/311_national-park/22_unzen-amakusa.html

吉井勇らは学生時代に東京から天草までガルニエ神父に会いに行っている。

吉井の歌碑の中で、『松陰は誰』という言葉が際立って目立つ。

神の代理、預言者などというニュアンスなのだろうか、それとも聖人と言いたいのであろうか。

松陰の死により革命は達成された。
それは殉教死と言えるものかも知れない。

高杉晋作草庵跡地~長州(25) [萩の吉田松陰]

SH3B0083.jpgSH3B0083墓地の右上に石碑
SH3B0085.jpgSH3B0085「高杉晋作関係略年表並草庵入居の年月日」
SH3B0086.jpgSH3B0086「高杉晋作草庵跡地」

松陰生誕地の道路向かいの坂にあった石柱。

それは意外にも、「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」と大書した石碑であった。
「教育長 林 秀宣 書」と小さい文字が見えるが、或いは違っているかも知れない。

しかし、「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」はひげ文字に少しにていて馬鹿でかい漢字を彫っているので、こちらは見間違うことはない。

1862年1月2日 上海行きを命ぜらる。(江戸藩邸にて)
4月29日 長崎を出帆上海へ向かう。
7月14日 上海から帰国。
12月12日 イギリス公使館焼打す。

1863年1月5日  吉田松陰の遺骨を改葬
3月15日 十年間の暇方を請い許される。
4月10日 萩に帰り松本村草庵入居
6月6日 下関で奇兵隊を組織
8月16日 教法寺事件
9月12日 奇兵隊総督を免ぜられる。
10月1日 百六十石を給せられ奥番頭役に任ぜられる。

1864年1月28日 来島又兵衛に迫られ、脱藩して京へ向かう。
2月25日 萩に帰る
5月27日 野山獄に投ぜられる。
6月21日 出獄、座敷牢に謹慎
8月8日 連合艦隊との講和談判にあたる。
8月14日 講和本約締結
10月5日 長男梅之進(東一)生まれる。
10月25日 自宅閉居から脱出、九州に亡命
12月15日 下関に帰り、功山寺に挙兵

1865年 1月14日 萩俗論党と開戦
2月2日 クーデター成功、藩論統一される。
3月26日 洋行を志すが、グラバーから説得され中止して、下関開港に奔走する。

晋作は2ヶ月半も上海にいたのである。

7月14日に上海から帰国して、それから江戸へ向かい5ヵ月後の12月12日にイギリス公使館を焼打ちしている。

そのあとで吉田松陰の遺骨を改葬し、その3ヵ月後に萩に帰り松本村草庵に入居している。

考えるより前に行動しようとする晋作の姿は、師の松陰の教えを実践したものに見える。

『1862年6月2日、幕府の公式の貿易船「千歳丸」というバーク型帆船が上海に到着した。数年前から幕府は和船(といっても西洋タイプのスクーナーが多かった。)を杭州や秦皇島に派遣していて中国(清)の情報収集にあたらせていた。

だが交易を表向きにも標榜し中国へ向かったのは鎖国以来始めてだった。
またこの時が上海への始めての訪問だった。

千歳丸自体もイギリス船を買い上げたもので船長リチャードソン(生麦事件で殺害されたのもリチャードソンだが関係はわからない。)

以下イギリス人によって運航されていた。
この渡航もイギリスに歓迎され上海の英字紙に報道されている。

高杉は藩命により、幕臣犬塚栄三郎の従者の資格で派遣され、目的は西洋諸国の上海の実情把握だった。

この時幕臣の他、薩摩の五代友厚、佐賀の中牟田倉之助、大村の峰源蔵などが参加していた。

幕府の外様藩をむしろ外国の実情に触れさせた方が良いという判断や、貿易・外交にも関与させるべきだとの方針は、元来この国のもつ明るい開明的性格を感じさせる。

中牟田は後の海軍中将であるが英語ができたうえ、長崎の海軍伝習所にいて操艦術にも通じていたと言う。
高杉は中牟田を大いに利用した。

「ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが港を埋め尽しているさまは森の如く、陸上には諸国の商館が壁を連ねること城郭の如くその広大なことは筆舌に尽くしがたい。」

「この地はかって英夷に奪われた場所であって港が賑わっているといってもそれは外国船が多いためである。中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境に置かれている。わずかに富んでいるのは外国人に使役されている者だけである。」
と高杉は「遊清五録」に記す。』
(「高杉晋作の見た上海と太平天国」より)
http://ww1.m78.com/topix-2/sinsaku%20takasugi.html

そのあとで、晋作は実質的な支配者役の「奥番頭役」となり、藩主のお側で実権を掌握することに成功している。

しかし藩論沸騰し、結果的に晋作は軍事クーデターにより藩論を統一し倒幕へと舵を切った。

実はこの1年後の1863年に、アメリカで「黒人の奇兵隊」が解禁され、南軍側軍隊に勝利し、黒人軍隊の勇敢さを世界へ知らしめ、黒人奴隷解放のきっかけにもなっている。

銃で装備した軍隊であれば、黒人でも白人部隊に勝てることを証明したのである。
黒人だけの軍隊をマサチューセッツ第54連隊といい、映画「グローリー」のモデルにもなった。

その機運や手法は、英米仏の商人を通じて上海にも伝わったはずだ。
晋作はそれらを上海の2ヵ月半の生活で学んだのではないだろうか。

『南北戦争では黒人の従軍を認めると境界州も連邦を離脱するおそれがあるため、当初黒人の従軍は認められなかった。

しかし、南部から逃亡奴隷の流入が続き、かつ、兵力増強の必要性が増し、リンカーンも方針を変更し、1863年に黒人の従軍が解禁された。

黒人は臆病で役に立たないとの偏見が強く残る中、黒人のリーダーたちはこの方針変更を強く支持し、アフリカ・ミーティング・ハウスなどで兵の募集が行われた。

こうして編成された黒人だけのマサチューセッツ第54連隊は、白人指揮官Robert Gould Shaw(ロバート・ゴールド・ショー)大佐の指揮の下、チャールストン攻略作戦に参加し、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。

1863年7月18日の戦闘は激しく、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。

連隊長のショー大佐は戦死し、William Carney(ウィリアム・カーニー)軍曹は3度も銃撃されながら軍旗を守った功績で黒人として初めて米軍最高の名誉であるCongressional Medal of Honor(議会名誉勲章)を受章した。

マサチューセッツ第54連隊の功績を記念して、ボストンコモンには、Augustus Saint-Gaudens(オーガスタス・セント・ゴーデンス)制作のブロンズのレリーフが置かれている。』

銃で武装した集団は、それが武士以外の人間であっても強力な軍事力となる。
1863年7月18日の戦闘結果は北軍勝利の分水嶺となっていった。
黒人を使えない南軍に対して、北軍の軍事能力は倍増するはずである。

農民や商人を使えない徳川幕府と、それらを教育し軍隊化する薩長土肥の軍隊のどちらが勝利するか、フランスの公使ロッシュを除き欧米列強には自明なことではなかっただろうか。

日本における農民奇兵隊の実践は、その1年後になる。

1864年(元治元年)12月15日、高杉晋作が功山寺決起し馬関に進軍した。
そのとき農民たちが手に持っていた銃はアメリカ南北戦争終結であまった中古の銃や行き先を失った新品の優秀な銃であったはずだ。

坂本龍馬が、グラバーを通じて大量に輸入し長州へ渡したという一部の事実だけは、日本人の多くにドラマ化されて知らされている。

アメリカ南北戦争終結と日本の戊辰戦争勃発の関わりなど、欧米列強に「不都合な真実」は隠されている。

晋作はすべてを己の目で見て、学び、考え、そして実践したのである。
一番精神統一して深く「考えた」場所は、おそらくここの松陰誕生地の道路向かいにある草庵の居間であったと私は思う。

亡き松陰の心境を慮りながら、松陰が見ながら育った光景を見下ろしつつ、己の身の振り方に決心を付けたのであろう。

やがて夕日が沈み、指月山の上に出た月を晋作は眺めたことだろう。

松陰生家の居間から見た指月山~長州(24) [萩の吉田松陰]

SH3B0080.jpgSH3B0080居間の位置と指月山の関係
SH3B0082.jpgSH3B0082居間の障子を開けると見える景色
SH3B0081.jpgSH3B0081石碑「吉田松陰先生 生誕の地」

松陰の生誕地は平坦になっているが、道はまだ急な坂の途中である。
道の向こう側には先ほどの墓地が広がっているが、墓地の終わった坂の上が踊り場になっていて、やや平たい敷地がある。

墓地のすぐ上にある石柱は、踊り場の敷地の端に立っているようにも見える。
坂道を少し登ってその石柱へ近づいていった。


少年の住む家~長州(23) [萩の吉田松陰]

SH3B0074.jpgSH3B0074吉田松陰生誕地の案内板
SH3B0075.jpgSH3B0075敷地基礎石の跡
SH3B0074間取り図.jpgSH3B0074間取り図(案内板拡大図)
SH3B0078.jpgSH3B0078母屋跡
SH3B0079.jpgSH3B0079母屋の手前に納屋と厩(うまや)の跡

吉田松陰生誕地の案内板があった。
生誕地には敷地基礎石の跡だけが残っている。

敷地の奥も芝生の公園になっているが、昔は森の中そのままだっただろう。

案内板の間取り図を拡大して当時の実家の様子を想像してみよう。
私は、4~5歳の頃の幼い虎之助の修行時代を想像している。

玉木文之進の厳しい扱(しご)きを受け、涙をこらえた一日がようやく終わって少年は坂を上って自宅へ戻る。

右手に夕闇に沈みかかった萩城と市街を見降ろしながら、シュロの木の横を通って敷地内に入ってくる。

まず、左手に厩とそれにつながる納戸が見えたはずだ。
馬の嘶(いななき)きや鼻息が聞こえてくる。

次に台所と居間の前を通る。
母がコンコンと包丁を打つ音や、魚の煮物の香りが煙突を通って外へも伝わってくる。
蝋燭私は、4~5歳の頃の幼い少年虎之助の厳しい修行時代を想像している。

玉木文之進の厳しい扱(しご)きを受け、涙をこらえた一日がようやく終わって少年は坂を上って自宅へ戻る。
蝋燭の明かりで居間の障子が橙色に揺れている。

少年は居間の外を廻って玄関へと達する。
「がらがら」
玄関の扉を開ける。

「ただいま帰りました」

元気よく帰宅の挨拶をする少年のほほには涙の跡が光っていた。
こらえていた涙は、台所の匂いと音を聞いたときポロリとつい出てしまったのだ。
それは母の音と匂いだった。

玄関で草履を脱ぎ、足を手ぬぐいで拭きあがる。
すぐに表座敷に入る。

正面に仏壇があり、その前に座る。
線香を点け先祖へ一日の報告を済ませる。

右奥の隠居部屋へ向かい祖父へ挨拶をる。
「ただいま帰って参りました。」
「ご苦労じゃったのんたー」

隠居部屋を出ると、再び表座敷を通って居間へと入る。
「父上様、母上様、虎之助、ただいま戻りました。」

「ご苦労でござった」
母は黙って父と一緒にお辞儀をするだけであった。

母は日々変わっていく息子の日焼けしたたくましい顔に驚くとともに、手足の傷の多さを見て、わが身のことのように少年の痛みを感じるのだった。

以上、想像した光景の中で出てこなかったのは母屋の納戸だけである。

それほどに狭い生誕の地であった。

当時の武家屋敷の広さと比較すればとても狭い実家である。
農家の方がずっと広かったであろう。

ただ、東京の現在の平均的戸建住宅よりはずっと広いので誤解のないようにしなければならない。

大変貧しかった杉家よりも、現代の日本人は狭い家屋に住んでいる。
幸福とは家屋の広さだけでは計れないということであろう。

狭いながらも幸福な我が家と松陰は思えたかどうか、それはわからない。
10歳で藩主に講義をするほどまで成長せざるを得なかった少年にとって、「幸福」などという日和見な漢字は存在すらしなかったのではないだろうか。

脳の中はただ儒学の教習本と兵方学の書で一杯に詰め込まれていたはずである。
「悲しい」、「辛い」などという人並みな感情さえも抑圧しながら、日々を過ごしていたのではないだろうか。

捨て子同然で拾われてきた幼い子供などが、サーカス団で育てられ、危険な曲芸を披露するシーンがあり、昔はたまにそういうショーに出会う機会があった。

黙々と曲芸をこなす4~5歳の少年の特訓シーンは、きっと涙々の連続であったに違いない。

晴れやかな舞台に立ったからといって、少年が心底愉快な笑顔を見せることはない。
教えられたとおりの微笑を観客に返すだけである。

それが終わると、いつもの無表情に戻る。

まるで省エネ器械のような絵姿だ。
必要以上に無駄なエネルギーは消費しない。

感動したり悲しんだりするエネルギーさえ勿体ないように見える。

萩で生まれた普通の少年は、同じ日々の繰り返しによってやがて別の人格を伴う人間へと変わっていく。
私は生まれてすぐのありのままの虎之助が愛しいのである。

だから、なぜ虎之助は別人格へと変化する必要があったのかを知りたいと思う。

それは日本革命の火をつけるためだったと徳富蘇峰は言うが、それだけでは可愛い虎之助を死なせた説明として不十分ではないか。

真実を明かしてあげて、虎之助、松陰の死を鎮魂することが、一番の供養になるのではないか。

神社を建立して飾ったところで、あの虎之助が許してくれるはずがない。

青年の死の謎~長州(22) [萩の吉田松陰]

SH3B0071.jpgSH3B0071指月山とシュロ

私は勤務先の都合で17年間、伊藤博文の生まれた町の隣町に住んでいた。
市町村統合でいまは同じ町になっているという。

多感な青春時代に独身寮の布団の上で司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を読んだ。
そこで龍馬や晋作にあこがれた。

晋作の師匠であった吉田松陰には作品の中の高杉晋作を通じて尊敬の念を抱いていた程度である。

30年ほどたって、同じく司馬遼太郎の書いた「世に棲む日々」を読んだ。
吉田松陰その人が出てきて、私の中の松陰像がはっきりと見えてきたような気がした。

史実を知りたいと思い、明治以降に書かれた「維新前夜の証言に基づいた著述」もいくつか読んだ。

徳富蘇峰著「吉田松陰」はその思想的背景と松陰の存在に関する歴史的意味について詳しく論じられていて参考になった。

吉田松陰への傾倒はそれで終わっていた。

あるとき、東海道と中山道を歩き終わって、ふと趣味の空間がぽっかり空いた時期があった。
亡き父母の鎮魂の意味で街道を歩いていたのだが、当面の課題を乗り越えてしまい、それ以降の目標を見失っていたのだった。

暇をもてあます日々の中で、東京にある長州藩士ゆかりの地を訪ねようとした。
長州藩、山口県は、私の青春時代と重なるから、自分探しの旅のような気がしたのである。

脳内知識をさっと検索すると、我が家から歩いて行けそうな距離に松陰神社があることが浮かんだ。

以前車で行ったことがあったからだ。

数時間歩いて松陰神社に参拝した。
その本堂の左隣に松陰の墓があるという。

古く大きな楓の木が二本、その周辺は松の木が風にそよいでいた。
松と真っ赤に色づいた楓、「松楓(しょうふう)」の光景はとても印象的だった。

お参りに行くなら11月半ばの紅葉の時期をお勧めしたい。

多くの志士や家族たちの墓石群の中に、ほぼ正面真ん中と思しき位置に、みんなと同じサイズの小さめの墓石に吉田松陰と刻んであった。

この墓の遺骨は、高杉晋作、伊藤修輔(博文)他数名で南千住の回向院から回葬してきたものである。

そのとき高杉晋作は馬に乗っていた。

まだ幕府が存在していた時期であるが、将軍だけが渡ることができるという上野の御成り橋のど真ん中を、馬に乗ったまま晋作は逆走して渡り、松陰の遺骨を南へと先導している。

当然のことだが、橋の守番は槍を構えつつ馬上の晋作に近づき降りろと言った。

徳川家の面子に泥を塗る行為をわざわざやって、晋作は師の遺骨を世田谷まで運んだ。

この不法行為が何のお咎めなしに行われた様子を見て、江戸庶民は徳川幕府崩壊の時期を予測できたのではないだろうか。

その晋作の危険すぎる行為は、徳川幕府により罪人として斬首された松陰の遺骨を士分の身分を回復して正式に回葬するという深い意味と、倒幕の気迫をデモンストレーションするという意味を持っていた。

途中、晋作らは毛利藩中屋敷にて休憩している。
今の六本木ミッドタウンがその地である。

ミッドタウンの玄関先に長州藩の仲間や弟子たちが沢山出てきて、遺骨へ向かい合掌したはずである。

私も松陰の遺骨を運んだルートを実際に歩いてみた。

そして、高杉晋作が松陰の遺骨を埋めた場所が、世田谷の太夫山の麓にある大きな楓の木の根元だった。

「太夫」は毛利大膳太夫元就の名に由来し、その地は毛利氏が所有している土地だった。

律令制の大膳職(だいぜんしき)の長官が大夫(だいぶ)であり、「だいぜんだいぶ」と読むそうだ。
(「官位の大膳大夫の正しい読み方書き方」を参照した。)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1129787576

当時は、カラスが鳴くだけの人気(ひとけ)のない山奥の田畑の間であった。

私は松陰の墓の前に立って、なぜこの青年は若くして江戸で斬首されたのだろうと自然と疑問を感じた。

黒船へ密航を企てて死刑になった。
間抜けな侍。

そういう軽薄な理由ではなく、歴史の陰に隠れている本当の理由があったのではないか。
そのことを知る意味もあって、松陰も歩いたという奥州街道歩きを始めることにした。

長州といえば途方もなく江戸から遠い地方である。

そこで育った一青年の言動が幕府大老井伊直弼を震撼とさせたということが不思議でならなかった。

私もその村や町で青春時代を送ったから、余計にその事実に疑問を感じたのである。
普通にあの町であの村で育っておれば、そんな大それたことを考えるはずがないのだ。

今、萩の「吉田松陰生誕の地」に立ち「シュロの木と指月山の風景」を見ながら、その当時感じていた謎が次第に氷解していくような快感を感じている。

指月山の一族~長州(21) [萩の吉田松陰]

SH3B0069.jpgSH3B0069左上の木々の間から二人の銅像が見える
SH3B0070.jpgSH3B0070指月山とシュロのツーショット
SH3B0077.jpgSH3B0077基礎の石組が家屋配置跡(指月山を望む)

ある程度は予想していたことだが、松陰生誕の地にシュロの木を発見して正直驚いている。
しかも、そのシュロは家屋の玄関口に植えてある。

玄関を出たときに松陰からシュロはどう見えるのか?
それが上の写真である。

指月山とシュロのツーショットが見えるのだ。
毎日この光景を繰り返し見ることになる。

まるで指月山の一族と言ってもよいくらいの視覚効果である。

松陰が生まれた杉家が大内義隆の遺児の末裔や親族だったと仮定しよう。

毛利一族が家康に追われて広島から萩へ移封されてくる前は、大内家ゆかりのものは指月山の麓に住んでいたはずだ。

大内義隆自害(1551年)から関ヶ原の戦い(1600年)までの少なくとも約50年間は指月山の麓の城に居住していたはずだ。

なぜならば、この指月城は吉見正頼によって作られたもので、その城の主の正室が大内義隆の姉であったからだ。

山口で父の大内義隆が自害したのち、その遺児と護衛団が叔母の所有する萩の城へと落ちて行く光景は、当然過ぎるほど当然のことである。

『(吉見正頼は)石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主であるが、毛利輝元が慶長九年(1604)に萩城を築城する以前に、すでに萩の指月に居館を設けて』いたのである。

(「萩のシンボル「指月」について」より、一部加筆して抜粋した。)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm

吉見正頼にとって、萩の指月山の城は別館であった。

1604年、半世紀近く住み慣れた指月山を離れて、大内義隆の遺児と親族、家臣団はこの山の麓へと移住してきたのである。

そうせざるを得なかったのである。

大内氏の本姓は多々良氏である。
彼ら自身は、百済の琳聖太子の後裔であることを自称していた。

松陰にとって、毛利氏は本来の主ではなかったはずだ。

『杉家の次男に生まれた松陰(当時は寅次郎といった)は、吉田家の養子に出された。
養父が早死にしたせいもあり5歳の時から吉田家の家督を継いだ。

この吉田家、実は藩の山鹿流兵学(学祖は山鹿素行)の師範家であったため、わずか8歳の時に藩校の明倫館で教授見習いとなり、10歳で藩主の御前で講義をした。』
「吉田松陰(よしだしょういん1830-1859)」より)
http://toyama.cool.ne.jp/miyamiya1969/lesson_history_syouin.htm

松陰が10歳のときに毛利藩主の御前で兵学を講義した逸話は有名である。

つまり、10歳までの間に玉木文之進はあの坂の下にある松下村塾で虎之助(松陰)を鍛え上げたのである。

玉木家での激しすぎる訓練は、おそらく3歳頃から10歳までであろう。
約7年間で、後に偉人となる人間を作りあげたことになる。

母親が「虎や、死んでお仕舞い」と叫んだのは、虎が一番かわいい盛りの年頃のことではなかったか。

3歳、4歳の幼子は、大内家再興の夢を担って激しく鞭を打たれたのである。

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