木戸の仁と会津戦争~長州(75) [萩の吉田松陰]

SH3B0278.jpgSH3B0278庭先にトイレもある
SH3B0281.jpgSH3B0281木戸孝允旧宅の居間と廊下と井戸
SH3B0282.jpgSH3B0282風呂のかまど
SH3B0285.jpgSH3B0285庭にも意味ありげな井戸らしき遺物

『維新の三傑 木戸孝允旧宅
木戸孝允(桂小五郎)は、天保4年(1833)この家に生まれ、嘉永五年(1852)江戸に出るまでの約二十年間をこの家で過ごしました。

旧宅の木戸孝允が誕生した部屋や庭園などは、当時の姿をよく残しており、また、幼・少年次代の手習い(習字)や少年時代に旧宅に「死而後已(ししてのちやむ)」と落書きしたもの、さらには多数の写真などをご覧いただけます。

入館料 100円  開館時間 午前9時~午後5時
← 入口(entrance)』(抜粋終わり)

「死而後已(ししてのちやむ)」とは、意味は、「命がある限り努力し続ける。」という意味である。
「論語-泰伯」の中の一節からの引用である。

「曾子曰、士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎」 

こう書いても何のことやら今の日本人にはわからない。
江戸時代の日本人は漢字文を見て日本語訳することができていた。

識者による解説を引用する。

『[書き下し文]
曾子曰く、士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して後已む(やむ)、亦遠からずや。

[口語訳]曾先生が言われた。
『有徳の士は、折れない強固な意志を持たなければならない。その任務は重く、目的までの道は遠いのである。仁徳の修得を自己の任務とする、どうして重くないだろうか?
仁の実践は死ぬ時まで延々と続けてから終わることになる、どうしてその道のりが遠くないといえるだろうか?』

[解説]曾子が、有徳の士たる者は、意志堅固な『弘毅の精神』を持たなければならないと説いた部分で、仁徳の修得と完成の難しさを教えているところである。
(「『論語 泰伯』の書き下し文と解説 1」より)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/classic/rongo008.html

仁の実践は死ぬ時まで延々と続けてから終わる

すでに辞令が朝廷から発せられていた長州の品川弥二郎に代えて、奥羽鎮撫総督府下参謀に世良修蔵を抜擢推薦したのは木戸孝允であると推測されるが、その行為は『仁の実践』であるとはとうてい私には思えない。

アメリカの南北戦争であまった武器を東北地方で使用していたずらに日本人同士の血を流させただけである。

江戸城の無血開城という輝かしい革命記念塔を打ち立てた西郷隆盛は、そのとき何をしていたのだろうか。

西郷が薩摩に戻り、江戸にいない間に木戸孝允が画策した作戦なのだろうか。

会津戊辰戦争では、ただ欧米のシーボルトをはじめとする兵器商人たちの懐が潤っただけである。

新政府の勝算が明らかになっていた当時の日本国の中にあって、会津藩での殺戮劇は日本史的な意味はほとんどないと言ってよいだろう。


木戸孝允の死因考察~長州(74) [萩の吉田松陰]

SH3B0275.jpgSH3B0275木戸孝允旧宅の隣地のシュロ2本
SH3B0276.jpgSH3B0276木戸孝允旧宅
SH3B0283.jpgSH3B0283蘇鉄も植えてあった

『木戸孝允旧宅

木戸孝允は、天保4年(1833)6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男として、ここに生まれた。
8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。

初名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。実名は孝允。
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。

30歳の頃から藩の要職につく一方、京都におもむいて国事に奔走した。

慶応2年(1866)には、坂本竜馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。

明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。

これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。

明治10年(1877)5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。

この旧宅は、大正15年(1926)に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建。

木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、昭和7年(1932)に国の史跡に指定された。 萩 市』(抜粋終わり)

玄関脇に庭に入る入口があり、庭から旧宅へと入るようになっている。
旧宅の前に案内板がある。

『説明
木戸孝允生誕の年より嘉永五年十一月江戸出府に至る迄、二十年間居住せし所なり居宅は平屋一部二階建にして玄関、座敷等九室(建坪四十二坪二合五勺)階上二室(五坪二合五勺)あり書斎、浴室および庭園等に至る迄よく旧態を存せり。 
昭和16年4月 文部省』

文部省殿の説明板であった。

木戸孝允は最後にどういう病で倒れたのだろうか、なぜか気になる。

『明治10年(1877)没。享年45歳

『木戸孝允』(松尾正人:吉川弘文館)によると、木戸の死因は胃癌とあります。

Wikipediaには「かねてから重病化していた脳発作が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日(引用者注:明治10年(1877年))、朦朧状態の中、大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去った」とあります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81)。

死因がどうもよくわからないのです。
(「木戸孝允は病死だと思うのですが病名をご存知の方お教えください。」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138412846

胃病から朦朧状態になるだろうか。
脳障害を得てたという説もある。

私は京都の芸者幾松との逢瀬に至るまでのさまざまな活動の中で梅毒を得てしまったのではないかと推理している。
根拠はないのだが、45歳で脳を痛める病としては十分梅毒罹患の可能性が考えられる時代背景だっただろう。

『木戸孝允(桂小五郎)は維新の三傑として有名ですが、死因がどうもよくわからないのです。Wikipediaなどに乗ってるのを見ると、脳血管の障害としか書いていません。
今で言うところの何が死因なのでしょうか?

ベストアンサー
木戸は、「心血管障害」となってます。
http://ftp.osaka-amt.or.jp/bukai/saikin/200602/6.htm

ただ、肝臓が肥大し、歯痛・腹痛・胸痛・・・いろいろあったらしくどれが、直接の死因かは僕は、分かりませんが
死因の説も、質問者さんが書かれてるように脳であったり、心臓であったり、癌など 説もいろいろのようです。

「歯痛って、ただの虫歯?」って感じですが何でも、10本以上抜いたという話も聞きました。』(「木戸孝允の死因について」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1126140571

京都で梅毒が流行り、木戸孝允の死因を梅毒だと想定している記事があった。

『梅毒とは性病の一種で梅毒トレポネーマという病原体の感染によって起こるものです。主な感染の経路としてはやはり性交によるものが多いでしょう。
しかし油断は禁物、キスなどをしたときに自分で気づかないほどの小さな傷があればそこから感染する場合もあります。

梅毒が日本で初めて現れたのは、記録によれば1512年とされており、京都において大流行してしまった梅毒はその猛威を振るったとされています。

そして15世紀の中で加藤清正・結城秀康が、16世紀に入って前田利長などといった著名人らが梅毒で亡くなったとされる説もあります。

また、1877年に木戸孝允が亡くなったのも、以前から患っていた梅毒の悪化が原因である、といわれています。

昔は抗生物質などなく、慢性化してしまうと障害を伴ったまま過ごさなければならず、そのまま亡くなってしまう人も沢山いました。

しかし今ではペニシリンを初めとする抗生物質の存在が出てきたことにより、昔ほどは危険な性病ではなくなりました。

とはいえ、やはり油断は禁物で、出来るだけ早めに治療しなければ、闘病が長引いてしまうこともあります。

梅毒の症状は第一期・第二期・潜伏期・第三期・第四期という五段階に分けられます。

症状が進行していくごとに障害や痛みなどが増し、第三期に入ってしまうと治療は不可能になってしまいます。

現在は抗生物質の発見により、そこまでの進行を見ることは稀になりましたが、放っておくと確実に命に関わる性病のため、早期発見・治療を目指しましょう。』
(「梅毒とは」より)
http://www.dearalice.net/main/bai1.php

おやおや、私の思いつき直感予想は、なんとなく当たってしまったような気がしてきた。

事実は遺族と主治医しかわからないだろう。

「梅毒が日本で初めて現れたのは、記録によれば1512年」とあるから、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル来日の遥か37年も前からインドネシアや中国からの船乗りの往来があったことが推測される。

もっとも倭寇の歴史から見れば古代から海路の往来は盛んだった。

学者研究によれば、梅毒はアメリカ大陸起源説と小アジア(トルコ)説があるという。

『問題の所在を、時系列的に、しかし問題の重要性の比重は軽重を問わずに並べ
てみると次のようになるであろう。

1. 梅毒の出現、その時期と場所の問題。新大陸とコロンブス
 梅毒が最初に経験あるいは記録された場所はどこかという問題。
コロンブスが1492年にアメリカ大陸に近接する西インド諸島に上陸した際、彼の部下の乗組員が現地人との性的交渉によって梅毒に感染し、それをヨーロッパに持ち帰ったという説の検証が必要である。

2. 旧大陸での痕跡、小アジア(トルコ)での痕跡
 医療人類学が示した、小アジアでの発掘遺骨の中に見出された梅毒痕跡の医学的意味、つまり近代医学の規定する梅毒と同じものなのかどうかの検証が必要。
もしこの発見が正当のものと認められた場合、従来のアメリカ大陸起源説は再検証されねばならない。

3. 「梅毒」という病名の命名、フラカストロとその詩
 イタリア・ルネサンス期の医師フラカストロの詩の表題に使われた名称が、やがて18世紀にそれまでの「おでき」(pox)に取って替わって「梅毒」(syphilis)として認知されるに至った過程の検証が必要。

4. 梅毒の伝播の経路
 コロンブスの航海が梅毒をヨーロッパにもたらしたかいなかについてはともかく、1496年2月にイタリアの都市ナポリを包囲したフランスのシャルル8世の軍隊の中で突然猛威を奮ったことだけは確かである。
その後、ヨーロッパ全体にまたたく間に拡がり、それはやがて東洋にも容赦なく押し寄せてくる。
中国、朝鮮、日本が梅毒に蹂躙されるのにはさして日月を要しなかった。
その伝播経路をできうる限り正確に再現する必要がある。

5. その意味付け、天罰、神罰、急性伝染病としての性格
 どのような病気にも必ずある種の意味付けが行われることが多い。
たとえばそれは疾病観を反映したものもあれば、医療観によるものもあれば、また宗教観を背景に持つ場合もある。以下略。』
(「梅毒の文化史的研究序説」より)
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/genbunronshu/20-2/fukuda.pdf

1496年2月にイタリアの都市ナポリでの大流行は、フランスとイタリアの戦争下で発生している。
イタリアが防衛の目的利用したのか、あるいはフランスが侵略の目的で利用したのかわからないが、攻め入っていたフランス兵の軍隊内で突然流行したとなればイタリアナポリの売春婦からうつされた可能性が高いだろう。
ならば、ナポリ側の都市防衛戦略として機能した可能性もあろう。

梅毒が日本で初めて現れたのが記録によれば1512年だそうだから、日本上陸までに16年間を要している。

その37年後に、ザビエルは日本への上陸を果たしている。

イタリアからアジアへの旅としては、梅毒菌の方が日本へ来るのがかなり早かったようだ。
それは船員の西洋とアジアへの往来が、1512年頃に活発化してきていたことを物語っている。

イタリアから梅毒の日本上陸から約20年後の天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男信長が生まれている。

織田信長とは、そういう時代の申し子だったのだろう。
その西洋からの性病原菌による侵略の嵐によって、最後に襲われた武士が木戸孝允だったような気がする。

以上はあくまで私の勝手な憶測に過ぎないが、木戸孝允の死因にはわからないことが多いというのが確かなようであった。

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