旧約聖書と精錬技術~長州(40) [萩の吉田松陰]

SH3B0127.jpgSH3B0127玉木家を出てすぐ近くの屋敷にある棕櫚の木
SH3B0128.jpgSH3B0128百日紅(さるすべり)の木に咲く花

「環(たまき)」が鉄製品や製鉄技術にかかわりある言葉かどうか調べてみると、あった。

太目の刀剣の柄(え)の先端についている大きなドーナッツ状の鉄の環を「環」といいそれを持つ刀を「環頭大刀(かんとうたち)」と言う。

日本に現存するものは、「漢委奴国王の金印」の次に古い物である。

「環頭大刀(かんとうたち)」が東大寺山古墳で発掘されたというブログ記事があった。
それは若い天理大学OBの方の天理参考館特別展の報告記事だった。

『「中平銘鉄刀」金象嵌銘花形飾環頭大刀(東大寺山古墳出土・重要文化財)~(邪馬台国探訪その7)
タイトルが漢字ばっかりですね(^^;

鉄刀とか、東大寺とか書いてると、数ヶ月前の大発見(「東大寺で大発見!1250年不明の太刀が・・・」)を思い浮かべる人も多いと思いますが、それとは別です
中略。

本部の反対側が天理教庁。その先には天理高校があります。
教庁と同じ建物にあるのが「天理参考館」。
天理大学の附属博物館です。ここでの特別展を見ることが、今回の大きな目的でもありました

東大寺山古墳の出土品、東京から里帰り 天理参考館

卑弥呼の時代語る - 東大寺山古墳の遺物一堂に

かつて天理大学が発掘調査し発見した「中平」の年号が入った鉄刀が、里帰りして展示されています。(注意:この特別展はすでに終了しています)

ここからはちょっこし専門的な話になります。
母校と恩師のことですので、少しは詳しく書いておかないと・・・

この刀は、日本の考古学史上、極めて重要な意味を持っています。

何故なら、この「中平」という年号は中国の後漢の霊帝の年号(184~189年)であり、『魏志』の中の「倭人伝」に記された「倭国乱」が終結した時期であり、ちょうどその頃、卑弥呼が即位したと考えられているからです。

そして、年代の分かる資料としてはあの有名な「漢委奴国王の金印」の次に古い物です。

この刀が実際にいつ、どのような経路でもたらされたのか、そして何故、その年代から200年ほど経ってから副葬品として豪族の古墳に入れられたのかは諸説あり、まだはっきりとは結論は出されていません。

そして、大発見したのが我が母校・天理大学と附属参考館(博物館)のチームであり、中心となったのは我が恩師、金関恕(かなせき・ひろし)先生。
日本考古学の大家で、特に弥生時代研究の第一人者です

恕先生の父、金関丈夫先生は著名な人類学者、解剖学者で、山口県の土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人骨を分析し、それまでの縄文人骨とは顔立ちや体の大きさが異なることを明らかにし、現在定説となっている「弥生人渡来説」を最初に唱えました。

Amazonで父・丈夫先生の著作の解説を見ると、

「和漢洋にわたる象のように重い知識と,それに拮抗し得る鳥のように軽い精神をもちあわせていると言われ、しばしば南方熊楠に比せられる金関丈夫(1897-1983).人類学・解剖学・民族学・考古学・言語学などにわたる該博な知識を駆使し,鋭い着眼で東西の説話や伝承を自在に比較考証する」

「矢尻が刺さった女性の頭骨。彼女の死はいったい何を意味するのか。抜歯の習俗や勾玉等の装身具からどのような精神世界が探れるか。占い・入れ墨の風習の伝来はどうだったか。博覧強記の人類学者・金関丈夫が、発掘の成果を世界の民族例を参照し、古文献を駆使して綴った軽妙なエッセイ。古代世界への想像力を刺激する一冊」

このように書かれています。

また、先生の古い書物を「大林太良先生」が編集していることだけでも、その偉大さが分かると思います。

そう、金関丈夫先生はあの熊楠と並び証される偉大な学者であり、生まれたときからその「金関学」を学んだのが、息子さんであり僕の恩師である恕先生です

この刀、本来であれば発掘した天理大学が保管し分析するはずでした。

しかし、そのあまりの価値から文化庁が異例の速さで重要文化財に指定し、文化庁、そして東京の国立博物館の手に渡ってしまいましたそれが40年ぶりに天理大学に里帰り・・・OBとして行かなければ!

中は撮影禁止のため、カメラに収めることは出来ませんでしたが、実物を間近で食い入るように見てきました驚いたのはその金色の文字の鮮やかさ。はっきりと文字が読めるのも驚きですが、その輝きにびっくり

実際、この展示の前に東京文化財研究所が分析したところ、金の純度が99.9%以上でほぼ純金という驚くべき結果でした。その事からも、この鉄刀の価値の高さが伺えます。

これほどまでにすごい発見をした先生や先輩方は、自分達の手で調べたかっただろうなあ・・・』(「「中平銘鉄刀」金象嵌銘花形飾環頭大刀(東大寺山古墳出))より)」
http://playlog.jp/masashi-su/blog/2010-12-19

製造は刀の記銘年号から、紀元184~189年頃と推定されている。
キリストが死刑になって(聖書によれば)復活したときから、わずか189年後のことである。

金の純度が99.9%以上ということは、金精錬技術の性能の高さを表している。
たたら吹きの多々良氏、あるいはその祖先の製造したものだろうか。

この記事は2010/12/19付けであり、最近掲載されたものである。

40年前のこととは言え、国としては第一発見者の考古学的評価や価値を認め、彼らの調査分析方針を聞いて、尊重するべきであろう。

歴史は、こっそり密室で一部の人々の間で都合のよいように解釈するものではない。
公開しつつ、主権者である国民とともに歴史を考えていくようにして欲しいものだ。

剣は、古くは銅製だったが、起源前2~1世紀の弥生中期中頃に鉄製に替わっていった。

『日本で銅剣が作られ始めるのは弥生時代中期初頭のことで、朝鮮半島から銅剣が伝わった直後から日本で銅剣の製作は始まります。

当初、製作拠点は有明海沿岸から玄界灘沿岸にかけての地域に集中していて、福岡市内では、志賀島の勝馬で細形銅剣の鋳型が出土しています。

やがて、朝鮮半島の細形銅剣とは異なる独自の形態に発展し、銅剣の使い方が武器から祭器に変化するにつれて本来の銅剣とは全く異なる形へ変化します。

福岡市東区八田で出土したと伝えられる銅剣鋳型は中広形で、細形銅剣よりも長く幅広くなっています。
このように国内で生産が開始された銅剣ですが、大量生産は無理だったようで、ムラやクニの指導者達しか入手できない貴重なものでした。

したがって銅剣は実際に戦場で使うものではなく、身分や権力を表示するためのものになっていたとみられます。

一方、このように製作段階で形態が変化するだけではなく、使用することで形が変わっていくこともあります。

刃を何度も研いだために剣身が極端に細くなっていたり、柄を固定するために茎に目釘穴を開けたりした銅剣は、使用した人の独自の工夫の結果と言えそうです。

銅剣から鉄剣・鉄刀へ
銅剣をはじめとする青銅武器は弥生時代を象徴する青銅器ですが、弥生中期中頃からは鉄器も普及します。
中期後半以降、青銅器が祭器へ変化すると入れ替わるように鉄製の武器が出現します。

鉄剣・鉄刀は鉄製武器の中で最も早く導入され、鉄製の戈・矛・鏃とともに普及していきます。

鉄剣には柄をつけるための目釘穴が開けられたものもあり、細形銅剣と同じように柄をつけて使われたと考えられます。

鉄刀は柄の頭に輪がついた素環頭大刀(そかんとうた)や素環頭刀子(とうす)が弥生時代中期に中国(漢)から入ってきました。

素環頭大刀は漢では歩兵の武器として使用されていました。
この素環頭の刀は大きさに応じて使用目的が異なり、工具・書刀(しょとう)としての素環頭刀子と、武器としての素環頭大刀に大別できます。

これら弥生時代の素環頭刀は北部九州を中心に分布しています。

これらの鉄剣・鉄刀は青銅武器と同じく、多くが副葬品として出土します。
鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だったとみられます。

吉武樋渡62号甕棺墓から出土した素環頭刀子は小型の前漢鏡とセットになっていて、刀の流入の背後に中国との関係が伺えます。

その後の吉武樋渡の5号甕棺墓と1号木棺墓からも鉄剣が出土していて、継続的に鉄剣・鉄刀が流入していたことがわかります。』
(「銅剣の国産化(歴史展示室)」より)
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/341-350/342/342_02.htm

福岡の岸田遺跡では弥生時代中期の鉄戈が発掘されている。
大陸では既に紀元前2~1世紀に鉄の製造が行われていて、それが輸入されてきたものだろう。

『福岡市教育委員会は13日、同市早良区の岸田遺跡で出土した弥生時代中期(紀元前2~1世紀)の木棺墓と甕棺墓計5基から、銅剣や鉄製の戈など副葬品18点が見つかったと発表した。

 現場の北約3.5キロには、多くの副葬品が出土し「最古の王墓」といわれる吉武高木遺跡(同市西区)があり、担当者は「吉武高木遺跡を中心とする周辺の有力集落の一つと考えられる」としている。

 市教委によると、岸田遺跡で出土した副葬品は銅剣4本、銅矛2本のほか、鉄製の戈や青銅製の把頭飾(剣の柄の飾り)、勾玉など。甕棺墓など約50基が見つかった墓地群のうち、中心部寄りの5基に集中していた。2010.10.13』
(「福岡・岸田遺跡で弥生中期の銅剣や鉄戈18点出土}より)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132004003-n1.htm

ここに出てくる青銅製の把頭飾という剣の柄の飾りは、「環(たまき)」ではなかっただろうか。

製鉄製品で何よりも大事なものは、国家安泰に資する刀剣であったはずだ。

『鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だった。』

そういう墓には玉も一緒に埋葬されていた。
玉は福岡県の遺跡から多く出土している。

鉄刀と銅鏡と玉、日本人ならある神話を思い出さない人はいない。

『三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。』
(「三種の神器(Wikipedia)」より)

高知県高岡郡日高村に「環頭大刀」をご神体として祀る神社がある。

『国常立命を祀る。
神体の「金銅荘環頭大刀」は古墳時代後期の作とされ、昭和33年(1958年)に国宝に指定された。
他に、蓬莱鏡(銅鏡)や木造菩薩面など多くの文化財が残されている。』
(小村神社(Wikipedia)より)

「たたら製鉄法」を伝承する多々良氏は「環」を有する刀を製造できる。
その威厳や威力は神にも通じる。

「環」が神であり、領主にもなる。
朝鮮半島では環を取っ手に持つ刀を「環刀」という。

つまり「環」という刀である。
「環」という刀を製造し得る特殊な技能集団は、「環」氏ではなかっただろうか。

『『韓国刀』とは何か
古くから朝鮮半島では中国の影響を受けて両刃直剣のものや、「環刀」という直刀が用いられていた。

秀吉の朝鮮出兵で17世紀以降、日本刀の優秀さが朝鮮でも広く知られるようになると日本から日本刀を輸入し、基本的な構造はそのままで一部改良を加え倭刀と呼び使用した。

またこれにより日本刀の強い影響下にある刀剣が以後一時期の間多く作成されたが、古来からの中国式に近い剣も引き続き多く使われた。

現在の韓国で一部の人が『韓国刀』を名乗って製作した刀剣は韓国古来の直刀ではなく、この倭刀、もしくはその強い影響下に作成された刀剣であることが多々あり、日本人との摩擦を引き起こしている。

『韓国刀』問題
古代の朝鮮半島南部の弁韓(後の加羅(伽耶)、任那、安羅など)には古くから倭人が定住し、製鉄を営んでいた。

そのため高霊地方では日本式の土器などが多く出土する。
それらの倭人がもたらした製鉄技術は日本本土で伝承発展し、出雲国などで新たな画期的発展を迎え日本独自の踏鞴(たたら)製鉄を生み出した。

この製鉄技術を基に平安時代中期以降(10世紀ころ)刀身に反りのある初期の日本刀(太刀)の発明に至った。』(韓国刀(Wikipedia)より)

ルーツの話題になると、サッカーの日韓戦のごとくお互いの国が熱くなる。
これはやはり血が濃いのであろう。
寄ると触ると喧嘩する「兄弟」のようでもある。

朝鮮半島南部の弁韓に住む倭人は、海を越えて周防防府の港から山口へと入って大内氏を名乗った。

倭人はバイリンガル(日本語と朝鮮語)であって、今風に言えば二国籍を持っていただろう。
つまり、多々良氏朝鮮に住む倭人であり、周防の帰化人であった。
ここで朝鮮人か日本人かという日韓戦のごとき姦(かしま)しい議論に私は興味がない。

旧約聖書に記載されているアマルガム法に酷似した灰吹法を伝承してきた倭人とは、ヘブライ人の末裔である可能性が極めて高い。

なぜならば、そんな大事な先進技術を彼らは他民族へ伝承などさせるわけがないからだ。

大内氏自身が「私は百済の琳聖太子の後裔の多々良氏である」と主張しているのだから、私はそれを信じたいが、もっと付け加えれば「百済の琳聖太子はヘブライ人の末裔であった。」となる。

朝鮮か日本か、というような狭い視野の議論、ちょうど今の六カ国協議のような世界に目を奪われていると、世界規模での日本国支配の構図を見誤ることになろう。

150年ほど前の吉田松陰は、「四海(世界の大海)」を見て行動していた。
その思考スケールは、日韓戦、日朝戦などを大きく通り越してワールドカップレベルだったのである。

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