憂国の楓のこと~萩の吉田松陰(11) [萩の吉田松陰]

SH3B0035.jpgSH3B0035伊藤博文の銅像か
SH3B0036.jpgSH3B0036松陰神社職員専用駐車場

伊藤博文が生き残って、松陰の教えに忠実に行動した四天王たちは革命の前に死んでいった。

伊藤の栄華を思うとき、私は自然に高杉晋作のことを思ってしまう。

「松下村塾から徒歩数分のところに伊藤博文旧宅 & 別邸があります。」と先の記事に書いてあった。

伊藤博文旧宅の前を通って行くと、さらに隣地に広い敷地がある。
公園のようにも見えるが、商人の家の庭にも見える。
通常の見学コースと反対方向を私は歩いているようだ。

敷地中央奥に大きな銅像が建っている。
洋服を着ている人物像は遠めには伊藤博文に似ているようだ。

すぐに細い路地の三叉路に出くわす。
松陰神社職員専用駐車場の看板と砂利を敷いた青空駐車場がある。
その向こう側に背の高い松の木が数本見える。

あの松の木の下が松陰神社、つまり昔の「松の下の塾」松下村塾であろう。
ここは私が若い頃に何度も観光できた神社なので、土地勘もある。

伊藤博文の旧宅からは、走っていけば1~2分で塾に到達できる。
伊藤俊輔の幼名は利助である。

「伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。」(伊藤博文(Wikipedia)より)

利助は家屋の外に立ち松陰の講義を聞いていた。

おそらく久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の松下村塾四天王などが松陰の前に座って聞いたのであろう。

この松門四天王は、明治維新革命の成功を前にして、いずれも死んでいった。
「死をもって革命をなせ」という過激な松陰の指導に忠実に従った結果と言える。

高杉は病死であって戦死ではなかったが、奇兵隊創設と維新の先陣を切った点は、革命の導火線役として十分な働きをしている。

高杉と久坂、吉田らは優秀だが、度胸がないと松陰は言い、入江九一だけは国のために死ねる男児であると言った。

その入江も禁門の変で負傷し切腹をしている。

『入江 九一(いりえ くいち、天保8年4月5日(1837年5月9日)~元治元年7月19日(1864年8月20日))は幕末期の長州藩士である。名は弘毅。通称は万吉、杉蔵。字は子遠。別名は河島小太郎。野村靖の兄。贈正四位。

生涯
天保8年(1837年)、長州藩の足軽入江嘉伝次の長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰に学んだ。

松陰から高く評価され久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。

同年、師匠の松陰が幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ。

このとき高杉と久坂、吉田らは猛反対したが九一だけは賛成し計画に加わった。

このとき、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。

そのため、松陰が井伊直弼による安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとした。

しかし、幕府に察知されて弟の野村靖と共に投獄されてしまった。

その後、釈放されて文久3年(1863年)、足軽から武士の身分に取り立てられた。

その後は京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。

元治元年(1864年)、禁門の変では久坂らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れて久坂は自刃する。

九一は何とか脱出しようと図ったが敵の銃撃を受けて負傷し、その場で切腹して果てた。享年28。

志士としてのその後の活動が期待されていたが志半ばで無念の死を遂げた志士として、上善寺に手厚く葬られた。

木戸孝允・大村益次郎たちによって長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社、下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社、山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社、東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。』(入江九一(Wikipedia)より)

松陰が入江九一を評価して言った言葉は、特に松陰斬首の後で晋作を苦しめたはずだ。

「君(入江)だけは国のために死ねる男児である。」

晋作も、いつかは国のために死ねる行動に立つべきだと考えていた。

かつて私が知人M氏と一緒に山口市湯田温泉の松田屋旅館を訪ねたとき、旅館の歴史資料室に置いてある楓の幹に彫った文字を見た。

それは奇兵隊決起の前日(かその前)に彫った文字である。

晋作が夜の旅館の玄関先に一人で立ち、楓の木の幹を小刀で削り、その刃先で刻んだ文字だった。

実際見た文字はカビで黒くにじんでおり、目を近づけて凝視しないと判別できにくいものだった。

拙著ブログ「楓(かえで)と紅葉~奥州街道(3-152)」からその下りを抜粋する。 http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/59077409.html

『明治以降、福島県は自由民権運動の奥州の中心となっていた。
活動の中心場所は福島宿の『紅葉館』(旧客自軒)である。

東京・世田谷の松蔭の墓の傍には老楓の木がそびえている。

高杉晋作が決起の心中を亡き師松蔭へ伝えるために人知れず密かに小刀で刻んだのは、山口・湯田(カタカナで書くと「ユダ」)の松田屋旅館玄関前の楓の幹であった。

そして肺結核で病死した晋作の墓は、下関の紅葉谷のふもとにある。
紅葉谷を最後の場所に指定したのは晋作自身である。
そこに東行庵を設けて内妻を尼として住まわせるよう遺言している。

松蔭と晋作の間には、間違いなく紅葉(楓)の契りがあったはずだ。

そして福島にも紅葉を中心に自由民権運動が拡大していった。

山口で自由民権運動の拠点に紅葉や楓の名のつく館があったかどうか。
山口の自由民主党の総裁は、岸信介、佐藤栄作、安部晋三らであるから、さしずめ田布施町が昭和時代は中心となっている。
明治時代の中心も田布施町だったかどうか、私は知らない。

山口を訪問したときに、ザビエル布教の場所に寄ったことがある。
山口の大名である大内義隆の屋敷傍に小路があり、そこの井戸の前に立って民衆を説いていたと言われる。

そこには枯れた井戸と説明板が立っていたが、背景は一面の楓の木であった。
秋には真っ赤になることだろう。』

この記事では書かれた文字は紹介していなかった。
別の記事で私は詳細に報告していたのだが、検索では見出せなかった。

自分の記事さえ検索できない検索エンジンには、まだ改良の余地があるだろう。

しかし、「湯田温泉歴史秘話」(ゆこゆこネット)の記事に晋作が楓の幹に彫った文字が紹介されていた。
それを抜粋する。
http://www.yukoyuko.net/onsen/area09/pre35/onsen0724/rekishi

『山口市の中心部近くに広がる湯田温泉は、今も昔も盛り場として人々で賑わう温泉街。
幕末の世、長州藩が維新回天の表舞台に名乗り出た時代もまた、多くの志士たちが集っては酒を飲み、国家を案じ熱い議論を重ねたという。

その温泉街の一角に、堂々たる風格を見せて門を構える「松田屋ホテル」が建つ。

ホテル内の浴槽「維新の湯」は、幕末風雲を舞台に活躍した高杉晋作、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、伊藤博文、大村益次郎、山県有朋、井上馨、三条実美など錚々たるメンバーが湯を浴びたことでも有名。

長州と薩摩が手を結び、倒幕へと突き進むための密会も、このホテル内でたびたび行われたという。

現在、館内には当時の貴重な資料が展示されている「維新資料室」を併設。

その中に、1本の楓の木が保存されている。
「高杉晋作 憂国の楓」と名づけられたその木には、次の文字が刻まれている。

「盡国家之秋在焉」(国家ニ盡<ツク>スノトキナリ)。

1863年(文久3)、八月十八日の政変が起こり、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は京都から追放される。

その後、藩内は尊皇倒幕を唱える急進派vs幕府に従おうとする恭順派の対立で混乱を極め、1864年(元治元)には井上馨が恭順派の一派に急襲され瀕死の重傷を負い、「松田屋」に運び込まれるという事件も起こった。

また、第一次長州征伐の際には恭順派が藩政を牛耳り幕府へ従順。
急進派の重鎮が政権から一掃される。

これを受けて、高杉晋作は下関にて挙兵を決意する。

「今から長州男児の肝っ玉をお目にかけます」と、自ら創設した奇兵隊と急進派を率いて出兵。

藩政をひっくり返し、長州藩は一気に尊皇倒幕へと傾倒する。

1866年(慶応2)の第二次長州征伐では、海軍総督として幕府艦隊を駆逐。
長州藩の事実上の勝利(実際は長州藩優勢で休戦)を見届けた後、1867年(慶応3)肺結核のため27歳の短い生涯を閉じた。

同年、大政奉還。
250年超にわたる江戸幕府は幕を閉じ、明治維新を経て日本は新しい国家へと生まれ変わっていく。

高杉が、「松田屋」の玄関横に植えられていた楓の木に「盡国家之秋在焉」と刻んだのは、八月十八日の政変の直後だと言われている。

しかし、この文字が発見されたは大正時代に入ってから。
誰にも気づかれることなく、ひっそりと“国家のために尽す時がきた”と刻んだ高杉の決意は、どのようなものだったのだろうか。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評された高杉が、命を燃やした晩年の4年間。師の吉田松蔭が革命家としての素質を認めた通り、長州藩そして国家を一気に維新革命へと導いていく役割の一端を担ったとも言える。

京都の政変で国家が動乱に突入することを知り、今が自らの生き際と見極めた時。“時が来た”と刻んだ7文字の言葉に、彼の身震いするほどの興奮がうかがえる。』(抜粋終わり)

革命を決意すべき夜の会合がユダ温泉のマツダヤで開催されたはずだ。

その会合の席の途中か終わってか、晋作はたった一人で松田屋の玄関に出た。

空には月が出ていただろう。

直径20cmほどある太い一本の楓の木が玄関脇に聳え立っていた。

晋作は小刀を取り出して幹の皮を削った。

すると白い内皮が月明かりに浮かび上がってきた。
小刀を立てて刃先で文字を刻み込んだ。

既に松陰はこの世にはいない。

「先生、入江九一に先を越されたけど、私も度胸はあることをお見せします。いよいよその時機の到来です。」

そういう気持ちで彫ったのであろうか。

人知れず彫ったことは事実である。
大正時代にこの楓の木を伐採した旅館の人が、「苔で膨れ上がっている幹の一部分」に気がついたのである。

指で膨れた部分に触ると、その瘡蓋(かさぶた)のような樹の厚い皮がはらりとはがれて、薄汚れた文字が浮き上がってきたという。

「盡国家之秋在焉」
(国家に尽くすの時なり)

なぜ晋作は同志たちに見せずに、「こっそり」と彫ったのか?
これは、いまだに私の中の謎である。

もし完全に秘匿すべき言葉ならば、楓の木などに決して彫るべきではない。

後世の誰かに、「秘密の命令を受けてそれを実行したこと」を書き残しておきたかったのではないだろうか。

秘密をばらせば暗殺されるレベルの秘匿すべき事項だったのではないか。
或いは晋作は病死ではなく、暗殺された可能性さえあるかもしれない。

ユダ温泉の楓の木に書かれた文字であった。

晋作が尽くそうとした「国家」とは、一体どの国なのか?

もしその国が日本国であれば、そのことを密かに刻み後世に残した意図は何か?

日本国のための決起ならば、長州藩内の楓の木に「密かに刻む必要」などないだろう。

後の廃藩置県や廃刀令など、武士の社会の終焉に革命は至るのであるが、晋作がこのときに既にそれを意図していたとすれば、たとえ自藩内であっても同志にそのことは悟られないようにした可能性もあるだろう。

明治以降、西郷隆盛でさえ武士の恨みを抑えることが出来ずに、反乱の大将に担ぎ上げられたくらいだった。

松陰と晋作だけは、「革命に内在するその秘密」を知っていた可能性が高い。

天にいる松陰へ向かって、晋作はこっそりと「それ」を言いたかったのであろう。
ならば木に刻む必要などない。

一体誰に読んでもらおうとしたのであろうか。
100年後の私たちに読ませようとしたのであろうか。

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StevPlaunc

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