シュロの枝のお出迎え~長州(47) [萩の吉田松陰]

SH3B0157.jpgSH3B0157長久寺
SH3B0158.jpgSH3B0158臨済宗だ
SH3B0159.jpgSH3B0159境内にシュロの木が見える
SH3B0160.jpgSH3B0160境内からシュロを見返す

やはりここが長久寺だった。
臨済宗である。

東京・新宿区にある山鹿素行の墓は曹洞宗宗参寺にあり、シュロの木が墓の傍に3本あった。
山鹿素行を育てた祖心尼(お奈)は、同じく新宿区の清松寺に住み、葬られているが、そこは臨済宗だった。
門扉が閉ざされていて境内には入れなかったが、門扉の内側に無数のシュロの若木があった。

そう思いながら、長久寺の門をくぐり階段を上っていると、左手奥の境内に背の高いシュロの木が見えた。
塀を乗り越えて、参詣する私に挨拶をしているように感じられた。

「よくここがわかったねえ」と。

境内に上がってから、私はなぜかシュロの木の前に立った。

先ほどのシュロを背後から見返す格好になった。

シュロは道行く人々へ向けてサインを送っているように見える。

「お目当ての祈りの場所はここだよ。」と言っているように見える。


橋を渡って右~長州(46) [萩の吉田松陰]

SH3B0149.jpgSH3B0149隠れ切支丹の墓標「マリア観音像」500m長久寺
SH3B0150.jpgSH3B0150道に迷う
SH3B0156.jpgSH3B0156雲が出て日が翳る
SH3B0155.jpgSH3B0155正面の山すそに見える大きな屋敷

案内板には「隠れ切支丹の墓標「マリア観音像」500m長久寺」と書かれている。
ここから脇道へ入り500m先の長久寺に行けば会えるということだ。

しかし、同じような小道の農道が途中で分かれているので、どちらへ曲がればいいかわからない。

地元に人には寺がどこにあるか自明なのだろうが、東京から昨日やってきた私には道の分岐で出会うたびに迷ってしまう。

雲が出て日が翳ると、山の里の景色は急に夕方のような寂しさを演出する。
心細くさせてくれるのだ。

今回は街道歩きではなく、車中泊の用意をしてきているので、どこで日が暮れようとも心配はない。
それでも日が翳った里の田園風景は、心理的にあせりを生じさせてくれる。

しばらく行きつ戻りつを繰り返していたが、堪らず農家のおじさんに聞いてみた。
長久寺なら橋を渡って右だよと教えてくれた。

小さな石の橋があり、そこを渡って右へ道なりに車を進めると、正面の山すその高台に大きな屋敷が見えてきた。

あれが目指す寺のようだ。

白百合~長州(45) [萩の吉田松陰]

SH3B0146.jpgSH3B0146帰り道
SH3B0147.jpgSH3B0147小川の白百合
SH3B0148.jpgSH3B0148川の向こう側

帰り道も同じ民家の庭を通って通りへと出る。
小川に沿って数本の白百合が咲いていて、とても美しい

住宅街から一般道路に合流する地点に車を駐車させていた。
そこには川がゆったりと流れ、川の向こう側にキリシタン記念地(至福の里)があるという。

車でそちらへ移動しようとしたが、道に迷ってしまった。
仕方なく次のマリア観音へ向かう。

マリア観音はさらに北東へ数百メートルほど進んだところに案内看板があった。

至福の里の竹林~長州(44) [萩の吉田松陰]

SH3B0145.jpgSH3B0145山側から三位一体像を見る
SH3B0141.jpgSH3B0141シュロの奥に竹林
SH3B0142.jpgSH3B0142教会の祭壇にも似た竹の群生
SH3B0143.jpgSH3B0143たくさんのシュロの苗木
SH3B0144.jpgSH3B0144祈りの石?

ここはしぶき村(紫福村)と呼ぶそうだが、手元にあるパンフレットに至福の里と書いている。
それはこの切支丹墓標と川を挟んで向かい側(西側)にあるキリシタン記念地の別の名である。

やはりキリシタンがは至福を求めてこの地へ逃れ、隠れ信仰を続けるために地名もしぶき村と替え読みしたのであろう。

三位一体像から数歩山側に入って、振り返って像を見ると、その向かいにシュロの木が幾本も生えているのが目立ってくる。

シュロの枝はこの三位一体像を祝っているのだろうか、それとも像とシュロの間の小道を縫って山へ近づいた場所にある「何か」を祝っているのだろうか。

モーセは紀元前13世紀にユダヤ人たちにシュロの枝(西洋ではナツメヤシの枝)で神を祝えと言った。

旧約聖書の翻訳において、ザビエルが依頼した薩摩のヤジロウがシュロと和訳したようだから、それ以降の習慣だとすればザビエル来日後の習慣となる。

しかし、日本に渡来したユダヤ人が先祖伝来の信仰を日本国で続けてきたとすれば、武蔵一之宮建立の紀元前5世紀以前にも、日本で神を祝う場にシュロが植えられていたことになる。

そういう風習が日本国にあることを踏まえて、やじろうは神を祝うための枝と聞き古くから日本で使われていた棕櫚をナツメヤシの和訳に当てたのかも知れない。

禅宗の僧侶はザビエルの全能の神についての説明を聞くと、ゴッドは我らの大日如来そのものであると言った。
やじろうも神を「大日如来」と和訳していたのだった。

これにはザビエルが慌てたようである。
さっそく日本語の聖書では、神を原語の「デウス」(ダイウス)と音(おん)で表記するように改めた。

シュロの奥の山に近づいてみる。

シュロの奥には竹林が見えてきた。
竹林の中央前に立つと、教会の祭壇にも似た竹の群生が視界に広がってくる。

なんだか神聖な気分になってくるから不思議である。
竹林の斜面に信仰の対象となるものがあるのではないかと探してみた。

竹林の裾野にはシュロの苗木というか若い木がたくさん生えている。
これはこの場所に大昔大きなシュロの木が生えていて種がまかれたことを示しているのだろう。

親のシュロは何らかの理由でこの場所から消えてしまったが、その子孫たちが日光を浴びてスクスクと芽を伸ばしている。

完全に存在の痕跡を抹消できないことが植物の素晴らしさでもある。
キリシタン信仰も結局根絶できなかった。

竹と雑草以外に何もない竹林であったが、ひとつだけ石の上に立っている石を見つけた。
祈りの対象である石像であると見えなくもないが、自然石そのままのようにも見える。

ただ、苔むした石の上に石が立つという不自然さがあり、人為的に信仰目的でここに置かれたものだろうと想像できる。

或いはキリシタンではなく、土着の古代信仰の足跡かも知れない。

左右に扇形に広がる孟宗竹の景色は、なんとなく神や仏との出会いを思わせてくれるようだ。

紫福(しぶき)地区の三位一体像~長州(43) [萩の吉田松陰]

SH3B0136.jpgSH3B01356畑の先は杉林
SH3B0137.jpgSH3B0137小川とシュロと石造
SH3B0138.jpgSH3B0138三位一体像
mihasira.jpg葛飾北斎画:『北斎漫画』『三柱鳥居』(三柱鳥居(Wikipedia)より引用)

紫福村は至福の連想から「しふく村」と私は読んでいたが、、読みが間違っていた。

『福井地区・紫福地区(旧福栄村)
中心となる福井地区には県道山口福栄須佐線と県道萩篠生線が、紫福(しぶき)地区には県道山口福栄須佐線が通っている。

山間の盆地に開けた土地であり、夏季は比較的暑く、冬季は寒冷である。
萩市でも屈指の米の生産地である。
また、フライドチキン型のチーズケーキも地区内にある道の駅ハピネスふくえで売っている。』(萩市(Wikipedia)より)

紫福村は「しぶき村」と読むそうだ。
おそらく至福(しふく)と音が重なることであらぬ疑いをかけられたくなかったからであろう。
移住した大内家家臣の信者たちの本心は、きっと「至福(しふく)」を願って名づけたことだろう。

民家の庭先を抜けると、野菜を植えている畑があり、そのあぜ道をさらに奥へと向かう。
やがて眼前が緑一色になり、目の前に鬱蒼とした杉林と雑草が現れてきた。
その杉林の手前の麓に、小さな2体の石像が地蔵さんのようにポツンと立っている。

緑の背景に沈んでしまって見えなかったが、その石像はシュロの木の根元にあった。
シュロの信仰と石像は一体であることが直感できる。

旧約聖書には、神をシュロの枝で祝えと書いてある。
新約聖書のキリスト教でも、イエスの復活を「枝の主日」と称して、シュロの木の枝を捧げて祝う。

『三位一体像
室町時代、大内氏滅亡のあと戦乱の場となった山口から多くのキリスト教信者が紫福村へ逃れてきたという。

さらに、江戸時代になると毛利の切支丹禁断政策により、信者はひっそりと、山里に隠れすんだといわれてます。

この路傍にある二基の苔むした墓碑の一基は三面一体となった像です。

合掌像や墓石の小窓の形に使われている三角形はキリスト教の奥義である三位一体をはのめかす何らかの象徴でしょう。』
(「隠れキリシタン墓標群(萩市観光ポータルサイト)」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10353

どちらの石像も三角形が刻まれている。
私には合掌したときの腕の形に見えるが、三角形だと言われれば確かにそうも見える。

この萩市観光課のサイトは、その「三角形」が『キリスト教の奥義である三位一体をほのめかす何らかの象徴である。』と解説している。

まじめな論文に「三位一体論と弁証法 : ヘーゲルの「神的三角形」について」というのがあった。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007188265
著者は、流通経済大学経済学部の青木茂氏である。
収録先は流通經濟大學論集 28(2), A1-A18, 1993-11である。

ニカイア会議の三位一体論などを論じており、本格的な論文であるが、ここでは詳細は省き別の平易なWikipedia記事を抜粋することにしよう。

平易な解説文と書いてしまって後悔したが、Wikipedia記事ですら相当長く難解である。
古くはヒンドゥー教の概念にも「三神一体」があったそうだから、話がややこしくなる。

『この項目では、キリスト教の概念について説明しています。

正教会の訳語については「至聖三者」をご覧ください。
英語からの片仮名転写については「トリニティ」をご覧ください。
ヒンドゥー教の概念については「三神一体」をご覧ください。

三位一体(さんみいったい)とは、キリスト教の語で父と子と聖霊が一体(唯一の神)であるとする教理。
キリスト教が受け入れる中心的教義・教理である。

ユニテリアンなど三位一体を認めない宗派もあるが、三位一体を信じるトリニテリアンの立場からはキリスト教でない異端と看做される。

この語は、キリスト教神学を離れて、3つに見えているものが本質的には同じものであること。
あるいは、三者が心を合わせること。
3つのものを一つに併せることを指して用いられる場合もある。

概要
三位一体(さんみいったい、さんいいったい)は、正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントといった、キリスト教における中心的教義の1つであり、正統教義のひとつである。

4世紀に公会議において明文化された。
また、この教説における意味での神の性格を三一性という。

ギリシャ語で Αγία Τριάδα(「聖なる三」の意)、ラテン語で Trinitas (「三にして一」の意)という。

正教会の一員である日本ハリストス正教会では至聖三者(しせいさんしゃ)と訳される。

教義・教理
「父なる神」と「ロゴス (λόγος) である子なるイエス・キリスト」と「聖霊」の3つは、皆尊さが等しく、神が固有の三つの位格(自立存在: 希 υπόστασις (hypostasis), 羅 persona)でありながら、実体(希 ουσία (ousia), 羅 substantia)は同一であるという意味である。

聖霊について、正教会に属する日本ハリストス正教会では「聖霊」ではなく、「聖神(せいしん)」を訳語として採用している。

これら3つの位格はしばしば簡潔に父と子と聖霊(聖神)と言い表される。

正教会では神における三つの自立存在 (υπόστασις) を強調するため、「聖三者(せいさんしゃ)」「至聖三者(しせいさんしゃ)」(いずれも日本ハリストス正教会の訳語。ギリシャ語: Ἁγίας Τριάς: hagias trias. )という。「父と子と聖神、一体の聖三者をおがみて」(主日徹夜祷早課)など、祝文(祈祷文)の随所に織り込められている。

「三位一体」という語は教父のテルトゥリアヌスによる造語である。

三位一体の根拠にあげられる一つが『ヨハネによる福音書』であり、そこには、神である父が神であることば(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「助け主」なる聖霊を遣わす(ヨハ1:1, 14, 14:12, 16-17、26)という構図である。

アウグスティヌスは三位格の関係を「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えた(『三位一体論』)。

三者はそれぞれ独立の相をなしつつ、一体として働き、本質において同一である。
これは西方神学における三位一体理解の基礎となる。

また西方では「力」である父、「愛」である子、「善」である聖霊という理解も見られる。

対して正教会では、ニュッサのグレゴリオスなど、三位格の独立性・自立性を主張する論が多くみられる。
三位はそれぞれ自立しながら、その完全性ゆえに互いに優劣差別をもたない。
ゆえに他を排することなく、その愛の交わりは完全であるとする。

抽象的な一致への想念を巡らす以上に上記の如く、永く伝えられてきた祝文(祈祷文)の随所で歌われ讃められ、愛を知る便りとなる。

エホバの証人など三位一体を否定するグループからは、三位一体の根拠は聖書にないと主張されるが、三位一体を信じるキリスト教の立場では三位一体の根拠が聖書におかれており、三位一体を否定するグループはキリスト教ではない異端と判断される。

聖書のみをかかげるプロテスタントにおいては宗教改革者ジャン・カルヴァンが三位一体を否定する者に対して、『キリスト教綱要』で三位一体の語を使う妥当性について弁護している。

歴史
第1回ニケーア公会議(ニケア公会議)
キリスト教が広がる過程で、教理解釈のさまざまな異論が生まれていった。

4世紀初め頃、アレイオスによって説かれた「御子は御父と同一の実体ではなく (έτεροούσιος) 神性を持たない」と考えるアリウス派が、当時は神学において首位を担っていたアレクサンドリア学派と激しく対立した。

教理の混乱に収拾がつかず社会問題にまで発展したため、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世は公会議を召集、325年第1回ニケーア公会議(ニケア公会議)において、アレクサンドリア教会の助祭アタナシウスらの論駁により、アリウス派側が異端として敗北した。

アタナシウスはさらに書簡などの中で、聖霊が御父と同一の実体 (同本質: όμοούσιος) とすることを説いた。

後、彼はアレクサンドリア教会の総主教(総大司教)に叙階され、三位一体の教理において第一人者となった。

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 [編集]
4世紀後半から5世紀の初め頃には「聖霊は神性を持たない (Pneumatomachi)」とする考えが、ヘレスポントスに隣接している国々のマケドニア人の間で普及した。

そして、御父と御子と聖霊の実体は同本質ではなく類似 (ὁμοιούσιος) とする類似派、「御父と御子と聖霊は、一つの神の性質に過ぎず、御父みずから受肉(藉身)しキリストとなった」と考えるサベリウス派などが現れた。

これらは、381年の第1回コンスタンティノポリス公会議で異端として排斥された。

そしてこの公会議の際、ニカイア信条は拡張されニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択され、三位一体の教理はほぼ完成に達した。

このときも、アレクサンドリア学派の教父ら(特にカッパドキアの三教父が知られている)が活躍したとされる。

詳細は「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を参照

フィリオクェ問題
しかしながら、ラテン系の西方教会において、ニカイア・コンスタンティノポリス信条がラテン語に翻訳される際、ギリシャ語本文の聖霊に関する箇所において、「父から発出する」を意味する “έκ τού Πατρός έκπορευόμενον” を「父と子から発出する」の “ex Patre Filioque” と訳し、「子とともに」の Filioqueを付加した。

Filioqueとは、「子」を意味する名詞filiusに「ともに」を意味する接尾辞的接続詞queが附加されたものである。

ローマ司教会議はFilioqueを正文と決定したが、公会議を通さずに行われたこの変更に、ギリシャ系の東方教会は強く反対した。

これがいわゆるフィリオクェ問題 (Filioque) である。
フィリオクェ問題は、やがて東西合同で執り行われたフィレンツェ公会議で採り上げられ、一旦ギリシャ系の主教らは「父から子を通して」を承認したが、ロシア正教会は公会議に出席したキエフ主教を破門し、決議の承認を撤回した。

これによって東西教会の分裂はそのままにされることとなった。
ローマ教会ではトリエント公会議の第2回総会で、“Filioque” を加えたラテン語の信条が改めて承認された。

以下略。』(三位一体(Wikipedia)より)

最後の下りは問題となる。
イエス・キリストを神と一体の神の子とするか、神の言葉を受けたただの預言者とするか、大いに分かれていくことになろう。

4世紀後半頃、キリスト教は東西で三位一体の解釈で割れていったようだ。

ここ紫福村の三位一体像はどちらのキリスト教なのだろうか。

イエズス会戦士ザビエルが山口で布教したのだから、ローマカトリック教の教えとなろう。

浅草を散歩していて、私は三囲(みめぐり)神社で三位一体を体感したことがある。

写真にその「三柱鳥居」の絵を引用したが、これは江戸時代の葛飾北斎画である。

『三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせたものをいう。

正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木島神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。

木嶋神社の三柱鳥居

三囲神社の三柱鳥居
三囲神社(東京都墨田区向島)には、石造りの三柱鳥居があり、鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。
三井家の守護神として崇められていることもあり、鳥居には「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社にある」と書かれている。

岐阜県大和町の三柱鳥居

奈良県桜井市の三柱鳥居
以下略。』(三柱鳥居(Wikipedia) より)

三井家の「三井」とは三角形の鳥居の真ん中の井戸から来ているのか。
その原型は京都・太秦(うずまさ) 木島神社にあるそうだ。
『「太秦」という地名の由来には諸説ある。

渡来系の豪族秦氏(秦酒公)がヤマト政権に税を納める際、絹を「うず高く積んだ」ことから、朝廷より「禹豆満佐=うずまさ」の姓を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。

秦氏の拠点であったことから、拠点という語義を「太い」という字で表し、「まさ」は秦氏の「秦」をもって表記し、「うずまさ」と呼ぶようになったという説。

古代ヘブライ語の「ウズ」(光)、「マサ」(賜物)が語源であるとする説。』
(太秦(Wikipedia)より)

その秦氏は渡来人(帰化人)であるが、どこから来たのだろうか。

『途中略。

佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえた。日ユ同祖論を参照のこと。』(秦氏(Wikipedia)より)

空海の本名は佐伯真魚(まを)である。
製鉄技術を保有する渡来人佐伯氏の末裔であろう。

その同じ佐伯姓の好郎氏の説に説得力を感じる。

もし、ユダヤ人説が正しいと仮定すれば、旧約聖書に記述されているというアマルガム法に似た灰吹法を日本人が有していたことも、シュロの木の信仰も、三位一体も納得がいくのである。

多くの日本史における謎が氷解していくような気がする。

そして私たち自身の遺伝子にも、その民族の血が濃く混ざっていることであろう。

東西キリスト教会がどう解釈しようと、三位一体の思想は日本の江戸期には神社の世界に定着していた。

神社での三位一体の教えが、三井家の祖先の話でもあるとすると、ザビエル来日以前のかなり大昔から日本にあった旧約聖書の教えとなろう。

大宮氷川神社、すなわち関東で一番最初に創られた神社は武蔵一ノ宮と呼ばれるが、創建は紀元前5世紀である。

ニケア公会議の800年以上も昔のことである。

民家の敷地へ無断侵入~長州(42) [萩の吉田松陰]

SH3B0133.jpgSH3B0133土塀の先に案内板と矢印
SH3B0134.jpgSH3B0134「三位一体像」の案内矢印
SH3B0135.jpgSH3B0135民家の間の庭先

崩れかけた土塀の遠く先に、案内板と矢印が見える。
「隠れキリシタンの墓標「三位一体像」」とかかれ、その上に大きな矢印マークがある。
その矢印の指す方向を見ると、そこは民家と民家の間の庭先だった。

民家の庭先を抜けて山の方へ歩いていくようになっている。

敷地の無断侵入にためらいつつも、自治体がここを通れと矢印で指していることを勇気に庭へ入っていった。

遠くで犬がほえ始めた。
私がその不審者である。

左手の家屋には窓がないから、右手の屋敷の蔵かもしれない。
だからと言って無断侵入の罪が軽くなるわけではない。

庭には軽自動車と軽トラックの2台があった。
その隙間を縫いながら、屋敷奥の畑へと向かう。
歩きながら胸がちょっとドキドキし始める。

住民の方に見つかって無断で入ったことを叱られやしないかという罪悪感と、隠れキリシタンの秘密の像が見られるかも知れないという期待感が、私の中に同時に沸き起こった。

キリシタンの里へ~長州(41) [萩の吉田松陰]

SH3B0129.jpgSH3B0129松陰神社のすぐ西側を通る道を北上し、阿武郡(あぶぐん)の山の中へ
SH3B0131.jpgSH3B0131この川の両側にキリシタン遺跡がある
SH3B0132.jpgSH3B0132川の左側(萩からくれば右側)奥にもう一本道路があり、そこは屋敷通りだった

玉木文之進旧宅、つまり最初の松下村塾を出て、私は自然に紫福村へ行こうと思った。
この坂を松陰生誕地へ向かって上っているときは、次は萩市内の晋作の家などを巡ろうと思っていた。

しかし、坂道を下って玉木旧宅まで降りてきたときは、金子の故郷紫福村へ行こうと思うようになっていた。

萩を追われた隠れキリシタンたちが、松陰神社の西にある道路から北へと向かったことに因縁を感じている。
まるで松陰神社から出発しているかのようである。

また北へ逃れる隠れキリシタン側から見れば、松陰神社は幕府や毛利藩に対する守りの砦になる。

道を間違って紫福村に迷い込んだある牧師の日記があった。

『<穢多>とキリシタンの里・・・
今日、仕事休みの妻と一緒に、雨の中、<高佐郷>に向かいました。しかし、<高佐郷>の中を走っているとき、雨と霧にけむった峠道や別れ道で方向を見失い、迷いに迷ったあげく、たどりついたのが、奥阿武宰判の<紫福村>・・・。

雨の中でもくっきり目立つように、キリシタンの遺跡をしめす案内板がたっています。

筆者、一度、この<キリシタンの里>である紫福村のキリシタンの歴史を調べてみたいと思ったのですが、紫福村のキリシタンの遺跡・・・、牧師である筆者の目からみますと、なにとなくこころもとないものがあります。

ほんとうにキリシタンの遺跡であるのかどうか・・・。
基督教の教理とあきらかに抵触する遺跡すらあります。

<マリア観音>ひとつをとっても、ほんとうに<マリア観音>であるのかどうか・・・。どちらかいいますと、仏教の<子安観音>の方ににかよっている・・・、ように筆者に見えます。

一説に、山口で迫害されたキリシタン600人が、どうのような方法で、山口往還の通り筋、高佐郷を素通りして、紫福村までたどりつき、紫福村の山奥にその身を隠すことができたというのか・・・? 

<旅人・強盗制道>という役務に誇りをもつ、高佐郷の<検問>をどのようにくぐり抜けることができたというのか・・・?

近世幕藩体制下において、キリシタン600人は、どのような歩みをしたというのか・・・? 近世初期において<キリシタン類族>に指定されても、近世後期には、すでに<キリシタン類族>からはずされ、一般の<百姓>に数えられていたことでしょう。

一度、ひまをみつけて、近世幕藩体制下の宗教警察である<穢多>・<宮番>の配置形態・・・、<キリシタンの里>といわれている紫福村とその他の奥阿武宰判のそれを比較検証して両者に相違があるのかどうか、確認してみたい・・・。

宗教警察である<穢多>・<宮番>は、紫福村においては、どのように機能していたのか・・・。

雨や霧でけむる峠、別れ道で道に迷い、偶然たどりついた<キリシタンの里>・・・、現代人のロマンだけが色濃く滲みでている<キリシタンの里>でした。』
(「穢多とキリシタンの里」より)
http://eigaku.cocolog-nifty.com/nikki/2010/03/post-f75b.html

この牧師さんは、紫福村のキリシタン遺物に疑問を投げかけている。

萩市や阿武町が公認しているキリシタン村について、牧師さんがはっきりと疑問を呈していること自体に不思議な思いがわいてくる。

疑問を感じていても否定しないケースもあるだろうが、この方は「根拠があいまい」というニュアンスを正直にブログで述べていた。

江戸期のキリシタン禁令の厳しさを思えば、それとわかるはっきりとした遺物を信者たちが残せたものだろうか。

「根拠をあいまい」にすることで、彼らは信仰が発覚することを長い間防いで来たのではないだろうか。

空論は辞めて、ともかくも私自身の目で遺跡を見てみよう。

車は両側の緑の森を見ながら、くねくねと坂道を登っていく。
何度か道の分岐に迷うが、正解のコースを通っているようだ。

川が豊かな水をたたえている場所に、キリシタンの村はあった。
周囲は水田であり稲穂が青々と茂っていた。

道は川に沿って曲がりくねるが、一本奥にももうひとつの生活道路がある。
私は川沿いに車を駐車して、歩いて屋敷街の道へと入っていった。

旧約聖書と精錬技術~長州(40) [萩の吉田松陰]

SH3B0127.jpgSH3B0127玉木家を出てすぐ近くの屋敷にある棕櫚の木
SH3B0128.jpgSH3B0128百日紅(さるすべり)の木に咲く花

「環(たまき)」が鉄製品や製鉄技術にかかわりある言葉かどうか調べてみると、あった。

太目の刀剣の柄(え)の先端についている大きなドーナッツ状の鉄の環を「環」といいそれを持つ刀を「環頭大刀(かんとうたち)」と言う。

日本に現存するものは、「漢委奴国王の金印」の次に古い物である。

「環頭大刀(かんとうたち)」が東大寺山古墳で発掘されたというブログ記事があった。
それは若い天理大学OBの方の天理参考館特別展の報告記事だった。

『「中平銘鉄刀」金象嵌銘花形飾環頭大刀(東大寺山古墳出土・重要文化財)~(邪馬台国探訪その7)
タイトルが漢字ばっかりですね(^^;

鉄刀とか、東大寺とか書いてると、数ヶ月前の大発見(「東大寺で大発見!1250年不明の太刀が・・・」)を思い浮かべる人も多いと思いますが、それとは別です
中略。

本部の反対側が天理教庁。その先には天理高校があります。
教庁と同じ建物にあるのが「天理参考館」。
天理大学の附属博物館です。ここでの特別展を見ることが、今回の大きな目的でもありました

東大寺山古墳の出土品、東京から里帰り 天理参考館

卑弥呼の時代語る - 東大寺山古墳の遺物一堂に

かつて天理大学が発掘調査し発見した「中平」の年号が入った鉄刀が、里帰りして展示されています。(注意:この特別展はすでに終了しています)

ここからはちょっこし専門的な話になります。
母校と恩師のことですので、少しは詳しく書いておかないと・・・

この刀は、日本の考古学史上、極めて重要な意味を持っています。

何故なら、この「中平」という年号は中国の後漢の霊帝の年号(184~189年)であり、『魏志』の中の「倭人伝」に記された「倭国乱」が終結した時期であり、ちょうどその頃、卑弥呼が即位したと考えられているからです。

そして、年代の分かる資料としてはあの有名な「漢委奴国王の金印」の次に古い物です。

この刀が実際にいつ、どのような経路でもたらされたのか、そして何故、その年代から200年ほど経ってから副葬品として豪族の古墳に入れられたのかは諸説あり、まだはっきりとは結論は出されていません。

そして、大発見したのが我が母校・天理大学と附属参考館(博物館)のチームであり、中心となったのは我が恩師、金関恕(かなせき・ひろし)先生。
日本考古学の大家で、特に弥生時代研究の第一人者です

恕先生の父、金関丈夫先生は著名な人類学者、解剖学者で、山口県の土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人骨を分析し、それまでの縄文人骨とは顔立ちや体の大きさが異なることを明らかにし、現在定説となっている「弥生人渡来説」を最初に唱えました。

Amazonで父・丈夫先生の著作の解説を見ると、

「和漢洋にわたる象のように重い知識と,それに拮抗し得る鳥のように軽い精神をもちあわせていると言われ、しばしば南方熊楠に比せられる金関丈夫(1897-1983).人類学・解剖学・民族学・考古学・言語学などにわたる該博な知識を駆使し,鋭い着眼で東西の説話や伝承を自在に比較考証する」

「矢尻が刺さった女性の頭骨。彼女の死はいったい何を意味するのか。抜歯の習俗や勾玉等の装身具からどのような精神世界が探れるか。占い・入れ墨の風習の伝来はどうだったか。博覧強記の人類学者・金関丈夫が、発掘の成果を世界の民族例を参照し、古文献を駆使して綴った軽妙なエッセイ。古代世界への想像力を刺激する一冊」

このように書かれています。

また、先生の古い書物を「大林太良先生」が編集していることだけでも、その偉大さが分かると思います。

そう、金関丈夫先生はあの熊楠と並び証される偉大な学者であり、生まれたときからその「金関学」を学んだのが、息子さんであり僕の恩師である恕先生です

この刀、本来であれば発掘した天理大学が保管し分析するはずでした。

しかし、そのあまりの価値から文化庁が異例の速さで重要文化財に指定し、文化庁、そして東京の国立博物館の手に渡ってしまいましたそれが40年ぶりに天理大学に里帰り・・・OBとして行かなければ!

中は撮影禁止のため、カメラに収めることは出来ませんでしたが、実物を間近で食い入るように見てきました驚いたのはその金色の文字の鮮やかさ。はっきりと文字が読めるのも驚きですが、その輝きにびっくり

実際、この展示の前に東京文化財研究所が分析したところ、金の純度が99.9%以上でほぼ純金という驚くべき結果でした。その事からも、この鉄刀の価値の高さが伺えます。

これほどまでにすごい発見をした先生や先輩方は、自分達の手で調べたかっただろうなあ・・・』(「「中平銘鉄刀」金象嵌銘花形飾環頭大刀(東大寺山古墳出))より)」
http://playlog.jp/masashi-su/blog/2010-12-19

製造は刀の記銘年号から、紀元184~189年頃と推定されている。
キリストが死刑になって(聖書によれば)復活したときから、わずか189年後のことである。

金の純度が99.9%以上ということは、金精錬技術の性能の高さを表している。
たたら吹きの多々良氏、あるいはその祖先の製造したものだろうか。

この記事は2010/12/19付けであり、最近掲載されたものである。

40年前のこととは言え、国としては第一発見者の考古学的評価や価値を認め、彼らの調査分析方針を聞いて、尊重するべきであろう。

歴史は、こっそり密室で一部の人々の間で都合のよいように解釈するものではない。
公開しつつ、主権者である国民とともに歴史を考えていくようにして欲しいものだ。

剣は、古くは銅製だったが、起源前2~1世紀の弥生中期中頃に鉄製に替わっていった。

『日本で銅剣が作られ始めるのは弥生時代中期初頭のことで、朝鮮半島から銅剣が伝わった直後から日本で銅剣の製作は始まります。

当初、製作拠点は有明海沿岸から玄界灘沿岸にかけての地域に集中していて、福岡市内では、志賀島の勝馬で細形銅剣の鋳型が出土しています。

やがて、朝鮮半島の細形銅剣とは異なる独自の形態に発展し、銅剣の使い方が武器から祭器に変化するにつれて本来の銅剣とは全く異なる形へ変化します。

福岡市東区八田で出土したと伝えられる銅剣鋳型は中広形で、細形銅剣よりも長く幅広くなっています。
このように国内で生産が開始された銅剣ですが、大量生産は無理だったようで、ムラやクニの指導者達しか入手できない貴重なものでした。

したがって銅剣は実際に戦場で使うものではなく、身分や権力を表示するためのものになっていたとみられます。

一方、このように製作段階で形態が変化するだけではなく、使用することで形が変わっていくこともあります。

刃を何度も研いだために剣身が極端に細くなっていたり、柄を固定するために茎に目釘穴を開けたりした銅剣は、使用した人の独自の工夫の結果と言えそうです。

銅剣から鉄剣・鉄刀へ
銅剣をはじめとする青銅武器は弥生時代を象徴する青銅器ですが、弥生中期中頃からは鉄器も普及します。
中期後半以降、青銅器が祭器へ変化すると入れ替わるように鉄製の武器が出現します。

鉄剣・鉄刀は鉄製武器の中で最も早く導入され、鉄製の戈・矛・鏃とともに普及していきます。

鉄剣には柄をつけるための目釘穴が開けられたものもあり、細形銅剣と同じように柄をつけて使われたと考えられます。

鉄刀は柄の頭に輪がついた素環頭大刀(そかんとうた)や素環頭刀子(とうす)が弥生時代中期に中国(漢)から入ってきました。

素環頭大刀は漢では歩兵の武器として使用されていました。
この素環頭の刀は大きさに応じて使用目的が異なり、工具・書刀(しょとう)としての素環頭刀子と、武器としての素環頭大刀に大別できます。

これら弥生時代の素環頭刀は北部九州を中心に分布しています。

これらの鉄剣・鉄刀は青銅武器と同じく、多くが副葬品として出土します。
鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だったとみられます。

吉武樋渡62号甕棺墓から出土した素環頭刀子は小型の前漢鏡とセットになっていて、刀の流入の背後に中国との関係が伺えます。

その後の吉武樋渡の5号甕棺墓と1号木棺墓からも鉄剣が出土していて、継続的に鉄剣・鉄刀が流入していたことがわかります。』
(「銅剣の国産化(歴史展示室)」より)
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/341-350/342/342_02.htm

福岡の岸田遺跡では弥生時代中期の鉄戈が発掘されている。
大陸では既に紀元前2~1世紀に鉄の製造が行われていて、それが輸入されてきたものだろう。

『福岡市教育委員会は13日、同市早良区の岸田遺跡で出土した弥生時代中期(紀元前2~1世紀)の木棺墓と甕棺墓計5基から、銅剣や鉄製の戈など副葬品18点が見つかったと発表した。

 現場の北約3.5キロには、多くの副葬品が出土し「最古の王墓」といわれる吉武高木遺跡(同市西区)があり、担当者は「吉武高木遺跡を中心とする周辺の有力集落の一つと考えられる」としている。

 市教委によると、岸田遺跡で出土した副葬品は銅剣4本、銅矛2本のほか、鉄製の戈や青銅製の把頭飾(剣の柄の飾り)、勾玉など。甕棺墓など約50基が見つかった墓地群のうち、中心部寄りの5基に集中していた。2010.10.13』
(「福岡・岸田遺跡で弥生中期の銅剣や鉄戈18点出土}より)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132004003-n1.htm

ここに出てくる青銅製の把頭飾という剣の柄の飾りは、「環(たまき)」ではなかっただろうか。

製鉄製品で何よりも大事なものは、国家安泰に資する刀剣であったはずだ。

『鉄製武器を副葬する墓はほかに銅鏡など多くの副葬品をもつ支配者層の墓であることが多く、鉄製武器も支配者の権威の象徴だった。』

そういう墓には玉も一緒に埋葬されていた。
玉は福岡県の遺跡から多く出土している。

鉄刀と銅鏡と玉、日本人ならある神話を思い出さない人はいない。

『三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたとする鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。』
(「三種の神器(Wikipedia)」より)

高知県高岡郡日高村に「環頭大刀」をご神体として祀る神社がある。

『国常立命を祀る。
神体の「金銅荘環頭大刀」は古墳時代後期の作とされ、昭和33年(1958年)に国宝に指定された。
他に、蓬莱鏡(銅鏡)や木造菩薩面など多くの文化財が残されている。』
(小村神社(Wikipedia)より)

「たたら製鉄法」を伝承する多々良氏は「環」を有する刀を製造できる。
その威厳や威力は神にも通じる。

「環」が神であり、領主にもなる。
朝鮮半島では環を取っ手に持つ刀を「環刀」という。

つまり「環」という刀である。
「環」という刀を製造し得る特殊な技能集団は、「環」氏ではなかっただろうか。

『『韓国刀』とは何か
古くから朝鮮半島では中国の影響を受けて両刃直剣のものや、「環刀」という直刀が用いられていた。

秀吉の朝鮮出兵で17世紀以降、日本刀の優秀さが朝鮮でも広く知られるようになると日本から日本刀を輸入し、基本的な構造はそのままで一部改良を加え倭刀と呼び使用した。

またこれにより日本刀の強い影響下にある刀剣が以後一時期の間多く作成されたが、古来からの中国式に近い剣も引き続き多く使われた。

現在の韓国で一部の人が『韓国刀』を名乗って製作した刀剣は韓国古来の直刀ではなく、この倭刀、もしくはその強い影響下に作成された刀剣であることが多々あり、日本人との摩擦を引き起こしている。

『韓国刀』問題
古代の朝鮮半島南部の弁韓(後の加羅(伽耶)、任那、安羅など)には古くから倭人が定住し、製鉄を営んでいた。

そのため高霊地方では日本式の土器などが多く出土する。
それらの倭人がもたらした製鉄技術は日本本土で伝承発展し、出雲国などで新たな画期的発展を迎え日本独自の踏鞴(たたら)製鉄を生み出した。

この製鉄技術を基に平安時代中期以降(10世紀ころ)刀身に反りのある初期の日本刀(太刀)の発明に至った。』(韓国刀(Wikipedia)より)

ルーツの話題になると、サッカーの日韓戦のごとくお互いの国が熱くなる。
これはやはり血が濃いのであろう。
寄ると触ると喧嘩する「兄弟」のようでもある。

朝鮮半島南部の弁韓に住む倭人は、海を越えて周防防府の港から山口へと入って大内氏を名乗った。

倭人はバイリンガル(日本語と朝鮮語)であって、今風に言えば二国籍を持っていただろう。
つまり、多々良氏朝鮮に住む倭人であり、周防の帰化人であった。
ここで朝鮮人か日本人かという日韓戦のごとき姦(かしま)しい議論に私は興味がない。

旧約聖書に記載されているアマルガム法に酷似した灰吹法を伝承してきた倭人とは、ヘブライ人の末裔である可能性が極めて高い。

なぜならば、そんな大事な先進技術を彼らは他民族へ伝承などさせるわけがないからだ。

大内氏自身が「私は百済の琳聖太子の後裔の多々良氏である」と主張しているのだから、私はそれを信じたいが、もっと付け加えれば「百済の琳聖太子はヘブライ人の末裔であった。」となる。

朝鮮か日本か、というような狭い視野の議論、ちょうど今の六カ国協議のような世界に目を奪われていると、世界規模での日本国支配の構図を見誤ることになろう。

150年ほど前の吉田松陰は、「四海(世界の大海)」を見て行動していた。
その思考スケールは、日韓戦、日朝戦などを大きく通り越してワールドカップレベルだったのである。

環刀(かんとう)~長州(39) [萩の吉田松陰]

SH3B0123.jpgSH3B0123玉木文之進の模写(絵)
SH3B0124.jpgSH3B0124玉木家・杉家・吉田家略系図
SH3B0126.jpgSH3B0126玉木家座敷から見た庭と手水鉢

坂を下って玉木文之進の旧宅へ着いた。
階段を下って道路よりやや下の段に下りて勝手口から入る。

先ほどは来客があって無人になっていた受付に、今度は中年のご婦人が座っていた。
扇風機は前と同じように首を振り続けていた。

「こんにちは、さっきお訪ねしたのですが、先客がおられたので再度お訪ねしました。屋敷内を見学できますか?」

受付の帳面に住所氏名を記入したら見せていただけるという。

「東京都中野区」と記載して座敷へとあがった。

ひょっとして地元の方なら「玉木家と環(たまき)家が同じかどうか」を知っているかも知れない。

「ある資料によれば、玉木家は大内義隆の遺児の姓で、昔は環(たまき)家を名乗っていたそうですが、ご存知ですか?」

ご婦人は市民ボランティアの案内人なのだが、「さあ、私にはわかりません。」という答えだった。

江戸時代よりも、さらに戦国時代よりも前のことを聞いた私が悪かったようだ。

座敷の床の間には玉木文之進の日本画が飾ってあり、松陰ゆかりの三家の略系統図が掲げられていた。

系図によれば、松陰(矩方(のりかた))の聾唖の弟敏三郎は、杉家七番目の子で三男坊だった。

松陰がどれほど末っ子の敏三郎を可愛がったか、また大層不憫に思ったかが、よくわかる。
それは、青年松陰がほんのわずかに持っていた「隙(スキ)」だった。

月性は、そこを突いた。
聾唖の儒学僧派遣は、実に巧妙な作戦であり、まるでスパイによる謀略のようである。

また、松陰の叔父の(旧姓杉)文之進は、玉木家へ養子に行ってから正韞(しょうおん、しょううん)と改名したことが系図からわかる。

「韞」は「おさめる」「つつむ」という字で「オン」または「ウン」と読む。
日本人としてこの国に生まれて60年になるが、一度も見たことがない字である。
なんとなく異民族の匂いがする字である。

しかも玉木家の系図に出てくる男子名にはすべて「正」の文字がついている。
大名の名づけ慣習と同じである。

一文字を継承していく系図は、同時代の織田信長や豊臣秀吉の系図にも似ているはずだ。

大内義隆の遺児は戦乱の山口から逃れて、実の叔母の住む指月山の館に住んだはずだ。
彼らは萩で先祖の姓である環(たまき)氏を名乗り、後に玉木(たまき)氏に変えた、と私は思っている。

それは毛利氏が広島から萩城へ移封されてきたとき、彼らが指月山の館を追い出されたために改名したのだろう。

大内の先祖の姓のままでは、もと敵方だった毛利氏の城下町では何かと都合が悪いだろう。

毛利氏に接近した重臣陶晴賢(すえ はるかた)の謀反により滅亡した大内義隆であったが、最後は陶氏も毛利に滅亡されてしまい、結果的に毛利氏に周防長門をまんまと取られてしまっている。

陶の裏切りに毛利が一枚噛んでいたということになるのではないか。
大内氏滅亡の最大の受益者が毛利だった。

よって大内氏遺臣は、毛利氏の萩入城により自らの出自を秘匿する必要を感じて改名した可能性がある。

前の記事に、大内氏が「銀山の銀産出量を灰吹法の成功で高めた」という下りがあった。

鉄器を発明した中近東のスキタイ人やヒッタイトは、同時に金装飾加工技術に長けていた。

百済から渡来した多々良氏を自認する大内氏が灰吹法のみならず、鉄器製造の「たたら吹き精錬法」にも得意だったことは容易に想像できる。
大内氏が用いていた灰吹法とは、どういう技術なのだろうか。

『灰吹法(はいふきほう)は、金や銀を鉱石などからいったん鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する方法。

金銀を鉛ではなく水銀に溶け込ませるアマルガム法と並んで古来から行われてきた技術で、旧約聖書にも記述がある。』
(灰吹法(Wikipedia)より)

灰吹法の大本か亜流かは知らないが、アマルガム法が旧約聖書に記述されていたことには大変驚いた。

『旧約聖書は、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。
また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。

「旧約聖書」という呼称は旧約の成就としての「新約聖書」を持つキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」である。

そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、ヘブライ語聖書と呼ばれる。
その大部分はヘブライ語で記述され、一部にアラム語が用いられている。』
(旧約聖書(Wikipedia)より)

その灰吹法はいつ日本へ伝わったのか。

『灰吹法の技術の歴史は非常に古く、西アジアでおよそ紀元前2000年くらいからあるとされているが、この技術が日本に伝えられたのはなぜか非常に遅く、記録によると戦国時代の1533年に博多の豪商である神谷寿禎が朝鮮の桂寿、宗丹を日本に招いたことに始まり(「石見銀山日記」「李朝実録」)、これが石見銀山での銀の精錬法としてもたらされ、この銀の灰吹がやがて金の精錬にも応用されるようになったといわれている。

灰吹とは、磨り臼や回転臼などによる粉成作業、そして汰り分けの工程を経て、鉱石から単体分離した金をさらに精製することである。
中略。

この技術が導入される以前は、産金した状態の金は精製する方法がなく、純度が低いまま使用されていたことになり、また産金地域によって品位もばらつきがあったため、国内や外国と取引する上での支障は免れなかったものと思われる。

こうした灰吹の登場は、日本全体の経済すら安定させる効果も含まれていた。

さて、現在も調査が進められている奈良県飛鳥池遺跡(7C後半~8C後半)から、日本最古の金銀工房が発見され、金塊、金箔、銀の破片、溶融物が付着した「坩堝」の破片、炉跡など40数点が出土したという興味深い報道がされたが、このことは灰吹法伝来の定説を覆し、もっと古くから日本に存在していたのかもしれないと思わせるような世紀的発見であった。

しかしながら、甲州では湯之奥金山と同時期に操業していた黒川金山で、溶融物付着土器片が22点出土し、中には金の粒が見えるものがあるものの、実際に灰吹で使用したものかどうか判然とせず、また、湯之奥の3つの金山でも木炭類は出土するものの、現時点で灰吹が行われていたことを確認することはできていない。』
(「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館 灰吹」より)
http://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/haihuki.html

灰吹法を知る大内氏は、製鉄技術を口伝してきた中近東の民族の末裔のようにも思われる。

灰吹法は、紀元前2000年頃に西アジアで生まれた。
それが奈良時代から平安時代に、日本に伝来しているようだ。(7C後半~8C後半)

710年の平城京遷都により奈良時代が始まり、794年の平安京遷都により平安時代に入る。
この時代に律令体制が整備され、そして崩壊し、武士団が形成されていった。

灰吹法の伝来時期以降、武力政治の重みが増しているようにも見える。
それまで大和朝廷と仲良くしていたと思われる奥羽の蝦夷族が、朝廷から武力迫害を受けるようになるのもこの頃からである。

灰吹法とともに製鉄法も伝来したのであろうか。

製鉄法を知るものは軍事と農耕生産性の両方に優れるので、発明した中近東の騎馬民族スキタイ人それをは口伝で伝えることとし、文字化することを避けた。

文字にすれば他民族にノウハウを盗まれるからである。
もし文字化した製鉄製法が盗まれれば、国力において相手に負ける可能性が高くなる。

製鉄法を口伝する民族は長い年月をかけてシルクロードを通り、半島を下って百済までやってきた。
さらに海を渡って周防長門(山口県)に住み着いたようだ、

つまり、百済からきた琳聖太子の後裔を名乗る大内氏は、製鉄精錬技法を保有していることから朝鮮民族とは言えないだろう。

おそらく中近東からやってきた民族の末裔だろう。
技術は嘘をつかないからだ。

玉木家は古くは環家と言ったそうだが、事実はまだわからない。
ネット記事に玉木家の末裔を名乗る人がそう書いていた。

大内氏はさらに古くは百済王の琳聖太子の後裔で、防府市に上陸し、多々良姓は聖徳太子から頂いたという。

『琳聖太子(りんしょうたいし、朝鮮語:임성태자、生没年不詳)は、朝鮮半島の王国、百済の皇子とされる架空の人物。
第26代聖明王の第3皇子で武寧王の孫とされる。

実像
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。

聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。

しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献に見ることはできない。

この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。

義弘は朝鮮半島との貿易を重視し、その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した。

大内氏はこの捏造を最大限に活用し、『李朝実録』によれば、応永6年(1399年)には朝鮮に使節を派遣、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。

領地の要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。

大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述が見える。

墓所は存在しないが、琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀の乗福寺に残っている。』
(琳聖太子(Wikipedia)より)

『琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した。』と根拠も示さずに蔑むかのような断定をしている。

現代の私から見れば、「大内の百済王は捏造だ」という説も、「大内氏は琳聖太子の末裔だ」という大内義隆も、いずれもいい加減な話だと思われる。

現代生物学を駆使すれば、遺髪か遺骨がほんの少しあれば、その人物がどこから来たのか、DNAを読むだけで明らかにできるはずだ。

和歌や俳句を詠めなくとも、DNAならばお金を払えば誰でも読める時代になった。

古くは大内正恒が創建した寺院があったそうだ。

『大村益次郎が宿舎とした普門寺
普門寺は臨済宗の寺院で本尊は十一面観音です。

古くこの地は大内正恒が創建した寺院がありましたが、延元元(1336)年、大内弘直が再建しその菩提寺となりました。

大内義隆の時勅願寺として重建しましたが、陶隆房の謀反の際に焼失しました。
天正年間に維松円融が中興開山となり再興しました。

幕末の文久3(1863)年4月に萩の藩庁が山口に移り、諸般が改革されましたがこの時大村益次郎は藩命により江戸から帰り、山口明倫館の改革にあたりました。

大村益次郎は山口ではこの普門寺境内の観音堂を宿舎としてここに起居し、諸生の希望によりここで兵学を教授しました。

当時これを普門寺塾、三兵塾などと称していました。』
(「普門寺(山口市)」より)
http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/52802/

明治維新以後の歴史的成果ともいえる靖国神社の門をくぐると、空に聳え立つ一人の武士の銅像が正面上空に見える。

これが大村益次郎である。
上の記述によれば、山口で大村は普門寺境内の観音堂を宿舎とし、兵学講義もそこで行っていたという。

大内正恒が創建した寺院が昔あった土地の上である。

「大内正恒」こそ、琳聖太子から数えて7代目の人である。
琳聖太子→琳龍太子→阿部太子→世農太子→世阿太子→阿津太子→大内正恒

言い換えれば、琳聖太子を偲ぶ土地に大村益次郎は固執していたことになるかも知れない。
その大村が、靖国神社の入り口に護衛兵士のごとく空高い位置に立っている。

戦国時代の大内氏である大内弘世は、系図によれば大内正恒から数えて18番目くらいでかなり後の時代の人である。
その弘世から数えて5代目が、山口でのキリスト教布教をザビエルに許した大内義隆である。

次の記事によれば、大内義隆の父弘世は「南朝を裏切って」北朝方へ寝返っている。
私のこれまでの推理は修正をしなければならないだろう。

山口に文化交流のために来ていた多くの北朝方の公家たちが、大内滅亡とともに帰京を断念して山口に住み着いたと思っていたからだ。

文化交流とは言いえて妙である。
実はザビエルがこの国へ輸入してきた新しい宗教や物理学、工学、美術などを人目みようとしてわざわざ京都から山口へやってきたのである。

時計、宝石、油絵、聖書の教えなど、さまざまな「宝」が当時は山口にあったのである。

大内全盛時において、弘世の裏切りによって隠棲せざるを得なくなった南朝方の末裔は周防長門に潜伏して住んでいた可能性もある。

国の大乱の中で南朝の復権を狙う者がいるとすれば、大内に裏切られた南朝方の末裔たちであろう。

いつか大内を倒そうと臥薪嘗胆の日々を、周防か長門に近い場所で送っていたはずである。

松陰や環家は、大内義隆の遺児の末裔だと思われる。
すると彼らは北朝方になるのだろうか、義隆の父弘世は北朝に帰順したからだ。

しかし、聾唖の儒学層を野山獄にいる松陰へ向かわせたのは三条実美の支援を受けている周防柳井の僧月性だった。

獄中の松陰は聾唖僧との手紙の交換をするなかで、迅速な倒幕へと思想の転換をしている。
久坂も高杉もついていけなかったほど、松陰の変化は過激だった。

聾唖の僧は宇都宮黙霖といい、明治6年に湊川神社権宮司・男山八幡宮の禰宜(ねぎ)補任せられている。

湊川神社は、南朝方の英雄楠正成が祭神である。

ここで、三条実美、月性、宇都宮黙霖は南朝方だったという仮説が成り立つ。

大内氏の北朝に帰順は1363年である。
これが、大内が南朝を裏切った年になる。

明治維新が南朝の名誉回復ドラマだとすれば、なんと500年も後の「浪士たちの討ち入り」となる。

赤穂浪士討ち入り事件は明治維新の予行演習だったという説をネットで見たことがあるが、なるほどと思えるようになってきた。

『大内氏は北朝を支持する室町幕府に従うが、幕府内の対立から観応の擾乱と呼ばれる内乱が勃発。

足利尊氏が足利直義に対抗するために南朝に降伏して正平一統となる。

大内氏は南朝との和睦が取り消されても足利直冬父子に属し、弘世は南朝の武将として満良親王を奉じて勢力を拡大。

南朝:正平5年/北朝:貞和6年、観応元年(1350年)、弘世は父の弘幸とともに鷲頭氏討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入、南朝に帰順の意志を示した。

翌年の7月に南朝に帰順。
弘世は南朝から周防国守護職に任じられ、宿願を果たした。

父の弘幸は鷲頭氏討伐を成し得ぬまま、南朝:正平/北朝:観応3年7年3月6日(1352年4月20日)死去。

家督を継いだ弘世は鷲頭氏を傘下に収め、南朝:正平10年/北朝:文和4年(1355年)頃から長門国に進出。

長門守護職であった厚東義武は抵抗するも遂には南朝:正平13年/北朝:延文3年(1358年)正月、霜降城は落城。

義武は長門国を捨て、故地である豊前国企救郡に逃亡した。
弘世は長門国守護職にも任じられ、大内氏が防長両国の守護となった。

厚東義武は長門国の復帰を目指すが、復帰には至らなかった。

その後、2代将軍足利義詮は防長両国の守護職を認めることを条件として弘世に北朝への復帰を促し、南朝:正平18年/北朝:貞治2年(1363年)頃に、大内氏は北朝に帰順した。

それにひき続いて南朝:正平21年/北朝:貞治5年(1366年)、足利直冬率いる石見国の南朝勢力を駆逐した戦功により、石見国守護職にも任じられる。

南朝:建徳2年/北朝:応安4年(1371年)からは九州探題となっていた今川貞世を支援して九州に進出。
大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げた。

南朝:文中3年/北朝:応安7年(1374年)、安芸国の国人領主毛利氏を攻めたが、3代将軍足利義満から咎められて石見守護職を剥奪されたため、撤兵した。

南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)に死去し、跡を子の大内義弘が継いだ。』
(大内弘世(Wikipedia)より)

南朝方として周防長門に勢力を拡大できた大内弘世だったが、足利義詮により北朝方へなれと言われ、それに従っている。
次に広島安芸の毛利氏を攻めたが、将軍足利義満から制止されている。

足利幕府に翻弄された大内氏の姿が浮かんできた。

南朝だったり、北朝だったり、毛利と戦ったり、和睦したり。

その過程で多くの悲劇が繰り返されたことだろう。
複雑な怨念の構図が山口や萩には染み付いているようだ。

過激な松陰を育て野に放った玉木氏は、以前は環(たまき)氏だった。
玉木氏の子孫という人がブログにそう書いていた。

その人が幼い頃から祖母に聞かされた話などを引用していたが、子孫当人しか知らないような情報が含まれているように私は感じた。

「環(たまき)」が鉄製品や製鉄技術にかかわりある言葉なら、大内氏の祖先の名にふさわしいと言える。

調べてみると、鉄器の名に「環」という漢字はあった。

太目の刀剣の柄(え)の先端に大きなドーナッツ状の鉄の環(=輪)がついている。
それを「環頭大刀(かんとうたち)」と言う。


坂の下の家~長州(38)
SH3B0121松本護国山麓団子岩椎原霊園(上の森の中に玉木家祖先と松陰は眠る)
SH3B0122坂の突き当たりが初代松下村塾(玉木家旧宅)
SH3B0052玉木家旧宅へ

松本護国山麓団子岩にある松陰生誕地の樹々亭跡を去る。
右手に椎原霊園を見ながら坂を下る。

樹々亭にも椎木があり、少年杉虎之助(松陰の幼名)も父と椎の実を拾った。
霊園の上にこんもりした森が見えるが、これも椎の実み林であろう。

その森の中に玉木家祖先の墓があり、それは大名クラスが用いる五輪塔の墓石だった。
松陰は、玉木家の末裔かその重臣の子孫であろう。

虎之助が樹々亭から歩いて私塾松下村塾へ通った坂道を私も下っていく。
坂が緩やかになったところで三叉路に出会う。
そこが玉木文之進の初代松下村塾だった。

虎之助の母お滝(杉滝子)は、この玉木家宅で塾生たちの世話を焼いていた。
安田辰之助(のちの山県半蔵)もこの最初の松下村塾で虎之助と一緒に学んだ。

山県半蔵は藩主名代として幕府の人質だったのが解放されるという幸運にめぐり合い、後に出世して家老の宍戸姓を賜り、名を「たまき」と称したのは面白い。
半蔵も玉木一族の出身だったのであろう。

前の記事でこう書いた。

『「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。
それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。』

あくまで私の想像である。
公家としては、三条実美までは柳井の西本願寺派僧月性の私塾「清狂草堂」の扁額を見てたどり着くことができた。
三条実美がキリシタンと関係があったかどうかはわからない。

「清狂草堂」とは、「狂える草莽」たちが、いかにも育ちそうな名である。
仙台藩士たちに滅多切斬りされた世良修蔵は、「清狂草堂」で育っている。
会津藩全滅への協奏曲は、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退し、品川の代わりに世良修蔵が就任したところから始まっている。

東北で混乱をおこさせるために、調整能力の低い人材に敢えて替えた節がある。
いったん朝廷から出された奥羽鎮圧軍関係人事の発令を拒絶するということは、よほどの外圧か高位の者からの差し金があったのであろう。

人選入れ替え作業そのもは木戸孝允の仕業であり、世良を選定したのも木戸だと思う。

そういえば高杉晋作の号は東行ともいうが、または東洋一狂生とも言い「狂」の字を含み、山県有朋も名前として狂介を名乗っていた。

三条実美は長州側、攘夷派では確かに位が高いが、しかし、京都の権力中枢の中では三条家は摂関家にも入いれないほど低いとも言えよう。

つまり孝明天皇のもとで繰り広げられている権力闘争は、一面摂関家の間の抗争でもあったはずだ。

が、その日本革命計画の罪は歴史の表側では三条以下7名の公家たちに背負わされた格好になっているから、摂関家の中の罪人は存在していても表には出ていない。

それが実は革命の首謀者であるはずで、その人物は安政の大獄後も生存しているとすれば、実質的に明治新政府の実権を握ることができたはずである。

真の革命功労者なのだからだ。

摂関家の中に真犯人(攘夷派から見れば神のごとき英雄男児)はいる可能性が高いが、それは北朝方の摂関家だけではない。

南朝方として世が世なら摂関家筋に当たる人物ならば、明治時代の天皇が南朝方に替わった(フルベッキ写真論争)とすれば、明治以後は必ず復権しているはずである。

摂関家に関する詳細な資料はネットでは入手が難しいし、それは仮にあったとしてもある意味で厳重に秘匿されていることだろう。

私の推理する「皇室や公家の中の人物」とは、そういう意味を含めたものだから、表の歴史資料からそれをあきらかにするのはおそらく困難だろう。

それが実在するとするならば、安政の大獄で宮中での捕縛該当者がいたはずで、その人物が安政の大獄の第一号捕縛者となろう。

しかし、権力中枢家の出自なのだから、天皇の許しを得て免罪された可能性がある。

井伊直弼の権限も、そこまでは及ばなかったという意味で、雲浜が捕縛第2号の名誉を与えられた可能性がある。

その場合、捕縛第2号は雲浜だと主張するのみとなり、第1号の氏名は秘匿されてしまうから、中途半端な歴史叙述になってしまう。
つまり、雲浜が第2号といわれたり、第1号といわれたりする。

NO2の梅田雲浜から大々的に逮捕し、毒殺、病死や斬首刑など、それ以下の身分のものを派手に粛清したものと推定する。

身分といえば、松陰の方が罪は重いのだが、身分が高いので待遇の良い野山獄へ入れられ、足軽の金子は身分が低いゆえに岩倉獄へ入れられた。
そのせいで金子は病死に至っている。

高貴な人ほど、罪の重軽に関係なく免罪される仕組みが日本にはある。
現代社会においても、それに似た現象はある。

企業犯罪が明るみに出たときに、主犯者は免罪秘匿され、中間管理職が刑務所送りになる。
「とかげの尻尾切り」という世論制御の知恵である。
たとえ尻尾であって、「切った」姿を見せれば、世論は収まる。

公家の尻尾の中でも、三条実美は最も位が高かったと言えるが、胴と頭の部分は闇に包まれたままなのである。

一方、玉木家の周囲には公家の末裔も住んでいたはずだ。
大内義隆とザビエルを慕って、当時は京都から大勢の貴族が山口(萩ではなく現在の山口市)へ来ていた。


『大内文化(おおうちぶんか)とは、室町時代の山口を中心とする文化を指す用語。
大内氏第9代当主大内弘世(1325年- 1380年)が京の都を模倣し街づくりを行ったのを発端とする。
第14代大内政弘(1446年- 1495年)が文化を奨励し、第16代大内義隆(1507年- 1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって北山文化・東山文化と大陸文化を融合させた独自文化が隆盛した。
多くは戦火で焼失しているが、瑠璃光寺五重塔や雪舟庭は現存しており大内文化を代表する建築物となっている。

概要
南朝から北朝へ帰順し、周防長門両国を統一した大内弘世は第2代将軍足利義詮に謁見するため、1363年に上洛した。

この時、京と山口の地形が似ていることから山口を「西の京」とすべく大路・小路といった京風市街整備を行うとともに文化人を招いた。

室町中期以降の大内氏は日本一の経済基盤を有するようになり、その財力を頼る文化人や公家が戦乱で荒廃した京より多数来訪したことで末期は京をしのぐほど繁栄した。

当時の山口の繁栄ぶりはルイス・フロイスやフランシスコ・ザビエルの記述にもみられる。多くは戦乱の戦火で焼失した。

大内文化を支えた経済基盤
大内氏は広大な領国を支配していたが石高自体は突出していたわけではない。

しかし商業地博多・港町門司の支配や博多商人による貿易や銀山開発の運上益は莫大であり経済力は諸大名の中で突出していた。

大内氏は倭寇を取り締まることで明や朝鮮と私貿易を行い利益を得ていたが、後期には「日本国王之印(毛利博物館所蔵)」の通信符を用い対外貿易を行うようになる。

すなわち1468年成化の勘合、1523年正徳の勘合を手に入れ勘合貿易を独占すべく細川氏と争い(寧波の乱など)貿易独占権を手に入れた。

また、石見銀山の銀産出量を灰吹法の成功により飛躍的に増大させるとその量は世界の三分の一を占めた。

大内文化と勘合貿易
勘合貿易における主な輸入品と輸出品は以下のとおりである。

輸出品 - 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯
輸入品 - 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器

大内氏は主力輸出品を領内で確保しようと尽力している。
鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有していた。
寺尾鉱山などに精錬した遺構があり、精製技術を開発しこれらの産出を増やすことに努めていた様子が伺える。

また、大内塗、赤間硯、長州鍔の職人を保護、奨励することや文化人を招き庇護することはより質の高い輸出品を産出することにつながり、より多くの輸入品を手に入れることに繋がった。

大内氏は文治に傾倒し衰退したが、文化奨励は貿易を通じて大内氏の利益に還元される合理的システムになっていた。

また、大内氏は1346年頃から大部分を輸入に依存していた絹織物の国内生産にも尽力し、絹普及と後の西陣織や博多織に大きな影響を与えた。

幻の鉄砲伝来
種子島銃の伝来前から明との交易により鳥銃と呼ばれる火縄銃が伝来していた。
しかし、大内氏は鉄砲の量産よりも輸出品の増産に努めており普及しなかった。』
(大内文化(Wikipedia)より)

山口に来ていた文化人代表の公家たちは、大内滅亡で京都へ帰ろうにも京都は戦争で荒れ果てて戻る場所も生活のあてもない。
道端に人の死骸がごろごろしていた。

インドネシアの人食い人種の住むジャングルへ分け入り布教をしてきたザビエルですら、京都の戦争での荒放題を見て、布教をそこそこに京都滞在をあきらめて山口へ戻ったくらいである。


仕方なく山口に住み着いた公家たちも多かったに違いない。

玉木家は、大内家遺族とそれらの公家を包含する家だったような気がする。

先ほどは先客がいたので、玉木家旧宅へ上がらずに通過した。
帰りには空いているだろうから、勝手口の受付へ顔を出してみることにしよう。

できれば、初代松下村塾の座敷に上がってみたい。

坂の下の家~長州(38) [萩の吉田松陰]

SH3B0121.jpgSH3B0121松本護国山麓団子岩椎原霊園(上の森の中に玉木家祖先と松陰は眠る)
SH3B0122.jpgSH3B0122坂の突き当たりが初代松下村塾(玉木家旧宅)
SH3B0054.jpgSH3B0054玉木家旧宅へ

松本護国山麓団子岩にある松陰生誕地の樹々亭跡を去る。
右手に椎原霊園を見ながら坂を下る。

樹々亭にも椎木があり、少年杉虎之助(松陰の幼名)も父と椎の実を拾った。
霊園の上にこんもりした森が見えるが、これも椎の実み林であろう。

その森の中に玉木家祖先の墓があり、それは大名クラスが用いる五輪塔の墓石だった。
松陰は、玉木家の末裔かその重臣の子孫であろう。

虎之助が樹々亭から歩いて私塾松下村塾へ通った坂道を私も下っていく。
坂が緩やかになったところで三叉路に出会う。
そこが玉木文之進の初代松下村塾だった。

虎之助の母お滝(杉滝子)は、この玉木家宅で塾生たちの世話を焼いていた。
安田辰之助(のちの山県半蔵)もこの最初の松下村塾で虎之助と一緒に学んだ。

山県半蔵は藩主名代として幕府の人質だったのが解放されるという幸運にめぐり合い、後に出世して家老の宍戸姓を賜り、名を「たまき」と称したのは面白い。
半蔵も玉木一族の出身だったのであろう。

前の記事でこう書いた。

『「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。
それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。』

あくまで私の想像である。
公家としては、三条実美までは柳井の西本願寺派僧月性の私塾「清狂草堂」の扁額を見てたどり着くことができた。
三条実美がキリシタンと関係があったかどうかはわからない。

「清狂草堂」とは、「狂える草莽」たちが、いかにも育ちそうな名である。
仙台藩士たちに滅多切斬りされた世良修蔵は、「清狂草堂」で育っている。
会津藩全滅への協奏曲は、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退し、品川の代わりに世良修蔵が就任したところから始まっている。

東北で混乱をおこさせるために、調整能力の低い人材に敢えて替えた節がある。
いったん朝廷から出された奥羽鎮圧軍関係人事の発令を拒絶するということは、よほどの外圧か高位の者からの差し金があったのであろう。

人選入れ替え作業そのもは木戸孝允の仕業であり、世良を選定したのも木戸だと思う。

そういえば高杉晋作の号は東行ともいうが、または東洋一狂生とも言い「狂」の字を含み、山県有朋も名前として狂介を名乗っていた。

三条実美は長州側、攘夷派では確かに位が高いが、しかし、京都の権力中枢の中では三条家は摂関家にも入いれないほど低いとも言えよう。

つまり孝明天皇のもとで繰り広げられている権力闘争は、一面摂関家の間の抗争でもあったはずだ。

が、その日本革命計画の罪は歴史の表側では三条以下7名の公家たちに背負わされた格好になっているから、摂関家の中の罪人は存在していても表には出ていない。

それが実は革命の首謀者であるはずで、その人物は安政の大獄後も生存しているとすれば、実質的に明治新政府の実権を握ることができたはずである。

真の革命功労者なのだからだ。

摂関家の中に真犯人(攘夷派から見れば神のごとき英雄男児)はいる可能性が高いが、それは北朝方の摂関家だけではない。

南朝方として世が世なら摂関家筋に当たる人物ならば、明治時代の天皇が南朝方に替わった(フルベッキ写真論争)とすれば、明治以後は必ず復権しているはずである。

摂関家に関する詳細な資料はネットでは入手が難しいし、それは仮にあったとしてもある意味で厳重に秘匿されていることだろう。

私の推理する「皇室や公家の中の人物」とは、そういう意味を含めたものだから、表の歴史資料からそれをあきらかにするのはおそらく困難だろう。

それが実在するとするならば、安政の大獄で宮中での捕縛該当者がいたはずで、その人物が安政の大獄の第一号捕縛者となろう。

しかし、権力中枢家の出自なのだから、天皇の許しを得て免罪された可能性がある。

井伊直弼の権限も、そこまでは及ばなかったという意味で、雲浜が捕縛第2号の名誉を与えられた可能性がある。

その場合、捕縛第2号は雲浜だと主張するのみとなり、第1号の氏名は秘匿されてしまうから、中途半端な歴史叙述になってしまう。
つまり、雲浜が第2号といわれたり、第1号といわれたりする。

NO2の梅田雲浜から大々的に逮捕し、毒殺、病死や斬首刑など、それ以下の身分のものを派手に粛清したものと推定する。

身分といえば、松陰の方が罪は重いのだが、身分が高いので待遇の良い野山獄へ入れられ、足軽の金子は身分が低いゆえに岩倉獄へ入れられた。
そのせいで金子は病死に至っている。

高貴な人ほど、罪の重軽に関係なく免罪される仕組みが日本にはある。
現代社会においても、それに似た現象はある。

企業犯罪が明るみに出たときに、主犯者は免罪秘匿され、中間管理職が刑務所送りになる。
「とかげの尻尾切り」という世論制御の知恵である。
たとえ尻尾であって、「切った」姿を見せれば、世論は収まる。

公家の尻尾の中でも、三条実美は最も位が高かったと言えるが、胴と頭の部分は闇に包まれたままなのである。

一方、玉木家の周囲には公家の末裔も住んでいたはずだ。
大内義隆とザビエルを慕って、当時は京都から大勢の貴族が山口(萩ではなく現在の山口市)へ来ていた。


『大内文化(おおうちぶんか)とは、室町時代の山口を中心とする文化を指す用語。
大内氏第9代当主大内弘世(1325年- 1380年)が京の都を模倣し街づくりを行ったのを発端とする。
第14代大内政弘(1446年- 1495年)が文化を奨励し、第16代大内義隆(1507年- 1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって北山文化・東山文化と大陸文化を融合させた独自文化が隆盛した。
多くは戦火で焼失しているが、瑠璃光寺五重塔や雪舟庭は現存しており大内文化を代表する建築物となっている。

概要
南朝から北朝へ帰順し、周防長門両国を統一した大内弘世は第2代将軍足利義詮に謁見するため、1363年に上洛した。

この時、京と山口の地形が似ていることから山口を「西の京」とすべく大路・小路といった京風市街整備を行うとともに文化人を招いた。

室町中期以降の大内氏は日本一の経済基盤を有するようになり、その財力を頼る文化人や公家が戦乱で荒廃した京より多数来訪したことで末期は京をしのぐほど繁栄した。

当時の山口の繁栄ぶりはルイス・フロイスやフランシスコ・ザビエルの記述にもみられる。多くは戦乱の戦火で焼失した。

大内文化を支えた経済基盤
大内氏は広大な領国を支配していたが石高自体は突出していたわけではない。

しかし商業地博多・港町門司の支配や博多商人による貿易や銀山開発の運上益は莫大であり経済力は諸大名の中で突出していた。

大内氏は倭寇を取り締まることで明や朝鮮と私貿易を行い利益を得ていたが、後期には「日本国王之印(毛利博物館所蔵)」の通信符を用い対外貿易を行うようになる。

すなわち1468年成化の勘合、1523年正徳の勘合を手に入れ勘合貿易を独占すべく細川氏と争い(寧波の乱など)貿易独占権を手に入れた。

また、石見銀山の銀産出量を灰吹法の成功により飛躍的に増大させるとその量は世界の三分の一を占めた。

大内文化と勘合貿易
勘合貿易における主な輸入品と輸出品は以下のとおりである。

輸出品 - 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯
輸入品 - 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器

大内氏は主力輸出品を領内で確保しようと尽力している。
鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有していた。
寺尾鉱山などに精錬した遺構があり、精製技術を開発しこれらの産出を増やすことに努めていた様子が伺える。

また、大内塗、赤間硯、長州鍔の職人を保護、奨励することや文化人を招き庇護することはより質の高い輸出品を産出することにつながり、より多くの輸入品を手に入れることに繋がった。

大内氏は文治に傾倒し衰退したが、文化奨励は貿易を通じて大内氏の利益に還元される合理的システムになっていた。

また、大内氏は1346年頃から大部分を輸入に依存していた絹織物の国内生産にも尽力し、絹普及と後の西陣織や博多織に大きな影響を与えた。

幻の鉄砲伝来
種子島銃の伝来前から明との交易により鳥銃と呼ばれる火縄銃が伝来していた。
しかし、大内氏は鉄砲の量産よりも輸出品の増産に努めており普及しなかった。』
(大内文化(Wikipedia)より)

山口に来ていた文化人代表の公家たちは、大内滅亡で京都へ帰ろうにも京都は戦争で荒れ果てて戻る場所も生活のあてもない。
道端に人の死骸がごろごろしていた。

インドネシアの人食い人種の住むジャングルへ分け入り布教をしてきたザビエルですら、京都の戦争での荒放題を見て、布教をそこそこに京都滞在をあきらめて山口へ戻ったくらいである。


仕方なく山口に住み着いた公家たちも多かったに違いない。

玉木家は、大内家遺族とそれらの公家を包含する家だったような気がする。

先ほどは先客がいたので、玉木家旧宅へ上がらずに通過した。
帰りには空いているだろうから、勝手口の受付へ顔を出してみることにしよう。

できれば、初代松下村塾の座敷に上がってみたい。

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