環刀(かんとう)~長州(39) [萩の吉田松陰]

SH3B0123.jpgSH3B0123玉木文之進の模写(絵)
SH3B0124.jpgSH3B0124玉木家・杉家・吉田家略系図
SH3B0126.jpgSH3B0126玉木家座敷から見た庭と手水鉢

坂を下って玉木文之進の旧宅へ着いた。
階段を下って道路よりやや下の段に下りて勝手口から入る。

先ほどは来客があって無人になっていた受付に、今度は中年のご婦人が座っていた。
扇風機は前と同じように首を振り続けていた。

「こんにちは、さっきお訪ねしたのですが、先客がおられたので再度お訪ねしました。屋敷内を見学できますか?」

受付の帳面に住所氏名を記入したら見せていただけるという。

「東京都中野区」と記載して座敷へとあがった。

ひょっとして地元の方なら「玉木家と環(たまき)家が同じかどうか」を知っているかも知れない。

「ある資料によれば、玉木家は大内義隆の遺児の姓で、昔は環(たまき)家を名乗っていたそうですが、ご存知ですか?」

ご婦人は市民ボランティアの案内人なのだが、「さあ、私にはわかりません。」という答えだった。

江戸時代よりも、さらに戦国時代よりも前のことを聞いた私が悪かったようだ。

座敷の床の間には玉木文之進の日本画が飾ってあり、松陰ゆかりの三家の略系統図が掲げられていた。

系図によれば、松陰(矩方(のりかた))の聾唖の弟敏三郎は、杉家七番目の子で三男坊だった。

松陰がどれほど末っ子の敏三郎を可愛がったか、また大層不憫に思ったかが、よくわかる。
それは、青年松陰がほんのわずかに持っていた「隙(スキ)」だった。

月性は、そこを突いた。
聾唖の儒学僧派遣は、実に巧妙な作戦であり、まるでスパイによる謀略のようである。

また、松陰の叔父の(旧姓杉)文之進は、玉木家へ養子に行ってから正韞(しょうおん、しょううん)と改名したことが系図からわかる。

「韞」は「おさめる」「つつむ」という字で「オン」または「ウン」と読む。
日本人としてこの国に生まれて60年になるが、一度も見たことがない字である。
なんとなく異民族の匂いがする字である。

しかも玉木家の系図に出てくる男子名にはすべて「正」の文字がついている。
大名の名づけ慣習と同じである。

一文字を継承していく系図は、同時代の織田信長や豊臣秀吉の系図にも似ているはずだ。

大内義隆の遺児は戦乱の山口から逃れて、実の叔母の住む指月山の館に住んだはずだ。
彼らは萩で先祖の姓である環(たまき)氏を名乗り、後に玉木(たまき)氏に変えた、と私は思っている。

それは毛利氏が広島から萩城へ移封されてきたとき、彼らが指月山の館を追い出されたために改名したのだろう。

大内の先祖の姓のままでは、もと敵方だった毛利氏の城下町では何かと都合が悪いだろう。

毛利氏に接近した重臣陶晴賢(すえ はるかた)の謀反により滅亡した大内義隆であったが、最後は陶氏も毛利に滅亡されてしまい、結果的に毛利氏に周防長門をまんまと取られてしまっている。

陶の裏切りに毛利が一枚噛んでいたということになるのではないか。
大内氏滅亡の最大の受益者が毛利だった。

よって大内氏遺臣は、毛利氏の萩入城により自らの出自を秘匿する必要を感じて改名した可能性がある。

前の記事に、大内氏が「銀山の銀産出量を灰吹法の成功で高めた」という下りがあった。

鉄器を発明した中近東のスキタイ人やヒッタイトは、同時に金装飾加工技術に長けていた。

百済から渡来した多々良氏を自認する大内氏が灰吹法のみならず、鉄器製造の「たたら吹き精錬法」にも得意だったことは容易に想像できる。
大内氏が用いていた灰吹法とは、どういう技術なのだろうか。

『灰吹法(はいふきほう)は、金や銀を鉱石などからいったん鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する方法。

金銀を鉛ではなく水銀に溶け込ませるアマルガム法と並んで古来から行われてきた技術で、旧約聖書にも記述がある。』
(灰吹法(Wikipedia)より)

灰吹法の大本か亜流かは知らないが、アマルガム法が旧約聖書に記述されていたことには大変驚いた。

『旧約聖書は、ユダヤ教およびキリスト教の正典である。
また、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。

「旧約聖書」という呼称は旧約の成就としての「新約聖書」を持つキリスト教の立場からのもので、ユダヤ教ではこれが唯一の「聖書」である。

そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、ヘブライ語聖書と呼ばれる。
その大部分はヘブライ語で記述され、一部にアラム語が用いられている。』
(旧約聖書(Wikipedia)より)

その灰吹法はいつ日本へ伝わったのか。

『灰吹法の技術の歴史は非常に古く、西アジアでおよそ紀元前2000年くらいからあるとされているが、この技術が日本に伝えられたのはなぜか非常に遅く、記録によると戦国時代の1533年に博多の豪商である神谷寿禎が朝鮮の桂寿、宗丹を日本に招いたことに始まり(「石見銀山日記」「李朝実録」)、これが石見銀山での銀の精錬法としてもたらされ、この銀の灰吹がやがて金の精錬にも応用されるようになったといわれている。

灰吹とは、磨り臼や回転臼などによる粉成作業、そして汰り分けの工程を経て、鉱石から単体分離した金をさらに精製することである。
中略。

この技術が導入される以前は、産金した状態の金は精製する方法がなく、純度が低いまま使用されていたことになり、また産金地域によって品位もばらつきがあったため、国内や外国と取引する上での支障は免れなかったものと思われる。

こうした灰吹の登場は、日本全体の経済すら安定させる効果も含まれていた。

さて、現在も調査が進められている奈良県飛鳥池遺跡(7C後半~8C後半)から、日本最古の金銀工房が発見され、金塊、金箔、銀の破片、溶融物が付着した「坩堝」の破片、炉跡など40数点が出土したという興味深い報道がされたが、このことは灰吹法伝来の定説を覆し、もっと古くから日本に存在していたのかもしれないと思わせるような世紀的発見であった。

しかしながら、甲州では湯之奥金山と同時期に操業していた黒川金山で、溶融物付着土器片が22点出土し、中には金の粒が見えるものがあるものの、実際に灰吹で使用したものかどうか判然とせず、また、湯之奥の3つの金山でも木炭類は出土するものの、現時点で灰吹が行われていたことを確認することはできていない。』
(「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館 灰吹」より)
http://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/haihuki.html

灰吹法を知る大内氏は、製鉄技術を口伝してきた中近東の民族の末裔のようにも思われる。

灰吹法は、紀元前2000年頃に西アジアで生まれた。
それが奈良時代から平安時代に、日本に伝来しているようだ。(7C後半~8C後半)

710年の平城京遷都により奈良時代が始まり、794年の平安京遷都により平安時代に入る。
この時代に律令体制が整備され、そして崩壊し、武士団が形成されていった。

灰吹法の伝来時期以降、武力政治の重みが増しているようにも見える。
それまで大和朝廷と仲良くしていたと思われる奥羽の蝦夷族が、朝廷から武力迫害を受けるようになるのもこの頃からである。

灰吹法とともに製鉄法も伝来したのであろうか。

製鉄法を知るものは軍事と農耕生産性の両方に優れるので、発明した中近東の騎馬民族スキタイ人それをは口伝で伝えることとし、文字化することを避けた。

文字にすれば他民族にノウハウを盗まれるからである。
もし文字化した製鉄製法が盗まれれば、国力において相手に負ける可能性が高くなる。

製鉄法を口伝する民族は長い年月をかけてシルクロードを通り、半島を下って百済までやってきた。
さらに海を渡って周防長門(山口県)に住み着いたようだ、

つまり、百済からきた琳聖太子の後裔を名乗る大内氏は、製鉄精錬技法を保有していることから朝鮮民族とは言えないだろう。

おそらく中近東からやってきた民族の末裔だろう。
技術は嘘をつかないからだ。

玉木家は古くは環家と言ったそうだが、事実はまだわからない。
ネット記事に玉木家の末裔を名乗る人がそう書いていた。

大内氏はさらに古くは百済王の琳聖太子の後裔で、防府市に上陸し、多々良姓は聖徳太子から頂いたという。

『琳聖太子(りんしょうたいし、朝鮮語:임성태자、生没年不詳)は、朝鮮半島の王国、百済の皇子とされる架空の人物。
第26代聖明王の第3皇子で武寧王の孫とされる。

実像
15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。

聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。

しかし、現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献に見ることはできない。

この琳聖太子を祖として名乗り始めた大内氏当主が、大内義弘である。

義弘は朝鮮半島との貿易を重視し、その中でより朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した。

大内氏はこの捏造を最大限に活用し、『李朝実録』によれば、応永6年(1399年)には朝鮮に使節を派遣、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。

領地の要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が大内氏勢力伸長の大きな要因となった。

大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知れ渡っており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述が見える。

墓所は存在しないが、琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀の乗福寺に残っている。』
(琳聖太子(Wikipedia)より)

『琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した。』と根拠も示さずに蔑むかのような断定をしている。

現代の私から見れば、「大内の百済王は捏造だ」という説も、「大内氏は琳聖太子の末裔だ」という大内義隆も、いずれもいい加減な話だと思われる。

現代生物学を駆使すれば、遺髪か遺骨がほんの少しあれば、その人物がどこから来たのか、DNAを読むだけで明らかにできるはずだ。

和歌や俳句を詠めなくとも、DNAならばお金を払えば誰でも読める時代になった。

古くは大内正恒が創建した寺院があったそうだ。

『大村益次郎が宿舎とした普門寺
普門寺は臨済宗の寺院で本尊は十一面観音です。

古くこの地は大内正恒が創建した寺院がありましたが、延元元(1336)年、大内弘直が再建しその菩提寺となりました。

大内義隆の時勅願寺として重建しましたが、陶隆房の謀反の際に焼失しました。
天正年間に維松円融が中興開山となり再興しました。

幕末の文久3(1863)年4月に萩の藩庁が山口に移り、諸般が改革されましたがこの時大村益次郎は藩命により江戸から帰り、山口明倫館の改革にあたりました。

大村益次郎は山口ではこの普門寺境内の観音堂を宿舎としてここに起居し、諸生の希望によりここで兵学を教授しました。

当時これを普門寺塾、三兵塾などと称していました。』
(「普門寺(山口市)」より)
http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/52802/

明治維新以後の歴史的成果ともいえる靖国神社の門をくぐると、空に聳え立つ一人の武士の銅像が正面上空に見える。

これが大村益次郎である。
上の記述によれば、山口で大村は普門寺境内の観音堂を宿舎とし、兵学講義もそこで行っていたという。

大内正恒が創建した寺院が昔あった土地の上である。

「大内正恒」こそ、琳聖太子から数えて7代目の人である。
琳聖太子→琳龍太子→阿部太子→世農太子→世阿太子→阿津太子→大内正恒

言い換えれば、琳聖太子を偲ぶ土地に大村益次郎は固執していたことになるかも知れない。
その大村が、靖国神社の入り口に護衛兵士のごとく空高い位置に立っている。

戦国時代の大内氏である大内弘世は、系図によれば大内正恒から数えて18番目くらいでかなり後の時代の人である。
その弘世から数えて5代目が、山口でのキリスト教布教をザビエルに許した大内義隆である。

次の記事によれば、大内義隆の父弘世は「南朝を裏切って」北朝方へ寝返っている。
私のこれまでの推理は修正をしなければならないだろう。

山口に文化交流のために来ていた多くの北朝方の公家たちが、大内滅亡とともに帰京を断念して山口に住み着いたと思っていたからだ。

文化交流とは言いえて妙である。
実はザビエルがこの国へ輸入してきた新しい宗教や物理学、工学、美術などを人目みようとしてわざわざ京都から山口へやってきたのである。

時計、宝石、油絵、聖書の教えなど、さまざまな「宝」が当時は山口にあったのである。

大内全盛時において、弘世の裏切りによって隠棲せざるを得なくなった南朝方の末裔は周防長門に潜伏して住んでいた可能性もある。

国の大乱の中で南朝の復権を狙う者がいるとすれば、大内に裏切られた南朝方の末裔たちであろう。

いつか大内を倒そうと臥薪嘗胆の日々を、周防か長門に近い場所で送っていたはずである。

松陰や環家は、大内義隆の遺児の末裔だと思われる。
すると彼らは北朝方になるのだろうか、義隆の父弘世は北朝に帰順したからだ。

しかし、聾唖の儒学層を野山獄にいる松陰へ向かわせたのは三条実美の支援を受けている周防柳井の僧月性だった。

獄中の松陰は聾唖僧との手紙の交換をするなかで、迅速な倒幕へと思想の転換をしている。
久坂も高杉もついていけなかったほど、松陰の変化は過激だった。

聾唖の僧は宇都宮黙霖といい、明治6年に湊川神社権宮司・男山八幡宮の禰宜(ねぎ)補任せられている。

湊川神社は、南朝方の英雄楠正成が祭神である。

ここで、三条実美、月性、宇都宮黙霖は南朝方だったという仮説が成り立つ。

大内氏の北朝に帰順は1363年である。
これが、大内が南朝を裏切った年になる。

明治維新が南朝の名誉回復ドラマだとすれば、なんと500年も後の「浪士たちの討ち入り」となる。

赤穂浪士討ち入り事件は明治維新の予行演習だったという説をネットで見たことがあるが、なるほどと思えるようになってきた。

『大内氏は北朝を支持する室町幕府に従うが、幕府内の対立から観応の擾乱と呼ばれる内乱が勃発。

足利尊氏が足利直義に対抗するために南朝に降伏して正平一統となる。

大内氏は南朝との和睦が取り消されても足利直冬父子に属し、弘世は南朝の武将として満良親王を奉じて勢力を拡大。

南朝:正平5年/北朝:貞和6年、観応元年(1350年)、弘世は父の弘幸とともに鷲頭氏討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野庄に乱入、南朝に帰順の意志を示した。

翌年の7月に南朝に帰順。
弘世は南朝から周防国守護職に任じられ、宿願を果たした。

父の弘幸は鷲頭氏討伐を成し得ぬまま、南朝:正平/北朝:観応3年7年3月6日(1352年4月20日)死去。

家督を継いだ弘世は鷲頭氏を傘下に収め、南朝:正平10年/北朝:文和4年(1355年)頃から長門国に進出。

長門守護職であった厚東義武は抵抗するも遂には南朝:正平13年/北朝:延文3年(1358年)正月、霜降城は落城。

義武は長門国を捨て、故地である豊前国企救郡に逃亡した。
弘世は長門国守護職にも任じられ、大内氏が防長両国の守護となった。

厚東義武は長門国の復帰を目指すが、復帰には至らなかった。

その後、2代将軍足利義詮は防長両国の守護職を認めることを条件として弘世に北朝への復帰を促し、南朝:正平18年/北朝:貞治2年(1363年)頃に、大内氏は北朝に帰順した。

それにひき続いて南朝:正平21年/北朝:貞治5年(1366年)、足利直冬率いる石見国の南朝勢力を駆逐した戦功により、石見国守護職にも任じられる。

南朝:建徳2年/北朝:応安4年(1371年)からは九州探題となっていた今川貞世を支援して九州に進出。
大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げた。

南朝:文中3年/北朝:応安7年(1374年)、安芸国の国人領主毛利氏を攻めたが、3代将軍足利義満から咎められて石見守護職を剥奪されたため、撤兵した。

南朝:天授6年/北朝:康暦2年(1380年)に死去し、跡を子の大内義弘が継いだ。』
(大内弘世(Wikipedia)より)

南朝方として周防長門に勢力を拡大できた大内弘世だったが、足利義詮により北朝方へなれと言われ、それに従っている。
次に広島安芸の毛利氏を攻めたが、将軍足利義満から制止されている。

足利幕府に翻弄された大内氏の姿が浮かんできた。

南朝だったり、北朝だったり、毛利と戦ったり、和睦したり。

その過程で多くの悲劇が繰り返されたことだろう。
複雑な怨念の構図が山口や萩には染み付いているようだ。

過激な松陰を育て野に放った玉木氏は、以前は環(たまき)氏だった。
玉木氏の子孫という人がブログにそう書いていた。

その人が幼い頃から祖母に聞かされた話などを引用していたが、子孫当人しか知らないような情報が含まれているように私は感じた。

「環(たまき)」が鉄製品や製鉄技術にかかわりある言葉なら、大内氏の祖先の名にふさわしいと言える。

調べてみると、鉄器の名に「環」という漢字はあった。

太目の刀剣の柄(え)の先端に大きなドーナッツ状の鉄の環(=輪)がついている。
それを「環頭大刀(かんとうたち)」と言う。


坂の下の家~長州(38)
SH3B0121松本護国山麓団子岩椎原霊園(上の森の中に玉木家祖先と松陰は眠る)
SH3B0122坂の突き当たりが初代松下村塾(玉木家旧宅)
SH3B0052玉木家旧宅へ

松本護国山麓団子岩にある松陰生誕地の樹々亭跡を去る。
右手に椎原霊園を見ながら坂を下る。

樹々亭にも椎木があり、少年杉虎之助(松陰の幼名)も父と椎の実を拾った。
霊園の上にこんもりした森が見えるが、これも椎の実み林であろう。

その森の中に玉木家祖先の墓があり、それは大名クラスが用いる五輪塔の墓石だった。
松陰は、玉木家の末裔かその重臣の子孫であろう。

虎之助が樹々亭から歩いて私塾松下村塾へ通った坂道を私も下っていく。
坂が緩やかになったところで三叉路に出会う。
そこが玉木文之進の初代松下村塾だった。

虎之助の母お滝(杉滝子)は、この玉木家宅で塾生たちの世話を焼いていた。
安田辰之助(のちの山県半蔵)もこの最初の松下村塾で虎之助と一緒に学んだ。

山県半蔵は藩主名代として幕府の人質だったのが解放されるという幸運にめぐり合い、後に出世して家老の宍戸姓を賜り、名を「たまき」と称したのは面白い。
半蔵も玉木一族の出身だったのであろう。

前の記事でこう書いた。

『「この花」はサクヤヒメの末裔ではあるが、ローマの斑糲岩に信仰を感じる人物だったようだ。
それは、言い換えると『皇室や公家の中の、江戸期であれば隠れキリシタン』である。』

あくまで私の想像である。
公家としては、三条実美までは柳井の西本願寺派僧月性の私塾「清狂草堂」の扁額を見てたどり着くことができた。
三条実美がキリシタンと関係があったかどうかはわからない。

「清狂草堂」とは、「狂える草莽」たちが、いかにも育ちそうな名である。
仙台藩士たちに滅多切斬りされた世良修蔵は、「清狂草堂」で育っている。
会津藩全滅への協奏曲は、薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎が奥羽鎮撫総督府下参謀を辞退し、品川の代わりに世良修蔵が就任したところから始まっている。

東北で混乱をおこさせるために、調整能力の低い人材に敢えて替えた節がある。
いったん朝廷から出された奥羽鎮圧軍関係人事の発令を拒絶するということは、よほどの外圧か高位の者からの差し金があったのであろう。

人選入れ替え作業そのもは木戸孝允の仕業であり、世良を選定したのも木戸だと思う。

そういえば高杉晋作の号は東行ともいうが、または東洋一狂生とも言い「狂」の字を含み、山県有朋も名前として狂介を名乗っていた。

三条実美は長州側、攘夷派では確かに位が高いが、しかし、京都の権力中枢の中では三条家は摂関家にも入いれないほど低いとも言えよう。

つまり孝明天皇のもとで繰り広げられている権力闘争は、一面摂関家の間の抗争でもあったはずだ。

が、その日本革命計画の罪は歴史の表側では三条以下7名の公家たちに背負わされた格好になっているから、摂関家の中の罪人は存在していても表には出ていない。

それが実は革命の首謀者であるはずで、その人物は安政の大獄後も生存しているとすれば、実質的に明治新政府の実権を握ることができたはずである。

真の革命功労者なのだからだ。

摂関家の中に真犯人(攘夷派から見れば神のごとき英雄男児)はいる可能性が高いが、それは北朝方の摂関家だけではない。

南朝方として世が世なら摂関家筋に当たる人物ならば、明治時代の天皇が南朝方に替わった(フルベッキ写真論争)とすれば、明治以後は必ず復権しているはずである。

摂関家に関する詳細な資料はネットでは入手が難しいし、それは仮にあったとしてもある意味で厳重に秘匿されていることだろう。

私の推理する「皇室や公家の中の人物」とは、そういう意味を含めたものだから、表の歴史資料からそれをあきらかにするのはおそらく困難だろう。

それが実在するとするならば、安政の大獄で宮中での捕縛該当者がいたはずで、その人物が安政の大獄の第一号捕縛者となろう。

しかし、権力中枢家の出自なのだから、天皇の許しを得て免罪された可能性がある。

井伊直弼の権限も、そこまでは及ばなかったという意味で、雲浜が捕縛第2号の名誉を与えられた可能性がある。

その場合、捕縛第2号は雲浜だと主張するのみとなり、第1号の氏名は秘匿されてしまうから、中途半端な歴史叙述になってしまう。
つまり、雲浜が第2号といわれたり、第1号といわれたりする。

NO2の梅田雲浜から大々的に逮捕し、毒殺、病死や斬首刑など、それ以下の身分のものを派手に粛清したものと推定する。

身分といえば、松陰の方が罪は重いのだが、身分が高いので待遇の良い野山獄へ入れられ、足軽の金子は身分が低いゆえに岩倉獄へ入れられた。
そのせいで金子は病死に至っている。

高貴な人ほど、罪の重軽に関係なく免罪される仕組みが日本にはある。
現代社会においても、それに似た現象はある。

企業犯罪が明るみに出たときに、主犯者は免罪秘匿され、中間管理職が刑務所送りになる。
「とかげの尻尾切り」という世論制御の知恵である。
たとえ尻尾であって、「切った」姿を見せれば、世論は収まる。

公家の尻尾の中でも、三条実美は最も位が高かったと言えるが、胴と頭の部分は闇に包まれたままなのである。

一方、玉木家の周囲には公家の末裔も住んでいたはずだ。
大内義隆とザビエルを慕って、当時は京都から大勢の貴族が山口(萩ではなく現在の山口市)へ来ていた。


『大内文化(おおうちぶんか)とは、室町時代の山口を中心とする文化を指す用語。
大内氏第9代当主大内弘世(1325年- 1380年)が京の都を模倣し街づくりを行ったのを発端とする。
第14代大内政弘(1446年- 1495年)が文化を奨励し、第16代大内義隆(1507年- 1551年)が大寧寺の変で倒れるまで大内氏の当主により文化人の庇護が行われ、訪問者たちが担い手となって北山文化・東山文化と大陸文化を融合させた独自文化が隆盛した。
多くは戦火で焼失しているが、瑠璃光寺五重塔や雪舟庭は現存しており大内文化を代表する建築物となっている。

概要
南朝から北朝へ帰順し、周防長門両国を統一した大内弘世は第2代将軍足利義詮に謁見するため、1363年に上洛した。

この時、京と山口の地形が似ていることから山口を「西の京」とすべく大路・小路といった京風市街整備を行うとともに文化人を招いた。

室町中期以降の大内氏は日本一の経済基盤を有するようになり、その財力を頼る文化人や公家が戦乱で荒廃した京より多数来訪したことで末期は京をしのぐほど繁栄した。

当時の山口の繁栄ぶりはルイス・フロイスやフランシスコ・ザビエルの記述にもみられる。多くは戦乱の戦火で焼失した。

大内文化を支えた経済基盤
大内氏は広大な領国を支配していたが石高自体は突出していたわけではない。

しかし商業地博多・港町門司の支配や博多商人による貿易や銀山開発の運上益は莫大であり経済力は諸大名の中で突出していた。

大内氏は倭寇を取り締まることで明や朝鮮と私貿易を行い利益を得ていたが、後期には「日本国王之印(毛利博物館所蔵)」の通信符を用い対外貿易を行うようになる。

すなわち1468年成化の勘合、1523年正徳の勘合を手に入れ勘合貿易を独占すべく細川氏と争い(寧波の乱など)貿易独占権を手に入れた。

また、石見銀山の銀産出量を灰吹法の成功により飛躍的に増大させるとその量は世界の三分の一を占めた。

大内文化と勘合貿易
勘合貿易における主な輸入品と輸出品は以下のとおりである。

輸出品 - 硫黄・銀・銅などの鉱物、漆器、扇子、刀剣、屏風、硯
輸入品 - 明銅銭(永楽通宝)、生糸、絹織物、典籍、陶器

大内氏は主力輸出品を領内で確保しようと尽力している。
鉱物は石見大森銀山・佐東銀山・長登銅山等を有していた。
寺尾鉱山などに精錬した遺構があり、精製技術を開発しこれらの産出を増やすことに努めていた様子が伺える。

また、大内塗、赤間硯、長州鍔の職人を保護、奨励することや文化人を招き庇護することはより質の高い輸出品を産出することにつながり、より多くの輸入品を手に入れることに繋がった。

大内氏は文治に傾倒し衰退したが、文化奨励は貿易を通じて大内氏の利益に還元される合理的システムになっていた。

また、大内氏は1346年頃から大部分を輸入に依存していた絹織物の国内生産にも尽力し、絹普及と後の西陣織や博多織に大きな影響を与えた。

幻の鉄砲伝来
種子島銃の伝来前から明との交易により鳥銃と呼ばれる火縄銃が伝来していた。
しかし、大内氏は鉄砲の量産よりも輸出品の増産に努めており普及しなかった。』
(大内文化(Wikipedia)より)

山口に来ていた文化人代表の公家たちは、大内滅亡で京都へ帰ろうにも京都は戦争で荒れ果てて戻る場所も生活のあてもない。
道端に人の死骸がごろごろしていた。

インドネシアの人食い人種の住むジャングルへ分け入り布教をしてきたザビエルですら、京都の戦争での荒放題を見て、布教をそこそこに京都滞在をあきらめて山口へ戻ったくらいである。


仕方なく山口に住み着いた公家たちも多かったに違いない。

玉木家は、大内家遺族とそれらの公家を包含する家だったような気がする。

先ほどは先客がいたので、玉木家旧宅へ上がらずに通過した。
帰りには空いているだろうから、勝手口の受付へ顔を出してみることにしよう。

できれば、初代松下村塾の座敷に上がってみたい。

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