菊が浜の指月山~長州(53) [萩の吉田松陰]

SH3B0199.jpgSH3B0199朝の海(萩方面)
SH3B0200.jpgSH3B0200菊が浜海水浴場(萩市)
SH3B0202.jpgSH3B0202菊が浜と指月山(しづきやま)

朝の道の駅はそれなりに活動は早い。
午前6時頃に野菜などの配送トラックがやってきた。

私も起きて顔を洗う。
深夜にトラックの音で一度だけ起きたが、大体よく眠れた。

街道歩きの野宿ではテントへの獣の接近で肝を冷やした経験が何度かあるが、車中泊はその心配がない。

松陰の足取りなどを探す萩の旅へ戻ろう。

松陰は萩城から見れば川向こうの山の中腹に生まれ育った。
その坂下に足軽以下の身分の子らを相手の松下村塾に入り、その塾頭を承継した。

つまり萩の名門家から見れば、「川向こう」の藩士の子に過ぎない。

足軽身分以下の教育と書いたが、中には高位の武家の子もまれにいた。

久坂と高杉などがいたが、これらは例外である。

身分の低い子女を集めて教え、草莽を育てるのが松下村塾の経営理念であった。
草莽によってこの国をひっくり返すのが「ミッション(使命)」だったのだ。

位がまあまあ高い武家の子息として、高杉晋作が松下村塾へやってきた。

椋梨藤太の差し金のように思われる。

椋梨藤太が送り込んだミイラ取り役の晋作は、結局長州ミイラの棟梁になってしまったと思われる。

川を越えて晋作の実家のある萩城下へ行こう。

しばらく日本海を右にみながら国道を南下し、萩市の「菊が浜海水浴場」の駐車場に車を止めた。

菊が浜に出てみると海面向こうに指月山(しづきやま)が見える。
「しづきやま」か、「しげつさん」か、議論のわかれるところである。
まだ私は正解を知らない。

そこは毛利が来る前は、石見津和野の国主吉見正頼と正室の別館だった。
その正室が大内義隆の実の姉である。
義隆の遺児たちは、叔母の家を訪ねて戦乱の山口から落ち延びてきたはずだ。

そして指月山(指月館)などという「指月」の呼称は、毛利がやってくる前からこの地にあった。
資料への初出は、吉見正頼の娘の位牌の裏に書かれていたものだった。


以前の記事を再掲する。

『吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm

本能寺の変が天正10年である。
天正13年に、既に「指月」の呼び名があり、萩の鳴滝山妙性院(現禅林寺)に妙性庵が建立されていた。

戒名に「妙」の文字を持つ「見室妙性大姉」こそ、ザビエルに山口の布教を許した大名大内義隆の実姉の娘であり、指月山の萩城主吉見正頼の娘でもあった。』(当ブログより)

「妙」の字は京都妙法寺にキリシタン大名牧村利貞が建立した雑華院があり、また同寺にはキリシタン寺(南蛮寺)の鐘が保存されている縁から、私はキリシタンを連想してしまう。

大内義隆の姉がザビエルの洗礼を受けていた可能性は極めて高い。
大名は小姓などを相手の男色趣味があり、それをやめなければ洗礼を受けられない。

なかなか慣れ親しんだ悪習をして切れずに、大名で受洗したものは少ない。
それでは火薬や鉄砲、西洋文化や技術を輸入できない。

ポルトガル商人を紹介してもらうためには、イエズス会のザビエルらの教えを受け入れる必要があった。

そこで親族や子女、家臣とその家族たちを受洗させることで、貿易の利権を手にしていたものと思われる。

とくに注目すべきは、大内義隆は周防長門国を挙げてザビエルに宣教を許可していたのである。


前の記事では息女を正妻と勘違いして紹介していたが、ここにおいて訂正させていただく。

義隆の姉が洗礼を受けていれば、その娘も同じく受けることになるはずだ。

娘の戒名に「妙」の一文字を見たとき、ザビエルの横顔がまぶたに浮かんでくるようだ。

駐車場に車を置いて、今日は一日中歩いて武家屋敷町を散策することにしよう。

真夏の太陽は焼け付くように暑い。
今年(2010年)の夏は異常に暑い。
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