馬上の武者姿~長州(56) [萩の吉田松陰]

SH3B0209.jpgSH3B0209右手が旧周布家
SH3B0210.jpgSH3B0210裏門と庭
SH3B0212.jpgSH3B0212旧周布家長屋門

菊ヶ浜から南下して武家屋敷へと歩いていくと最初に家老だった周布の家に当たる。


右手は城の中の区域になるので、菊ヶ浜の南の武家屋敷とは、城に近いところの位の高い武士の屋敷といえる。
高杉や木戸の屋敷は、城から遠ざかるもっと左手(東寄り)の方にある。

裏木戸門がまず見えて、敷地内の庭先が道路から見える。
無人になっているようだ。生活の臭いはしない。

角を右に曲がると表門にたどり着いた。
ここが「旧周布家長屋門」である。

周布政之助の人物評は、やはり地元の人の書いたものと思われる「馬関歴史会」の記事を引用させていただこう。

『酒豪…山内容堂と双璧

幕末でいえば、土佐の山内容堂と酒豪として双璧だったのは、長州の周布政之助であろう。
周布は、桂小五郎より10歳ほど年長で、将来の明治政府の建設者をよく引き立て、倒幕や密航をちらつかせ藩を困らせた高杉晋作の面倒もよく見た偉材である。

名家の出身だった周布でなければ、幕末の長州で久坂玄瑞や来島又兵衛のようなアナキストまがいの“過激派志士”を抱えながら、俗論党と呼ばれる門閥上士階級の保守派を抑えた藩政のかじ取りもできなかっただろう。

新政府リードしたはず
文久2(1862)年11月、容堂が長州藩邸を訪ねたときのことである。
美声の久坂が容堂の前で披露した詩吟は、勤皇僧・月性の作品であった。

ところが、「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」という個所をあえて謡わず、容堂の佐幕ぶりを婉曲に批判したのに、酩酊した藩重役の周布が容堂を恐れもせずに「公もまた朝堂の一老公!」と一喝したという逸話が残っている。

話はこれだけで終わらない。

それからあまりたたずに、横浜の外国人居留地襲撃を計画した高杉や久坂を断念させようと、談判中の土佐藩士らに酔った周布がまたしても、「容堂公は尊皇攘夷をチャラかしなさる」と絡んだからたまらない。

高杉の取りなしがなければ、激昂(げきこう)した土佐藩士に斬られていたかもしれない。

さすがの長州藩も周布に謹慎を命じて土佐藩の追及をかわすはめになった。
周布が麻田公輔と改名したのは、容堂の絡んだ事件のためである。

周布は藩重役でありながら、どこか書生ぽさが抜けないところもあった。

彼は、元治元(1864)年に高杉が脱藩の罪を問われ、野山獄に入ったときも酩酊状態で獄に馬で乗りつけ、高杉を叱咤した逸話が残る。

このあたりは、昭和52(1977)年のNHK大河ドラマ『花神』で周布に扮した田村高廣の好演を憶えている人も多いだろう。

周布は元治元年、第1次長州戦争の責任を取る形で自刃(じじん)したが、明治まで生き延びたなら、桂小五郎こと木戸孝允にはないスケールの大きさで、新政府をリードしたはずだった。

近代国家日本のイフを想像する上でも欠かせない人物なのに、あまり人口に膾炙していないのは残念なことだ。』
(「【幕末から学ぶ現在】周布政之助■未完の大器の死(馬関歴史会)」より)
http://togyo21.blog14.fc2.com/blog-entry-15.html

周防柳井の勤皇僧・月性の詩に「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」という下りがあるという。
「尊王方である長老は、なぜ立ち上がるのにもたもたするのか?」という皮肉をこめたもののようだ。

その頃の土佐の容堂は徳川寄りだったから、その目の前でその句を歌い上げるのは刺激が強い。
だから気配りをしてその部分だけを除いて歌った。

それを聞いていた周布は消されてしまったその句をわざわざあげつらって、容堂にけしかけたのである。

お互い刀を傍に置いての酒宴であるから、一歩間違えば首が飛ぶ緊張感の中でのやり取りである。

松陰ならその句を決して飛ばして歌ったりしないだろう。
なぜ松下村塾の松陰第一の弟子である久坂は省いて歌うなどという遠慮をしたのだろうか。

或いはその時点ではまだ松陰に月性の火付けは成されていなかったのだろうか。

宇都宮黙霖がおそらくは月性の指示により萩を訪れたのは1855(安政2)年だった。聾唖の僧は野山獄の松陰に面会を求め、松陰は拒絶している、

しかし、文通は行った。
その結果松陰は、超過激派に転換することになる。

西本願寺派の僧2名が松陰の思想転換に関与している。

『1855(安政2)年、黙霖という聾唖の僧が萩を訪れた。
黙霖は芸州加茂郡(呉市)の生れで聾唖の身ながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤皇を説いていたが、松陰が獄中で書いた「幽因録」を読んだ。

松陰は、この頃はまだ「倒幕」の考えを持っていたわけでなく、「諌幕」という立場をとり、徳川幕府にも藩主にも臣としての厳格な立場を守っていた。

黙霖と松陰は、書簡を交わすことによって論議したが、その時、29歳の松陰はたたきのめされた。
この事から松陰の目が開き、「開国攘夷」や「倒幕」を唱えるようになった。

松陰は安政の大獄(1858年-安政5年)で捕えられた志士を救うため、老中間部詮勝の要撃策を立てたため、捕えられ翌年幕命で江戸に送られ、斬に処されたが、開国攘夷や倒幕など、歴史上重要な意味を持つ思想に一人の聾唖者の強い影響があったことにおどろかされる。
「プレジデント」1990年6月号初稿』
(「宇都宮黙霖 うつのみやもくりん」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/deafdramaz/62007847.html

馬関歴史会の記事によれば、容堂が長州藩邸を訪ねたのは文久2(1862)年11月である。

このとき松陰は既に墓の中である。
そしてこの年の5月に晋作は上海にいき、7月に帰国している。
晋作は上海で人が変わったように見える。

品川御殿山のイギリス公使館焼き討ちは文久2年の12月であり、年が明けて文久3年1月5日に南千住の回向院へ行き、松陰の白骨化した遺骸を掘り起こして、泥をぬぐい、甕に納めて世田谷へ回葬している。(1863年1月5日)
松陰の遺骸は土葬されていたが、囚人墓地の土の中で3年の月日の間に白骨化していた。

師匠の松陰を殺され、風雲急を告げる文久2年11月において、まだ久坂は容堂に遠慮があったのである。

黙霖に火をつけられたあとの松陰と比べると、この松門一等の弟子久坂は全くの安全パイの人物に見える。

攘夷決行を告げる光明寺の砲撃指示などを見ると、倒幕行動としては晋作よりも久坂の方が過激であったと私は思っていたが、この時点では上海帰りの晋作の方が過激になっていたようだ。

しかし、周布政之助は松門の四天王の一人、久坂の優柔不断を発見し敢えてそこを突いたのではないだろうか。

容堂を翻意させるのが目的ではなく、この大事な月性の句の重要な下りを省略する久坂の教育効果を狙ったのではないだろうか。

せっかく佐幕派容堂の前で月性の歌を吟じるのであれば、「朝堂の諸老なんぞ遅疑するか」の部分を歌わなければ意味がない。

松陰の流儀でいえば、むしろそこの下りだけを鈍重な容堂にぶっつければ済む話だ。
周布にすれば、あとは斬りあいになってもいいのである。

松陰亡きあとにおいても、まだ松門四天王には火がついていなかったようだ。

野山獄にいる高杉を馬上乗りつけ叱咤した周布の姿は、ドラマでも小説でも大変印象的である。
「長州男児」のイメージが視聴者や読者の脳裏に残る、極めて演劇的手法である。
まるで周布は、イギリスの演劇指導を受けていたかのようでもある。


それもこれも、晋作や久坂に火をつけようという努力なのであろう。

功山寺挙兵の際に、小雪舞う功山寺境内に騎馬で乗りつけ、三条実美ら公家に対して決起の宣言をしている。

馬上の晋作の武者姿は、今も功山寺境内に銅像として残っているが、それは野山獄で受けた周布の叱咤激励の影響であったのだろう。

私は実際に功山寺境内まで階段を歩いて上ったが、雪のちらつく夜に騎馬でこの階段を上る馬鹿はいないだろう。

あえてその馬鹿をやってのけた晋作もなかなか素直な青年である。
周布の教育は、周布本人の死後に見事に花を咲かせている。

長州藩で松陰の過激さを承継しているのは周布のように見えるが、或いは松陰に月性をして火をつけさせたのも、周布だったのかも知れない。
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