下士だった政之助~長州(57) [萩の吉田松陰]

SH3B0214.jpgSH3B0214長屋門を入ったところ(ご自由にお入り下さい)
SH3B0215.jpgSH3B0215屋敷の内部
SH3B0216.jpgSH3B0216中庭
SH3B0217.jpgSH3B0217「見事な切石積みの基礎」(説明板の表現)

『市指定有形文化財(建造物)
指定年月日 昭和37年1月
所有者 萩市
所在地 萩市大字堀内

旧周布家長屋門(きゅうすうけながやもん)

周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職(じとうしき)として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。

藩政時代は大組士の筆頭として、1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。

この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路の沿った長い建物である。

中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。
建物の概観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造である。

江戸中期の代表的な武家屋敷の様式を残している。 萩 市』(抜粋終わり)

江戸・本所の吉良上野介の屋敷も訪ねたが、こういう長屋屋敷に漆喰壁の独立した塀が周囲を囲んでいた。

周布のこの長屋門屋敷では塀はなく、屋敷の構造そのものが道路と中庭を隔てている。

火付けなどの攻撃には弱い構造であるが、戦のときは城へ篭る役回りなのだろう。

小説などを読んだ私は周布を家老だと思っていたが、この説明によれば大組士の筆頭となっている。

『長州藩の場合は一門6家+永代家老2家(益田家、福原家)で8家があり、ここが1万石クラスの重臣たちです。

その下に寄組62家と言われる上級家臣がいます。
この寄組には毛利氏が戦国大名だった頃の重臣クラス(例えば児玉家とか国司家とか)がいます。

で、その下に大組という中級家臣層があり、高杉家はこの大組士の家格です。
大組の下には徒士、足軽という層があり、これが下級家臣になります。

また長州藩に郷士というものはないようですが、豪農・豪商のことを名誉士分的な扱いで郷士と指すことはあったかもしれません。』
(「郷士と上士は、どうちがうんですか? 」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218160582

『市指定有形文化財(建造物)
指定年月日 昭和37年1月
所有者 萩市
所在地 萩市大字堀内

旧周布家長屋門(きゅうすうけながやもん)

周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職(じとうしき)として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。

藩政時代は大組士の筆頭として、1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。

この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路の沿った長い建物である。

中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。
建物の概観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造である。

江戸中期の代表的な武家屋敷の様式を残している。 萩 市』(抜粋終わり)

江戸・本所の吉良上野介の屋敷も訪ねたが、こういう長屋屋敷に漆喰壁の独立した塀が周囲を囲んでいた。

周布のこの長屋門屋敷では塀はなく、屋敷の構造そのものが道路と中庭を隔てている。

火付けなどの攻撃には弱い構造であるが、戦のときは城へ篭る役回りなのだろう。

小説などを読んだ私は周布を家老だと思っていたが、この説明によれば大組士の筆頭となっている。

『長州藩の場合は一門6家+永代家老2家(益田家、福原家)で8家があり、ここが1万石クラスの重臣たちです。

その下に寄組62家と言われる上級家臣がいます。
この寄組には毛利氏が戦国大名だった頃の重臣クラス(例えば児玉家とか国司家とか)がいます。

で、その下に大組という中級家臣層があり、高杉家はこの大組士の家格です。
大組の下には徒士、足軽という層があり、これが下級家臣になります。

また長州藩に郷士というものはないようですが、豪農・豪商のことを名誉士分的な扱いで郷士と指すことはあったかもしれません。』
(「郷士と上士は、どうちがうんですか?」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218160582

『土佐藩の場合はちょうどこの寄組までが上士としており、それ以下を下士とした』(同上)そうである。

周布家は大組の筆頭とはいえ、寄組の下だから土佐藩で言えば武智半平太や坂本龍馬と同じく下士となる。

周布家は石見国の土着だから、毛利が関が原に負けて周防長門へ移封されてきたときには石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主吉見正頼の家臣だったのかも知れない。

大内義隆の実姉は石見の主君吉見正頼の正室で、当時は大内義隆の遺児を萩城に匿っていたはずだ。
環(たまき)家、後の玉木家の人々である。

周布は、玉木家を準主君としてその復権を応援する立場の家柄に生まれている。
幕末の周布政之助は、その通りに、玉木文之進の育てた国家転覆を為しうる過激志士松陰を応援し、その弟子晋作たちの味方となっている。

『酒癖が悪かったともいわれ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。

舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。

明治期、周布の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。』周布政之助(Wikipedia)より)

舌禍事件とは月性の句の一部を省いた久坂の遠慮に檄を飛ばしたあの事件だろう。
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