東へ行く晋の字~長州(66) [萩の吉田松陰]

SH3B0246.jpgSH3B0246竹に墨書「人を慕いて東行く」
saigyou.jpg西行法師(菊池容斎画/江戸時代)(西行(Wikipedia)より)

玄関を上がって右手の座敷へ向かう途中の左手の柱に、半割りしてその上に墨で書いた歌が掛かっている。

高杉晋作の家の座敷で見たものである。
竹の墨書は「人を慕いて東行く」と書かれていた。

晋作の号は「東行(とうぎょう)」である。

そして高杉晋作の墓は曹洞宗の寺院で功山寺の末寺の東行庵(とうぎょうあん)(山口県下関市)にある。

「東行」は、それほどの晋作が思い入れをした号である。
「西行」と言えば、平清盛と同い年で友人であり、元北面の武士で、のちに侍を捨てて歌人となった僧西行(さいぎょう)を思い出す。

西行をひとつの人物モデルとして、それと対比してわが名を「東行」と付けたものである。
では、なぜ晋作は東へ行くのか?

同じ疑問を抱いている方は多いようである。

『西へ行く 人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ
吾去れば 人も去るかと思いきに 人びとそなき 人の世の中
の2つの歌の意味を教えて下さい。

あと、出来れば司馬さんが書いた小説で、高杉晋作のがあると聞いたんですが、本の名前を知っていたらそれも教えて下さい。

[ベストアンサーに選ばれた回答]

文久3年、いくら自説を説いても藩に同調するものが少なくて孤独だった頃に詠んだ歌です。

「西へ行く~」は藩の重臣や藩が「西へ行く人」で,自分は藩のことを大切に考えているために方向違いの「東」へ行くこの気持ちは神しか知らない

「吾去れば~」は京都進発を主張して受けいられず脱藩し、自分に同調してくれるくる人が多数いるかと思ったら、そんなことも無いのが世の中だ、
このような意味だと思います。

高杉晋作は天才にして孤高の人だったんですね。
司馬さんの本は「世に棲む日々」です。』
(「西へ行く 人を慕いて東行く わが心をば 神や知るらむ」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q146043079

『「西へ行く~」は藩の重臣や藩が「西へ行く人」』という表現はおそらく山口県萩市の地元の人の回答なのではないか。

萩を歩いてみればわかるが、萩城下町は城の東側にある。
城へ向かうには、先ほどわたってきた堀を越えて堀の内地区へ向かい更に西にあるお城へ登るのである。

萩城下で「西行」とは毛利氏を藩主とする萩城へ向かう集団を指している。

それに反して、晋作だけは孤独を感じつつ東へ向かったということである。
東には松下村塾があり、その北側の道を通って更に東へ山深く入れば、隠れキリシタンの里紫福村(しぶきむら)がある。
そこは大内義隆の遺児や遺臣たちでキリシタンだったものが萩から逃げて移り住んだ地区である。

大内義隆の遺児や遺臣たちは、山口市に今の保存されているザビエルの井戸の水でザビエルから洗礼を受けていたはずだ。

晋作が果たして紫福村を指して「東へ行く」と称したかどうか、それはまだわからない。

『西行(さいぎょう)、元永元年(1118年)~文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。

父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。
俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。
出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。』(西行(Wikipedia)より)
出家僧になったので「俗名は佐藤義清(さとう のりきよ)」とあるが、佐藤義清が本名である。

佐藤姓と聞けば、蝦夷の棟梁であった安部貞任の末裔が生き延びて佐藤を名乗り、義経を護衛した平泉の佐藤兄弟を思い出す。

山口県出身の総理大臣には、岸伸介、佐藤栄作、安部晋三と佐藤家ゆかりの人物が3人もいる。

今風に言えば、山口県庁の高級官僚であった高杉晋作が、東北地方から流れてきた佐藤氏一族の存在を知らないわけがなく、西行こと佐藤義清の生き様をモデルに己の生涯を規定したのであろう。

山口県において西行の名は特別の意味を持ち、それは奥州藤原氏とも関連してくる。

『西行法師(1118~1190)。
俗名佐藤義清(のりきよ)。

1118年、現在の和歌山県那賀郡打田町に生まれます。

平将門の乱を平定した鎮守府将軍・俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、義清は俵藤太秀郷の九代の裔にあたります。
同じく秀郷の流れをくむ奥州藤原氏とは遠縁になります。

母は監物源清経の女(むすめ)で、監物源清経は『梁塵秘抄口伝集』に見える「監物清経」や『蹴鞠口伝集』に見られる「清経」と同一人物と考えられており、とすると、今様や蹴鞠の名手の血が西行に受け継がれていったということになります。

18歳から北面の武士として鳥羽院に仕えるも(同僚には平清盛がいました。西行と清盛は同い年で友人だったのです)、1140年、23歳で突然、出家。
法名は円位。西行と号しました。

しばらくは京内外に居住していましたが、陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅に出、それから数年の後、西行は高野山に入ります。
以後30年ほど、高野山を拠点に諸国を遍歴。
吉野にも赴き、熊野も訪れ、中国・四国にも旅し、各地で数々の歌を詠みました。

源平戦乱の時期は伊勢に疎開。
1186年には再び陸奥へ。
途中、鎌倉では将軍源頼朝と会談。

奥州藤原氏が平泉に滅んだ翌年、1190年、かねてからの願い通り、

願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃
(『山家集』上 春 77)

願わくは、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。
あの釈迦が入滅した2月15日の頃に。

 西行は、河内国南葛城の弘川寺にて2月16日に亡くなりました。』
(「熊野の歌 西行法師」より)
http://www.mikumano.net/uta/saigyou.html

今の大阪府南河内郡河南町大字弘川43の弘川寺である。
(0721-93-2814)
大阪の和泉大津市や堺市の東方約30kmにある葛城山の西側麓にある寺である。

釈迦入滅日の自分の死を望んでいた西行は、熱狂的な仏教徒だったようだ。
「西行」の名も阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから由来している。

その西行とは真反対の「東」へ行こうとする晋作の思いとは、一体何だったのだろうか。
松陰神社の「東」の山奥には、隠れキリシタンの村があった。

晋作の「その思い」は、或いは佐藤姓を名乗る西行を介して奥州の俵藤太にまで辿り着くのだろうか。

晋作と佐藤家の関係はまだわからないが、晋作が目指した「東」とは、果たして奥州佐藤一族、奥州藤原一族の再興だったのであろうか、あるいはもっと壮大なアジアの宗教ロマンスが関与していたのだろうか。

元衆議院議員の安部晋太郎も、その息子の晋三も、「晋」の字を承継している。
晋三氏は現在も衆議院議員であり、2度目の総理大臣の椅子を狙っているようである。

晋作が目指した「東行」の理想は、現在でも続いているようだ。

『1189年(71歳)、西行は京都高尾の神護寺へ登山する道すがら、まだ少年だった明恵上人に、西行自身がたどり着いた集大成ともいえる和歌観を語っている。

「歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ」。

同年、西行は大阪河内の山里にある、役(えんの)行者が開き、行基や空海も修行した弘川寺の裏山に庵を結び、ここが終焉の地となった。』
(「あの人の人生を知ろう ~ 西行法師」より)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html

晋作の居室~長州(65) [萩の吉田松陰]

SH3B0242.jpgSH3B0242晋作初湯の井戸全景
SH3B0244.jpgSH3B0244玄関奥の居間
SH3B0245.jpgSH3B0245座敷と床の間

敷地内に案内板がある。

『この旧宅について

この旧宅は、家禄二百石を受けていた、父高杉小忠太宅で、現存する当時の建物は座敷(六畳床間付)次の間(六畳)居間に(六畳、四.五畳)小室に(三畳)のほかに玄関、台所があります。
土蔵納屋もありましたが、現存しておりません。
庭園に鎮守、裏庭には井戸がそのまま残っております。』(部分抜粋終わり)

晋作初湯の井戸は裏庭にあったのだ。
そういえば、玄関入って右手が座敷と表庭で左手の庭に井戸があったのを思い出した。

この玄関を通って奥の居間に向かって木戸孝允が訪ねて来たことだろう。
晋作はおそらく奥の座敷の床の間の前でくつろいでいたはずだ。

建築物を当時のまま保存するということは、死んだ人物をリアルに再現する上で重要な小道具となりえる。

古いものは何でも壊していくというやり方は、間違っていると思う。
萩の武家屋敷を歩くと、特にそう思われる。

晋作と道真の初湯~長州(64) [萩の吉田松陰]

SH3B0238.jpgSH3B0238高杉晋作の事跡
SH3B0239.jpgSH3B0239高杉家の庭
SH3B0241.jpgSH3B0241晋作初湯の井戸

「高杉晋作の事跡」と書いた木版が掲げられているが、周知の事実ばかりだと思われるからそこは省略し、最後の4行だけを以下に抜粋する。

「(途中略)
屋敷は現在半分以下になっておりますが、庭内には毛利公碑、東行言志、高杉家鎮守堂、奥には初湯の井戸と東行歌碑などがあります。」(抜粋終わり)

先ほど入ってきた高杉家玄関の門柱には、「高杉晋作誕生地」「高杉春樹旧宅」と刻まれていた。
「春樹」とは誰のことだろうか。
それは、晋作の父、家禄二百石の萩藩士高杉小忠太の号だった。

つまり晋作は春樹の嫡男であって、大組士の家柄を継承したのである。
晋作は、病死の直前まで親孝行を遂げていたことになる。
こういうまじめな親孝行振りは松陰には見られない。

いや、松陰が親孝行ではないという意味ではない。
松陰は親兄弟思いの人だったが、「思い」と「行動」は一致していない。
「行動」はこの国の転覆を謀るための命がけのものであり、小さな実家杉家をどうするかという世間話などは眼中になかった。

師の松陰が久坂や晋作に求めたのは、命を捨てて国のために決起することだった。

しかし、野山獄中にいる間、僧侶月性の仕掛けによって見る見る過激な勤皇倒幕志士へと急に脱皮していく師匠からの命令についていけず、久坂も高杉もそれぞれが決起のベストタイミングと思う「チャンスのとき」を待ったのだった。

結局、師の松陰は金子一人だけを共にして黒船への密航を企て実行した。
それが師弟の運命を決定的に分けていくことになる。

松陰の一番弟子ともいえる久坂は、禁門の変で負傷し師匠の後を追った。
晋作は、その時点においてもまだ時期尚早と考えていた。

松陰は過激行動を躊躇する晋作ら弟子に向かって「許しの言葉」を与えている。

そのことは、このブログに以前書いた。
「晋作の死所」を求める手紙を受け取った松陰は、江戸の牢屋敷から晋作へ返事を書いた。

その下りを抜粋再掲する。

『(安政6年)7月、伝馬町牢屋敷に移った松陰は、晋作の死生観の問いに手紙で答えた。

『松陰は、弟子の高杉晋作から、男子たる者の死生観について問われ、以下のように答えている

死は好むべきにも非ず、亦(また)悪(にく)むべきにも非ず。
道尽き心安(やすん)ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』(拙著ブログより抜粋)


松陰は、「道尽き心安ずるところ」が死所であるとしている。
「求める崇高な目標を求める旅が終わり、心の平安が生まれたところ」とでも言うのだろうか。

当然のこととして、松陰自身は『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。』を選ぶはずだ。
日ごろから松陰の言動に接し、日々過激になっていく師の様子からして、その予感は弟子たちにはあったはずだ。

しかし、晋作は師の言葉にもある『生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』を取ったのである。

少なくとも功山寺決起の日までは「生きること」を選んでいる。
やさしい松陰は晋作に対してそうするようにほのめかしてあげたのである。

松陰のように玉木文之進から過酷な思想教育を受けた人間は、世界中に一人しかいない。
松陰は自分の選ぶ道を、決して他の人間が辿れるとは思っていなかったのだろう。

一番弟子の久坂さえ、完全には松陰をトレースできずに、最後は切腹をしている。
これがもし松陰ならば、禁門の変で負傷しても決して切腹を選ばなかっただろう。
私はそう思う。

松陰ならば、腸(はらわた)を引きずりながらでも、あらゆる戦略を駆使して天皇の敵と戦って、戦い抜くはずだ。

黒船密航の松陰の行動を見れば、そう想像できる。
櫓が壊れてしまい、兵児帯や褌で魯を船の舷に固定しながら漕いで、夜の風雨の中をペリー艦隊の旗艦までたどり着いているのである。

太平洋のうねりのある海で、しかも夜の風雨の中で実際に伝馬船やカッター船などを漕いだことのある人なら、それがどれほど困難な行為であるかわかるだろう。

私はヨットレーサーだったので、江ノ島でも試合をしてきたから、瀬戸内海では決して体験できない恐ろしいうねりの存在を知っている。

多くの国民が農耕民族の末裔である日本人には、松陰のその夜の苦労はよくわからないだろう。

風速8~10mの夜の海で手漕ぎボートで100mでも漕いで見れば、猟師ならいざ知らず、その密航が一般の日本人にとってどれほど困難な技かがわかるはずだ。

晋作は「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」と師に言われた。
そのわずか1ヵ月後(8月23日)に、晋作は久坂玄瑞に対して「攘夷には富国強兵が必要」と手紙に書いている。

この「富国強兵」は、当時の武士は自藩を『国』と見ていたのだから、晋作も長州藩を「国」と考えて「富国」を主張したものでああろう。

しかし、後に上海に渡ってからの晋作の脳裏には、「日本国」という概念がはっきりとその目に見えてきたはずである。

そして、幕末の革命後の新政府の中で晋作がやるべき「大業の見込み」は、江戸昌平黌留学中に得られたのであろう。

その晋作が「富国強兵」と書いた手紙のわずか2ヵ月後に、師は江戸伝馬町の座敷牢で斬首された。
安政6年(1859)10月27日(1859年11月21日)の秋であった。
11月21日ならば、楓の葉は真紅に色づいていたことだろう。

武士としての礼儀である切腹さえ許されなかった。
惨めな罪人としての師の最後だった。

松門四天王たちの断腸の思いを想像するに、武士として切腹した主君を持った赤穂浪士たちよりも強かったのではないだろうか。

『(松陰は、)9月5日、10月5日、16日に尋問を受けている。
この16日の尋問で供述内容をめぐって奉行らと論争になった。

この紛議以降松陰は自らの刑死を確信する。

最後の書簡は10月20日(父・叔父・兄宛)である。
その中に 「親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん」 

そして、かの有名な留魂録は25日に書き始められる。』
(「長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/bochoshisya-1.htm』(抜粋再掲終わり)

高杉家の庭は小ぢんまりしている。
昔は屋敷は2倍の広さだったというから、庭もこの倍の広さだと想像すべきだろう。

座敷正面にの縁側近くに、晋作の「初湯の井戸」があった。

井戸と言えば、山口の大内義隆の屋敷跡すぐ近くに有名な井戸がある。
名を「ザビエルの井戸」という。

今でも観光スポットとして井戸の復元模型と案内板が立っており、その周辺は頭上一面楓の葉でうずめられている。

秋、11月下中には、その井戸の上は血色の空のごとく赤く楓で彩られていたことだろう。

そこはザビエルが山口で布教を行った場所である。
キリスト教徒にとって、井戸は神聖なものを意味する。

生まれてまもない幼子に洗礼を授ける際に、幼児の額に水滴を垂らす。
その水の出所が井戸なのである。

聖なる井戸と言える。

この高杉家にある晋作の初湯の井戸が何を指すのか、私にはわからない。

日本古来の「初湯信仰」というものがあるのかどうか調べてみた。

京都の上京区に「菅公初湯の井戸」という観光名所があった。

『初湯の井戸について
この井戸は道真公(845年生)が初湯をつかわれた井戸です。
この井戸はその当時のままに残り現在にいたっております。
1,165年が経過いたしております。

外寸 百十センチ角、
深さ 約九メートル、
現在は涌いておりません。 社務所

◆上は初湯の井戸の上に書かれている説明をそのまま再録しました。
今は水は汲めませんが、水脈はあるので20メートルほど掘れば水は出るそうです。

菅公が好まれたという石灯籠が菅原院天満宮神社の境内に置いてあります。
菅公生誕地を主張する神社が京都市に3ヶ所、奈良に1ヶ所確認できていますが、探せばもっとあると考えられます。
飛梅も各所にあります。』(「菅公初湯の井戸(京都観光上京区)」より)
http://www.kyotok.com/jin1032.html

私は菅原道真が洗礼を受けるシーンを思い浮かべて見た。
新約聖書を漢字で書いたものが今高野山に保管されている。
空海がお経の経典のひとつとして、中国から日本へ持ち帰ったものだ。

高野山の僧侶は朝の読経の際に、袈裟の前で十字を切る。
それが空海の持ち帰った密教である。

『「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。

大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。
日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。

空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。

当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。
「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。』(空海(Wikipedia)より)

菅原道真が罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されたのは延喜元年(901年)だった。

空海が唐より帰国した大同元年(806年)から100年後の出来事である。

『(806年)10月の(空海の)帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。』(空海(Wikipedia)より)

大宰府滞在という点で、空海と道真は共通点を持つ。
「初湯の井戸」では、道真と晋作が共通点を持つ。

私の空想は、菅原道真は空海が持ち帰った密教経典の中にあったネストリウス派のキリスト教の洗礼を受けているというものである。
その場合、「初湯の井戸」は大変聖なるものとなる。

『ネストリウスが公会議で破門された後、ネストリウス派は498年セレウキア・クテシフォンに新しい総主教を立てた。

現在はイラク北部のアッシリア地域に点在する他、アメリカやオーストラリアに移民を中心とする信徒がいる。

中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。

当初、唐の朝廷は初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、信仰を容認、保護したため、盛んであった。

しかし唐代末期、王朝を伝統的中華王朝に位置づける意識が強まって以降、弾圧され消滅した(参考:会昌の廃仏)。

モンゴル帝国を後に構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。

そのため、元の時代に一時中国本土でも復活することになった。
ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を維持するモンゴルを自称し続ける勢力とオイラトを称する勢力の二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。

景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教の教会を唐の時代、大秦寺という名称で呼んでいた。

なお、中国景教の研究により1941年に東京帝国大学より文学博士号を授与した佐伯好郎によると、一説に渡来民族である秦氏によって日本にも景教が伝わったともいわれる。

中国ではダビデを漢訳して大闢と書くが、秦氏は西日本の日本海各地に大避神社と号する神社を建立し、また京都の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した大酒神社も、昔は大辟、さらにさかのぼると大闢と号していたと報告。

また同神社が管理している木嶋坐天照御魂神社にある「三柱鳥居」という珍しい鳥居は三位一体を表わし、また「いさらい井戸」はイスラエルの転訛で、したがって旧約聖書に登場する失われた10支族の末裔ではないか、などと推察している。しかしこれには多くの異論があり、偽言語比較論やオカルトの一種として否定する向きも多い。(→日ユ同祖論)』
(ネストリウス派(Wikipedia)より)

ネストリウス派の創立は498年である。
元(げん)朝は、1271年から1368年までである。

つまり、498年から1271年までの間、すなわち東洋のキリスト教ネストリウス派の発生から元朝登場までの間の700年間に、中国では景教として普及していったものである。

元の時代に至って皇帝チンギス・ハーン家の支援を得て、ほぼ景教は完成したと言えるだろう。

その景教発展の過渡期に、空海は唐に留学している。
空海帰国から約100年後に道真が左遷されている。

菅原院天満宮神社の境内に菅公が好まれたという石灯籠があるという。
その灯篭の中に三角形の腕を持つ仏像などが置いていなかっただろうか。
私はまだそれを見たことがない。

日本の歴史は謎に満ちていて、大変面白い。

晋作と菅原道真~長州(64) [萩の吉田松陰]

SH3B0238.jpgSH3B0238高杉晋作の事跡
SH3B0239.jpgSH3B0239高杉家の庭
SH3B0241.jpgSH3B0241晋作初湯の井戸

高杉晋作の事跡と書いた木版が掲げられているが、周知の事実は省略して最後の4行だけを抜粋する。

「屋敷は現在半分以下になっておりますが、庭内には毛利公碑、東行言志、高杉家鎮守堂、奥には初湯の井戸と東行歌碑などがあります。」(抜粋終わり)

先ほど入った玄関の門そばの石柱には、「高杉晋作誕生地」「高杉春樹旧宅」と刻まれていた。
春樹とは誰のことだろうか。
それは、晋作の父高杉小忠太の号であり、家禄二百石の萩藩士だった。

つまり晋作は春樹の嫡男であって、大組士の家柄を継承したのだった。
病死の直前まで晋作は親孝行を遂げている。

松陰が当初久坂や晋作に求めたのは、命を捨てて決起することだった。

しかし、野山獄中で過激な勤皇倒幕志士へと生まれ変わっていく師匠からの命令に従わず、それぞれのチャンスのときを待った。

松陰は金子だけを共にして黒船へ密航を企てた。
それが師弟の運命を分けることになった。

途中、松陰の一番弟子ともいえる久坂は禁門の変における働きで師匠の後を追った。
晋作はそれでもまだ時期尚早と考えていた。

松陰は過激行動を躊躇する晋作ら弟子に向かって、許しの言葉を与えている。

そのことは、このブログに以前書いた。
「晋作の死所」を求める手紙の返事の下りを抜粋再掲する。

『(安政6年)7月、伝馬町牢屋敷に移った松陰は、晋作の死生観の問いに手紙で答えた。

『松陰は、弟子の高杉晋作から、男子たる者の死生観について問われ、以下のように答えている

死は好むべきにも非ず、亦(また)悪むべきにも非ず。
道尽き心安ずるすなわち是死所。

世に身生きて心死する者あり。身亡びて魂存するものあり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば、亡ぶも損なきなり。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

「道尽き心安ずるところ」が死所であるとしている。
求める崇高な目標を求める旅が終わり、平安の心が生まれるところとでも言うのだろうか。

当然のこととして、松陰は『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。』を選ぶだろう。

しかし、晋作は師の言葉にある『生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』を取ったものと思われる。
松陰はそうするように晋作にほのめかしたようである。

松陰のような過酷な思想教育を受けた人間は、一人しかいない。
松陰は自分の選ぶ道を他の人間が辿れるとは思っていなかっただろう。

久坂さえ、完全には松陰をトレースできずに最後は切腹をしている。
松陰なら、決して切腹を選ばなかっただろうと私は思う。
あらゆる戦略を駆使して、戦って戦い抜くはずだ。

黒船密航の松陰の行動を見れば、そう予想できる。
櫓が壊れてしまって、兵児帯や褌で魯を固定して漕いで、ペリー艦隊の旗艦へたどり着いているのである。

太平洋の夜の風雨の中で実際にカッター船などを漕いだことのある人なら、それがどれほど困難な行為であるかわかるだろうが、多くの農耕民族である日本人にはよくわかっていない。

「生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。」と師に言われた1ヵ月後(8月23日)、晋作は久坂玄瑞に対して「攘夷には富国強兵が必要」と手紙に書いている。

この「富国強兵」は、当時の武士が藩を『国』と見ていたのだから晋作も長州藩を「国」として富国を主張したものである。

しかし、後に上海に渡ってからの晋作の脳裏には、日本国という概念がはっきりと見えてきたはずである。

革命後の新政府で晋作がやるべき「大業の見込み」の種は、この江戸留学で得られたと言えよう。

恩師松陰は、そのわずか2ヵ月後に江戸伝馬町の座敷牢で斬首された。
それは安政6年(1859)10月27日(1859年11月21日)のことであった。

武士としての最低限の礼儀である切腹さえ許されない、惨めな罪人としての恩師の最後だった。

松門四天王たちの断腸の思いは、切腹した主君を持つ赤穂浪士よりも強かったことだろう。

『(松陰は、)9月5日、10月5日、16日に尋問を受けている。
この16日の尋問で供述内容をめぐって奉行らと論争になった。

この紛議以降松陰は自らの刑死を確信する。

最後の書簡は10月20日(父・叔父・兄宛)である。
その中に 「親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん」 

そして、かの有名な留魂録は25日に書き始められる。』
(「長州藩死者数並びに長州藩諸事変に関わった他藩人死者」より)
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/bochoshisya-1.htm』(抜粋再掲終わり)

高杉家の庭は小ぢんまりしているが、昔はこの2倍の屋敷の広さだったから、庭もこの倍の広さだと想像すべきだろう。

座敷正面に晋作の「初湯の井戸」があった。

山口の大内義隆の屋敷跡のすぐ近くに井戸がある。
名をザビエルの井戸という。

今でも観光スポットとして井戸の姿と案内板があり、その周囲は一面が楓の葉でうずめられている。

おそらく秋の11月下中には、その井戸は血色の空のごとく頭上を覆う楓葉で彩られることだろう。

そこが、あのザビエルが山口で布教を行った場所である。

キリスト教徒にとって、井戸は神聖なものを意味する。
生まれてまもない幼子に洗礼を授ける際に、幼児の額に水滴を垂らす。
その水の出所が井戸なのである。

聖なる井戸と言える。

この高杉家に残る晋作が初湯を浴びた井戸が何を指すのか私にはわからない。

日本古来の初湯信仰というものがあるのかどうか。

京都の上京区に「菅公初湯の井戸」という観光名所がある。

『初湯の井戸について
この井戸は道真公(845年生)が初湯をつかわれた井戸です。
この井戸はその当時のままに残り現在にいたっております。
1,165年が経過いたしております。

外寸 百十センチ角、
深さ 約九メートル、
現在は涌いておりません。 社務所

◆上は初湯の井戸の上に書かれている説明をそのまま再録しました。
今は水は汲めませんが、水脈はあるので20メートルほど掘れば水は出るそうです。

菅公が好まれたという石灯籠が菅原院天満宮神社の境内に置いてあります。
菅公生誕地を主張する神社が京都市に3ヶ所、奈良に1ヶ所確認できていますが、探せばもっとあると考えられます。
飛梅も各所にあります。』(「菅公初湯の井戸(京都観光上京区)」より)
http://www.kyotok.com/jin1032.html

私はふと菅原道真の洗礼のシーンを思い浮かべて見た。
日本の歴史は謎に満ちていてた大変面白い。

ロシア正教のシュロ~長州(63) [萩の吉田松陰]

SH3B0234.jpgSH3B0234晋作の家の方向は右折してこの路地に入るようだ
SH3B0235.jpgSH3B0235田中義一(生家跡? シュロの木にピント)池
SH3B0236.jpgSH3B0236高杉晋作誕生地

周布政之助の家から真東へ進み、この路地で右折した。
路地の光景は江戸時代そのものが保存されているようだ。

会津は破壊されて、萩は保存されている。
平家物語の盛衰を見るようである。

路地に田中義一と書いた案内板がある。
銅像はなく旧家跡のようである。

何も特徴もない狭い敷地だったが、正面やや右手にあるシュロの木が私にシャッターを押させた。
田中義一の出生地は、長門国阿武郡萩である。
今の萩市だが、萩はあの隠れキリシタンの里の阿武郡紫福村と同じ行政区分にあったことがわかる。

『田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日)~昭和4年(1929年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。
階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。

陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。

生涯
軍人として

萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。
父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。

若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。
日清戦争に従軍。
その後、ロシアに留学した。

ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。

また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。
このため日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。

長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。
しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。

日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。
戦後の明治39年(1906年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。以下略。』(田中義一(Wikipedia)より)

田中義一は、ロシア正教の信者だった。
それで対ロ戦争の強硬主張をするところは、本気の信仰ではなかったのかも知れない。
むしろ広瀬の方が、本気でロシア通になってしまっていたのだろう。

ならば、上の写真にある敷地内のシュロの枝は、新約聖書に基づもので、キリストの復活を祝う意味となろうか。

吉田松陰が斬刑死した安政6年(1859年)には田中義一は生まれてもいなかった。
高杉晋作が病死した慶應3年(1867年)に、漸く3歳の可愛い盛りの幼児だった人物である。

成長してからは、松陰や晋作によってもたらされた陸軍長州軍閥の恩恵を一身に受けているように見える。

松陰や晋作に対する「義理は人一倍」あるはずだ。

兵学者松陰の同時代人で、陸軍での恩恵を受けた人物は多く、山県有朋はその筆頭であろう。

命を捨てなかったもの、あるいは生まれが遅くて捨てる機会さえ持てなかったものたちが、命を捨てて国を援けた松陰の栄華を満身で受け取っている。

毛利と月性の利害一致~長州(62) [萩の吉田松陰]

SH3B0231.JPGSH3B0231井戸
SH3B0232.jpgSH3B0232「北の総門」隣は萩博物館
SH3B0233.JPGSH3B0233萩城下町

お堀のそばに昔ながらの井戸があった。
おそらく観光用に復元したものだろうが、古老の言い伝えなどを参考に昔あった位置に作られたのではないか。

お城に入る前に身だしなみを整え、喉の渇きを潤したのであろう。

「北の総門」は人影もなく静かだったが、その隣は萩博物館で大型バスがひっきりなしにやってきて賑やかである。

こういう観光施設には私はまったく興味がない。

確かに明治革命を推進したのは薩摩と並んでこの萩毛利藩であるが、ピラミッド組織を動かしたのはたった一人の29歳で首を斬られて死んだ吉田松陰であった。

久坂も高杉も怪物青年松陰の遠隔操縦に過ぎない。

しかし松陰を育て操縦していたのは玉木家だった。
そこへ、なぜか西本願寺派僧侶の月性が絡んでくる。

本願寺といえば、日本国で唯一織田信長と長期戦で負けなかった武装宗教軍団だった。

石山寺本願寺である。
比叡山の仲介があったとはいえ、蓮如の意思による自主退去によって空き家になった不落城石山だったが、秀吉はそこに大阪城を建築した。

本願寺と和解したかに見えた信長だったが、二度と本願寺僧兵が巨大な軍事力を持たないように分断した。

信長が比叡山を焼き討ちしたのは、宗教弾圧ではない。
僧兵軍団を率いた大名をも超える軍事力を背景に、市場経済まで統制していた寺の独占権を破壊するためだった。

焼き討ち後も信長は宗教に関しては信仰の自由を与えている。

「お寺を焼き槌した信長は残虐」という歴史上での信長への誤解がある。
テレビなどでもナレータや司会が堂々とそういうおかしな言い方を平気でやっている。

信長の宗教団体武装解除政策への誤解解消は、井沢元彦著「逆説の日本史」が参考になる。

さて分断された本願寺であるが、徳川家康は東本願寺を保護した。
つまり300年もの長い間、倒幕を待ち焦がれてきたのは、西本願寺派だったのだ。

徳川を倒すという目的に対して、毛利藩と西本願寺派は利害が一致していた。

長州だ会津だと観光名物だけを追いかけていては、真実の姿は見えないはずだ。

明治革命を見るためには、松陰の29年間の生い立ちをつぶさにみる必要がある。
この城下町には、松下村塾へミイラ取りにに行きミイラになった晋作の家が残されている。

日本最大級の高麗門~長州(61) [萩の吉田松陰]

SH3B0225.jpgSH3B0225お堀の向こうは晋作の住んでいた城下町
SH3B0226.jpgSH3B0226城門
SH3B0228.jpgSH3B0228お堀
SH3B0230.jpgSH3B0230バス停「北の総門入口」
SH3B0229.jpgSH3B0229萩城「北の総門」

私は菊ヶ浜から少し南下したところにある周布政之助の旧宅から真東へ歩いてきたつもりだった。
旧益田家見張矢倉を通り過ぎると、やがてお堀に当たる。
右手、つまり南方面に堀を渡る橋と門が見える。

近づいてみると、バス停に「北の総門入口」と書いてある。
あの門は「北の総門」である。

城の東側についている門であるが、確かに日本海に近い方の北寄りにある門である。

高杉晋作の自宅から萩城へ最短で歩けばこの門に突き当たる。
土佐藩風に言えば、下士である若き松陰も晋作も、この門をくぐって城へと通ったのだろう。

『高さ7メートル、日本最大級の高麗門

北の総門
平成16年11月、「萩開府400年」を記念した際に復元されたもの。
脇戸付きの切り妻造り本瓦葺き、柱間約6メートル、高さ7メートルの日本最大級の高麗門。

本柱や「冠木(かぶき)」と呼ばれる横材などは、大分県から取り寄せた欅(けやき)の巨木を使って復元した。

かつて、城下から三の丸(堀内地区)に入るために設けられた総門の一つであり、他に中の総門、平安古の総門がある。

それぞれに門番が常駐し、人の出入りを監視していた。

門は、暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)までは閉じられ、鑑札を持った者以外の通行を禁止していた。 』
(「ぶらり萩あるき」より)
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100030

どうやら江戸時代にはこの門から先は深夜うろうろできない管理ゾーンになっていたようだ。

朝鮮半島と向き合う位置の萩市に「日本最大級の高麗門」があることは因縁深いものを感じる。
大内氏も百済から来た王を名乗っていた。

歴史の濁流の中へ~長州(59) [萩の吉田松陰]

SH3B0221.jpgSH3B0221旧益田家物見矢倉
SH3B0222.jpgSH3B0222案内板
SH3B0224.jpgSH3B0224屋敷の基礎石組

旧繁沢家長屋門の東側にはもっと豪華な屋敷がある。
繁沢家も周布家も、須佐の元領主だった毛利萩藩の永代家老益田家の庶流だったが、この立派な屋敷がその旧益田家だった。

ここは物見矢倉の屋敷だそうだが、その石垣もそれまでのものとは別格で、城の石組を思わせる大きく立派な基礎であった。
須佐領主時代もこういう平城(ひらじろ)に住んでいたのだろうか。

この屋敷は物見矢倉跡という。

つまり益田家本家は城内にあって、この立派な屋敷は敵の城への侵入を見張る場所だったのであろう。

『旧益田家物見矢倉

益田家は萩藩永代家老(12,062石余)の家柄で阿武郡須佐に領地を持っていた。
建物は木造本瓦葺入母屋造り、桁(けた)行11.06m、梁間(はりま)5.06mである。

石垣の上に、単層の堅固な建築で「矢倉長屋」と称され物見も兼ねていた。

棟瓦、懸魚(げさん)、格子窓などの意匠や規模がすぐれている。

当家幕末の当主益田親施(ちかのぶ)は藩主毛利敬親のとき国家老など要職をつとめ藩政改革に尽くしたが、元治元年(1864)禁門の変の責任者として徳山藩へお預けとなり、切腹させられた。年三十二.

萩市教育委員会』(抜粋終わり)

平屋建ての見張り小屋であるが、国家老の屋敷だった。

益田親施(ちかのぶ)は、藩主毛利敬親から「親」の文字を賜っている。
藩主の身代わりとして、幕府へ謝罪・恭順を示すために切腹をせざるを得なかったのであろう。

松陰が撒いた種による犠牲者とも言えよう。
あるいは玉木家(環家)が撒いた種かも知れない。

元「須佐の王(すさのおう)」の末裔であるから、「すさのおうのみこと」の末裔でもあろうか。
私は、須佐と聞いて自然と武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)をふと思い出した。

同神社の祭神はスサノウノミコトである。
スサノオは、戦上手な神様だったし、暴れ者だった。

幕末に藩主の身代わりなどにならず、松陰と結託して倒幕革命の火付けをやれれば歴史に名を残しただろうものを、「現状地位維持」「身分家柄重視」「先祖の権利承継」などの保身に走った。

人の情としては、これだけの家格と財産を棒に振ることはできないだろうことはわかる。

しかし、松陰は違った。
もともと椎の実の取れる山しかない場所で生まれ育った。

松陰には物理的なものとしては、失うものはない。
よって精神的な高みを求めて活動を先鋭化していき、萩生まれ、萩育ちのまじめな青年は、歴史の表舞台中心に忽然と登場することになった。

大いに乱れる時代においては、己が持っているものを守ろうとするものは、歴史の渦に飲み込まれてしまうしかない。

乱世における保身は、大洪水の中で胸まで水に浸かりつつわが豪邸を守ろうとする姿に他ならない。

萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58) [萩の吉田松陰]

SH3B0218.jpgSH3B0218見事な石垣
SH3B0220.jpgSH3B0220旧繁沢家長屋門
SH3B0219.jpgSH3B0219同上説明板

周布家から路地を東へと向かう。
正面のまだ高くない朝日が目にまぶしい。

やがて見事な基礎石がならぶ大きな武家屋敷の前を通った。

旧繁沢家長屋門と立て札が立っている。
私はその人物を知らない。

『旧繁沢家長屋門

繁沢家は阿川毛利家(7300石)の分家で萩藩寄組(1914石余)に属し、知行地を大津郡三隅村と阿武郡小川村に持っていた。

建物は桟瓦葺き切妻造り、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけている。

同家藩政初期の当主繁沢就充(なりみつ)は藩要職として活躍した。
萩市教育委員会』(抜粋終わり)

周布家は永代家老益田家の庶流であった。

庶流(しょうりゅう)とは庶子の系統の意味で、本家から分かれた家柄、分家のことである。

長州藩家老に益田元尭なるものがいた。
その子に繁沢元充というものがいる。

ここ繁沢家に家老益田家から養子に来たのであろうか。

『益田 元尭(ますだ もとたか、文禄4年(1595年)~万治元年10月14日(1658年11月9日))は、益田家第21代当主。
長州藩永代家老・須佐領主益田家2代。

父は益田広兼。母は吉見広頼の娘。
正室は益田景祥の娘。
子は益田就宣、繁沢元充、宍道就明室、益田就恒(福原就祥)、井原就尭、八幡新善法寺正晃室。
幼名道祖吉。通称玄蕃、越中。号無庵。

生涯
文禄4年(1595年)毛利家家臣・益田広兼の長男として生まれる。
同年父が疱瘡で病没したため、祖父元祥の世継となる。
元和6年(1620年)祖父元祥の隠居により嫡孫承祖。
寛永15年(1638年)島原の乱の際に藩兵を率いて出陣。

寛永18年(1641年)当職(国家老・執政)となる。
正保元年(1644年)9月隠居して無庵と号し、家督を嫡男就宣に譲る。

正保3年(1646年)出兵や幕府の課役への出費が重なったことで、藩債は6200貫にも達したため、隠居の身ながら藩財政の建て直しを命じられる。
藩主から財政建て直しの全権委任と反対派への処罰の権限を与えられ、藩士の禄を2割減知することで2万石の増収を生み出し、財政の改善を成し遂げた。

万治元年(1658年)10月14日卒。享年64歳。』
(益田元尭(Wikipedia)より)

この財政再建派の家老の「母は吉見広頼の娘」と書いてある。
吉見正頼の正室、すなわち大内義隆の実姉はキリシタンであると、私なりに確信している。
吉見広頼は吉見正頼の嫡男である。

広頼の母、つまり「正頼の正室」は、その子々孫々にも洗礼を授けさせたであろう。
ザビエルはわずか2年足らずで日本を離れたので、ザビエルの洗礼を受けたのは大内義隆の姉だけで、広頼は後任の宣教師によっただろう。

以前から私はなんとなく幕末の毛利家重臣にキリシタンがいたはずだと推測していた。
根拠はまだ見出せていないが、いくつかの事跡に出会ったときにそう感じた。

この益田元尭は、吉見正頼の正室との縁を辿れば、その筆頭候補に挙げられる。

一方、大組士(土佐藩なら下士に当たる)周布家の家格は寄組(1914石余)の繁沢家よりはかなり低いが、繁沢家と同様に周布家も益田氏の庶流だった。

『南北朝時代になると益田宗家は北朝方、三隅・福屋・周布などの分家は南朝方に付いた。

観応の擾乱が勃発すると、益田氏は大内弘世とともに中国探題であった足利直義方に付いた。

その後直義方が劣勢になると大内氏は尊氏方に寝返り、益田氏もそれにならった。

以後益田氏は大内氏の傘下として石見国人の筆頭の地位を築いた。』
(益田氏(Wikipedia) より)

分家の周布家は南朝方だったのだ。

周布政之助は、土佐藩士に斬られそうになったことがある。
そのとき、高杉晋作の取り成しで命拾いしている。
それは容堂公を冷かしたときのことだった。

周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。

ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。

徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。

世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。

月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。

その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。

囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。

「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂  松陰」

侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。

月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。

宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。

その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。

獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。

月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。

月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。

国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。

大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。

しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。

松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。

松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。

日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。

日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。

学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。

歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。

そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。

松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。

松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。

いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。

長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。

平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。

下士だった政之助~長州(57) [萩の吉田松陰]

SH3B0214.jpgSH3B0214長屋門を入ったところ(ご自由にお入り下さい)
SH3B0215.jpgSH3B0215屋敷の内部
SH3B0216.jpgSH3B0216中庭
SH3B0217.jpgSH3B0217「見事な切石積みの基礎」(説明板の表現)

『市指定有形文化財(建造物)
指定年月日 昭和37年1月
所有者 萩市
所在地 萩市大字堀内

旧周布家長屋門(きゅうすうけながやもん)

周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職(じとうしき)として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。

藩政時代は大組士の筆頭として、1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。

この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路の沿った長い建物である。

中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。
建物の概観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造である。

江戸中期の代表的な武家屋敷の様式を残している。 萩 市』(抜粋終わり)

江戸・本所の吉良上野介の屋敷も訪ねたが、こういう長屋屋敷に漆喰壁の独立した塀が周囲を囲んでいた。

周布のこの長屋門屋敷では塀はなく、屋敷の構造そのものが道路と中庭を隔てている。

火付けなどの攻撃には弱い構造であるが、戦のときは城へ篭る役回りなのだろう。

小説などを読んだ私は周布を家老だと思っていたが、この説明によれば大組士の筆頭となっている。

『長州藩の場合は一門6家+永代家老2家(益田家、福原家)で8家があり、ここが1万石クラスの重臣たちです。

その下に寄組62家と言われる上級家臣がいます。
この寄組には毛利氏が戦国大名だった頃の重臣クラス(例えば児玉家とか国司家とか)がいます。

で、その下に大組という中級家臣層があり、高杉家はこの大組士の家格です。
大組の下には徒士、足軽という層があり、これが下級家臣になります。

また長州藩に郷士というものはないようですが、豪農・豪商のことを名誉士分的な扱いで郷士と指すことはあったかもしれません。』
(「郷士と上士は、どうちがうんですか? 」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218160582

『市指定有形文化財(建造物)
指定年月日 昭和37年1月
所有者 萩市
所在地 萩市大字堀内

旧周布家長屋門(きゅうすうけながやもん)

周布家は、萩藩永代家老益田家の庶流で、石見国周布郷の地頭職(じとうしき)として周布村に住し、周布を氏としたことから始まる。

藩政時代は大組士の筆頭として、1,530石余の知行地を長門市渋木に領していた。

この長屋門は同家萩屋敷の表門で、平屋建本瓦葺き、東西の桁行24.91m、東端から北に折れ曲がった部分の桁行11.2m、梁間3.96mの道路の沿った長い建物である。

中央から東寄りの所に、2.46m幅の門を構えて開き扉を設けている。
建物の概観は腰部を下見板張りとし、基礎に見事な切石積みがあり、上部は白漆喰大壁造である。

江戸中期の代表的な武家屋敷の様式を残している。 萩 市』(抜粋終わり)

江戸・本所の吉良上野介の屋敷も訪ねたが、こういう長屋屋敷に漆喰壁の独立した塀が周囲を囲んでいた。

周布のこの長屋門屋敷では塀はなく、屋敷の構造そのものが道路と中庭を隔てている。

火付けなどの攻撃には弱い構造であるが、戦のときは城へ篭る役回りなのだろう。

小説などを読んだ私は周布を家老だと思っていたが、この説明によれば大組士の筆頭となっている。

『長州藩の場合は一門6家+永代家老2家(益田家、福原家)で8家があり、ここが1万石クラスの重臣たちです。

その下に寄組62家と言われる上級家臣がいます。
この寄組には毛利氏が戦国大名だった頃の重臣クラス(例えば児玉家とか国司家とか)がいます。

で、その下に大組という中級家臣層があり、高杉家はこの大組士の家格です。
大組の下には徒士、足軽という層があり、これが下級家臣になります。

また長州藩に郷士というものはないようですが、豪農・豪商のことを名誉士分的な扱いで郷士と指すことはあったかもしれません。』
(「郷士と上士は、どうちがうんですか?」より)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1218160582

『土佐藩の場合はちょうどこの寄組までが上士としており、それ以下を下士とした』(同上)そうである。

周布家は大組の筆頭とはいえ、寄組の下だから土佐藩で言えば武智半平太や坂本龍馬と同じく下士となる。

周布家は石見国の土着だから、毛利が関が原に負けて周防長門へ移封されてきたときには石見国津和野三本松城に本拠を置く国人領主吉見正頼の家臣だったのかも知れない。

大内義隆の実姉は石見の主君吉見正頼の正室で、当時は大内義隆の遺児を萩城に匿っていたはずだ。
環(たまき)家、後の玉木家の人々である。

周布は、玉木家を準主君としてその復権を応援する立場の家柄に生まれている。
幕末の周布政之助は、その通りに、玉木文之進の育てた国家転覆を為しうる過激志士松陰を応援し、その弟子晋作たちの味方となっている。

『酒癖が悪かったともいわれ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。

舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。

明治期、周布の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。』周布政之助(Wikipedia)より)

舌禍事件とは月性の句の一部を省いた久坂の遠慮に檄を飛ばしたあの事件だろう。

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