萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58) [萩の吉田松陰]

SH3B0218.jpgSH3B0218見事な石垣
SH3B0220.jpgSH3B0220旧繁沢家長屋門
SH3B0219.jpgSH3B0219同上説明板

周布家から路地を東へと向かう。
正面のまだ高くない朝日が目にまぶしい。

やがて見事な基礎石がならぶ大きな武家屋敷の前を通った。

旧繁沢家長屋門と立て札が立っている。
私はその人物を知らない。

『旧繁沢家長屋門

繁沢家は阿川毛利家(7300石)の分家で萩藩寄組(1914石余)に属し、知行地を大津郡三隅村と阿武郡小川村に持っていた。

建物は桟瓦葺き切妻造り、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけている。

同家藩政初期の当主繁沢就充(なりみつ)は藩要職として活躍した。
萩市教育委員会』(抜粋終わり)

周布家は永代家老益田家の庶流であった。

庶流(しょうりゅう)とは庶子の系統の意味で、本家から分かれた家柄、分家のことである。

長州藩家老に益田元尭なるものがいた。
その子に繁沢元充というものがいる。

ここ繁沢家に家老益田家から養子に来たのであろうか。

『益田 元尭(ますだ もとたか、文禄4年(1595年)~万治元年10月14日(1658年11月9日))は、益田家第21代当主。
長州藩永代家老・須佐領主益田家2代。

父は益田広兼。母は吉見広頼の娘。
正室は益田景祥の娘。
子は益田就宣、繁沢元充、宍道就明室、益田就恒(福原就祥)、井原就尭、八幡新善法寺正晃室。
幼名道祖吉。通称玄蕃、越中。号無庵。

生涯
文禄4年(1595年)毛利家家臣・益田広兼の長男として生まれる。
同年父が疱瘡で病没したため、祖父元祥の世継となる。
元和6年(1620年)祖父元祥の隠居により嫡孫承祖。
寛永15年(1638年)島原の乱の際に藩兵を率いて出陣。

寛永18年(1641年)当職(国家老・執政)となる。
正保元年(1644年)9月隠居して無庵と号し、家督を嫡男就宣に譲る。

正保3年(1646年)出兵や幕府の課役への出費が重なったことで、藩債は6200貫にも達したため、隠居の身ながら藩財政の建て直しを命じられる。
藩主から財政建て直しの全権委任と反対派への処罰の権限を与えられ、藩士の禄を2割減知することで2万石の増収を生み出し、財政の改善を成し遂げた。

万治元年(1658年)10月14日卒。享年64歳。』
(益田元尭(Wikipedia)より)

この財政再建派の家老の「母は吉見広頼の娘」と書いてある。
吉見正頼の正室、すなわち大内義隆の実姉はキリシタンであると、私なりに確信している。
吉見広頼は吉見正頼の嫡男である。

広頼の母、つまり「正頼の正室」は、その子々孫々にも洗礼を授けさせたであろう。
ザビエルはわずか2年足らずで日本を離れたので、ザビエルの洗礼を受けたのは大内義隆の姉だけで、広頼は後任の宣教師によっただろう。

以前から私はなんとなく幕末の毛利家重臣にキリシタンがいたはずだと推測していた。
根拠はまだ見出せていないが、いくつかの事跡に出会ったときにそう感じた。

この益田元尭は、吉見正頼の正室との縁を辿れば、その筆頭候補に挙げられる。

一方、大組士(土佐藩なら下士に当たる)周布家の家格は寄組(1914石余)の繁沢家よりはかなり低いが、繁沢家と同様に周布家も益田氏の庶流だった。

『南北朝時代になると益田宗家は北朝方、三隅・福屋・周布などの分家は南朝方に付いた。

観応の擾乱が勃発すると、益田氏は大内弘世とともに中国探題であった足利直義方に付いた。

その後直義方が劣勢になると大内氏は尊氏方に寝返り、益田氏もそれにならった。

以後益田氏は大内氏の傘下として石見国人の筆頭の地位を築いた。』
(益田氏(Wikipedia) より)

分家の周布家は南朝方だったのだ。

周布政之助は、土佐藩士に斬られそうになったことがある。
そのとき、高杉晋作の取り成しで命拾いしている。
それは容堂公を冷かしたときのことだった。

周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。

ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。

徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。

世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。

月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。

その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。

囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。

「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂  松陰」

侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。

月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。

宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。

その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。

獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。

月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。

月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。

国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。

大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。

しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。

松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。

松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。

日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。

日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。

学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。

歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。

そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。

松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。

松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。

いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。

長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。

平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。
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