歴史の濁流の中へ~長州(59) [萩の吉田松陰]

SH3B0221.jpgSH3B0221旧益田家物見矢倉
SH3B0222.jpgSH3B0222案内板
SH3B0224.jpgSH3B0224屋敷の基礎石組

旧繁沢家長屋門の東側にはもっと豪華な屋敷がある。
繁沢家も周布家も、須佐の元領主だった毛利萩藩の永代家老益田家の庶流だったが、この立派な屋敷がその旧益田家だった。

ここは物見矢倉の屋敷だそうだが、その石垣もそれまでのものとは別格で、城の石組を思わせる大きく立派な基礎であった。
須佐領主時代もこういう平城(ひらじろ)に住んでいたのだろうか。

この屋敷は物見矢倉跡という。

つまり益田家本家は城内にあって、この立派な屋敷は敵の城への侵入を見張る場所だったのであろう。

『旧益田家物見矢倉

益田家は萩藩永代家老(12,062石余)の家柄で阿武郡須佐に領地を持っていた。
建物は木造本瓦葺入母屋造り、桁(けた)行11.06m、梁間(はりま)5.06mである。

石垣の上に、単層の堅固な建築で「矢倉長屋」と称され物見も兼ねていた。

棟瓦、懸魚(げさん)、格子窓などの意匠や規模がすぐれている。

当家幕末の当主益田親施(ちかのぶ)は藩主毛利敬親のとき国家老など要職をつとめ藩政改革に尽くしたが、元治元年(1864)禁門の変の責任者として徳山藩へお預けとなり、切腹させられた。年三十二.

萩市教育委員会』(抜粋終わり)

平屋建ての見張り小屋であるが、国家老の屋敷だった。

益田親施(ちかのぶ)は、藩主毛利敬親から「親」の文字を賜っている。
藩主の身代わりとして、幕府へ謝罪・恭順を示すために切腹をせざるを得なかったのであろう。

松陰が撒いた種による犠牲者とも言えよう。
あるいは玉木家(環家)が撒いた種かも知れない。

元「須佐の王(すさのおう)」の末裔であるから、「すさのおうのみこと」の末裔でもあろうか。
私は、須佐と聞いて自然と武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)をふと思い出した。

同神社の祭神はスサノウノミコトである。
スサノオは、戦上手な神様だったし、暴れ者だった。

幕末に藩主の身代わりなどにならず、松陰と結託して倒幕革命の火付けをやれれば歴史に名を残しただろうものを、「現状地位維持」「身分家柄重視」「先祖の権利承継」などの保身に走った。

人の情としては、これだけの家格と財産を棒に振ることはできないだろうことはわかる。

しかし、松陰は違った。
もともと椎の実の取れる山しかない場所で生まれ育った。

松陰には物理的なものとしては、失うものはない。
よって精神的な高みを求めて活動を先鋭化していき、萩生まれ、萩育ちのまじめな青年は、歴史の表舞台中心に忽然と登場することになった。

大いに乱れる時代においては、己が持っているものを守ろうとするものは、歴史の渦に飲み込まれてしまうしかない。

乱世における保身は、大洪水の中で胸まで水に浸かりつつわが豪邸を守ろうとする姿に他ならない。

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