松陰の母、村田滝子~長州(112) [萩の吉田松陰]

SH3B0463.jpgSH3B0463吉田松陰幽囚旧宅の庭

椎原地区の松陰生誕地には、敷地に基礎の跡しか残っていなかった。
松陰幽囚の家屋は松陰神社の方へ移築されている。

この「吉田松陰幽囚旧宅」があの椎原の山の中にあった家かどうかわからないが、間取りからすればあの生誕地の敷地にあった基礎跡と合うようである。

その庭先を眺めながら、父百合之助と母お瀧の様子を想像している。

5年ほど前に買って読んだ司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」を最近読み直している。

以前はざっと流しで読み去っていたのだが、ところどころで目が留まることが多い。
それだけ松陰に関する知識や情報が、この5年間の私の中で増えてきたのだろう。

その文庫本では最初の方で母お瀧の性格を描写していた。
一部抜粋する。

ここに出てくる杉民治とは、長男梅太郎のことである。
梅太郎は民政に良くつくしたため藩主から「民治」の名をあたえられた。
『この日、民治は入浴したが、足のあかぎれが傷口をあけており、湯がしみてとても湯船に入っておれず、あわてて飛び出したが、しかしいざ廊下を歩くとなると、夜盗のように抜き足差し足にならねば傷口がひびいた。

お滝はその歩き方をみて声をあげて笑い、
「あかぎれは 恋しきひとのかたみかな ふみ(恋文・踏みにかける)見るたびに 会いたいく(あ痛、にかける)もある」

という即興の狂歌を民治のうしろからあびせかけた。

家じゅうが笑った。

日本人の詩情は奇妙で、あかぎれというこの寒気による皮膚の無残な損傷ですら俳句の世界では冬の好季題になっているが、お滝は民治の悲痛さをユーモアに転化させた。
しかし、この狂歌のたくみさはどうであろう。

ところがお滝にさほどの学問があったわけではない。

娘の頃には、家老の児玉家に行儀見習いとしてあがっていた。

その実家の村田家は、萩に屋敷があるが、陪臣であった。
毛利志摩という者の家来だから、杉家とは1階級下になり、本来ならば縁になりにくい。
このため仲に立つ者がはからって藩士児玉太兵衛養女というかたちをとって輿入れをした。

―読書ずきの家にゆきたい。
というのが、お滝の念願であった。
それには杉家がよかろうということになったのである。
が、杉家の実情は悲惨であった。(火事罹災の話につづく)以下略』

庭にある風呂からあがった民治が歩いた廊下はあれであろう。
居間の奥からお滝がそれを冷やかす。
家族がどっと笑う。

極貧の農家に近い杉家だったが、一応藩士であり、家柄も村家より少しだけ上だったという。

小説だからどこまでが事実でどこまでが虚構かはわからない。
ただ、明治23年、84歳まで長生きしたお滝さんは、明治の元勲たちにも昔話を話して聞かせていたことだろう。

司馬遼太郎氏も、明治の元勲の子孫や地元松本村の長老たちなどの取材を通じてかなり事実を取り入れていたはずだ。

司馬氏の小説では、お滝は家老の藩士児玉太兵衛養女となっていたと書いている。
また生家の池村田家は、萩に屋敷があるが陪臣だったとある。

萩本藩の毛利の殿様の直接の家臣である杉家は、身分は低いといえども直参と言えよう。
あとでわかったことだが村田家の主君は長州支藩の殿様であるから、その家臣の村田家は萩本藩から見れば「臣下の臣」、つまり陪臣となる。

萩本藩の直参藩士にわが娘を嫁がせようとして、罹災後の困窮にあえぐ杉百合之助に、娘も家も与えたのである。

山岡荘八はそのシーンを小説に取り入れていた。
ある読者の方の感想文を抜粋する。

『松蔭の母は滝といい、児玉太兵衛が滝を引き取って家で召し使いとして仕事をさせているが、滝は家事万端を教えてもらっている身ともいえる立場である。

その太兵衛が苦渋の思いで滝に「百合之助のところに嫁がないか?」と話を切り出す。
それが松蔭出生のきっかけとなるから不思議なものだ。

太兵衛の決断がなければ大袈裟に言うと、今の日本の姿はなかったといっても過言ではない。
それだけ松蔭の出現は日本の歴史にとって重要な位置を占めている。

太兵衛は滝を説き伏せる時、学問好きの少し暗い百合之助と明るい性格の滝が一緒になれば・・・すばらしい血筋が出来上がるみたいなことを長々と言って、最後の結びが「・・・・人作り、これがなければこの世にさっぱりおもしろ味もなければ進歩もない。

学問も学黌も、考えてみれば、みなその大きな花を咲かせるための肥料なので、その花作りの上手こそ忠義者というのではなかったかと・・・」と滝に語って暗に滝に使命感を抱かせている。

この辺は、荘八の得意な創造力で拵えたものであるのは言うまでもありませんが、なかなか味のある説得話です。
この太兵衛の言葉は荘八が読者に対する語りでもある。

嫁ぐ話は百合之助が苦労しているのを忍びないと思った太兵衛の気持ちから立ち上がっている。

それは百合之助の父、七兵衛の家が全焼し、不憫な生活を強いられ、霜の立つ頃に死んでしまった経緯からきている。

そこには火災さえなければという偶然性がある。

太兵衛の話を聞いた滝は戸惑うことなく「滝は、学問好きのお方を大好きでございます」の一言を発する。

それは偶然から必然への歴史の道程が始まり、日本史に大変な影響を与えることを孕んでいたことになる。以下略』
(「山岡荘八の吉田松陰を読む。」より)
http://ameblo.jp/mytec/archive1-201009.html

同様の小説を解説した「吉田松陰(1) 著 山岡荘八」
http://www.papy.co.jp/act/books/1-124666/
の書籍解説を読んでみると、「家老格の毛利志摩の家臣、村田右中の三女であるお滝」と出てきた。

お滝は、毛利志摩守の家臣、村田右中(うちゅう)の三女だった。

「毛利志摩守」とはどういう人物だったのだろうか。

それは官位の名で、「従五位下、志摩守」のことである。
すなわち周防徳山藩の第6代藩主、毛利広寛(もうり ひろのり)のことである。
お滝の父は、その家臣だった

『吉田松陰誕生の地から北西に約300メートル行った所に玉木文之進旧宅もある。
ここ樹々亭山屋敷は、吉田松陰の誕生の地である。

この地、松本椎原台団子岩にあった茶亭山荘(所有者、江向八谷藤兵衛)を実父杉百合之助の妻滝子の父村田右中が文政八年(1825)手にいれ百合之助に贈られた。

松陰は天保元年八月四日、士禄二十六石杉家第五代の二男としてここに生まれた。
その後、百合之助が盗賊改方頭役についたため、嘉永六年(一八五三)現在の松陰神社境内の杉家旧宅に引っ越した。

西向平家建の樹々亭は玄関三畳(先生兄妹の勉強間)、表座敷六畳、隠居部屋三畳、居間六畳と台所、物置、納屋、厩舎からなっていた。』
(「史跡・博物館 山口」より)
http://www2.plala.or.jp/shyall/siseki/yamaguti/index.html

これによると、椎原の樹々亭山屋敷が松陰生誕地の家屋であって、それをお滝の父が与えたことになっている。

とすれば、ここ松陰神社境内にある旧宅は、百合之助がある程度出世してから移り住んできたものとなる。

家屋の木材などを移築したものかどうかは不明である。

驚いたことに、滝の父は火事で罹災して山中で貧しくもまじめに農作業に精を出す青年杉百合之助にこの家屋を与えていた。

罹災直後に百合之助は父をも失って一人だった。

それを見て、家を与え、娘を嫁がせたのであろう。

お滝の実父は極貧の萩藩士に娘も家も与え、そしてそこで松陰が生まれている。

「日本史に大変な影響を与えることを孕んでいた。」と先の読書感想文は運命的な出会いを表現していたが、ひょっとして「歴史を転換すべく」計画的になされた松陰の誕生だったかも知れない。

更に驚くことは、村田右中は息子を鎌倉瑞泉寺の住職竹院となし、長じてそこを訪ねた松陰は竹院に米国密航を打ち明け、なおかつ竹院は「米国へ(軍事スパイとして)行け」と背中を押している。

その理由はまだ見えないのだが、村田右中には歴史を動かすために毛利本藩の重臣の中へ過激志士を生み出す必要を抱えていたようだ。

もっと高い位の人物のニーズを代行しただけかも知れない。
文政13年8月4日(1830年9月20日)

松陰の生年は文政13年8月4日(1830年9月20日)である。
その文政年間に江戸で活躍していた老中は阿部正弘であった。

阿部は在任中に度重なる外国船の来航を受け、中国ではアヘン戦争が勃発していた。
対外的脅威が深刻化した時代であった。

琉球に近い九州諸藩には、中国から欧州による植民地支配の情報もすでに入ってきただろう。

この300年も前に薩摩のヤジロウは2名の供を連れてインドへ出かけて行き、来日前のザビエルに聖書の和訳作業を請け負っていた。

九州諸藩が、海外の情勢に疎いはずはない。

平戸の松浦藩が私の脳裏には浮かんでくる。
山鹿素行の末裔が家老をしている藩である。

あの忠臣蔵の歌舞伎ドラマで、日の丸の扇を持って赤穂浪士たちに天晴れ天晴れと喝采する松浦侯である。
松陰が脱藩して東北遊歴のたびに出かけた日は、赤穂浪士討ち入りにの日に意識してあわせている。

功山寺で晋作が挙兵したのも其の日にあわせたが、いろいろあって翌日にずれ込んでいる。

ドラマは脚本家がいて、書いた筋書き通りに演出されて出来上がる。

歴史もそうなのか。

書けと言われて~長州(111) [萩の吉田松陰]

SH3B0458.jpgSH3B0458「史跡 吉田松陰幽囚旧宅」の石柱

ここであの「幽囚録」が書かれのかと思ったが、実はそうではない。
それは野山獄で書かれている、

そのあと自宅軟禁されていた場合も、幽囚というようだ。

『安政元年冬、松陰は萩「野山獄」に収監されていた。
ここで松陰最大の論文『幽囚録』が書かれた。
これは松陰が佐久間象山の影響を受けつつ抱懐していた國家的時務論であり・・・志士としての松陰を記念する貴重な文献である。(玖村敏雄)

本文略。

<大略解説>
佐久間象山の先見性と識見による提唱も実現しなかった。
「官よくこれを断行するなし」の表現に松陰の憤怒と憂国の精神が凝縮されて「予が航海の志、ここに決す」と時務論に命懸けで受け止めないことへの反発から、密航は試みられたわけです。

成功しなかったが、ペリー艦隊への乗船が実は「刺客」だったとの説を唱えた研究者がいます。
小説なら話は別ですが、佐久間象山から「この挙」、つまり下田密航計画の事情を書くように言われて真剣で書いた松陰の代表的な著作はそのまま受け取って考えるべきと思う。』
『幽囚録』
http://kinnhase.blog119.fc2.com/blog-entry-63.html

24歳の若き松陰は、師の佐久間象山に書けと勧められて海外渡航計画の理由を紙に書いたのである。

師匠が言わねば書かなかったかも知れない。


村田瀧という女~長州(110) [萩の吉田松陰]

SH3B0457.jpgSH3B0457吉田松陰旧宅

村田昌筠(しょういん)と読む。
出家前の竹院の本名のようである。

松陰の母滝の兄であり、村田姓で、名は松陰と同じ「音読み」であった。
これは偶然であろうか、あるいは必然であろうか。

『デジタル版 日本人名大辞典+Plus 竹院昌筠(ちくいん しょういん)

1796-1867江戸時代後期の僧。
寛政8年生まれ。吉田松陰(しょういん)の伯父。臨済宗。
長門(ながと)(山口県)徳隣寺、鎌倉円覚寺で修行し、天保14年鎌倉瑞泉寺住職。
のち円覚寺さらに京都南禅寺の住職となった。
慶応3年3月28日死去。72歳。長門出身。俗姓は村田。』
(「竹院昌筠とは」より)
http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E9%99%A2%E6%98%8C%E7%AD%A0

私は萩を訪問する前に、吉田松陰、村田清風、キリシタン殉教碑の間に細い線がつながっているのではないかという仮説を立てていた。
その検証の旅でもあった。

鎌倉の禅僧竹院は、松陰の米国渡海の計画を事前に聞いており、それを推奨していた。
その意味において、佐久間象山と竹院は、討幕行動を画策する超危険人物松陰に関しては、同レベルの重要人物と言える。

日本史の中では象山は陽に松陰の前に登場してくるが、なぜか竹院は出てこない。

その竹院は、松陰の母の実兄である。

母も竹院も元「村田」姓だったが、生家の村田家が村田清風とどういう関係にあるか、それはまだわからない。

ただ、細い細い線であるが、松陰を取り囲む「旧姓村田」の重要な男女がいた。
一人は鎌倉に住む臨済宗の僧侶で、一人は松陰の母である。

いずれも出家と婚姻を経て、「村田」の名は消されている。

母滝のことを考えている。
先の引用記事では「松陰の母瀧子は竹院の妹」と書いてあった。

そこでは瀧の字を書いている。

萩城の場所に鳴瀧山という名を持つ寺があった。
以前の拙著ブログより再掲する。

『吉見正頼の息女(法名、見室妙性大姉)の菩提のために妙性庵が建立され、その寺中に石塔があり、位牌の裏に「天正十三年乙酉八月廿六日萩津指月死所」とあるといいうのである。』(「萩のシンボル「指月」について」より)
http://www.haginet.ne.jp/users/kaichoji/siduki.htm

本能寺の変が天正10年である。
天正13年に、既に「指月」の呼び名があり、萩の鳴滝山妙性院(現禅林寺)に妙性庵が建立されていた。

戒名に「妙」の文字を持つ「見室妙性大姉」こそ、ザビエルに山口の布教を許した大名大内義隆の実姉の娘であり、指月山の萩城主吉見正頼の娘でもあった。』(当ブログより再掲)

これは関が原の後、広島(安芸)から毛利氏が萩へやってくる前に萩には城があり、それを指月城と呼んでいたことを語ったものである。

しかも住人はおそらくザビエルの布教の成果であるキリシタンで、大内義隆の実姉(吉見氏の正室)と義隆の遺児、家臣たちだっただろう。

その吉見氏の正室の娘が織田信長の時代に「萩津指月」で死んだと戒名に書いてあったのだ。

当時「しづき」と読んだか「しげつ」と読んだかわからない。
今は「しづき」と読む。

村田瀧は萩のどこで生まれたのか。
おそらく瀧の見える場所だったのだろう。

村田瀧は、兄竹院が認めた松陰の革命の成功をその眼でしかと見届けている。

『1807-1890江戸後期~明治時代の女性。
文化4年1月24日生まれ。吉田松陰の母。
児玉家の養女となり、杉百合之助(ゆりのすけ)に嫁ぎ3男4女を生む。

次男松陰が松下村塾をひらくと、これをよくたすけた。
晩年仏門に帰依(きえ)した。

明治23年8月29日死去。84歳。
長門(ながと)(山口県)出身。

本姓は村田。』(「杉滝子【すぎ-たきこ】」より)
http://kotobank.jp/

また、瀧は塾生の母親役さえ果たしていた。

『途中略。
やがて(松陰は)牢から出され、謹慎を命じられた。
ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。
有名な「松下村塾」である。
高杉晋作、伊藤博文らを輩出した。
塾に寝泊りして苦学している者もいる。

松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、細々と門下生の世話を焼いた。

時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことが。
そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いたかきもちや熱い番茶を配り、皆の疲れをいたわっていたという。

松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。

徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。
松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。

母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。
「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」

心配する母に松陰は、
「大丈夫、帰ってきますから」と、にこやかに答えるのであった。

松陰が江戸へ向かってから五ヶ月後のこと、母は疲れてうたた寝をしていた。
すると松陰が、「お母さん。ただいま帰ってまいりました」と元気な笑顔で言った。
それは、近年にない明るい姿であった。

母は、非常に喜んで、「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。

それから、二十日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。
母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。』
(杉滝子【すぎ-たきこ】より)
http://kotobank.jp/word

この最後の下りを読むと、涙になき暮れる母親滝の姿をついつい連想してしまう。
しかし、日本人的なセンチメンタルはこの女性にはなかったようだ。

悲しみはどの母親にも共通のものがあったはずだが、滝には信念があった。

息子松陰はたとえ獄門にかけられたとしても正しいことをするために命を投げ出したということに疑いを持っていなかった。

その強い確信は兄竹院からもたらされた手紙によって作られたのだろうか。
あるいはもっと根が深い信仰にあったのだろうか。

正義のために死すことは、言わば殉死である。

そういえば、乃木希典は明治天皇の崩御に際し、皇居門を出棺する時刻に合わせて自宅で夫婦ともに自害している。

松陰も乃木希典も、同じ玉木文之進に幼児の頃から鍛えられて育っている。

母滝は、松陰の斬首刑の便りに接したとき、息子は「何か」に対して殉死したと確信を持っていたのではないだろうか。

滝は杉家に嫁ぐために村田家から児玉家の養女になっている。
村田姓のままでは貧しいとはいえ藩士の家に嫁げなかったのかも知れない。
滝が養子にいったのはおそらく武家の児玉家であろう。

あの石高2,243石の奥阿武惣郷を領する児玉家との関係はどうだっただろうか。
萩の北方山奥に奥阿武宰判勘場跡があり、そこは紫福村(現福江村)という隠れキリシタンの村だった。
児玉氏はそこへ定期的に顔を出す役目の代官だった。

代官児玉氏は、キリシタン禁制を破って紫福の山村で隠れて信仰を続けていた人々の存在を知らなかったのか、あるいは知っていて大目に見ていたのか。

しかし、奥阿武惣郷を領する児玉家と滝の養子先の児玉家との関連はまだわかっていない。

お滝が杉家に輿入れするためには、児玉家へ養女となる必要があったのであろう。

面白いことに、松陰の兄の名は梅太郎で、叔父は竹院である。
これの並びを変えると「松竹梅」となる。

松陰の兄の「梅」は、おそらく高杉晋作の庭にあった鎮守信仰と同じく、菅原道真を祭る天神信仰による命名だろう。

晋作も偽名に梅の字を用いている。

滝は晩年仏門に帰依(きえ)したとある。
兄と同じ禅宗だろうか。

滝の信仰としては、この仏門と、梅太郎の名にある天神信仰があった。
それにもし、養女となった先があの児玉家であるならば、紫福村のキリシタン信仰との関連性も生じてくる。

ただ、仏門と天神は口外しても問題はないが、当時キリシタンを口外すれば死罪となるから決して表に出してはならない信仰だった。

滝に関わる手紙や発言を追いかけても、それが出てくるはずもない。、
キリシタン信仰は、あくまで想像の世界に限られる。

ちくちくと~長州(109) [萩の吉田松陰]

SH3B044570%.jpgSH3B0445孝行竹(拡大)
SH3B0446.jpgSH3B0446孝行竹の解説

『孝行竹
蓬莱竹(漢名―観音竹・孝順竹)、インドシナ原産。
株張り竹の一種。

この竹は横走地下茎が発達せず、横にはびこらず、親竹の周りにのみ竹の子が育つ。
したがって、親を守る竹という意味で孝行竹という。

松陰先生は親孝行であり竹を愛した記録もあり、記念として寄贈された。
(参考・門人某の「移竹記」には、松陰先生が竹を愛したことが書かれている。)』

松陰が愛した竹の話を私は知らないが、松陰がことのほか尊敬し師事した僧侶に竹院という人が鎌倉にいた。

松陰の自画像は萩の絵師が書いたものが有名になっているが、野山獄中の松陰は刑死の前年にその絵師を鎌倉に派遣し、竹院の自画像を書かせようと勧めている。
おそらくその絵は松陰の望むとおりに書かれていて、その絵が今も鎌倉にあるのではないだろうか。

なぜ獄中の松陰は松浦松洞に自分と竹院の自画像を書かそうとしたのか。
あるいは別の文化歴史に関係の深い人物がそれを残すことを所望していたのか。

どちらにせよ、松陰と竹院が後の歴史において極めて重要な位置を占めることを松陰自身も気づいていたのであろう。

自画像を残す心理とは、そういうものであろう。

『安政5(1858)年3月3日頃、松陰は門人の画家松浦松洞が東上するに際し、鎌倉を訪問させ竹院の肖像画を描かせようと考え、竹院宛の紹介状を彼に持たせている。

「此の生を松浦松洞と申し、松本村中の一奇才子、幼より畫名を得、今は隠然たる一家に御座候。詩も亦清雋すべし。
然れども詩畫を以って称せらるる事は好む所に御座なく候。

此の度東遊仕り候ゆえ、貴寺へ立寄り候はば御尊容照写仕らせたく、永く後世に伝ふるの存念に御座候。

然るべく御頼み仕り候。
委細は別翰申上ぐべく候と存じ奉り候ゆえ、匇々閣筆仕り候。
恵純も徳隣寺住職に相成り繁用の趣に御座候。
帰国已来(※以来)両度ほど相対致し候。

吉田矩方再拝
錦屏老方丈 獅座下

佐々木小次郎帰国、御近況承知仕り安心仕り候。此の地いずれも無事に御座候」

これが松陰と竹院が交わした最後の通信であったかどうか。』
(「吉田松陰と鎌倉」より)
http://cookiemilk.web.fc2.com/syouin-top.htm

この竹院は、松陰の伯父であって、黒船密航を事前に相談し背中を押した人物である。
松陰密航時は、鎌倉瑞泉寺の住職をしていた。
夢想疎石が嘉暦二年(1327)に建立した寺で、臨済宗円覚寺派の禅寺である。

江戸からペリー艦隊を見るために下田へ向かう途中、密航の志を松陰は竹院に披露している。

『竹院和尚とは・・・
寛政8(1796)年、萩に生まれる。
松陰の母瀧子は竹院の妹。
幼くして僧となり萩の徳隣寺で修行し、長じて鎌倉円覚寺に学ぶ。
天保14(1843)年、瑞泉寺の第25代住職となる。
安政2(1855)年、円覚寺の第197代住職となる。
文久3(1863)年、京都南禅寺の住職となる。
慶応3(1867)年3月27日、熱海にて示寂。享年72歳。』
(同上抜粋)

松陰の最愛の母、お滝(お瀧)の実の兄が竹院であった。
「松陰が愛した竹」とは竹院のことであろう。

松陰神社の前の商店街には、「竹々」(ちくちく)という名の焼肉屋があるそうだが、竹院と何か関係でもあるのだろうか。

討幕せよ、密航頑張れと、幕府にとっては「ちくちく」するような言葉を竹院は松陰に言ったことであろう。

息子が獄死してもなお、その行動を信じて安心していた母お瀧の心が少し見えてきた。

お瀧は萩で竹院と一緒に育っている。
兄の性格もよく知っているだろうし、その兄に指導を受けながら息子は養子先の軍事業務に励んで死んだのである。

きわめて危険な松陰の足跡でさえ、安心しつつ見ることができたのであろう。

孝子寅二郎~長州(108) [萩の吉田松陰]

SH3B0442.jpgSH3B0442親思うこころ
SH3B0443.jpgSH3B0443今日のおとずれ何ときくらん
SH3B0445.jpgSH3B0445孝行竹(左手、奥は松下村塾)

松陰の自筆を模写し拡大したものを石碑に刻んでいる。

『解説

親思う心にまさる親ごころ
今日のおとずれ何とくくらん

尊王の大義を唱え国事に奔走した松陰先生の言動が当時の幕府を刺激しいわゆる安政の大獄に連座して江戸伝馬町の獄に投ぜられた。

いよいよ処刑を覚悟した先生が安政六年(1859)10月20日、郷里の両親達に書き送った便りの中にある永訣の一首である。享年29歳。
まことに親を思う孝子の至情の表われであり断腸血涙の絶唱である。

付記 長さ20センチあまりの二行の真跡を拡大したもの。寅二郎は通称である。』(抜粋終わり)

この両親へ宛てた手紙は「永訣の書」と呼ばれている。

私は防長2州のうち、瀬戸内に面した防州に住んでいた。
今はもう70歳くらいだろうか、同じ職場に私よりもずいぶん年上の技術者がいた。
生粋の防州人である。

彼は私が入社した当初、若者に向かってこういうのが口癖だった。

「親思う心にまさる親ごころ
今日のおとずれ何とくくらん

孝行したいときは親は無し
さりとて墓に布団を着せられず」

これは松陰の句をもじったものなのか、あるいは防長で古くから言い表されてきた儒教の教えなのかわからない。

墓に布団を着せるのではなく、生きている親に孝行しようとして25歳の私は親に自動按摩器を贈ってあげたが、その程度しか孝行できなかった。

そして、両親がなくなったいま、この言葉の正しさをしみじみと思い出している。

寅二郎は親不孝をしたと当時の世間は思ったことだろう。
しかし、親はそう思っていなかったところがすごい。

とくに母お滝は、松陰の行動を前面的に信じていた節がある。
獄に投じられ、そして士分を剥奪され、斬首されてもなお、松陰の行動は正しいと信じて疑わなかった母こそすばらしい。

それほど松陰がすばらしいということなのだろう。

松陰が案じていたほどに母は軟弱ではなかったようだ。
安心して松陰は死ねたことになる。

親孝行な息子であったが、親はそれ以上に子を信じ子に従っていた。

その句碑の先に「孝子竹」が植えられていた。

「たかこ」ではなく「こうし」と読む。

円政寺境内に「高杉伊藤両公幼年勉学の所、二孝子祈願之金比羅社」があった。

そのことはすでに述べたが、「二孝子」は「にこうし」と読み二人の兄弟の「孝子」だった。

昔からここにあった竹なのか、観光目的で植えられたのかはわからない。

兵学者吉田松陰としては、養子にいった山鹿流兵法家の吉田家に忠義を尽くした人生を送ったといえよう。

もし吉田家ではないところへ養子に行っていれば、松陰はかなり異なった人生を歩んだはずだ。

つまり江戸で山鹿素水とあって時事を論じ合う必要もなく、山鹿素行の末裔である山鹿万介のいる平戸へ行くこともなかっただろう。

平戸はキリスト教会と寺が隣接している町である。


松陰が養子先の吉田家には大変な孝行を尽くしたといえるが、生家の杉家へ孝行についてはあまり知らない。

おそらく聾唖の末弟敏三郎のことを気にかけて度々訪れていたことだろう。

神にされた松陰~長州(107) [萩の吉田松陰]

SH3B0438.jpgSH3B0438松陰神社
SH3B0439.jpgSH3B0439鳥居
SH3B0441.jpgSH3B0441祭神 贈正四位 吉田寅次郎命(号 松陰)

松本川を越えるとすぐに松陰神社に着いた。
若い頃、山口県の工場に赴任してきた私は何度もここに友人たちと訪ねてきた。
20歳代のその頃は、有名人の神社だ程度しか思っていない。

米を突きながら読書をしていた松陰の蝋人形を見て、二宮金次郎と同じ人だと感じていた。

日本革命の扇動者だったとは気づいていなかった。

しかし、東京の松陰神社の前に立って、なぜあの萩の田舎の青年が、こうも東京で有名になるほどの偉業を成し遂げることができたのか、不思議な気分になった。

それから松陰の幻の恩師でもある山鹿素行の墓にいき、聳え立つシュロの木に圧倒された。
そばになぜ乃木希典の遺愛の梅「春日」が植えてあるのかもわからなかった。

奥州街道に出てシュロの多いことに気づくが、平泉以北ではぱったり途絶えた。
まったくないわけではないが、街道のサインとしての役割は終えている。

京都か奈良にいる先祖に平泉に後裔が住んでいることの道案内だったのだろうか。

同じシュロが萩城下にはおおい。
それも安芸から来た萩城近い堀内に住む毛利氏ではなく、堀の外にある身分の低い城下町に多く見受けられた。

もっとも多かったのは菊が浜の呉服屋であった。

ここ萩へきて乃木希典は松陰と同じ師匠を持つことがわかった。
ともに玉木文之進に初代の松下村塾(玉木家住宅)で鍛えられたのである。

山鹿素行の墓に乃木希典が愛した乃木家の庭にあった「春日梅」が遺族によって移植された理由はわからないが、松陰もしくは玉木文之進を介して縁があったことはわかった。

松陰はここで「吉田寅次郎命(みこと)」という神にされてしまっている。
本人が決して意図しなかっただろう思いがけないハプニングである。

『松陰神社由緒
祭神 贈正四位 吉田寅次郎命(号 松陰)
祭日 春祭 5月25日安政6年江戸へ檻送のため萩の地に永訣の日
   例祭 10月27日 同年 江戸伝馬町の獄内に刑死された日

明治23年8月松下村塾出身者其他故旧の人々の協力により、松下村塾改修のさい、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て、神霊を鎮祀し併せて遺著遺品を収めたのがはじまりである。
後、明治40年9月15日、門人伊藤博文・同野村靖の名をもって公に神社創建を出願、同年10月4日県社(旧社格)として認可を得成ったものである。
中略。

末社 松門神社

祭神 主な門人(高杉晋作・久坂玄瑞・吉田取稔麿・入江九一・前原一誠・木戸孝允・伊藤博文・野村靖・品川弥二郎・山田顕義・山県有朋達)の神霊を奉斎した社で42柱が合祀されている。昭和31年10月26日鎮座祭斎行
以下略』(境内の木製掲示板より抜粋)

おやおや、末社ではあるが戦後に山県有朋まで神になってしまっている。
「主な門人」42名が神で、「主でない」その他は神となっていない。

なったものとなっていないものの境目を研究すると面白いかも知れない。

第二次世界大戦の敗戦までは高杉晋作以下を神にすることは困難だったのだろう。

敗戦によって日本の権力構造は大きく変化した。
それから11年後、高杉晋作も久坂玄瑞も神となることができたが、伊藤博文や山県有朋までついでに神になってしまっている。

私は42名全員の名前を知りたいと思った。
そして、なれなかった門人との違いを知りたい。
松陰、いやこの現代では「吉田寅次郎命(みこと)」は天から後輩たちの行状を見ており、すべてを知っていることだろう。
まさか神と凡人の境界が特定団体への寄付金の多寡ではあるまいと思うのだが。

それより、松陰自身が恥ずかしい気持ちになっていることだろう。

「明治23年8月松下村塾出身者其他故旧の人々の協力により、松下村塾改修のさい、実家杉家の私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て、神霊を鎮祀し併せて遺著遺品を収めたのがはじまりである。」

そこでとめておけばよかった。

幼い頃に父杉百合助と椎の実を拾った椎原にある枯葉に埋もれた小さな松陰の霊を祭る祠。

それはとても松陰に似合っていたはずだ。
おそらく祠の石は母お滝の選んだデザインだったであろう。

萩を去る前に、何度も訪れたことがありずいぶん見慣れているこの神社の境内を散策する。

松本川~長州(106) [萩の吉田松陰]

SH3B0434.jpgSH3B0434翌日も快晴の菊が浜
SH3B0436.jpgSH3B0436松本川を渡る
hagisi80.jpg松陰生誕地地図(○A部)

翌日も菊が浜は快晴で家族連れの海水浴客で朝からにぎわっていた。

指月公園、萩城址のそばの菊が浜から車で東へ移動する。
地図の○A部は松陰生誕地の椎原地区である。
そのすぐ西側に松陰神社はある。

4km程度だから街道歩きの1日25kmの旅程からすれば軽く歩ける距離である。
ただ、真夏の朝の太陽を浴びて4kmの散歩は辛い。

野山獄はそのおよそ半分のところ、中間点にある。
そこへは歩いていったものの、帰りは市内循環バスを使った。

城下町から見ればずいぶんと神社は遠い。
松陰は江戸や東北各藩の名士を訪ねたとき自己紹介では「萩の東郊に生まれた。」と称していた。

松陰生誕地へ行ってみてわかったが、そこは城下町から見れば、「川向こうの山の中」であり、それより奥は山しかない、萩の僻地である。

隠れキリシタンはここを通過して阿武山中へと逃げ込んだ。

つまり松陰生誕地や松下村塾へ城方面から行こうとすると、松本川が行く手を阻む。

今は大きな橋がいくつも架かっているから往来は容易だが、江戸時代は松本川が文化生活の境界となって横たわっていただろう。

逃げてくるキリシタンも松本川を越えたところでほっと一息つけたのではないだろうか。
ちょうどその辺りに松陰神社はある。

松陰の実感杉家は元川原(町)に家を建てていたが、火災にあって松本村の山の中腹へと引っ越してきた。

いわゆる被災者として文無しからの再建をしたのである。

川原とは松本川の川原だろう。
すると、その場所も萩城下町からは川向こうか川そばに過ぎず、身分的に低かったことがわかる。

車は緩やかな坂を登って松本川を渡る。
まもなく松陰神社である。

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