久坂玄瑞や佐久間佐兵衛が遊んだ町内の寺~長州(76) [萩の吉田松陰]

SH3B0295.jpgSH3B0295右手に寺のお堂が見える
SH3B0296.jpgSH3B0296護法山平安寺の門
SH3B0297.jpgSH3B0297「深い水ほど波立たない」

護法山平安寺の門前に訓示が墨で書かれている。
ここは萩市大字平安古町東区331である。

同名の平安寺(へいあんじ)が京都市右京区にあって、それは日蓮正宗の寺院である。
山号は法王山(ほうおうさん)という。

ここは萩の平安寺である。
検索すると、萩の平安寺(浄土真宗本願寺派)というサイトがあった。
http://www.ai-zen.info/jin/35/35-67560.html

僧月性と同じ本願寺派である。

久坂も月性から松陰門下生になるべく指導を受けている。
この寺から久坂の家は近い。
久坂も町内にある寺子屋に通ったことだろう。

『深い水ほど波立たない
浅い水ほど波が立つ
人の心もそれと同じだ』(平安寺門前の墨書)

同じ町内に住んでいた久坂玄瑞や佐久間佐兵衛は、敢えて波立つ生き方を選び、切腹し、または斬首された。

佐久間佐兵衛の旧宅地にあった説明板を抜粋する。
彼もまた明倫館で兵学講師松陰に育てられた草莽であった。

『佐久間佐兵衛

幕末の志士。
幼時に父を失い、叔父赤川又兵衛に養われ赤川直次郎と称したが、藩士佐久間氏を継いで佐久間佐兵衛に改める。
明倫館に学び、吉田松陰の兵学門下生となる。

3年間水戸に遊学し会沢正志斎に師事し、帰藩して明倫館助教となる。

藩の要職について国事に尽くし、元治元年(1864)禁門の変には参謀として家老の福原越後の従い、傷ついた越後に代わって指揮したが敗れて帰国。
恭順派政府のため野山獄で斬首された。享年32.』(抜粋終わり)

中村姓として生まれた直次郎は叔父の赤川姓を名乗り、やがて養子となって佐久間姓を名乗ったのである。

禁門の変とそれ以降は、国家老の福原越後の運命に従っていったようだ。
では、福原越後とはどういう人物だったのか。

『福原 元僴(ふくはら もとたけ)は、幕末期の長州藩の永代家老。
一般的には福原越後として知られている。
長州藩支藩である徳山藩主・毛利広鎮の六男。

生涯
文化12年(1815年)生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、長州藩士「佐世親長」の養子となる。
嘉永4年(1851年)、家老に昇進する。
安政5年(1858年)、家老にしては家柄が低すぎることから(佐世家は佐々木源氏系の家柄であるが、藩内での地位は低かった。

翻って福原氏の祖は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏であり、福原氏は宿老の家柄である)、藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄・福原親俊の家督を継承することとなった。

その後は国家老として藩主・毛利敬親を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。
しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、来島又兵衛や久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。
越後は蛤御門で大垣藩の藩兵と戦ったが、敗れて負傷し、帰国した。

その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。

越後は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司信濃・益田右衛門介と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、元治元年(1864年)岩国の龍護寺で自害した。享年50。

寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。』(福原元僴(Wikipedia)より)

佐久間佐兵衛が従った福原越後とは、徳山藩主・毛利広鎮の六男であった。
つまり殿様のご子息なのである。

言い換えると、福原越後は「お飾り」に近い毛利家の権威の象徴である。
すると、蛤御門で大砲を撃たせ、長州藩兵士を差配していたのは、この佐久間佐兵衛だったことになる。

佐久間は長州藩士であり、松下村塾生ではない。
しかし、明倫館で吉田松陰から兵学を教えられている。

しかも、佐久間の兄は中村道太郎であり、久坂玄瑞をして僧月性に学ばせたのはおそらく中村道太郎であろう。
久坂はその月性から松陰の門下生になるように勧められている。

長州藩でいずれ崛起(くっき)するはずの「狂った草莽」を育てる教育システムは、中村道太郎と月性によって運営されていた節がある。

『(中村道太郎』名は清旭、通称は喜八郎、後道太郎と改める。白水山人と号す。
長州藩士、47石余り。馬廻並より馬回に進む。
文武を明倫館に学んだが、幼より神道を崇め天朝を重んじた。

松陰の兵学門下なったのは嘉永2年22歳の正月。
その後来原良蔵と共に松陰の最も親しき益友となり、常に往復した。

嘉永6年浦賀に出衛し、松陰らと大いに国事を考える。

安政5年2月藩命により上京し、梁川星巌・馬田雲浜、頼三樹三郎と交わり事情を探る。

後密用方右筆となり、更に江戸方右筆に進む。

元治元年7月禁門の変には国司信濃に従ったが、事敗れて帰国する。

10月恭順派のために野山獄に投ぜられ、11月12日斬首。享年38歳。
野山烈士の一人なり。明治24年正四位を贈られる。』
(「中村道太郎(九郎)」より)
http://www9.ocn.ne.jp/~shohukai/syouinkankeijinnbuturyakuden/kankeijinbutu-n.htm

松陰の「益友」とある。
交際して益になる友人のことで「論語」の「益者三友(=交際して益になる正直・誠実・博識の三種の友)」に由来する語である。

親友よりも重い感じがする。

吉田松陰、来原良蔵、中村道太郎の3人は益友だった。

「安政5年2月藩命により上京し、梁川星巌・馬田雲浜、頼三樹三郎と交わり事情を探る。」とさらりと書いてある。

こちらは長州藩が京都に放った最重要密使「中村道太郎」の実像であろう。

中村道太郎は、安政の大獄の捕縛2号の梅田(馬田)雲浜と京で交流を持っていた長州藩士である。

朝廷内の討幕派と京の最前線で接触活動を担っていた人物である。
長州藩スパイと言ってもよい。

安政の大獄は、雲浜に始まり松陰で終わった。

『1858年8月には朝廷工作を行なっていた水戸藩らに対して戊午の密勅が下され、ほぼ同じ時期、幕府側の同調者であった関白・九条尚忠が辞職に追い込まれた。

このため9月に老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛し、近藤茂左衛門、梅田雲浜、橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まった。
そして、吉田松陰が最後の処刑者となる。』(安政の大獄(Wikipedia)より)

安政の大獄の捕縛第1号は近藤茂左衛門であったが、なぜか彼は生き延びている。

『近藤 茂左衛門(こんどう もざえもん、寛政11年11月8日(1799年12月4日)~明治12年(1879年)6月6日)は、幕末の志士。諱は弘方。楽平斎、道林と号した。

信濃国松本の名主近藤弘美の家に生まれ、実家では醸造や薬舗を生業としていた。幼い頃から学問に励み、弟の山本貞一郎とともに出雲の中村守臣に国学や和歌を学んだ。

後に幕府の専横を憂って尊皇に傾き、安政5年(1858年)貞一郎とともに江戸に出る。

その後水戸藩主徳川斉昭の内意を受けて上洛し、青蓮院宮尊融法親王や三条実万らと交流した。
しかし志士たちと盛んに交わっていた事から安政の大獄によって幕府に追われる事となり、京都を逃れるも貞一郎は間もなく病没し、自身も捕えられた。

これが安政の大獄の始まりと言われる。
翌安政6年(1859年)中追放刑となり、越後国糸魚川に移り、家財没収。

また家族も連座して幽閉となった。
文久2年(1862年)赦免されて帰郷し、維新後の明治2年(1869年)家屋・田畑を賜った。

大正13年(1924年)贈正五位。』
(近藤茂左衛門(Wikipedia)より)

近藤茂左衛門は、出雲大社宮司の千家、北島両家の侍講をつとめ大社学官となった中村守臣(なかむら-もりおみ)に国学を学んでいるから「出雲方」である。

信濃の名主の子だった近藤茂左衛門は、捕縛第1号であったが幸運にも死刑を免れ追放刑程度で済んでいる。

しかし、安政の大獄での死刑・獄死者は合計14名となり、その最後の処刑者が吉田松陰だった。
連座したものは100名以上に及んだ。

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