萩滞在9日間の龍馬~長州(82) [萩の吉田松陰]

SH3B0324.jpgSH3B0324平安古(ひやこ)町信号
SH3B0326.jpgSH3B0326屋根の高さの倍はあるシュロ
SH3B0327.jpgSH3B0327豪邸の庭にシュロ

久坂玄瑞の出生地から城の方へ引き返すと、すぐに平安古(ひやこ)町信号に当たる。

国道を再び渡って、城へ向かう路地を歩く。

先ほどの久坂玄瑞の出生地跡に『坂本龍馬と久坂玄瑞』という説明板があった。

『坂本龍馬と久坂玄瑞

文久2年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤皇党首領武智瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるために萩を訪れた。

龍馬は萩に9日間滞在する。
その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。
そして薩長同盟、大政奉還など、歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。
一体、萩で何があったというのか。

幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立も危ぶまれていた。

久坂玄瑞は長州藩を訪れた竜馬に、師・吉田松陰の草莽崛起論を説く。

「ついに諸侯(大名)恃(たの)むに足らず。
公卿恃むに足らず。
在野の草莽糾合、義挙の外はとても策これ無し。

失敬ながら尊藩(土佐)も幣藩(長州)滅亡して大義なれば苦しからず。」

日本を変革するのは草の根に隠れている自分たちで、そのためなら藩は滅んでしまっても構わぬという凄まじい決意だ。

そして龍馬はこの直後、土佐を脱藩してしまった。

萩は今も、人々の魂を奮い立たせる何かがある。 萩 市』

萩市の観光売り込みの意気込みはわかるが、なぜ龍馬が意識の転換を行ったのか、それが大事なことであろう。

今なお萩を訪れて人々の魂が奮い立つとはとうてい思えない。

当時は大内義隆の遺児の末裔と家臣団が、萩毛利藩士となって紛れ込んでいた。
彼らは毛利などどうでもよく、大内家再興と、おそらく居残った公家の末裔は南朝方再興などを夢見て貧しさに耐えていたのであろう。

そこに徳川幕府から袖にされていた西本願寺派が討幕のチャンス到来と動いた。
月性は松陰を草莽崛起の起爆剤としてフル活用しているし、自らの塾では世良修蔵や赤根武人らを育てている。
久坂玄瑞を発見し松陰の門下生にさせたのも月性の指導による。

月性が野山獄にいる松陰に面会に生かせた聾唖の僧宇都宮黙霖は、革命成功の明治6年、湊川神社権宮司・男山八幡宮の禰宜(ねぎ)補任せられている。

湊川神社は南朝方武将楠正成を神に持ち上げ祭る南朝方象徴の祠である。

そういう歴史転覆の渦の真ん中に松陰がいて、そばに晋作と久坂玄瑞がいた。
龍馬はその渦のど真ん中に飛び込んできた。

渦のど真ん中にきちんと飛び込んできた龍馬の嗅覚というか、商才は人並み外れて優秀である。
情報の収集と分析能力の高い人物だったのであろう。

おそらく、長州に激流を興す渦があるということは、江戸での剣術修行中の数年の間に見聞して知っていたのであろう。

いよいよ郷士たちが決起する時期到来というサインが、公家か長州藩士から龍馬へ発せられたのである。

おそらくここ久坂玄瑞の自宅座敷で膝を突き合わせながら龍馬は「それ」を聞いたはずだ。

「それ」とは、おそらく京都の鷹司卿から発せられたものだったのであろう。


晋作と久坂玄瑞の仲介者~長州(81) [萩の吉田松陰]

SH3B0319.jpgSH3B0319久坂玄瑞出生地に立つ石碑
SH3B0323.jpgSH3B0323よく見ると亀の上に石碑が載っている
SH3B0320.jpgSH3B0320坂本龍馬と久坂玄瑞
SH3B0321.jpgSH3B0321石碑
SH3B0322.jpgSH3B0322石碑

久坂玄瑞が鷹司邸内で元治元年7月19日(1864年8月20日)に自刃している。
最後の頼みの鷹司が逃げ出したからだが、その程度で自刃するとはどういうことだろうか。

松陰の教えは重い。
『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

なのに自殺という死を選んだのはなぜだろうか。

あまりに重い怪我を負い、思考が鈍ったのだろうか。
それとも実質的な長州藩のリーダ久坂玄瑞が、鷹司邸内で自刃することが「不朽の見込み」を作るとでも考えたのだろうか。

公家は屋敷内にスズメの死骸が落ちていても大騒ぎする。
穢れを心底嫌う習慣があり、それがエタ、非人などの職業差別を生んだし、人殺しのプロフェッショナルを皇室から一般人に降格した源氏と平家という武家に任せたのも、皇室や公家自身が殺戮を嫌うからである。

蝦夷征伐に選ばれた坂の上田村麻呂は、奈良の坂の上に住む帰化人だった。
大和人は殺戮や出血を大変嫌うのである。

その知識を久坂玄瑞は持っていただろう。
だから敢えて公家それも最高級クラスの摂家の鷹司の邸内で自らの腹を割いて穢れさせたのであろう。

それは5摂家に対するそれ以外の公家階級に属するものたちからの宣戦布告のようにも見える。

その筆頭が三条実美である。

元治元年(1864)7月19日に久坂玄瑞は死んだ。
松下村塾の双璧の一人である高杉晋作は、久坂玄瑞の生死を非常に気に掛けていた。

その7月の下旬といえば、7月20日~30日の間である。
すでに久坂玄瑞はこの世にない。

晋作は自宅の座敷牢から亡き恩師松陰の兄杉梅太郎に手紙で京都にいる久坂玄瑞の安否を尋ねている。
執拗に何度もあきらめずに手紙を出している様子が伺える。

晋作は、久坂玄瑞の最後がよほど確実に想像できていたのであろう。
それだけにいても立ってもいられなかったのである。

松陰の兄、梅太郎の名は、天神信仰における菅原道真と大宰府の梅から由来して命名したものであろう。
同じく天神信仰に厚い高杉晋作も、変名に「谷 梅之助」を用いている。

『杉梅太郎宛書簡

元治元年(1864)7月下旬
杉梅太郎は吉田松陰の兄。
元治元年3月29日に、脱藩の罪で萩の野山獄に投獄された晋作も、この頃には自宅の座敷牢に移されていた。

梅太郎の書状は「禁門の変」以前の政情について書かれたものだが、晋作が返書を認めている時点では「禁門の変」の風聞がそろそろ萩へも伝わってきていた。

晋作は久坂義助の安否が気になってならないが、詳しい情報を得ることができない。
毎夜のように義助の夢を見たと告げるあたりに「松下村塾の双璧」と並び称された2人の絆が窺える。

七月十三日之尊翰相届奉拝誦候、如仰忽時勢変動承候得ハ、先日京城一戦有之候之由、実情実説承知不得仕候、幽室黙座、乍走視飛、夢寐独上、不聞罷居候

7月13日のお手紙を拝読致しました。
仰せのごとく、たちまちにして時勢が変動し、先日は京都で一戦あったとのことですが、実情実説はわからないままでいます。

幽室に黙然と座っていながらも、心は京へ飛び、まどろんで1人起き、何1つ把握できないでいます。

世情の風説ニハ一秋湖兄・宍翁など忠死と申事如何事ニ候哉、兎角偽説多き世中故、疑惑仕候、此節ハ毎夜秋湖兄ヲ夢ニ見候、旁以辺ニ懸念仕候、何卒実情御承知之処、早々御報知被下候様偏ニ奉願上候

風説によると、秋湖兄(久坂義助)、宍翁(宍戸九郎兵衛)などが忠死したとのことですが一体どういうことなのでしょう?

とかく誤報が多い世の中ですから到底信じられないでいます。
最近は毎晩、秋湖兄を夢に見ます。
だから僕は心配でなりません。

どうか実情についてご存知のことを一刻も早くお知らせ頂けますよう、心からお願い申上げます。

素ヨリ今日之時勢、戦争いつ有之事ニ候共其始末分明ニ有之度奉存候、戦争の始ハ何等之処より起り、終ハ何等之処ニて引取ニ相成シと申始末承度御座候

もとより今日のようなご時勢ですから、戦(いくさ)がいつ起こるにせよ、その顛末を明らかにしておきたいのです。
つまり、戦がいかにして起こり、その終末はどのようなものであったかを、お伺いしたいと思います。

戦の勝敗鄙事所謂時の運ニて楠公ト雖トモ敗軍被致事と御座候、敗軍なれハ孔明の弾琴、勝なれハ乗愉快、破大事ぬ様仕度事ニ存候、孔子能言不能行、豈迪困奴所能知也、不懼士気、不侮小敵、小事可慎大事不可驚、古今一理、士道一貫申添候事ニ御座候、

勝敗は時の運と申しますから、たとえ楠公(楠木正成)であっても、負ける時は負けるものです。
敗軍となれば、敵の追討軍を前にして城を開け放し、悠然と琴を弾いた孔明の策に習い、勝ち戦であれば調子にのって大事を逸することのないようにしたいものです。

孔子が、弁舌がたくみで行動力に乏しい者は道を誤るとした所はよく知られています。
大軍の士気を恐れず、寡軍を侮(あなど)らず、小事を慎しみ大事に驚かない。
これは古今に共通する1つの理(ことわり)であり、武士道に一貫して申し添えられることです。

回先生遺書落手候、毎事御面倒之儀御頼仕奉恐入候、先ハ御尊大人御来杖被下候処、其節有故御相対御断申上候、公意之趣被御仰越候様奉頼候、御手翰の御様子にてハ余程御迫切、御心中御尤之事ニ御座候得共、春風花鳥不可捨候、父子恩情不可忘、可死則死、可生則生、之大丈夫気象釈然法談いつまて被下候。不堪緩急、同一筆飛走如此  西海一狂生東行 拝白

回先生(吉田松陰)の遺書をお受け取りしました。
いつも面倒なことをお願いして誠に申し訳ございません。
先日はわざわざおはこび下さったにも関わらず、わけあって面会をお断り申上げましたが、公意の趣につきましては仰せの通り承りました。

お手紙の様子では、事態はかなり切迫しているようで、ご心中のお苦しみはもっともですが、春風花鳥をかえりみないというのはいけません。

父子の恩情を忘れず、死すべき時は死に、生きるべき時は生きる。

もっともこのようなことを申上げるのは、えらそぶって釈迦に説法をするようなものではありますが。
差し迫った状況に堪えがたく、急ぎ筆を走らせました。 西海一狂生東行 拝白

ニ白、残暑難去、朝夕冷気、是病の所由来御用心専要ニ奉存候、何卒時勢御存知早々奉待候

ニ白、残暑がなかなか去らないのに、朝夕の冷え込みが厳しく、体調を崩しやすくなっております。
くれぐれもご用心下さい。
また、今の時勢についてご存知のことを一刻も早くお知らせ頂けることを、心からお待ち申し上げております。』
(「杉梅太郎宛書簡」より)
http://ponpoko.hiho.jp/bun/1864-7.htm

晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。

晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。

晋作は執拗に「戦」の始まりと終わりを気にしてたずねている。
歴史を作るということなのだろうか。

この後の下関功山寺での奇兵隊決起は、確かに歴史を作ったといえる。

皇運挽回~長州(80) [萩の吉田松陰]

SH3B0312.jpgSH3B0312国道に出てきた
SH3B0315.jpgSH3B0315柴田家門
SH3B0313.jpgSH3B0313敷地内は現在も居住中
SH3B0316.jpgSH3B0316猫の死体片付け
SH3B0318.jpgSH3B0318久坂玄瑞出生地

村田清風別宅を出てしばらく南へ歩くと、公道(国道、県道?)を横切る。
渡った先に「柴田家門(平安古町)」(しばたかもん ひやこまち)と案内板が立っていて、門の中は普通の現代風住居があり人が住んでいる。

つまり、この案内板は住居を示したのではなく、通用門がここに昔あったことを説明しているのだろう。そう思って読むとそうではなかった。

『柴田家門(平安古町)

萩藩士柴田英祐の長男として文久2年(1862)出生。
近所に住む田中義一とは竹馬の友。
少年時代から学問を好み、巴城学舎に学び東京法科大学を卒業。

内閣書記官、法制局参事官・行政裁判所評定官等を歴任し、第二次山県有朋内閣の内務省地方局長、第一次、第二次桂太郎内閣の書記官長となり、第三次桂内閣に文部大臣として入閣した。

その間貴族院議員に勅選された。
大正八年(1919)没 享年58歳 萩 市』(抜粋終わり)

他の都道府県であれば、文部大臣まで勤めた偉人だということで、それなりの尊敬を得るだろうが、長州藩では多くの総理大臣を出しているから、文部大臣止まりかと思われかねない。

経歴はそれほど面白くない。

吉田松陰とその弟子たちが命に代えて実現した政治軍事革命の恩恵を、その後の長州人脈を通じて受け得た幸福な人々の中の一人である。

変革期では生まれる時代が10~20年ほどずれていると、生き死にの差はこれほどまでに大きく広がるのだろう。

柴田家門の数軒先が久坂玄瑞の生まれた家であるが、その前あたりで猫の死体片付けをしている人がいた。

奥様が可愛そうにという悲しい表情をしてご主人がスコップで車に敷かれたらしい猫の遺骸を掬(すく)って畑の土の方へと運んでいた。

私はその死骸清掃現場に偶然立ち会う羽目になってしまった。

奥さんは私が猫の死骸があった場所あたりに立ち止まって周囲を見渡していたので、私に向かって会釈をしてくれた。

「ほんにかわいそうなことをしましたねえ」

私は無言で頭を下げて会釈に返礼をしただけで、久坂の家を探し続けた。

家はなくて、久坂の家があった場所だと示す案内板があった。

思った以上に狭い敷地である。
猫の額ほどの土地に貧しい家屋が建っていたことが想像できる。

『久坂玄瑞 平安古町

幕末の志士。
この地に出生。
明倫館に入り、のち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。

長井雅楽(うた)の航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請(そうじょう)に奔走、英国公使館の焼打に下関の外国船砲撃に参加した。

元治元年(1864)蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刃した。享年二十五. 萩 市』(抜粋終わり)

久坂玄瑞は、長州で一番過激な攘夷思想の実行者だったと思っていたが、戦死せずに最後は京都の公家屋敷の中で自刃している。

なぜ戦場で死ななかったのだろうか。

獄中の松陰は晋作へこう伝えていた。
そのことは久坂玄瑞も知っていたはずだ。

『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

久坂玄瑞は、蛤御門の前で薩摩兵士に斬られて死んでも不朽の見込みは得られないと考えたのだろう。

鷹司邸侵入は、果たして大業の見込みがあってのことだろうか。

『摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のこと。
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。
近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5家がある。
摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。
この5家の中から藤氏長者も選出された。
中略。

五摂家の成立
藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。

平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立。

さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、その弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。

この3流のうち、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降は摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。
その結果摂関家として近衛・九条の両流が残った。

のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。
さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立した。

建長4年(1252年)に鷹司兼平が関白に就任、文永10年(1273年)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる。以下略』
(摂家(Wikipedia)より)

やはり久坂玄瑞は生きて大業の見込みを得るべく、鷹司邸へと入ったのである。
つまり、五摂家のうち、鷹司家は長州藩側にあったということだ、

久坂玄瑞が西郷隆盛と雌雄を決しているそのとき、晋作はどうしていたか。
晋作は、生きて大業の見込みを得るべくというか、実はまだ長州の野山獄内にいた。

それも来島又兵衛の過激論を諌めようとする動きの中で脱藩の罪を着ることになってしまった。

久坂玄瑞も晋作もともに久島又兵衛に振り回されている状況にある。
松陰を亡くした長州藩は、糸の切れた凧のように激しくクルクルと回り、その渦の中で久坂玄瑞は死んでいる。

藩の重心位置を決める兵学指南教授松陰の死は、それほど重かったのであろう。
同時に日本国の重心さえクルクルと回ってしまい、明治、大正、昭和という時代を迎えることになる。

『蛤御門を攻めた来島又兵衛の戦いぶりは見事なものであり、会津藩を破り去る寸前までいったが、薩摩藩の援軍が加わると、劣勢となり、来島が狙撃され長州軍は総崩れとなった。

この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛だった。

開戦後ほどなく玄瑞は勝敗が決したことを知ったが、それでも玄瑞の隊は堺町御門から乱入し越前兵を撃退し、薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内に入った。

玄瑞は一縷の望みを鷹司卿に託そうとしたのであった。
鷹司邸に入るとすぐ玄瑞は卿に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと哀願したが、卿は玄瑞を振り切り邸から出て行ってしまった。

屋敷は敵兵に火を放たれ、すでに火の海となっており、玄瑞は全員に退却を命じた。

入江九一らに「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託した。

最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25歳。(禁門の変または蛤御門の変)(久坂玄瑞(Wikipedia)より)

禁門の変の2ヶ月前、大阪長州藩邸で書かれた寄せ書きに久坂玄瑞の詩が書かれていた。
それがわかったのは平成10年のことだったそうだ。

山口市湯田温泉にある歴史美術館でその寄せ書きを見た人の詳しい報告記事があったので、抜粋する。

『元治元年5月に書かれた寄せ書き。
(おおすみ歴史美術館蔵)

独向春風 嘆逝川 山花如雪 柳如綿
挽回皇運在何日 頑悪蒙誅 既五年
允 武

独り春風に向かい逝く川を嘆く
山花は雪の如く柳は綿(わた)の如し
皇運挽回(こううんばんかい)あるはいずれの日か
頑悪(がんあく)誅(ちゅう)を蒙(こうむ)りて既に五年
允 武

※允武は久坂玄瑞の号であることが平成10年に判明

平成13年11月25日(日)に山口市湯田温泉の一角にある「おおすみ歴史美術館」を訪れた。

1996年にオープンしたこの美術館は大隅企業グループの社主である大隅健一氏のコレクションを公開したもので、久坂玄瑞、桂小五郎、赤根武人ら尊王の志士の書画などを常設展示している。

この美術館の入口を入ってすぐのところに数人の寄せ書きを表装した一幅の掛け軸が掛かっている。

寄せ書き中央やや下寄りに「赤心之干城 元治甲子五月 来島政久」の文字が見え、この寄せ書きが元治元年の5月、すなわち禁門の変(元治元年・1964年・7月19日)の2カ月前に書かれたことがわかる。

この寄せ書きに参加した10名のうち名前がわかっているのは来島又兵衛(長州藩士・遊撃隊長・禁門の変に参加し蛤御門付近で討死・享年48才)、寺島忠三郎(長州藩士・禁門の変に参加し鷹司廷で自刃・享年22才)、広田精一(宇都宮藩浪人・禁門の変に参加し天王山で自刃・享年25才)、宍戸左馬之介(長州藩大阪藩邸留守居役・禁門の変を阻止するために奔走するも禁門の変の後に俗論党に捕らえられて斬首・享年61歳)、伊勢華(長州藩大阪藩邸蔵元役)、宇喜多八郎(京都の勤皇画家)、そして久坂玄瑞(長州藩士・禁門の変に参加し鷹司廷で自刃・享年25才)の7名。

玄瑞の署名は「允武」となっており、展示した当初は誰のことかわからなかったらしいが、元治元年4月に久坂玄瑞が桂小五郎に宛てた書状に「允武」と署名していたことで「允武=玄瑞」と判明した。

書画を1つ1つながめていくと、それを書いた人の性格や息づかいまでが伝わってくるようで感慨深い。

紙面の上方に伸びやかな文字で和歌を認めた寺島忠三郎、宍戸左馬介の優美な草書と伊勢華の繊細な書画が紙面中央を占めているのはこの2人が大阪藩邸の重役だからであろうか。来島又兵衛の武骨な文字もいかにも武断派の彼らしい。

久坂玄瑞の書は紙面左端にやや窮屈そうにおさまっている。
ひょっとすると彼が最後に文字を書き入れたのかも知れない。
墨をたっぷりつけて書き上げた書は最後の字がやや大きくて力強さを感じさせる。
1つ1つの文字が整っており全体的に男らしい印象がある。

内容がまた良い。
前半はセンチメンタルな美しい描写が続き、意訳すると以下のようになる。

僕は独り春風に向かい
川の水が虚しく流れていくのを嘆かずにはいられない
目に映る山桜は雪のように白く
柳は綿のように青い

彼が何を嘆いているのは後半に記されている。
ここで久坂玄瑞は詩人から勤皇の志士へと変貌する。

徳川幕府が倒れ朝廷が再び力を盛り返すのは一体いつの日か
頑悪が天誅をこうむってから既に5年もたつと言うのに…

「頑悪が天誅をこうむった」とあるのは井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変(万延元年・1860年・3月3日)」を指す。
さすがは勤皇派の若きリーダーだけに、同じ嘆くにしてもスケールが大きい。

おおすみ歴史美術館の副館長・江戸康尹氏によれば、寄せ書きは5月4日に大阪藩邸で書かれた可能性が高い。
けれども文面から察するに、玄瑞がこの漢詩を詠んだのは元治元年の3月頃だと思われる。

彼はその短い生涯の中でおびただしい数の漢詩を詠んでおり、出陣前の寄せ書きにふさわしい、もっと勇ましい漢詩だってあったはずなのに、敢えてこの詩を選んだ。

この書を認める久坂玄瑞が自らの死を予期していたことは想像に難くない。

この時期の彼は京都進発には反対だった。
けれども来島又兵衛ら過激派の勢いに流されるようにして、結局、京都進発の軍勢に加わり、最後は寺島忠三郎と共に鷹司邸で自刃する。』
(「最後の寄せ書き @nifty」より)
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/yosegaki.htm

長州藩は来島又兵衛の戦死により総崩れとなっている。
来島又兵衛に煽られて渋々戦に参加した久坂玄瑞の、なんとも後味の悪い死に方である。

『来島又兵衛 Kijima Matabei (1816-1864) 名は政久、幼名は光次郎、森鬼太郎の偽名がある。
禄高59石余、 ... 吉田松陰は「 来島又兵衛 は胆力人に過ぎ、又精算密思あり」と許している(さすが松蔭先生よく見てらっしゃる)。

私生活でも江戸在番中は、支出を細々と記録し、故郷の妻に送っているほどだ。以下略』

(「来島又兵衛 プロフィール あのひと検索 SPYSEE」より)
http://spysee.jp/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B/4199/

幼名を「光次郎」と呼ばれた来島又兵衛の最後はこうだった。

『元治元年(1864年)の禁門の変にさいして、積極的、激烈に出兵を主張。
風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら兵を率いて上洛し激戦を繰り広げた。
この禁裏内の戦闘で当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれ、助からないと悟った又兵衛は甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられ死亡した。

現在、山口県美祢市にある美祢市立厚保小学校には彼の銅像が建てられている。
近くに来島家の生家があったためである。

尼子流来島氏
来島家は伝来の系図によると宇多天皇の末裔で、毛利氏と敵対した出雲国の大名・尼子経久の子・森親久の子孫とされる。
森親久は出雲国来島城を拠点として栄えたが、兄の塩冶興久の謀反やその討伐等で尼子家中が混乱した際に尼子氏から離反し、毛利氏に仕えたという。
森の名字は毛利と通じるため、かつての所領であった来島を名字にしたとされる。』(来島又兵衛(Wikipedia)より)

出雲国の大名・尼子経久の子・森親久の子孫として、戦で武功をあげたいという力みもあったのであろう。

尼子氏の末裔来島又兵衛の分厚い胸を撃ち抜いた川路利良は、明治維新後に警視庁大警視(のちの警視総監)になっている。

別宅にはなかったシュロの木~長州(79) [萩の吉田松陰]

SH3B0307.jpgSH3B0307村田清風翁景仰之碑と樹木
SH3B0308.jpgSH3B0308欅
SH3B0309.jpgSH3B0309敷地奥から門を見る
SH3B0311.jpgSH3B0311近所にシュロのある家

村田清風の本宅は秘匿されてはいなかった。
隣町で大事に保存されていた。

『村田清風(1783~1855)は、天保の改革で萩藩の財政の立て直しや軍備の増強を行い、後の萩藩の明治維新での活躍の基礎を築いた。別宅とは、萩市の隣の三隅町にある本宅三隅山荘(国指定史跡)に対する呼び方である。

清風は文政3年(1820)、38歳のときにこの屋敷を買い、萩藩の政治にたずさわった25年間住んでいた。しかし現在では、清風が暮らしていた屋敷の母屋はなくなってしまい、その300坪(991.24平米)の敷地と長屋門が残っているだけである。

長屋門は、木造桟瓦葺き平屋建て、屋根は寄棟造りで、道に面した長さが14.84m、奥行き4,015mである。

中略。

村田清風別宅敷地内、村田清風歌碑

天保9年(1838)、村田清風は藩政の実権を握り、藩主毛利敬親のもと天保の改革に取り組みました。
敬親は「そうせい(はいはい、そうしなさいという意味)侯」とまで呼ばれた人で、清風は遠慮すること無く積極的に改革に取り組んで行きます。

特産物である蝋(ろう)の専売制を廃止して商人による自由な取引を許す一方、商人からは税金を取り立てました。
また交通の要所である下関では豪商の白石正一郎らを登用し、越荷方を設置します。
越荷方は金貸しで利息を取ったり、倉庫保管料を取ったり、大坂の相場をみながら高い利益が見込めるときに荷を送るなどして莫大な利益を得ます。

このような清風の財政改革により、長州藩の財政は見事に再建されました。
村田清風の藩政改革がなければ、幕末における長州藩のめざましい活躍も違ったものになっていたかも知れません。』
(「長州路 萩」より)
http://www.webkohbo.com/info3/hagi/hagi2.html

清風の風通しのよい商業政策は、まるで織田信長の楽市楽座を見ているようである。
信長はおそらくポルトガルからやってきたバテレン宣教師から仕入れた経済学知識を活用したものだろう。

清風もまたそれかも知れない。
なぜならば、織田信長以上に熱心にこの国の中でキリスト教布教を許した大名は、山口の大内義隆以外にはないからだ。
大名は没落したとは言え、山口でのキリシタン信仰はそうやすやすと消滅はしない。
キリシタン宣教師から得る科学知識や経済学ノウハウは当時の日本では付加価値がとても高かったはずである。

信仰は隠れて行うとしても、知識や学問を隠す必要はなかった。
長州藩は博識あるものを登用する革新的気風にあふれていたが、それは村田清風が作り上げた藩政改革によるものだった。

村田清風の別宅にはシュロの木はなかったが、本宅三隅山荘にあるかどうか、興味深いところである。

それは村田清風旧宅(三隅山荘)国指定史跡といい、山口県長門市三隅にある。
写真をこのサイトで見ることができた。
http://blogs.yahoo.co.jp/heizou0275/44791246.html

湯殿(風呂場)の右手後ろに相当年季の入った太く背の高いシュロの木が見えた。
葉は風呂の屋根を越えてその上に広がっている。

やはり、清風はシュロの枝を持って神を信仰する習慣を持つ家に住んでいた。
村田家に跡継ぎがいないことから、父光賢が養子に入り、その子が清風である。
清風の父親は「光」の文字を名に持つ。

これで、杉百合之助(松陰の生家)と清風の生家に、ともにシュロの木があることがわかった。

あとは、シュロの木が何を意味するかということである。

旧約聖書やユダヤ教では、その枝で神を祝うとされ、カトリックではイエス復活を祝う。
日本の神社や禅寺境内にもよく見受けられる。

松陰の兵学の師匠にあたる山鹿素行の墓は曹洞宗禅寺にあるが、墓のそばには背の高いシュロの木が3本あった。
そばには乃木希典遺愛の梅「春日」が移植されていた。

その乃木希典も、松下村塾で玉木文之進が教育した長州男児だった。
乃木夫婦は明治天皇の崩御に伴い殉死(自殺)しているから、自殺を禁じているカトリックではないと言えよう。

長州男児の心意気の原点~長州(78) [萩の吉田松陰]

SH3B0303.jpgSH3B0303門の内側
SH3B0302.jpgSH3B0302村田清風の別邸跡
SH3B0304.jpgSH3B0304石碑
SH3B0305.jpgSH3B0305井戸と大岩

「これより長州男児の心意気をお見せ申す。」
功山寺境内で馬上高らかに三条実美に告げて、下関代官所を襲撃した高杉晋作が言った言葉である。

その「心意気」の原点と思われる村田清風別宅跡に立っている。
長屋門のみ残り敷地内は草の原となっていた。

城通いのためにここへ移り住んで来たというから、別のところに本宅があったのだろうが、そのことはあまり触れられていない。
秘匿すべきことなのか?

敷地中央奥に村田清風の邸宅跡を示す石碑が立っていた。

生きた時代は松陰よりやや早いが、精神文化として松陰は村田清風の影響を引き継いでいるように見える。

村田清風が残した言葉を記す。(「吉田松陰」徳富蘇峰著、岩波文庫より)

「来て見れば聞くより低し富士の山 釈迦も孔子もかくやあるらん」

「敷島の大和心を人とわば 蒙古の使い斬りし時宗」

「高千穂の峰に神戟有り 即ちこれ億兆の日本魂(やまとだましい)」

坂本龍馬を描く大河ドラマで龍馬が「高千穂の峰の神戟」を抜いて天にかざすシーンがあった。

坂本龍馬は長州藩で相当な思想的影響を受けたようだ。

龍馬は、松陰の詩も文字って借用している。

「世の人は 我をなんとも 云わば云え 我が成すことは 我のみぞ知る」 龍馬

松陰が浦賀で国禁の黒船への密航を決意したときに詠んだ次の歌に由来するように見える。

「世の人はよしあしごともいわばいえ
賤(しず)が誠は神ぞ知るらん」 松陰

世間の人は密航を批判するだろうが、人は批判をするだけで行動をしようとしない。
国を憂う心は神だけが知っている。

松陰がこの詩を詠んだのは、黒船密航をした嘉永7年(1854)3月28日の数日前のことと思われる。

天保6年(1836年)生まれの土佐藩士坂本龍馬は、このときわずか17歳の多感な青年だった。
龍馬は嘉永元年(1848年)12歳のときに、江戸の日根野弁治の道場に入門し、嘉永6年(1853年)17歳で「小栗流和兵法事目録」を得ている。

つまり、江戸にいた17歳の坂本龍馬は、江戸の長州藩邸から流れてくる勤皇の志士吉田松陰の詩を見聞したのであろう。

龍馬の脱藩には、松陰や久坂らの松下村塾による思想的影響が見受けられる。

若き龍馬が江戸の長州藩邸内外で見聞しただろう「松陰の対外戦略」とは次のようなものだった。
それは安政元年(1854年)に松陰によって獄中で書かれたものである。
当時、龍馬は18歳で、土佐を脱藩する8年も前のことである。

『対外思想
「幽囚録」で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は独立した国家であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。

松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

松陰はこうして獄中で「黒船密航の動機」を綴り、草莽崛起を願ったのである。

「近代デジタルライブラリー」で吉田松陰著「幽囚録」なるその書籍の表紙装丁を写真で見ることができる。

「幽囚録 近代デジタルライブラリー」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754828/1

そこには「西暦年:1891」とあるから、複製もしくは印刷装丁して出版された年であろうから、松陰の死(1859年)から32年も後の出版となる。

松陰の幽囚の始まりは、安政元年の黒船密航失敗である。
そういう意味で密航を青年松陰へ勧めた佐久間象山の果たした歴史的役割は大変大きい。
よい恩師だったかどうか議論が分かれるが、松陰を歴史的人物へと押し上げるための行動へと走らせた役割は象山以外には考えられない。

月性が聾唖の僧宇都宮黙霖を獄中の松陰のもとへやり、幕府と朝廷の双方で攘夷を成し遂げようと考えていた松陰を、過激な討幕思想家へと変えていった。

象山の密航推奨は、ちょうどそれに匹敵するほどの役割であった。

天皇と神を尊敬し海防兵学を好んで学んでいた萩・松本村の青年松陰は、月性と象山によって「巨魁」へと作り上げられていった感がある。

『安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。

松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。
この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。

幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。

獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。

なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。

だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。
幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。

しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。
これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。
享年30(満29歳没)。生涯独身であった。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

このとき、龍馬は23歳だった。
その3年後に龍馬は脱藩する。

以下は、松陰亡きあとの長州藩士と龍馬の関係である。

『文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から武市宛の書簡を託されている。

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると挫折を感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。

脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。

武市は藩論を変えて挙藩勤王を希望しており、脱藩して上洛する策には反対していた。
だが、一部の同志が脱藩することを止めることはできず、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、ここにおいて龍馬も脱藩を決意した。

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受けていた。

龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。

この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。

龍馬は那須信吾(後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した。』(坂本龍馬(Wikipedia) より)

日本の歴史物語は坂本龍馬という脱藩浪人一人を英雄として描こうと努力しているように見える。
それは実際に幕末のこの国で起こった歴史的事実、政治的暗躍、青年のマインドコントロールの存在などを煙に巻いて消していく作用を生じている。

赤穂浪士の討ち入りについても、ドラマ化は証拠隠滅の作用を果たしている。
赤穂浪士による乱暴狼藉夜盗討ち入りを誘導しているマインドコントロールの実態を見えにくくしてしまっているからだ。

親族こぞっての討入参加の員数構成の特徴などはあまり表では語られない。
親子、兄弟、叔父おい、いとこなどが一緒に参加する行動意識は、宗教的側面が大きく作用しているはずである。

松陰の神式信仰と尊王思想は父と叔父の玉木文之進から注入されたものだが、攘夷や討幕は月性や佐久間象山から注入されている。

久坂も高杉も、武智も龍馬も、みな松陰の思想的影響によって鼓舞され命を捨てる行動に出たのである。

その長州藩独特の思想的源流が、この村田清風であると私は感じている。
まだその根拠は薄いのだが、清風の周辺には隠れキリシタンの香りがするような気がしている。

村田清風別宅の近くに「キリシタン殉教碑」があるという記事を目にしたことがあるからだ。
それだけのことであるから、関係がないかも知れない。

萩に行って直接目で確かめたいと思ったのは、松陰の生家とともに村田清風の家だった。
しかし、この敷地には長屋門以外に何も残っていなかった。

晋作や木戸孝允の実家の保存への力の入れようとは異なり、まったく跡形をなくしてしまっている。

敷地内に苔むした岩があり、その表面に文字が刻まれているが、不鮮明のために読めない。

村田清風の詠んだ詩(うた)から、当時の「長州男児の心意気」を感じてみよう。

「敷島の大和心を人とわば 蒙古の使い斬りし時宗」
「高千穂の峰に神戟有り 即ちこれ億兆の日本魂(やまとだましい)」

やはり、この流れの先に青年吉田松陰が生まれてくるようだ。

神は光を好む~長州(77) [萩の吉田松陰]

SH3B0299.jpgSH3B0299古い屋敷跡がある
SH3B0300.jpgSH3B0300村田清風別宅跡
SH3B0302.jpgSH3B0302屋敷内敷地

『村田清風別宅跡

この別宅跡は、旧萩城三の丸と外堀を隔てた平安古満行寺筋(ひやこまんぎょうじすじ)に位置する。

文政3年(1820)清風38歳のとき藩士香川作兵衛から買い入れて引き移り、弘化2年(1845)まで清風が藩政に携わった25年間の旧宅跡である。

現在は清風が起居していた本邸の家屋は老朽のため解体され、その300坪(991.24㎡)の敷地と長屋門のみが残されている。

長屋門は木造桟瓦葺平屋建、桁行14.84m、梁間4.015mの寄棟造で、中央から右よりに4m幅の門を開き、格子入りの出窓が3箇所ある。

清風は萩藩が雄藩としての基礎を築いた天保の改革では民政、兵制の刷新、文武の奨励などに尽力して萩藩が明治維新に活躍する基礎を築いた。   萩 市』(抜粋終わり)

平安古(ひやこ)とは町名であるが、地元の萩市役所がそう読み仮名を振っているのだから間違いない。

1838年に村田清風と香川作兵衛はともに藩財政の改革担当者に任命されているから、清風は職場の同僚の香川からこの土地を買ったのである。

財政再建が成功して、関が原以降貧乏藩だった長州は、経済活性化により幕末には最新式の銃器をグラバーから買い入れるほどの財力を持つ雄藩となっていった。

幕末の回天には、清風の貢献があったことは間違いない。

清風のあとを継いだ周布政之介は、梅田雲浜の商いによって京都・大阪との商品販売で藩財力を蓄えていったと言われるが、それが討幕のための作戦であった。
そのことは、安政の大獄での幕府が雲浜を捕縛し獄中死させたことからもわかる。

村田家の人脈系統に私は興味を抱いている。
名前に「光」の文字を持つ養子が二人きている。

清風は二人目の「光」を持つ人物の子である。

日本史では、「光」を名に持つ人物は歴史の大転換場面に主役として登場している。

明智光秀、石田光成の名がすぐ浮かぶ。

「神は光るものを好む」という。
神社の神輿に金箔を縫った金飾りがきらきらしているのはそのためである。

これとよく似た話が、旧約聖書にも出ている。

『写真は村田清風の墓です。生まれ故郷の山口県三隅町にあります。

村田家の家系を小国国治氏の『毛利重成』によって描けば、村田直之→村田定光→村田為之→村田光賢→村田清風となります。

村田直之には子がなかったので、現在の三隅町の庄屋の息子二郎四郎を養子にします。それが村田定光になります。

しかし為之にも子がなかったので、養子を迎えます。これが村田光賢です。
そしてその子が村田清風となるわけです。

村田清風は早くから秀才ふりを発揮していたようで、15歳のとき藩校命倫館に入り、2年延長在学が許可されるほど成績優秀であつたとか。
その後江戸に上がり、国学者塙保己一に教えを受けています。以下略。』
(「村田清風の墓 山口県三隅町」より)
http://samuraiworld.web.fc2.com/ending_murata_seifu.htm

歴史の転換を起こすために長州藩に定光、光賢が生まれたのではないかと思う。

彼らの働きがあって、幕末の奇兵隊創出へとつながっていくのだろう。

村田清風が行った藩政改革により、アメリカ南北戦争終結で大量にあまった鉄砲と火薬が長州藩内に運び込まれことは間違いのない事実である。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。