神は光を好む~長州(77) [萩の吉田松陰]

SH3B0299.jpgSH3B0299古い屋敷跡がある
SH3B0300.jpgSH3B0300村田清風別宅跡
SH3B0302.jpgSH3B0302屋敷内敷地

『村田清風別宅跡

この別宅跡は、旧萩城三の丸と外堀を隔てた平安古満行寺筋(ひやこまんぎょうじすじ)に位置する。

文政3年(1820)清風38歳のとき藩士香川作兵衛から買い入れて引き移り、弘化2年(1845)まで清風が藩政に携わった25年間の旧宅跡である。

現在は清風が起居していた本邸の家屋は老朽のため解体され、その300坪(991.24㎡)の敷地と長屋門のみが残されている。

長屋門は木造桟瓦葺平屋建、桁行14.84m、梁間4.015mの寄棟造で、中央から右よりに4m幅の門を開き、格子入りの出窓が3箇所ある。

清風は萩藩が雄藩としての基礎を築いた天保の改革では民政、兵制の刷新、文武の奨励などに尽力して萩藩が明治維新に活躍する基礎を築いた。   萩 市』(抜粋終わり)

平安古(ひやこ)とは町名であるが、地元の萩市役所がそう読み仮名を振っているのだから間違いない。

1838年に村田清風と香川作兵衛はともに藩財政の改革担当者に任命されているから、清風は職場の同僚の香川からこの土地を買ったのである。

財政再建が成功して、関が原以降貧乏藩だった長州は、経済活性化により幕末には最新式の銃器をグラバーから買い入れるほどの財力を持つ雄藩となっていった。

幕末の回天には、清風の貢献があったことは間違いない。

清風のあとを継いだ周布政之介は、梅田雲浜の商いによって京都・大阪との商品販売で藩財力を蓄えていったと言われるが、それが討幕のための作戦であった。
そのことは、安政の大獄での幕府が雲浜を捕縛し獄中死させたことからもわかる。

村田家の人脈系統に私は興味を抱いている。
名前に「光」の文字を持つ養子が二人きている。

清風は二人目の「光」を持つ人物の子である。

日本史では、「光」を名に持つ人物は歴史の大転換場面に主役として登場している。

明智光秀、石田光成の名がすぐ浮かぶ。

「神は光るものを好む」という。
神社の神輿に金箔を縫った金飾りがきらきらしているのはそのためである。

これとよく似た話が、旧約聖書にも出ている。

『写真は村田清風の墓です。生まれ故郷の山口県三隅町にあります。

村田家の家系を小国国治氏の『毛利重成』によって描けば、村田直之→村田定光→村田為之→村田光賢→村田清風となります。

村田直之には子がなかったので、現在の三隅町の庄屋の息子二郎四郎を養子にします。それが村田定光になります。

しかし為之にも子がなかったので、養子を迎えます。これが村田光賢です。
そしてその子が村田清風となるわけです。

村田清風は早くから秀才ふりを発揮していたようで、15歳のとき藩校命倫館に入り、2年延長在学が許可されるほど成績優秀であつたとか。
その後江戸に上がり、国学者塙保己一に教えを受けています。以下略。』
(「村田清風の墓 山口県三隅町」より)
http://samuraiworld.web.fc2.com/ending_murata_seifu.htm

歴史の転換を起こすために長州藩に定光、光賢が生まれたのではないかと思う。

彼らの働きがあって、幕末の奇兵隊創出へとつながっていくのだろう。

村田清風が行った藩政改革により、アメリカ南北戦争終結で大量にあまった鉄砲と火薬が長州藩内に運び込まれことは間違いのない事実である。

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