長州男児の心意気の原点~長州(78) [萩の吉田松陰]

SH3B0303.jpgSH3B0303門の内側
SH3B0302.jpgSH3B0302村田清風の別邸跡
SH3B0304.jpgSH3B0304石碑
SH3B0305.jpgSH3B0305井戸と大岩

「これより長州男児の心意気をお見せ申す。」
功山寺境内で馬上高らかに三条実美に告げて、下関代官所を襲撃した高杉晋作が言った言葉である。

その「心意気」の原点と思われる村田清風別宅跡に立っている。
長屋門のみ残り敷地内は草の原となっていた。

城通いのためにここへ移り住んで来たというから、別のところに本宅があったのだろうが、そのことはあまり触れられていない。
秘匿すべきことなのか?

敷地中央奥に村田清風の邸宅跡を示す石碑が立っていた。

生きた時代は松陰よりやや早いが、精神文化として松陰は村田清風の影響を引き継いでいるように見える。

村田清風が残した言葉を記す。(「吉田松陰」徳富蘇峰著、岩波文庫より)

「来て見れば聞くより低し富士の山 釈迦も孔子もかくやあるらん」

「敷島の大和心を人とわば 蒙古の使い斬りし時宗」

「高千穂の峰に神戟有り 即ちこれ億兆の日本魂(やまとだましい)」

坂本龍馬を描く大河ドラマで龍馬が「高千穂の峰の神戟」を抜いて天にかざすシーンがあった。

坂本龍馬は長州藩で相当な思想的影響を受けたようだ。

龍馬は、松陰の詩も文字って借用している。

「世の人は 我をなんとも 云わば云え 我が成すことは 我のみぞ知る」 龍馬

松陰が浦賀で国禁の黒船への密航を決意したときに詠んだ次の歌に由来するように見える。

「世の人はよしあしごともいわばいえ
賤(しず)が誠は神ぞ知るらん」 松陰

世間の人は密航を批判するだろうが、人は批判をするだけで行動をしようとしない。
国を憂う心は神だけが知っている。

松陰がこの詩を詠んだのは、黒船密航をした嘉永7年(1854)3月28日の数日前のことと思われる。

天保6年(1836年)生まれの土佐藩士坂本龍馬は、このときわずか17歳の多感な青年だった。
龍馬は嘉永元年(1848年)12歳のときに、江戸の日根野弁治の道場に入門し、嘉永6年(1853年)17歳で「小栗流和兵法事目録」を得ている。

つまり、江戸にいた17歳の坂本龍馬は、江戸の長州藩邸から流れてくる勤皇の志士吉田松陰の詩を見聞したのであろう。

龍馬の脱藩には、松陰や久坂らの松下村塾による思想的影響が見受けられる。

若き龍馬が江戸の長州藩邸内外で見聞しただろう「松陰の対外戦略」とは次のようなものだった。
それは安政元年(1854年)に松陰によって獄中で書かれたものである。
当時、龍馬は18歳で、土佐を脱藩する8年も前のことである。

『対外思想
「幽囚録」で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は独立した国家であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満州・台湾・フィリピンの領有を主張した。

松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

松陰はこうして獄中で「黒船密航の動機」を綴り、草莽崛起を願ったのである。

「近代デジタルライブラリー」で吉田松陰著「幽囚録」なるその書籍の表紙装丁を写真で見ることができる。

「幽囚録 近代デジタルライブラリー」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/754828/1

そこには「西暦年:1891」とあるから、複製もしくは印刷装丁して出版された年であろうから、松陰の死(1859年)から32年も後の出版となる。

松陰の幽囚の始まりは、安政元年の黒船密航失敗である。
そういう意味で密航を青年松陰へ勧めた佐久間象山の果たした歴史的役割は大変大きい。
よい恩師だったかどうか議論が分かれるが、松陰を歴史的人物へと押し上げるための行動へと走らせた役割は象山以外には考えられない。

月性が聾唖の僧宇都宮黙霖を獄中の松陰のもとへやり、幕府と朝廷の双方で攘夷を成し遂げようと考えていた松陰を、過激な討幕思想家へと変えていった。

象山の密航推奨は、ちょうどそれに匹敵するほどの役割であった。

天皇と神を尊敬し海防兵学を好んで学んでいた萩・松本村の青年松陰は、月性と象山によって「巨魁」へと作り上げられていった感がある。

『安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。

松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。
この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。

幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。

獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。
この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。

なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。

だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。

さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。
幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。

しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。
これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。
享年30(満29歳没)。生涯独身であった。』(吉田松陰(Wikipedia)より)

このとき、龍馬は23歳だった。
その3年後に龍馬は脱藩する。

以下は、松陰亡きあとの長州藩士と龍馬の関係である。

『文久2年(1862年)1月に長州萩を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から武市宛の書簡を託されている。

龍馬は同年2月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると挫折を感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して京都へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。

脱藩は藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。

武市は藩論を変えて挙藩勤王を希望しており、脱藩して上洛する策には反対していた。
だが、一部の同志が脱藩することを止めることはできず、まず吉村虎太郎が、次いで沢村惣之丞等が脱藩し、ここにおいて龍馬も脱藩を決意した。

龍馬の脱藩は文久2年(1862年)3月24日のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞の手引きを受けていた。

龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。

この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。

龍馬は那須信吾(後に吉田東洋を暗殺して脱藩し天誅組の変に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した。』(坂本龍馬(Wikipedia) より)

日本の歴史物語は坂本龍馬という脱藩浪人一人を英雄として描こうと努力しているように見える。
それは実際に幕末のこの国で起こった歴史的事実、政治的暗躍、青年のマインドコントロールの存在などを煙に巻いて消していく作用を生じている。

赤穂浪士の討ち入りについても、ドラマ化は証拠隠滅の作用を果たしている。
赤穂浪士による乱暴狼藉夜盗討ち入りを誘導しているマインドコントロールの実態を見えにくくしてしまっているからだ。

親族こぞっての討入参加の員数構成の特徴などはあまり表では語られない。
親子、兄弟、叔父おい、いとこなどが一緒に参加する行動意識は、宗教的側面が大きく作用しているはずである。

松陰の神式信仰と尊王思想は父と叔父の玉木文之進から注入されたものだが、攘夷や討幕は月性や佐久間象山から注入されている。

久坂も高杉も、武智も龍馬も、みな松陰の思想的影響によって鼓舞され命を捨てる行動に出たのである。

その長州藩独特の思想的源流が、この村田清風であると私は感じている。
まだその根拠は薄いのだが、清風の周辺には隠れキリシタンの香りがするような気がしている。

村田清風別宅の近くに「キリシタン殉教碑」があるという記事を目にしたことがあるからだ。
それだけのことであるから、関係がないかも知れない。

萩に行って直接目で確かめたいと思ったのは、松陰の生家とともに村田清風の家だった。
しかし、この敷地には長屋門以外に何も残っていなかった。

晋作や木戸孝允の実家の保存への力の入れようとは異なり、まったく跡形をなくしてしまっている。

敷地内に苔むした岩があり、その表面に文字が刻まれているが、不鮮明のために読めない。

村田清風の詠んだ詩(うた)から、当時の「長州男児の心意気」を感じてみよう。

「敷島の大和心を人とわば 蒙古の使い斬りし時宗」
「高千穂の峰に神戟有り 即ちこれ億兆の日本魂(やまとだましい)」

やはり、この流れの先に青年吉田松陰が生まれてくるようだ。

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