萩キリシタン殉教者 記念公園~長州(95) [萩の吉田松陰]

SH3B0381.jpgSH3B0381「カーテル」の看板
SH3B0382.jpgSH3B0382日光が遮られた藪通り
SH3B0383.jpgSH3B0383海沿いに公園
SH3B0384.jpgSH3B0384「萩キリシタン殉教者 記念公園」

「150m先を右折」の看板まで戻ってきた。
先ほどは早めに右折してしまったようだ。

この看板から再度スタートして、今度はまっすぐに相当距離を歩くようにした。
鬱そうとした藪の中を進むと、「カーテル未来」の看板が見えてきた。

誰も歩かない場所だからカーテルなどが建てられるのである。
そこを敢えて私は歩いている。
それは、キリシタン殉教地に行きたいからである。

カーテルを探して歩いているのではない。

言い訳しなければいけないほどに、一人でそこを歩く私はきっと不審者である。

木々によって陽が遮られている藪を抜けると、今度は落ち着いて右折した。

右手を見ると海に近く公園が見えてきた。

「萩キリシタン殉教者 記念公園」にようやく着いた。

迷わずに直接ここへ来ることはかなり難しいのではないだろうか。

明治維新とは、隠れキリシタンを「隠そうと」した革命だったのだろうか。

徳川幕府による300年の宗教弾圧からキリシタン信者たちを解放する革命だったのではなかったのか?

晋作らの城下町の保存に対する並々ならぬ明治以降の国家の史跡保存の意気込みと、カーテルの藪を抜けて出会ったキリシタン殉教者の公園との落差に驚かざるを得ない。

吉田松陰は、そういう宗教観を持つ革命政権を望んで死んでいったのだろうか。

何が田中大将像であるか。
私はキリスト教信者ではないが、松陰の考え方を基準に考えると革命の結果について大いに疑問を感じている。

松陰を利用したのは、西本願寺派の僧月性と三条実美であった。

石見の大名吉見正頼の別宅跡~長州(94) [萩の吉田松陰]

SH3B0376.jpgSH3B0376海沿いを北へと曲がる
SH3B0378.jpgSH3B0378薄暗い林を抜けると公園らしきゾーン
SH3B0380.jpgSH3B0380美しすぎる公園
SH3B0379.jpgSH3B0379「石彫公園」案内図

西の浜から海沿いを真北へ歩いて「石彫公園」の入口についたようだ。
ここは殉教者の公園ではない。
指月山を含む景色が美しい。

松陰の生誕地は椎原の小高い山の途中にあった。

その敷地入口門の傍にあるシュロの木のそばから城下を見下ろすと、正面奥に見えていたあの指月山がこの公園の奥にある。

指月城は、大内義隆の実の姉が住んでいた。
石見の大名吉見正頼の別宅であった。

大内義隆の遺児は、おそらく洗礼を受けていたと思われるが、彼らはこの山の麓にあった吉見の館へ居住したのだろう。

そして「環(たまき)」姓を名乗った。
後に玉木と改めた。

松陰を激しく鍛えた松下村塾創始者の玉木文之進は、松陰の実の叔父で、玉木家へ養子に行った人物である。

必ず大内家再興を果たそうとしたのではないか。

そのためには、徳川氏を倒し、毛利氏をも無くさねばならない。

久坂玄瑞が坂本龍馬に言ったという「土佐藩も長州藩もなくなっても構わない」という言葉は、覚悟のほどを言ったのではなく、革命の目的を述べたものである。

尊王のイデオロギーは大内氏末裔にとっては必須のものであった。

偶然、指月山へ迷いこんでしまったので、ついつい松陰と大内家のことを思い出してしまった。

もう一度先ほどの「150m先を右折」の看板まで戻ることにしよう。

迷い道~長州(93) [萩の吉田松陰]

SH3B0371.jpgSH3B0371「キリシタン殉教者記念公園 150m先を右折」の案内板
SH3B0373.jpgSH3B0373右折後に川の土手に向かう
SH3B0374.jpgSH3B0374西の浜墓地前通過
SH3B0375.jpgSH3B0375海へ抜けた

「キリシタン殉教者記念公園 150m先を右折」と書いてある。
どうやら厚狭毛利屋敷の海沿いの場所のようである。

あいにく私は歩行距離測定器をもっていないので、およそ150m歩いたという勘で右折した。
萩市観光ポータルサイトには、萩屋敷は約15500㎡の広大な敷地を誇っていたと書いてあった。
正方形の土地であるとすれば、一辺は約124.5mとなる。

だとすれば、厚狭毛利家裏塀を曲がって20mのところにある案内板の指す150m先を右折した場所にある公園とは、厚狭毛利家敷地外にあたるはずだ。

しかし、敷地が長方形だったり、飛び地を持っていたりすれば、敷地内という可能性もあり得る。

おおざっぱな距離感からすれば、厚狭毛利家敷地のすぐ西の外れという印象である。

看板の案内に従い、150mばかり行ったと思ったところで右折すると、川土手の方へと緩やかな坂を上って行くことになる。

そして、やがて西の浜墓地の前を通って海辺へと抜けた。
どこにも公園などは見当たらなかった。

宗教への信心が浅い私のようなものでは、殉教者の公園へはすぐには行き着けないのであろう。

「公園」なるものを探して、そこから城の方向、つまり北へと歩いていくことにした。

厚狭毛利家~長州(92) [萩の吉田松陰]

SH3B0368.jpgSH3B0368この先にさっき渡った平安橋がある
SH3B0369.jpgSH3B0369「重要文化財 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」
SH3B0370.jpgSH3B0370同上裏塀(土と瓦の積層)

堀内にある武家屋敷とは大名の親戚筋のものである。
とても大きく立派である。

門柱に「重要文化財 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」と墨書されている。
10,500石の大名である。

『厚狭毛利家(あさもうりけ)は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ。
毛利元就の五男・毛利元秋を祖とし、のち元就の八男・元康が跡を継ぎ、関ヶ原の戦いの後長門厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に10,500石を与えられたのが始まりである。

元康の跡を子・元宣が継ぎ、厚狭郡末益村(現・山陽小野田市)・厚東郡船木村(現・宇部市)を与えられ、末益村の郡(こうり)に居館を構えたことにより厚狭毛利氏というようになった。

居館は厚狭毛利氏館または厚狭毛利氏館とも呼ばれた。』(厚狭毛利家(Wikipedia)より)

萩市観光ポータルサイトの解説を見てみよう。

『旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
掲載日: 2010年11月10日 / 担当: 観光課

厚狭毛利家は毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、萩屋敷は約15500㎡の広大な敷地を誇っていましたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残っています。

本瓦葺き入母屋造りで、現存する萩の武家屋敷の中では最も大きく、国の重要文化財に指定されています。
昭和43年(1968)に解体修理が完成し、内部に当時の調度品などを展示しています。』
({旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/portal/bunrui/detail.html?lif_id=10289

この立派な屋敷が、実は長屋だけであるという。

萩の武家屋敷で最大規模だった主屋は、解体されて残っていないという。
一体主屋はどれほどまでに大きかったのであろうか。

ひょっとすると、主屋解体前の敷地の中にキリシタン殉教地があったのではないだろうか。

毛利氏の家系の中にも当然ザビエルは種をまいているはずだからだ。

土と瓦を交互に重ねた裏塀の特徴ある光景を見ながら、路地を左折すると、分岐に「キリシタン殉教者記念公園」と書いた看板が見えた。

戦国大名とキリシタン~長州(91) [萩の吉田松陰]

SH3B0366.jpgSH3B0365これより堀内
SH3B0366.jpgSH3B0366遊覧船乗り場に蘇鉄
SH3B0367.jpgSH3B0367萩城址入口信号

萩城近くにあるキリシタン殉教地のことを城下町の観光案内所の人たちもあまりはっきりとわからなかったようだ。
私が萩観光パンフレットにその名が書かれていることを告げると、地図を見てその場所なら城の近くだと教えてくれたのだ。

堀の外にある城下町には、一般の武士と庶民が住んでいた。
この橋を渡ると堀内といい、毛利氏の近親縁者など高貴な身分の武家が住むエリアとなる。

そこになぜキリシタン殉教碑があるのだろうか。

戦国大名とキリシタンの深い関係が浮かんでくる。

山口では、大内義隆の時代にザビエルに布教を許可したので、大名の家臣や家族に洗礼を受けたものが多い。

大名の多くは戦場に小姓を伴うので男色趣味があり、その趣味を辞めねば洗礼を受けられなかった。
高山右近はその趣味がなかったか、あるいは辞めたからキリシタン大名になれたのだ。

つまり、多くの戦国大名が「ホモ趣味」を捨てきれずに、先進国の文明と深いご縁を持てるはずの洗礼を受けることができなかった。

しかし、南蛮渡来の火薬と鉄砲は是非ほしい。
強いものが勝つ戦国時代である。

よって大名の家族や家臣をキリシタンにすることによって、宣教師を介してポルトガル商人から鉄砲・火薬などを大量に購入することが可能となった。

織田信長はその手を積極利用して勢力を伸ばしていった。

この堀内こそ昔の戦国大名やその家臣だったキリシタンたちが多く住んでいた可能性がある。
そう私は感じながら歩いている。

毛利が広島から萩へ移される以前に萩城に住んでいたのは、石見の国領吉見正頼や家臣であったが、正頼の正室が大内義隆の姉である。
周布家も石見の武将であった。

その周布政之助の顕彰碑は、山口のザビエル聖堂近くの坂道に来島又兵衛の碑とともにある。

ザビエルが萩へ足を運んだ可能性は高い。
彼はインドネシアの島々で布教のために人食い人種のいるジャングルへ単身入り込んでいったほどの人である。

大内義隆の姉が石見の大名の正室であるという貴重な人脈である。
ザビエルがそれを生かさないわけがない。

堀には石橋がかかり、そのそばに遊覧船乗り場があった。
観光客数人が船を待っていた。
その桟橋に大きな蘇鉄の葉が3つ風にそよいでいた。

島津藩主の居宅(別荘)磯亭の庭からもこの蘇鉄が見える。

蘇鉄とシュロ、ナツメヤシは、お互い葉の形が似ているようだ。

堀を渡ったのでここは堀内町となり、これから先は城に最寄の屋敷街となる。
萩城址入口信号を通る。

大邸宅跡のシュロ~長州(90) [萩の吉田松陰]

SH3B0363.jpgSH3B0363門のそばにシュロの木
SH3B0362.jpgSH3B0362塀の角にもシュロの木
SH3B0364.jpgSH3B0364大きな邸宅跡地

城へ向かって歩いていると、草の生えた広い空き地が見えてきた。
まだ堀より城下町側だから身分が高い人物だとしても家老よりは下の身分のものの末裔が住んでいたのだろう。

門に近づくとシュロの木が見えた。
門は閉ざされていて、家屋は存在していない。

門と反対の塀の角にもシュロの木があった。

吉田松陰の生家も、玄関門右手にシュロの木が1本植えられていた。

案内板はないから、幕末維新回天史に名を残した人の末裔ではないのだろうか。
あるいは佐幕派家老の家筋だったのだろうか。

信仰は同じシュロでも行動に差が出るということなのだろうか。
はたまた庭の単なる趣味の植栽に過ぎないのかも知れない。

日本では誰がどこにシュロの木を植えてもかまわない。

タグ:シュロ 信仰

よっ!大将~長州(89) [萩の吉田松陰]

SH3B0359.jpgSH3B0359うに丼定食
SH3B0360.jpgSH3B0360田中大将像
SH3B0361.jpgSH3B0361シュロを見ながら城へ向かう

少し高かったが思い出にと「うに丼定食」を食べた。
うまかった。

観光地の真ん中の食堂だから、観光目当てのお商売だろう。
安くおいしくと思うなら、萩市内のレストランに行くべきだろう。
ここは歴史建造物保存地区の中である。

観光案内所でキリシタン殉教碑のある場所を聞くと、よくわからないようす。
おじさんがここではないかと教えてくれた。

どうやら昔から萩城下町ではキリシタンがお城の近くで殉教したことを姦しく宣伝してはいないようだ。

会津にもキリシタン殉教地があったが、民家の庭の奥にひっそりと墓石が立っている程度で、真剣に探さないと見逃してしまいそうだった。

古い城下町では、今でもキリシタン信仰の話はあまりおおっぴらにしないのではないだろうか。

その堀内に立派な近代的な萩博物館があり、その駐車場の北隣に大きな銅像が立っている。

地元の子供たちは、「田中大将に集合しよう。」とか東京渋谷の「ハチ公前」のごとく親しんでいる像だが、田中大将像と書いてある。

それは「田中義一」のことである。
この城下町散歩のはじめのところで紹介したが、シュロの木のある空き地が生家であった。

Wikipediaの注釈によれば、
『『田中義一伝記』などはこれを否定するが、古島一雄の回想録によれば、軍人出身の田中がどこから票を集めるのかと問い質したところ、「俺は在郷軍人300万を持っている」と応えたと記していること、また政友会総裁就任に伴う和歌山県での在郷軍人会副会長退任演説で政友会が主張していた両税委譲の必要性を説くなど、遠回しに政友会へ支援を求める発言も行っている。』とあるから、確かに日本陸軍の集票能力の高い大将だったのであろう。

吉田松陰が生きていれば、頭ごなしに叱りつけたことだろう。
人間は偉くなると増長する生き物である。

誰のおかげで今の栄光を手に出来たのか、考えれば増長などできるわけがない。
都合の悪い話は忘れ去るのであろう。

青年松陰の命は、国の政治の道具に使われたに過ぎない。
明治維新以降の日本国のあり方、歴史的変遷を見るに、松陰が夢見たような純粋な国家像とはあまりにかけ離れている。

西洋化を進め科学技術を吸収し産業を振興したこと、植民地化を防げたこと、これらは松陰以前から、島津斉彬など幕末の偉人たちが考えていたいことの継承実践に過ぎない。

もっと言えば、長州の奇兵隊なども、山田方谷が農民からなる軍隊組織により近代化を図ったもののコピーに過ぎない。

モデルはアメリカ南北戦争で銃を持った北軍の黒人奴隷部隊が南軍の白人正規部隊に勝利したという国際的ニュースである。

歴史に「もし」はないというが、松陰、久坂玄瑞、高杉晋作が主要閣僚となった日本政府を見てみたいものである。

松陰自身はきっと自らの銅像を大将として崇(あがめ)めろとは言わなかったはずだ。

靖国神社の鳥居を入ると、天を突くほど高い柱があり、その上に帯刀した長州藩士が立っている。

どうも、明治以降の長州藩士は鼻が高くなりすぎていたようだ。

17世紀の菊屋家住宅~長州(88) [萩の吉田松陰]

SH3B0355.jpgSH3B0356菊屋家住宅(再掲)
SH3B0356.jpg

久保住宅は背が高いが、菊屋家住宅は低いという萩市の説明の影響を受けて、後者はさらりと掲載したが、近づいて説明板を読むと、こっちの方が遥かに文化財的価値が高い。

改めて再掲する。

『国指定重要文化財
菊屋家住宅 主屋・本蔵・金蔵
米蔵・釜場 五棟

萩藩の御用も勤めた豪商の家。
主屋は切妻造り、桟瓦葺きで北面し、西側に通り土間があり、床上部は前寄り一間半を店とし、その奥は横に二または三室が三列に配されていた。

全国でも最古に属する大型の町家として極めて貴重。

主屋と数棟の蔵が建ち並ぶ西側の景観は見ごたえがあり、国指定史跡萩城下町の地域内にあってその重要な構成要素の一をなしている。(主屋十七世紀前半、他十八~十九世紀)』


1551年の大寧寺の変で第16代当主の大内義隆が倒れるまでは山口市が西の京都だった。
関が原の合戦の後、毛利氏が萩へ移り住んできた。
それが17世紀初めである。
毛利の家臣団は、萩城下町の街づくりに精を出したはずだ。

その17世紀前半に、この菊屋家住宅の主屋が建築されている。
まだ江戸城に徳川家康が住んでいた時代のことである。

そう考えると、日本の木造建築は実にすごい技術の集積であることが分かる。


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