晋作と久坂玄瑞の仲介者~長州(81) [萩の吉田松陰]

SH3B0319.jpgSH3B0319久坂玄瑞出生地に立つ石碑
SH3B0323.jpgSH3B0323よく見ると亀の上に石碑が載っている
SH3B0320.jpgSH3B0320坂本龍馬と久坂玄瑞
SH3B0321.jpgSH3B0321石碑
SH3B0322.jpgSH3B0322石碑

久坂玄瑞が鷹司邸内で元治元年7月19日(1864年8月20日)に自刃している。
最後の頼みの鷹司が逃げ出したからだが、その程度で自刃するとはどういうことだろうか。

松陰の教えは重い。
『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

なのに自殺という死を選んだのはなぜだろうか。

あまりに重い怪我を負い、思考が鈍ったのだろうか。
それとも実質的な長州藩のリーダ久坂玄瑞が、鷹司邸内で自刃することが「不朽の見込み」を作るとでも考えたのだろうか。

公家は屋敷内にスズメの死骸が落ちていても大騒ぎする。
穢れを心底嫌う習慣があり、それがエタ、非人などの職業差別を生んだし、人殺しのプロフェッショナルを皇室から一般人に降格した源氏と平家という武家に任せたのも、皇室や公家自身が殺戮を嫌うからである。

蝦夷征伐に選ばれた坂の上田村麻呂は、奈良の坂の上に住む帰化人だった。
大和人は殺戮や出血を大変嫌うのである。

その知識を久坂玄瑞は持っていただろう。
だから敢えて公家それも最高級クラスの摂家の鷹司の邸内で自らの腹を割いて穢れさせたのであろう。

それは5摂家に対するそれ以外の公家階級に属するものたちからの宣戦布告のようにも見える。

その筆頭が三条実美である。

元治元年(1864)7月19日に久坂玄瑞は死んだ。
松下村塾の双璧の一人である高杉晋作は、久坂玄瑞の生死を非常に気に掛けていた。

その7月の下旬といえば、7月20日~30日の間である。
すでに久坂玄瑞はこの世にない。

晋作は自宅の座敷牢から亡き恩師松陰の兄杉梅太郎に手紙で京都にいる久坂玄瑞の安否を尋ねている。
執拗に何度もあきらめずに手紙を出している様子が伺える。

晋作は、久坂玄瑞の最後がよほど確実に想像できていたのであろう。
それだけにいても立ってもいられなかったのである。

松陰の兄、梅太郎の名は、天神信仰における菅原道真と大宰府の梅から由来して命名したものであろう。
同じく天神信仰に厚い高杉晋作も、変名に「谷 梅之助」を用いている。

『杉梅太郎宛書簡

元治元年(1864)7月下旬
杉梅太郎は吉田松陰の兄。
元治元年3月29日に、脱藩の罪で萩の野山獄に投獄された晋作も、この頃には自宅の座敷牢に移されていた。

梅太郎の書状は「禁門の変」以前の政情について書かれたものだが、晋作が返書を認めている時点では「禁門の変」の風聞がそろそろ萩へも伝わってきていた。

晋作は久坂義助の安否が気になってならないが、詳しい情報を得ることができない。
毎夜のように義助の夢を見たと告げるあたりに「松下村塾の双璧」と並び称された2人の絆が窺える。

七月十三日之尊翰相届奉拝誦候、如仰忽時勢変動承候得ハ、先日京城一戦有之候之由、実情実説承知不得仕候、幽室黙座、乍走視飛、夢寐独上、不聞罷居候

7月13日のお手紙を拝読致しました。
仰せのごとく、たちまちにして時勢が変動し、先日は京都で一戦あったとのことですが、実情実説はわからないままでいます。

幽室に黙然と座っていながらも、心は京へ飛び、まどろんで1人起き、何1つ把握できないでいます。

世情の風説ニハ一秋湖兄・宍翁など忠死と申事如何事ニ候哉、兎角偽説多き世中故、疑惑仕候、此節ハ毎夜秋湖兄ヲ夢ニ見候、旁以辺ニ懸念仕候、何卒実情御承知之処、早々御報知被下候様偏ニ奉願上候

風説によると、秋湖兄(久坂義助)、宍翁(宍戸九郎兵衛)などが忠死したとのことですが一体どういうことなのでしょう?

とかく誤報が多い世の中ですから到底信じられないでいます。
最近は毎晩、秋湖兄を夢に見ます。
だから僕は心配でなりません。

どうか実情についてご存知のことを一刻も早くお知らせ頂けますよう、心からお願い申上げます。

素ヨリ今日之時勢、戦争いつ有之事ニ候共其始末分明ニ有之度奉存候、戦争の始ハ何等之処より起り、終ハ何等之処ニて引取ニ相成シと申始末承度御座候

もとより今日のようなご時勢ですから、戦(いくさ)がいつ起こるにせよ、その顛末を明らかにしておきたいのです。
つまり、戦がいかにして起こり、その終末はどのようなものであったかを、お伺いしたいと思います。

戦の勝敗鄙事所謂時の運ニて楠公ト雖トモ敗軍被致事と御座候、敗軍なれハ孔明の弾琴、勝なれハ乗愉快、破大事ぬ様仕度事ニ存候、孔子能言不能行、豈迪困奴所能知也、不懼士気、不侮小敵、小事可慎大事不可驚、古今一理、士道一貫申添候事ニ御座候、

勝敗は時の運と申しますから、たとえ楠公(楠木正成)であっても、負ける時は負けるものです。
敗軍となれば、敵の追討軍を前にして城を開け放し、悠然と琴を弾いた孔明の策に習い、勝ち戦であれば調子にのって大事を逸することのないようにしたいものです。

孔子が、弁舌がたくみで行動力に乏しい者は道を誤るとした所はよく知られています。
大軍の士気を恐れず、寡軍を侮(あなど)らず、小事を慎しみ大事に驚かない。
これは古今に共通する1つの理(ことわり)であり、武士道に一貫して申し添えられることです。

回先生遺書落手候、毎事御面倒之儀御頼仕奉恐入候、先ハ御尊大人御来杖被下候処、其節有故御相対御断申上候、公意之趣被御仰越候様奉頼候、御手翰の御様子にてハ余程御迫切、御心中御尤之事ニ御座候得共、春風花鳥不可捨候、父子恩情不可忘、可死則死、可生則生、之大丈夫気象釈然法談いつまて被下候。不堪緩急、同一筆飛走如此  西海一狂生東行 拝白

回先生(吉田松陰)の遺書をお受け取りしました。
いつも面倒なことをお願いして誠に申し訳ございません。
先日はわざわざおはこび下さったにも関わらず、わけあって面会をお断り申上げましたが、公意の趣につきましては仰せの通り承りました。

お手紙の様子では、事態はかなり切迫しているようで、ご心中のお苦しみはもっともですが、春風花鳥をかえりみないというのはいけません。

父子の恩情を忘れず、死すべき時は死に、生きるべき時は生きる。

もっともこのようなことを申上げるのは、えらそぶって釈迦に説法をするようなものではありますが。
差し迫った状況に堪えがたく、急ぎ筆を走らせました。 西海一狂生東行 拝白

ニ白、残暑難去、朝夕冷気、是病の所由来御用心専要ニ奉存候、何卒時勢御存知早々奉待候

ニ白、残暑がなかなか去らないのに、朝夕の冷え込みが厳しく、体調を崩しやすくなっております。
くれぐれもご用心下さい。
また、今の時勢についてご存知のことを一刻も早くお知らせ頂けることを、心からお待ち申し上げております。』
(「杉梅太郎宛書簡」より)
http://ponpoko.hiho.jp/bun/1864-7.htm

晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。

晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。

晋作は執拗に「戦」の始まりと終わりを気にしてたずねている。
歴史を作るということなのだろうか。

この後の下関功山寺での奇兵隊決起は、確かに歴史を作ったといえる。
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