萩滞在9日間の龍馬~長州(82) [萩の吉田松陰]

SH3B0324.jpgSH3B0324平安古(ひやこ)町信号
SH3B0326.jpgSH3B0326屋根の高さの倍はあるシュロ
SH3B0327.jpgSH3B0327豪邸の庭にシュロ

久坂玄瑞の出生地から城の方へ引き返すと、すぐに平安古(ひやこ)町信号に当たる。

国道を再び渡って、城へ向かう路地を歩く。

先ほどの久坂玄瑞の出生地跡に『坂本龍馬と久坂玄瑞』という説明板があった。

『坂本龍馬と久坂玄瑞

文久2年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤皇党首領武智瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるために萩を訪れた。

龍馬は萩に9日間滞在する。
その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。
そして薩長同盟、大政奉還など、歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。
一体、萩で何があったというのか。

幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立も危ぶまれていた。

久坂玄瑞は長州藩を訪れた竜馬に、師・吉田松陰の草莽崛起論を説く。

「ついに諸侯(大名)恃(たの)むに足らず。
公卿恃むに足らず。
在野の草莽糾合、義挙の外はとても策これ無し。

失敬ながら尊藩(土佐)も幣藩(長州)滅亡して大義なれば苦しからず。」

日本を変革するのは草の根に隠れている自分たちで、そのためなら藩は滅んでしまっても構わぬという凄まじい決意だ。

そして龍馬はこの直後、土佐を脱藩してしまった。

萩は今も、人々の魂を奮い立たせる何かがある。 萩 市』

萩市の観光売り込みの意気込みはわかるが、なぜ龍馬が意識の転換を行ったのか、それが大事なことであろう。

今なお萩を訪れて人々の魂が奮い立つとはとうてい思えない。

当時は大内義隆の遺児の末裔と家臣団が、萩毛利藩士となって紛れ込んでいた。
彼らは毛利などどうでもよく、大内家再興と、おそらく居残った公家の末裔は南朝方再興などを夢見て貧しさに耐えていたのであろう。

そこに徳川幕府から袖にされていた西本願寺派が討幕のチャンス到来と動いた。
月性は松陰を草莽崛起の起爆剤としてフル活用しているし、自らの塾では世良修蔵や赤根武人らを育てている。
久坂玄瑞を発見し松陰の門下生にさせたのも月性の指導による。

月性が野山獄にいる松陰に面会に生かせた聾唖の僧宇都宮黙霖は、革命成功の明治6年、湊川神社権宮司・男山八幡宮の禰宜(ねぎ)補任せられている。

湊川神社は南朝方武将楠正成を神に持ち上げ祭る南朝方象徴の祠である。

そういう歴史転覆の渦の真ん中に松陰がいて、そばに晋作と久坂玄瑞がいた。
龍馬はその渦のど真ん中に飛び込んできた。

渦のど真ん中にきちんと飛び込んできた龍馬の嗅覚というか、商才は人並み外れて優秀である。
情報の収集と分析能力の高い人物だったのであろう。

おそらく、長州に激流を興す渦があるということは、江戸での剣術修行中の数年の間に見聞して知っていたのであろう。

いよいよ郷士たちが決起する時期到来というサインが、公家か長州藩士から龍馬へ発せられたのである。

おそらくここ久坂玄瑞の自宅座敷で膝を突き合わせながら龍馬は「それ」を聞いたはずだ。

「それ」とは、おそらく京都の鷹司卿から発せられたものだったのであろう。


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