皇運挽回~長州(80) [萩の吉田松陰]

SH3B0312.jpgSH3B0312国道に出てきた
SH3B0315.jpgSH3B0315柴田家門
SH3B0313.jpgSH3B0313敷地内は現在も居住中
SH3B0316.jpgSH3B0316猫の死体片付け
SH3B0318.jpgSH3B0318久坂玄瑞出生地

村田清風別宅を出てしばらく南へ歩くと、公道(国道、県道?)を横切る。
渡った先に「柴田家門(平安古町)」(しばたかもん ひやこまち)と案内板が立っていて、門の中は普通の現代風住居があり人が住んでいる。

つまり、この案内板は住居を示したのではなく、通用門がここに昔あったことを説明しているのだろう。そう思って読むとそうではなかった。

『柴田家門(平安古町)

萩藩士柴田英祐の長男として文久2年(1862)出生。
近所に住む田中義一とは竹馬の友。
少年時代から学問を好み、巴城学舎に学び東京法科大学を卒業。

内閣書記官、法制局参事官・行政裁判所評定官等を歴任し、第二次山県有朋内閣の内務省地方局長、第一次、第二次桂太郎内閣の書記官長となり、第三次桂内閣に文部大臣として入閣した。

その間貴族院議員に勅選された。
大正八年(1919)没 享年58歳 萩 市』(抜粋終わり)

他の都道府県であれば、文部大臣まで勤めた偉人だということで、それなりの尊敬を得るだろうが、長州藩では多くの総理大臣を出しているから、文部大臣止まりかと思われかねない。

経歴はそれほど面白くない。

吉田松陰とその弟子たちが命に代えて実現した政治軍事革命の恩恵を、その後の長州人脈を通じて受け得た幸福な人々の中の一人である。

変革期では生まれる時代が10~20年ほどずれていると、生き死にの差はこれほどまでに大きく広がるのだろう。

柴田家門の数軒先が久坂玄瑞の生まれた家であるが、その前あたりで猫の死体片付けをしている人がいた。

奥様が可愛そうにという悲しい表情をしてご主人がスコップで車に敷かれたらしい猫の遺骸を掬(すく)って畑の土の方へと運んでいた。

私はその死骸清掃現場に偶然立ち会う羽目になってしまった。

奥さんは私が猫の死骸があった場所あたりに立ち止まって周囲を見渡していたので、私に向かって会釈をしてくれた。

「ほんにかわいそうなことをしましたねえ」

私は無言で頭を下げて会釈に返礼をしただけで、久坂の家を探し続けた。

家はなくて、久坂の家があった場所だと示す案内板があった。

思った以上に狭い敷地である。
猫の額ほどの土地に貧しい家屋が建っていたことが想像できる。

『久坂玄瑞 平安古町

幕末の志士。
この地に出生。
明倫館に入り、のち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。

長井雅楽(うた)の航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請(そうじょう)に奔走、英国公使館の焼打に下関の外国船砲撃に参加した。

元治元年(1864)蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刃した。享年二十五. 萩 市』(抜粋終わり)

久坂玄瑞は、長州で一番過激な攘夷思想の実行者だったと思っていたが、戦死せずに最後は京都の公家屋敷の中で自刃している。

なぜ戦場で死ななかったのだろうか。

獄中の松陰は晋作へこう伝えていた。
そのことは久坂玄瑞も知っていたはずだ。

『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。』

久坂玄瑞は、蛤御門の前で薩摩兵士に斬られて死んでも不朽の見込みは得られないと考えたのだろう。

鷹司邸侵入は、果たして大業の見込みがあってのことだろうか。

『摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のこと。
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。
近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5家がある。
摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。
この5家の中から藤氏長者も選出された。
中略。

五摂家の成立
藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。

平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立。

さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、その弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。

この3流のうち、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降は摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。
その結果摂関家として近衛・九条の両流が残った。

のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。
さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立した。

建長4年(1252年)に鷹司兼平が関白に就任、文永10年(1273年)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる。以下略』
(摂家(Wikipedia)より)

やはり久坂玄瑞は生きて大業の見込みを得るべく、鷹司邸へと入ったのである。
つまり、五摂家のうち、鷹司家は長州藩側にあったということだ、

久坂玄瑞が西郷隆盛と雌雄を決しているそのとき、晋作はどうしていたか。
晋作は、生きて大業の見込みを得るべくというか、実はまだ長州の野山獄内にいた。

それも来島又兵衛の過激論を諌めようとする動きの中で脱藩の罪を着ることになってしまった。

久坂玄瑞も晋作もともに久島又兵衛に振り回されている状況にある。
松陰を亡くした長州藩は、糸の切れた凧のように激しくクルクルと回り、その渦の中で久坂玄瑞は死んでいる。

藩の重心位置を決める兵学指南教授松陰の死は、それほど重かったのであろう。
同時に日本国の重心さえクルクルと回ってしまい、明治、大正、昭和という時代を迎えることになる。

『蛤御門を攻めた来島又兵衛の戦いぶりは見事なものであり、会津藩を破り去る寸前までいったが、薩摩藩の援軍が加わると、劣勢となり、来島が狙撃され長州軍は総崩れとなった。

この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛だった。

開戦後ほどなく玄瑞は勝敗が決したことを知ったが、それでも玄瑞の隊は堺町御門から乱入し越前兵を撃退し、薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内に入った。

玄瑞は一縷の望みを鷹司卿に託そうとしたのであった。
鷹司邸に入るとすぐ玄瑞は卿に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと哀願したが、卿は玄瑞を振り切り邸から出て行ってしまった。

屋敷は敵兵に火を放たれ、すでに火の海となっており、玄瑞は全員に退却を命じた。

入江九一らに「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託した。

最後に残った玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25歳。(禁門の変または蛤御門の変)(久坂玄瑞(Wikipedia)より)

禁門の変の2ヶ月前、大阪長州藩邸で書かれた寄せ書きに久坂玄瑞の詩が書かれていた。
それがわかったのは平成10年のことだったそうだ。

山口市湯田温泉にある歴史美術館でその寄せ書きを見た人の詳しい報告記事があったので、抜粋する。

『元治元年5月に書かれた寄せ書き。
(おおすみ歴史美術館蔵)

独向春風 嘆逝川 山花如雪 柳如綿
挽回皇運在何日 頑悪蒙誅 既五年
允 武

独り春風に向かい逝く川を嘆く
山花は雪の如く柳は綿(わた)の如し
皇運挽回(こううんばんかい)あるはいずれの日か
頑悪(がんあく)誅(ちゅう)を蒙(こうむ)りて既に五年
允 武

※允武は久坂玄瑞の号であることが平成10年に判明

平成13年11月25日(日)に山口市湯田温泉の一角にある「おおすみ歴史美術館」を訪れた。

1996年にオープンしたこの美術館は大隅企業グループの社主である大隅健一氏のコレクションを公開したもので、久坂玄瑞、桂小五郎、赤根武人ら尊王の志士の書画などを常設展示している。

この美術館の入口を入ってすぐのところに数人の寄せ書きを表装した一幅の掛け軸が掛かっている。

寄せ書き中央やや下寄りに「赤心之干城 元治甲子五月 来島政久」の文字が見え、この寄せ書きが元治元年の5月、すなわち禁門の変(元治元年・1964年・7月19日)の2カ月前に書かれたことがわかる。

この寄せ書きに参加した10名のうち名前がわかっているのは来島又兵衛(長州藩士・遊撃隊長・禁門の変に参加し蛤御門付近で討死・享年48才)、寺島忠三郎(長州藩士・禁門の変に参加し鷹司廷で自刃・享年22才)、広田精一(宇都宮藩浪人・禁門の変に参加し天王山で自刃・享年25才)、宍戸左馬之介(長州藩大阪藩邸留守居役・禁門の変を阻止するために奔走するも禁門の変の後に俗論党に捕らえられて斬首・享年61歳)、伊勢華(長州藩大阪藩邸蔵元役)、宇喜多八郎(京都の勤皇画家)、そして久坂玄瑞(長州藩士・禁門の変に参加し鷹司廷で自刃・享年25才)の7名。

玄瑞の署名は「允武」となっており、展示した当初は誰のことかわからなかったらしいが、元治元年4月に久坂玄瑞が桂小五郎に宛てた書状に「允武」と署名していたことで「允武=玄瑞」と判明した。

書画を1つ1つながめていくと、それを書いた人の性格や息づかいまでが伝わってくるようで感慨深い。

紙面の上方に伸びやかな文字で和歌を認めた寺島忠三郎、宍戸左馬介の優美な草書と伊勢華の繊細な書画が紙面中央を占めているのはこの2人が大阪藩邸の重役だからであろうか。来島又兵衛の武骨な文字もいかにも武断派の彼らしい。

久坂玄瑞の書は紙面左端にやや窮屈そうにおさまっている。
ひょっとすると彼が最後に文字を書き入れたのかも知れない。
墨をたっぷりつけて書き上げた書は最後の字がやや大きくて力強さを感じさせる。
1つ1つの文字が整っており全体的に男らしい印象がある。

内容がまた良い。
前半はセンチメンタルな美しい描写が続き、意訳すると以下のようになる。

僕は独り春風に向かい
川の水が虚しく流れていくのを嘆かずにはいられない
目に映る山桜は雪のように白く
柳は綿のように青い

彼が何を嘆いているのは後半に記されている。
ここで久坂玄瑞は詩人から勤皇の志士へと変貌する。

徳川幕府が倒れ朝廷が再び力を盛り返すのは一体いつの日か
頑悪が天誅をこうむってから既に5年もたつと言うのに…

「頑悪が天誅をこうむった」とあるのは井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変(万延元年・1860年・3月3日)」を指す。
さすがは勤皇派の若きリーダーだけに、同じ嘆くにしてもスケールが大きい。

おおすみ歴史美術館の副館長・江戸康尹氏によれば、寄せ書きは5月4日に大阪藩邸で書かれた可能性が高い。
けれども文面から察するに、玄瑞がこの漢詩を詠んだのは元治元年の3月頃だと思われる。

彼はその短い生涯の中でおびただしい数の漢詩を詠んでおり、出陣前の寄せ書きにふさわしい、もっと勇ましい漢詩だってあったはずなのに、敢えてこの詩を選んだ。

この書を認める久坂玄瑞が自らの死を予期していたことは想像に難くない。

この時期の彼は京都進発には反対だった。
けれども来島又兵衛ら過激派の勢いに流されるようにして、結局、京都進発の軍勢に加わり、最後は寺島忠三郎と共に鷹司邸で自刃する。』
(「最後の寄せ書き @nifty」より)
http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/yomoyama/yosegaki.htm

長州藩は来島又兵衛の戦死により総崩れとなっている。
来島又兵衛に煽られて渋々戦に参加した久坂玄瑞の、なんとも後味の悪い死に方である。

『来島又兵衛 Kijima Matabei (1816-1864) 名は政久、幼名は光次郎、森鬼太郎の偽名がある。
禄高59石余、 ... 吉田松陰は「 来島又兵衛 は胆力人に過ぎ、又精算密思あり」と許している(さすが松蔭先生よく見てらっしゃる)。

私生活でも江戸在番中は、支出を細々と記録し、故郷の妻に送っているほどだ。以下略』

(「来島又兵衛 プロフィール あのひと検索 SPYSEE」より)
http://spysee.jp/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B/4199/

幼名を「光次郎」と呼ばれた来島又兵衛の最後はこうだった。

『元治元年(1864年)の禁門の変にさいして、積極的、激烈に出兵を主張。
風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら兵を率いて上洛し激戦を繰り広げた。
この禁裏内の戦闘で当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれ、助からないと悟った又兵衛は甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられ死亡した。

現在、山口県美祢市にある美祢市立厚保小学校には彼の銅像が建てられている。
近くに来島家の生家があったためである。

尼子流来島氏
来島家は伝来の系図によると宇多天皇の末裔で、毛利氏と敵対した出雲国の大名・尼子経久の子・森親久の子孫とされる。
森親久は出雲国来島城を拠点として栄えたが、兄の塩冶興久の謀反やその討伐等で尼子家中が混乱した際に尼子氏から離反し、毛利氏に仕えたという。
森の名字は毛利と通じるため、かつての所領であった来島を名字にしたとされる。』(来島又兵衛(Wikipedia)より)

出雲国の大名・尼子経久の子・森親久の子孫として、戦で武功をあげたいという力みもあったのであろう。

尼子氏の末裔来島又兵衛の分厚い胸を撃ち抜いた川路利良は、明治維新後に警視庁大警視(のちの警視総監)になっている。
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EllGrergo

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by EllGrergo (2019-07-09 20:55) 

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