別宅にはなかったシュロの木~長州(79) [萩の吉田松陰]

SH3B0307.jpgSH3B0307村田清風翁景仰之碑と樹木
SH3B0308.jpgSH3B0308欅
SH3B0309.jpgSH3B0309敷地奥から門を見る
SH3B0311.jpgSH3B0311近所にシュロのある家

村田清風の本宅は秘匿されてはいなかった。
隣町で大事に保存されていた。

『村田清風(1783~1855)は、天保の改革で萩藩の財政の立て直しや軍備の増強を行い、後の萩藩の明治維新での活躍の基礎を築いた。別宅とは、萩市の隣の三隅町にある本宅三隅山荘(国指定史跡)に対する呼び方である。

清風は文政3年(1820)、38歳のときにこの屋敷を買い、萩藩の政治にたずさわった25年間住んでいた。しかし現在では、清風が暮らしていた屋敷の母屋はなくなってしまい、その300坪(991.24平米)の敷地と長屋門が残っているだけである。

長屋門は、木造桟瓦葺き平屋建て、屋根は寄棟造りで、道に面した長さが14.84m、奥行き4,015mである。

中略。

村田清風別宅敷地内、村田清風歌碑

天保9年(1838)、村田清風は藩政の実権を握り、藩主毛利敬親のもと天保の改革に取り組みました。
敬親は「そうせい(はいはい、そうしなさいという意味)侯」とまで呼ばれた人で、清風は遠慮すること無く積極的に改革に取り組んで行きます。

特産物である蝋(ろう)の専売制を廃止して商人による自由な取引を許す一方、商人からは税金を取り立てました。
また交通の要所である下関では豪商の白石正一郎らを登用し、越荷方を設置します。
越荷方は金貸しで利息を取ったり、倉庫保管料を取ったり、大坂の相場をみながら高い利益が見込めるときに荷を送るなどして莫大な利益を得ます。

このような清風の財政改革により、長州藩の財政は見事に再建されました。
村田清風の藩政改革がなければ、幕末における長州藩のめざましい活躍も違ったものになっていたかも知れません。』
(「長州路 萩」より)
http://www.webkohbo.com/info3/hagi/hagi2.html

清風の風通しのよい商業政策は、まるで織田信長の楽市楽座を見ているようである。
信長はおそらくポルトガルからやってきたバテレン宣教師から仕入れた経済学知識を活用したものだろう。

清風もまたそれかも知れない。
なぜならば、織田信長以上に熱心にこの国の中でキリスト教布教を許した大名は、山口の大内義隆以外にはないからだ。
大名は没落したとは言え、山口でのキリシタン信仰はそうやすやすと消滅はしない。
キリシタン宣教師から得る科学知識や経済学ノウハウは当時の日本では付加価値がとても高かったはずである。

信仰は隠れて行うとしても、知識や学問を隠す必要はなかった。
長州藩は博識あるものを登用する革新的気風にあふれていたが、それは村田清風が作り上げた藩政改革によるものだった。

村田清風の別宅にはシュロの木はなかったが、本宅三隅山荘にあるかどうか、興味深いところである。

それは村田清風旧宅(三隅山荘)国指定史跡といい、山口県長門市三隅にある。
写真をこのサイトで見ることができた。
http://blogs.yahoo.co.jp/heizou0275/44791246.html

湯殿(風呂場)の右手後ろに相当年季の入った太く背の高いシュロの木が見えた。
葉は風呂の屋根を越えてその上に広がっている。

やはり、清風はシュロの枝を持って神を信仰する習慣を持つ家に住んでいた。
村田家に跡継ぎがいないことから、父光賢が養子に入り、その子が清風である。
清風の父親は「光」の文字を名に持つ。

これで、杉百合之助(松陰の生家)と清風の生家に、ともにシュロの木があることがわかった。

あとは、シュロの木が何を意味するかということである。

旧約聖書やユダヤ教では、その枝で神を祝うとされ、カトリックではイエス復活を祝う。
日本の神社や禅寺境内にもよく見受けられる。

松陰の兵学の師匠にあたる山鹿素行の墓は曹洞宗禅寺にあるが、墓のそばには背の高いシュロの木が3本あった。
そばには乃木希典遺愛の梅「春日」が移植されていた。

その乃木希典も、松下村塾で玉木文之進が教育した長州男児だった。
乃木夫婦は明治天皇の崩御に伴い殉死(自殺)しているから、自殺を禁じているカトリックではないと言えよう。

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