月指す山~長州(105) [萩の吉田松陰]

SH3B0431.jpgSH3B0432野山獄の前の道路
SH3B0431.jpgSH3B0431静かな道路に面する
SH3B0433.jpgSH3B0433再び指月山へ

野山獄は革命家松陰がさなぎから蝶へと脱皮した場所である。
それも自身の意思に基づいて「討幕論」へと脱皮した。

そう思っていたが、私は最近討幕へ向かわざるを得ない方向へ松陰青年は巧みに誘導されていったのだろうと思っている。

確かに彼の書籍などを見れば、博学であり、しっかりした思想を持っているように見える。
それらは儒教の学問の中から見聞できるものが多い。

優秀であることは認めるが、他者の差配を受けていなかったかどうかは疑問である。

彼は行く先々で面会した人物の影響を受けている。
貪欲に吸収して成長していったともいえるが、自分自身で成長するには松本村では限界があったのだろう。

中国の偉人の話を学ぶほどに、日本国にわが師匠はどこにいるかとむさぼり歩いていたような気がする。

3ヶ月間も江戸にいて、ちゃんとして師匠が見つからないと嘆いている松陰がいる。

彼の求めるものを与えられる論理を抱えて松陰へ接近すれば、それは師となりえるはずだ。

彼が何を求めていたか、分析し、それを与えにいったものがいる。

この野山獄を訪ねてきた聾唖僧である。

最初の面会を意味不明な理由で拒絶した松陰は、そこに何か謀略の存在を薄々気づいていたのではないだろうか。

しかし、敢えて松陰はそれに乗った。
虎児を得るべく虎穴に入ったのであろう。

「草莽崛起」の言葉を始めて松陰が使った相手である北山安世は明治まで生き延びているが、それだけに松陰初め勤皇の志士たちの命が悪戯(いたずら)に弄(もてあそ)ばれただけであったことに気づいたのである。

国体は革命によってなんら変わることはなかった。

それに気づいた北山は、そして発狂して実母を殺して病死している。

これで松陰の足跡を訪ねる旅は終わった。
最後に松陰神社でお参りして帰路につこう。

ただ、すでに夕方である。
指月山の見える海水浴場の駐車場へと車を移動した。

シャワーを浴びて、車のトランクを上げて椅子を倒して拵えたベッドルームに横たわる。缶ビールとサラダのおつまみで、一人乾杯する。

私の車はエアーウェイブといい、天井はガラス張りである。
夜の月が静かに闇を照らしているのがガラス天井を通して見える。

指月山。
月は毎夜そこを指しているのだろう。
大内義隆の遺児がいたことを忘れるなと。

行動すべきか否か~長州(104) [萩の吉田松陰]

SH3B0426.jpgSH3B0426「十一烈士絶命之處」
SH3B0425.jpgSH3B0425 慰霊碑
SH3B0427.jpgSH3B0427金子が獄死した岩倉獄
SH3B0429.jpgSH3B0429「合霊碑」(吉田松陰筆蹟文字の組み合わせ)

野山獄の右隅奥に「十一烈士絶命之處」と書いた石柱がある。

「萩 中心部 Ⅱ」というサイトに詳しい説明が載っていた。
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/hagi2.htm

元治元年(1864)、正義派の十一名が禁門の変の責任を責められて俗論派によって処刑された場所という意味である。

松陰はここで死んではいない。
囚人の教育や獄吏の教育すらこの獄舎内でやっている。

気持ちは塞いでいたはずだが、執筆活動も盛んであったから野山獄の松陰の行動は生き生きとしていたように見える。

牢屋内で囚人が囚人たちを教育するという行為も、松陰ならではの行動である。

牢屋とはどういうところかなどという定義や慣習、法律などは関係ない。

ここの囚人に学問が必要かどうか、必要だと思ったから教える。
それは囚人であれ獄吏であれ、必要なものにはすぐさま教育を与えるというものだ。

「腹が減ったらトイレ中でも飯を食う」というに近い。

「行動すべきかどうか」
その判断がすべてを決するようだ。

前例があるかなどうかなど、松陰には日本独特の深謀遠慮は関係ないのである。

しかし、儒者だけあって儒教で教える「良い行い」は良いと考えている。
親孝行や忠君愛国の精神などである。

野山獄と道路向かいに岩倉獄がある。

『正保二年(1645)9月17日の夜、大組二百石の藩士岩倉孫兵衛は、酒に酔って道を隔てた西向かいの野山六右衛門(同じく大組二百石)の家に斬り込み家族を殺傷した。

この事件のために岩倉は死罪となり、両家とも取り潰された。両家の屋敷も藩に取り上げられ獄として使用されることになった。』
(「萩 中心部 Ⅱ」より)
http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/hagi2.htm

岩倉獄跡に「合霊碑」と刻んだ石碑がある。
これは吉田松陰筆蹟の文字を組み合わせて作ったものだという。

松陰の願いもむなしく、翌安政2年(1855)に金子はここで病死した。享年25歳。
金子は萩で松陰にあったのではなく、江戸へ出て長州藩邸で働いているときに松陰を知り従うようになっている。

誰が松陰に金子を合わせたのか、偶然なのか、必然なのか。

キリシタンの紫福村で生まれた染物屋のせがれが、足軽の家を継ぎ、江戸で松陰と会うことによって歴史に名を残している。

イタリアの斑糲岩(はんれいがん)に刻まれた詩を思い出している。

『萩に来て
 ふと おもへらく
      いまの世を
   救はむと起つ
      松陰は誰』

(「吉井勇歌碑 椎原(吉田松陰誕生地)」より)   
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/takuhon/html/021.htm

これは、松陰生誕地の向かいにある高杉晋作の草庵の前にあった石碑に書かれていた。

「松陰は誰」

思わせぶりに「言い止め」をしている吉井の心を想像するに、私は「神の使い」や「預言者」を松陰に連想した。
あるいは、「聖者」か「使徒」を指すのかも知れない。

最後まで言わずに、途中でプツンと切った文章の姿が私はとても気になっていた。

長崎にも吉井勇の石碑がある。

『江戸時代の初めの寛永のころ、国外追放をうけた長崎の混血児たちは、居住先の東南アジア方面から故郷へ手紙を書き、年に一度の輸送船に託したといふ。

じやがたら文といふ。

 ○おもひやる やまとの道の遥けきも 夢にま近く こえぬ夜ぞなき  お春

 ○長崎の 鴬は鳴く いまもなほ、じやがたら文の お春あはれと   吉井 勇』
(「じゃがたら文」より)
http://nire.main.jp/rouman/fudoki/53naga05.htm

これは、長崎からジャカルタに流された混血児「じやがたらお春」を悲しむ歌である。
お春はキリシタンだった。

『大雄宝殿前の庭に、禁教時代の悲話が秘められた「じゃがたらお春」の石碑があります。

寛永16年(1639年)、キリシタンの禁教政策の一環として多くの混血児と、イタリア人航海士と日本人マリアとの間に生まれたお春も15歳で母、姉とともにジャカルタ(じゃがたら)に追放されました。

以来、長崎の幼なじみの「おたつ」に望郷の思いを手紙に綴り、長崎へ送ったといわれています。

この石碑の裏には、そのようなお春を哀れんだ歌人・吉井勇の歌が刻まれています。』
(「じゃがたらお春の石碑」より)
http://www.mapple.net/photos/H0000137967.htm

吉井はキリシタンの足跡を追う詩人でもあった。
高杉晋作の草庵の前にもその詩碑があった。

詩のテーマは「松陰は誰か?」を問うものである。

萩に来て ふと おもへらく
いまの世を 救はむと起つ
松陰は誰 

吉井勇

私の萩の旅もこれで終わりに近づいた。
「松陰は誰」について、少しは見えてきたような気がした。
しかし永遠に謎であろう。

そこは秘匿しているはずである。
秘匿すればこそ、何度もその手を使えるのである。

仕掛けがわかってしまえば、もう人々はだまされなくなるからだ。

松陰自身は「そのこと」をわかっていなかっただろうと思う。
松陰は純粋すぎる人だった。


金子を野山獄へ移せ~長州(103) [萩の吉田松陰]

SH3B0419.jpgSH3B0419この先の浜が女台場
SH3B0420.jpgSH3B0420シュロの木の道案内
SH3B0421.jpgSH3B0418「野山獄跡入口」バス停
SH3B0423.jpgSH3B0423「野山獄跡」

立派な屋敷の角を曲がって浜へ行けば女台場へいける。
シュロの木に見守られながら、私は野山獄へと歩いていく。

20分ほど萩市内に向かって東へ歩いていった。
夏の昼下がりの太陽は体を痛めつける。

途中で堪らずスーパーに駆け込んで、アイスクリームと冷たいジュースを買った。
スーパーから程なく「野山獄跡入口」バス停に着いた。

バス停のそばの屋敷を見ると、手書き文字で「北浦自然観察会 行事参加者募集」と書き、活字で大きく「永井要明 連絡所」という看板が玄関にかかっている。

これは生活のイメージがあり、しかも政治家の事務所のようである。
バス停の前が野山獄ではないようだ。

パンフレットを見ると、そこから横の路地に入ってすぐのところに獄がある。

比較的交通量の多い国道を南へ右折すると、すぐに静かな道路になり史跡を示す石碑が見えてきた。

道路を挟んで右手(西)に野山獄が、左手(東)に岩倉獄がある。
野山獄は身分の高い士分の者の獄舎(上牢)で、岩倉獄は庶民用獄舎(下牢)である。

松陰が「幽囚録」を書いたのは「野山獄」の中だった。
ここに聾唖僧「宇都宮黙霖」が青年松陰に面会にやってきた。
松陰は面会を断っている。

松陰の弟が聾唖であることを調査した上で、月性が松陰へ向けて放った思想的扇動者だったと思う。

松陰はお見せするほどの顔ではないと面会を断ったが、文通は獄中から続けた。
その間に、松陰は朝廷と幕府の行動調整から討幕へと、その思想を変化させていく。

松陰を尊敬の眼差しで見上げていたあの金子重之助は岩倉獄で病死した。
松陰は金子を野山獄へ移すように要請したが拒絶されている。

防寒と栄養において大きな待遇差があったのであろう。

金子は至福の村、紫福村(しぶきむら)の出身である。
隠れキリシタンの村として萩観光パンフに乗っていた。

キリシタンだったとすれば、金子の最後はおそらく幸福感に包まれて眠るようだっただろう。
神が自分の行動を見ていてくれて、やがて神のもとに召されることに幸福を感じる。
キリシタン殉教ものの本を読むと、そういうものの考え方になれるようである。

それに比べると松陰の生き様は実に実利的、科学的である。

寒くて栄養の足りない岩倉獄では金子は死ぬ。だから野山獄へ移せと獄吏に命じている。

士分とはいえ、罪人の松陰の要求に官吏が応じるはずもない。
それでも実利を重んじるから松陰は獄舎の変更を要求した。

自分を岩倉獄へ移せとは言わない。
それでは金子も自分も死ぬからである。

また、金子と自分を交代させよとも言わない。
それでは自分が死ぬからである。

庶民を士分扱いせよと命じてしまうのである。
松陰の前には、法律も慣習もあったものではない。

それは「要求はどうせ通らないだろうから、はじめからあきらめて要求しない」という日本人共通の思考方式ではない。

まるで松陰に中国人を見ているような気がする。

松陰と金子が投獄されたのは安政元年(1854)10月である。
獄舎変更要求は、これから秋、冬を迎えるという時期の、松陰による金子救出戦略であったが実らなかった。

実ると期待して行動するのではない。
実ろうが実るまいが、そうすることで目的を達成しようとまずは「行動」するのである。

陽明学の危険性はこういう思考方式にあるのだろう。

法律に反しようが、こうすることが必要だとなれば、何も考えずに実行する。
革命実行にはもってこいの考え方である。
善悪判断の基準がぶれることが問題点ではある。

松陰ですら、判断基準は時期によってぶれにぶれている。

当初は朝廷の権威を救うために松陰は幕府を改心させようと考えていた。
武力で威嚇してでも幕府に攘夷を実行させようとしていたが、

宇都宮黙霖と書簡交換を始めてからは、討幕に考え方を転換している。
歴史の上では勅許を得ずに幕府が勝手に通商条約を調印した行為が松陰の思想の変化を起こしたとなっているが、聾唖の僧との交信にはそれ以外のやりとりがあったように思われる。

松陰が聾唖者に対して並々ならぬ愛情を持っていることを月性は知っていて宇都宮黙霖を派遣したのである。

松陰の末弟は聾唖者だった。

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