エミシの国の女神~長州(118) [萩の吉田松陰]

SH3B0477.jpgSH3B0477左手前が松門神社、右奥が松陰神社

松陰が始めて江戸留学を許可されたときのことである。
毛利の殿様の参勤交代に同行して江戸へ上ることになった。

松陰は踊る気持ちを抑え切れなかった。

司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」(P97~P98)より司馬氏の小説の中の描写を抜粋する。

『「熊旗(ゆうばん)東ヘユク」
と、松陰の好む表現でいえば、こうなる。

大毛利侯の旗が東へゆく。
藩主出府の行列のことである。

松陰はその行列より数時間分だけ先行する。
そういう役目の役人がいる。

行列の宿割をあらかじめしてゆく先発役の役人で、松陰はその役人に同行するという名目をもらっていたが、宿割の仕事はしなくていい。
中略。

泊りをかさねながら、九州遊歴のときと同様、見聞日記をつけてゆく。
江戸の遠さはどうであろう。

萩を出てから35日という日数を重ね、六郷川を渡ったのは4月9日である。
泉岳寺の門前で夜があけ、江戸桜田の藩邸についた時刻はこの朝8時であり、2時間ばかりして殿様の行列も御門の中に入った。

「熊藩(ゆうばん)、厳然トシテ邸ニイタル」
と松陰は書き、その行列の藩邸入りをもって彼の東遊日記しめくくりにしている。』
(司馬遼太郎著「世に棲む日々(1)」より引用)

司馬氏は「大毛利侯の旗」のことを熊藩(ゆうばん)と呼ぶと書いている。
あるいは大名家の旗の共通呼称なのだろうか。

山鹿流兵学者の松陰の誇らしい書き方からすれば、毛利氏独特の旗印を指しているように思われる。

毛利氏は神奈川県厚木市付近の「毛利庄」をその姓の出自とする。

『家系は鎌倉幕府の名臣大江広元の四男・大江季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが嫡流ではない。

名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市周辺)を本貫とする。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。』
(毛利氏(Wikipedia)より)

毛(利)と熊(旗)から連想する地名に「熊毛」がある。

光市のある工場での思い出である。
光市は、伊藤博文の生家の山裏に当たる。
最近は母子殺人事件の裁判ニュースで有名になった町である。

その工場の若い事務員の女性を私の先輩がからかっていた。

「熊毛郡熊毛町熊毛町立熊毛高校の卒業生だってね。○○ちゃん!」

うら若き乙女の出身高校名が熊の名で連なるため、そのことを冷やかして言ったのだった。

今ではそういう言動はセクハラ行為と認定される。

「熊の旗」が「毛利の旗」だとはどういう意味か。

萩城内にあった宮崎八幡宮の拝殿が、松陰神社の本殿前に移設されたという。
その宮崎八幡宮は総本社の宇佐八幡宮から勧請したものであり、岩清水や鎌倉鶴ヶ岡と同様分祀である。

しかし、宇佐八幡宮の本殿中央に祀ってある卑弥呼と思われる比売神(ひめがみ)は宮崎へ連れてこなかった。

その代わりにということで実在性の薄い天皇を真ん中に置いている。

筑紫に熊襲退治に行ったとき、「神懸りした神功皇后から住吉大神のお告げ」を受けた。
それは朝鮮半島の新羅を授(たす)けよとの神託だった。

しかし、そのお告げを信じなかった仲哀天皇は翌年急死したという。

どうやら熊襲退治に行って、熊襲の矢が当たって亡くなった人のようだ。

熊の矢は熊旗から飛んできたのか、熊旗を狙って飛んだものか。

つまり、熊旗は熊襲の側に立っていたのか、あるいは仲哀天皇のいる大和族側だったのだろうか。

それとも、仲哀天皇の仇討ちとして毛利の祖先が熊襲退治をしたという意味なのだろうか。

それとは反対に、毛利氏は7世紀前後に大和族に征服された熊襲の末裔なのか。

日記に熊旗のはためく様を書いている松陰は、「その理由」を良く知っているように見える。

『仲哀天皇架空説
仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられているが、その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物であり、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である。

また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。

つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。

さらに前述の通り、『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあり、仲哀天皇架空説を支持する意見は少なくない。
以下略。』(仲哀天皇(Wikipedia)より)

その不自然さに従えば、応神天皇は日本武尊の子孫ではなくなってしまう。

仲哀天皇は架空人物であっても、この際一向にかまわない。

問題は、八幡神を勧請する際に、なぜ卑弥呼と思われる比売神(ひめがみ)を大分・宇佐から宮崎へなぜ連れてこなかったのかということだ。

地元の人の意見を見よう。

『宮崎市内の地図を見ていますと、橘・小戸・阿波岐原といった地名が目につきます。
これらの地名は、『古事記』が記すところの伊邪那岐命の禊祓のシーン、つまり「竺紫[つくし]の日向の橘の小門[をど]の阿波岐原に到り坐[ま]して、禊ぎ祓ひたまひき」を典拠としていることは明らかです。

『日本書紀』は、同箇所を「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはきはら]」と記していて、小戸(小門)、橘、檍原(阿波岐原)は、イザナギの禊祓におけるキーワード的地名といってよいかとおもいます。

 これら三地名には、それぞれ所縁の神社がまつられています。
小戸(小門)については、その名も小戸神社、橘については、橘大神をまつる宮崎八幡宮、檍原(阿波岐原)については、阿波岐原町鎮座の延喜式内社・江田神社です。

これら三社の由緒等を先にみておきます。

宮崎市鶴島町に鎮座するのが小戸神社(祭神:伊奘諾大神)です(写真1・2)。
同社の縁起書「日向国之小戸神社由緒略記」には、「第十二代景行天皇の勅により創建と伝える」と記され、古くは「旧宮崎市街地全域を小戸と称し」たと書かれています。

また、「太古伊奘諾大神が禊祓をされた“祓の神事”由縁の地」、「古くより大淀川河口の沖合小戸の瀬は、小戸神社御鎮座の清浄地」だったが、「寛文二年の西海大地震」によって、「上別府の大渡の上」への移転を余儀なくされ、その後また変遷あるも、「昭和九年橘通り拡張により御由縁深き大淀川の辺りの現社地へ遷座し現在に至る」と、その変遷経緯を記しています。

小戸神社の最初の鎮座地は「大淀川河口の沖合小戸の瀬」だったようです。
ここは埋め立てがなされるも、現在は宮崎市小戸町という名で、由緒深い地名ということだからなのでしょう、その名(小戸)を町名として残しています。

「橘の小門」あるいは「小戸の橘」と記される「橘」ですが、宮崎市内を南北に走る幹線通りとして「橘通」の名がみられます。

また、小戸神社の戦前の鎮座地は「橘通二丁目」でした。
この橘ゆかりの「大神」をまつるのが宮崎八幡宮です(写真3・4)。

宮崎八幡宮の由緒記によれば、祭神は、次のように記されています。

  誉田別尊(応神天皇)・足仲彦尊(仲哀天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)
  伊邪那岐命・伊邪那美命
  橘大神

創建由緒については、「宮崎八幡宮は今より九百年前の永承年中(西暦一〇五〇)頃にこの地方の開拓にあたった海為隆が、昔しよりお祀りしていた橘大神と共に、宇佐八幡大神をこの地に勧請し、開拓にあたったと言われています」と書かれています。

橘大神の祭祀がすでにあったところへ「宇佐八幡大神」が勧請されたわけですが、ここに「宇佐八幡大神」の大元神(御許神)である比売大神の名がないという不思議を指摘できそうです(後述)。

また、「この地方」の地主神ともいえる「橘大神」の名がありますが、では、この「橘大神」とはどんな神様かという関心が湧いてくるのはわたしだけでないでしょう。

しかし、社務所からの応答は、古い神様であるものの詳細は不明とのことです。

 この謎の橘大神ですが、戦前の神社記録を集めた『宮崎県神社誌』をみますと、主祭神は現行表示の五柱神と同じですが、表示最後の「橘大神」の名はなく、その代わりというべきか、相殿の項に、次のように書かれています。

  相殿 荒御魂神 和御魂神直日ノ神

 この相殿神は、現行の表示にはみられませんので、これが現在「橘大神」と表示されている神の内実ということがわかります。

「和御魂神直日ノ神」と対偶関係をもつ「荒御魂神」とは、『古事記』の禊祓の伝でいえば「八十禍津日神・大禍津日神」、『日本書紀』の伝でいえば「八十枉津日神」となります。

この「禍(枉)津日神」とは、瀬織津姫神の貶称神名「八十禍津日神」と同体である「天照大御神荒御魂神」(内宮第一別宮・荒祭宮の神)のことで、この「天照大御神荒御魂神」から「天照大御神」を削除して、ただ「荒御魂神」と表示していたのが宮崎八幡宮の戦前表記でした。
橘大神には、少なくとも「荒御魂神」こと瀬織津姫神が秘められていることになります。

 ところで、『宮崎県神社誌』の表紙には、その題字について「宮崎県知事木下義介閣下御染筆」とあり、この県知事・木下義介の赴任時期は昭和六年(一九三一)から昭和八年(一九三三)ですから、この時期の「神社誌」ということがわかります。

もう少し添えておくなら、昭和天皇の「御大典」(天皇即位の大典)があった昭和三年(一九二八)に向けて神社祭神・由緒の再洗い出し(祭神の再変更を含む)が全国的になされていましたから、その結果をまとめたのが、この『宮崎県神社誌』とおもわれます(ちなみに、遠野の早池峰神社の由緒書が、明治維新時に継ぐ二度目の没収をなされたのもこのときです…『エミシの国の女神』)。

 さて、三社め──。宮崎市阿波岐原町産母[やぼ]に鎮座するのが江田神社です(写真5)。「江田神社由緒記」によれば、同社祭神は「伊邪那岐尊・伊邪那美尊」とのことですが、「但し伊邪那美尊は安徳天皇寿永二年正月配祀」と注記されていて、主祭神は伊邪那岐尊ということになります。同社の由緒を読んでみます(適宜句読点を補足して引用)。

中略。

 最後に、宮崎八幡宮が「宇佐八幡大神」を勧請したとき、当地に比売大神のみを勧請しなかった理由についてですが、ここに興味深い記録があります。
生野常喜『日向の古代史』(私家版)は、東大阪市の枚岡神社および奈良市の春日大社の祭神の一神「比売神」についての疑問を抱き、次のような聞き取りを収録しています。

比売神は宇佐神宮を始め県内(宮崎県内…引用者)でも数社見られるので、宮崎県神社庁参事の黒岩竜彦氏に照会したところ、早速奈良の春日神社まで問い合せて下さり、比売神は、宗像神社の祭神で天児屋根命の妻となられた方だとご返事をいただいた。

 春日神社(春日大社)の認識では、同社の「比売神」は、「宗像神社の祭神」と同体とのことです。

また、「天児屋根命の妻」という対偶関係ですが、これは、神武天皇東遷時に宇佐(表記は「菟狭」)へ寄ったとき、「勅[みことのり]をもて、菟狭津媛[うさつひめ]を以て、侍臣[おもとまへつきみ]天種子命に賜妻[あは]せたまふ。天種子命は、是中臣臣の遠祖[とほつおや]なり」という『日本書紀』の記述が反映したものです。

勅命によって中臣氏の遠祖神の「妻」とされたとあるように、この記述は、中臣=藤原氏の意向を受けた書紀編纂・創作者の露骨な作為が読める箇所の一つです。

 宇佐神宮(宇佐八幡)の比売大神は宗像三女神と同体とされます。
春日大社の「比売神」が、瀬織津姫神を秘した抽象神名であったことは、すでに複数の記録があり、また考証されていることでした(本ブログおよび『円空と瀬織津姫』上・下巻)。

 宮崎八幡宮が、橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神の既祭祀地に「宇佐八幡神」の比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。したがって、比売大神を「勧請しなかった」のは、「勧請する必要がなかった」というのがありていのところなのでしょう。

「日向の橘の小門(小戸)の阿波岐原」の地主神「橘大神」の祭祀にも、日向姫(天照大御神荒御魂神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の祭祀が根底にあったことはとても重要です。(資料提供・写真:日向の白龍)』
(「瀬織津姫祭祀 宮崎県歴史」より)
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/18624534.html

宮崎八幡宮は橘大神をまつる八幡宮だった。

「宮崎八幡宮が、比売大神のみを勧請しなかった理由は、当地に、すでに宇佐の比売大神と同体神が先行してまつられていたからです。」

ということは、宮崎はもともと卑弥呼がいた町だったということを指す。

もともと卑弥呼がいた町だったから、わざわざ宇佐から呼んでくる必要がなかった。

宮崎に棲んでいたのは橘大神(荒御魂神)、つまり、瀬織津姫神だという。
それは比売大神と同体神である。
同一神と同体神とはどう違うのか。同じなのか。


1050年頃、宮崎の地を開拓した海為隆は、「昔しよりお祀りしていた橘大神」があったから敢えて比売大神は要らないと考えたのが、2神勧請の理由だったようだ。

その意味は、「邪馬台国はひむか(日向)の国、宮崎だった」ということではないだろうか。

「エミシの国の女神」とは、「熊襲族を束ねる女王卑弥呼」ではないだろうか。

卑弥呼と熊襲~長州(117) [萩の吉田松陰]

SH3B0475.jpgSH3B0475松陰神社本殿
SH3B0476.jpgSH3B0476これが末社の松門神社(萩城内にあった宮崎八幡の拝殿)

吉田松陰を祀る松陰神社本殿と松下村塾門下生たちを祀る松門神社である。

松陰神社に参詣したのだが、松門神社が境内にあることは始めて気づいた。
5~6回この境内に入ったことがあるのに、である。

「松陰.com」というずばりのサイトに詳しく紹介されていた。
硯と書簡がご神体である。
生身の遺体は白骨化してから晋作が世田谷の松陰神社横の楓の木の根もとの墓所へ埋葬した。

私は萩の松陰の墓を訪ねてみて、その前に晋作の草庵があること、松陰の遺骨回葬をして数ヵ月後に帰国して草庵に入っていることなどから、晋作は遺骨の一部を父母に渡し、萩の墓に分骨したのではないかと推測している。

物的証拠はないのだが、状況証拠からそう考えている。

松陰神社は国の宗教儀式であり、穢れを嫌う古い国の慣習からすれば、あえて遺骨は入れていないのだろう。

硯と書籍とは、学問の神様らしい。

『明治23年、松陰の実家・杉家の邸内に松陰の実兄杉民治が土蔵造りの小祠を建て、
松陰の愛用していた硯と松陰の書簡をご神体として祀ったのが萩・松陰神社の始まり。

明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。

創建当時の土蔵造りの旧社殿は、現在、高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人たちを祭る末社・松門神社となっている。
学問の神として萩で最も崇敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れる。』
(吉田松陰の史跡を巡る旅 松陰.com)より)
http://www.yoshida-shoin.com/monka/shiseki-hagi.html

「松陰の実兄杉民治が創った土蔵造りの小祠」が現在は門弟を祭る松門神社となっているそうだが、民治が自ら作った小祠はもっと素朴で小さいものだっただろう。

やがて寄付などを集めて徐々に現在の立派な土蔵造りになったものと推測する。

松陰神社本殿については、ちょっと理解しづらい表現があった。

日露戦争が1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9月5日だったので、本殿改装は戦勝祝いの目的もあったのであろう。

『明治40年、共に松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を移築して土蔵造りの本殿に付し、同時に県社に列格した。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもの。』

萩城内にあった宮崎八幡の拝殿を民治の造った土蔵造りの本殿に付け足したようである。

しかし、その拝殿も昭和30年には新しく創建されというから、今見ている拝殿がそれである。

しかもその奥にあった本殿は、松門神社になっているのだから、本殿社屋もこのときに新築されてご神体だけそこに「残った」ということになる。

民治の松陰を祀る素朴な心は、今は弟たちを祀っていることになる。

「ちょっと違うのではないか?」と、私は思うのであるが、国家とはそういう個人的なセンチメンタルを排除するものなのだろう。

私ならあくまで奥の院の配置する本殿は粗末であっても民治の手作りの土蔵造りの小祠とする。

朽ちてくれば、外周を建造物で覆えばよい。
椎原の貧しい家屋で育ち、日本国独立のために命を投じた志士が、いかに貧しい生活の中にいたかということを残しておくべきだ。

西陣織のきらびやかな衣装を着て飽食しつつ扇で歯を隠して笑う人々から見れば、想像もつかないほどの貧困の中で『松陰』は生まれた。

それを忘れさせるべきではない。

上の記事では宮崎八幡の拝殿がいったいどこへいったのかと気になっていたが、松門神社本殿がそれであると書いた記事を見つけた。

『松門神社
所在地:山口県萩市椿東松本(松陰神社境内)

松陰神社の新社殿が昭和30年10月26日に完成したため、旧社殿及び鳥居を松陰神社の北隣に移築し、翌31年に、吉田松陰の門人を祭神とする末社・松門神社が創建されました。

この社殿は、もともとは萩城内にあった宮崎八幡宮の拝殿だったものです。

祭神四十二柱は以下の人々です。
高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、金子重輔、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、前原一誠、松浦松洞、玉木彦介、馬島甫仙、野村靖、山田顕義、木戸孝允、寺島忠三郎、時山直八、杉山松助、松本鼎、飯田正伯、増野徳民、尾寺新之丞、阿座上正蔵、渡辺蒿蔵、天野御民、有吉熊次郎、飯田吉次郎、境二郎、河北義次郎、久保断三、国司仙吉、駒井政五郎、諫早生二、井関美清、岡部富太郎、滝弥太郎、妻木寿之進、中谷正亮、弘勝之助、堀潜太郎、正木退蔵、横山幾太』

(「松門神社 幕末史跡探訪・山口県」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/fa38a6a8ec79fb20d734dbf8cdba636a

高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿の松門三秀を神とすることに私は異論はない。
彼らそれぞれが一体ずつの神になってもいいほどである。

松陰の存在があまりにも大きすぎたために、42柱とごっちゃに祀られてしまったようだ。

金子重輔もここの神となっているが、もし私の推理が正しかったならば、一神教
の場合はややこしくなる。

幸い日本の神々は八百万だから、いくら重複してもかまわない。

松陰と竹院の肖像画を書いた松浦松洞も神になっているのは驚きである。
芸術家も英雄の自画像を書くことで、この国では神になれるのだ。

そう思っていたら、そうではなかった。
この絵描きは、松陰の密航挫折を受け、自ら米国密航を企てている。

なぜそれほどのアメリカへ行きたかったのだろうか。
松陰の遺志を盲目的に承継したということならありえるが、松陰斬首後に敢えてアメリカに日本人青年を送り込みたい社会の動機が見えてこない。

隠れキリシタンたちの画策という話なら、動機ははっきり見える。
日本国内では信仰も布教もままならないから、宗教同盟者としての救援を求めるためである。

宗教革命支援の要請として、銃や火器を求めるということもあっただろう。
現実に江戸時代の天草ではそれが行われていた。
天草郡に苓北町都呂々松浦河内という地名がある。

江戸期の町人には苗字はなかった。
萩の町人出身の青年亀太郎は、「松浦の姓」を一体どこから持ってきたものだろうか。

『(松浦松洞)天保8年(1837)~文久2年(1862)
尊攘派志士、画家。町人正之助の次男。
萩松本村船津出身。通称亀太郎。

少年期、京都の小田海僊に画法を学ぶ。
のち寄組士根来主馬の家来となる。

安政3年(1856)、20歳で村塾に入る。
同5年江戸に遊学、渡米を図り失敗する。

文久2年(1862)京都に上り、長井雅楽の公武合体論に反対して同志と暗殺を試みたが、京都藩邸の穴戸九郎兵衛に遮られ、粟田山の山中で割腹自殺した。
松陰肖像画の作者。』
(「松浦松洞(まつうら しょうどう)」より)
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/hito/new/matsuura.htm

松陰門下生ではないが、松陰の遺志を継いで米国渡航を企てている。

松陰は叔父の竹院や佐久間象山から渡米することに同意もしくは応援を得ていた。
松陰以外にどうしてもアメリカへ青年を送りたがっている個人か集団がいて、松陰なきあとに亀太郎を送ろうとしたとも考えられる。

萩の絵描き亀太郎のことをよく知っているものは、萩出身で松陰のおじである鎌倉の竹院和尚である。

しかも、松陰は亀太郎を鎌倉へ送り、竹院の自画像を描かせようとしていた。
それは松陰自身の発案によるもののようだ。

どうやら、亀太郎にアメリカへ行けと薦めたのは竹院和尚のようである。

藩校明倫館の兵学教授であった松陰神社の拝殿には、当初萩城内にあった八幡神社のものが移築されていた。

それは源氏の戦勝祈願神社であるから、松陰の生前の役職に相応しい。
なぜ萩城内にあった八幡神社が宮崎八幡なのかはわからない。

八幡宮と呼ばれる神社には応神天皇がまつられている。
神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と「菩薩名」が与えられた。

『八幡宮:誉田別命(八幡大神と称せられる第十五代応神天皇のこと)を祀る神社。
源氏の氏神様として、また武勇の神として崇められた。

総本社は大分県の宇佐見神社。
京都の石清水八幡宮・鎌倉の鶴岡八幡宮が著名。
信州では更埴市の武水別神社。佐久八幡神社がある。』
(「くすなみ木Yoga Studio Shanti Room」より)
http://kusunamikiyogastudio.miyachan.cc/e106700.html

総本社は大分県の宇佐見神社という。
「宇佐八幡宮」と通常は呼ぶが、「宇佐美神社」という名は間違いである。
正式名は「宇佐神宮」である。

正式名の最後に「宮」がつく神社は、「天皇または皇族を祭神とする神社」を指す。

総本社は大分にあるのに、南隣の宮崎の名を冠する八幡宮を毛利はなぜ祀ったのだろうか。

「宮崎八幡宮(留魂録 道楽日記)」というサイトに宮崎八幡宮のことが紹介されていた。

「留魂録」とは次の斬首前に松陰が詠んだ歌であるから、地元居住の著者の方は松陰と宮崎八幡宮の関係を思っていたのであろう。

『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 (松蔭)』

『宮崎の自宅から歩いて5分の場所だが、近すぎて逆に中々参拝できなかった。
今日、理容室へ行く前に図らずも参拝。
さすが15日だけあって七五三の参拝者が多くいた。

勿論、八幡宮なので、ご祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと:応仁天皇)足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと:仲哀天皇)息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)である。

このように、比売大神のかわりに、仲哀天皇を祀っている八幡宮もけっこうあるので覚えておきたい。

そして、唯一この神社に祀られているのが「橘大神」である。

祝詞の言霊を思い出していただきたい。・・・・筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原にに御禊祓ひ給ひし時に生れ坐る・・・・。

ここに登場する「橘」を大神として祀る。

ちなみに、小戸に・・・小戸神社、阿波岐原に江田神社。
そして、宮崎の橘通りの近くにあるこの八幡宮があり、「橘大神」が祀られているのだ。

しかし、その正体は不明らしい。

禊に登場する橘で、小戸(小門)から海へ通じることから推察すると、もろもろの禍事・罪・穢れを川(この場合大淀川)から海へ流す「祓戸の神」のお一人瀬織津比売神ではないだろうか。

ご神紋は、八幡宮なので、「三つ巴」だが、ちゃんと一緒に「丸に橘紋」(2つ目の神紋)も配されていた。
ちなみに小戸神社も「丸に橘」がご神紋である。』
(「宮崎八幡宮(留魂録 道楽日記)」より)
http://granpartita.cocolog-nifty.com/blog/cat39860791/index.html


井沢元彦著「逆説の日本史」では、比売神(ひめがみ)とは殺された卑弥呼ではないかという推理をしている。

宇佐八幡宮本殿には、応神と神功皇后に挟まれて、真ん中に比売神(卑弥呼)が配置されているという。

その推理によれば、応神と神功皇后に征服された怨霊という祀り方であり、滅亡した出雲族の神「大国主命」の祀り方に似ている。

怨霊鎮撫の目的の祭祀となろう。

Wikipedia記事は、「卑弥呼をはじめとして諸説ある。」とぼかして記述している。

『比売神(ひめがみ)は、神道の神である。

神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神などと書かれる。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。

最も有名な比売神は八幡社の比売大神である。

宇佐神宮ほかではこれは宗像三神のことであるとしているが、八幡社の比売大神の正体については卑弥呼をはじめとして諸説ある。

春日大社に祀られる比売神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)である。
大日孁貴尊(アマテラス)を比売神としている神社もある。』
(比売神(Wikipedia)より)


宮崎八幡宮は、総本社宇佐八幡宮から分祀しているはずであるが、祭神から比売神(ひめがみ)を放り出して、正体不明の応神の父と言われる仲哀天皇を祀っている。

もし母神功と応神が何らかの理由で九州へ亡命してきたとすれば、王だった父は亡くなっており母子家庭として上陸したことになる。

九州博多周辺には北九州説によれば、これまた女帝卑弥呼が国を支配していた。
シャーマニズムの古代政治の形態だったのだろう。

神功と応神が、卑弥呼を殺して国を乗っ取ったと仮定すると、卑弥呼の怨霊を鎮める必要がある。

なぜ大分の山の中の宇佐に鎮めたかというと、そこが日本民族の先祖となる渡来人が最初に上陸した場所だったからだ。

宇佐八幡宮の本殿は今は神社境内にあるが、実は本当の本尊というか神は裏の小高い山の上にある岩である。

これもアジアで流行したシャーマニズムの信仰形態である。

宇佐八幡の神祇だったと記憶しているが、由来を示す書簡には、「我は渡来の神である」とはっきり書いてあるという。

ただ宮崎八幡宮を勧請した国生みの宮崎の人々は、比売神(ひめがみ)を放り出して、仲哀天皇を祀ったということになる。

毛利氏はそっちの八幡神の方が好きだったし、吉田松陰もそちらが好きだったということになろう。

熊襲退治に行ったといわれる仲哀天皇については次の記事で述べる。
毛利氏は「熊旗」という旗を掲げたと松陰は日記に書いていた。


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