光仲とキリシタン灯篭~長州(123) [萩の吉田松陰]

Shizutani_Scholl_Confucius_Tree80%.jpg(写真) 岡山藩主池田光政によって開設された世界最古の庶民学校にある「楷(かい)の木」(閑谷(しずたに)学校(Wikipedia)より引用)

気になっているのは、会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」のことである。

萩・松陰神社境内の説明板によれば、現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)に林学博士、白沢保美(しらさわ やすみ)氏が中国曲阜(きょくふ)から種子を持ち帰ったものが成長したもので、その大木は岡山県の閑谷(しずたに)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にあるという。

「会津藩」と「萩の松陰」と「岡山藩」が、一本の線で結ばれてきた。

会津と萩で、私はキリシタン殉教地を訪ねている。

山口はザビエルが直接布教した町で、大内氏滅亡により萩へ信者が流れてきたようだ。
江戸期には萩を追われて、山中の阿武郡紫福村へとキリシタンたちは隠れて棲んだ。

会津は近江出身のキリシタン大名が治めた国である。

では、岡山藩とキリシタンの関係がどうなのだろうか。

幼くして備前岡山藩当主となった池田光仲は、「政治手腕の幼さ」のため、岡山藩から鳥取藩に転封となり、代わりに従兄弟の光政が岡山藩に赴任した。

両者ともに名に『光』の文字を持つから、私はすぐに「旧約聖書のにおい」を感じている。

新約聖書でも、同じく神は光を好むはずだ。
日本の神輿を金箔でキラキラ飾るのも、ほぼ同じ風習による。

光仲の伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺は、家臣団によって岡山から鳥取に移されている。

その寺の宗派が少し臭う。

長崎に来日した中国人たちが、自分たちが禁令に触れるキリシタンではないことを証明する目的で日本に作ったという黄檗宗なのである。

一応、禅宗のひとつである。

岡山から鳥取へ移された菩提寺の名は興禅寺といい、幼い池田光仲が開基である。

『興禅寺 本堂 所在地 鳥取県鳥取市栗谷町10
山号 龍峯山
宗派 黄檗宗
創建年 寛永9年(1632年)

開基 池田光仲

文化財 キリシタン灯籠(鳥取県保護文化財)
書院庭園(鳥取市名勝)
興禅寺(こうぜんじ)は鳥取県鳥取市に所在する黄檗宗の寺院。山号は龍峯山。
鳥取藩主池田家の菩提寺である。

歴史
寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まる。
この際には臨済宗妙心寺派の寺院で忠継の院号である龍峯院殿より広徳山龍峯寺と名乗っていた。

その後、住職は黄檗宗への転向を願い光仲はそれを認めた。
しかし、妙心寺はこれを不服とし転向を認めず、両者間で争議が起こった。

結局、光仲が没した後に寺号を返納する事で和解が成立した。

元禄6年(1693年)に光仲が没し、翌年の元禄7年(1694年)寺号が妙心寺に返納された。

こうして黄檗宗に改宗され、光仲の院号である興禅院殿より寺号が龍峯山興禅寺と改められた。

その後、藩により興禅寺の隣地に再び龍峯寺が建立され、忠継の他、輝政・忠雄の位牌が移された。
池田家の菩提寺ではあるが墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営された。

江戸時代は鳥取藩主池田家庇護のもと、仙台藩伊達家の大年寺、長州藩毛利家の東光寺と並んで黄檗宗の三大叢林として栄えた。

しかし、明治時代になり廃藩置県以後は藩の支援が途絶え、経済的危機に見舞われた。
このため、本堂の売却を希望し、火災で本堂を焼亡した兵庫県美方郡新温泉町浜坂の龍雲寺に明治21年(1988年)に移築された。
現在の本堂は、鳥取藩主の御霊屋であった唯一現存する江戸期の建物である。

庭園

書院庭園久松山系の丘陵を生かして築山とし、麓に池、その対岸に書院を配する書院造の蓬莱山水・池泉鑑賞式庭園で、作庭時期は江戸時代初期と推定されている。『日本庭園史大系』において重森三玲・重森完途が「絵画的表現美を誇る意匠」、「山陰を代表する名庭の一つ」と絶賛している。

文化財 [編集]

尾崎放哉の句碑寺の周辺はキマダラルリツバメ(国の天然記念物)生息地に指定されている。

キリシタン灯籠
書院庭園の西の隅にあり、十字架の彫刻が見られることからキリシタン灯籠の名が付いた。鳥取県保護文化財。』
(興禅寺 (鳥取市)(Wikipedia)より)

光仲の開いた黄檗宗寺院に、鳥取県保護文化財となっているキリシタン灯籠がある。

これで池田光仲がかつて治めていた岡山藩にもキリシタンにつながるものがあることがわかった。

会津、萩、岡山ともに、キリシタンの存在が濃い地域である。

その会津からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子がプレゼントされて、ここ松陰神社に植えられている。

鳥取藩主池田家は、仙台藩伊達家と長州藩毛利家(東光寺)と並び、黄檗宗の三大叢林と呼ばれていた。

黄檗宗に関して、鳥取藩と長州藩は同じくらいの重要な位置を占める藩だった。

仙台藩は、スペインへキリシタン支倉常長を派遣しており、江戸初期にはほぼ公然とキリシタン信仰を続けていた。

幕末の戊辰戦争では、会津と長州が戦火を開くことにおいて、仙台は重要な役割を演じている。

奥羽鎮撫府下参謀である長州藩士世良修蔵を滅多斬りし、旅籠の二階から追い落としている。

『(世良修蔵は、』仙台藩士瀬上主膳・姉歯武之進、福島藩士鈴木六太郎、目明かし浅草屋宇一郎ら十余名に襲われる。

2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った上で捕縛された世良は、同日阿武隈川河原で斬首された。

世良の死をきっかけとして、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まる事になる。』(「世良修蔵(Wikipedia)より」

世良の斬首は、会津の歴史を大きく変換してしまった。
そう仕組んだ結果ともいえる。

木戸孝允はそれを誰に依頼されたのか?

池田屋事件では、「新政府での総理大臣候補第一人者」と目されていた松門三秀の一人、吉田稔麿が池田屋へ救援に向かう途中、会津藩士数名に切り殺されたという説がある。

それが事実であれば、松陰の子飼いの門弟を殺された恨みは長州人には残っただろう。
稔麿の死は、松陰が理想としていた新生日本国の死でもあった。

長州藩と仙台藩は黄檗宗関係で人的つながりはある。

幕末の仙台藩には、会津藩に恭順を薦める派閥と武断を薦める派閥と、両方あった。

長州の木戸孝允が仙台藩の武断派と結託して、会津が武断へと進まざるを得ない状況に追い込んだ可能性もある。

長崎では、黄檗宗寺院が日本に上陸した中国人キリシタンたちの隠れ蓑として機能した。

その線でつないでいけば、長崎、長州、仙台、鳥取、岡山に濃い人的つながりは出てくる。


『1623(元和9)年創建されたわが国最初の唐寺である。
あか寺、南京寺とも呼ばれる。

1620(元和6)年ころ、中国江西省の劉覚が長崎に渡来、彼はその後に剃髪して僧となり真円を名乗った。
同郷三江系(江南、江西、浙江)の欧陽の伊良林郷にある別荘地(現在の輿福寺の地)に3年間草庵を結んだ。

当時はキリスト教が禁止されていたが、渡来してくる唐人の中にキリスト教の信者も混じっていた。

このため唐船が入港したらすぐにキリスト教の信者かを厳しく問いただされた。

南京方面の船主達は協議の上、キリスト教との懐疑を晴すため、且つ海上神の菩薩を祀るため、また亡くなった唐人の供養のために、真円を開基の住持として寺院開基を奉行所に願出たところ許しを得て東明山興福寺を開創した。

諸船主からは寄進を受け船神媽姐堂を道立し、毎船持渡る処の船神媽姐の像を寺内に安置した。
輿福寺創建当時の代表的な壇越(檀家、檀那)としては、欧陽雲台(唐通事陽氏祖)、何高材(唐通事何氏祖)、陳九官(唐通事潁川氏祖)、王心渠(唐通事王氏祖)などがいた。

真円に続いて、1632(寛永9)年江蘇省の出身である唐僧黙子如定が渡来して2代住職となると、本堂をはじめとする諸堂を建立し、寺観を大いに整えた。また黙子は、アーチ型の石橋である眼鏡橋を架けたことでも知られる。

黙子に続いて、1645(正保2)年浙江省の出身である逸然性融が渡来して3代住職となった。逸然は当時の日本仏教界の荒廃を憂いて、黙子や有力な檀越らと協議して、当時中国の黄檗山万福寺の住職であった隠元隆琦を招請し住持に推戴し自らは監寺に下った。このほか逸然は仏画や高徳画などを得意とし、長崎漢画の祖といわれている。

1655(明暦元)年隠元が東上すると、翌2年正月から4代目(中興二代)澄一道亮が住持を勤めた。
澄一が在任中の1663(寛文3)年のいわゆる「寛文の大火」で伽藍はことごとく焼失してしまった。

1686(貞享3)年澄一の後を経いで5代住職となった悦峰道章は山門(県有形文化財)や鐘鼓楼(県有形文化財)をはじめとする諸堂の再建を行った。

9代住職となった竺庵が宇治の黄檗山万福寺の13代住職となると、以後唐僧の渡来がなったので、和僧の大倫が監寺(かんす)となり、住職の代行をした。

以後も住職は空席とされ(唐三か寺の住職は唐僧に限られていた)、和僧が監寺を務める例が幕末、維新まで続いた。

興福寺はこのように臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の記念すべき地である。』(「興福寺(東明山 興福寺)」より)
http://www.geocities.jp/voc1641/chinagasaki/2100kofuku/2110kofukuji.htm

戦国時代の会津キリシタン大名蒲生氏郷の育てたキリシタンが、幕末にもいたはずだが、九州の有名なキリシタン大名大友宗麟の家臣団は、歴史舞台から消えたのか?

宗麟の血筋にあたる立花氏は、家紋に十字を入れて元気に活躍していた。

『祇園守とは、京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のことである。

八坂神社は全国にある祇園さんの本家で、京に夏を呼ぶ祇園祭で知られた神社である。
中略。

祇園守紋の由来には、三つの説がある。

すなわち祇園社の森の図案化、牛の頭部の図案化、キリスト教の十字架の図案化だが、いずれも決め手を欠いている。

いずれにしろ、牛頭天王や八坂神社への信仰から家紋として用いられるようになったことは間違いない。
祇園守紋は単に守紋ともいわれ、その図柄はクロスした筒が特徴である。
後世筒は巻き物に変わったが、呪府のシンボルであることは変わらない。
中略。

この紋を用いる近世大名で有名なのが、豊後の戦国大名大友氏の一族で柳川藩主立花氏である。

祖の立花宗茂は、薩摩島津氏との戦いにおける潔さ、また、朝鮮の役における碧蹄館の戦での大勝利が知られる。

本来、立花氏は杏葉紋を用いていたが、関が原の合戦後、封を失った宗茂は、数年の流浪の末に棚倉城主に返り咲くことができた。

正月の夜、夢の中に祇園の蘇民将来の守りを捧げた老人があらわれ、この守りをもって本国へ帰り給えといって守りを手渡した。

もともと宗茂は本国の柳川祇園社を深く信仰していたことでもあり、祇園天王の夢のお告げかもしれないとありがたくおもっていたところ、将軍家より旧領柳川を返し与えられたのであった。

喜んだ宗茂は祇園天王の加護に感謝して祇園守を家紋とするようになったのだという。

柳河藩立花氏のものは、とくに「柳河守」とよばれ、中心に二つ巴が入っているのが特徴になっている。

●ヤソ教(キリシタン)との関係は如何

その他、大名家では備前岡山と因幡鳥取の両池田氏が用いている。

池田氏は清和源氏頼光流を称し、本紋には輪蝶を用い、副紋として守を用いた。

松浦静山の著した『甲子夜話』に、ある日、静山が池田家の分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒を尋ね、ヤソ教関係のものではないのかと聞いた。

すると松平氏は由緒のことはよく知らないが、我が家では天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えた。

つまり、天王ではなく天主であったと。
これから推せば祇園守紋は、ヤソ教の十字架を家紋として意匠化したものということになる。

 立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大名として知られ、宗茂も少なからず影響を受けたかもしれない。

一方の池田氏はキリシタンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いたことが知られている。

加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。

同紋は、別名中川久留守といわれるように十字架を象ったものであった。

同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クルスを象ったものという。
さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用いたが、これもキリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている。』
(「名字と家紋column(祇園守)」より)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html

柳川藩主立花氏は幕末の水戸学成立に貢献している。

明滅亡に際して明は徳川家康に軍事援助を何度も要請し、その都度断られている。
その救援要請者であった明の遺臣朱舜水が長崎へ亡命してきたとき、柳川藩主立花氏が保護し、かつ水戸徳川光圀へ朱を預ける手配をしている。

朱は水戸光圀の江戸別邸へ移り住み、そこで歴史編纂を手伝った。
その場所は、現在の東大農学部正門の左奥であり、今もそこに朱の住居跡を示す石碑が立つ。

大日本史編纂事業に大きく関わった人物である。
すなわち、水戸史観の形成に影響を及ぼしている。

立花氏は十字デザインの家紋を用いていたが、備前岡山の池田氏も副紋として祇園守を使用していたという。

図柄は以下のサイトに掲載されている。
「祇園守紋」(備前池田氏の副紋)
http://www.harimaya.com/kamon/column/mori.html

「能勢氏 切り竹矢筈十字紋」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nose_k.html

松浦静山が池田家分家の松平氏に、池田家の祇園守の由緒はヤソ教関係のものではないのかと聞いたところ、松平氏は我が家では(牛頭)天王から貰ったものと言い伝えており、天王は祇園だから祇園守というのだろうが、それは世に隠れるものであって実は王の上に一点があったのだろうと答えたという。

つまり、天王ではなく天主(キリスト)であったと示唆したのである。

松浦静山は、肥前国平戸藩の第9代藩主「松浦 清」(まつら きよし)のことで、静山は号である。

平戸は、松陰も山鹿素行の末裔の平戸藩家老「山鹿万介」に兵学を習いにいったところだが、キリスト教会と仏教寺院がすぐ隣に建っているような宗教環境の町である。

ザビエルは鹿児島から、長崎を経て、まもなく平戸へ入っている。
一時期は長崎よりも平戸の方が布教は進んだのではなかっただろうか。

平戸はそういう歴史を持つ藩である。

松浦静山が上手に「天主」の話へと池田氏親族を誘導した可能性もある。

キリシタンたちにとって、戦国~江戸期の平戸の藩主は、ただの西洋かぶれの殿様ではなかった。

摂津能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」であり、東京・本所のある寺の門扉に見られる。

一度見に行ったが、十字架のように私には見えた。
檀家もそれをたぶんに意識して門をくぐるのであろう。

海舟が犬に睾丸を噛まれて瀕死の重傷を負ったときに、父が子の快癒を祈願した寺である。

勝海舟も隠れキリシタンだったのだろうか。

それより、興味深いのは、松浦静山の孫娘慶子のことである。

『(松浦)清は17男16女に恵まれた。

そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。

つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのである。』(松浦静山(Wikipedia)より)

松浦静山は孝明天皇の外祖父であった。
孫娘を通じて皇室内部にも通じている人物だといえよう。

彼は忠臣蔵にも登場する「武断を激しく好む大名」である。

ヒトの全身に塗れば、おそらく痙攣を起こして致死する猛毒サフロール(safrol)は樟脳赤油から得られる。

白沢博士は欧州留学の2年後に、樟脳油の研究で林学博士号を取得し、中国の曲阜からウルシ科の「楷(かい)の木」の種子を日本に持ち込んだ。

その種子から育った「楷(かい)の木」が、松陰神社境内に植えられていた。
それが会津藩からの贈り物なのである。

安政3年 (1856) 江戸森田座初演の、三代目瀬川如皐・三代目桜田治助合作『新臺いろは書初』(しんぶたい いろはの かきぞめ、新字体:新台〜)の十一段目に、山鹿流陣太鼓を叩いて赤穂浪士に討ち入りを催促する松浦侯が登場する。

松陰が東北遊歴の旅に出発したのは、討ち入りの日(12月14日)だった。
晋作の奇兵隊が功山寺で決起したのは12月15日未明だったが、晋作の予定では14日決起のつもりだった。

松浦藩主は、日本の歴史的事件において、絶妙のタイミングと役割で「ちょっとだけ」顔を出す。

大石内蔵助も吉田松陰も、山鹿素行の兵学を学んでいる。

江戸末期には山鹿素行の末裔「万介」は、平戸藩家老として幕末の勤皇の志士たちに兵学を伝えている。

樟脳赤油から得られる猛毒~長州(122) [萩の吉田松陰]

SH3B0482.jpgSH3B0482会津から萩へやってきた「楷(かい)の木」(萩・松陰神社境内)

「現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰ったもの」である。

この林学博士は、欧州仕込みの樹木学者である。

東京のプラタナス並木は、この人による都市緑化事業の成果でもある。

白沢の地元の記事「安曇野ゆかりの先人たち」には、
http://www.city.azumino.nagano.jp/yukari/person/130/

「白沢 保美(しらさわ ほみ)」と出ているが、Wikipediaは名を「やすみ」と読んでいる。

『白沢 保美(しらさわ やすみ、1868年(慶応4年)4月~1947年12月20日)は、日本の樹木学者。東京市の初期、都市緑化事業の指導にあたる。

人物
1868年(慶応4年)、信濃国安曇郡明盛村(現・長野県安曇野市)の医師の家に生まれる。

1894年(明治27年)東京帝国大学農科大学林学科を卒業、大学院で研究のかたわら農商務省山林局に勤務、1900年(明治33年)より欧州に2年留学、1903年(明治36年)林学博士。

1908年(明治41年)山林局林業試験場長に就任、1932年(昭和7年)退職するまで20数年の長期にわたってその職についた。

都市緑化について強い関心を持ち、1904年(明治37年)優秀樹木として、プラタナス、ユリノキの種を大量に公園樹木として供給した。

また、1907年(明治40年)東京市の委嘱により福羽逸人と協力し、街路樹は種苗より整然と育成すべきことを説いた東京市行道樹改良案を提出、東京の街路樹事業の大綱が樹立させた。

東京市はこれによりプラタナス、イチョウ等の栽培をはじめたほか、1910年(明治43年)から新規格による街路樹の植栽に着手し、以来年々これが育成に努力した結果戦前に10万余本の街路樹の整備を見た。

こうして、多数の優良海外樹種が公園や道路、学校園等の公共地に配布栽培が出来ている。』(白沢保美(Wikipedia)より)

1901年(明治34)、白沢は33歳のときにドイツ・フランス・スイス等に留学し、森林樹木学・造林学の研究に没頭しているが、他の分野にも精魂を傾けた可能性もあり得る。

つまり西洋の宗教哲学なども、である。

帰国後2年の明治36年、彼の林学博士論文は「樟木に関する樟脳油」であり、白沢は林業専門家だった。

樟木(くすのき)は、南朝の楠正成を連想させてくれる。

松陰神社境内奥の「楷(かい)の木」説明板は、この人物が中国から持ち帰った種子が楷(かい)の大木」となり、岡山県にある日本最古の庶民学校、国宝の「 閑谷(しずや)学校」にあると書いていた。

萩を代表する庶民学校は松下村塾であり、松陰と閑谷(しずや)学校とはその点でつながる。

会津と松陰と、岡山藩の庶民学校とを結ぶ「楷(かい)の木」なのである。
そして、それは毒をもつ。

『ウルシオール
ウルシやハゼまけの原因物質。

ロテノン(rotenone)
南洋・熱帯地方のマメ科植物のデリス根部に含まれる毒の主成分がロテノン。
魚毒性を利用して毒流し漁法で魚を捕っていたという(現在は使用禁止)。

日本では戦前殺虫剤として使われていた。呼吸鎖複合体Iの阻害剤。
ピレトリン
除虫菊に含まれる殺虫成分。

サフロール(safrol)
クスノキ科の植物Sassafras albidum Neesの根に含まれるサッサフラス油の主成分。
肝腫瘍を発生。
ロテノン(デリス) ピレトリン(除虫菊) サフロール(サッサフラス油)
以下略』
(「動物の毒 植物の毒 微生物の毒」より)
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/venoms.htm


この記事によると、白沢博士の専門研究対象であるクスノキ科植物からも毒物サフロールが作れるという。

致死量はどれほどなのだろうか。

『サフロール
safrole
別称1,3-benzodioxole,5-(2-propenyl)(CAS名)

特性
化学式 C10H10O2
モル質量 162.19
外観 無色~淡黄色の液体
匂い ササフラス香
密度 1.096
融点 11.2℃
沸点 232~234℃
水への溶解度 不溶
溶解度 プロピレングリコール・グリセリンに微溶
アルコール、油類に可溶
ジエチルエーテル、クロロホルムに混和
屈折率 (nD) 1.536~1.539

危険性
引火点 97℃
半数致死量 LD50 1.95g/kg(ラット経口)
5g/kg以上(ウサギ経皮)

関連する物質
関連物質 イソサフロール
特記なき場合、データは常温(25 ℃)・常圧(100 kPa)におけるものである。

サフロール(英: safrole)は、化学式C10H10O2で表わされる有機化合物の一種。天然にはササフラス油やオコチア油、樟脳赤油に存在する。

用途
ヘリオトロピンやピペロニルブトキサイドの原料としての用途が主であるが、かつては石鹸の香料としても使用された。
国際香料協会では、調合香料での使用は0.05%以下と制限を設けている。

アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じている。
工業的にはブラジル産オコチア油や中国酸ササフラス油の分留により得られる。

安全性
日本の消防法では危険物第4類・第3石油類に分類される。

半数致死量(LD50)は、ラットへの経口投与で1.95g/kg、ウサギへの経皮投与で5g/kg以上。

ヒトへの急性症状としては吐き気やチアノーゼ、痙攣、感覚麻痺などの神経症状が報告されている。
動物実験では肝臓への発癌性が報告されている。

特定麻薬向精神薬原料に該当し、一定量を越える輸出入等には麻薬及び向精神薬取締法に基づく届出が義務付けられている。』
(サフロール(Wikipedia)より)

あいにく、「人の致死量」についての記載はなかった。

しかし、ウサギの皮膚にわずかに塗りこんでも哺乳類のウサギが死に至る毒である。

ウサギの平均体重を3kgとすると、ウサギへの経皮投与では3kg×5g/kg=15gを皮膚にすり込めば痙攣を起こしてウサギは死ぬ。

人間への影響も、これより十分に類推できよう。

いくら高貴な人物であっても、裸にされて全身に刷り込まれては身がもつまい。

アメリカ合衆国では、食品への使用を禁じているそうだが、ならば日本では禁じていないということなのか、それは私にはまだ不明である。

天然の樟脳赤油に存在するという。
なぜか、白沢博士の博士論文の内容に密接に関連してくるようだ。

猛毒性の一方で、「ウルシ科の楷の木」は松陰と儒教、とりわけ孔子との関係も示唆してくれている。

『中国生まれの楷の木
聖廟に登る19段の石段。

その左右の斜面に一対の楷の木がこんもりした枝葉を広げています。
いずれも幹回り1メートル余、高さ12.3メートルの巨木。

晩秋には聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉し、その景観は天下一品です。

楷の木は中国の山東、河北、河南各省に自生するウルシ科で、学名はピスタチア・シモンシス・ブンゲ(日本では、とねりばはぜのき)、黄蓮樹とも呼ばれます。

大正時代、白沢博士が持ち帰り、閑谷が一番大きく成長

閑谷の楷の木は大正4年、当時の農商務省林業試験場長だった白沢保美博士が、中国山東省曲阜にある孔子廟から持ち帰った種子を苗に育て、大正14年、閑谷学校、東京・聖堂、栃木・足利学校、佐賀・多久聖廟など孔子ゆかりの地に植えました。

風土が合ったせいか、閑谷学校の木が一番大樹に育ちました。

林野庁資料室に保存されている白沢博士の報告書によりますと、曲阜の楷の木は当時で幹の直1メートルという大樹で、孔子十哲の一人、子責が植えた樹の種子が育ったものだといわれています。
いずれにせよ、孔子の聖地、曲阜直系の珍木なのです。

孔子にちなんで「学問の木」

 孔子にちなんで閑谷ではこの楷の木を「学問の木」と呼ぶようになり、紅葉した落ち葉を大事そうに持ち帰る受験生も増えています。』
(「「楷の木」豆知識」より)
http://www3.ocn.ne.jp/~bizenst/kainoki/setumei.htm

「曲阜(チュイフー)の孔廟(コンミャオ)」という旅行日記がある。
http://4travel.jp/sekaiisan/confucius/

曲阜(チュイフー)は日本語読みでは「キョクフ」と読まれるようだ。

また、「曲阜紀行聖蹟・江蘇省の教育概観」というサイトでは、
http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000150633

「キョクフ キコウ セイセキ」と読ませている。

織田信長は支配権を確立したあと美濃国の城下町を岐阜(ギフ)と命名した。

「岐阜」の地名由来辞典によれば、中国の縁起のよい地名、「岐山」「岐陽」「岐阜」によるという説と、「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」に由来するという説の二つがあるという。

信長の命名であれば後者であろう。
信長は、天皇さえも越えようとした、最初でおそらく最後の日本人である。

このサイトに「楷の木が完全に紅葉した様子」として、深紅(左)と橙色(右)に紅葉した二つの大きな樹木の写真が掲載されていた。

「聖廟に向かって左側の樹が深紅色に、右側は黄色がかった淡紅色に紅葉」と解説されているから、その写真は中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」であろう。

日本最大の閑谷の「楷の木」の姿もこれに似ているはずだ。
なぜならば、同じ遺伝子なのである。

中国曲阜(チュイフー)の「楷の木」から白沢博士が持ち帰ったものが、現存する国内最大の閑谷の「楷の木」である。

この曲阜(チュイフー)の「楷の木」の写真を眺めていると、世田谷の松陰の墓の傍の楓の紅葉と同じ色であることに、ふと気づいた。

初めてそれを発見したと言っていい。

松陰と晋作の契りとは、私が推測していたような「カトリック的な楓の契り」ではなく、「楷の木の契り」つまり「孔子の教え」であったのではないだろうか。

晋作が世田谷に松陰の白骨化した遺骸を埋めるとき、「楷(かい)の木」の根元に埋めたいと思ったのだろうが、幕末当時の日本にはまだその種子はなかった。

だから晋作は楓の木を選んだのではないだろうか。

孔子の墓所と子弟と「楷(かい)の木」の話である。

『1.孔子にゆかりのある中国原産の珍木

今から2500年前、儒学の祖、孔子(紀元前552~479)は、多くの子弟に見守られながら世を去り、山東省曲阜の泗水のほとりに埋葬された。

門人たちは3年間の喪に服した後、墓所のまわりに中国全土から集めた美しい木々を植えました。
今も残る70万坪(200ha)の孔林です。

孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)は、さらに3年、小さな庵にとどまって塚をつくり、楷の木を植えてその地を離れました。

この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。

その墓所のまわりには、孔子を慕う弟子や魯の国の人々が集まりはじめ、やがて住み着いた者の家が百あまりであったので孔里と名づけられました。

孔子は300年後の漢代中期以後、国家的崇拝の対象となります。
しだいに墓域も拡大され、孔里は現在、孔林という広大な国家的遺跡になっています。

その後、「楷の木」は科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。

合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。

また、その杖は「楷杖」として暴を戒めるために用いたとされます。』
(「「楷の木」の歴史」より)
http://www.cheng.es.osaka-u.ac.jp/alumni/kainoki.htm

晋作の家は、天神信仰が篤かった。

この萩散歩のブログでも写真を紹介したが、晋作の旧宅には、「高杉家伝来 鎮守堂 晋作遺愛品」として小さな祠があった。
それは菅原道真を祀るものだった。

中国の「楷の木」は科挙の合格祈願木であり、歴代の中国の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』になったという。

菅原道真を連想させてくれる木でもある。

思いのほか、ここではウルシ由来の毒物の記述に紙面を割いてしまった。
肝心の「岡山藩とキリシタンの関係」は次の記事で述べることにする。

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