東洋侵略と鎖国戦略の妙~長州(131) [萩の吉田松陰]

SH3B0505.jpgSH3B0505歴史資料館にあった「西欧の東洋侵略」年表
SH3B0501.jpgSH3B0501旅立ち
SH3B0506.jpgSH3B0506自警の詩

日本人の歴史教育ではこういう洋の東西を比較した考察が欠落しているようだ。

それに比べれば、ここ松陰神社境内にある歴史資料館、私には蝋人形展に見えるが、そこに掲げられていた年表の方がより歴史事実に肉薄しているように見える。

家康の鎖国令にはそれなりの意味があったことがよくわかる。
囲碁将棋でいう「西欧植民地化」に対する次の手として意味がある。

家康以降の日本人にその種の高度な戦略性がかけていたともいえよう。
家康による鎖国の歴史的価値はもっと大きく見直す必要があるだろう。

「西洋の東洋侵略」年表を抜粋する。

『西洋の東洋侵略
1271(文永8年)マルコ・ポーロ東方旅行へ出発
(1299『東方見聞録』を著わす。)
1498(明応7年)バスコ・ダ・ガマ、インド航路発見
1519(永正16年)マゼラン世界一周に出発
1543(天文12年)ポルトガル人、種子島に漂着
1592(文禄元年)豊臣秀吉朝鮮に出兵
1600(慶長5年)イギリス、東インド会社設立
1602(慶長7年)オランダ、東インド会社設立
1604(慶長9年)フランス、東インド会社設立
1639(寛永16年)日本の鎖国
1641(寛政18年)オランダ、マラッカ占領
1745(延享2年)インドにおける英仏戦争はじまる
1825(文政8年)日本、外国船打払い令を出す
1840(天保11年)阿片戦争起こる
1853(嘉永6年)米国使節ペリー浦賀に来航
1854(安政元年)クリミア戦争はじまる』(抜粋終わり)

これだけ西洋と東洋の濃い関わりを年表で論じながら、奇異な感じを私は受けた。
それは、何よりも大事なイベントが書かれていないからだ。

蝋人形展示を企画した者たちはあえて「そのこと」を隠したのか?
それは何故なのか?

「そのこと」とは、1549年8月15日ザビエルの日本上陸のことである。

上の年表では「鉄砲伝来と秀吉の朝鮮出兵の間の出来事」である。

しかもザビエル来日による山口への影響は、とてつもなく大きかったのである。
なぜならば大名大内義隆は山口での布教をザビエルに許したからである。

『日本へ
1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人と共にジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。

一行は明の上川島(広東省江門市台山/en:Shangchuan Island)を経由しヤジロウの案内でまずは薩摩の薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した(この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた)。

1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た[4]。

ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。

後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。

しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。

1550年8月、ザビエル一行は肥前平戸に入り、宣教活動を行った。
同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京を目指し平戸を出立。

博多に滞在の後、11月上旬に周防山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内の怒りをかい、同年12月17日に周防を立つ。

岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。

失意の京滞在 山口での宣教
以下略。』(フランシスコ・ザビエル(Wikipedia)より)

「種子島へのポルトガル船漂着」と私たちは歴史で習うが、中国人倭寇がポルトガル商人2名を載せて中国製ジャンク(帆船)に乗り銃と火薬の売り込みにやってきたのだ。

その後、ヤジロウを含む3人の日本人がザビエルをゴアまで迎えに行っている。

ヤジロウは「人をあやめた薩摩藩士で、海外逃亡した」といわれている人物であるが、それもあやしい。

薩摩藩か平戸松浦藩の藩主が、ヤジロウらを使って鉄砲と火薬を届けてくれる西欧人宣教師とポルトガル商人を迎えにやらせたのだろう。

8月15日に鹿児島に上陸するも、藩主の意向もあって8月中に鹿児島を去って平戸へ渡った。
ザビエルは平戸に2ヶ月間滞在していて、それから京都へ旅立った。

平戸で多くの信者の洗礼を行ったことは間違いない。

このことから、ゴアまでザビエルを迎えにやらせたのは平戸藩主であろう。
まずは南九州の覇者であって、中央勢力に対抗できる島津氏へ礼を尽くして先に行かせたのであろう。

鹿児島では、福昌寺の住職忍室(にんじつ)とザビエルの論争のどこかに問題があったようだ。

このことは、あとの記事で述べる。

こうしてみると、現在よりも当時の日本人は海を越えて積極的に世界とかかわりあってきたのである。

航海技術に長けた日本人倭寇や朝鮮人倭寇、中国人倭寇の果たした役割は大きかったはずだ。

倭寇は日本の海賊を指す言葉だが、後に倭寇の名をかたって朝鮮や中国沿岸で窃盗を働く集団が大量に発生していた。

日本人はゼロかわずか数名で、あとはほとんど中国人という「倭寇」も多かった。
彼らの中の一味のリーダー王直が、五島列島の本拠地からゴアへザビエルを迎えに行ったのであろう。

種子島にポルトガル商人2名を連れ鉄砲の売り込みへやってきたのは王直所有のジャンク船で、操船も王直自身が行っていた。

鉄砲の伝来によって軍事バランスが一変することに驚いた家康は、鎖国という手段で内乱を鎮め、西洋の植民地化へ対抗したのである。

打った「手」としては、家康の鎖国はなかなか鋭い戦略であると思う。
もし家康が鎖国をしなかったら、日本という国はどこかの植民地になっていた可能性がある。

西洋の日本に向けて打つ手は「開国要求」であるが、250年間もの長い間西欧はなかなかその要求を押し通せなかったのである。

幕末にやっとペリーがやってきて、黒船軍事力による威圧を背景にそれをなし遂げたのである。

幕末の松陰が世界の中の日本のあり方を考えていないわけはなかった。
戦国武将の家康でさえ、それほど真剣に悩み鎖国戦略を立てたのである。

街道歩きの得意な松陰の姿が蝋人形展の中に出ていた。

編み笠をかぶり、片ひざついて草鞋の緒を締める旅立ち姿だった。
蝋人形の傍の説明板にはこう書いてある。

『日本中を歩いて学んだ松陰

松陰16歳・山田亦介に、西欧諸国が盛んに東洋諸国を侵略して植民地としている状況を聞き大いに驚く。

鴉片(アヘン)戦争の結果、日本が老大国と信じ、文化の拠り所としていた清国が英国の為に破れた事は衝撃だった。

僅か唯一つ外国に向かって開いている港長崎、そして平戸、彼はそこに遊学し北九州各地を歴訪した。

特に平戸では葉山左内につき猛烈な勉強を開始する。

貸し与へられた新刊書の筆者に精力をささげた。
そして熊本に行き宮部鼎蔵と親友になった。

松陰は嘉永4年7月23日東北諸国遊歴を藩から許可されたが、宮部と共に南部藩士の安芸五蔵(江幡五郎)の仇討ちに協力する約束があったので、藩からの通行証明書が待ちきれず出発、奥州1円を巡って絵嘉永5年に江戸に帰り、藩邸にて脱藩の罪を問われ、萩に帰ったが、士籍を削られ、扶持も召し上げられ実父杉百合之助(はぐくみ)となりました。』(抜粋終わり)

松陰が脱藩し東北遊歴に旅立った日は、赤穂浪士討ち入りの日、つまり12月14日である。

多感な青年が、ちょっと前のドラマチックな事件にあこがれ、わが身をそこに置く気持ちはよくわかる。

ザビエルが平戸へ行き、そして300年後に松陰が平戸へ行ったのである。
平戸藩主は大石内蔵助と同じ山鹿素行から兵学を習っている。

平戸藩主は大石に討ち入りをけしかけ、成功してから両国橋のたもとで面会し天晴れとほめている。
そして、松陰は、平戸藩家老で山鹿素行の末裔である山鹿万介から兵学を学んでいる。

松陰が脱藩決行日として赤穂浪士討ち入りの日を選んだ意味は、多感な青年がドラマを夢見て選んだのとはわけが違うように思う。

松陰には討ち入りの日に重大事項を決行すべき必然性が生まれていたのではないだろうか。多感な萩の一青年が、そう洗脳され誘導されていたといっても良い。

蝋人形のそばの年表からはザビエルが削除されていて想像しにくいが、洋の東西を代表する重要人物二名は、時代は異なるものの小さな平戸の島で触れ合うことになる。

宗教哲学家でありイエズス会兵士(ザビエル書簡にその記載あり)でもあったザビエルと、日本の軍事革命専門家松陰との、時空を越えた出会いである。

蝋人形展企画者は、そのことを秘匿したかったのであろう。
これほど重要な「ザビエルの来日」を、その年表から省いてしまっている。

その企画者の中に金子重輔と同じ隠れキリシタンの紫福村(しぶきむら)の出身者がいたのだろう。

彼らは「重要な事実を秘匿する」ことで生き延びてきた人々である。

昨年私が歩いた奥州街道のことであるが、宿場終点の「三厩(みんまや)宿」から、更にバスで30分ほど北へ行くと、竜飛岬に至る。

松陰は歩いてそこまで行って海峡を眺めた。

「あれをご覧 竜飛岬 北のさいはて」は石川さゆりの代表曲である。

そこに立った松陰は、今風に言えば「メドベージェフ大統領の北方5島蹂躙」を強く憤った、ということになる。

『作家古川薫は「各地を行脚して志ある者と交流し、憂国の思いを述べ合う旅程の中で、激情と旅情が渾然(こんぜん)して吐露された魂の告白ともいうべき旅の詩が生まれた。松陰は、まさに吟遊詩人だった」と述べているが、

新潟での作、
「雪を排し来り窮(きわ)む北陸の陬(はて)
日暮れて乃(すなわ)ち海楼に向かって投ず

寒風栗烈(りつれつ)膚を裂かんと欲す
枉是(ことさら)に人に向って壮遊を誇る

悲しいかな男子蓬桑(ほうそう・天下を周遊せんとする志)の志
家郷更に慈親の憂となるを慈親子を憂うる致らざるなく
まさに算(かぞ)ふべし今夜何(いず)れの州(くに)に在るかと
枕頭眠り驚き燈滅せんと欲し涛声雷の如く夜悠々たり」

という詩も、松陰の真情をよく示すものであろう。

そうした松陰が佐渡から再び新潟に帰り、以後、酒田、本荘、秋田、大館、弘前、小泊とたどって三月五日、本州北辺の龍飛崎に立って、津軽海峡を目にしたとき、彼の心をとらえたものは、海峡の詩情といったものではなかった。

それは、海峡を傍若無人に通航する異国船への、いや、むしろそれを見過ごしているわが国自体への国士的な怒りであった。

龍飛崎と対岸松前の白神鼻とはわずかに三里、その間を恐れもなく通航する異国船に対して、わが方には何の手当もなく、これを傍観している。

一体、当局は何をしているのか。

切歯する思いであると憤慨しているのである。』
(「吉田松陰 その19 歴史舞台への登場」より)
http://www.rekishi.info/library/syoin/scrn2.cgi?n=1019

旅が若者を育て、そして国土を愛する心を育(はぐく)む。

しかし、松陰の脳内には陽明学や埼門学が既に注入されている。
よって改革も「現体制下での改善」ではとうてい済まない。
破壊して創り直そうとする。

現代で言えば、松陰青年は反カダフィであり、反ムバラクを叫び始めるのである。

蝋人形展を企画した人物の思いを想像してみると、彼が秘匿しようと努力しているザビエルの影が執拗に浮かびあがってくるのだった。

その影は、村田清風や村田右中の末裔、弟子たちへと掛かっていく。
おそらく松陰にもその影は届いたはずである。

時期は平戸滞在中であろう。

私はまだ松陰のキリシタンからの影響についてはその根拠を手にしていない。
よって、松陰と隠れキリシタンとの関係は、今はあくまで仮説のひとつに過ぎない。

ザビエルの影は、時代の推移にともなってキリシタン迫害者となった徳川幕府打倒へと雪崩を打っていくことになるが、それは当然すぎる帰結である。

ザビエルとその後継者たちは宣教師でもあるが、イエズス会兵士なのである。
仲間の宣教師や信者たちが信仰の自由を侵され殺されれば、その仇を討つべき立場にある。

ザビエルは来日してすぐの頃に大名による保護を願ったが、ポルトガル商人が持ち込んだ鉄砲の威力のために下克上の混乱を伴う戦国時代となってしまった。

庇護者だった大友宗麟や大内義隆が下克上により滅ぼされてしまった。

ザビエルは「朝廷や幕府の打倒」を彼の今後の行動目標に立てたことは間違いないだろう

イエズス会兵士ザビエルと兵学者松陰とは、時代を隔てて微妙な「和音」を奏でている。

その理由や証拠を探すのが、今回の萩の旅の目的であった。

蝋人形展のそばに掛けてある「松陰直筆の掛け軸」が目に付いた。

「自警の詩」松陰と書いてある。

士苟得正而斃
何必明哲保身
不能見幾而作
猶當殺身成仁
道並行而不悖
百世以俟聖人

これは安政六年(1859)3月14日、松陰30歳のときの詩である。
斬首刑になる7ヶ月前のものである。

冒頭句「士苟得正而斃」でGOOGLE検索してみたが、中国語の記事複数と拙著ブログしか検索されなかった。

日本人はあまり興味がないのだろう。

山鹿素行がその著「中朝事実」で地球上に残っている純粋な中国とは、日本のことであるという意味を実感した。

当時の日本の文学は、まさに純粋な中国・唐文化の影響を色濃く残したものであり、次の中国人と思われる萩観光客の書いた記事の中で、松陰の漢詩は自然体で収まっていた。

『至於在市區東面的松陰神社裏,我花上一整天的時間,因神社內的松陰遺墨展示館、松門神社、吉田松陰歷史館和小小的松下村塾,都得參觀;在吉田松陰歷史館裏,給我發現了一首意義深長但鮮見記載的松陰漢詩,題曰自警詩,於是連忙把它抄下,詩云:

士苟得正而斃,
何必明哲保身;
不能見幾而作,
猶當殺身成仁;
道並行而不悖,
百世以俟聖人。』
(「萩市行記」より部分抜粋)
http://bigfished.pixnet.net/blog/post/14811903


その後中国はモンゴルに侵略され、文化は人種的混合をしていくことになる。

日本国にだけ純粋な中国が残っていると主張した山鹿素行の意見には一理あると思った。

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