ヨセフの帰国と松陰の死~長州(129) [萩の吉田松陰]
SH3B0521「金子よ、あれが目指す黒船だ」(蝋人形展より)
SH3B0516「ハリス上陸」(蝋人形展より)
写真 「後から送りこまれたヨセフ」(浜田彦蔵(Wikipedia)より引用)
晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に杉梅太郎(松陰の兄)から受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。
晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。
晋作は執拗に久坂の「戦」の始まりと終わりを気にして梅太郎に書簡でたずねている。
それは「歴史を作る」ということなのだろうか。
この後の下関功山寺での晋作による奇兵隊決起は、確かに歴史を作った行動だったといえる。
しかもわざわざ雪の中を、深夜に功山寺境内まで騎馬で乗り付けている。
そこは急な長い階段が多い寺である。
馬も苦労して石段を登っていっただろう。
晋作が馬から下りて、馬の手綱を引いて歩いて上ったとしたら、それは大変興味深いことであるし、現地を見てみればそのほうが現実的でもある。
一度、雪の降り積もる夜の功山寺を上の境内まで騎馬で乗ってみたいと私は思っている。
あり得ないほど危険な行為ではないかと思うが、ひょっとして石段とは別に土の馬車道があったのかも知れない。
現地を歩いた体験からみて、「難儀しつつ馬で境内まで辿り着いた」という推測は成り立つが、おかしくもある。
映画製作でもそうであるが、ドラマ演出はなかなか大変なことである。
赤穂浪士討ち入りの12月14日を狙って挙兵したはずだが、手違いで1日遅れてしまった。
師匠が赤穂浪士討ち入りの日にこだわっていたことは晋作もよく知っていたはずだ。
だから12月に奇兵隊挙兵としたのである。
なのに、結局一日遅れてしまった。
そういうところも、晋作に人間味が感じられて面白い。
松陰はきちんと12月14日に江戸長州藩邸を脱藩して、東北遊歴の旅へと出発している。
師匠の方のドラマ演出はいつも完璧だった。
山鹿流兵学者は、忠臣蔵ドラマをお手本にするように演劇指導を受けているようである。
大石内蔵助も、赤穂藩お抱えの兵学者山鹿素行の指導を実地で受けている。
大石自身はあまり勉強に身が入らなかったようである。
なぜそう推理するかというと、討ち入りまでには優柔不断な期間が長く、松陰のようにスパッと行動はしていない。
仕方なく、最後はしぶしぶと腰を上げているが、行動を起こしたときは立派な山鹿流を披露している。
その点では、晋作の行動は大石に似ている。
大石も晋作も行動するならば、失敗しないようにと配慮を重ねている。
一方松陰の行動は、その場の激情に従い急である。
偽の仇討ちを目指す南部藩士を信じ切ってしまい、涙する松陰がいた。
松陰には人を疑う余裕すらなく、すぐに行動に移すところがある。
騙されやすく、純粋な人間であった。
斬首刑の前日に松陰が弟子へ書いた「留魂録」には、失敗を恐れるな、失敗から学べと諭していた。
失敗はあってもよいと松陰は考えていたのである。
むしろ失敗して、それが元で挫折するような奴は武士ではないと手厳しい。
就職活動で苦しんでいる学生さんたちには、多少の励ましの言葉になる。
学生さんは、大多数が学士か修士である。
その「士」という字は、「武士」からもぎ取って明治になって名づけたものである。
だから松陰が「士(さむらい)」へ投げかける言葉が学生さんたちの身に浸みるのも当たり前なのである。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」から部分的に解説を抜粋する。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
『一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す』
「一度失敗したからといって、たちまち挫折してしまうようでは、勇士とはいえないではないか。諸君よ、切に頼む、切に頼むぞ」
『今日の事、同志の諸士、戦敗の餘、傷残の同士を問訊する如くすべし』
「何が失敗だったのか。だれに責任があるのか。どうすれば、よかったのか。すべてを明らかにし、残すのだ。次の戦いには、それらに十分注意し、再び失敗せぬように戦え、そして勝て。」
久坂玄瑞ほどの松陰高弟であっても、師の松陰の哲学を実践することはできなかった。
受傷を負った久坂は鷹司邸内へ行き、朝廷への願いを訴えた。
相手の鷹司卿が恐れて逃げてしまい、その願いは届かなかった。
そのために久坂は邸内で自刃している。
久坂も恩師の遺言書「留魂録」を読んでいたはずだ。
師の言葉は、読んで知っていたとしても、あまりに実践することに困難を伴うものだった。
晋作においても、決起のタイミングを見計らうことにおいてかなり迷っていた。
目出度く奇兵隊決起はしたものの、戦や政治活動の中で死を敢えて選ぶということをしなかった。
しかし、松陰自身は、己(おのれ)が吐いた言葉通りの人生を歩いたように見える。
松陰がそういう人間であることが、松陰の敵(井伊直弼以外に朝廷内にもいたはずだ)には空恐ろしかったに違いない。
松陰は、朝廷も幕府も要らないと最後には言い出していた。
「幕末にあって民衆革命を叫んだ」のである。
平戸訪問時に松陰は長崎にも足を伸ばしている。
晋作よりも先に米国人宣教師フルベッキと松陰は会っているのではないか。
まだ、そういう資料にはめぐり合ってはいないのだが、萩歴史散歩を終えてみて、そんな気がしてきた。
調べてみると、「松陰とフルベッキの関係」については語られていないが、両者の間にいる人間を論じている対談があった。
これまでに私はフルベッキを米国人宣教師と紹介してきたが、無国籍の宣教師だったようだ。日本に墓がある。
『小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。
藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。
でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。
確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。
また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。
小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。
しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。
でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。
また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。
生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。
藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。
また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。
小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。
それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。
●忘れ去られた近代日本への影響
藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。
小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。
ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。
しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・
日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。
中略。
藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。
オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。
その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。
ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。
彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。
彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。
小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。
日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。
人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 』
(「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」より)
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=494
さらに松陰とフルベッキの関係を探ろうとしていると、熱く二人を語るブログ記事が見つかった。
よく読んでみると、この萩散歩の初め頃に書いた拙著ブログだった。
熱いはずである。
その題名は、「萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58)[萩の吉田松陰]」となっていた。
http://shono.blog.so-net.ne.jp/archive/20110116
『途中略。
周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。
ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。
徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。
世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。
月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。
その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。
囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂 松陰」
侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。
月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。
宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。
その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。
獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。
月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。
月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。
国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。
大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。
しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。
松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。
松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。
日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。
日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。
学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。
歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。
そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。
松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。
松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。
いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。
長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。
平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。』
(拙著ブログより再掲)
松陰が消された理由が、天皇制廃止、米国型大統領制導入という思想の転換にあるとそのときの私は推測していた。
今松陰神社を離れるにあたって、その思いはさらに強くなっている。
なぜかというと、聾唖の弟敏三郎でさえも、努力すれば米国では国家元首(大統領)になれるということを松陰は獄中で学んだからであろう。
獄中の松陰は、日本の国体を揺るがすほどに恐ろしい人物へと変わっていったのであろう。
松陰がまだ江戸伝馬町牢屋内で生きていた安政6年6月18日、アメリカは米国人で日系1世のジョセフを日本へ送り込んできた。
『中略。
日本人で初めて大統領に接見し、日本人で初めてアメリカに帰化した人物が、今年、アメリカ帰化後150周年を迎えました。
その人の名は、「ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)」日本名浜田彦蔵、兵庫人です。
現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた浜田彦蔵は、運搬船(樽廻船)の乗組員だった13歳(嘉永4年)のときに、静岡沖で遭難しました。
太平洋を漂流中に、中国から母国アメリカに帰港中の船オークランド号の乗組員に救助され、そのままサンフランシスコの土を踏むこととなります。
その2年後、嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。
その後、色んな事業をやり、「新聞の父」とも呼ばれています。
詳しく書き出すときりがないので、この程度で。
漂流民としてアメリカに渡った人物としては、高知土佐藩の「ジョン・万次郎」が有名ですね。
でも、アメリカでの実績や日本への貢献度からすると、ジョセフ・ヒコの方が上ではないかと思います。
でも、なぜかヒコは、あまりメジャーではありません。
一方、ジョン・万は、NHK大河ドラマ「篤姫」にも出てきてますよね。
ヒコにちょっと興味が沸いた方、「ジョセフ・ヒコ、アメリカ帰化150周年」を機会に、関連する本を読んでみてください。
文久年間に本人が書いた「漂流記」や、最近の出版本では「ヒコの幕末―漂流民ジョセフ・ヒコの生涯」など他にもありますので、ぜひ。』
(「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)
http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
米国大統領にあった幕末の日本人ジョセフ・ヒコは、何と「安政6年」に日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきている。
それは松陰が春に江戸送りされ、秋に斬首された年である。
『安政3年(1856)、総領事ハリスが来日した。
ハリスは、通商開国を強く求め、安政4年末には日米修好通商条約の案文が定まった。
安政5年(1858)、幕府は調印前に勅許を得ようとしたが、孝明天皇の強い攘夷の意思もあり、勅許を得ることはできなかった。
幕府は結局、勅許なしで調印をしたが、このことは尊攘激派の強い反発を買った。』(総領事ハリス来日と通商条約より)
http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku2.htm
ハリスの来日は安政3年である。
なのに、日本人通訳を安政6年に送り込み、補充している。
ハリス入国から3年も経過して、わざわざ日本人通訳を日本へ送り込んだアメリカFBIあるいはCIAの狙いは何だったのか。
当時そういう部局が米国政府内にあったかどうかは知らないが、アメリカは本来諜報好きな国民である。
ハリスの後ろに必ず諜報部隊が暗躍していたはずである。
『1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国、後任はロバート・プルイン。
辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。』タウンゼント・ハリス(Wikipedia)
ハリスが離日したのは、1862年つまり文久2年である。
5年9ヶ月も滞在していたから、来日したのは1856~7年頃となる。
つまり、ハリスは安政3年(1856)の「初来日」以来、ずっと日本に住んでいたのである。
そのハリスの通訳として、米国民となった元日本人が来日3年を経た安政6年に日本へやってきた。
通訳というより、何らかのスパイ活動のために送り込まれてきたのだろう。
革命扇動業務ではなかったか。
アフガン・タリバン養成係は、当初はアメリカ軍の担当だったという。
今はかつての教え子と戦争をしており、よって米国内の軍需産業は潤い続けている。
ジョセフ・ヒコは米国人国籍を取得し、米国大統領にも面会しているエリートである。
つまり、ジョセフ・ヒコは米国キリスト教(おそらくカトリック)の洗礼を受けていたはずだ。
そうでなくては、こうもとんとん拍子に大統領に謁見できないだろう。
アメリカは、ある確かな意図をもってジョセフ・ヒコを育てている。
アメリカの行動は、このように計画的でかつ合理的である。
今でもそうである。
『嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。』
(前回抜粋より再掲、「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
松陰は安政6年4月に萩・野山獄を出て江戸へ向かい、10月に江戸伝馬町で斬首された。
その間にジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)こと浜田彦蔵から、米国の民主主義と大統領制度の話を聞いたのではないか。
フルベッキ人脈の中に晋作は入ったが、松陰生存時にフルベッキ人脈が萩で駆動されていたかどうか。
私は隠れキリシタンの人脈から既に村田清風の全盛期にフルベッキ人脈もしくはそれに相当する人脈が動いていたと見ている。
ジョセフ・ヒコの情報は、「松陰の米国密航の目的」を完全達成するほど貴重なものであったはずだ。
松陰は、それを知ったらすかさず行動を起こすように訓練されてきた。
玉木文之進の教育の賜物である。
山田宇右門の影響もあっただろう。
そして、それは陽明学の基本理念でもある。
ジョセフ・ヒコからの情報を受け取り、獄中で松陰は日本革命の発動、幕府のみならず朝廷さえも消し去る過激な計画を発動しようとしたのではないだろうか。
それが、急いで松陰が消された理由であると私は推理した。
東京・世田谷の松陰神社の横の墓の前で、「この萩の青年はなぜ江戸で斬首などされたのか」と自然と感じたなぞはようやく解けそうになってきた。
なぜかではなく、必然的に松陰は消されたのである。
そのことにアメリカの政策判断のミスが働いていたのだろう。
ジョセフ・ヒコの日本への送り込みは問題を解決すると読み誤っていたのである。
それどころか、囲炉裏にガソリンを撒くような事態を惹起してしまった。
井伊直弼の悪役大老ぶりだけがドラマでは目だってしまうが、実は朝廷自身が大きく変質してしまった松陰を恐れ、幕府に命じて消させたのであろう。
ジョセフ・ヒコの来日前の安政6年春のことだが、松陰は「天朝も要らぬ」(朝廷不要)と書簡で書いているから、それ以前から火はついてしまっていたかも知れない。
『恐れながら、天朝も幕府 吾が藩も入らぬ、ただ六尺の微躯が入用』(野村万作に宛てた書簡より)
天朝を恐れてはいるから、まだ国体の破壊者ではない。
革命軍構成としては草莽崛起しかないという意味合いであろう。
ジョセフ・ヒコの来日は松陰の火に油を注いだであろう。
ジョセフ・ヒコの帰国という事件によって、松陰は日本全体を震えあがらせたのかも知れない。
兵庫県人船乗り浜田彦蔵の帰国とは、相手のアメリカ側から見れば、米国人となったキリスト教徒ジョセフ・ヒコによる日本革命の火付け役投入と期待されるだろう。
ジョセフは日本に着くと、まず長崎にいる米国宣教師フルベッキに面会して日本革命予備軍(タリバン)の事情を聴取しているはずだ。
米国名ジョセフとは、旧約聖書では「ヨセフ」である。
『ヤコブは、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。
別名をイスラエルといい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。
中略、
レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。
その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。
晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。
エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。』(ヤコブ (旧約聖書)(Wikipedia)より)
江戸(横浜?)滞在中のハリスのもとにジョセフ(ヨセフ)の名を持つヒコが送られてきた事実に、朝廷が一番驚いたのではないだろうか。
日ユ同祖論、つまり日本人の遠い祖先はユダヤ人であるという説を唱える人々は、日本人のルーツをイスラエル十二部族としているからである。
最近の遺伝子分析によれば、日本人である私たちの血の10%程度は中東からやってきたユダヤ人由来のものがあるらしい。
シルクロードを辿ってきた宝物は、奈良法隆寺の中に納められている。
絹の道の出発点はエルサレムである。
「宝物だけいただいて、混血していない」と言うほうがおかしいだろう。
孝明天皇が米国人との接触を毛嫌いしていた理由は、血の由来とも関係があったかも知れない。
そういう直感的な外国人嫌いの感情は、朝廷自身の手によって毒で消されたようである。
命がけで黒船密航を実行しようとした松陰である。
元日本人ジョセフ・ヒコ帰国の情報を入手して、じっとしているはずがない。
問題は松陰とジョセフ・ヒコとに接触があり得たかどうかである。
『安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用される。
6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。
(1860年)2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。
文久元年9月17日(1861年10月20日)当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じてにアメリカに戻った。
文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。
文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。
元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。』(浜田彦蔵(Wikipedia)より)
ヨセフの公的業務は、松陰の死後4ヵ月後に終わっている。
約4ヶ月の間、二人は同じ日本国に生きていたことになる。
松陰は、絶対といっていいが、弟子たちにジョセフの情報を入手して教えるように命じたはずである。
まるで松陰を死なせるためにジョセフが日本に送り込まれたような気がしてきた。
当時のアメリカ諜報部は、「日本列島の土人たちに対する植民地化戦略」を間違えたのではないだろうか。
米国で先進文明人となったヨセフを日本へ送り込むことで、親米派が増えると考えたのだろうが、日本におけるキリスト教徒への迫害の激しさを読み切れていなかったのだろう。
西洋人の想像を超えるキリスト教徒迫害が200年以上も続いている「神々の統べる国」なのだった。
ジョセフは、公務から離れ民間人としてビジネスに精を出そうとするも、殺されそうになり、アメリカに一時帰国している。
「日本人土人たち」は、米国人が征服を果たしたアメリカインディアンなどとは文化宗教面で大きく異なっていたのだ。
戦略を誤ったと気づいて早々に「ヨセフ戦略」は取りやめたようだが、松陰はその稚拙な諜報戦略ために犠牲となってしまったように思われる。
SH3B0516「ハリス上陸」(蝋人形展より)
写真 「後から送りこまれたヨセフ」(浜田彦蔵(Wikipedia)より引用)
晋作は、回先生(吉田松陰)の遺書を7月下旬に杉梅太郎(松陰の兄)から受け取り、同時期に久坂玄瑞の訃報に接することになる。
晋作が、死を決意する時期がそろそろと迫って来ている。
晋作は執拗に久坂の「戦」の始まりと終わりを気にして梅太郎に書簡でたずねている。
それは「歴史を作る」ということなのだろうか。
この後の下関功山寺での晋作による奇兵隊決起は、確かに歴史を作った行動だったといえる。
しかもわざわざ雪の中を、深夜に功山寺境内まで騎馬で乗り付けている。
そこは急な長い階段が多い寺である。
馬も苦労して石段を登っていっただろう。
晋作が馬から下りて、馬の手綱を引いて歩いて上ったとしたら、それは大変興味深いことであるし、現地を見てみればそのほうが現実的でもある。
一度、雪の降り積もる夜の功山寺を上の境内まで騎馬で乗ってみたいと私は思っている。
あり得ないほど危険な行為ではないかと思うが、ひょっとして石段とは別に土の馬車道があったのかも知れない。
現地を歩いた体験からみて、「難儀しつつ馬で境内まで辿り着いた」という推測は成り立つが、おかしくもある。
映画製作でもそうであるが、ドラマ演出はなかなか大変なことである。
赤穂浪士討ち入りの12月14日を狙って挙兵したはずだが、手違いで1日遅れてしまった。
師匠が赤穂浪士討ち入りの日にこだわっていたことは晋作もよく知っていたはずだ。
だから12月に奇兵隊挙兵としたのである。
なのに、結局一日遅れてしまった。
そういうところも、晋作に人間味が感じられて面白い。
松陰はきちんと12月14日に江戸長州藩邸を脱藩して、東北遊歴の旅へと出発している。
師匠の方のドラマ演出はいつも完璧だった。
山鹿流兵学者は、忠臣蔵ドラマをお手本にするように演劇指導を受けているようである。
大石内蔵助も、赤穂藩お抱えの兵学者山鹿素行の指導を実地で受けている。
大石自身はあまり勉強に身が入らなかったようである。
なぜそう推理するかというと、討ち入りまでには優柔不断な期間が長く、松陰のようにスパッと行動はしていない。
仕方なく、最後はしぶしぶと腰を上げているが、行動を起こしたときは立派な山鹿流を披露している。
その点では、晋作の行動は大石に似ている。
大石も晋作も行動するならば、失敗しないようにと配慮を重ねている。
一方松陰の行動は、その場の激情に従い急である。
偽の仇討ちを目指す南部藩士を信じ切ってしまい、涙する松陰がいた。
松陰には人を疑う余裕すらなく、すぐに行動に移すところがある。
騙されやすく、純粋な人間であった。
斬首刑の前日に松陰が弟子へ書いた「留魂録」には、失敗を恐れるな、失敗から学べと諭していた。
失敗はあってもよいと松陰は考えていたのである。
むしろ失敗して、それが元で挫折するような奴は武士ではないと手厳しい。
就職活動で苦しんでいる学生さんたちには、多少の励ましの言葉になる。
学生さんは、大多数が学士か修士である。
その「士」という字は、「武士」からもぎ取って明治になって名づけたものである。
だから松陰が「士(さむらい)」へ投げかける言葉が学生さんたちの身に浸みるのも当たり前なのである。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」から部分的に解説を抜粋する。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
『一敗乃ち挫折する、豈に勇士の事ならんや。切に嘱す、切に嘱す』
「一度失敗したからといって、たちまち挫折してしまうようでは、勇士とはいえないではないか。諸君よ、切に頼む、切に頼むぞ」
『今日の事、同志の諸士、戦敗の餘、傷残の同士を問訊する如くすべし』
「何が失敗だったのか。だれに責任があるのか。どうすれば、よかったのか。すべてを明らかにし、残すのだ。次の戦いには、それらに十分注意し、再び失敗せぬように戦え、そして勝て。」
久坂玄瑞ほどの松陰高弟であっても、師の松陰の哲学を実践することはできなかった。
受傷を負った久坂は鷹司邸内へ行き、朝廷への願いを訴えた。
相手の鷹司卿が恐れて逃げてしまい、その願いは届かなかった。
そのために久坂は邸内で自刃している。
久坂も恩師の遺言書「留魂録」を読んでいたはずだ。
師の言葉は、読んで知っていたとしても、あまりに実践することに困難を伴うものだった。
晋作においても、決起のタイミングを見計らうことにおいてかなり迷っていた。
目出度く奇兵隊決起はしたものの、戦や政治活動の中で死を敢えて選ぶということをしなかった。
しかし、松陰自身は、己(おのれ)が吐いた言葉通りの人生を歩いたように見える。
松陰がそういう人間であることが、松陰の敵(井伊直弼以外に朝廷内にもいたはずだ)には空恐ろしかったに違いない。
松陰は、朝廷も幕府も要らないと最後には言い出していた。
「幕末にあって民衆革命を叫んだ」のである。
平戸訪問時に松陰は長崎にも足を伸ばしている。
晋作よりも先に米国人宣教師フルベッキと松陰は会っているのではないか。
まだ、そういう資料にはめぐり合ってはいないのだが、萩歴史散歩を終えてみて、そんな気がしてきた。
調べてみると、「松陰とフルベッキの関係」については語られていないが、両者の間にいる人間を論じている対談があった。
これまでに私はフルベッキを米国人宣教師と紹介してきたが、無国籍の宣教師だったようだ。日本に墓がある。
『小島 私は九州の福岡県で生まれた人間だから、そんな感じがしないこともない。ただ、東京の人は地方の出身者に偏見を持つから、東国政権としての徳川幕府を倒した薩長の人間に対してとくに反発するのでしょう。
藤原 そういわれると図星だから参ってしまいます。
でも、明治政府を支配した長州系の権力者の多くが、吉田松陰の松下村塾の出身者だから、松陰を偉大に描きすぎていると思うのです。
確かに、松下村塾からは高杉晋作をはじめとして、伊藤博文や山縣有朋などが出ているし、彼らは奇兵隊を指揮して立身出世しています。
また、吉田松陰が教育者として孟子をテキストに使い、人材を育て上げたことに関しては評価するが、松下村塾はある意味でテロリスト養成所として、タリバン(神学塾生)に似ているのではないかと思います。
小島 アフガンのタリバンとの比較は奇抜なだけでなく、タイムリーな発想でとてもわかりやすい。
しかし、吉田松陰の信奉者たちが聞いたら怒るでしょう。
でも、松下村塾の四天王と呼ばれて皆の尊敬を集めていた高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵ら全員が、御一新が完成するのを迎える前に斃れています。
また、佐世八十郎(前原一誠)は新政府で陸軍大輔になったが、辞任した後で萩の乱の首謀者として処刑された。
生き残って明治政府で栄華を極めたのは、足軽出身である伊藤博文と山縣有朋でした。
藤原 この2人は奇兵隊の指揮官として足場を築き、有能な先輩がどんどん死んでいったおかけで、明治になってから位人臣を極めています。
また、伊藤の場合は幕末のロンドンに密航して渡り、半年ほど滞在して英国の社会を体験しています。
小島 伊藤悛輔(博文)と井上聞多(馨)が訪英したのは、福沢諭吉が訪欧から戻ってから半年後の1863(文久3)年であり、ロンドンで下関砲撃のニュースを聞いたので、大急ぎで帰国したのに英語はかなりできたようです。
それからは長州征伐の混乱期だったので、2人は銃の手配に長崎に何度も出かけて、武器商人のグラバーや坂本竜馬と取引しており、このへんが歴史のエピソードとして面白いところです。
●忘れ去られた近代日本への影響
藤原 ちょうど蘭学から英学に移行する時期に当たり、フルベッキはその橋渡しの役目を果たしたが、福沢諭吉も一歩先んじてその体験をしています。
小島 福沢諭吉は長崎で蘭学を学んで大坂に出て、緒方洪庵の適々斎塾で学び塾長になるが、藩命で江戸に行って蘭学塾を開く。
ところが、ある日のこと、横浜に行ったら看板が読めず、役に立たないオランダ語から英語に切り替え、ショックで蘭学をやめて英学に変わった話は有名です。
しかも、万延元年(1860)の遣米使節団に木村摂津守の従僕として渡米し、続いて遣欧使節団の翻訳方としてヨーロッパ各地を訪れ、その体験から『西洋事情』をまとめて出版した。・・・中略・・・
日本との結びつきという意味でオランダの存在は、江戸時代の長崎の出島における関係だけでなく、幕末から明治における西周や榎本武揚を含めて、近代日本に大きな影響を及ぼしています。
中略。
藤原 私の青春時代の体験を通じてよくわかることは、フルベッキの生き方の中にオランダ気質が沈積しており、「彷徨えるオランダ人」-フライング・ダッチマンーそのものだという点です。
オランダ生まれの彼はユトレヒトの工科学校に学び、20歳の時に新天地を求めてアメリカに渡り、鉄道技師として働いていた。
その時に伝染病で倒れたが、病床で宣教師になって布教しようと決めます。
ちょうど日本はペリーの黒船に脅かされて開国を決め、帝国主義の勢力争いの穴場に似たところだったのです。
彼は布教のために幕末の長崎にやってきたが、日本は蘭学から英学に関心が移る転換期であり、フルベッキは架け橋の役目を果たしたのです。
彼は海外での長い彷徨でオランダ国籍を失ったが、肩書きに執着しないからアメリカの国籍も取らず、日本でも帰化しないで地味に暮らしたので、無国籍の世界市民として日本で生涯を終えた。東京の青山墓地に葬られているのです。
そこで無理を承知でお願いしたいのですが、福沢山脈を探検して記録を残した小島先生に、フルベッキ山脈にも踏み込んでほしいのです。
小島 フルベッキが大隈重信や副島種臣をはじめとして、高橋是清に至る明治に活躍した日本人に、絶大な影響を与えたことは疑いえない。
日本人としてその恩恵を大いに感謝したいと恩います。
人材を育てた恩人としてのフルベッキ先生は、一般には明治のお雇い外国人の1人であるという形で、その貢献に対して評価が行われているが、「彷徨えるオランダ人」という捉え方は実に新鮮です。
彼が育てた幕末の日本の若者が成長して、その実力と見識によって近代日本が作られ、日本の進路が決まったことがわかった以上は、ライジングサンのフライング・ダッチマンの存在が、これからの仕事にとって大きな励みになります。 』
(「近代日本の基盤としてのフルベッキ山脈」より)
http://2006530.blog69.fc2.com/?mode=m&no=494
さらに松陰とフルベッキの関係を探ろうとしていると、熱く二人を語るブログ記事が見つかった。
よく読んでみると、この萩散歩の初め頃に書いた拙著ブログだった。
熱いはずである。
その題名は、「萩藩寄組(上士)の繁沢家~長州(58)[萩の吉田松陰]」となっていた。
http://shono.blog.so-net.ne.jp/archive/20110116
『途中略。
周布家は大組士の筆頭だった。
高杉家も同じ大組士だったから、晋作は周布政之助の子分のような位置付けだったのだろう。
ちょうど土佐の下士(かし)である武智半平太と坂本龍馬の関係に似ている。
徳川幕府は倒したいほど憎いが、現在の主君毛利は憎めないにしても、上士の連中の鼻持ちならぬ態度には我慢ができない、下士とはそういう立場であった。
世が乱れたときに、彼ら下士が勇敢に立ち上がることは自明のことであった。
月性は国を乱すことで、攘夷思想にかぶれた下士連中が尊王のために命を捨てるというメカニズムを掌握した上で、松陰をけしかけたのであろう。
その武士の本能刺激実験は、元禄時代に赤穂藩の浪士たちで実証済みであったのだ。
歌舞伎や芝居、小説などで、世間にも十分知らしめてきた。
武士は桜花のように主君のために散るものであると。
囚人籠の中の松陰が泉岳寺前を護送されて通過するときに歌ったこの歌は、そのメカニズムを正確に理解し切った上で、敢えて黒船に乗り込んだ松陰自身を称える歌でもあった。
「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂 松陰」
侍とはこうあるべきだ、というメカニズムの宣伝であり、宣言である。
月性の「松陰火薬」への点火仕掛けは、きわめて知的な戦略に基づいている。
しかし、聡明な松陰は、そのからくり、仕組みに既に気づいていたのではないだろうか。
宇都宮黙霖からの最初の面会要請を拒絶した松陰は、それを見破っていたのはないだろうか。
その間に何か大きな情勢の変化があったのだろう。
梅田雲浜の獄中での病死だったのか、まだ私は追求仕切れていない。
獄中の松陰は、あえて月性の誘いに身を委ねようと決意したような気がしてきた。
月性が放ったと思われる聾唖の僧宇都宮黙霖と松陰との文通は、松陰をして感情的な高ぶりへと誘導していったと言われるが、事実は逆ではないのか。
月性の戦略は確かに緻密で頭脳的ではあったが、そのからくりを読み取った上で、敢えて松陰はその流れに身を任せたのではないだろうか。
国の大乱に乗じて昔の主君の復権を図る。
その場合の松陰にとっての主君は天皇政治であり、大内家再興だったと思われる。
大乱に乗じて復権を図る。
そういう視点では、石見の地頭職だった周布家の人々の思いも同じだったであろう。
しかし、佐久間象山など西洋に通じた知識人たちとの接触や、長崎平戸での海外事情聴取の結果、松陰の世界観は急激に変化していったはずだ。
松陰の主君とはいつまでも天皇だったか。
一般の民、とりわけ実家杉家の末弟である聾唖の敏三郎、彼らが国家の主役であるという西洋思想に心を打たれたのではないだろうか。
松陰の死後であるが、文久3年にはアメリカ南北戦争で黒人奴隷の騎兵隊が、白人騎兵隊を打ち負かす事件が起きている。
晋作の奇兵隊結成には、その米国での一大事件に関する知識が反映されている可能性が高い。そのニュースを晋作に知らせてくれたのは長崎で出会った宣教師フルベッキであろう。
日本史の中で「風雲急を告げる文久三年」と浪曲やドラマでナレーションが流れるが、鉄砲の登場で風雲急を告げたのはアメリカ黒人奴隷の軍隊化であり、南北戦争終結の見通しが見えた文久3年には、世界中であまる銃器をどこに売りつけるかというビジネスが「風雲」急を告げたのである。
日本史と世界史を分けて教えるから、それが日本人にはなかなか見えてこない。
私は還暦になってようやくぼんやり戊辰戦争の背景が見えてきたところだ。
学校の歴史分野の教師の皆さん自身が見えていないのではないだろうか。
見てみぬ振りをせよとでもいうのだろうか。
歴史は繰り返すという。
歴史を知らない国民は、何度でも同じ過ちを繰り返すことだろう。
そういう時代にあって、長崎経由の知識人脈もある松陰は、アメリカ大統領制度について知識を得たはずだ。
明治革命後の政治形態にそれを考え始めたのではないだろうか。
松陰の主君は天皇に代わって国民になり始めていたのであろう。
それは、幕府にとっても朝廷にとっても危険な存在となりえる。
松陰が消された本当の理由は、老中暗殺計画暴露などではなく、「主君の変更」にあるのではないかと感じている。
いずれ米国大統領制度と松陰の関係は調べてみたい。
長崎で晋作は米国の宣教師フルベッキに会っている。
師匠の松陰はそのとき既に他界していたが、フルベッキは松陰が全く知らない世界の人脈ではないはずだ。
平戸へ行けば。長崎の人脈や情報はすぐに手に入る。
鹿児島、平戸、長崎はザビエルの日本上陸後の南九州での行動範囲内にある。』
(拙著ブログより再掲)
松陰が消された理由が、天皇制廃止、米国型大統領制導入という思想の転換にあるとそのときの私は推測していた。
今松陰神社を離れるにあたって、その思いはさらに強くなっている。
なぜかというと、聾唖の弟敏三郎でさえも、努力すれば米国では国家元首(大統領)になれるということを松陰は獄中で学んだからであろう。
獄中の松陰は、日本の国体を揺るがすほどに恐ろしい人物へと変わっていったのであろう。
松陰がまだ江戸伝馬町牢屋内で生きていた安政6年6月18日、アメリカは米国人で日系1世のジョセフを日本へ送り込んできた。
『中略。
日本人で初めて大統領に接見し、日本人で初めてアメリカに帰化した人物が、今年、アメリカ帰化後150周年を迎えました。
その人の名は、「ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)」日本名浜田彦蔵、兵庫人です。
現在の兵庫県加古郡播磨町で生まれた浜田彦蔵は、運搬船(樽廻船)の乗組員だった13歳(嘉永4年)のときに、静岡沖で遭難しました。
太平洋を漂流中に、中国から母国アメリカに帰港中の船オークランド号の乗組員に救助され、そのままサンフランシスコの土を踏むこととなります。
その2年後、嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。
その後、色んな事業をやり、「新聞の父」とも呼ばれています。
詳しく書き出すときりがないので、この程度で。
漂流民としてアメリカに渡った人物としては、高知土佐藩の「ジョン・万次郎」が有名ですね。
でも、アメリカでの実績や日本への貢献度からすると、ジョセフ・ヒコの方が上ではないかと思います。
でも、なぜかヒコは、あまりメジャーではありません。
一方、ジョン・万は、NHK大河ドラマ「篤姫」にも出てきてますよね。
ヒコにちょっと興味が沸いた方、「ジョセフ・ヒコ、アメリカ帰化150周年」を機会に、関連する本を読んでみてください。
文久年間に本人が書いた「漂流記」や、最近の出版本では「ヒコの幕末―漂流民ジョセフ・ヒコの生涯」など他にもありますので、ぜひ。』
(「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)
http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
米国大統領にあった幕末の日本人ジョセフ・ヒコは、何と「安政6年」に日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきている。
それは松陰が春に江戸送りされ、秋に斬首された年である。
『安政3年(1856)、総領事ハリスが来日した。
ハリスは、通商開国を強く求め、安政4年末には日米修好通商条約の案文が定まった。
安政5年(1858)、幕府は調印前に勅許を得ようとしたが、孝明天皇の強い攘夷の意思もあり、勅許を得ることはできなかった。
幕府は結局、勅許なしで調印をしたが、このことは尊攘激派の強い反発を買った。』(総領事ハリス来日と通商条約より)
http://bakumatu.727.net/bakumatu/tuushi1-kaikoku2.htm
ハリスの来日は安政3年である。
なのに、日本人通訳を安政6年に送り込み、補充している。
ハリス入国から3年も経過して、わざわざ日本人通訳を日本へ送り込んだアメリカFBIあるいはCIAの狙いは何だったのか。
当時そういう部局が米国政府内にあったかどうかは知らないが、アメリカは本来諜報好きな国民である。
ハリスの後ろに必ず諜報部隊が暗躍していたはずである。
『1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国、後任はロバート・プルイン。
辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。』タウンゼント・ハリス(Wikipedia)
ハリスが離日したのは、1862年つまり文久2年である。
5年9ヶ月も滞在していたから、来日したのは1856~7年頃となる。
つまり、ハリスは安政3年(1856)の「初来日」以来、ずっと日本に住んでいたのである。
そのハリスの通訳として、米国民となった元日本人が来日3年を経た安政6年に日本へやってきた。
通訳というより、何らかのスパイ活動のために送り込まれてきたのだろう。
革命扇動業務ではなかったか。
アフガン・タリバン養成係は、当初はアメリカ軍の担当だったという。
今はかつての教え子と戦争をしており、よって米国内の軍需産業は潤い続けている。
ジョセフ・ヒコは米国人国籍を取得し、米国大統領にも面会しているエリートである。
つまり、ジョセフ・ヒコは米国キリスト教(おそらくカトリック)の洗礼を受けていたはずだ。
そうでなくては、こうもとんとん拍子に大統領に謁見できないだろう。
アメリカは、ある確かな意図をもってジョセフ・ヒコを育てている。
アメリカの行動は、このように計画的でかつ合理的である。
今でもそうである。
『嘉永6年に日本人で初めて当時の大統領フランクリン・ピアーズに接見します。
安政5年には、これも日本人で初めてアメリカに帰化。
翌6年には、日本領事のハリスの通訳として採用され、日本に戻ってきます。』
(前回抜粋より再掲、「新アメリカ大統領と、大統領に初めて会った日本人のこと」より)http://ryomaniax.blog15.fc2.com/blog-entry-24.html
松陰は安政6年4月に萩・野山獄を出て江戸へ向かい、10月に江戸伝馬町で斬首された。
その間にジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)こと浜田彦蔵から、米国の民主主義と大統領制度の話を聞いたのではないか。
フルベッキ人脈の中に晋作は入ったが、松陰生存時にフルベッキ人脈が萩で駆動されていたかどうか。
私は隠れキリシタンの人脈から既に村田清風の全盛期にフルベッキ人脈もしくはそれに相当する人脈が動いていたと見ている。
ジョセフ・ヒコの情報は、「松陰の米国密航の目的」を完全達成するほど貴重なものであったはずだ。
松陰は、それを知ったらすかさず行動を起こすように訓練されてきた。
玉木文之進の教育の賜物である。
山田宇右門の影響もあっただろう。
そして、それは陽明学の基本理念でもある。
ジョセフ・ヒコからの情報を受け取り、獄中で松陰は日本革命の発動、幕府のみならず朝廷さえも消し去る過激な計画を発動しようとしたのではないだろうか。
それが、急いで松陰が消された理由であると私は推理した。
東京・世田谷の松陰神社の横の墓の前で、「この萩の青年はなぜ江戸で斬首などされたのか」と自然と感じたなぞはようやく解けそうになってきた。
なぜかではなく、必然的に松陰は消されたのである。
そのことにアメリカの政策判断のミスが働いていたのだろう。
ジョセフ・ヒコの日本への送り込みは問題を解決すると読み誤っていたのである。
それどころか、囲炉裏にガソリンを撒くような事態を惹起してしまった。
井伊直弼の悪役大老ぶりだけがドラマでは目だってしまうが、実は朝廷自身が大きく変質してしまった松陰を恐れ、幕府に命じて消させたのであろう。
ジョセフ・ヒコの来日前の安政6年春のことだが、松陰は「天朝も要らぬ」(朝廷不要)と書簡で書いているから、それ以前から火はついてしまっていたかも知れない。
『恐れながら、天朝も幕府 吾が藩も入らぬ、ただ六尺の微躯が入用』(野村万作に宛てた書簡より)
天朝を恐れてはいるから、まだ国体の破壊者ではない。
革命軍構成としては草莽崛起しかないという意味合いであろう。
ジョセフ・ヒコの来日は松陰の火に油を注いだであろう。
ジョセフ・ヒコの帰国という事件によって、松陰は日本全体を震えあがらせたのかも知れない。
兵庫県人船乗り浜田彦蔵の帰国とは、相手のアメリカ側から見れば、米国人となったキリスト教徒ジョセフ・ヒコによる日本革命の火付け役投入と期待されるだろう。
ジョセフは日本に着くと、まず長崎にいる米国宣教師フルベッキに面会して日本革命予備軍(タリバン)の事情を聴取しているはずだ。
米国名ジョセフとは、旧約聖書では「ヨセフ」である。
『ヤコブは、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。
別名をイスラエルといい、イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなヤコブの子孫を称する。
中略、
レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。
その息子たちがイスラエル十二部族の祖となったとされている。
晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。
エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。』(ヤコブ (旧約聖書)(Wikipedia)より)
江戸(横浜?)滞在中のハリスのもとにジョセフ(ヨセフ)の名を持つヒコが送られてきた事実に、朝廷が一番驚いたのではないだろうか。
日ユ同祖論、つまり日本人の遠い祖先はユダヤ人であるという説を唱える人々は、日本人のルーツをイスラエル十二部族としているからである。
最近の遺伝子分析によれば、日本人である私たちの血の10%程度は中東からやってきたユダヤ人由来のものがあるらしい。
シルクロードを辿ってきた宝物は、奈良法隆寺の中に納められている。
絹の道の出発点はエルサレムである。
「宝物だけいただいて、混血していない」と言うほうがおかしいだろう。
孝明天皇が米国人との接触を毛嫌いしていた理由は、血の由来とも関係があったかも知れない。
そういう直感的な外国人嫌いの感情は、朝廷自身の手によって毒で消されたようである。
命がけで黒船密航を実行しようとした松陰である。
元日本人ジョセフ・ヒコ帰国の情報を入手して、じっとしているはずがない。
問題は松陰とジョセフ・ヒコとに接触があり得たかどうかである。
『安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用される。
6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。
(1860年)2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。
文久元年9月17日(1861年10月20日)当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じてにアメリカに戻った。
文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。
文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。
元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。』(浜田彦蔵(Wikipedia)より)
ヨセフの公的業務は、松陰の死後4ヵ月後に終わっている。
約4ヶ月の間、二人は同じ日本国に生きていたことになる。
松陰は、絶対といっていいが、弟子たちにジョセフの情報を入手して教えるように命じたはずである。
まるで松陰を死なせるためにジョセフが日本に送り込まれたような気がしてきた。
当時のアメリカ諜報部は、「日本列島の土人たちに対する植民地化戦略」を間違えたのではないだろうか。
米国で先進文明人となったヨセフを日本へ送り込むことで、親米派が増えると考えたのだろうが、日本におけるキリスト教徒への迫害の激しさを読み切れていなかったのだろう。
西洋人の想像を超えるキリスト教徒迫害が200年以上も続いている「神々の統べる国」なのだった。
ジョセフは、公務から離れ民間人としてビジネスに精を出そうとするも、殺されそうになり、アメリカに一時帰国している。
「日本人土人たち」は、米国人が征服を果たしたアメリカインディアンなどとは文化宗教面で大きく異なっていたのだ。
戦略を誤ったと気づいて早々に「ヨセフ戦略」は取りやめたようだが、松陰はその稚拙な諜報戦略ために犠牲となってしまったように思われる。
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ナポレオンを目指した晋作~長州(128) [萩の吉田松陰]
写真 功山寺挙兵の銅像(高杉晋作(Wikipedia)より引用)
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。
ここでは原文のみ抜粋する。
この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。
松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。
『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付
徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。
列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。
那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。
徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。
「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。
そう書いていて、思い当たった。
晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。
後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。
はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。
奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。
しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。
なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。
あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。
奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。
天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。
民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。
高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。
奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。
晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。
黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。
その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。
晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。
晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。
晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。
写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。
青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」を読んだ。
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
「吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付」の内容解説である。
あの「草莽崛起」の言葉の初出の書簡である。
わかりやすく解説されている。
ここでは原文のみ抜粋する。
この書簡の宛名人である北山安世は、明治になって、自宅幽閉されていたとき実母を殺して狂死したことは既に述べた。
松陰処刑の半年前に書かれた書簡である。
『吉田松陰北山安世宛書簡安政六年四月七日付
徳川存する内は遂に墨・魯・暗・仏に制せらるゝこと、どれ程に立行べくも計り難し、実に長大息なり。幸に上に明天子あり、深く爰に叡慮を悩されたれども、□紳衣魚も陋習は幕府より更に甚しく、ただ外夷を近ては神の汚れと申す事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召されず、事の成らぬも固より其の所なり。
列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。
征夷外夷に降参すれば其の後に従て降参する外に手段なし。
独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛を受くること血性ある者視るに忍ぶべけんや。
那波列翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。
僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。
徒に岸獄に坐するを得るのみ。
此の余の所置妄言すれば則ち族矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。
されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。
草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし』
(青山繁晴さん解説の「吉田松陰「草莽崛起論」」より抜粋)
http://blog.goo.ne.jp/ryogonsan/c/a227880520ed4f07a5fd1fee70eda345
幕府も大名も酔っ払いと同じだと断言している。
「那波列(ナポレオン)翁を起して、フレーヘードを唱へねば腹悶医し難し。」は、ナポレオンを起こして自由を唱えねば、問題解決しないという意味で、松陰は軍事クデターの後で民主主義革命を意図していたようだ。
そう書いていて、思い当たった。
晋作はその絵姿を功山寺に残像として残していることに気づいた。
後ろ足立ちして勇む馬を馬上で手綱を操る晋作の銅像である。
写真の銅像が、今の功山寺境内にある。
はじめて現物を見学したとき、「意外と小さい人物だったのだなあ」という印象しか私は持たなかった。
奇兵隊長の馬の体格は立派なのであるが、意外に小柄な晋作のイメージが焼きついている。
しかし、小兵ながらも、晋作の気構えは大きかった。
師の考え方をなぞりつつ、ドラマチックに奇兵隊決起をした晋作だった。
なかなか恩師の言葉通りに生死を選択できなかった晋作であったが、いよいよ死を覚悟して行動を開始したときは、師の言葉通りの絵姿を残していた。
あの椎原の晋作の草庵で、よくよく松陰の書簡や遺書を読み込んだのであろう。
奇兵の「奇」と「狂」とは、ともに「民衆」を意味するらしい。
天下泰平の貴族から見れば、近衛兵が正規軍だし、幕府軍は朝廷の傭兵であって征夷大将軍である。
民衆の軍隊なんて、というあざけりの意味合いが「奇兵」や「狂」の中に含まれている。
高杉晋作は通称であって字は暢夫、号は東行、東洋一狂生と称した。
奇兵も東洋一狂生も、そんな貴族どものあざけりを受け取って今に見ておれという意気込みを含めた用語なのである。
晋作はアメリカで黒人奴隷が白人の正規軍を破ったニュースをどこかで聞いていたのではないか。
黒人奴隷部隊のマサチューセッツ第54歩兵連隊は、チャールストン湾入口のFort Wagner(ワグナー砦)を攻撃することとなった。
『1863年7月18日の戦闘で、連邦軍は1,600名の死傷者を出したが、マサチューセッツ第54歩兵連隊は勇敢に戦い、多くの人々の黒人に対する偏見を一掃した。』
(「Boston African American National Historic site)より)
http://usnp.exblog.jp/5771055/
ワグナー砦の攻撃で黒人「奇兵」部隊が勝利を挙げたのは、日本の暦で言えば文久3年(1863)7月18日となる。
その1ヵ月後、日本の京都で政治クーデターが発生している。
8月18日の政変で、それにより禁門の変が誘発されている。
晋作の挙兵は、文久4年(1864年)12月15日であるから、1年半年も前のアメリカのニュースは長崎の米国人宣教師フルベッキから晋作へ届けられていた可能性がきわめて高い。
晋作は上海視察にいくとき、長崎でフルベッキと懇談している。
晋作は「勝てる戦」と見たから決起したのである。
最後まで慎重な性格の人物だったのだろう。
写真は功山寺挙兵のときの晋作の騎馬像であるが、ナポレオン騎馬像にとてもよく似ている。
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