大日とデウスの戦い~長州(132) [萩の吉田松陰]

SH3B0509読み下し.jpgSH3B0509読み下し 松陰「自警の詩」の読み下し文

大日とデウスの戦い~長州(132)
SH3B0509読み下し 松陰「自警の詩」の読み下し文

先ほどの「西欧の東洋侵略」年表は、「1854(安政元年)クリミア戦争はじまる」で終わっていた。

明治維新とは「クリミア戦争」を知ることですべてが把握できるのではないだろうか。

私は高校で日本史を選択したため、クリミア戦争のことをまったく知らない。
私の脳は歴史という意味において、きわめて巧妙に分断されている。

日本国内のことしかわからないのである。

第2次世界大戦で敗戦した日本は、再建時の憲法制定から教育法制定までアメリカを中心とする欧米諸国の意向のもとで再興を果たした。

その国で教育された私は、そこで育ち還暦を迎えて高齢者の仲間入りを果たした。

その私はクリミア戦争のことや、それと明治維新革命とのかかわりについてまったく何も知らない。
やがて知らないまま死んでいくことになるのだが、それでよいのだろうか?

お釈迦様の手のひらの上で生かされているという言い方があるが、現代日本人はキリスト様あるいはダビデ王の手のひらの上で生かされているのではないのだろうか。

『Rothschild-26  阿片戦争

産業革命により、ヨーロッパ各国は経済力をつけると共に、その製品のはけ口としての市場を奪い合うようになって、争いは容易に軍事衝突にエスカレートするようになりました。

同時に、人々の国家意識が高揚し、封建領主の土地に細分化されていたドイツやイタリアにも国民国家を求める機運が高まり、こうした情勢下で始まったのがロシアのトルコ干渉に端を発したクリミア戦争(1853-1865年)であります。

イギリス、フランスが参戦したこの戦争で、ロスチャイルド家はトルコ側に立ち、戦時公債の起債に協力しましたが、その背景にはロシアでのユダヤ人迫害がありました。

かねてから、ロシアのユダヤ人弾圧政策に反発していたロンドン、パリの分家はそれぞれ総力を挙げてイギリス、フランス両軍の遠征費の調達を行い、トルコにも借款を行い、戦局はクリミア半島のロシアのセヴェストーポリ要塞の攻略に成功したトルコ英仏連合の勝利に終わり、ロスチャイルド家は久しぶりに大きな利益を上げました。

実は、江戸末期に起こったアメリカの南北戦争、ロシアのクリミア戦争は、我々日本にも大きな影響を与える事になります。

それは、この戦争のおかげで、ヨーロッパ列強は忙しく、日本を侵略することが出来ず、時間稼ぎができた日本は、ヨーロッパの植民地にならずに済んだのです。

しかしながら、南北戦争、クリミア戦争の終結と共に、ヨーロッパの兵器会社(ロスチャイルド系)の武器・弾薬は、上海市場に流れ込み、ロスチャイルドと縁戚関係を持つジャーディン・マセソン商会が、日本に内乱を画策し、長崎のグラバー商会を通して、また坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)をダミー会社として使い、イギリスは維新軍に武器を売りつけ、またフランスは幕府軍に武器を売りつけました。

これが、明治維新の本当の姿であります。

そして、彼らの画策に気づいた坂本龍馬は公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還をうながし、内乱を避けようとした矢先に、坂本龍馬は暗殺されます。  

この時、内乱は必至とみたグラバーはジャーディンマセソン商会に大量の武器を発注してしまっており、日本が内乱に突入しないと、グラバー商会、ジャーディン・マセソン商会共に、大きな負債を抱かえてしまう問題がありました。』
(「クリミア戦争  ロスチャイルド」より)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1114.html

これによれば、日本国内内乱を回避しようとした坂本龍馬を暗殺したのはユダヤ資本を元にした兵器商人であるという推理が成り立ってくる。

日本で戦争を始める必要があったために、奥羽鎮撫総督下参謀に月性が育てた世良修蔵を任命したのである。

すると、戦乱の素となる世良を推奨した木戸孝允、あるいはその主人は、ユダヤ兵器商会と深い関係があったということになろう。

米国の世界警察としての力が弱まってきた今こそ、本当の歴史を正しく学ぶ必要を感じている。

そこで前の記事で約束した「禅宗僧侶とザビエルの宗教討論」のことを調べてみた。

鹿児島で布教をするためにザビエルは鹿児島へ上陸したはずだ。
しかし、宗教討論のおかげで、ザビエルは島津氏の保護下から離れ、平戸松浦氏のもとへ去った。

平戸は幕末にいたって、倒幕思想を育てる場所と成長していく。

鹿児島でザビエルは何を体験したのだろうか。

布教するためにザビエルはインドネシアの人食い人種の島へ単身乗り込んでいった。

それほどの勇気ある人が、何を嫌って、あるいは何を避けて、鹿児島を去ったのだろうか。

人食い人種よりも恐ろしいものを鹿児島で見たに違いない。

その問題に対する対策は、自分が中国大陸に渡ることだとザビエルは達観した。
来日2年を待たずに、ザビエルは中国へ渡ろうとし、途上で病死する。

その後の中国をマクロで観測すると、アヘンを注入され、それでも破壊されないとわかるとマルクス主義(毛沢東思想)を注入され、唐時代に完成されていた中国文化は、ほぼ破壊されてしまった。

日本は原爆投下2発によって主体性ある国家としての姿を棄却し、「米国に従属する国家としての平安」を求めてきた。

ザビエルを鹿児島から追い出し、中国へと追いやったという宗論を見てみよう。

ザビエルをインド・ゴアから日本の鹿児島へ連れてきた薩摩藩士「ヤジロウの日記」(小説、結城康三著)からその下りを抜粋する。

聖書の和訳もヤジロウの仕事であったから、ヤジロウは宗教哲学にも明るいはずだ。

仏教の成立は約2500年前、キリスト教の成立は2011年前である。

『十月八日

ザビエル様は今日、福昌寺の忍室(にんじつ)様を訪ねました。
あれから幾度か福昌寺を訪ねているのですが、その度に忍室様の書院で親しく話をしてきます。

今日はザビエル様が僧侶の修業を見たいと言いました。
忍室様はうなずいて寺の道場に案内してくれました。

道場の入口を入り内側の扉を開いて中を覗くと、そこは静寂そのものの別世界でした。
両側に二〇人位ずつ僧侶が黙って足を組んで座っていました。

僧侶の修業である座禅というものを聞いたことはあったのですが、こうして見るのは初めてでした。
僧侶は座ったままぴくりともせずに、あたかも石像のようでした。

手に笏を持った僧侶が一人、真中の通路をゆっくりと往復して歩いていました。
その僧侶は忍室様に気がつくと、立ち止まり軽く頭を下げて又黙々と歩き始めました。

そこは外の世界とは全く違った空間のように思えました。
空気さえも動きません。

ザビエル様もさすがにこの雰囲気には驚いたようです。

しかし、ザビエル様を驚かせたのは、その雰囲気も去ることながら、僧侶の修行が、霊操というイエズス会総会長イグナティウス様が考えた修業に酷似していたことでした。
私もゴアで霊操を行っていた時のことを思い出していました。

霊操では、イエズス・キリストの生涯を観想し、それを自分の物とするのです。
今、目の前で修行をしている僧侶達が霊操を行っていると言われたら私は疑わないかもしれません。

彼らの衣装や堂内の調度品がわずかにそれを否定するものでした。
私やザビエル様がボウズの衣装で、この堂内で霊操を行えば、人は私達が座禅をしていると思うかもしれません。

しばらくして忍室様は静かに扉を閉じて外に出ました。

書院に戻る途中、ザビエル様は忍室様に尋ねました。
「あの僧侶達はいったい何を考えて座っているのですか。」

忍室様はザビエル様よりそのような問いが出るのをすでに承知していたようでしたが、わざと首をかしげて言いました。

「さて、それはまた難解な御質問じゃ。あの者達がのう・・・一体何を考えておるのか。」

忍室様は手に持った扇子をもう一方の手に打ち付けながら、さも難問を課せられたような顔で言いました。

「拙僧も修業が足りぬ故・・・。あの者達は拙僧の弟子でな。ろくな事を考えてはおらんじゃろう。」

私はザビエル様に忍室様の言葉をどのように通訳して良いのか分かりませんでした。
ザビエル様は忍室様の気持ちを十分に汲み取っていると信じて、忍室様が話された通りに通訳するしかありませんでした。

「右側の一番前に座っていた若い僧侶がおったじゃろう。あれは空念と申して修業を始めたばかりじゃ。毎日、皆の食事の世話をしておるよって夕食の事でも考えておるのじゃろう。あいつはいつも飯がまずいと他の僧侶に怒られてばかりおるからのう。」

忍室様の言葉は高僧の言葉とも思えませんでした。
「それから左側の中ほどに座っておった元開という僧は寺の勘定方じゃ。
真面目な奴じゃから過去数カ月間に信徒達からどれだけの収入が有ったかを勘定しておるかもしれぬ。」

ザビエル様が忍室様の答えに不思議そうな顔をしたのを見て忍室様は言いました。
「上に座っている者達はもう長く修業をしておる。早くこの寺を出て、いづれかの寺の住職になりたいと思っておるのじゃろう。どの寺に行けば一番待遇が良いのかをな、ハッハッハ。」

忍室様は自分の話を一笑するかのように声高に笑い、そして言われました。

「要するに何か価値の有る事を考えている者は一人もおらぬかも知れん。しかし、彼らが何を考えているのか、どんな境地にいるのか、推し量ることさえもおこがましい。彼らの考えている事が価値があるとかないとか、慮る事こそ価値がないのではないのかな。」

私は忍室様の言葉を必死になって通訳しました。
まだ日本語を片言しか話せないザビエル様が忍室様の言葉をどのように受けとめているのかが心配でした。

しかし、私とて仏教の知識はありませんし、忍室様の真意を図ることはできませんでしたので、言葉通りにしか伝えることができませんでした。

 
十月十二日

入信した弘道は、毎日ザビエル様より教義を教えられていました。
まじめで頭の良い弘道です。
海綿が水を吸うように教義を良く理解して行きました。

入信して二十日も経たないと言うのに、未だ私の知らないことまでザビエル様は弘道に教えています。
所詮、私とは頭の出来が違うのでしょう。
ザビエル様も面白いように知識を吸収する弘道をかわいがっていました。

しかし、どうも私には妙に感じてなりません。
弘道は入信して後も袈裟を脱ごうとはしませんでした。

本人は他に着る物がないと言っておりますし、ザビエル様も、信仰は着るもので決まるものではないと言うのですが、私にはどうも妙でならないのです。

弘道が祭壇で祈る姿は仏教の僧侶そのものでした。
その姿を見ていると、彼が信じるものと私達が信じているものが果たして同じものなのか分からなくなってしまいます。

弘道は、
「私は真理を極めたい。」
と繰り返し言うのですが、果たして信仰の証とは何なのでしょうか。

ザビエル様の言うとおり、信仰心は服装や持ち物で決まるものではありません。

全てはその人の心の内にあり。
それは分かっているのです。

私が弘道の袈裟姿を見て彼の信仰心に疑いをはさんでいるのは私の心にこそ病巣があるのでしょうか。

今日も弘道は祭壇の前で祈っておりました。
私は袈裟を着て手を合わせる弘道をじっと見ていました。

「Padre nosso Que estas em os Santificado Seja o teu nome ・・・・」

弘道の流暢なポルトガル語は、彼の聡明さを感じさせて余りあるものでした。しかし、その次に彼の口から出た言葉は信じられないものでした。

「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・・・・」

それがポルトガル語でもラティムでもないことはすぐに分かりました。

私には聞きなれた言葉でした。
その言葉はすぐに顕忍さまを連想させました。

根占の寺で顕忍さまが本堂の本尊を前に口にしていた言葉でした。
「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・」

私は心の内にその言葉を暗誦していました。
根占の寺で何度となく聞かされたその言葉は、私の心の中に染み付いていました。そして、
「大日如来、・・・」
言葉が言葉を連想させていました。

私は背筋に冷たいものが走ったような気がしました。
「大日如来・・・」

私はデウスを「大日」と訳し、日本の人達に伝え、弘道もデウスを大日と呼び、信奉していました。

「ひょっとして弘道は、大日如来を・・・・。」
私は弘道の誤った信仰心を責めようとする前に、自分が取り返しのつかない大きな罪を犯したように思えました。

十月二十日

ザビエル様は今日も福昌寺の忍室様を訪ねました。
ザビエル様は寺の門を入ると、まっすぐに忍室様の書院に向かいました。
いつもの事なので、門番の寺男もザビエル様を止めようとはしません。

中庭から書院の方へと入りました。忍室様は書物に目を通しているところでした。
庭先からザビエル様は忍室様に声をかけました。
忍室様はいやな顔一つせずにザビエル様を迎えてくれます。

ザビエル様は縁側に座り、忍室様に話しかけました。
「東堂様、相変わらずお元気ですね。」

忍室様は書物を閉じてザビエル様の方ににじり寄って応えました。
「いやいや、拙僧ももう年老いてしまって、あなた方若い者がうらやましい。」

ザビエル様はその言葉を聞いて、忍室様の方に向き直って言いました。

「忍室様、あなたは今この寺の東堂という地位にありますが、青年時代のあなたと今の高齢のあなたとどちらが良いと思われますか。」

不意の質問に忍室様はしばらく考えていましたが、
「それは、やはり青年時代でしょう。」
と、答えました。

「何故に青年時代の方が良いと申されるのですか。」
「それは無論、青年時代には身体も丈夫で病気の禍もない。それに自分がしようと思う事は何でもできますからな。」

忍室様の応えは誰でもうなずけるものでした。
いかに福昌寺の東堂という高い地位についても、やはり人間は肉体的な若さと寿命に執着するものです。

「しからば、今ここに一つの港から出帆して、他の港へ行かねばならない船があるとしましょう。その船が大海に乗り出し波風や嵐にさらされている時と、無事に目的の港に入ろうとしている時とでは乗客はどちらが嬉しいでしょうか。」

忍室様はザビエル様の言葉に相槌を打ちながら言いました。
「ザビエル殿、あなたが言わんとしている事は良く分かります。荒波を乗り越えてきた乗客達にとって、早く港に入り安堵感に満たされる事が喜ばしいのは私も良く承知しております。」

「では何故、青年時代の方が良いとおっしゃられるのでしょうか。」
「人の人生を船の航海に例えることが当を得ているのかどうかは分かりません。今、老いた私がこうして人生を振り返れば、青年時代の私は、今の私に比べてはるかに無知で軽薄でした。

人生の最後の時が近づいた私が果たして極楽へ行くのか、それとも畜生道に落ちるのか、それは私には分かりません。あなたの喩えを借りれば、私は果たしてどの港に入れるものやら分からないのです。

人は皆、青年時代には必死で生きています。
後から考えればたわいのない事に悩み、若さ故の苦悩と戦わなくてはなりません。

言わば、今の私は崖を登りきった者が、後から崖を登ってくる人々を見ているようなものです。
もっと楽な道があるのに何故急な崖を登ろうとするのか、と思うこともありましょう。
一生懸命崖を登ろうとする者にとって、他に楽な道があると思ってはいないでしょう。

目の前にある崖が自分に与えられた道と信じて皆必死に登ろうとしています。
ある者は崖を途中まで登りつめ、はたと他を振り向き、もっと楽な道があることに気が付き楽な道に移ろうとして崖から落ちてしまう者もいるかもしれません。

楽な道を登り始め、途中急に崖が険しくなり途方に暮れる者もいるでしょう。
崖を登りつめた私にとっては果たして青年時代の私は自分に与えられた道を正直に登ってきたのかどうか疑問に思っています。

一度崖を登りつめた私でも、できることならもう一度崖を登ってみたい。
正直に脇目も振らずにな。それがどこへ続く道であろうとも。」

「東堂様は人生と言う道が、どこへ続くのか、漕ぎ出した船がどの港へ着くのか分からぬと申されるのか。」
「さよう。私が死後どこへ辿り着くのか、どちらの港に着くのかは、私の知る所ではありません。」

私は忍室様の言葉を事細かにザビエル様に通訳しましたが、忍室様の言葉は禅問答とでも申すのでしょうか。私には上手く通訳できないことが多いのです。

先日、忍室様は霊魂は不滅であると申していたのですが、それ以前には霊魂は滅するとも言っておりました。

私にはどちらの言葉も容易に嚥下することができるのですが、論理的に理解しようとするザビエル様には不可解に思えたようです。
やはり私は日本人なのでしょうか。

今日の忍室様との話でザビエル様は、忍室様が人生の目的を見失っているかのような印象を受けたかもしれません。

しかし、忍室様の心の内は、それ程単純ではないことは私には良く分かりました。

私は、神の教えを日本に広めようとするザビエル様と日本との橋渡しになろうと決心して日本に戻ってきました。

せめてザビエル様やフェルナンデス様が日本の言葉を理解できるようになるまで、私は身を捧げようと思っていました。

しかし、私は神の声やザビエル様の言葉を正確に日本の人達に伝えているのだろうか。

そして、忍室様や島津様、そして日本の人達の気持がザビエル様に正確に伝わっているのだろうか。

急にそんな不安な気持が私の心に広がって行きました。』

このあとで、ザビエルは和訳聖書の「神」を「大日如来」から原語の「デウス」に変えさせている。

神の定義において、ザビエルは禅宗の神とキリスト教の神が同一神となることを恐れたのである。

ヤジロウの書いていた「根占の寺で顕忍さまが本堂の本尊を前に口にしていた言葉」「ナウマク、サマンダボダナン、アビラウンケン・・・」とは、真言である。

オン バザラダト バン(金剛界)
ナウマク サマンダボダナン アビラウンケン(胎蔵界)

この真言を唱えれば、あらゆる霊徳が得られるとされるもので、胎蔵界とは「万物の創造」を意味する。

驚くほど聖書の記述に似てくるのは不思議なことではない。

空海が唐から持ち帰った経典の中には、漢字で書かれた旧約聖書もあり、今でも高野山に保管されている。

真言密教とは秘密にすべき宗教であって、実は旧約&新約聖書をも含むのである。
高野山の僧侶は朝の念仏修行の際に袈裟の前で十字を切る。

そこまで詳しくヤジロウは記述することをためらっているが、イエズス会信者となった元禅宗僧侶の弘道がイエス・キリスト像の前で袈裟を着て十字を切る姿を見たはずだ。

その光景にヤジロウが恐れおののいたのもよくわかる。

日本の国ではキリスト教さえも密教化して多くの神々の中に吸収されていたのだった。

ザビエルはそれを知って、あえて袈裟を着たまま弘道に祈りを続けさせている。
西洋の論理は是非、善悪の二者択一である。

同じバスク人であるイグナチオ・ロヨラに心酔してイエズス会創設に参加したザビエルが、ロヨラの哲学を非とするわけがない。

真言密教の流れを汲む禅宗を「悪」、「邪教」とザビエルは見たはずだ。
あえて袈裟を着たまま、どこまで弘道がキリスト教の真似毎を日常修行の中に取り入れていたかを観察していたのだろう。

禅宗はインドで発生した仏教が、中国を経て日本へわたってきたものである。
キリスト教もインドから伝わったものが含まれていても決しておかしくはないが、善悪の二者択一論に汚染されると冷静な判断はできなくなる。

ひょっとしてザビエルは、中国へ渡り禅宗を破壊しようとしたのではないだろうか。

この宗論が戦わされた鹿児島の福昌寺(ふくしょうじ)とは、曹洞宗大本山總持寺の御直末であり、そしてそれは明治維新革命によって破壊されている。

薩摩藩主島津氏の菩提寺であったものが、なんと明治初年の廃仏毀釈により破壊されたのだ。

仏教徒から見れば明治維新とは一体なんだったのか明らかなのではないか。

明治維新はザビエルの抱いた「見果てぬ夢」の実現でもあった。

しかし、それは兵学者松陰の目から見れば、「日本の敗北」となろう。
敗北を恥ずべきではない、
問題は負因を分析し、同じ負けを2度とせぬことだと松陰は言っている。

歴史を正しく学ばない人は、同じ負けを再び受けるはずだ。

国民を馬鹿な状態のまま温存するには、歴史を正しく学ばせないことである。



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