稔丸と出会った幽囚室~長州(116) [萩の吉田松陰]

SH3B0472.jpgSH3B0472元は4畳半だった幽囚室

『幽囚室
幽囚室は現在三畳半であるが、もともと四畳半あったものに神棚が作られてこのようになった。
但し、仏壇は後世のものである。
松陰は伊豆(静岡県)下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸の牢に入れられ、ついで萩に送られて一年余の間藩牢野山獄に投じられた。

安政二年(一八五五)十二月十五日に釈放されて父杉百合之助預けとなり、この一室に謹慎して読書と著述に専念した。
その間一年半ばかり講義も行った。

出獄の翌々日から父兄と伯父久保五郎左衛門の申出により「孟子」の講義を始めた。
「孟子」は松陰がすでに獄中で講じていたもので、これを続けることにより講義を完成せしめるためもあって、のちに、講義録「講孟余話」は松陰の主著の一つとなった。

五郎左衛門に請われてその主宰する松下村塾(久保塾)のために「松下村塾記」を作り、自分の教育理想をその中に盛り込んだが、まもなく久保塾の年長者や近所の者もしだいに松陰の許に来て学ぶようになり、やがて松陰は事実上松下村塾を主宰するに至るのである。

安政四年十一月五日松下村塾の建物に移るが、翌年十一月二十九日再びここに「厳囚」された。

幕府の老中間部詮勝の要撃を企てたため「学術不純にして人心を動揺せしむ」という理由であって、のち野山獄に再投獄、ついで江戸に移送されて、刑死したのは数え年三十歳であった。』
(「吉田松陰幽囚の旧宅(杉家旧宅)」より)
http://blog.goo.ne.jp/hayate0723/e/6c8b0347baf3fa17ca989e7d8134a430

松陰が幽囚されていた頃は、おそらく四畳半だったようだ。
神棚と仏壇に1畳取られてしまい、今は3畳半として衆目に晒されている。

実家預かりの身となった翌々日、父、兄、叔父の「申出」に応えて「孟子」の講義をこの部屋で行ったのが、松下村塾の始まりとなる。

やがて、近所の身分の低い子等が学びにやってきた。
吉田稔麿こと「稔丸」も、ここにやってきた苗字を持たない足軽の子だった。

稔丸は久保五郎左衛門の主催する松下村塾に通っていた16歳の少年だった。
松陰が野山獄から出て実家預かりとなったことが、少年稔丸の人生を大きく変えることになる。

久坂玄瑞といい、ともかく松陰という青年と出会ったまじめな人間たちは、ほとんどが命を捨てる羽目に陥っている。

安政元年の野山獄投獄によって、松下村塾から人知れず遠ざかった少年もいたようだ。
おそらく世間体を重んじる親がその子を塾にいかせなくしたのであろう。

学生運動は全部が赤軍になると恐れ、わが子に学生運動だけはしないように懇願していた1970年代の日本の親たちに似た親が幕末にもいたのだ。

その親の判断はある意味では間違っていなかった。

そのまま子が松下村塾に通っていたら、どん大罪人に仕立てあげられたかわからない。
そしておそらくは悲惨な死に目にあうだろう。

しかし、伊藤博文のように足軽の子が総理大臣になってしまうことも起きたのだから、塾から逃げたのが本当によかったかどうかはわからない。

稔丸は池田屋事件で殺害され、もしくは負傷し自刃したが、その名は後世に語り継がれることになった。

吉田稔麿の最後については諸説ある。
なぜ諸説残ったのだろうか。

大方の志士の最後は記録されているが、不思議にこの子の最後はあいまいである。

明治以降の人々が、はっきりと言いたくないような最後だったのだろうか。

松陰は門弟の稔丸を「高等の人物」と評している。

『1841年(天保12年)閏1月24日、長州藩下級武士(足軽)の吉田清内の嫡子として萩松本新道に生まれる。
吉田姓は自称(正式な姓となったのは文久年間)。幼名は栄太郎。

久保五郎左衛門の松下村塾に学んだ後、江戸藩邸に小者として仕え、安政3年2月に帰郷。同年11月、16歳で幽室にあった吉田松陰に師事する。
真摯な態度で学問を求める姿勢は松陰を喜ばせ、深く愛されたという。

『実甫の才は縦横無尽なり。暢夫は陽頑、無逸は陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり (途中略) 常にこの三人を推すべし』

上記は、師である吉田松陰による久坂玄瑞(実甫)、高杉晋作(暢夫)、吉田稔麿(無逸)の三人を比較しながらの人物評。

この三人を『松陰門下の三秀』、入江九一を加えて『松門四天王』と呼ぶ。

また、松浦松洞(無窮)、増野徳民(無咎)と共に『松門三無生』とも言われる。

安政4年9月末には藩命で江戸に出て、久坂玄瑞・松浦松洞らと共に江戸における最新の情報を萩に送る傍ら、桂小五郎とも親交を結び、斎藤弥九郎の道場・練兵館で剣を学んだ(神道無念流)。

安政の大獄に連座して松陰が江戸で刑死した後、万延元年10月に突如脱藩して江戸へ。旗本・妻木田宮の用人となり、幕閣の情報収集に携わる。

この半ば公然たる脱藩は、幕府の内情を探れとの藩命があったといわれる。
文久2年夏、長州藩に禁闕守護の役が下ると同時に帰藩。
その後の志士としての活動はめざましく、本格的に尊皇攘夷運動の渦中に身を投じる。

文久3年6月6日、奇兵隊に参加。
翌月には士籍に加えられ、藩から屠勇取建方引受に任ぜられる。

8月18日に京都朝廷内で起こった政変で失脚した長州藩と幕府との調停工作の為、江戸・京都を奔走するが、元治元年6月5日、京都三条小橋の池田屋にて他の志士たちと談合中、新選組の襲撃を受けてしまう。

包囲網を突破、池田屋から逃れることに成功するが、河原町の長州藩邸の門が閉ざされていた為、その場で自刃したという。

または、包囲網を切り抜けて長州藩邸に注進に走り、手槍を持って再び池田屋に向かう途中、加賀藩邸前で多数の敵に出くわして闘死したとする説もある。

また、最近では、これまで殆ど取り上げられる事のなかった池田屋事件直後に認められた稔麿の周辺人物の書簡史料等より導き出された新説として、新選組襲撃時には稔麿は池田屋にはおらず一旦藩邸に戻っており、事件の報せを受けて長州藩邸を飛び出し、池田屋に向かう途中で会津藩兵等に遭遇して討死したとする説もある。

享年24歳。明治24年、贈従四位。

松下村塾から徒歩3分。
現在は石碑しか残されておらず、幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていたことから「大臣松」と呼ばれた有名な松の木(当時は吉田家の庭にあった)もなくなっているが、来栖守衛著『松陰先生と吉田稔麿』にて昭和初期に存在した旧家の写真を見ることが出来る。

石碑は「吉田稔丸誕生地」となっているが、麿と丸は当時よく混同された為、間違いという訳ではない。』
(「吉田稔麿誕生地」より)
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/toshimaro_s.htm

苗字を持たなかった足軽の子稔丸は、松陰の通知表によれば久坂玄瑞、高杉晋作と並んで松門三秀人の中に入っている。

久坂玄瑞や高杉晋作は生まれから士分である。
稔丸は生まれながらの足軽の子で苗字を持たない。

苗字を持つことを藩から許されたのは松陰の死後、文久3年のことである。
つまり、松陰が稔丸と士分の二人と並べて誉めていた時分の稔丸は苗字を持たない足軽の子のままであった。

それだけ頭脳がずば抜けて優秀だった少年だと言えよう。

松陰の刑死後、稔丸は「公然たる脱藩により、幕府の内情を探れとの藩命があった」ようで、毛利のスパイとして江戸で幕府要人調査に当たっている。

師の仇を討とうと稔丸の血が踊る様子や旅立ちの日の彼の胸の動悸まで聞こえてくるようである。

幼馴染みの伊藤博文が遊びに来て登っていた松が稔丸の家にあったそうだが、もし稔丸が生存していれば間違いなく初代総理大臣になっていただろう。

伊藤は斡旋上手だったから、今でいう経済産業大臣か外務大臣が似合っていたと思われる。

それが優秀な松門人材があれよあれよと死んでいくので、伊藤の遊んだ松が「総理大臣松」になってしまうのだから、運命とは面白い。

伊藤にしてみれば、気がついたらいつのまにか自分だけしかその松に残っていなかったということだ。

稔丸にしても利助(伊藤博文)にしても足軽の子だった。

松陰は足軽を総理大臣にすることを既に決めていたのではないだろうか。
稔丸が初代総理大臣になっただろうという予想は大方当たっている。

しかし、稔丸が死んだから萩藩から利助しか総理大臣候補がいなくなったとは考えにくい。
なんらかの松陰による強引な遺言が存在していたのではないか。

松門の足軽出身者にせよと。

万民が誰でも大統領になれるアメリカの政治力学を佐久間象山や平戸藩などから見聞して松陰は知っていたはずだ。

これだけは譲れないと木戸孝允に伝えていたのであろうか。

足軽総理大臣によって、ともかく独立国日本国は誕生した。

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