厚狭船木村出身の三兄弟~長州(120) [萩の吉田松陰]

SH3B0479.jpgSH3B0479松陰神社本殿裏

萩訪問前に持っていたひとつの予想、隠れキリシタンが昔萩に住んでいたことは確かめられた。

江戸末期には既に山中の紫福村(しぶきむら)へ隠れ棲んでいたが、戦国~江戸初期は萩付近に居住していたものと思われる。

私のもうひとつの予想は裏切られた。
松陰神社境内に楓の木とシュロの木があるという予想だ。

写真は本殿裏の樹木であるが、いずれも存在していなかった。

さて、思いがけずに境内で見つけた「萩の変殉難者七人」のことである。

「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」がその七人であった。

このうち、前原一誠、奥平謙輔については概略紹介した。

「前原一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め云々」とあったから、奥平、横山ともに乱の中心人物だったのであろう。

ちなみに「乱」とは朝廷に反乱したものを指すのだから、名誉回復するならば、「萩の乱」も「萩の変」などと変えるべきであろう。

英語のアルファベットと異なり、「漢字」という文字は意味を持つ。

『(横山俊彦は、』嘉永3年生まれ。
長門萩藩士。
藩校明倫館と吉田松陰の松下村塾にまなぶ。
新政府に絶望し、前原一誠らと新政府転覆を画策し、明治9年萩の乱をおこしたが,捕らえられ12月3日斬殺された。27歳。幼名は新之允。』(「横山俊彦」より)http://kotobank.jp/

横山も松門門下生ゆえの新政府への絶望感だったのだろう。
松陰から革命後の社会の在りようを耳にしていたはずだ。

絶望はその裏返しでもある。

もし横山が松陰と邂逅していなければ、そういう人物には成長していなかったはずである。

山田頴太郎(えいたろう)と佐世一清は、いずれも前原一誠の弟である。

高祖母(こうそぼ)とは、「祖父母の祖母」のことで「ひいお祖母ちゃん」のこと。
親族の方のブログ記事のようである。

『高祖母河北伊登の弟山田頴太郎と佐世一清とは兄の前原一誠と共に萩の乱に参加。
頴太郎は、山田政輔の養子となり、妻は同じく養女の玉子。
子は克介と前原昌一。
佐世一清は、兄一誠が前原家を起したので佐世家を継いだ。

以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。

山田頴太郎
嘉永2(1849).9-明治9(1876).12.3 (27)
諱:一昌
称:次郎、一樹、頴太郎
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士 陸軍少佐

名は一昌、萩藩士佐世彦七の第2子にして前原一誠の次弟なり、幼時出でて藩士山田氏を嗣ぐ、弱冠大村益次郎に就きて兵学を修め維新後陸軍少佐となり大阪鎮台に転任す、既にして辞して萩に帰る、明治9年10月奥平謙輔横山俊彦と共に一誠を擁して兵を挙げその隊伍の編制及び進退等主として頴太郎の画策に出ず、事敗るるに及び一誠等と山陰に赴きて縛に就き12月3日萩にて斬に処せらる、年27。

佐世一清
嘉永5(1852).3-明治9(1876).12.3 (25)
諱:一清
称:三郎、一武
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士

初名三郎、萩藩士佐世彦七の第3子、前原一誠山田頴太郎の弟なり、幼にして明倫館に学びまた玉木文之進に従って経史を講ず、明治9年10月兄一誠の事を挙ぐるや褊将として奮闘衆に超ゆ偶々飛丸その右腕を貫き為に刀を揮うの自由を失うもなお督戦数刻、時に兄頴太郎弾丸雨注の間に倒れ未だ殊せず乃ち自ら之を負い後方に脱出す、事敗れ宇龍港にて縛に就き12月3日斬らる、年25。』
(山田頴太郎と佐世一清)より)」
http://www2.airnet.ne.jp/hillside/roots/032.html

兄の前原と両名ともに、厚狭郡船木村の生まれである。
年の順は前原一誠、山田頴太郎、佐世一清で、3人とも佐世家で生まれている。

萩の乱にまで三兄弟で参加するのだから、仲の良い兄弟だったのだろう。

親子や兄弟、いとこなどで仇討ちに参加するのは、赤穂浪士47士の特徴でもある。
内蔵助親子が強調されるが、意外に赤穂浪士も親類縁者で組織化して参加しているものが多い。

内蔵助は、親族参加している彼らに引きずられる形で息子の参加を決めたように思われる。

前の記事「前原一誠の紹介」の中で、佐世家は「天保十年(1839)に父の厚狭郡船木村出役に従い移居した」と書いてあったから、長兄の一誠だけは萩生まれなのだろう。

下の二兄弟は厚狭郡船木村で生まれている。

以前書いた記事の中に、「厚狭」の名で思い出す長州藩重臣(支藩藩主)がいた。

私はこういう風にその殿様を紹介していた。

『厚狭毛利家といえば、宇部市・小野田市の領域を差配していた殿様である。

今では宇部興産、小野田セメントなどをはじめ瀬戸内臨海工業地帯でさまざまな産業が発達した山口県内の主要産業都市である。

また、厚狭毛利家は本藩萩城の足元にあるキリシタン殉教碑に相当近い位置に屋敷を持つ殿様であった。

私のイメージでは厚狭毛利氏というよりも、「宇部・小野田毛利氏」という雰囲気が強い。
科学や工業を発展させるだけの西洋からの知識移入があった地域である。

山口大学工学部が宇部市にあることからしても、東京の知識に最もするどくキャッチアップしている地域でもある。

ザビエルの山口布教以降、バテレン経由でもたらされた西洋・東洋人脈も多くあったであろう。

日本の時計などの精密機械技術は、ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計に始まる。

それが壊れたことから、宮大工が見よう見真似で修理したことが技術の始まりとなる。

その好影響により、のちの江戸期になって「からくり人形」が発達し、今はそれが半導体やロボット工学にまで進化している。

東芝創設者、トヨタ織機創設者、共に「からくり人形師」と呼ばれた匠(たくみ)の技(わざ)が元手となった。

ザビエルの来日が日本の産業界に果たした役割は、意外と大きい。

厚狭毛利氏はキリシタンとなんらかの因縁を持つのではないかと、私は思っている。

なぜならば、萩城近くのキリシタン殉教地と厚狭毛利家屋敷の距離が、余りに近すぎるからだ。

拷問の叫び声が聞こえるようにと、厚狭毛利氏へのあてつけとして同屋敷の近場で拷問を行ったのではないだろうか。』(拙著ブログより一部加筆して再掲)

厚狭毛利氏が隠れキリシタンであるという根拠をこれ以外に私は知らないのだが、「隠れる」からこそ証拠を「残さない」のである。

紫福村に偶然迷い込んだある日本人のカトリック宣教師は、その日記ブログで「本当にキリスト教徒の遺跡なのか」と疑問を正直に書いている。

江戸時代のキリシタン禁令の厳しさを身を持って知らない平和な時代の宣教師だから、「そう」感じるのである。

私は紫福村のキリシタン遺跡と傍に植えてあった棕櫚の木の組み合わせから、かなり濃いキリシタン信仰であると現地で感じている。

佐世三兄弟の実家は、その厚狭毛利氏の領地、船木村である。
そこが現在の厚狭駅付近であるならば小野田市内となる。

前原一誠、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦の計5名は既に紹介した。

前原一誠、横山俊彦は「松下村塾生」であるが、山田頴太郎は大村益次郎に兵学を学び、佐世一清は「玉木文之進」に指導を仰いでいる。

奥平謙輔は、藩校明倫館の出身である。

残る有福恂允と小倉信一を見てみよう。

これで「萩の変殉難者七人」となる。

有福恂允(kotobank.jpより)のことである。
「ありふく じゅんすけ」と読む。

『1831-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保2年生まれ。長門萩藩士。

三条実美らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。

維新後は萩で家塾をひらく。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわり、同年12月3日処刑された。
46歳。通称は半右衛門。』

有福恂允(じゅんすけ)は勤皇志士としては意外と高齢である。

「三条実美らの七卿落ちのとき御用掛を勤めている」から、護衛用の武術か貴族と話が合うほどに学問や詩歌にすぐれていたのであろう。

松陰との接点はこの記事からは見当たらない。
三条実美や月性と濃い関係があった人物かも知れない。

最後に小倉信一(kotobank.jpより)を見てみよう。
「おぐら しんいち」と読む。

『1839-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保10年生まれ。長門萩藩士。

明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわる。
徳山の同志に決起をつたえてひきかえし、部隊をひきいて奮戦したが政府軍に捕らえられ、明治9年12月3日処刑された。38歳。』

小倉は瀬戸内海川に面した周防徳山の同志と連絡があった人物である。

徳山とは、あの「毛利志摩守」の徳山藩である。
その家臣である「村田右中(うちゅう)」は陪臣と呼ばれていた。

今気づいたのだが、右中は、「宇宙」と「音(おん)」が同一である。
創造の神は、「宇宙」を支配する。

右中は、萩本藩毛利家の家臣でもある徳山藩主の家臣である。
つまり「家臣の家臣」という意味で陪臣なのである。

娘のお瀧を、少禄とは言え萩藩直参の藩士杉百合之助に嫁がせるために、お瀧を萩藩家老の児玉家養女とし、しかも百合之助に屋敷まで買い与えている。

その「村田瀧」が、松陰を生んだ女だった。

右中はじめ徳山藩士たちの元へ行き、決起を促したのが小倉信一だった。

何を求めて朝廷への反抗とされる「乱」をこの7人は起こしたのか。

その動機や政府への改善要求は、おそらく握りつぶされて闇の葬られてしまっただろう。

例えば、会社社長が女性従業員に対してスカートをめくるなどのセクハラや、パワハラ、退職強要などの違法行為をしても、従業員にはそれを訴えるすべがないのに似ている。

握りつぶしているから、その理由が歴史に陽に残らないのである。

したがって、そういう組織は同じ過ちを繰り返すことになる。
是正の機会が得られないから、ますます組織は悪化の度を増す。

行き着く先は、会社なら倒産、幕府なら大政奉還である。

『萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱である。』(萩の乱(Wikipedia)より)

全国の反乱に呼応して山口県士族約200名による反乱だったという。

彼らは一体何を政府に訴えたかったのか、次にそれを調べてみよう。

玉木文之進の介錯は女~長州(119) [萩の吉田松陰]

SH3B0478明治九年萩の變七烈士殉難之地

松陰神社本殿の左側手前に目立たない石碑が隅っこにある。
注意してみていないとつい見落としてしまう。

その碑には「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。

この記事のあとの方でわかるが、実は殉難の地はここ松陰神社付近ではない。
130年経過して途中で気が変わってここへ石碑を移し変えてきたものだ。

誰の気?

「世間の気」が変わったとしかいいようがない。

『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。 

この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。

元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php

新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。

殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。

『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)

萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。

その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。

明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。

玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。

奥平謙輔(山口県萩市・大照院)

萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。

慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。

明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。

明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。

前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)

萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。

安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。

文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。

元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。

同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。

明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。

明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。

いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。

それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。

以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm


玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。

その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。

玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。

このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。

『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。

この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。

この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。

私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。

わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。

介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw

松陰の妹「お芳」にしてこの勇敢さである。・・・

杉家や玉木家の関係者は、男女を問わず幼いころからの教育が尋常ではないということだろう。
いくら武家の娘とは言え、どの家庭でも介錯をする作法をまじめに教えたりはしていないだろう。

やれといわれれば、素直にやれる。
その覚悟の心持が普通でない。

前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。

長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。

今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。

日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。

もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。

前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。


玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。

石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。

「前原一誠  佐世一清  奥平謙輔  有福恂允  山田頴太郎  横山俊彦  小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
 
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。

私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。

それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。

「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。

石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。

萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)

松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。

前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。

文之進の介錯人~長州(119) [萩の吉田松陰]

SH3B0478.jpgSH3B0478明治九年萩の變七烈士殉難之地

松陰神社本殿の左側手間の目立たない隅っこにシンプルな石碑がある。

「明治九年萩の變七烈士殉難之地」と刻まれている。
西南戦争の前の年のことである。

『松下村塾出身で、明治新政府で参議に任ぜられていた前原一誠が起こした萩の変より、130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。 

この石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した、前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。

元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、諸般の事情により、ここに再度建立されました。』
(石碑「明治九年萩の變七烈士殉難之地」より)
http://www.shoin-jinja.jp/keidai/10.php

新政府への反乱という判定をされ、犯罪人扱いされてきたのだろう。
百年を経てようやく勤皇の志士として認められたようだ。

殉難の7人の烈士とは前原一誠以下だれだろう。

『玉木文之進(山口県萩市・護国山墓地)

萩藩士。
文政三(1820)年11歳の時、玉木十右衛門正路の跡を継いだ。
天保十三(1842)年初めて松下村塾を開き人材の育成に努めた。
とくに吉田松陰・杉民治・宍戸某・久保断三らはその逸材である。

その後、藩学明倫館の都講、異船防禦掛等を勤め、また進んで諸郡(小郡・吉田・船木・上関・奥阿武・山代等)の代官を歴任して民政に力を尽くし、郡奉行をも勤めた。

明治二(1869)年に隠退して再び松下村塾を興し、教育に専念したが、明治九(1876)年萩の前原一誠の乱に師弟数人が一味したことの不徳を自責し、11月6日先塋の側で切腹した。享年67歳。

玉木さんのスパルタ教育は有名で、どんな文献を採ってもその峻烈さが描かれています。
吉田松陰さんも、そして後に日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略に当たる乃木希典大将もその薫陶を受けています。
今の日本に武士が育たない理由もわかる気がしますね。

奥平謙輔(山口県萩市・大照院)

萩藩士。
藩校明倫館に入り、安政六(1859)年その居寮生となった。
文久三(1863)年8月選鋒隊士として下関外船砲撃に参加し、元治元(1864)年7月世子上京に従ったが、禁門の変に途中から帰国、慶応元(1865)年4月に長兄数馬の養嗣子となった。

慶応二(1866)年5月干城隊に入り、慶応三(1867)年同隊引立掛として討幕軍に加わり、慶応四(1868)年越後・会津に転戦した。

明治二(1869)年4月越後府権判事として佐渡を治め、8月辞職して萩に帰った。

明治三(1870)年脱退暴動に干城隊を率いて山口藩邸を守衛したが、明治九(1876)年前原一誠と意気相投じ、10月萩の乱を起こして敗れ、11月出雲宇竜港で捕えられ、12月3日ついに萩で斬首された。享年36歳。

前原一誠(山口県萩市・弘法寺/山口県下関市・桜山神社)

萩藩士。
天保十(1839)年父の厚狭郡船木村出役に従い移居し、武術を幡生周作に、文学を国司某・岡本栖雲に学んだ。
嘉永二(1849)年福原冬嶺に従学したが、翌年帰萩のとき落馬のため長病を患い、武技を捨て再び船木に住して写本に努めた。

安政四(1857)年父に従って帰萩、吉田松陰に師事し、安政六(1859)年2月長崎に遊学して英学を修め、6月帰って博習堂に学び、万延元(1860)年病気のため博習堂を退き、文久元(1861)年練兵場舎長となり、文久二(1862)年脱藩上京して長井雅楽の暗殺を謀ったが果たさず、8月江戸に行った。

文久三(1863)年正月また上京、6月右筆役となり、7月攘夷監察使の東園基敬に従って時山直八と紀州に行き、八月十八日の政変に帰国して七卿の用掛となった。

元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った時、諸隊総会計を勤めた。

同年3月用所役右筆となり、前原姓を名乗り、干城隊頭取を兼ね、5月国政方に転じ、慶応二(1866)年2月下関越荷方となり、6月幕長戦に小倉口の参謀心得として小倉藩降伏に尽くした慶応三(1867)年12月小姓筆頭となり海軍頭取を兼ね、明治元(1868)年6月北越出兵の干城隊副督となり、蔵元役と兼ね、萩から越後柏崎に上陸、7月越後口総督の参謀となって長岡城攻略に尽くした。

明治二(1869)年2月越後府判事となり、6月戊辰戦争の功により永世禄600石を賜り、7月参議に任じ、12月兵部大輔となり、明治三(1870)年9月辞職し、10月病気静養のためと称して萩に帰った。

明治九(1876)年10月奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め、天皇に訴えて朝廷の奸臣を掃うための東上軍を起こしたが、事敗れて11月島根県宇龍港で捕らえられ、ついで萩で12月3日斬首された。享年43歳。

いわゆる萩の乱で散った悲運の将という感じを個人的には持っています。
弘法寺の奥に眠っておられますが、この弘法寺がやや見つけにくく、通り過ぎたりして難儀しました。

それでなくてもまだ回らなくてはならない場所がたくさんあるため時間がなくて焦ってましたからもうちょっとで諦めなければならないところでした。この第二次萩調査では事前準備の不足から多くの探査が未了という状況の中での数少ない成果でした。

以下略。』(「明治九年萩の変」より)
http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/1876%20HAGI.htm


玉木文之進は先塋(せんえい)の傍で割腹したとあるが、「先塋」とは先祖の墓のことだ。

その墓は玉木家の祖先、つまり環(たまき)家、大内義隆の遺児の末裔だと私は考えている。

玉木は、あの椎原の松陰生誕地傍の墓所にあった「玉木家先祖の墓」の文字を持つ五輪塔のような大きな墓のそばで腹を切った。

このときの文之進の介錯、つまり首の切断をある女がした。

『玉木正誼は萩の乱で前原一誠に従い死んでいます。玉木文之進も萩の乱後、山の上の先祖の墓の前で切腹、この時介錯をつとめたのは吉田松陰の一番上の妹お芳でした。

この時のことを以下のように追懐されています。『世に棲む日日』より引用。

この日、叔父は私をよび、自分は申しわけないから先祖の墓前で切腹する。
ついては介錯をたのむ、と申されました。

私もかねて叔父の気象を知っていますから、おとめもせず、御約束のとおり、午後の三時ごろ、山の上の先祖のお墓へ参りました。
私はちょうど四十でありました。

わらじをはき、すそをはしょって後にまわり、介錯をしました。
その時は気が張っておりましたから、涙も出ませんでした。

介錯をしたあとは、夢のようであります。』
(「幕末歴史探訪 松陰と玉木文之進」より)
http://www.google.co.jp/url?q=http://www.webkohbo.com/info3/shoin/shoin.html&sa=U&ei=qlNVTaiTC4HCcci0tJ4M&ved=0CA8QFjAB&usg=AFQjCNHzbNz9eVReUV8k4pC3GcUQud1xGw


前原は、『元治元(1864)年下関で外艦と戦い、12月高杉晋作と下関新地の会所を襲い、慶応元(1865)年正月恭順派藩庁軍と美禰郡に戦った」とあるが、この行動は晋作とほぼ一体であり、松陰と晋作の遺志を継げる立派な志士だったと思う。

長い間新政府も山口県人たちも、前原たちを犯罪者扱いしてきたが、ようやく自らの過ちに気がついたということなのかも知れない。

今はささやかではあるが、境内で顕彰されるようになっている。

日露領土交渉を本日ロシアでやったようだが、いささか日本の大臣に迫力が感じられない。

もし松陰の言うとおりに明治新政府が動いておれば、今頃はずいぶん広い領土を持っていたことだろう。

前原ら7人の決起は、後世への憂いから発したものであろう。


玉木、前原、奥平、横山の名が上の記事に出ていた。
7烈士だから、あと3名いるはずだ。

石碑の右側面に7人の名が書いてあるそうだ。

「前原一誠  佐世一清  奥平謙輔  有福恂允  山田頴太郎  横山俊彦  小倉信一」が「萩の変殉難者七人」である。
 
玉木文之進は、前原らを松下村塾で指導していたということの責任を自らとって切腹をしたということだ。

私は玉木が主導した革命行動だったのではないかと疑っている。
松陰が生きていれば、松陰は吉田稔麿を総理大臣にして、玉木の望む世の中にしたはずだ。

それができなくなったから、もう一度起死回生を図ったのであろう。

「松陰神社ホームページ」に石碑の紹介があった。

石碑の左側面に「昭和五十一年歳次丙辰十月 前原一誠萩の変百年祭顕彰会建之」と刻まれていて、この碑は七烈士が処刑された萩市恵美須町にあったという。

萩の変130年祭にあわせて松陰神社へ入ることができたのはつい最近のことだった。(平成18年)

松陰も幕府によって罪人とされ、2年半もの長い間南千住の回向院の罪人墓に埋められていた。
晋作が名誉回復して世田谷の楓の木の根元に回葬している。

前原の遺骸も師匠と同じ運命を辿ったが、130年目の回葬とはずいぶん遠回りしたことである。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。