厚狭船木村出身の三兄弟~長州(120) [萩の吉田松陰]

SH3B0479.jpgSH3B0479松陰神社本殿裏

萩訪問前に持っていたひとつの予想、隠れキリシタンが昔萩に住んでいたことは確かめられた。

江戸末期には既に山中の紫福村(しぶきむら)へ隠れ棲んでいたが、戦国~江戸初期は萩付近に居住していたものと思われる。

私のもうひとつの予想は裏切られた。
松陰神社境内に楓の木とシュロの木があるという予想だ。

写真は本殿裏の樹木であるが、いずれも存在していなかった。

さて、思いがけずに境内で見つけた「萩の変殉難者七人」のことである。

「前原一誠、佐世一清、奥平謙輔、有福恂允、山田頴太郎、横山俊彦、小倉信一」がその七人であった。

このうち、前原一誠、奥平謙輔については概略紹介した。

「前原一誠は奥平謙輔・横山俊彦らと党を集め云々」とあったから、奥平、横山ともに乱の中心人物だったのであろう。

ちなみに「乱」とは朝廷に反乱したものを指すのだから、名誉回復するならば、「萩の乱」も「萩の変」などと変えるべきであろう。

英語のアルファベットと異なり、「漢字」という文字は意味を持つ。

『(横山俊彦は、』嘉永3年生まれ。
長門萩藩士。
藩校明倫館と吉田松陰の松下村塾にまなぶ。
新政府に絶望し、前原一誠らと新政府転覆を画策し、明治9年萩の乱をおこしたが,捕らえられ12月3日斬殺された。27歳。幼名は新之允。』(「横山俊彦」より)http://kotobank.jp/

横山も松門門下生ゆえの新政府への絶望感だったのだろう。
松陰から革命後の社会の在りようを耳にしていたはずだ。

絶望はその裏返しでもある。

もし横山が松陰と邂逅していなければ、そういう人物には成長していなかったはずである。

山田頴太郎(えいたろう)と佐世一清は、いずれも前原一誠の弟である。

高祖母(こうそぼ)とは、「祖父母の祖母」のことで「ひいお祖母ちゃん」のこと。
親族の方のブログ記事のようである。

『高祖母河北伊登の弟山田頴太郎と佐世一清とは兄の前原一誠と共に萩の乱に参加。
頴太郎は、山田政輔の養子となり、妻は同じく養女の玉子。
子は克介と前原昌一。
佐世一清は、兄一誠が前原家を起したので佐世家を継いだ。

以下、『増補近世防長人名辞典』(著:吉田祥朔、発行:マツノ書店[1976])より。

山田頴太郎
嘉永2(1849).9-明治9(1876).12.3 (27)
諱:一昌
称:次郎、一樹、頴太郎
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士 陸軍少佐

名は一昌、萩藩士佐世彦七の第2子にして前原一誠の次弟なり、幼時出でて藩士山田氏を嗣ぐ、弱冠大村益次郎に就きて兵学を修め維新後陸軍少佐となり大阪鎮台に転任す、既にして辞して萩に帰る、明治9年10月奥平謙輔横山俊彦と共に一誠を擁して兵を挙げその隊伍の編制及び進退等主として頴太郎の画策に出ず、事敗るるに及び一誠等と山陰に赴きて縛に就き12月3日萩にて斬に処せらる、年27。

佐世一清
嘉永5(1852).3-明治9(1876).12.3 (25)
諱:一清
称:三郎、一武
生:長門国厚狭郡船木村
身:萩藩八組士

初名三郎、萩藩士佐世彦七の第3子、前原一誠山田頴太郎の弟なり、幼にして明倫館に学びまた玉木文之進に従って経史を講ず、明治9年10月兄一誠の事を挙ぐるや褊将として奮闘衆に超ゆ偶々飛丸その右腕を貫き為に刀を揮うの自由を失うもなお督戦数刻、時に兄頴太郎弾丸雨注の間に倒れ未だ殊せず乃ち自ら之を負い後方に脱出す、事敗れ宇龍港にて縛に就き12月3日斬らる、年25。』
(山田頴太郎と佐世一清)より)」
http://www2.airnet.ne.jp/hillside/roots/032.html

兄の前原と両名ともに、厚狭郡船木村の生まれである。
年の順は前原一誠、山田頴太郎、佐世一清で、3人とも佐世家で生まれている。

萩の乱にまで三兄弟で参加するのだから、仲の良い兄弟だったのだろう。

親子や兄弟、いとこなどで仇討ちに参加するのは、赤穂浪士47士の特徴でもある。
内蔵助親子が強調されるが、意外に赤穂浪士も親類縁者で組織化して参加しているものが多い。

内蔵助は、親族参加している彼らに引きずられる形で息子の参加を決めたように思われる。

前の記事「前原一誠の紹介」の中で、佐世家は「天保十年(1839)に父の厚狭郡船木村出役に従い移居した」と書いてあったから、長兄の一誠だけは萩生まれなのだろう。

下の二兄弟は厚狭郡船木村で生まれている。

以前書いた記事の中に、「厚狭」の名で思い出す長州藩重臣(支藩藩主)がいた。

私はこういう風にその殿様を紹介していた。

『厚狭毛利家といえば、宇部市・小野田市の領域を差配していた殿様である。

今では宇部興産、小野田セメントなどをはじめ瀬戸内臨海工業地帯でさまざまな産業が発達した山口県内の主要産業都市である。

また、厚狭毛利家は本藩萩城の足元にあるキリシタン殉教碑に相当近い位置に屋敷を持つ殿様であった。

私のイメージでは厚狭毛利氏というよりも、「宇部・小野田毛利氏」という雰囲気が強い。
科学や工業を発展させるだけの西洋からの知識移入があった地域である。

山口大学工学部が宇部市にあることからしても、東京の知識に最もするどくキャッチアップしている地域でもある。

ザビエルの山口布教以降、バテレン経由でもたらされた西洋・東洋人脈も多くあったであろう。

日本の時計などの精密機械技術は、ザビエルが大内義隆にプレゼントした機械式置時計に始まる。

それが壊れたことから、宮大工が見よう見真似で修理したことが技術の始まりとなる。

その好影響により、のちの江戸期になって「からくり人形」が発達し、今はそれが半導体やロボット工学にまで進化している。

東芝創設者、トヨタ織機創設者、共に「からくり人形師」と呼ばれた匠(たくみ)の技(わざ)が元手となった。

ザビエルの来日が日本の産業界に果たした役割は、意外と大きい。

厚狭毛利氏はキリシタンとなんらかの因縁を持つのではないかと、私は思っている。

なぜならば、萩城近くのキリシタン殉教地と厚狭毛利家屋敷の距離が、余りに近すぎるからだ。

拷問の叫び声が聞こえるようにと、厚狭毛利氏へのあてつけとして同屋敷の近場で拷問を行ったのではないだろうか。』(拙著ブログより一部加筆して再掲)

厚狭毛利氏が隠れキリシタンであるという根拠をこれ以外に私は知らないのだが、「隠れる」からこそ証拠を「残さない」のである。

紫福村に偶然迷い込んだある日本人のカトリック宣教師は、その日記ブログで「本当にキリスト教徒の遺跡なのか」と疑問を正直に書いている。

江戸時代のキリシタン禁令の厳しさを身を持って知らない平和な時代の宣教師だから、「そう」感じるのである。

私は紫福村のキリシタン遺跡と傍に植えてあった棕櫚の木の組み合わせから、かなり濃いキリシタン信仰であると現地で感じている。

佐世三兄弟の実家は、その厚狭毛利氏の領地、船木村である。
そこが現在の厚狭駅付近であるならば小野田市内となる。

前原一誠、山田頴太郎、佐世一清、奥平謙輔、横山俊彦の計5名は既に紹介した。

前原一誠、横山俊彦は「松下村塾生」であるが、山田頴太郎は大村益次郎に兵学を学び、佐世一清は「玉木文之進」に指導を仰いでいる。

奥平謙輔は、藩校明倫館の出身である。

残る有福恂允と小倉信一を見てみよう。

これで「萩の変殉難者七人」となる。

有福恂允(kotobank.jpより)のことである。
「ありふく じゅんすけ」と読む。

『1831-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保2年生まれ。長門萩藩士。

三条実美らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。

維新後は萩で家塾をひらく。
明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわり、同年12月3日処刑された。
46歳。通称は半右衛門。』

有福恂允(じゅんすけ)は勤皇志士としては意外と高齢である。

「三条実美らの七卿落ちのとき御用掛を勤めている」から、護衛用の武術か貴族と話が合うほどに学問や詩歌にすぐれていたのであろう。

松陰との接点はこの記事からは見当たらない。
三条実美や月性と濃い関係があった人物かも知れない。

最後に小倉信一(kotobank.jpより)を見てみよう。
「おぐら しんいち」と読む。

『1839-1876幕末~明治時代の武士、士族。
天保10年生まれ。長門萩藩士。

明治9年前原一誠らの萩の乱にくわわる。
徳山の同志に決起をつたえてひきかえし、部隊をひきいて奮戦したが政府軍に捕らえられ、明治9年12月3日処刑された。38歳。』

小倉は瀬戸内海川に面した周防徳山の同志と連絡があった人物である。

徳山とは、あの「毛利志摩守」の徳山藩である。
その家臣である「村田右中(うちゅう)」は陪臣と呼ばれていた。

今気づいたのだが、右中は、「宇宙」と「音(おん)」が同一である。
創造の神は、「宇宙」を支配する。

右中は、萩本藩毛利家の家臣でもある徳山藩主の家臣である。
つまり「家臣の家臣」という意味で陪臣なのである。

娘のお瀧を、少禄とは言え萩藩直参の藩士杉百合之助に嫁がせるために、お瀧を萩藩家老の児玉家養女とし、しかも百合之助に屋敷まで買い与えている。

その「村田瀧」が、松陰を生んだ女だった。

右中はじめ徳山藩士たちの元へ行き、決起を促したのが小倉信一だった。

何を求めて朝廷への反抗とされる「乱」をこの7人は起こしたのか。

その動機や政府への改善要求は、おそらく握りつぶされて闇の葬られてしまっただろう。

例えば、会社社長が女性従業員に対してスカートをめくるなどのセクハラや、パワハラ、退職強要などの違法行為をしても、従業員にはそれを訴えるすべがないのに似ている。

握りつぶしているから、その理由が歴史に陽に残らないのである。

したがって、そういう組織は同じ過ちを繰り返すことになる。
是正の機会が得られないから、ますます組織は悪化の度を増す。

行き着く先は、会社なら倒産、幕府なら大政奉還である。

『萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名によって起こされた反乱である。』(萩の乱(Wikipedia)より)

全国の反乱に呼応して山口県士族約200名による反乱だったという。

彼らは一体何を政府に訴えたかったのか、次にそれを調べてみよう。

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