ウルシの毒と会津~長州(121) [萩の吉田松陰]

SH3B0481.jpgSH3B0481「楷(かい)の木」説明板

松陰神社境内の右奥に楷(かい)の木が植えられている。

私は楓かシュロの木があるはずだと思い込んでいた。
それを隈なく探すうち木々の間にひっそりと植えられているこの説明板に遭遇した。

おそらく一般の観光客はまったくそれに気づくことなく、萩を立ち去るだろう。
それを期待して、大変目立たない場所に植えているようにも見える。

そういう植樹の位置から見ると、言いたいことではあるが、秘匿せなばならぬことなのだろうか。

『楷(かい)の木

ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない。
雌雄異株で春に黄白色の花が咲き秋になると葉が深紅色に染まり美しい。

通称黄蓮木別名を孔子菜または孔木という珍木である。

ここに植樹した楷(かい)の木は会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したものを松陰神社御祭神吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたものである。

なお現存する楷(かい)の大木は大正4年(1915)林学博士であった白沢保美(しらさわ ほみ)氏が中国曲阜から種子を持ち帰りったもので、岡山県の閑谷(しずや)学校(岡山藩が庶民の教育場として建てられた藩校、国宝)にある。』(抜粋終わり)

「会津藩校日新館が中国曲阜にある孔子廟の楷(かい)樹の種子を貰い受けて育苗したもの」とあり、「吉田松陰先生が東北遊歴の際、嘉永五年二月二十五日(1852)日新館を尋ねられし縁故により献木されたもの」とある。

松陰自身がこの木を植えることを希望し、会津もそれを歓迎したのであろう。

会津の神保修理が生きている頃であれば、会津藩もまだ勤皇の姿勢が鮮明であった。
それを家老の梶原が切腹に追い込んだと私は推理しているが、神保の死を持って会津は長州藩の敵に転じている。

岡山藩といえば、池田氏の居城だと思うが、教育熱心な県で、今でも行政も風俗取締りなどには他県よりも厳しい姿勢を維持している。

ある種の宗教戒律を重んじ、民主化傾向が強い地域のように感じている。

『岡山城を築城したのは、岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた宇喜多氏であった。

しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった宇喜多秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。
ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。

慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。

慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。
元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封した。

寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えとなった。

代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。

このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。

光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。

光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。

寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。

また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。

光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。

幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。

このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。

しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。

明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。

なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。』
(岡山藩(Wikipedia)より)

寛永9年(1632年)忠雄の嫡子・光仲が幼少のため岡山は荷が重いとして、鳥取に国替えとなり、代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなったとある。

つまり幕末動乱時は池田光政の末裔が治めていた藩である。

名前の中に「神が好む」という「光」の文字を見つけると、私は反射的にキリシタンもしくは旧約聖書を重んじる人々を想起するくせがついている。

会津もキリシタン殉教碑があった町である。

それ以前に、長州は大内義隆がザビエルに布教を許した藩であり、その影響の下で後に会津はキリシタン大名蒲生氏郷が治めた藩である。
関係が薄いはずはない。

会津から萩へ毒の樹の種子をプレゼントするとは、どういうことなのだろうか。
毒を誰かに飲ませたことを暗示するのであろうか。

会津の誰かが、長州の誰かに依頼して、その敵となる首魁に毒を飲ませたということか。

会津と長州のキリシタンに交流はあったのか。
岡山藩は仲介役だったのだろうか。


この植樹説明板に書かれた文字は風化してまもなく読めなくなることだろう。
私もやっと読み取れたものだ。(上に抜粋した。)

「毒」と「会津」と「萩」と「岡山」と、そして「孔子」がキーワードになっている。

会津も萩もキリシタン殉教地があった。
私はいずれも実際現地を見てきている。
岡山がキリシタンに関係あるかどうか、光政の「光」の文字はその可能性をかなり高めてくれる。

なぜそれが孔子になるのか、そこはなぞのままであるが、岡山藩にキリシタンがいたとすれば、キリシタンによってその3箇所が共通することになる。

そのとき、キリシタンはウルシの毒を誰に飲ませたのだろうか。

幕末の毒殺説の中で、歴史を動かした最大のものは「孝明天皇崩御」である。
長州藩は京都の政変に深く深くかかわっている。

会津の誰かがそれを感謝しているのか。

もし会津のキリシタンであったならば、会津藩主以下が悲惨な目にあっている様は仇討ちのシーンとしては最高のものだっただろう。

その場に西郷隆盛はいなかった。
薩摩藩士はいたのであるが、つまりは長州による会津狩なのである。

それを長州に感謝する会津人が少なからずいたことになろう。

岡山藩とキリシタンの関係が鍵を握る。

説明板の冒頭句にある、「ウルシ科の木ウルシの毒は無くなることはない」という1行が妙に気になっている。

日本語の書き方として違和感がある。
永遠に毒は続くといいたいのだろうか。

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武用健

閑谷学校前に衆楽館という飲食兼備前焼店を営んでいるものです。
先日、閑谷学校が日本遺産に認定され、また学問の木「櫂の木」が100歳を迎えることを記念したメニューや備前焼を作りたいと考えています。
櫂の木の歴史を調べているときに、チャレンジさんのブログに出会いました。
他の文献などにはないとても深い内容に大変感銘を受けております。
出身は岡山備前ですが、以前は会津に住んでいたり、先祖代々から熱心なクリスチャンであったりと、何故かこちらのブログ内容との共通点も感じております。
新商品開発にあたり、ぜひこちらの内容を引用させて頂けないでしょうか。
何卒よろしくお願い致します。
by 武用健 (2015-06-10 11:32) 

三毛猫

漆の木は、科挙合格祈願の為に植樹されたのでしょうが、主様の深い読みに感銘しました。岡山の閑谷学校に岡山大学の留学生を連れて行きましたが、櫂の木に気が付きませんでした。戦国大名に少なくないのでしょうが、池田光正と熊沢番山はBLですし、岡山の男性は、老いも若きも頭も腰も緩緩という印象しかないです。長閑な田園風景のわりには、風紀が悪いので、住むのには勧められません。
by 三毛猫 (2015-07-21 11:18) 

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